儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

宰予

第34回 定例講習 (2010年10月24日) 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 宰予 〔さいよ〕 〔2〕 )

○ 宰予 昼寝〔ひるい/ひるしん〕ぬ。子曰く、「朽木は雕〔え/ほ〕るべからず、糞土の牆〔しょう/かき〕は杇・ヌ〔ぬ/お・す〕」るべからず。予に於いてか何ぞ誅〔せ〕めん。」 と。 |
子曰く、「始め吾、人に於けるや、其の言〔げん〕を聴いて其の行い〔こう〕を信ず。今、吾、人に於けるや、其の言を聴いて其の行いを観る。予に於いてか是を改む。」 と。

 (公冶長第5−10)

【 宰予昼寝。子曰、朽木不可雕也、糞土之牆、不可杇也。於予興何誅。 | 子曰、 始吾於人也、聴其言而信其行。今吾於人也、聴其言而観其行。於予興改是。 】

《大意》

宰予が、昼寝をしていました。孔先生が、これを叱責しておっしゃるには「朽ちた(腐った)木には彫刻をすることは出来ないし、土が腐ってボロボロになった(ごみ土/穢土)土塀には美しく(上)塗り飾ることも出来ない。(そんな、どうしようもない奴だから)わしは、宰与を叱りようもない(叱っても仕方ない)。」 と。 |
そして、孔先生は続けて、「わしは、以前は、人の言葉を聞いてその行ないまで(そのとうりだと)信頼したものだ。が、しかし、今後は人に対して、その言葉を聞いても(鵜呑みにせず)その行ないもよく観るてから信ずることにする。宰予のことがあってから、人に対する方針・態度をそのように改めるに至ったのだ。」 と、おっしゃいました。

・「不可」: 出来ない、不可能の意。〜する値打ちがない。

《解説》

孔子による宰予評の有名な章・部分です。孔子が、罵詈雑言〔ばりぞうごん〕で叱責する、この特異な章は、話の背景・前後関係がないので、次のようにさまざまに推測・憶測がなされています。

1) 学道に志す者が真面目に勉励している孔子の学園にあって、「昼寝」(でサボる)こと自体が怠惰で怪しからんことである、と孔子を呆れさせ怒らせたと解釈します。
*「昼に当たって寝ぬるを謂う」 (朱子)

2) 後半の孔子の言葉との関係を類推すれば、宰予が孔子と何らかの約束事をしていたのに、すっぽかして寝ていたのではないか、という解釈。

3) 面白いのは、この昼寝が、女人とイチャイチャしていた、“房事〔ぼうじ〕”と憶測するものです。週刊誌・官能小説まがいの解釈で一興〔いっきょう〕です。が、いかがなものでしょうか? これは、大儒者 荻生徂徠〔おぎゅうそらい〕の推測です。

さて、いずれにせよ高々昼寝です。罵倒・叱責は不自然です。まして、かくも怒りを露わにしているのは、人格者孔子にしては意外な感を否めません。

前半部の有名な全面否定の“たとえ”そのものは、建築関係の仕事に携わっているとよく解ります。しかしながら、「不可」・「於予興何誅」という人間性の全面否定は、教育(師弟)関係の放棄の言葉です。大教育者・孔子にしては不自然です。そもそも、教育は、才徳の随分薄い者にも与えられるものです。(親心も、放蕩〔ほうとう〕・バカな子供ほど可愛いともいいますね。) ことに、儒学・儒家(老荘に対して)の立場は、“諄々〔じゅんじゅん〕”と諭〔さと〕し導くのが基本的性格です。 ―― 従って、何か特段の事情があっての叱責に違いありません。

なお、「昼寝」について付言しておきましょう。この部分だけみると、「昼寝」が随分とマイナーな行為であるとの感じを受けます。が、そうではないでしょう。

今時〔いま〕の(大部分の)学生気質〔かたぎ〕、“(朝)ねぼう”を理由に授業遅刻、数多〔あまた〕にして堂々たる(?)“重役出社”のごとき不届きさ、目に余るものがあります。しかし、(朝寝でなく)午睡は、悠々自適の善き生活であるように思います。とりわけ、「無為自然」を標榜〔ひょうぼう〕する老荘思想において、その象徴であるように思われます。例えば、荘子(荘周)は、しばしば午睡する姿で描かれています。『荘子』の「胡蝶の夢」は、有名で深い示唆に富んでいます。また、材木にならずもてあまされている巨大樹に対して、その下で仮睡して寛げばよいではないか、と説いたりしてもいます。

実際、適度の午睡は、身心に良いものです。暑い夏場なら、なおさらのことです。むしろ、私は、「昼寝す」の日常を目標に生活(学習)せねばと、改めて思いました。――― 東洋思想の学道も、儒学と老荘の両方が大切です

(宰予完)

 

老子  【5】

§.供 圈]兄卻語り(伝説) ―― “龍のごとき人”(司馬遷・『史記』) 》  

老子の人物像・伝記についての、信頼に足る最古の記述は、史記』・「老子伝」です。

『史記』は、前漢武帝の時代に司馬遷〔しばせん〕によって書かれた最古(第一号)の正史です。

私は、司馬遷の偉大な人生と相俟って、最高の史書といっても良いと思っています。

その偉大さは、『史記』には生き生きと“人間”が描かれており、歴史書であると同時に優れた文学書でもあるということにあります。

 

『史記』に描かれている老子の物語・伝記は、とてもファンタスティックなものです。

例えば、孔子が老子に教えを乞い、その人物の偉大さに「其れ猶〔なお〕、龍のごとし」と感嘆しているシーンです。

 

ところで、『史記』には、老子の人物(特定)そのものについて、“老耼・タン〔ろうたん〕”以外にも楚の隠者“老莱子〔ろうらいし〕”・周の太史(史官)である“儋・タン〔たん〕”と 3様の候補があげられています。

つまり、司馬遷の時代、既に、老子の人物像そのものが伝説化していたと考えられます

まことしやかな伝説が、広く一般化していたのでしよう。

―― 以下、老子の物語をまとめてみました。

 

老子は、楚〔そ〕の国、苦県〔こけん〕の匐拭未蕕いょう〕、曲仁里〔きょくじんり〕 注1) に、西周末年武丁朝庚辰〔こうしん〕の2月25日 卯の刻に生まれました。

姓は李〔り〕、名は耳〔じ〕、注2) 字〔あざな〕は伯陽、おくりな〔謚〕して耼・タン〔たん〕といいました。

 

守蔵室の史官(図書・公文書館の管理人)をしていました。

そこで、仕事のかたわら黙々と書籍を読んで智恵を深めてゆき“道”と“徳”を修めました。

老子の思想は、自らの才能を隠し無名であること(=自隠無名)をモットー(ポイント)としていました。

 

さてある時、当時既に、教育・道徳家として名声の高かった若き日の孔子が訪れます。
孔老会見」(孔子問礼です。 注3) 

老子は、郊外まで孔子を迎えに行き、孔子もまた車を降りて応え手土産(雁)を贈りました。

 

孔子は、洛陽にいく日か滞在して、老子から 「礼」をはじめいろいろ教わりました。

別れに際し、老子は次の苦言を贈って諭〔さと〕しました。 

曰く。

「あなたが(信奉し)話題にしようとしている古〔いにしえ〕の聖賢(=先王の道/古来の礼)は、死んでしまって骨も朽ち果ててしまい、ただその言葉だけが(虚しく)残っているだけです。
(形骸化した言葉をそのまま重視してはいけません。)/ 
それにあなたは、(君子・古来の礼を強調なさるが)君子などというものは、時(運)を得たら高位に昇り志を実現できますが、時(運)を得なければ地位を追われ流浪するような(栄枯盛衰きわまりない)ものなのです。
私は、商売の上手〔うま〕い商人は、(良い品を持っていても)店の奥にしまっておき店頭に並べてひけらかしたりしないものだ、と聞いていますヨ。
(同様に)君子は、立派に徳を積んでいても、謙遜して表面には現わさず、ちょっと見その顔は“愚(愚昧)”のように朴訥〔ぼくとつ〕に見えるものです。
(礼の本〔もと〕は謙虚にあるのです。)
 注4)/ 
とりわけあなたは、驕り〔俺が俺がという傲慢さ〕、欲望〔野心・貪欲さ〕、思い上がった〔居丈高な〕てらい・ゼスチュア、意欲が過ぎる邪心、(が多過ぎます。これら)をみんな捨て去りなさい。
これらはどれも、あなたの身ににとって何の益にもならない(有害な)ものなのです。
私があなたに言ってあげられることは、ただこれだけです。」
 と。 注5)

 

孔子は、感激して魯〔ろ〕の国に帰ります。

そしてその後、弟子たちに、よく老子をほめてしみじみと言いました。

曰く。

「(私にも)鳥が飛べるということはわかっているし、魚が泳げるということはわかっているし、獣が走れるということはわかっている。
走る者が相手なら網で捕えればいいし、泳ぐ者が相手なら綸〔いと=釣り糸〕で捕えればいいし、飛ぶ者が相手なら矰〔いぐるみ=ひもをつけた矢〕で捕えればいい。
が、相手が(霊獣の)龍で、(龍は)風雲に乗じて天空に昇り(時に飛翔し時に雲間に隠れるのであれば)私の理解を超えている。
(如何ともし難い/捕えようがない。) 
今、私は、老先生にお会いしたが、老子というのはまるで龍のようなお人だナァ!
(龍を除いて老子に比較すべきものはない/推し量り難く捕えようがない。)」 と。 注6)

 

やがて、(周の昭王の23年)老子は、周王室の衰退をみて隠退を決意します。

洛陽を去り、西のある関(関所のこと/函谷関・散関か?)にさしかかりました。

そこの関所には長官の“尹喜”がまっていました。 注7) 

(※ 後述伝では、尹喜は“紫の気が東からやってくる”〔紫気東来〕のを見て聖人がやって来ることを知り、老子をお迎えします。) 

尹喜は、「(老)先生は隠れておしまいになろうとされています。(このラストチャンスに)ぜひにもお願いいたします。私のために、何か書物を書き残してください。」 

とねんごろに頼みました。

そこで、老子は初めて上・下二篇の書を著しました。

それは、“道”と“徳”の意義をのべた 5000字余りのものでした。

 

老子は、その書を渡して関所を去り西方への旅を続けました。

しかし、行方〔ゆくえ〕はようとして知れず、どのようにして生涯を終えたかその後の消息を知る者はありませんでした。 注8)

 

―― 以上の老子物語のポイントを整理すると、 
1)老子の姓・出自を老耼・タンとすること 
2)孔老会見(孔子問礼) 
3)『老子』(著作)を著し関令尹喜に渡したこと、

です。

私は、これらは、すべてフィクション(実際そうであったことではない)であると思います

老子の人物の実在そのものが、疑問です。

さらに、儒家思想の対抗・批判として道家(老荘)思想が形成されてゆきますから、孔子と老子が会うことはありえません。

また更に、自隠無名がモットーの老子があえて世に著作を著すはずもありません。

 

注1)
「苦」は、苦しい苦〔にが〕い。
「辧未蕕ぁ諭廚枠乕翩臓◆峩平痢廚録里魘覆欧襪伐鬚擦泙垢里如△匹Δ皺誘の名称のようにも思えます。
(地名の特定はできていますが ・・・)

 

注2)
「耼・タン〔たん〕」とは、耳の長いという意味ですから耳の長い・大きい人だったのでしょう。
耳は目に対して、遺伝的なものを顕すといわれています。
ちなみに、私は幼少の頃、(耳が大きかったので)“福耳をしている”と他人〔ひと〕から褒められ、母がその意味を解説してくれたのを記憶しています。
私が、“大耳子〔だいじし〕”と聞いて思い起こします人物は。
『三国志』の仁徳のある英雄・劉備玄徳〔りゅうびげんとく〕。
10人の話を同時に聞くことができたといわれる聖徳太子(豊耳聡〔とよみみと〕/豊聡耳〔とよとみ〕/豊聡耳太子〔とよとみみひつぎのみこ〕)。
“経営の神様”といわれた君子型経営者、松下幸之助氏(現・パナソニック創業者)。

 

注3)
まず、「孔老会見(孔子問礼)」では、老子は孔子(BC.551−BC.479)の大先輩として記されています。
が、『史記』の老子の系図から逆算しますとBC.400年ころの人物ということになってしまいます。
これは、孔子の孫(孟子の師)の子思とほぼ同時代となります。

ちなみに、両者の年齢は、孔子35歳・老子88歳、(インドの釈迦は49歳)であったと記している本もあります。
次に、孔老会見で、どうして“礼”について老子に教えを乞うのでしょうか? 
孔子は、礼学の専門家ではありますが、老子はそうではないでしょうに。
これについて、楠山春樹氏は次のように説明しています。 
『礼記』・曾子問篇〔そうしもんへん〕に、「吾聞諸老耼・タン」(吾れ、諸〔これ〕を老耼・タンに聞く) と老耼・タンを孔子の師として説く文が 4ヶ条もあります
ここに唯一登場する老耼・タンなる葬儀を差配する人物を、老子の徒が“老耼・タン”にしたて、孔老会見のフィクションが唱えられたのであろう、と。
(楠山春樹・『老子入門』 p.23によります)

 

注4)
「良賈深蔵若虚、君子盛徳容貌若愚 : 良賈〔りょうこ〕は深く蔵して虚〔むな〕しきがごとく、君子は盛徳たりて、容貌〔ようぼう〕愚〔ぐ〕なるがごとし

 

注5)
安岡正篤先生は、若いころの孔子について、気性激しく覇気満々たるところがあった。
か、と想像して、この孔老会見での老子による批評を次のように述べておられます。

○「史記に伝へられてをります老子との会見の事実につきましては、いろいろ考証家によって議論もございますが、何にしても老子が評したと申します 『子の驕気〔きょうき〕と多欲と態色と淫志とを去れ』 ―― 驕気といふのは、俺が俺がといふような気分でありませう。多欲は野心的といふことであり、態色と申しますのは、今日で申しますとゼスチュアに当たりませう。淫志は何でも思ったことは是が非でもやってのけるといふ意欲的なことを申します。 ―― さういふ気分をみな去れ、といふ話だけをとりますと、確にこれは若き孔子を想像するのに味のある言葉であります。」 
(安岡正篤・『朝の論語』 P.7 引用)

 

注6)
龍は“陽”の化身ですが、三棲するといわれています。
地上にいたり、深淵に潜んだり、雲間に隠れたり、天空を飛翔したり、と捉えどころがないの意でしょうか。
あるいは、スケールが大きすぎて圧倒されて推し量れないの意でしょうか。
思い起こされますには、坂本竜馬が初めて西郷隆盛に会った時、その(西郷の)印象を問われた時の応えです。
「よくわからぬ、“タイコ”のようなお人だ。小さく叩けば小さく鳴るし、大きく叩けば大きく鳴る。」 
―― 西郷隆盛もたしかに、わが国幕末・維新期の“人龍”には違いありません。

cf.孔子が老子を評した(とされる『史記』・「老子・韓非列伝」の)この文言は歴史的に名高いものです。
原文(読み下し文)は、次のとうりです。

“孔子去り弟子〔ていし〕に謂いて曰く、「鳥は吾〔われ〕其の能〔よ〕く飛ぶを知り、魚〔うお〕は吾其の能く游〔およ〕ぐを知り、獣は吾其の能く走るを知る。
走る者には以て罔〔あみ=網〕を為すべく、游〔およ〕ぐ者には以て綸〔いと〕を為すべく、飛ぶ者には以て矰〔いぐるみ〕を為すべし。
龍に至りては、吾其の風雲に乗じて天に上るを知る能〔あたわ〕ず。
吾、今日〔こんにち〕老子を見るに、其れ猶〔なお〕龍のごとき」 と。”

 “ The birds ― I know they can fly; the fishes ― I know they can swim; the wild beasts ― I know they can run. 
The runner may be caught by a trap, the swimmer may be taken with a line, and the  flyer may be shot by an arrow.
But as for the dragon,I am unable to know how he rises on the winds and the clouds to the sky.
To−day I have seen Lao Tzu; he is like the dragon. ” 
(Gowen)

 

注7)
「関令尹喜」 ―― 
1)「関令(関所の長官)の尹喜」 と 
2)「関の令尹(楚語で長官の意)は喜んで」
と 2とおりに読めます。

 

注8)
「莫知其所終」(其の終うる所を知る莫〔な〕し) と結んでいます。
文学的で情緒があり良い表現です。
(蛇足ながら、)更に、尾ひれがついたものとして、後世の道教に「老子化胡〔けこ〕説」があります。
「胡」とは、釈迦(仏陀)のことです。すなわち、消息を絶った老子は、インドに行きます。
そして、インドで、釈迦を教えます(釈迦になります)。
それはともかくとして。
老子の思想が、仏教に多大の影響を与えているであろうことや共通点が見られることについて(ex.“四大”・“三宝”や“無”の思想と“空〔くう〕”の思想など)、後述することといたします。

 

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横山大観: 「龍蛟躍四溟〔りゅうこうしめいにおどる〕」

( つづく )

 

本学  【 漢文講読 ―― 志怪・『広異記』 】

*漢文講読の第3回目は、志怪から『広異記』を取り上げました。

 

志怪・『広異記』

§.はじめに

“志怪”〔しかい:怪を志(しる)す〕 ―― 聞きなれない言葉だと思います。魏晋南北朝時代に成立したといわれている、小説のジャンルです。夢(お告げ)、ユーレイ、妖怪、死人復活、祟り、動物の恩返し ・・・ 奇怪・摩訶不思議な話の総称です

不可思議な現象が、実際にあったか、起こりうるか、とすぐに科学的・合理的に考える人もあるかと思います。私は、“存在(あるかどうか)”は、“認識”の如何にかかわっているのだと考えています。感覚器官としての“第6感”の鋭敏さもありますね。

ところで、古代エジプトでは、霊魂不滅・復活の思想から“ミイラ”や“ピラミッド”(?)が、作り造られたことはよく知られていますね。古代中国においても、皆が「鬼〔き〕」即ち死後の霊魂の存在を信じていて、鬼が現世の人間とかかわる話がずいぶんたくさんあります。(我が国でも、大陸の影響もあってか、同じく似たる処があると思います。)

今回は、特に易占にかかわった「鬼=霊魂」の話を教材に選びました。このお話は、とりわけ、霊感・感性を修養し(易の)神さまと身近で、運命・宿命のアドバイザーである 「易の名人・達人」が主人公であるところに、重みも面白みもあるというものです。

 

『広異記』

《 漢 文 》   ――  略  ――

《 書き下し文 》 (現代かなづかいによる)

○ 柳少遊〔りゅうしょういう〕卜筮〔ぼくぜい〕を善くし、名を京師〔けいし〕に著わす。天宝中、客〔かく〕の一縑・ケン〔いっけん〕を持ち少遊に詣〔いた〕る有り。引き入れて故〔ゆえ〕を問う。答えて曰く、「願わくは、年命を知らん」 と。|

少遊為に卦〔か/け〕 を作す。成りて悲嘆して曰く、「君の卦不吉なり。合〔まさ〕に今日の暮にい尽くべし」 と。其の人傷み嘆くこと之を久しくす。|

因〔よ〕りて漿〔しょう〕を求む。家人水を持ちて至る。両〔ふたり〕の少遊を見、誰〔たれ〕か是れ客〔かく〕なるを知らず。少遊、神〔しん〕を指して客と為し、持ちて客に与えしむ。|

乃〔すなわ〕ち辞去す。童送りて門を出づるに、数歩にして遂に滅す。俄〔にわか〕に空中に哭声〔こくせい〕の甚だ哀しき有るを聞く。|

還りて少遊に問う、「郎君〔ろうくん〕此の人を識〔し〕る否や」 と。具〔つぶさ〕に前事を言う。少遊 方〔はじ〕めて客の是れ精神なるを知る。遽〔にわか〕に縑・ケンを看〔み〕しむれば、乃ち一紙縑・ケンのみ。注1) 歎じて曰く、「神我を捨てて去る。吾其れ死せん」注2) と。日暮〔にちぼ〕に果たして卒〔しゅっ〕す。 

 

《 現代語訳・解説研究 》

柳少遊は、占筮〔せんぜ=占い〕の名人として、都で名を知られていました。天宝年間のことでした。一疋〔いっぴき〕の絹織物を持って少遊を訪ねてきた人がいました。招き入れて、来訪の用件を尋ねたところ、そのお客は「どうか、私の寿命を占ってください」と答えました。|

少遊は、(その客人のために)立筮〔占うこと〕しました。卦を得て、(解釈しますに)悲しく嘆いて言いました。「あなたの(ことを占った)卦は、不吉です。あなたの寿命は、きっと今日の日暮れに尽きるでしょう」 と。その客人が悲嘆にくれること、長きに及びました。|

そのために、(喉の渇きをおぼえて、その客は)飲み物をリクエストしました。召使いが水を持って来ましたところ、二人の少遊がいて、どちらが客人であるか区別がつきませんでした。(本物の)少遊が、神=霊魂 を指して客人だと示して、その客人に水を手渡させました。|

そして、その客人は、あいさつして帰りました。召使いが門まで送ると、門をでて数歩もしないうちに、たちまちのうちに姿が消えてしまいました。突如として、空中に非常に悲しげな泣き声が響くのが聞こえました。|

(召使いは、)家に戻ると、少遊に尋ねました。「ご主人さま、あの客人をご存知なのですか?」 そして、詳しく目の前で起こったことを話しました。少遊は、そこではじめて、その客人が自らの霊魂であることがわかりました。急ぎ、客人が持参した絹織物を調べさせてみると、なんとその絹織物は紙でした。少遊は嘆いて言いました。「私の霊魂は、私(の肉体)から離れ去ってしまった。私は間もなく死ぬにちがいあるまい。」 と。夕暮れ時になり、少遊はその占筮のとうり死にました。

*「尽今日暮」: 「合」は、=「当」で、「まさニ 〜 すべし」の再読文字。 当然~すべきである/きっと〜するはずだ の意

 

※  高根・参考  

易経64卦に、死期の卦そのものはありません。しかし、例えば、“必殺の凶卦”“必死の凶卦”と呼ばれるものはあり占的〔せんてき〕に応じて解釈の参考にはします。

・ 必殺の凶卦(遊魂八卦) ・・・ 五爻変じて下卦と逆になる卦
【 晋・大過・頤・訟・明夷・中孚・需・小過 】

・ 必死の凶卦(帰魂八卦) ・・・ 五爻変じて下卦と同じになる卦
【 大有・師・漸・随・蠱・同人・比・帰妹 】

死の時期に関しては、時期そのものを「占的〔せんてき〕」にすることも可能です。卦の象意〔しょうい〕や爻〔こう〕の位置からもよみとることができます。(例えば【山火賁:さんかひ】=夕暮れ、たそがれの卦/例えば、初爻であれば、今日中・すぐになど)

*「不知誰者客」: 是〔こレ〕は、〜である で英語の“be動詞”に近いはたらきです

*「識此人」: 「否」は、文末に置かれると、〜スルヤ「否〔いな〕」ヤ。〜するのか(どうか) の意

注1) 中国では、棺桶の中に“紙銭”を入れます。(日本〔仏教〕でも地域によっては同様ですね) 絹織物は高級品なので通貨の役割も果たしていました。つまり、「紙縑・ケン」は“紙銭”と同じ意味を持ち、柳少遊の死を暗示する伏線の道具だてとなっているのです。

注2) 古代中国人は、死を“たましい”(=魂魄・霊魂・精霊・魂気)が肉体から遊離することであると考えていました。死者のたましいが「鬼・き」、「神・しん」です。
【魂魄・こんぱく】: “たましい”を詳述すると、人の精神をつかさどるものが「魂・こん」で、人の肉体をつかさどるものが「魄・はく」です。生きている時は、この2つが宿っていますが、死ぬと離れると考えました。

 

※  高根・参考  

「遊体離脱」(=魂が肉体から離れて動き見聞きすること)という言葉がありますね。このお話では、その精神・魂(の自分)が、訪ね来りて自分と話している。また、他者〔ひと:家人〕にも見え聞こえているところが興味深いですね。

死期は、占わぬがよいもの、占っても知らせぬものです。自分のことであれば猶更のことです。知らぬままに、自分の死期を占い知ってしまいました。そして、易占の通り死ぬことになりなした。 “運命” → この場合、死期のような“宿命”は変えられないということです。

最後に、外国の映画のことを少々付け加えておきたいと思います。

◆「タイム・マシーン」: 恋人の、事故で死んだという過去の事実を変えようと、主人公の科学者は“タイム・マシーン”を完成します。過去に戻り、“運命”(過去の事実)を変えようとします。しかし、いきさつ(彼女の死に方)は変えれても、彼女が「死ぬ」という事実は変えられないというストーリーです。

◆「シックスセンス」: ブルースウィリスが、マルコムという小児心理学者を主演しています。マルコムが診療にあたる少年は、死者の霊(ユーレイ)が見えるのでした。さまざまの霊は、生前(現世)で満たされないものがあるから成仏できずに霊としてさまよっている。だから、その果たされなかった願いをかなえてやればいいのだ、と少年にアドバイスする。といったようなストーリーだったかと思います。
そして、衝撃のラスト。このマルコム自身が、すでに死んでいてユーレイだったのです。(少年だから見えたというわけです。少年以外の人々には、見えていないわけです。)
ちなみに、未公開のシーンで、マルコムが奥さんと結婚記念日にレストランで食事する場面があります。現実には、奥さんにマルコムは見えてないわけで、一人、結婚記念日にレストランを(二人分)予約して亡き夫の思い出に耽っているのです。この場面設定で、監督が苦心したことが 2つ。

1)食卓などの小道具が動かないようにすること(マルコムは、ユーレイですから)。

2)場面全体のあらゆるところに、“赤”色をあしらって死後の世界を暗示したこと。柳少遊のお話の(たぶん)“白”色の、絹織物・「紙縑・ケン」という道具設定にあたるものですね。“赤”=死(復活) の暗示というのがキリスト教的で、私共(仏教徒)には解し難いものがあります。(※なお、天国は青紫のイメージです)

 

( 完 )

 


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第33回 定例講習 (2010年9月26日) 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 宰予 〔さいよ〕 〔1〕 )

§.はじめに (・・・ 宰我と子貢)

宰予〔さいよ:BC.552−BC.458〕、字は子我、通称宰我。言語には宰我・子貢とあり、子貢と共に四科十哲の一人で、弁舌をもって知られています。孔子との年齢差29歳。子貢が孔子と年齢差31歳ですから、宰予と子貢はほぼ同年齢ということです。

『論語』の中に表われている宰予は、子貢とは対照的に悪い面ばかりが描かれ孔子と対立して(叱責を受けて)います。宰予は、孔門の賢く真面目な優等生的多くの弟子の中にあって、“異端児”・“劣等生”・“不肖の弟子”…といった印象を与えています。が、しかし、“十哲”にあげられ、孔子との対立が敢えて記されていることからも(逆に)端倪〔たんげい〕すべからぬ才人・器量人であったと考えられます。孔子も、“ソリ”・“ウマ”はあわなくも、一目おいていたのではないでしょうか。

cf. ≪ 孔子伝・「恕の人」(DVD)※ ≪ 孔子伝・「恕の人」(DVD) ≫

宰我:「先生の道は太陽や月と同じです。誰も見過ごせません。しかし、日が陰り月が欠けるように、先生の道にもまだ何か足りないところがあるのではないですか?」

孔子:「大道を天下に行い広めていくのは天命だ。季節が廻るのも天命、万物が育つのも天命、誤りなどあろうか!」

宰我:「天に誤ちがないなら、人が誤っているのです。もしかすると、先生のお考えにはかたよりがあるのでは?」

宰我:「もし先生に間違いがないのなら、諸侯に間違いがあるのです。」

孔子:「人よく道をひろむ、道人をひろむに非ず。生まれつき道を知る者、学んで知る者、苦しんで学ぶ者、学ばぬ者がいる。生まれつき知る者は賢人だ。私は、賢人でなく学んで知った。苦しんで知る者には教えるべきだが、苦しみを避け学ばぬなら望みはない。諸侯の皆が皆学ばぬということはあるまい。」

( つづく )

 

老子  【4】

黄老の学 あらまし

§.機 圈 嶇兄辧廖‐匆陝   

儒学と老荘(黄老・道家)思想は、東洋思想の二大潮流であり、その二面性・二属性を形成するものです。

国家・社会のレベルでも、個人のレベルでも、儒学的人間像と老荘的人間像の2面性・2属性があります。

また、そうあらなければなりません。

東洋の学問を深めつきつめてゆきますと、行きつくところのものが、“易”と“老子”です。 

―― ある種の憧憬〔あこがれ・しょうけい〕の学びの世界です。

東洋思想の泰斗・安岡正篤先生も、次のように表現されておられます。

 

「東洋の学問を学んでだんだん深くなって参りますと、どうしても易と老子を学びたくなる、と言うよりは学ばぬものがないと言うのが本当のようであります。

又そういう専門的な問題を別にしても、人生を自分から考えるようになった人々は、読めると読めないにかかわらず、易や老子に憧憬〔しょうけい〕を持つのであります。

大体易や老子というものは、若い人や初歩の人にはくいつき難いもので、どうしても世の中の苦労をなめて、世の中というものがそう簡単に割り切れるものではないということがしみじみと分かって、つまり首をひねって人生を考えるような年輩になって、はじめて学びたくなる

又学んで言いしれぬ楽しみを発見するのであります。」

(*安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収「老子と現代」 p.88引用 )

 

『論語』・『易経』とともに、『老子』の影響力も実に深く広いものがあります。

『老子』もまた、言霊の宝庫なのです。

我々が、日常、身近に親しく使っている格言・文言で『老子』に由来するものは、ずいぶんとたくさんあります。

例えば、次のように枚挙にいとまがありません。 

  • 大器晩成〔大器成〕 (41章)
  • 和光同塵〔わこうどうじん〕 (4章・56章)
  • 無為自然 (7章)
  • 道は常に無為にして、而も為さざる無し (37章)
  • 柔弱謙下〔じゅうじゃく/にゅうじゃく けんか〕の徳 (76章)
  • 柔よく剛を制す (36章)
  • 三宝 (67章)
  • 恍惚〔こうこつ〕 (21章)
  • 天網恢恢〔てんもうかいかい〕、疏〔そ〕にして失わず〔漏らさず〕 (73章)
  • 千里の行〔こう/たび〕も、足下より始まる (64章)
  • 知足(たるをしる) / 知止(とどまるをしる) (33章・44章・46章)
  • 上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水のごとし〕 (8章)
  • 天は長く地は久し (7章)  cf.“天長節”・“地久節”の出典
  • 知る者は言わず、言う者は知らず (56章)
  • 大道廃〔すた〕れて、仁義あり / 国家昏(混)乱して忠臣有り (18章)
  • 禍〔わざわい〕は福の倚〔よ〕る所、福は禍の伏す所 (58章) cf.“塞翁馬”
  • 功成り名遂げて身退くは、天の道なり (9章)
  • 絶学無憂〔ぜつがくむゆう〕 (20章)
  • 小国寡民 (80章)
  • 信言は美ならず、美言は信ならず (81章)
  • 怨みに報いるに徳を以てす (63章) 
    cf.「直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」(『論語』) 

・・・ etc.

 

さて、(孔子とは対照的に)老子という人物は、実は、いたかどうかもはっきりしないのです。

が、少なくとも 『老子』(『老子道徳経』) と呼ばれている本を書いた人(人々?)は、いたわけです。

時代的には、儒家が活躍したのと(諸子百家の時代、春秋時代〔BC.770〜BC.403〕の末頃から)、同時代か少し後の時代と考えられます。

 

そして、近年この『老子』に、歴史的な新発見(サプライズ)があったのです

『老子』の現存する最古のテキスト=今本〔きんぽん〕『老子』というものは、8世紀初頭の石刻でした

ところが、1973年冬、湖南省長沙市馬王堆〔ばおうたい〕の漢墓で、帛〔はく:絹の布〕に書かれた 2種の『老子』が発見されました。

帛書老子”甲本(前漢BC.206年以前のもの)と乙本(BC.180年頃までに書写されたもの)です

 

さらに驚くことに、1993年冬、湖北省荊門市郭店の楚墓から、『老子』の竹簡〔ちくかん〕が出土しました。

この楚簡(竹簡)老子は、“帛書老子”よりさらに 1世紀ほど遡るBC.300年頃のものです。

 

こうして、『老子』のテキストは、一気に1000年以上も前にまで遡って、我々の目にするところとなりました。

これ等の研究により、老子研究の世界も、歴史学や訓詁〔くんこ〕学のそれのように、塗り替えられ新たになろうとしています。

 

新発見の具体的一例をあげれば、大器(ハ) 晩成(ス)があげられます。

国語(現代文、古典ともに)で、しばしば登場する文言です。

四字熟語としても、小学生・中学生のころからお馴染みのものですね。

“大きな器〔うつわ〕は夜できる”という珍訳が有名ですが、大きな器を作るのには時間がかかるという(それだけの)意です

そこから敷衍〔ふえん〕して、立派な人物は速成では出来上がらず、晩年に大成するという意味で用いられます。

即戦力が求められ、レトルト食品なみの速成(即製)人間を作りたがるご時世。

心したい箴言〔しんげん〕ではあります。

 

ところが、この「大器晩成」は「大器免成」が本来の意義であったのです

真に大いなる器(=人物)は完成しない、完成するようなものは真の大器ではないということです。

これこそ、老子の思想によく適うというものです。

( → 詳しくは、『老子』本文・解説にて後述。また、※盧ブログ【儒灯】・《「大器晩成」と「大器免成」》をご覧ください。)

 

―― 『論語』の中に、孔子の「温故而知新」(故〔ふる/古〕きを温〔あたた/たず・ねて〕めて新しきを知れば、以て師となるべし)の名言があります。

“帛書老子”・“楚簡(竹簡)老子”の新発見による研究成果も踏まえながら、20世紀初頭、平成の現代(日本)の“光”をあてながら、「老子」と“対話”してまいりたいと思います。

故〔ふる〕くて新しい「老子」を活学してまいりたいと思います

 

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〈 易県龍興観道徳経碑 〉 : 唐708年

 cf.「天網は恢々〔かいかい〕、疏〔そ〕にして漏らさず。」(73章)
    ※不漏 → 不失

 


※  研究   ≪ 黄老(老子)とは? 儒学と黄老 ≫

 

〈 黄老(老子)とは? 〉

「―― (老荘は) けばけばしい色彩はぬけてしまって、落ちついた、渋い味を持ってゐる。

世間の常識的な型を破って、しかもその破格の中に、いかなる常識人にも感得せられるあの大きな独自の型を創造してゐる。

その点世間の何人からも肯定される理性的 reasonable な洗練を特徴とする孔孟型と好い対象であって、しかも危なげのない本格的な点で両々共通なものがある

孔孟の教へと同様、老子の説を *「人君南面の術」 とする漢志の説も妥当である。」

(安岡・『老荘』思想 p.15引用)

cf. 君子南面ス。リーダー・指導者のあるべき姿ほどの意でしょう。相学(家相など)にも応用。

 

〈 孔孟と老荘 〉

「しかしながら孔孟に老荘のあることは、丁度人家に山水のあるやうなもので、これに依って里人は如何に清新な生活の力を與へられることであらう。

自然に返れといふことは、浅薄に解してはとんでもないことになるが、正しく解することさへできれば、文化をその頽廃から救って、人間を自由と永遠とに導く真理である。

拘泥〔こうでい〕し易く頽廃しがちな悩みを持つ人間が、孔孟を貴びつつ、老荘にあこがれて来たのは無理のないことである。」

  (安岡・『老荘』思想 pp.2−3 引用)

 

〈 正しい意味の形而上学 → 『中庸』 〉

「そういう意味で、われわれの人生、生活、現実というものに真剣に取り組むと、われわれの思想、感覚が非常に霊的になる

普段ぼんやりして気のつかぬことが、容易に気がつく。

超現実的な直覚、これが正しい意味に於ける形而上学というものであります。

こういう叡知〔えいち/=英知〕が老子には輝いているのです。」

(安岡・『活学としての東洋思想』所収・「老子と現代」 p.92引用)

 

★ 参 考 : ≪ 儒学&黄老 (カラー)イメージスケール ≫ by.たかね

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中国の思想・文化の2大潮流 = 【学】 & 【黄/老荘】(道教)

 

中国の思想・文化の3大潮流 = 【学】 & 【黄/老荘】(道教) & 【教】

 

中国の思想・文化 = 【儒学】子・子・子 & 【黄老/老荘】 子・子・

 

日本の精神・文化 = 古神道(惟神道〔かんながらのみち〕) & 3教【

( つづく )

 

本学  【 漢文講読 ―― 『春秋左氏伝』 】

*漢文講読の第2回目は、『春秋左氏伝』 〔しゅんじゅう さしでん〕から、「病入 膏肓 〔やまいこうこうにいる〕」を取り上げました。

§.はじめに

“五経”の一つ『春秋』(魯の年代記、BC.722〜BC.481の12代242年間)は、孔子が整理・編集したとされる歴史書です。これに、左丘明が詳しく解説を施して、成立しました。“伝”とは、経書〔けいしょ〕の注解の意です。人物・場面の描写に優れ、その簡潔な表現は、後世の文章家達から模範と仰がれています。

今回は、“病膏肓〔やまいこうこう〕に入る”、の故事でよく知られている部分を採りあげました。「巫」・「夢」・「運命」といった事柄を考察するのに良いと思います。

(なお、本時講義には、多久引一・『多久漢文講義の実況中継』 を多く参照・引用いたしました。)

 

『春秋左氏伝』 ・ 「 病入2 膏肓 」 (病膏肓に入る)

《 漢 文 》   ――  略  ――

《 書き下し文 》 (現代かなづかいによる)

晋の景公、大辧未燭い譴ぁ揚韻鯣錙未劼蕁佑て地に及び、膺〔むね〕を搏〔う〕ちて踊り、大門と寝門〔しんもん〕を壞〔やぶ〕りて入〔い〕る。公懼〔おそ〕れて室〔へや〕に入れば、また戸を壞るを夢みる。|

公覺〔さ〕めて巫〔ふ〕を召す注1) 巫の言夢のごとし。公曰く、「何如〔いかん〕」 と。曰く、「新を食らわざらん」 と。公疾病〔やまいへい〕 なり。醫を秦に求む。秦伯〔しんぱく〕、醫の緩〔かん〕をして之を為〔おさ〕めしむ(※之を為〔おさ〕めしめんとす)。 |

未だ至らず。公の夢に疾〔やまい〕 二豎子〔じゅし〕となり、曰く、「彼は良醫なり。」懼〔おそ〕らくは我を傷つけん。注2) 焉〔いずく〕にかを逃れん」 と。その一〔いつ〕曰く、「肓〔こう〕の上、膏〔こう〕の下に居らば、我を若何〔いかん〕せん」 と。 |

醫至る。曰く、「疾為〔しつ・おさ〕むべからざるなり。」肓の上、膏の下に在り。之を攻むるも可ならず、之に達せんとするも及ばず、薬も至らず、為むべからざるなり」 と。

公曰く、「良醫なり」 と。厚く*が礼を為して*を帰す。 |

六月丙午〔ひのえ うま/へいご〕、晋公麥〔ばく〕を欲す。甸人〔でんじん〕をして之を献ぜしむ。饋〔き〕人之を為〔おさ〕む。巫を召し、示してを殺す注3) ※将〔まさ〕に 食はんとし、張す。厠〔かわや〕にゆき、陥〔おちい〕りて卒〔しゅっ〕す

 

《 現代語訳・解説研究 》

晋の景公は、次のような夢をみました。大きな妖怪(オバケ)が、髪をざんばらにし、―― その髪の毛は地面にまで届いていました ―― 胸を叩いて踊り、大門と寝門(宮中の門の名前)とを壊して宮殿内に入ってきました。景公は怖くて自分の部屋に(逃げ)入ったのですけれども、(その妖怪は、)部屋の戸を壊して入ってきました。(という夢です) |

景公は目が覚めて、巫〔みこ〕を召し出しました。注1) 巫の言う内容は景公の夢のとうりでした。景公は尋ねました、「(わしのみた夢は)どうだろうか?(どんな意味・暗示なのだろうか)」 と。巫が申し上げますには、「(陛下は、)新麦を食べることはできないでしょう」 と。景公の病はひどくなりました。それで、医師を秦国に求めました。秦伯(秦の伯爵)は、医師の“緩〔かん〕”に命じて、之(=景公の病気)を治療させようとしました。| 

(緩が景公のところに)まだ、到着しなかった(時のことです)。 景公の夢の中に、病気が2人の子ども(の妖怪)となって出てきて、言いますに、「彼は名医です。おそらく、私たちを傷つけるでしょう。注2) どこへ逃げたものだろう。」 その中〔うち〕の一人が言いました。「肓(=横隔膜)の上、膏(=心臓)の下にいたならば、(医者の緩は)私たちをどうしましょうか。(たぶん、どうにもできないでしょうよ)」 |

医師(の緩)が、到着しました。(よくよく診察した結果、) 緩が言いますには、「(陛下の)病は治療することができません。(と申しますのも)病因が、肓(=横隔膜)の上、膏(=心臓)の下にあるからです。病巣を攻めようにもできません。鍼〔はり〕治療をしようとしても(危険な部位なので)到達できません。漢方薬も通じません。ですから、治療の施しようがないのです。」 と。景公がおっしゃるには、「あなたは、名医でいらっしゃる。」 と。手厚くその医師(=緩)にお礼をして、その医師(=緩)を国に帰しました。 (*」=医師・緩) |

六月丙午の日〔旧暦の 6月7日、今の暦で 7月10日から14・15日ごろ〕、晋公は、新麦を食べようとしました。(農場の)役人に命じて麦を献上させました。料理人が食事の調理をしました。(晋公は、)巫を呼び寄せて、(麦飯)を示して、巫を殺しました。注3) 晋公は、麦飯を食べようとして、腹が張り(便意をもよおし)ました。厠(=便所・トイレ)に行って、(糞便の中に)落ちて亡くなりました(糞死?)。

・「壞大門寝門」:
「大門と寝門とを壞りて」(並列の公式)
Aト 与〔と〕2 B1 (AとBと)、「与」=「及」

・「不食新矣」:
新麦を食べることはできない → 新麦を食べる(時節の)前に、景公は死ぬという予言。新しい麦は、初夏の穫り入れです。

・「焉逃」:
「之」は、漢文でよく用います。語調で、特に意味はありません。

・「何如」 と 「若我何」: 
何(若・奈)如は、“いかん”とよみ、疑問、「どんな〜か」
若(如・奈)何は、“いかんセン”とよみ、手段・方法・処置、「どうするか」・「どのようにするか」
目的語【我】は、若何の間に入れます。目的語には、・・・ヲ、若何のあとには ・・・センをつけます。

cf.「 力抜レ山兮気蓋レ世  時不レ利兮騅不レ逝
騅不レ逝兮可2奈何1  虞兮虞兮奈レ若何 」(『史記』・「四面楚歌」)
*〔虞や虞や若〔なんじ〕を奈何〔いかん〕せんと

・「将食、張。」:
「食べる」は、古文では「食らふ」。「将食」は、“まさに食〔くら〕はんと”。「将食、」は、“まさに食〔くら〕はんと”。
【「。」句点 → 「す」は終止形の「す」】
【「、」読点 → 「す」は連用形の「し」】
*サ行変格活用・ ―― 【せ//す/する/すれ/せよ】

・「陥而卒」:
「陥〔おちい〕り」は、“陥り、しこうして”の “て”が上にあがり、語調で「陥りて」になりました。「卒〔しゅっ〕す」は、貴人の死の場合の用います。
ちなみに、当時の厠(便所・トイレ)は、プールのように(糞尿が)蓄えられたものでした!

 

注1) 「巫」: みこ・かんなぎ医師

  • “神と人との感応を媒介する者。神に仕えて人の吉凶を予言する者” (広辞苑)
  • 最初は男女ともに巫〔みこ〕、後には女性を巫、男性を覡〔げき〕といいます。「巫覡〔ふげき/ぶげき〕」。
  • 「巫」の字は。上の横棒があの世、下の横棒はこの世。中間は、*榊〔さかき〕や数珠を持って踊るような形です。あの世から、霊魂を降ろす(神降ろし)スペシャリストです。

    cf.*わが国、神道〔しんとう〕(=神社)では榊〔さかき〕、仏教(=寺)では樒〔しきみ・しきび/梻〕。
    *巫女のことを、(ダンサーが役割の中心との視点から?)神楽女〔かぐらめ〕とよんでいる神社もあります。

  • 日本では、「巫」は女性のみ。なぜかは不明です。(女神)天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕や邪馬台国の女王・卑弥呼〔ひみこ〕が有名ですね。

    「倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃〔すなわ〕ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰う。*鬼道を事とし、能〔よ〕く衆を惑わす。」
    (『三国志』・「魏志倭人伝」)

    *鬼道=呪術〔じゅじゅつ〕、鬼道を事とし→ 呪術師〔じゅじゅつし〕/シャーマン

注2) 余事ながら、私は、現代の“病占”の卦の解釈の考え方を連想しました。というのも、この病気(二豎子)が傷つけば、病人(景公)の病気が治るということです。つまり、(病人ではなく)病気そのものを主体として、得卦の判断をするという考え方です。

注3) 「召巫、示而殺。」の「之」は、「巫」のことです。新麦飯を示して、新麦を食べる(時節の)前に、景公は死ぬという予言が外れたではないか。デタラメ・けしからんことを言いおって! とばかりに殺したということです。
古代(農耕)社会において、「巫」(シャーマン)は、その特殊能力(占・呪術)による神秘性・カリスマ性から、絶大な権威と権力を有していたと考えられます。中国の伏犧〔ふつぎ・ふつき・ふくぎ/包儀・ほうぎ〕やわが国(邪馬台国)の卑弥呼〔ひみこ〕然りです。しかし、その“占・呪術”は、命がけの真剣なものであったと想像されます。万が一にも、外せば権威は失墜し、ここに書かれているように、その地位ばかりか生命もなかったことでしょう。安易な(アテモノ的)俗易者とは、大いに異なる所以〔ゆえん〕です。

( 完 )

 

易経  執筆中 )

 


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