■ 論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子夏 〔5〕 )
盧・研究
≪「素以為絢」/「繪事後素」≫ ・・・ 続き
《 §3.「色 難」 》
○ 「子夏孝を問う。子曰く、色難〔かた〕し。事有れば、弟子〔ていし〕其の労に服し、酒食〔しゅし〕有れば、先生に饌〔せん〕す。 曾〔すなわ/かっ・て〕ち是〔これ/ここ〕を以て孝と為さんや(為すかと)。」 (為政・第2−8)
【 子夏問孝。子曰、色難。 有事、弟子服其労、有酒食、先生饌。 曾是以為孝乎。 】
《大意》
子夏が孝についておたずねしました。 孔先生がおっしゃいました。「子たる者(が親に事〔つか〕える際)の“顔色”=表情 がむつかしいのだヨ。※注) (力)仕事があれば、若い者が骨折って引き受けて、ごちそう〔おいしい飲み物・食べ物〕があれば親に勧めて召し上がっていただく。(そのこと自体は結構な事で、世間ではそれを“孝”だといっている) けれども、そんな形の上だけのことで“孝”といえるのだろうかネェ。(和らぎ、楽しそうな顔つきでやらねばダメだよ!)」 と。
※注) 「孝子の深愛ある者は、必ず和気有り。和気有る者は必ず愉〔たのし〕める色有り。愉める色有る者は必ず婉容〔えんよう〕有り」 (『礼記』・祭義)
《解説》
命学(四柱推命)に“咸池〔かんち: 色情の因縁星/cf.易卦【沢山咸】〕”という宿命星がありますが、「色難」〔いろかたし〕を“しきなん”と読んでは“色っぽい”話になってたいへんです。この“色”は東洋的な“色”の意味で“表情・顔色”の意です。東洋思想ではこれが重要です。例えば、中医学・漢方医学では、“五行思想”に基づく“色”による視診 =“五色診” (⇒ 参考資料 )が重視されていますね。
古注では、「親の表情を読み取ること」と解しています。が、これでは親の顔色を窺〔うかが〕って諂〔へつら〕っているようで、おもしろくありません。“孝”の行いは、ニコニコと優しく“和らぎ楽しむ”(『礼記』) ことが大切であり、かつこれが難しいのです。心の中にほんとうの愛情があってこそできるものなのです。そして、それはまた、親を真に和ませ喜ばせることでしょう。 ―― この孔子のことばは、人の情にしたがっていてとても自然に思われます。現代の介護やボランティア活動にも共通していえることなのではないでしょうか。
cf.易卦【兌為沢〔だいたく〕】の象〔しょう〕 → ☱☱ 「笑う少女の象」(新井白蛾)
※「酒食」: “しゅし”、酒やごはん(めし)の意。名詞では“シ”、「食べる(食らう)」の動詞では“ショク”と発音します。
※「先生」: 先に生まれた者、父(母)や兄(姉)・年長者。 対義語は「後生〔こうせい〕」、 先生←→後生 cf.(「生徒」ではありません)。 ここでは「弟子」〔ていし;年の若い者〕が対語になっています。
※「曾」: “乃”と同じ、反語〔はんご〕的に用いています。
→ 「どうしてこれが孝といわれようか、イヤいえないヨ。」
☆資料 ≪盧:吹田市立博物館・講演/第4講 「五行〔ごぎょう〕(中国医学)」引用≫
《 (中医) 五 色 診 》
◇“色に出る” → 色=顔色
・・・ 漢方・中医で重視 (『論語』にもよく登場しています)
ex.
・木性: 肝臓・胆嚢 = 青 : 良くても悪くても「あおみ」
知力・若々しく健康的な青み VS 青白い・青びょうたん(血の気がひいて顔色が悪いこと/= pale : You look pale. )
cf.【若々しい青年時代 + 季節の春 → 「青春」 】
・火性: 心臓・小腸 = 赤 : 心臓(循環器系)、血圧。「あかみ」
快い・きれいな赤み・ピンク、紅潮(顔・頬に血がのぼって赤味をおびること)、ほんのり桜色 VS 不快な赤み、赤ら顔、赤黒い
cf.(「何かこう、顴骨〔かんこつ/=頬骨〕なんかに不自然にポーッと赤みがでてくると、だいたい心臓病患者が多いね。」)
・土性: 脾臓・ 胃 = 黄 : 「きみ」・「きいろみ」
あざやかな黄色・“陽黄” VS くすんだ黄色みは “陰黄”、 黄疸〔おうだん〕
・金性: 肺臓・大腸 = 白 : 健康的な「白さ」と不健康な「白さ」 cf.「白」=「素」
「色の白いのは七難隠す」、生き生きとした白、肺病の婦人に美人が多い
VS 生気のない白・「白っちゃける」
・水性: 腎臓・膀胱 = 黒 : 健康的な「黒さ」と不健康な「黒さ」 cf.「黒」=「玄」
小麦色の肌、赤銅色〔しゃくどういろ〕の肌 VS どす黒い肌色、うっ血・汚血
● 「チャングムの誓い (大長今)」 (‘06.5.27 放送 ・ NHK )
先生 (=チャンドク) |
「顔色を病状で分けると大きく分けて、青・赤・黄・白・黒 の五つに分類される。これを、五色診というの ・・・ 」 |
先生 | 「顔色は? 意見を言ってごらん。」 |
チャングム | 「赤み がかって います。 赤みが強いので実熱でしょうか? 熱が体にこもってしまう病かと思います。」 |
先生 | 「次をみて! 」 |
チャングム | 「患者の顔と目が黄色み がかって います。これは、キョ症やシツ症・黄疸〔おうだん〕が考えられます。」 |
先生 | 「この患者は黄疸よ。 黄疸とはどういう病気? 」 |
チャングム | 「黄疸とは、肝臓と胆のうが、侵され、胆汁〔たんじゅう〕が正常に分泌されないために起こる病状で、あざやかな黄色は “陽黄” といい、それほどあざやかでないくすんだ黄色みは “陰黄” といいます。」 |
先生 | 「次。診断して! 」 |
チャングム | 「患者の顔が青いので、癇性・痛症・汚血・引きつけ が考えられます。この患者は、鼻と眉の間と唇のまわりが青く、これは気と血液の流れが正常でなく、風邪〔かぜ〕や脳卒中〔そっちゅう〕の前兆だと思います。」 |
(子夏完)
■ 老子 【10】
【 1章 】
(体道・第1章) 注1) 《 首章・冒頭 ―― 「道」とは? 》
§.「 道可道」 〔タオ・コ・タオ〕
注1) 「体道」とは、道を“身に体する/体得する”(“Embodying the Tao”)という意味でしょう。
「道」の語を用いずに、「道」が万物を生み出していく言妙な働きについて、この1章では、ある種詩的に表現しています。cf.(6章ではリビドー的〔生殖神秘的〕に表現しています)
『老子』の冒頭部分、この首章59字で他の80章全体を要したものといえます。(『易経』の最初【乾】・【坤】も同様です)
『老子』は難解といわれています。が、まずもって、この章は解釈さまざま、とりわけ難解であるといえる部分です。
『老子』は、平易から難にではなく(いきなり一喝)難物を示し、漸次平易に入っていくのです。他の全章を読めば、この章の意は容易に理解出来ます。
○「道可道、非常道。 名可名、非常名。※ |
無名、天地之始。 有名、万物之母。※ |
故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。|
此両者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、 衆妙之門。」
■ 道の道とすべきは、常(の)道に非ず。 名の名とすべきは、常(の)名にあらず。
※(道の道〔い〕うべきは常道に非ず。 名の名づくべきは常名にあらず。) |
無名〔名無き〕は、天地の始めにして、有名〔名有る〕は、万物の母。
※(“無”を天地の始めに名づけ、“有”を万物の母に名づく。) |
故に、常に欲無くして以て其の妙を観〔み〕、常に欲有りて以て其の徼〔きょう〕を観る。 |
此の両者は同じきに出でて而〔しか〕も名を異にす。同じきを之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門なり。
《 大 意 》
これこそが理想の“道”です、と言っているような“道”(=世間一般に言っている道)は、恒久不変の本来の「道」ではありません。これこそが確かな“名”だと言い表わすことのできるような“名” (=世間一般に言っている名)は、普遍的な真実の「名」ではありません。 |
※(言葉で説明〔限定〕出来るような道は〔ニセ物であって〕、(私・老子がいう)恒久不変の本来の「道」ではありません。指して名がつられるような名は、普遍的な真実の「名」ではありません。)
ex. 「道」という名そのものが名づける人・立場によって、さまざまではありませんか!ですから、正常の道は無名なのです。|
天地の元〔もと〕はじまり(=「道」)には、まだ名前がありません。(ですから、無名は天地の始源です) それが、万物の母(=「天地」)が創造されて初めて、名前が定められました。(ですから、有名は天地で)その天地の間に万物が生まれ育ちます。つまり、有名(=天地)は万物の母胎なのです。
※(〔文字に現わすためやむを得ず〕 「天地の始」めに“無”という字を振りあて、「万物の母」に“有”の字を振りあてます。〔そうして、無から有に説き進もうというのです。〕) |
まことに、恒〔つね〕に無欲であれば、(元始〔もとはじまり〕の「道」の)微妙を観る〔心で認識する〕ことができますが、恒に有欲な人(=一般世俗の人)は、結果・末端の現象(形態)が見えるだけです。 |
この「天地の始」と「万物の母」(/微妙な始源=妙 と 末端の活動している現象=徼)の両者は、根元は同じ一体のものでありながら(一方は「無名」・「道」といい、他方は「有名」・「万物」というように)それぞれ違った呼び名となります。
名は違っていても、同じく「道」という根元から出ているので、併せて「玄」( =神秘/不可思議/ほの暗く奥深いもの・深淵なもの)といいます。
その「玄」の上にも、さらに深奥の「玄」なるところ、そこに万物の生まれ出る出口があります。玄妙な働きで、衆〔おお〕くの「妙機」が発する出口(=衆妙の門)です。
( つづく )
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