※この記事は、F.バーネット女史著・『小公子』/『小公女』(第2回) の続きです。


F.バーネット女史著・『小公子』/『小公女』  (第3回)

(cf.関連ブログ【儒灯】 (儒学随想) 「“パンをもらった少年”に想う」 )
 → http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/50716102.html


─── ジェントルマン〔gentleman:紳士〕&レディ〔lady:淑女〕への志向/
理想的母親像・婦人(夫人)像/静的(静止)社会イギリスと動的社会アメリカ/
大英帝国(イギリス)とフランスの文化的POWER/大英博物館・ケンブリッジ大学/
“中庸〔≒balance〕”・“徳”/仁愛〔思いやり〕/徳の感化・風化/
「高い席にいる者は貨幣〔かね〕を出せ!安い席にいる者は拍手を送れ!」/
“孔子学院”/篭襦未韻辰〕の道/「教」の 2義 etc.─── 


≪ 抜粋引用: 『小公子 セディ』・吉野壯兒 訳、角川文庫 /
『小公女』・伊藤 整 訳、新潮文庫 / ほか参照: 『小公子』・脇 明子 訳、岩波文庫 など ≫ 



(2) 描かれている理想的人間と “徳の感化/風化” について 

イギリスの古き善き理想的人間像(=指導者像)としての、
ジェントルマン〔紳士〕とレディ〔淑女〕が描かれています。

貴族の子女、“公子/公女”〔Little prince / Little princessです。

そして、先述のように、F.バーネット女史は同時に、
その愛息子〔まなむすこ〕・愛娘〔まなむすめ〕を育〔はぐく〕む“理想的母親像” を描いています。

それは、善く児童を育む理想的な“家庭の教育者像”でもあります。


以下、『小公子』 の本文から“徳育”に関する部分を抜粋引用しておきますと。 ―――

“真っ四角〔スクウェア〕”というのは “真〔ま〕っ正直”という意味なのだが、
伯爵はこのアメリカ英語を知らなかった。

【セドリック】:
「『それはね、ディックがだれもだまさないことだと思います
とセドリックは大きな声で答えた。
『そして、自分より体の小さい子どもをぶったりしないことだし、
お客さんの靴をよくみがいて、できるだけぴかぴかに光らせることです

ディックは本職の靴みがきですからね。』」

「(老伯爵が)自分がわれ知らず心をひかれているものは、
わが身にこれまでまったく備わっていなかった美点にほかならないということを、
おそらく認めないわけにはいかなかっただろう ―― 
つまり、率直で誠実な、思いやりのある性質、
人を愛し信頼して、決して悪く考えることのできない心、といった美点である
。」

【エロル夫人】:
『あの子は父親のような人間 ―― いつも勇気を失わず、
正しくて、誠実な人間になってもらいたいと切〔せつ〕に願っているのでございます
。』

「それは結局、ほんとうにとても簡単なことだったのだ ―― 
この少年が親切な優しい心の持ち主である母親の身近で育ち、
いつも人に親切を尽くすことと他人のために心を配ることを教えられたからにすぎなかった。
これはごく些細〔ささい〕なことかもしれないが、何よりも大切なことなのだ。

セドリックは伯爵だのといったものについては、何一つとして知らなかった。
豪勢なもの、華麗なものなどについても、まるで無知だった。
だが、セドリックは素直で、やさしかったから、いつも愛らしい少年だった。
こういう心を持っていることは、君主に生まれついたようなものなのである
。」
 ―― etc.


次に、更に一層重要な点は、その“徳”が “自ずと”(=自然に:
“the Self−so”/“what−is−so−itself”) 感化して、
周〔まわ〕りの人々を善く変えてゆく、本来の姿に立ち返らせてゆく、ということです。

『小公子』・セドリックも、『小公女』・セーラも、自分では全く気付かず、
意図することなく、ごく自然に周りの人々を感化してゆきます。

母親のエロル夫人も同様です。

東洋思想にいう “無為にして化す”(『老子』)、“化し成す” (『易経』)です。

“感化=徳化”、大きな領域でいえば “風化”です。


―― かかる、良き“核”となる人間=児童の育成は、
国家社会においても人間教育においても極めて重要です。

肝腎要〔かんじんかなめ〕です。  *補注1)

『小公子』のセドリック は、アメリカでのディックやホッブスさんといった親友に始まり、
この物語のもう一人の主役「気性の激しい/気むずかしい」老伯爵、 
頑迷・固陋〔がんめい・ころう〕の難物を徳化してゆきます。

さらには、領地のすべての人々を感化し、風〔ふう〕をなし化してゆきます

そのプロセスが、この物語の真骨頂〔しんこっちょう〕でもあり、
“楽しい” ところでもありましょう。

『小公女』のセーラ は、学校での友人一人一人に始まり、
社会(人)の代表でもあるかのごときパン屋のおかみさんを覚醒・感化してゆきます。

エピソード的に、この物語の後半〜ラストに盛り込まれている話とその影響は、
核心的で私には最も契機〔けいき/モメント:かなめとなる重要なもの〕に想われます。

それは、セーラがパン屋前の通りの下水で拾った4ペンス銀貨で甘パンを6つ入手します。

自分自身限界に近いひもじさにもかかわらず、
店先にいた乞食の少女(アンナ)にその5つまで与えるというエピソードです。

そして、その“行ない(行為・実践)”が、
パン屋のおかみさんと更に乞食の少女(アンナ)を変えてゆき(=覚醒・感化)、
“化育”・“化成”いたします。


以下、『小公女』 の本文から抜粋引用しておきますと。 ―――

「『この子だって人間だわ ―― そしてこの子は、わたしよりもお腹をすかしている。』 

その子ども ―― このひとりの人間 ―― はサアラを見つめ、
そこを通るサアラに道をあけてやるために、からだをうごかした。」

『公女さまというものは位〔くらい〕から追われて貧乏になっていても 
―― いつだって ―― 自分よりももっと貧しい人間を見ると ―― 
その人たちに、ものを分けてやるのだわ。

「(乞食の少女〔アンナ〕は)そしてサアラが見えなくなるまで、
食べかけた甘パンにそれ以上ひとくちも口をつけなかった。

「おかみさんは、もうずっと遠くなったサアラのみすぼらしいすがたを見おくり、
いつものおちついた気もちが、なんとなく不安で乱れるように思った。

そして、おかみさんは自分で言った。

あんなに早く行ってしまわなければ、あの子に(甘パンを)十二もやったのにねえ。』」

【パン屋のおかみさん】:
『それからね、どこへ行ってもパンをもらえない日はここへ来て、そう言うんだよ。
あの女の子のために、わたしはきっと、おまえにパンをあげるからね。』

【パン屋のおかみさん】:
「あの雨のふっていた日に、あんなにぬれて寒そうなあなたが、
ひもじいようすをしていながら、まるで公女さまのように
あの甘パンをほどこしてしまったのを見てからは
あの日から後わたしも、何度もパンのほどこしをしてまいりましたの
。」

【パン屋のおかみさん】:
『(乞食の少女〔アンナ〕が)そしてだんだん、
きちんとした気だてのいい子になってきましたわ
。』

「その少女ははずかしそうにしていたが、顔だちは愛らしく、
もう野育〔のそだ〕ちのようなところはなくって、
荒々しい眼つきも失せてしまっていた
。」

【ラストの文言】:
「『そしてわたし、今度あることを考えましたの。
きっとブラウン夫人は、子どもたちにパンをやるやくめを
あなたにさせてくださると思うわ。
あなたもひもじいってのは、どんなにかよく知っているから、
喜んでそのしごとをしてくれるでしょうね。』 

『はい、お嬢さま』とその少女が言った。

その子はほとんど口をきかなかったが、
サアラは自分の気もちはよく通じたように思った

その子はじっと立ったままサアラがインドの紳士といっしょに店から出て、
馬車に乗ってかけ去るのを、いつまでもながめていた。」 ―― etc.


加えて、人間のみならず動物にも影響を与えている点が指摘できます。

『小公子』では、人にめったに慣れない大型犬の「ドゥーガル」が
セドリックにすぐに馴〔な〕つき、
老伯爵が初対面でセドリックに好意的な関心を示すきっかけとなります。

『小公女』では、臆病なネズミの「メルチセデック」が
セーラの大の仲良しになります。

迷い込んだ(“インドの紳士”のペットである)サルもセーラに馴つき、
ハッピーエンドのきっかけとなります。

“愛玩動物〔ペット〕は飼い主に似る”といいます。

動物は正直です。

純粋に本能的に、人間の“徳(仁)”の影響を受けます。

そして、(私は人間はすべからく情〔じょう〕の人であらねばならないと思っておりますが、)
児童の情操教育にとって、
身近な動物は、思いやりの対象として直截〔ちょくせつ〕で重要です

以上のように、この 『小公子』/『小公女』 のペア作品は、
児童の教育と文学の両面において非常に深い価値を持つものです。

“読み楽しむ”うちに自然と徳性が涵養〔かんよう〕されるとともに、
豊かな文学性を堪能することができる
といえましょう。

善き児童期を過ごせず、あるいは忘却して
徳性が身につけられていない現今〔いま〕の大人〔おとな〕にとっても、
“読み楽しむ”べき名作です。

さて、“一燈照隅〔いっとうしょうぐう〕”という言葉があります。

暗い隅〔すみ〕を照らすように、
蒙〔くら〕いこころを啓〔てら/ひら・く〕して(=啓蒙)、
身近な一人一人を善く感化できれば世の中全体が明るく善く整ってまいります。

教育者であれば“教化”、政治家・官吏であれば“風化”の言葉が適切でしょうか。
(cf.“風〔ふう〕をなすものは吏と師”)

“徳化”=“徳の感化”という東洋風の言葉を、今風〔いまふう〕に用いれば、
“博愛・平等の精神”ということになりましょう。

“博愛”は、キリスト教の“愛”の思想がベースにある表現でしょう。

東洋思想にいう、儒学の“仁”、仏教にいう“(慈)悲”、と同じものです。

“平等”については、動的社会アメリカと静的社会イギリス
そして日本とではその内容がずいぶん異なっています。

(【陽】の)動的社会アメリカと(【陰】の)静的社会イギリスの対比は、
『小公子』の末文、ホッブスさんの言葉によく現れています。;

「年が若くて、活動的な連中には、アメリカも相当にいい国だ ―― だが、欠点もある。
ご先祖様〔アーント・シスター〕なんて一人もいないし、伯爵だってまったくなしだものな!」

アメリカは、自由主義の先鋭国です。

現代アメリカでいう自由とは“機会〔チャンス〕の平等”を指しています。

一方、イギリスと現代の日本でいう自由とは
“実質的平等の保障”
 を指していると考えられます。

これらのことを想うにつけても、私が座右の箴言〔しんげん〕ともしている
ヨーロッパの古諺〔こげん〕が思い起こされます。

“高い席にいるものは貨幣〔かね〕を出せ!安い席にいるものは拍手を送れ!” 、がそれです。

ちなみに、『小公女』 でネズミの“メルチセデック”の章で、
「バスチーユの囚人たちはよくねずみと仲よしになったものよ
わたしもおまえと仲よしになろうかな。」 というおもしろい記述があります。

フランス革命(1789.7.14)は、パリ市内にあるバスティーユを襲撃して火ぶたが切られます。

バスティーユ〔仏語で“牢獄”の意〕は、
政治犯の牢獄で多量の武器があると信じられていたので、
その襲撃・解放がフランス革命のシンボル〔象徴〕となったのです。

フランス革命は自由・平等・博愛を標榜〔ひょうぼう〕しました。 

この一節は、フランスびいきの著者が、あえて盛り込んだものでしょう。 *補注2)


補注1)

良き“核”となる人間、
すなわち国家社会を担う優れたエリート・指導者の資質について明言しているのです。; 

「セドリックは素直で、やさしかったから、いつも愛らしい少年だった。
こういう心を持っていることは、君主に生まれついたようなものなのである。」

今の日本の教育(家庭・学校・社会の教育全般)には、
この“核”〔かく〕となるリーダー〔指導者〕の育成が欠如しています。

儒学(孔子の思想)のキーワードの「仁」〔じん〕は、“おもいやり”の意です。

その「仁」は、同時に種子〔たね〕の“核”〔さね〕の意味でもあります。

欠くべからざる、最も貴重・重要なものの意です。

cf.中華料理のデザートに、白いゼリー状の“杏仁豆腐〔あんにんどうふ〕”がありますね。
   これは、杏〔あんず〕の種子(=仁)から作ります。


補注2)

フランス国旗の色=トリコロールは、自由・平等・博愛を象徴しているといわれています。
縦じまのデザインは、囚人(服) → 束縛からの解放の象徴、ともいわれています。

バスティーユ襲撃の7月14日は、後、フランス共和国の建国記念日〔パリ祭〕になっています。

余事ながら、バスティーユ襲撃の当日にいた囚人は、
実際には狂人を含め2・3名であったといいます!)


(3) 母国イギリスの栄光と“文化的パワー” について 

F.バーネット作品の特色の一つとして、
イギリスとアメリカが物語りの舞台背景となっていることが指摘されます。

先述のように、それは専〔もっぱ〕ら、女史の生い立ちによるものでしょう。

とりわけ、母国イギリスの古き善きものへの愛情、ひとかたならぬものを感じます。

そして、それは、時代を経て、現代という視点からみると
多分にエキゾチックな世界史的時代背景であり、
現代的意味での魅力が加わっているともいえます。

ところで、後にアメリカで活躍し、『武士道』 を英文で出版し
大反響を呼び起こすことになる新渡戸稲造〔にとべいなぞう〕は、
東大〔東京帝国大学〕の面接で志を問われた時・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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