■ 論語 ( 孔子の弟子たち ―― 宰予 〔さいよ〕 〔2〕 )
○ 宰予 昼寝〔ひるい/ひるしん〕ぬ。子曰く、「朽木は雕〔え/ほ〕るべからず、糞土の牆〔しょう/かき〕は杇・ヌ〔ぬ/お・す〕」るべからず。予に於いてか何ぞ誅〔せ〕めん。」 と。 |
子曰く、「始め吾、人に於けるや、其の言〔げん〕を聴いて其の行い〔こう〕を信ず。今、吾、人に於けるや、其の言を聴いて其の行いを観る。予に於いてか是を改む。」 と。
(公冶長第5−10)
【 宰予昼寝。子曰、朽木不可雕也、糞土之牆、不可杇也。於予興何誅。 | 子曰、
始吾於人也、聴其言而信其行。今吾於人也、聴其言而観其行。於予興改是。 】
《大意》
宰予が、昼寝をしていました。孔先生が、これを叱責しておっしゃるには「朽ちた(腐った)木には彫刻をすることは出来ないし、土が腐ってボロボロになった(ごみ土/穢土)土塀には美しく(上)塗り飾ることも出来ない。(そんな、どうしようもない奴だから)わしは、宰与を叱りようもない(叱っても仕方ない)。」 と。 |
そして、孔先生は続けて、「わしは、以前は、人の言葉を聞いてその行ないまで(そのとうりだと)信頼したものだ。が、しかし、今後は人に対して、その言葉を聞いても(鵜呑みにせず)その行ないもよく観るてから信ずることにする。宰予のことがあってから、人に対する方針・態度をそのように改めるに至ったのだ。」 と、おっしゃいました。
・「不可」: 出来ない、不可能の意。〜する値打ちがない。
《解説》
孔子による宰予評の有名な章・部分です。孔子が、罵詈雑言〔ばりぞうごん〕で叱責する、この特異な章は、話の背景・前後関係がないので、次のようにさまざまに推測・憶測がなされています。
1) 学道に志す者が真面目に勉励している孔子の学園にあって、「昼寝」(でサボる)こと自体が怠惰で怪しからんことである、と孔子を呆れさせ怒らせたと解釈します。
*「昼に当たって寝ぬるを謂う」 (朱子)
2) 後半の孔子の言葉との関係を類推すれば、宰予が孔子と何らかの約束事をしていたのに、すっぽかして寝ていたのではないか、という解釈。
3) 面白いのは、この昼寝が、女人とイチャイチャしていた、“房事〔ぼうじ〕”と憶測するものです。週刊誌・官能小説まがいの解釈で一興〔いっきょう〕です。が、いかがなものでしょうか? これは、大儒者 荻生徂徠〔おぎゅうそらい〕の推測です。
さて、いずれにせよ高々昼寝です。罵倒・叱責は不自然です。まして、かくも怒りを露わにしているのは、人格者孔子にしては意外な感を否めません。
前半部の有名な全面否定の“たとえ”そのものは、建築関係の仕事に携わっているとよく解ります。しかしながら、「不可」・「於予興何誅」という人間性の全面否定は、教育(師弟)関係の放棄の言葉です。大教育者・孔子にしては不自然です。そもそも、教育は、才徳の随分薄い者にも与えられるものです。(親心も、放蕩〔ほうとう〕・バカな子供ほど可愛いともいいますね。) ことに、儒学・儒家(老荘に対して)の立場は、“諄々〔じゅんじゅん〕”と諭〔さと〕し導くのが基本的性格です。 ―― 従って、何か特段の事情があっての叱責に違いありません。
なお、「昼寝」について付言しておきましょう。この部分だけみると、「昼寝」が随分とマイナーな行為であるとの感じを受けます。が、そうではないでしょう。
今時〔いま〕の(大部分の)学生気質〔かたぎ〕、“(朝)ねぼう”を理由に授業遅刻、数多〔あまた〕にして堂々たる(?)“重役出社”のごとき不届きさ、目に余るものがあります。しかし、(朝寝でなく)午睡は、悠々自適の善き生活であるように思います。とりわけ、「無為自然」を標榜〔ひょうぼう〕する老荘思想において、その象徴であるように思われます。例えば、荘子(荘周)は、しばしば午睡する姿で描かれています。『荘子』の「胡蝶の夢」は、有名で深い示唆に富んでいます。また、材木にならずもてあまされている巨大樹に対して、その下で仮睡して寛げばよいではないか、と説いたりしてもいます。
実際、適度の午睡は、身心に良いものです。暑い夏場なら、なおさらのことです。むしろ、私は、「昼寝す」の日常を目標に生活(学習)せねばと、改めて思いました。――― 東洋思想の学道も、儒学と老荘の両方が大切です。
(宰予完)
■ 老子 【5】
§.供 圈]兄卻語り(伝説) ―― “龍のごとき人”(司馬遷・『史記』) 》
老子の人物像・伝記についての、信頼に足る最古の記述は、『史記』・「老子伝」です。
『史記』は、前漢武帝の時代に司馬遷〔しばせん〕によって書かれた最古(第一号)の正史です。
私は、司馬遷の偉大な人生と相俟って、最高の史書といっても良いと思っています。
その偉大さは、『史記』には生き生きと“人間”が描かれており、歴史書であると同時に優れた文学書でもあるということにあります。
『史記』に描かれている老子の物語・伝記は、とてもファンタスティックなものです。
例えば、孔子が老子に教えを乞い、その人物の偉大さに「其れ猶〔なお〕、龍のごとし」と感嘆しているシーンです。
ところで、『史記』には、老子の人物(特定)そのものについて、“老耼・タン〔ろうたん〕”以外にも楚の隠者“老莱子〔ろうらいし〕”・周の太史(史官)である“儋・タン〔たん〕”と 3様の候補があげられています。
つまり、司馬遷の時代、既に、老子の人物像そのものが伝説化していたと考えられます。
まことしやかな伝説が、広く一般化していたのでしよう。
―― 以下、老子の物語をまとめてみました。
老子は、楚〔そ〕の国、苦県〔こけん〕の匐拭未蕕いょう〕、曲仁里〔きょくじんり〕 注1) に、西周末年武丁朝庚辰〔こうしん〕の2月25日 卯の刻に生まれました。
姓は李〔り〕、名は耳〔じ〕、注2) 字〔あざな〕は伯陽、おくりな〔謚〕して耼・タン〔たん〕といいました。
守蔵室の史官(図書・公文書館の管理人)をしていました。
そこで、仕事のかたわら黙々と書籍を読んで智恵を深めてゆき“道”と“徳”を修めました。
老子の思想は、自らの才能を隠し無名であること(=「自隠無名」)をモットー(ポイント)としていました。
さてある時、当時既に、教育・道徳家として名声の高かった若き日の孔子が訪れます。
「孔老会見」(孔子問礼)です。 注3)
老子は、郊外まで孔子を迎えに行き、孔子もまた車を降りて応え手土産(雁)を贈りました。
孔子は、洛陽にいく日か滞在して、老子から 「礼」をはじめいろいろ教わりました。
別れに際し、老子は次の苦言を贈って諭〔さと〕しました。
曰く。
「あなたが(信奉し)話題にしようとしている古〔いにしえ〕の聖賢(=先王の道/古来の礼)は、死んでしまって骨も朽ち果ててしまい、ただその言葉だけが(虚しく)残っているだけです。
(形骸化した言葉をそのまま重視してはいけません。)/
それにあなたは、(君子・古来の礼を強調なさるが)君子などというものは、時(運)を得たら高位に昇り志を実現できますが、時(運)を得なければ地位を追われ流浪するような(栄枯盛衰きわまりない)ものなのです。
私は、商売の上手〔うま〕い商人は、(良い品を持っていても)店の奥にしまっておき店頭に並べてひけらかしたりしないものだ、と聞いていますヨ。
(同様に)君子は、立派に徳を積んでいても、謙遜して表面には現わさず、ちょっと見その顔は“愚(愚昧)”のように朴訥〔ぼくとつ〕に見えるものです。
(礼の本〔もと〕は謙虚にあるのです。) 注4)/
とりわけあなたは、驕り〔俺が俺がという傲慢さ〕、欲望〔野心・貪欲さ〕、思い上がった〔居丈高な〕てらい・ゼスチュア、意欲が過ぎる邪心、(が多過ぎます。これら)をみんな捨て去りなさい。
これらはどれも、あなたの身ににとって何の益にもならない(有害な)ものなのです。
私があなたに言ってあげられることは、ただこれだけです。」 と。 注5)
孔子は、感激して魯〔ろ〕の国に帰ります。
そしてその後、弟子たちに、よく老子をほめてしみじみと言いました。
曰く。
「(私にも)鳥が飛べるということはわかっているし、魚が泳げるということはわかっているし、獣が走れるということはわかっている。
走る者が相手なら網で捕えればいいし、泳ぐ者が相手なら綸〔いと=釣り糸〕で捕えればいいし、飛ぶ者が相手なら矰〔いぐるみ=ひもをつけた矢〕で捕えればいい。
が、相手が(霊獣の)龍で、(龍は)風雲に乗じて天空に昇り(時に飛翔し時に雲間に隠れるのであれば)私の理解を超えている。
(如何ともし難い/捕えようがない。)
今、私は、老先生にお会いしたが、老子というのはまるで龍のようなお人だナァ!
(龍を除いて老子に比較すべきものはない/推し量り難く捕えようがない。)」 と。 注6)
やがて、(周の昭王の23年)老子は、周王室の衰退をみて隠退を決意します。
洛陽を去り、西のある関(関所のこと/函谷関・散関か?)にさしかかりました。
そこの関所には長官の“尹喜”がまっていました。 注7)
(※ 後述伝では、尹喜は“紫の気が東からやってくる”〔紫気東来〕のを見て聖人がやって来ることを知り、老子をお迎えします。)
尹喜は、「(老)先生は隠れておしまいになろうとされています。(このラストチャンスに)ぜひにもお願いいたします。私のために、何か書物を書き残してください。」
とねんごろに頼みました。
そこで、老子は初めて上・下二篇の書を著しました。
それは、“道”と“徳”の意義をのべた 5000字余りのものでした。
老子は、その書を渡して関所を去り西方への旅を続けました。
しかし、行方〔ゆくえ〕はようとして知れず、どのようにして生涯を終えたかその後の消息を知る者はありませんでした。 注8)
―― 以上の老子物語のポイントを整理すると、
1)老子の姓・出自を老耼・タンとすること
2)孔老会見(孔子問礼)
3)『老子』(著作)を著し関令尹喜に渡したこと、
です。
私は、これらは、すべてフィクション(実際そうであったことではない)であると思います。
老子の人物の実在そのものが、疑問です。
さらに、儒家思想の対抗・批判として道家(老荘)思想が形成されてゆきますから、孔子と老子が会うことはありえません。
また更に、“自隠無名”がモットーの老子があえて世に著作を著すはずもありません。
注1)
「苦」は、苦しい苦〔にが〕い。
「辧未蕕ぁ諭廚枠乕翩臓◆峩平痢廚録里魘覆欧襪伐鬚擦泙垢里如△匹Δ皺誘の名称のようにも思えます。
(地名の特定はできていますが ・・・)
注2)
「耼・タン〔たん〕」とは、耳の長いという意味ですから耳の長い・大きい人だったのでしょう。
耳は目に対して、遺伝的なものを顕すといわれています。
ちなみに、私は幼少の頃、(耳が大きかったので)“福耳をしている”と他人〔ひと〕から褒められ、母がその意味を解説してくれたのを記憶しています。
私が、“大耳子〔だいじし〕”と聞いて思い起こします人物は。
『三国志』の仁徳のある英雄・劉備玄徳〔りゅうびげんとく〕。
10人の話を同時に聞くことができたといわれる聖徳太子(豊耳聡〔とよみみと〕/豊聡耳〔とよとみ〕/豊聡耳太子〔とよとみみひつぎのみこ〕)。
“経営の神様”といわれた君子型経営者、松下幸之助氏(現・パナソニック創業者)。
注3)
まず、「孔老会見(孔子問礼)」では、老子は孔子(BC.551−BC.479)の大先輩として記されています。
が、『史記』の老子の系図から逆算しますとBC.400年ころの人物ということになってしまいます。
これは、孔子の孫(孟子の師)の子思とほぼ同時代となります。
ちなみに、両者の年齢は、孔子35歳・老子88歳、(インドの釈迦は49歳)であったと記している本もあります。
次に、孔老会見で、どうして“礼”について老子に教えを乞うのでしょうか?
孔子は、礼学の専門家ではありますが、老子はそうではないでしょうに。
これについて、楠山春樹氏は次のように説明しています。
『礼記』・曾子問篇〔そうしもんへん〕に、「吾聞諸老耼・タン」(吾れ、諸〔これ〕を老耼・タンに聞く) と老耼・タンを孔子の師として説く文が 4ヶ条もあります。
ここに唯一登場する老耼・タンなる葬儀を差配する人物を、老子の徒が“老耼・タン”にしたて、孔老会見のフィクションが唱えられたのであろう、と。
(楠山春樹・『老子入門』 p.23によります)
注4)
「良賈深蔵若虚、君子盛徳容貌若愚」 : 良賈〔りょうこ〕は深く蔵して虚〔むな〕しきがごとく、君子は盛徳たりて、容貌〔ようぼう〕愚〔ぐ〕なるがごとし。
注5)
安岡正篤先生は、若いころの孔子について、気性激しく覇気満々たるところがあった。
か、と想像して、この孔老会見での老子による批評を次のように述べておられます。
○「史記に伝へられてをります老子との会見の事実につきましては、いろいろ考証家によって議論もございますが、何にしても老子が評したと申します 『子の驕気〔きょうき〕と多欲と態色と淫志とを去れ』 ―― 驕気といふのは、俺が俺がといふような気分でありませう。多欲は野心的といふことであり、態色と申しますのは、今日で申しますとゼスチュアに当たりませう。淫志は何でも思ったことは是が非でもやってのけるといふ意欲的なことを申します。 ―― さういふ気分をみな去れ、といふ話だけをとりますと、確にこれは若き孔子を想像するのに味のある言葉であります。」
(安岡正篤・『朝の論語』 P.7 引用)
注6)
龍は“陽”の化身ですが、“三棲”するといわれています。
地上にいたり、深淵に潜んだり、雲間に隠れたり、天空を飛翔したり、と捉えどころがないの意でしょうか。
あるいは、スケールが大きすぎて圧倒されて推し量れないの意でしょうか。
思い起こされますには、坂本竜馬が初めて西郷隆盛に会った時、その(西郷の)印象を問われた時の応えです。
「よくわからぬ、“タイコ”のようなお人だ。小さく叩けば小さく鳴るし、大きく叩けば大きく鳴る。」
―― 西郷隆盛もたしかに、わが国幕末・維新期の“人龍”には違いありません。
cf.孔子が老子を評した(とされる『史記』・「老子・韓非列伝」の)この文言は歴史的に名高いものです。
原文(読み下し文)は、次のとうりです。
“孔子去り弟子〔ていし〕に謂いて曰く、「鳥は吾〔われ〕其の能〔よ〕く飛ぶを知り、魚〔うお〕は吾其の能く游〔およ〕ぐを知り、獣は吾其の能く走るを知る。
走る者には以て罔〔あみ=網〕を為すべく、游〔およ〕ぐ者には以て綸〔いと〕を為すべく、飛ぶ者には以て矰〔いぐるみ〕を為すべし。
龍に至りては、吾其の風雲に乗じて天に上るを知る能〔あたわ〕ず。
吾、今日〔こんにち〕老子を見るに、其れ猶〔なお〕龍のごときか」 と。”
“ The birds ― I know they can fly; the fishes ― I know they can swim; the wild beasts ― I know they can run.
The runner may be caught by a trap, the swimmer may be taken with a line, and the flyer may be shot by an arrow.
But as for the dragon,I am unable to know how he rises on the winds and the clouds to the sky.
To−day I have seen Lao Tzu; he is like the dragon. ”
(Gowen)
注7)
「関令尹喜」 ――
1)「関令(関所の長官)の尹喜」 と
2)「関の令尹(楚語で長官の意)は喜んで」と 2とおりに読めます。
注8)
「莫知其所終」(其の終うる所を知る莫〔な〕し) と結んでいます。
文学的で情緒があり良い表現です。
(蛇足ながら、)更に、尾ひれがついたものとして、後世の道教に「老子化胡〔けこ〕説」があります。
「胡」とは、釈迦(仏陀)のことです。すなわち、消息を絶った老子は、インドに行きます。
そして、インドで、釈迦を教えます(釈迦になります)。
それはともかくとして。
老子の思想が、仏教に多大の影響を与えているであろうことや共通点が見られることについて(ex.“四大”・“三宝”や“無”の思想と“空〔くう〕”の思想など)、後述することといたします。
横山大観: 「龍蛟躍四溟〔りゅうこうしめいにおどる〕」
( つづく )
■ 本学 【 漢文講読 ―― 志怪・『広異記』 】
*漢文講読の第3回目は、志怪から『広異記』を取り上げました。
志怪・『広異記』
§.はじめに
“志怪”〔しかい:怪を志(しる)す〕 ―― 聞きなれない言葉だと思います。魏晋南北朝時代に成立したといわれている、小説のジャンルです。夢(お告げ)、ユーレイ、妖怪、死人復活、祟り、動物の恩返し ・・・ 奇怪・摩訶不思議な話の総称です。
不可思議な現象が、実際にあったか、起こりうるか、とすぐに科学的・合理的に考える人もあるかと思います。私は、“存在(あるかどうか)”は、“認識”の如何にかかわっているのだと考えています。感覚器官としての“第6感”の鋭敏さもありますね。
ところで、古代エジプトでは、霊魂不滅・復活の思想から“ミイラ”や“ピラミッド”(?)が、作り造られたことはよく知られていますね。古代中国においても、皆が「鬼〔き〕」即ち死後の霊魂の存在を信じていて、鬼が現世の人間とかかわる話がずいぶんたくさんあります。(我が国でも、大陸の影響もあってか、同じく似たる処があると思います。)
今回は、特に易占にかかわった「鬼=霊魂」の話を教材に選びました。このお話は、とりわけ、霊感・感性を修養し(易の)神さまと身近で、運命・宿命のアドバイザーである 「易の名人・達人」が主人公であるところに、重みも面白みもあるというものです。
『広異記』
《 漢 文 》 ―― 略 ――
《 書き下し文 》 (現代かなづかいによる)
○ 柳少遊〔りゅうしょういう〕卜筮〔ぼくぜい〕を善くし、名を京師〔けいし〕に著わす。天宝中、客〔かく〕の一縑・ケン〔いっけん〕を持ち少遊に詣〔いた〕る有り。引き入れて故〔ゆえ〕を問う。答えて曰く、「願わくは、年命を知らん」 と。|
少遊為に卦〔か/け〕 を作す。成りて悲嘆して曰く、「君の卦不吉なり。合〔まさ〕に今日の暮にい尽くべし」 と。其の人傷み嘆くこと之を久しくす。|
因〔よ〕りて漿〔しょう〕を求む。家人水を持ちて至る。両〔ふたり〕の少遊を見、誰〔たれ〕か是れ客〔かく〕なるを知らず。少遊、神〔しん〕を指して客と為し、持ちて客に与えしむ。|
乃〔すなわ〕ち辞去す。童送りて門を出づるに、数歩にして遂に滅す。俄〔にわか〕に空中に哭声〔こくせい〕の甚だ哀しき有るを聞く。|
還りて少遊に問う、「郎君〔ろうくん〕此の人を識〔し〕る否や」 と。具〔つぶさ〕に前事を言う。少遊 方〔はじ〕めて客の是れ精神なるを知る。遽〔にわか〕に縑・ケンを看〔み〕しむれば、乃ち一紙縑・ケンのみ。注1) 歎じて曰く、「神我を捨てて去る。吾其れ死せん」注2) と。日暮〔にちぼ〕に果たして卒〔しゅっ〕す。
《 現代語訳・解説研究 》
柳少遊は、占筮〔せんぜ=占い〕の名人として、都で名を知られていました。天宝年間のことでした。一疋〔いっぴき〕の絹織物を持って少遊を訪ねてきた人がいました。招き入れて、来訪の用件を尋ねたところ、そのお客は「どうか、私の寿命を占ってください」と答えました。|
少遊は、(その客人のために)立筮〔占うこと〕しました。卦を得て、(解釈しますに)悲しく嘆いて言いました。「あなたの(ことを占った)卦は、不吉です。あなたの寿命は、きっと今日の日暮れに尽きるでしょう」 と。その客人が悲嘆にくれること、長きに及びました。|
そのために、(喉の渇きをおぼえて、その客は)飲み物をリクエストしました。召使いが水を持って来ましたところ、二人の少遊がいて、どちらが客人であるか区別がつきませんでした。(本物の)少遊が、神=霊魂 を指して客人だと示して、その客人に水を手渡させました。|
そして、その客人は、あいさつして帰りました。召使いが門まで送ると、門をでて数歩もしないうちに、たちまちのうちに姿が消えてしまいました。突如として、空中に非常に悲しげな泣き声が響くのが聞こえました。|
(召使いは、)家に戻ると、少遊に尋ねました。「ご主人さま、あの客人をご存知なのですか?」 そして、詳しく目の前で起こったことを話しました。少遊は、そこではじめて、その客人が自らの霊魂であることがわかりました。急ぎ、客人が持参した絹織物を調べさせてみると、なんとその絹織物は紙でした。少遊は嘆いて言いました。「私の霊魂は、私(の肉体)から離れ去ってしまった。私は間もなく死ぬにちがいあるまい。」 と。夕暮れ時になり、少遊はその占筮のとうり死にました。
*「合尽今日暮」: 「合」は、=「当」で、「まさニ 〜 すべし」の再読文字。 当然~すべきである/きっと〜するはずだ の意
※ 高根・参考
易経64卦に、死期の卦そのものはありません。しかし、例えば、“必殺の凶卦”“必死の凶卦”と呼ばれるものはあり占的〔せんてき〕に応じて解釈の参考にはします。
・ 必殺の凶卦(遊魂八卦) ・・・ 五爻変じて下卦と逆になる卦
【 晋・大過・頤・訟・明夷・中孚・需・小過 】
・ 必死の凶卦(帰魂八卦) ・・・ 五爻変じて下卦と同じになる卦
【 大有・師・漸・随・蠱・同人・比・帰妹 】
死の時期に関しては、時期そのものを「占的〔せんてき〕」にすることも可能です。卦の象意〔しょうい〕や爻〔こう〕の位置からもよみとることができます。(例えば【山火賁:さんかひ】=夕暮れ、たそがれの卦/例えば、初爻であれば、今日中・すぐになど)
*「不知誰者是客」: 是〔こレ〕は、〜である で英語の“be動詞”に近いはたらきです
*「識此人否」: 「否」は、文末に置かれると、〜スルヤ「否〔いな〕」ヤ。〜するのか(どうか) の意
注1) 中国では、棺桶の中に“紙銭”を入れます。(日本〔仏教〕でも地域によっては同様ですね) 絹織物は高級品なので通貨の役割も果たしていました。つまり、「紙縑・ケン」は“紙銭”と同じ意味を持ち、柳少遊の死を暗示する伏線の道具だてとなっているのです。
注2) 古代中国人は、死を“たましい”(=魂魄・霊魂・精霊・魂気)が肉体から遊離することであると考えていました。死者のたましいが「鬼・き」、「神・しん」です。
【魂魄・こんぱく】: “たましい”を詳述すると、人の精神をつかさどるものが「魂・こん」で、人の肉体をつかさどるものが「魄・はく」です。生きている時は、この2つが宿っていますが、死ぬと離れると考えました。
※ 高根・参考
「遊体離脱」(=魂が肉体から離れて動き見聞きすること)という言葉がありますね。このお話では、その精神・魂(の自分)が、訪ね来りて自分と話している。また、他者〔ひと:家人〕にも見え聞こえているところが興味深いですね。
死期は、占わぬがよいもの、占っても知らせぬものです。自分のことであれば猶更のことです。知らぬままに、自分の死期を占い知ってしまいました。そして、易占の通り死ぬことになりなした。 “運命” → この場合、死期のような“宿命”は変えられないということです。
最後に、外国の映画のことを少々付け加えておきたいと思います。
◆「タイム・マシーン」: 恋人の、事故で死んだという過去の事実を変えようと、主人公の科学者は“タイム・マシーン”を完成します。過去に戻り、“運命”(過去の事実)を変えようとします。しかし、いきさつ(彼女の死に方)は変えれても、彼女が「死ぬ」という事実は変えられないというストーリーです。
◆「シックスセンス」: ブルースウィリスが、マルコムという小児心理学者を主演しています。マルコムが診療にあたる少年は、死者の霊(ユーレイ)が見えるのでした。さまざまの霊は、生前(現世)で満たされないものがあるから成仏できずに霊としてさまよっている。だから、その果たされなかった願いをかなえてやればいいのだ、と少年にアドバイスする。といったようなストーリーだったかと思います。
そして、衝撃のラスト。このマルコム自身が、すでに死んでいてユーレイだったのです。(少年だから見えたというわけです。少年以外の人々には、見えていないわけです。)
ちなみに、未公開のシーンで、マルコムが奥さんと結婚記念日にレストランで食事する場面があります。現実には、奥さんにマルコムは見えてないわけで、一人、結婚記念日にレストランを(二人分)予約して亡き夫の思い出に耽っているのです。この場面設定で、監督が苦心したことが 2つ。
1)食卓などの小道具が動かないようにすること(マルコムは、ユーレイですから)。
★2)場面全体のあらゆるところに、“赤”色をあしらって死後の世界を暗示したこと。柳少遊のお話の(たぶん)“白”色の、絹織物・「紙縑・ケン」という道具設定にあたるものですね。“赤”=死(復活) の暗示というのがキリスト教的で、私共(仏教徒)には解し難いものがあります。(※なお、天国は青紫のイメージです)
( 完 )
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