儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

子路

むかしの中国から学ぶ 第1講 「孔子と論語」 (その3)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)


2. 論 語 

■ 孔子とその弟子の言行録 /応神天皇 16年、王仁〔ワニ〕 によって伝えられる
10巻20篇。 / 『孝経』 とともに 大学の必修 / 
“綸語” ・ “輪語” ・ ☆ “円珠経” ・ “宇宙第一の書” / 
“論語読みの論語知らず” ・ “犬に論語” /
孔子75代嫡長孫 「孔祥楷」 氏、77代 「孔徳成」 氏


cf.世界史レベルでのベストセラーは? 【 聖書 と 論語 】、
   第2は? 【 老子 】

※ イスラーム文化圏では 『コーラン』 が多、童話では 『ピノキオ』 が多、
  最近では 『ハリー・ポッター』 (4億冊あまり) が多 ・・・



《 冒頭 ・ 「小論語」 》


○「子曰く、学びて時に之を習う、亦〔また〕説〔よろこ〕ばしからずや。
朋〔とも〕あり、遠方より来る(朋の遠方より来る有り)、亦楽しからずや。 
人知らずして?〔うら〕みず、亦君子ならずや。
」   (学而・第1)

“ The Master said, To learn and at due times 
to repeat what one has learnt, 
is that not after all a pleasure ? ・・・ ”

《 大意 》
 孔先生がおっしゃいました。
「(先人のおしえを) 学び、時機に応じて (折にふれて/機会あるごとに)
おさらいして自分のものにしていく、何と喜ばしいことだねエ。 
(道友・学友) が遠方からやって来る、何と楽しいことだねエ。 
他人〔ひと〕 が自分の学問 ・ 価値を認めてくれなくても不平不満を抱かない、
何と君子〔できた立派な人物〕 ではないか」 と。


・「子」 ・・・ 男子への敬称、先生。〜子/子〜子。 『論語』 では孔子のこと。
         『論語』 に登場する “〜子” は、曾子ほかほんの数名にすぎません。

・「 ・・・ 人間形成 ・ 人格完成の学。 徳をみがく根本の学。 聖賢の学。 
         ⇒ 今の教育は、「学」 の内容そのものに欠陥があります。

・「時習 ・・・ 『論語』 の冒頭から非常にむつかしい言葉です。
         結論的に言えば、「時に之を習う」 では訳せないので
         「時一習ス」 とそのまま読むのが善いです。

・「之」 ・・・ “学んだことがら” を指します。

・「朋」 ・・・ 同じ学問 ・ 道を志す “学友” ・ “道友” 。
         ( cf. 「どんな朋でしょうか?」 の質問に 「心やさしい友達」 と答えた生徒がいました。
          ちなみに、いまどきの造語として “タダトモ” に倣って
          “ガクトモ” ・ “ミチトモ” もアリ?!)

・「君子」 ・・・ 有徳の人、人格の完成した人。
          また、そのようにあろうと努力している立派な人。
          ⇔ 小人〔しょうじん〕  =ジェントルマン、士〔もののふ〕

・「人不知而不慍」 ・・・ 孔子の人生を踏まえて味わうと重く深いものがあります。
              孔子の生涯は不遇であり、儒家の教えは当時認められず 
              “負け組” であったのです。
              この説は次のように解釈できます。 ── 
              徳をみがき(内面の) 人格を高めた人が君子です。
              内面が確立しているので、他人の理解や評価に流されないで、
              感情を制御〔コントロール〕 できるのです。
              善く出来た人 ・ 人格者は、他人の軽薄な評価や
              いい加減な社会的評価に動かされることはないのです。

・「学而」 ・・・ 『論語』 の20の章分けは、
          便宜的に最初の 2文字をもって名称としています。

・「不亦 ── 乎 ・・・ 「なんと〜ではないか」 と詠嘆を表しlます。



※ 『論語』の文言に由来して名付けられた、日本史上の著名人 ?

(1)【 伊藤 博文 】 (2)【 山県 有朋 】 (3)【 広田 弘毅 〔こうき〕 】 (4)【       】

(1)    “博文約礼”= 「 博〔ひろ〕 く文を学び、之を約するに礼を以てすれば、
            亦以て畔〔そむ〕 かざるべきか。」 (雍也・第6)

(3) 「曾子曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。仁以て己の任となる。
    亦〔また〕 重からずや。 死して後已〔や〕 む。 亦遠からずや。」 (泰伯第8)
  ⇒ “志人仁人” / cf.広田弘毅 首相・外相 (A級戦犯として文官中ただ一人死刑となる)



3.孔子の弟子たち 

          *(配布資料 : “孔子の弟子” ダイジェストB4プリント1枚)

○ 「弟子は蓋〔けだ〕 し 三千。 身、六芸に通ずる者 七十二。」
   (司馬遷・『史記』/孔子世家)

十大弟子〔ていし〕” / 孔門の “十哲” / “四科十哲


孟子(軻) −−−  [ 亜聖 ]

曾子(参) −−−  [ 宗聖 ]

孔子〔丘〕 −−−  [ 至聖 ]

顔子〔回・淵〕−−− [ 復聖 ]

子思(子) −−−  [ 述聖 ]


★ 孔子の後継
1. 【 忠恕派 ・ 仁の重視 】 : 曾子 ── 子思 ── 孟子
2. 【 礼学派 ・ 礼の重視 】 : 子游/子夏 ── 荀子 ・・・ (法家)李斯/韓非子
        (*子游は “礼の精神” を重んじ、子夏は “礼の形式” を重んじた )




■ 孔子の弟子たち ──  1.顔回 

 顔子 ・ 顔回。 は名、 は字。 孔門随一の俊才 ・ 偉才で 徳の人です
(後、「復聖」 と尊称されます) が、惜しくも早世(32か42歳)。
20代の頃から髪がまっ白であったといわれています。 
顔回は、孔子が自ら後継ぎと託した偉大なる愛弟子〔まなでし〕だったのです。  
※ 孔子との年齢差 「30」才



1)あたかも愚物の如し ( 「如愚」 ) ・・・ 孔子の顔回への初印象。

・「子曰く、吾回と言うこと終日、違〔たが〕 わざること愚の如し。
 退いて其の私〔わたくし/し〕 を省みれば、亦以て発するに足れり。
 回や愚ならず。」  (為政・第2−9)

《大意》
  わしは、回と一日中(学問上の)話をしたが、
 (全く従順で)意見の相違も反問することもなく、
 まるで何もわからない愚か者のようであった。
 だが、回が退出した後に、くつろいだ私生活を観てみると、
 わしが話し教えた道理をしっかりと行いの上に発揮(活か)することができておる。
 〔大いに啓発するに足るものがある。〕
 回は愚かではないよ。


2)「箪食瓢飲 〔たんし ひょういん〕 」 ・・・ 孔子の顔回賛美

・「子曰く、賢なるかな回や。一箪〔いったん〕の食〔し〕
 一瓢〔いっぴょう〕 の飲〔いん〕、 陋巷〔ろうこう〕 に在り。
 人は其の憂いに堪えず。 回や其の楽しみを改めず。 賢なるかな回や。」 
  (擁也・第6−11)

《大意》
  回は、ほんとうにえらい〔賢い〕ものだね。
 食べるものといったら竹のわりご一杯のごはん、
 飲むものといったら ひさご一杯の飲み物、
 住む所といったらむさくるしい狭い路地暮らしだ。
 普通の者ならそんな貧乏の憂い〔辛さ〕にたえられないだろうに。
 回は、そんな生活の中でも、心に真の道を楽しむことを変えようとしない。
 〔この修養の高さはとうてい他人の及ぶところではないね。〕
 まったくえらい〔賢い〕ものだね、回は!

 ※ 「賢哉回也・・・ 回也賢哉 というところを語の位置を変えています (倒置)。
            孔子が大いに賛美していることがうかがえます。
 ※ 「食」 ・・・・・ 動詞の場合は「ショク」、 名詞の場合は 「シ」 と読みます

 cf.「シカゴ大学にクリールという教授がおる。 
     ・・・・・・ 然しこの人には顔回がわからない。
     『顔回はあまりにも貧乏であったために、自ずから万事控え目になり、
     引っ込み思案になったのだ』 と言い、
     最後には 『少し馬鹿だったのではなかろうか』 とまで疑うておるのでありますが、
     とんだ誤解です。一寸〔ちょっと〕 以外な浅解です。 」 (安岡正篤・『論語に学ぶ』)



■ 孔子の弟子たち ──  2.曾子 


 曾参〔そうしん〕、姓は曾、名は参。字は子輿〔しよ〕。
弟子の中で最年少で孔子より46歳若い。(孔子の没時27歳) 
70歳過ぎまで生きて、孔子学統の後継者となります。
孝経』 ・ (『曾子』 ・ 『大学』)の著者としても知られます。
「宗聖」 と尊称されます。

 私には、顔回を亡くし、長子鯉〔り〕 を亡くし、
絶望の淵にある孔子と儒学のために光明のごとく天がつかわした
(=Gift) のように思われます。

孔子の愛孫、「子思」 を薫育します。
地味な人柄ですが、文言を味わい味わうにつけても、有徳魅力ある人物です。

 『論語』 の門人で、いつも 「子」 をつけて呼ばれるのは曾子だけです。
(有子 ・ 冉子〔ぜんし〕 ・ 閔子〔びんし〕 は、字〔あざな〕 でも呼ばれています。)



1) あたかもなるが如し ── 第一印象

○「柴〔さい〕 や愚、参や魯、師や辟〔へき〕、由〔ゆう〕 やガン〔がん〕。」 
  (先進 ・ 第11−18)

《大意》
 柴(子羔 / しこう) は愚か〔馬鹿正直〕 で、参 (曾子) は血のめぐりが悪く、
 師(子張) は偏って中正を欠き、由(子路) は粗暴 ・ がさつだ。

 ※  = 遅鈍、魯鈍の語がありますが、
   血のめぐりが悪い ・ にぶい ・ “トロイ” と言った感じです。
   「愚」 も 「魯」 も、味わいのある語で日本語に訳せません。
   孔子は、4人の4短所は学業修養によって癒え正せる、
   それを期待して指摘 ・ 表現したのでしょう。


2)「吾日三省吾身」 ── 三省の深意

○「曾子曰く、吾〔われ〕 日に吾が身を三省す
 人のために謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。
 *伝えて習わざるか(習わざるを伝うるか)。」
  (学而・第1ー4)

《大意》
 曾先生がおっしゃいました。
 「私は、毎日何度もわが身について反省します。
 人のために考え計って、真心を持って出来なかったのではないだろうか。
 友達と交際して、誠実でなかったのではないだろうか。
 (先生から) 伝えられたことをよく習熟しなかったのではないだろうか。
 (あるいは、よく習熟しないことを人に教えたのではないか。) と反省してみます。」

 ※「吾日三省吾身」 :
 ・「三省
    (1)みたび吾が身を省みる
        ( 三 = たびたびの意 / 二たびではダメですか ・ 四たびではダメですか!) 
    (2)以下の三つのことについて反省するの意 〔新注〕

 ・「
    (1)かえりみる、反省する
    (2)はぶく (かえりみることによって、よくはぶける)

   cf.政治も教育も、「省く」 ことが大切です。
      が、現状は、「冗」 ・ 「擾〔じょう〕」。
       (分散、駁雑〔ばくざつ〕) ばかりで、
       (統合、収斂〔しゅうれん〕) がなく、
      偏倚駁雑 〔かたよりごたまぜ〕 です。

   ex.文部科学などの「省」、「三省堂」の由来



■ 孔子の弟子たち ──  3. 子路 

 私は、孔子(と弟子) の言行録である 『論語』 が、優れた一面として、
文学性 ・ 物語性をも持っていると考えています。
(優れた歴史書 『史記』 もまた文学性 ・ 物語性 ・ 思想性を持っています。)

 そういう意味での 『論語』 を、人間味(情味) 豊かに飾るものが、子路の存在です。
『論語』 での登場回数も子路(&由〔ゆう〕) が、一番多いのではないでしょうか。
子路の存在 ・ キャラクター、その言動によって、
『論語』 は より身近により生き生きとしたものとして楽しめるのだと感じています。
子路のファンの人も多いのではないでしょうか。


 中島 敦〔あつし〕 の短編歴史文学 『弟子』 は、子路を描いています
(次々回述べる予定です)。
その波乱の生涯の中でその最後(膾〔なます〕 のごとく切り刻まれて惨殺される) も、
ドラマチックです。 ※注)

 子路は、姓を仲、名を由〔ゆう〕、字〔あざな〕 を子路といいます。
また別の字を季路ともいいます。 孔子とは、9歳差。
四科十哲では、冉有〔ぜんゆう〕 とともに
政事(政治活動) に勝れると挙げられています。

 子路は、元武人(侠客〔きょうかく〕のようなもの : 博徒・喧嘩渡世) の経歴で、
儒家 ・ 孔子派の中での特異 ・ 異色〔ユニーク〕 な存在です。
その性状は、粗野 ・ 単純 ・ 気一本 ・ 一本気の愉快な豪傑といったところでしょう。
殺伐物騒な戦乱の時代にあって、現実政治的な役割と
孔子のボディーガード的役割を兼ねていたのではないでしょうか。
“お堅い” ムードになりがちな弟子集団の中にあって、
豪放磊落〔ごうほうらいらく〕 なムードメーカー的存在でもあったでしょう。

 私は、『論語』 の子路に、『三国志』 (『三国志演義』/吉川英治 ・ 『三国志』) の豪傑 
“張飛〔ちょうひ〕” 〔劉備玄徳(と関羽)に従う義兄弟〕 を連想しています。
虎・虎髭〔とらひげ〕 と愛すべき単純さ(そして劇的な死) のイメージが、
楽しくまた鮮烈に重なっています。


 ※注) 孔子73歳の時(孔子の死の前年)、
     子路は衛の内紛にまきこまれて惨殺されました。 享年64歳。(後述)
     「由が如きは其の死を得ざらん( ── 得ず。然り。)。」 (先進・第11−13)
     (由のような男は、まともな死に方はできまい。/畳の上で死ぬことはできないかもしれない。) 
     と日ごろから言っていた孔子の心配が、予言のように的中してしまったことになります。



■ 孔子の弟子たち ──  4.子貢 

          
 孔子門下を儒家思想 ・ 教学の本流から眺めれば、
顔回と曽子を最初に取り扱うのが良いかと思います。
が、『論語』 を偉大な 社会 ・ 人生哲学の日常座右の書としてみる時、
子路と子貢とはその双璧といって良いと思います。
個性の鮮烈さ、パワー(影響力) において、
孔門 3.000人中で東西両横綱でしょう。
実際、『論語』 に最も多く登場するのが子路と子貢です。
(後述の) 『史記』 ・ 「仲尼弟子〔ちゅうじていし〕列伝」 においても
最も字数が多いのは子貢、そして子路の順です。 

 さて、子貢(BC.520〜BC.456) は字〔あざな〕。 姓は端木、名は賜〔し〕。
衛〔えい〕 の出身で裕福な商人の出とされています。
四科(十哲) では、宰与〔さいよ〕 と共に 「言語」 に分類されています。
孔子との年齢差は、 31歳。


 孔門随一の徳人が俊英 ・ 顔回なら、孔門随一の才人 ・ 器量人が子貢でしょう。
口達者でクールな切れ者。そして特筆すべきは、商才あり利財に優れ、
社会的にも(実業家として) 発展
いたしました。
清貧の門人の多い中、リッチ ・ Rich! な存在です。
孔子とその大学校 (※史上初の私立大学校ともいえましょう) を、
強力にバックアップしたと思われます。
今でいう理事長的存在(?) であったのかも知れません。
そのような、社会的評価 ・ 認知度もあってでしょう、
“孔子以上(の人物)” と取り沙汰され、
その風評を子貢自身が打ち消す場面が幾度も 『論語』 に登場します。



○子、子貢に謂いて曰く、
 「女〔なんじ〕 と回と 孰〔いず〕 れか 愈〔まさ〕 れる。
 対〔こた〕 えて曰く、
 「賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知る」 
 子曰く、※「如〔し〕 かざるなり。 吾れと女と如かざるなり」と。
  (公治長・第5−9)

※「汝與回也孰愈」 ── 
   頭がキレ弁(口)がタツ 子貢には、
   他人〔ひと〕 を評し比べるという性癖 ・ 趣味とでも言えそうなものがあったように思います。
   「問曰」 とシンプルに書き始められていますが、
   そんな子貢の口ぐせをよくよく承知している孔子が、
   くつろいでいる時に (半ば戯れに)、
   「おまえと顔回とでは、・・・ 」 と尋ねたのではないでしょうか?
   顔回の「一を聞いて以十を知る」 ということの意味は、
   1 に対して10倍というより、1つの端緒で全体を把握するということでしょう。
   十全を知る、あるいは是非曲直の結論を知るの意です。
   また、どの学者先生も書いていないかと思いますが、
   私は、易学の真髄である “幾を知る” に近いことだと考えています



■ 孔子の弟子たち ──  5.宰我 

 宰予〔さいよ:BC.552−BC.458〕、字は子我、通称宰我。
「言語には宰我・子貢」 とあり、子貢と共に “四科十哲” の一人で、
弁舌をもって知られています。 孔子との年齢差29歳。
子貢が孔子と年齢差31歳ですから、宰予と子貢はほぼ同年齢ということです。

『論語』 の中に表われている宰予は、子貢とは対照的に
悪い面ばかりが描かれ孔子と対立して(叱責を受けて) います。
宰予は、孔門の賢く真面目な優等生的多くの弟子の中にあって、
“異端児” ・ “劣等生” ・ “不肖の弟子”… といった印象を与えています。
が、しかし、“十哲” にあげられ、孔子との対立が敢えて記されていることからも
(逆に) 端倪〔たんげい〕 すべからぬ才人 ・ 器量人であったと考えられます。
孔子も、“ソリ” ・ “ウマ” はあわなくも、一目おいていたのではないでしょうか。

○宰予 昼寝〔ひるい/ひるしん〕 ぬ。
 子曰く、「朽木は雕〔え/ほ〕るべからず、
 糞土の牆〔しょう/かき〕はヌ〔ぬ/お・す〕」るべからず。
 予に於いてか何ぞ誅〔せ〕めん。」 と。 |
 子曰く、「始め吾、人に於けるや、其の言〔げん〕を聴いて其の行い〔こう〕を信ず。
 今、吾、人に於けるや、其の言を聴いて其の行いを観る。予に於いてか是を改む。」 と。
  (公冶長・第5−10)

《大意》
 宰予が、昼寝をしていました。
孔先生が、これを叱責しておっしゃるには
「朽ちた(腐った)木には彫刻をすることは出来ないし、
土が腐ってボロボロになった(ごみ土/穢土) 土塀には
美しく(上)塗り飾ることも出来ない。
(そんな、どうしようもない奴だから)
わしは、宰与を叱りようもない(叱っても仕方ない)。」 と。 |
そして、孔先生は続けて、
「わしは、以前は、人の言葉を聞いてその行ないまで (そのとうりだと) 信頼したものだ。
が、しかし、今後は人に対して、その言葉を聞いても(鵜呑みにせず)
その行ないもよく観るてから信ずることにする。
宰予のことがあってから、人に対する方針 ・ 態度をそのように改めるに至ったのだ。」 
と、おっしゃいました。

 ・「不可」: 出来ない、不可能の意。〜する値打ちがない。



■ 孔子の弟子たち ──  6.子夏 


 “子貢〔しこう〕” と 字面〔じずら〕 が似ていて間違えそうですが ・・・ 。
子貢のように知名度が高くないので、ともすると子貢と同一視している人もいそうです。

 「文学子游子夏」 (先進第11)。
「四科(十哲)」 では、子游と共に文学に位置づけられている大学者です。
「文学」 というのは、古典 ・ 経学のことです。
姓は卜〔ぼく〕、名は商。 子夏は字〔あざな〕です。孔子より、44歳年少

 謹厳実直、まじめで学究タイプの人柄であったといいます。
文才があり、殊〔こと〕に礼学の研究では第一人者です。
大学学長 ・ 総長といった感じでしょうか。
曾子が仁を重視する立場(忠恕派) なのに対して、
子夏は礼を重視する立場(礼学派) です。

儒学の六経を後世に伝えた功績は大なるものがあります。
(漢代の経学は、子夏の影響力によるものが大きいです。) 
長寿を得て、多くの門弟を育成しました。
その子を亡くした悲しみで、盲目になったと伝えられています。

 子夏は、『論語』 でしか知られることがない、といってもよい人です。
が、私は、非常にその文言に印象深いものがあります。
というのは、“色”っぽい(?)弟子 ・ 子夏としての意なのです。
私感ながら、『論語』 は子夏の言に、
“色” にまつわる記述が多くあるように思われるのです。
私、日本最初の 1級カラーコーディネーター
(’92. 現文部科学省認定「色彩検定」) としましては、
子夏は、孔子門下で “色の弟子” としての印象なのです。




( 以 上 )



(この続き、第2講 「 易占 と 易学 」 は次のブログ記事に掲載しております。)


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第二十七回 定例講習 (2010年1月24日) 前編

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孝経  ( 事君章 第17 )

 §.事君章(君に事〔つか〕うるの章)は、これまでが専ら上に立つ者の心得が説かれているのに対して、臣下としてのあるべき心得を説いています。第1章の「夫〔そ〕れ孝は、親に事うるに始まり、
君に事うるに中し、身を立つるに終わる。」に基づいています。

“子曰く、「※君子の上〔かみ〕に事〔つか〕うるや、進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過〔あやまち〕を補わんことを思う。 |その美を将順〔しょうじゅん〕し、その悪を匡救〔きょうきゅう〕す。故に上下能く相親しむなり。 |詩に云う、『※心に愛す。 遐〔なん〕ぞ謂〔つげ/いわ〕ざらん。中心之を蔵〔ぞう/よみ〕す。何〔いず〕れの日か之を忘れん』と。”

《大意》
孔先生がおっしゃいました。「智徳兼備(あるいは高位高官)の君子が、主君にお仕えするにあたっては、(役所に)登庁してはベストにまごころを尽くして仕えることを心に思えよ。退庁して一人になってからも、如何にすれば主君の過失欠点を補うことができるかに思いを巡らせよ。(四六時中、主君よかれしの事を思い考えよ。) | 主君の長所美点が大いに発揮できるように助け、それに従うようにせよ。主君に短所欠点があれば、それを正しその過ちを補い救うようにせよ。このようにしてこそ、主君と臣下との間は相互に親しむようになるのだ。 | 『詩経』 (小雅・隰桑〔しつそう〕之篇)にもあるではないか。『ほんとうに心の底から主君(相手)を敬愛しているのなら、どうして申し上げずに(諫めないで)居られましょうか。また、心の中に主君を思うまごころがあるのだから、いついかなる場合でも忘れることはないのです』 と。」


 ※「君子」: 君子には、概ね次の3つの意味があります。
        1)智徳が立派に身に付いた人 (知徳兼備の教養人)        
        2)そのような人物になろうと(学問修養に)志して努力している人
        3)高い地位にある人           ・・・ほか 為政者の意
     ここの場合、1)の智徳兼備の教養人 か 3)高位高官をさすと思われます。

 cf.君子 ←→ 小人〔しょうじん〕(徳の無い者、地位の低い者。君子の対義語の位置付けです。
  なお、東洋思想では 聖人 ー 君子 − 大人〔たいじん〕 − 小人 − 愚人 と
  類型立てています。

 ※「心平愛矣」: 
   1)“愛を心にす”とも読めますが、 2)「心」の字義を強めるために、
   倒置法の形を取ったと考えられます。“心に愛す”。

 ※「遐不謂矣」: 
   「遐」〔なんぞ/いずくんぞ〕は、 1)「何」の字と同音で古くは相通じていました。
   この場合「謂」は「告ぐ」の意。 2)「遐」を「遠」と解釈する立場では、
   「謂」は〔い〕うで “(退官して主君と離れても)遠しと謂わず” の意。
 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 子 路 〔3〕 )

6) 孔子に愛された子路 ―― 『孔子家語』にみられる子路の別の一面

○ 子路、孔子に見〔まみ〕えて曰く、「“重きを負ひて遠きを渉〔わた〕るときは、地を択ばずして休み、家貧しくして親老ゆるときは、禄を択ばずして仕ふ”と。昔者〔むかし〕、由や二親に事〔つか〕へし時、常に藜カク〔れいかく〕の実を食らひ、親の為に米を百里の外に負へり。 
親没して後、南のかた楚に遊ぶとき、従車百乗、積粟万鐘〔せきぞくばんしょう〕、シトネ〔しとね〕を累〔かさ〕ねて坐し、鼎〔かなえ〕を列ねて食らふ。藜カクを食らひて、親の為に米を負はんことを願ひ欲すれども、復た得べからざるなり。枯魚索〔なわ〕を銜〔ふく〕むとも、幾何〔いくばく〕か蠹〔と〕せざらんや。二親の寿、忽〔こつ〕として隙〔げき〕を過ぐるが若し」 と。
孔子曰く、「由や親に事ふるに、生事には力を尽くし、死事には思ひを尽くす者と謂ふべきなり」 と。

《大意》
 子路が孔先生にお目にかかって言いました。「(ことわざにもありますように)“重い荷物を背負って遠くへ行く時には、その場所を選ばずに休憩しますし、家が貧しくて親が年老いているときには、禄高をえり好みしないで仕官するものだ”といいます。以前、私が両親に仕えていた時は、(仕官できず貧しかったので)いつも、あかざと豆の粗食で暮らしていましたが、両親のためには米を100里も離れた遠い所から背負って来たものでした。
親が亡くなった後、南方の楚に行きました。そして、車100台を従え、貯えた穀物(扶持米〔ふちまい〕)は量りきれないない程で、敷物を何枚も重ねて座り、鼎(=ナベ)を並べて食事をするという豪華な暮らしぶりでした。(その時になって)粗末な食事をして、親のために遠く米を運んでいきたいと願っても、二度とできるものではありませんでした。 (ことわざにもありますように)魚の干物は、縄でぶら下げていてもいつの間にか腐ってしまう(久しく保つことは難しい)のです。両親の寿命は、走り過ぎる馬を戸の隙間から垣間見るように、あっという間に尽きてしまいました。」 と。
そこで孔先生は、「由よ、おまえは親に仕えるにあたって、存命中には出来る限りのことをして仕え、亡くなってからも哀慕の想いを尽くして仕えた者といえるね。」とおっしゃいました。
 (『新釈漢文大系・孔子家語』・巻第2 観思第8/明治書院 参照・部分引用)  

「白駒 隙を過ぐ」 =光陰矢の如し(時間や人生がたちまちのうちに過ぎること)

※子路の情味ある一面と、その孝心の篤さをたたえる孔子の想いが表れている一節です。私も、幼少のみぎり母から、「親孝行 したいときには(したい時分に) 親はなし」(他“いつまでも あると思うな 親とカネ”) の言葉を教えられました。馬齢を重ねて今、忸怩〔じくじ〕たるものがあります。
因〔ちな〕みに、高齢社会・当世気質〔かたぎ〕でこの川柳をもじって 「親孝行 したくないのに 親がいる」 との話を語られた上人〔しょうにん〕の講演を記憶しています。

研究

 私は、子路の人間像(と孔子の人間像)を『論語』そのものより、中島 敦の文学を通じて知りました。それは、中学時代にまで遡ります。青少年期の鮮烈な印象は、長じてなお忘れず、否むしろベースとなっているように思います。最後に、『弟子』 の冒頭と終わりの部分の一部を引用して結びたいと思います。

・・・・・・・  中島 敦 『弟子』 (旺文社文庫 引用)  ・・・・・・・

 魯の卞〔べん〕の遊侠の徒、仲由、字〔あざな〕は子路という者が、近ごろ賢者の噂も高い学匠・陬人〔すうひと〕孔丘を辱めてくれようものと思い立った。似而非〔えせ〕賢者何ほどのことやあらんと、蓬頭突鬢〔ほうとうとつびん〕・垂冠・短後〔たんこう〕の衣という服装〔いでたち〕で、左手に雄ケイ〔=鶏 けい/にわとり〕右手に牡豚を引っさげ、勢い猛に、孔丘が家を指して出かける。ケイを揺すり豚を奮い、かまびすしい脣吻〔しんぷん〕の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾〔みだ〕そうというのである。          ・・・・・  中 略  ・・・・・          顔を赧〔あか〕らめ、しばらく孔子の前に突っ立ったまま何か考えている様子だったが、急にケイと豚とをほうり出し、頭をたれて、「謹んで教えを受けん」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容〔すがた〕を見、その最初の一言を聞いた時、ただちにケイ豚の場違いであることを感じ、己とあまりにも懸絶した相手の大きさに圧倒されていたのである。 ※高根 注)
 即日、子路は師弟の礼をとって孔子の門にはいった。

                 ――― 中 略 ―――

 子路は二人を相手に激しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。しだいに疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群衆は、この時ようやく旗幟〔きし〕を明らかにした。罵声が子路に向かて飛び、無数の石や棒が子路の身体に当たった。敵の戟〔ほこ〕の先端〔さき〕が頬をかすめた。纓〔えい〕(冠の紐)が断〔き〕れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとしいたとたんに、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血が迸〔ほとばし〕り、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素早く纓を結んだ。敵の刃の下で、まっ赤に血を浴びた子路が、最後の力を絞って絶叫する。
 「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」

 全身膾〔なます〕のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。

 魯にあってはるかに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴〔さい〕(子羔〔しこう〕)や、それ帰らん。由や死なん」と言った。はたしてその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立〔ちょりつ〕瞑目することしばし、やがて潸然〔さんぜん〕として涙下った。子路の屍〔しかばね〕が 醢〔ししびしお〕※注) にされたと聞くや、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後、塩はいっさい食膳に上さなかったということである。 

※原文注) 「ししびしお」は、肉などを塩づけにして製するもの。
         ここでは、人体を塩づけにする刑。

※高根・解説 注) 冒頭部:子路は会う前、孔子を「似而非〔えせ〕賢者何ほどのことやあらん」、と思っています。子路の案に相違して、孔子は青白いインテリではなく、堂々たる体格で(2m以上あったとも言われています)、腕っぷしも強く、剣の達人でもあります。
終わり部:刺客に切られた冠の紐を結び直して、“君子らしく” 死ぬシーン。これは、『春秋左氏伝』に 子路は「君子は死すとも冠を免〔ぬ〕がず」と言って死んだ、との記述が実在します。

                                         ( 子路 完 )

本学    【 干支・九性の知識 】

1) 運命学全般の諸概念を、私の長年の工夫・見解も加えて、一覧にまとめております。 諸事に、ご参照下さい。

運命学関連概念一覧

【 運命学関連概念一覧 】

● たかね易学研究所

2)今年の“干支・九性”について、【儒灯】・「謹賀庚寅年」の中に、ごあいさつも交えてまとめております。その当該部分を教材資料に用いて講義いたしました。 ――以下抜粋のとうり。


 

《 はじめに ・・・ 干支について 》

 明けて平成22年(2010)。 新年を皆様と迎えますこと、大慶でございます。

 今年の干支〔えと/かんし〕は、(トラではなく)「庚・寅〔かのえ・とら/こう・いん〕です。
干支は、十干〔じっかん〕(天干)と十二支(地支)です。
この、10 と 12 の組み合わせで、60 干支〔かんし〕の暦を作っていました。

 そして、十二支「寅」は、動物の「虎」とは専門的には直接関係ありません。
が、動物のイメージ・連想は、人口に膾炙〔かいしゃ〕しています。
干支を「今年のエトは、トラで ・・・ 」とメディアが薄々軽々と報じているところです。

また、干支は旧暦(太陰太陽暦:我国で明治維新期まで用いられました)
ですから、年始は 2月4日(立春)からで、2月3日(節分)までは、まだ「己・丑〔つちのと・うし/き(こ)・ちゅう〕です。

これらを確認した上で、今者〔いま〕の慣行に合わせて、一足先に「庚・寅」年のお話をしておきたいと思います。


《 庚・寅&八白土性の深意 》

 さて、今年の干支「庚・寅」には、どのような深意があり、どのように方向づけるとよいのでしょうか。

 「庚〔かのえ=金の兄/こう〕」には、おおよそ 1)継承・継続 2)償う 3)更新・奮起 の
3つの意味があります。
つまり、前年からのものを継続して、罪・汚れを払い清めて償うと共に、更新していくということです。

革命〔revolution〕に持ってい行かずに 進化〔evolution〕に持っていくということです。

 「寅〔とら/いん〕」。
字の真ん中は、手を合わせる・手を差し伸べる・協力することを表し、
下の“ハ”は人を象〔かたど〕っています。

つまり、志を同じくするものが手を取り合って助け合うの意です。
そこから、「同寅(=同僚)」、「寅亮(=助け合う)」、「寅清(=助け合って旧来の妨害・惰性などを排除してゆく)」といった熟語もあります。

 この2つを合してまとめると、前年のことを継承して一致協力、創造的に更新進展させる、といった意味になるかと思います。 

※(以上は、安岡正篤氏干支学によりました。
  『干支新話(安岡正篤先生講録)』・関西師友協会刊 参照)

 また、九性(星)気学で今年は、「八白〔はっぱく〕土性」にあたります。

これは、変化・改革・蓄積・相続・ストップ〔中止・停滞〕といった複雑な意味合いを持っています。

表面上安定した、遅滞・停滞した社会的ムードの中で、実直で辛抱強い対応が望まれます。
(国内外で)“政治(家)”が話題となり、経済(不況)の打開が図られる年と思われます。


《 干支・九性の易学的考察/「无妄」卦 》

 次に(やや専門的になりますが)、今年の干支・九性を易の64卦になおして(翻訳して)解釈・検討してみたいと思います。

 昨年の干支、己・丑は「坤為地〔こんいち〕」。(‘09.3月“儒灯”参照のこと) 
今年の庚・寅は、「天雷无妄〔てんらいむぼう/むもう〕」卦となります。

(以下、高根 「『易経』64卦奥義・要説版」/第15回 定例講習‘易経’No.25参照のこと)

 「无妄」卦は、精神性3卦の1つで、「无」=「無」で 妄〔みだ〕り無いの意、うそ・いつわりのないことです。

至誠、“無為自然”(老荘)の精神、“自然の運行”、神意に逆らえば天罰てきめん、“随神〔かんながら〕の道”(神道〔しんとう〕)といった意味です。

 「亨以、天之命也。(大いに亨りて以て正しきは、天の命なればなり」(彖伝) とあり、元号「大正」の出典ともなっています。

 象〔しょう/かたち〕でみてみますと、上卦 乾天の下に震雷で落雷の象。
「天地否〔てんちひ〕」(天地交流せず八方塞がり = 現代日本の閉塞〔へいそく〕感?)の初爻に外から1つの陽(剛健・明るく活動的なもの)が来て「无妄」となったと見ることが出来ます。

 一例を政界の動きに求めてみますと。昨年8月、「坤」・陰の閉塞感を破って、歴史的政権交代が実現し、民主党・鳩山内閣による政治がスタ−トしました。

高い支持率、世論の期待を担っての華々〔はなばな〕しいスタートです。
今年はその本格的展開(“正念場”?)で、政権の真価が問われる年です。
が、発足語3ヶ月余を経て、現今〔いま〕1月早々と、支持率は40%台に低下しています。

「无妄」卦の深意に学び慮〔おもんばか〕り、天意(民意?)逆らって天罰てきめんとならぬように、と、もし私がブレーンであれば説くところです。

為政者(指導者・リーダー)の立場にある皆さまのために、「无妄」卦・大象の引用解説を付け加えておきます。
   
○ 大象伝 ;
「天の下に雷行き、物与〔みな〕无妄なり(物ごとに无妄を与〔あた〕う)。先王以て茂〔さか〕んに時に対し万物を育う。」
(乾天の下に震雷が進み行く象が、无妄です。
つまり、天の健全な運行に従って、万物は生まれ生長・発展してゆくのです。
世界のあらゆるものが、この自然の法則・原理に従って運行しているのです。
古のよき王は、このことに鑑み、“天の時”に従い対応して、
しっかりと成すべきことを成し、万物万民の育成に努めたのです
。)


 そして、今年の九性・「八白土性」を易学の八卦〔はっか/はっけ〕でいうと、
「艮〔ごん〕」であり「土〔ど〕」です。
64卦(重卦)では、「艮為山〔ごんいざん〕」が相当します。

 「艮」は、山・荒野の象〔しょう/かたち〕です。 
艮は止なり」(説卦伝)とありますように、止はストップ・畜止(たくわえ動かないこと)・停止・休止の意味です。

八卦「震」の逆で退く・遅れる・滞るの意味です。
また風水方位でいう“鬼門〔きもん/=気門・生門で陰陽の気の交替のときで元気・生気すべての気が生じます〕”( =丑寅〔うしとら〕)です。

 『論語』(擁也第6)に「仁者は山を楽しむ」、『大学』(第1段・1)に「至善に止まる/止する」とあります。

泰山・富士山のように、どっしりと落ち着きたいものです。

易経  ( 立筮演習 ) & ( 年頭筮の解説 )

1) 年頭にあたり、“ことはじめ”として、全員(10名)で一斉に立筮いたしました。筮竹または8面サイによる略筮で、易的(占的)は形式的なものとして「明日の天気?」といたしました。
得卦は、2人の同卦(爻は違います)を除いて皆異なりました。が、その判断(天候の如何=雨)はほとんど同じでした。実際、(同一地域の)明日の天気が人によって異なればおかしいということになります。 これを“異卦同占”といい易筮解釈の妙の一つです。易筮解釈は、要は、その得卦をいかに自分が解釈・判断し活かしてゆくかが大切なのです

2) 昨年末宿題にしておきました、恒例の年筮(卦と解釈)の発表と検討解説をいたしました。昨年は、筮法として略筮法一辺倒でしたが、学習が進み、今年は中筮法によるものがほとんどでした。一般に、是非の判断のように“YES−NO”の明確なものには略筮法が、内容を深くいろいろな角度から検討するものには中筮法が適しているといえます。



続きは、次の記事(後編)をご覧下さい




                                         

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第二十六回 定例講習 (2009年12月27日)

孝経 ( 章 第15 )  執筆中

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論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 路 〔2〕 )

3) “知る”とは、どいうことか?

○ 「子曰く、由や、女〔なんじ/=汝〕に之を知るを誨〔おし〕えんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり。」 (為政・第2―17)

《 大 意 》
孔先生がおっしゃるには、「由よ、お前に(本当の意味での)知るということを教えようか。自分の知っていることは知っているとし、知らないことは知らないとするこれが真に知るということの意味なのだ。」

※ “知らない” と自分の心にはっきりさせ、また他人に対してもっはっきりいう。(推測するに、子路は知ったかぶりをする傾向があったのではないでしょうか)
自らの無知(知らないということ)を知ってこそ、求めようとするのです。ギリシアの哲人ソクラテスは、「無知の知」を自らの哲学・思想の出発点としました。

 

○ 「野〔や〕なるかな由や。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如〔けつじょ〕す。」 (子路・第13−3)

《 大 意 》
何というがさつ者だ、由は。君子というものは、よく知らないことについては(しばらく除いておいて)黙っているものだ。(軽率・知ったかぶりの口はきいてはいけない。)

cf.“牛のケツ” → 禅僧、モウのしり = “物知り”

知と智 → 「知」は「矢」と「口」で人を傷つける。「智」は「日(太陽)」が加わる:渋柿も日にあてると甘柿に変わる。「智」は、“しる”と“さとる”

知と痴 → 知もこうじると病となる

◆ data:データ → information:インフォメーション〔情報〕 → intelligence:インテリジェンス〔精選情報〕 → knowledge:ナレッジ  知識 / → →  見識  →  胆識  

◆ “無知の知”(ソクラテス) /“知は力なり”(F.ベーコン) /“大いなる愛は大いなる知識の娘である”(レオナルド・ダ・ビンチ)

 

4) 「無所取材」 ――― 「桴に乗って亡命でもしようか?」 と孔子

○ 「子曰く、道行われず。桴〔いかだ〕に乗りて海に浮ばん。我に従う者は、其れ由か。子路之を聞きて喜ぶ。子曰く、由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無し。」 (公治長・第5−7)

《 大 意 》
孔先生が、(嘆息して)おっしゃるには、「この国(中国)は乱れ、わしを用いる者もなく、わしのいう道が行われない。いっそ、筏〔いかだ〕に乗って海外に亡命したいものだ。その時、わしについてくるのは、まあ由(子路の名)くらいだろうね。」  子路は、(数多〔あまた〕の弟子の中で自分を挙げてくれたことに)感激し得意になりました。そこで孔先生は、「由(子路)や、お前が勇気のあることは、わし以上だが、※ (A)気が早いな、実はまだ筏を組む材料さえも、求めていないんだよ。 (B)どうもあまり素朴で、道具にならん、使い物にならんよ!」とおっしゃいました。

※ 乱世に処して、志 何ともならぬ孔子晩年の嘆息、心中のさびしさが現われている場面です。

A) は、一般的解説。「取」は用立てる。どこからも材木を調達できない、準備ができていない。

B) は、安岡正篤氏の解釈。「材」=才・人材。子路の才(勇敢さ)は役立てようがない、すぐに悲鳴をあげる(弱音を吐く)のはおまえじゃないか。(「論語読みの論語知らず」) /さて、その筏をどう仕立てるかとなると子路にはその手立てがない。 ―― 建設のない破壊はダメ、今日の日本にも小型の子路が多い。(「論語の人間像」)

C) は、私(高根)が思うに。A)とB)の意味両方をふくめたシャレかもしれないと思います。孔子の心の裡の寂しさと、気の早い(ゲンキンな)子路に対する戯れ言を含めてこの文言を捉えました。それにしても、筏の材料がないのと人材としての取りえがないをカケルとは、孔子も人がわるい。

 

5) ※“鬼神〔きしん〕”と子路   ――― 鬼神に対する孔子と子路の捉え方

※ 鬼神 = 神〔しん〕は天地の神々。神秘的なこと。特定の宗教の「神〔カミ〕」ではありません。古代中国に特定の神はありません。神の語源は『易経』だと思います。
鬼〔き〕は、人が死んで霊となったもの。死者の霊・魂〔たましい〕。ツノが生え虎の皮のパンツをはいた鬼〔オニ〕(艮=丑寅/うしとら:牛のツノと虎のパンツの発想か?)ではありません。
 cf.「鬼門〔きもん〕」、「神出鬼没〔しんしゅつきぼつ〕」

○ 「民の義を務め、鬼神を敬して、これを遠ざく、知と謂うべし。」 (擁也・第6−22)

《 大 意 》
人としてなすべきことを行い、神霊(神仏)に対しては崇敬するが、狎〔な〕れ近づいて利得を求めなければ、知ということができよう。
cf.「敬遠」、宮本武蔵(敬って頼らず)

 

○ 「季路、鬼神に事〔つか〕えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能〔あた〕わず、焉〔いずく〕んぞ能く鬼〔き〕に事えん。曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」 (先進・第11−12)

《 大 意 》
季路(子路)が、鬼神(神霊)に仕える道を尋ねました。孔先生がおっしゃるには、「まだ、生きた人間にうまく仕えられ(愛敬を尽くせないのに)、どうして鬼神に仕えられようか。(まず人に仕える道を求めなさい)」 季路は重ねて「死とはどのようなものでしょうか?」。 孔先生は、「(生は始めで死は終わりである)まだ、生きるということがよくわからないのに、どうして死がわかろうか。(まず、生きることをわかろうと務めなさい)」とおっしゃいました。

 

○ 「子の疾〔やまい〕、病〔へい〕なり。子路、祷〔いの〕らんことを請う。子曰く、諸〔こ〕れ有りや。子路対〔こた〕えて曰く、之れ有り。※ 誄〔るい〕に曰く、爾〔なんじ〕を上下〔しょうか〕の神祇〔しんぎ〕に祷る。し曰く、丘の祈ること久し。」 (述而・第7−34)

※ 誄 = 「死を哀〔あわ〕れんで、その行を述べる辞〔ことば〕」(朱注)、日本では「しのびごと」

《 大 意 》
孔子の病気が、重かった時、子路が心配して、病気の回復を祈祷〔きとう〕したいと願い出ました。 孔子は、「何かそういった先例(道理)があるのか?」と尋ねました。 子路が答えて言うには、「ございます。古〔いにしえ〕の誄〔るい/しのびごと〕に“汝のために天地の神々に祈る”とあります。」 孔先生がおっしゃるには、「そうか、そういう意味の祈りなら、わしは久しく祈っていることになるよ。今更改めて、助けを求めて祈るまでもないよ。」

※ 祈りを事としない孔子は、子路のその至情に対して、祈るには及ばないよと告げたと思われます。 古代社会において、「呪術〔じゅじゅつ〕」は一般的でした。子路は 祈祷・祈祷師に重きをおいて、「神だのみ」的傾向が強かったのかも知れません。

 

( つづく )

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本学   【司馬遷と『史記』 ― 3 】  執筆中

 

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易経   ( 「十翼」 :序卦伝 (2)  執筆中 )

 

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第二十五回 定例講習 (2009年11月22日)

孝経 ( 諫争章 第15 )  執筆中

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論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 路 〔1〕 )

§.はじめに   子 路 

私は、孔子(と弟子)の言行録である『論語』が、その優れた一面として、文学性・物語性をも持っていると考えています。(優れた歴史書『史記』もまた文学性・物語性・思想性を持っています。)

そういう意味での『論語』を、人間味(情味)豊かに飾るものが、子路の存在です。『論語』での登場回数も子路(=由〔ゆう〕)が、一番多いのではないでしょうか。子路の存在・キャラクター、その言動によって、『論語』は より身近により生き生きとしたものとして楽しめるのだと感じています。世代を超えて子路のファンの人も多いのではないでしょうか。

ところで、中島 敦〔あつし〕の短編歴史文学 『弟子』は、子路を描いています(次々回述べる予定です)。その波乱の生涯の中でその最後(膾〔なます〕のごとく切り刻まれて惨殺される)も、ドラマチックです。※注)

子路は、姓を仲、名を由〔ゆう〕、字〔あざな〕を子路といいます。また別の字を季路ともいいます。孔子とは、9歳差。“四科十哲”では、冉有〔ぜんゆう〕とともに政事(政治活動)に勝れると挙げられています

子路は、元武人(侠客〔きょうかく〕のようなもの:博徒・喧嘩渡世)の経歴で、儒家・孔子派の中での特異・異色〔ユニーク〕な存在です。その性状は、粗野・単純・気一本・一本気の愉快な豪傑といったところでしょう。殺伐物騒な戦乱の時代にあって、現実政治的な役割と孔子のボディーガード的役割を兼ねていたのではないでしょうか。“お堅い”ムードになりがちな弟子集団の中にあって、豪放磊落〔ごうほうらいらく〕なムードメーカー的存在でもあったでしょう。

私は、『論語』の子路に、『三国志』(『三国志演義』/吉川英治・『三国志』)の豪傑 “張飛〔ちょうひ〕”〔劉備玄徳(と関羽)に従う義兄弟〕を連想しています。虎・虎髭〔とらひげ〕と愛すべき単純さ(そして劇的な死)のイメージが、楽しくまた鮮烈に重なっています。

※注) 孔子73(72)歳の時(孔子の死の前年)、子路は衛の内紛にまきこまれて惨殺されました。享年64歳。(後述)
「由が如きは其の死を得ざらん( ―― 得ず。然り。)。」(先進・第11−13)
(由のような男は、まともな死に方はできまい。/畳の上で死ぬことはできないかもしれない。) と日ごろから言っていた孔子の心配が、予言のように的中してしまったことになります。

 

1) 破れた綿入れを着ていてもサマになる ――― 第一印象

○ 「子曰く、敝〔やぶ〕れたる縕ウン袍〔うん/おんぽう〕を衣〔き〕、狐貉〔こかく〕を衣たると立ちて恥じざる者は、其れ由〔ゆう〕なるか。」 (子罕・第9−27)

《 大 意 》
孔先生がおっしゃるには、「破れた綿入れの上衣を着て、立派な狐〔きつね〕や貉〔むじな〕の毛皮の衣を着た人達と並んで立っても、(毅然として一向に)恥ずかしがらないのは、まず由(=子路)だろうね。」

 

2) “暴虎馮河〔ぼうこひょうが/か〕”のルーツ! ――― 子路の性格

○ 「火烈にして剛直、性、鄙〔ひ〕にして変通に達せず。」 (『孔子家語』)

《 大 意 》
激しく剛直で、品性ヤボで野生的、物事の変化・融通・裏表がわからない。

 

○ 「柴〔さい〕や愚、参や魯、師や辟〔へき〕、由〔ゆう〕や喭〔がん〕
(先進・第11−18)

《 大 意 》
柴(子羔/しこう)は愚か〔馬鹿正直〕で、参(曾子)は血のめぐりが悪く、師(子張)は偏って中正を欠き、由(子路)は粗暴・がさつだ。

 

○ 「子、顔淵に謂いて曰く、之を用うれば則ち行い、之を舎〔す〕つれば則ち蔵〔かく〕る。唯我と爾〔なんじ〕と是れあるかな。 | 子路曰く、子三軍を行なわば(行〔や〕らば)、則ち誰と與〔とも〕にせん(する)。 子曰く、暴虎馮河し(て)、死して悔いなきものは、吾與にせざるなり。 必ずや事に臨んで懼〔おそ〕れ、謀〔ぼう/はかりごと〕を好んで成さん者なり。」
(述而・第7−10)

《 大 意 》
孔先生が顔淵におっしゃるには、「自分を認めて用いてくれる人君があれば、出て道を行い、(人君や世の中から)見捨てられたら、退いて静かに蔵〔かく〕れる。このような時宜〔じぎ〕を得た出処進退ができるのは、わしとおまえくらいだろうね。」
  (それを聞いてやきもち気味で)子路は、「先生が、大国の軍隊を率いて戦争をされるとしたら、誰と一緒になさいますか。」と尋ねました。孔先生がおっしゃるには、「虎に素手で立ち向かったり、河を徒渉〔かちわたり〕したりするような(命知らずな)ことをして死んでもかまわないというような者とは、わしは一緒にやらないよ。わしが一緒にやるとしたら、必ず事にあたって敬〔つつ〕しみ懼〔おそ〕れ、慎重に計画を練って成し遂げるような(深謀遠慮な)人物とだね。」

「用之則、舎之則」 →
用舎行蔵」(=行蔵自在)

君子の行動が、世に処するに時の宜しき得て滞ることがないこと。

cf.福沢諭吉の幕臣・勝海舟(と榎本武揚)に対する批判・詰問
(「瘠我慢之説〔やせがまんのせつ〕」と「丁丑〔ていちゅう〕公論」)

→ 勝の返事:「行蔵は我に存す、毀誉〔きよ〕は他人の主張、我に与〔あず〕からず我に関せずと存候〔ぞんじそうろう〕。」
(出処進退は自分自身が〔知っています〕決めます。その評価は、あれこれ他人が勝手にすることです。〔世間の風評など〕私の知ったことではありませんし、関わりもありはしません。)

→ 榎本の返事:公務多忙につき、今は返事が書けません

cf.高杉晋作&坂本竜馬の言葉 ・・・ 自分の成すべきことは自分が一番良く知っている

・「世の中は よしあしごとも いわばいえ 賤〔しず〕が誠は 神ぞ知るらん」

・「世の人は われをなにとも いはばいへ わがなすことは われのみぞしる」

「暴虎馮河」: 暴虎=素手で虎に向かうこと、馮河=舟なしで大河を渡ること。血気の勇にはやる命知らずのこと。
子路は、自分の勇敢さを自慢して、孔子に自分の名前を出してもらうことを期待して問いかけました。が、ピシャリと匹夫の勇を戒められ道理に適った勇気を諭されたのです。

( つづく )

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本学   【司馬遷と『史記』 ― 2 】  執筆中

 

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■ 易経   ( by 『易経』事始 Vol.2 ) & ( by 「十翼」 )

§.易の思想的基盤・背景 (東洋源流思想)  【 ―(6) 】

C. 変化の思想 (易の三義【六義】)〔 Principle(Classic) of Changes 〕

《 ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように固い背を下にして、仰向けに横たわっていた。 》    Franz Kafka Die Verwandlung,1916 (カフカ・『変身』)

“易” = 変化  Change  “蜴”(カメレオン)
“ The Book of Changes ”  (変化の書・『易経』)

※ 2008.12 世相を表す文字 「変」 (2007「偽」)
2009.1 「変革」をとなえて、オバマ新米大統領登場・就任
(注) 漢字検定協会・理事長父子 逮捕!

 

1)。  「変 易」  ・・・ か〔易〕わる 

易の名称そのものが変易の意義をもつ、生成変化の道、 天地自然は大いなる変化、変易。自然と人生は大いなる「化」

ex.―― 季節・昆虫の変態・無常/お化け(女性の化粧)/“大化の改新”(645)

○「結局最後に生き残る者は、最も強い者でも最も賢い者でもない。それは変化し続ける者である。」
(チャールズ・ダーウイン)

・ イノベーション=「革新」

・ 「日新」: 「湯の盤の銘に曰わく、苟〔まこと〕に、日に新た、日々に新たに、又日に新たならんと。」   (『大学』) cf.“日進月歩”

維新」: 「詩に曰わく、周は舊〔旧〕邦なりといへども、その命、維〔こ〕れ新たなり。」
(『大学』、詩=『詩経』・大雅文王篇)

ex.――“松下電器”、五坪の町工場から従業員一万人・売り上げ一千億に進化発展

・ 松下幸之助氏の「変易」(変革・イノベーション、テレビブラウン管技術の輸入)と「不易」なるもの

cf.“Panasonic パナソニック”: 一万五千人 人員削減(半分国内)、
ソニー:一万六千人、 NEC:二万人 (09・2/4)

革命」 (Revolution) と「進化」 (Evolution)

※  参考  ―― 古文にみる “変化”

◎ 『徒然草〔つれづれぐさ〕』・吉田兼好 ・・・・・
「変易」“へんやく” = (仏教的)無常観・ 諸行無常・漢籍の素養

○ 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理〔ことわり〕をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の世のゆめのごとし。たけき者もつひには滅びぬ。ひとへに風の前の塵〔ちり〕に同じ。」  (『平家物語』)

○ 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例〔ためし〕なし。世中にある人と栖〔すみか〕と、またかくのごとし。」   (『方丈記』、鴨長明)

○ 「また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。」  (『方丈記』、鴨長明)

※  考察  ―― “転石、苔〔こけ〕を生ぜず” 〔A rolling stone gathers no moss.〕 

英: 本来イギリスのことわざで、苔を良いものと考え(石の上にも三年で)腰を落ち着けていなければ苔も生えない、との意味。英は静止社会で、転職も軽々しくするなということ。

米: 英人が植民してつくったアメリカ合衆国では、意味が逆転します。米は、動的社会。 苔を悪いものと考え、「流れぬ水は、腐る」で、いつもリフレッシュ、転職するのは力のあるエリート(ヘッドハンティング)ということです。

 

2)。  「不 易」  ・・・ 不レ易・かわらぬもの 

変化の根柢に不変・永遠がある、不変の真理・法則の探求、 “千古不易”、“千古不変”、“真理不変”、“一〔いつ〕なるもの”、“永遠なるもの” 変わらぬ物の価値、 目立たぬが確かな存在

自然界の法則 & 人間界の徳(仁)、芸術の世界での「美」 ――本質的なもの

ex.――  不易〔フエキ〕  糊〔のり〕”: 「硼酸〔ほうさん〕またはサルチル酸のような防腐剤と香料とを入れて長く保存できるようにした糊」 (広辞苑)
“パーマ” 〔 parmanent wave 〕
“(日清)チキンラーメン”:
 1958年誕生、ロングヒット商品、カップメン、カップヌードルの発明

□「化成」: 変化してやまない中に、変化の原理・原則を探求し、それに基づいて人間が意識的・自主的・積極的に変化してゆく。 クリエーション(創造)

ex.――ー 「三菱化成」(化学合成ではない)=「化し成す」(「離」卦)

※  参考  ―― 変わらぬもの

“松に古今の色なし”

○ 「松樹千年翠〔みどり〕 不入時人意(時の人の心に入らず)」
「松柏〔しょうはく〕千年青」 (『広燈録』など)

○ 「子曰く、歳〔とし〕寒うして然る後松柏の彫〔しぼ〕むに後るるを知る。」
松柏 = まつとかや = 君子の節操  (『論語』子罕・第九)

○ 「 ―― 難いかな恒〔つね〕有ること 」 (『論語』述而・第七)

※  考察  ―― 変易と不易

・ “不易流行” (松尾芭蕉、蕉風俳諧の境地)

◇「不易 は詩的生命の基本的永続性を有する体。 流行は詩における流転の相で、その時々の新風の体。 この二体は共に風雅の誠から出るものであるから、根元においては一に帰すべきものであるという。」 (広辞苑)

・ “流行色”と “恒常的流行色”

“不易を大切にし、流行に対応する教育” ―― 「21世紀を展望した我国の教育の在り方について【第一次】・中央教育審議会答申 (平成8〔1996〕・7・19)

○ 豊かな人間性など「時代を超えて変わらない価値あるもの」(不易)を大切にしつつ、「時代の変化とともに変えていく必要があるもの」(流行) に的確かつ迅速に対応していく ・・・・ 」 

◎「積善の家には必ず余慶〔よけい〕あり。積不善の家には必ず余殃〔よおう〕あり。」
( 坤・文言伝 )
→ 「殃」は災禍

 

3)。  「簡 易」  〔かんえき・かんい〕
・・・(中国流で易簡、 Purity ピュアリティー / Simplity シンプリティー)

変化には複雑な混乱ということがない。平易簡明、無理がない

ex. ――― “簡易郵便局”、“簡易保険”、“簡易裁判所”

※  参考  ―― 茶道 “ Simple is beste ” シンプル・イズ・ベスト

○ 「自然は単純を愛す」 (コペルニクス)

○ 「自然は常に単純であり、何らの自家撞着〔じかどうちゃく〕をも持たない」
(ニュートン)

○ 「真理は単純なり」 : 道元は中国から何も持ち帰らなかった。目はヨコに鼻はタテに附いているとの認識を新たにしてきた。 (あたりまえのことを、当たり前と認識する)

 

4)。  「神 秘」  ・・・・

易は「イ」、「夷〔えびす・イ〕」に通じ、感覚を超越した神秘的なものの意。自然界の妙用「神秘」、奇異。

◎ 「希夷」の雅号 ・・・ 聞けども聞こえず見れども見えず(五官・五感をこえて)、それでいて厳然として微妙に、神秘に、存在するもの。

 

5)。  「伸びる」  ・・・・ 易〔の〕ぶ、延・信

造化、天地万物の創造、進化でどこまでも続く、伸びる、発展するの意。

○ 「悪の易〔の〕ぶるや、火の原を焼くが如く::」

 

6)。  「治める」  ・・・・ 修 ・ 整

天地の道を観て、人間の道を治めるのが易。

○ 「世を易〔か・変〕えず」 ―― 「世を易〔おさ・治〕めず」 と読むと良い。
(「乾」・文言伝 初九)

(易学の源流思想 完 )

 

( 「十翼」 :序卦伝 (1) は 執筆中 )

 

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