儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

思想

水【坎】 に想う  (その5)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

水(川)は、自然への視点です。
が、ここで人間へ視点を移してみましょう。

そうすると、[ 坎=心・思想 → 徳 ] と捉えることができます。

◆「 心 」 : 【☵】 の(2)陰を物質、1陽を精神(中国流にいえば “気”)と捉えます。
身体に内在する精神・こころです。

その精神・こころは、陰の中を一本貫いています。
“一貫”するものですね。(cf.「孔子一貫の道」) 

真直のイメージは、「直」を表わしているといえます。
「直」の字を分解再構成すると、「徳」の字です。

芯〔しん〕となっているものですから“孚〔まこと/=誠〕”ともいえます。 注3) 
陰の苦労に耐えている忍耐の姿でもあります。

「筋〔すじ〕が(一本)とおっている(人)」・
「筋がね入り(の人)」などという言葉がありますが、
1陽は脊椎動物の背骨と同じく、精神・心に一本通る“徳”であり、
(永遠に)“受け継がれるもの”(cf.DNA、ミーム〔文化的遺伝子〕)である
と、
私は想います。


◆「思想」 : 思想は、身体の中にあって外部からは見えません。
(2)陰の体の中に貫くものが思想です。

また、心の動き(陽)から思想です。 動的概念です。
思想は、最も速い〔fastest〕ものです。
ひらめき・霊感〔inspiration〕です。
 注4)


私が、思い想いますに、黄老思想にしろ儒学(易学)思想にしろ、
万事すべからく、中庸・中徳が肝腎です。

“陰陽のバランス=中庸・中徳” 注5)  を思うと、
八卦(小成卦)で【坎☵】が最もバランスが取れているのではないかと思います。

中正の陽が1と陰が2ですから。
他の【☲】・【☴】は過陽、【☳】・【☶】は過陰です。


また、【☵】は“外柔内剛”、【☲】は“外剛内柔”の象です。

後者の【☲】の人は、いつの世も多いものですし、
一般に社会・メディアに評価され易いものです。

“ちやほやされる”、“スター”の【☲】です。
“中身のないタマゴ”(陰は虚ろ・偽り)でもあります。


古今東西、一般世間は人間の外見・外面〔そとみ・そとずら〕で評価してしまいがちです。
殊に女性に対しては、容貌・容姿にのみ捉われがちです。
炯眼〔けいがん〕・心眼でよく観なければなりません。

人間は、畢竟〔ひっきょう〕大切なものは、中身・情です。
人徳というものです。
それが、【坎☵】の象であると、私は想います。


付言すれば、【水・火】内・外の完全をもって
理想的人間として【水火既成:☵☲】(完成・パーフェクトの意)の卦があるのではないか、
と思います。

また、「五行〔ごぎょう〕思想」の「相生相剋〔そうしょうそうこく〕論」で、
“水剋火”(水で火を消す)と水が上位で
“火剋水”(火で水を蒸発させる)とはなっていない理由〔わけ〕が解ったような気がしています。


注3) 
余事ながら、鉛筆(今時ならボールペン)・万年筆などの筆記具の象(小成卦・八卦)は何か? 
と考えてみました。
一本通る芯〔しん〕(万年筆・毛筆は水分)で【坎☵】でしょう。


注4) 
人象をみますと。2陰(悪・不明・大衆)を貫くから、刑罰・法律。
2陰の体の中に隠れた1陽で、賢者・隠者。
思想から思想家・哲学者・思慮深い人・情の人沈黙の人・苦労人。
ひらめき/霊感〔inspiration〕から易学者・易者。 といった象が出てくるのでしょう。


注5) 
陰陽(男女)のバランス(=中庸)は、私見によれば、
ほんの少々の 陰(女性)の優位を以て中庸・中徳と考えます。
子どもを産み育てる、しなやかな強さを持っているからです。
その結果的事例として、出生時は男子の数がやや多い(成人ではほぼ同じ)、
平均寿命が女性のほうが高いことなどが挙げられましょう。


では、易経64卦(大成卦)で具体的に例示してみましょう。

まず、【坎】の重卦、【坎為水 ☵☵】(習坎:重なることを習といいます)は、
水また水です。

険難重なる象であり、また2爻と5爻が、各々2陰に落ち込んでいる象です。

が、しかし、この象は内に信実あり。
陰の肉体の中に、中庸の徳を持った陽の精神がしっかりと宿っている象でもあります。
2爻と5爻とは【坎為水】の主爻に他なりません。

次に、【水天需 ☵☰】。 需は“待つ”の卦です。
求め待つ、やしない待つ、です。

【乾☰】は、天=精神・無形のものです。

『序卦伝』に、「需とは飲食の道なり。」とあります。
体に必要な食物ばかりでなく、精神の糧〔かて〕の意です。

── 心を養うもの(文化 : culture =心をたがやすものの意)です。

“やしない待つ”とは、徳を函養〔かんよう:≒育成・蓄積〕しながら待つことにほかなりません。
“果報〔かほう〕は練って待て”ですね。

卦辞〔かじ/けじ〕には、「需は孚〔まこと〕あり」とあります。
5爻の陽位に陽爻が位し、中正の象です。

坤の身体に 1陽の気が貫いているのが坎ですから、
心の象とし「孚」(=誠)とするのです。

全卦からみて坎の中爻は、需卦の主爻であり「孚」とみます。

なお、文字でいいますと、“サンズイ”をつけると「濡〔うるお〕す」。
人格(品格)と頭脳をうるおすということでしょう。

“ニンベン”がつくと「儒」。 儒学・儒者の「儒」です。
(cf.真儒=真の儒者・“真儒協会”)

 【☵ 水】 = 水(川)・水の流れ & 心・思想の象 


《 孔子(/孟子) と 「水」 》

儒学の開祖・孔子は、『論語』で 
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」(雍也第6−23) / 
「子、 川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず
。」
(子罕第9−17) と述べています。

孔子を“私淑〔ししゅく〕”した孟子は、孔子の水礼賛を次のように解しています・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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むかしの中国から学ぶ 第1講 「孔子と論語」 (その2)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)


1. 孔 子 

■ ── プロフィール ・ 生い立ち

*BC.551(552) 〜 BC.479 (73・4歳没) 、 
 儒学 (儒教) の開祖、魯〔ろ〕国 に生まれる、名は丘 〔きゅう〕 注1) 、
 字 〔あざな〕 は 仲尼 〔ちゅうじ〕

*父:叔梁紇・コツ 〔こつ/きつ〕 63歳 、 母:徴在  16
 姉9人・兄1人、 身長 200cm位ともいわれる 
    ( 『孔子家語』 〔こうしけご: cf.=副論語〕)
  cf. 「百除〔の〕けて、相老年〔あいおいどし〕の片白髪」  (一井 鳳悟)

*諸国を遍歴(14年)するが用いられず、
 魯国に帰り研究・執筆と子弟の教育に専心する
   → 孔子の学校 = 東洋初の私立大学校

*死ぬまで学び続け、向上し続けた人

*寂しい晩年 ── 愛弟子(後継者) 顔回(淵)の死、
   高弟・子路の惨殺、息子 鯉〔り〕の死
   → → 曾子 〔そうし〕 → 子思子 〔ししし:孔子の孫〕 → 孟子  → →

*当時の諸子百家の中で “儒家” は “負け組”
   → 後代・漢の時代(7代武帝) に 「国教」 となる


注1)    名の由来について 
1. 尼丘という霊地に祈願して授かった/ 
2. 頭頂が凹んで丘のようにフラットだった
    cf.老子 = 姓は李〔り〕、名は耳〔じ〕、字〔あざな〕は伯陽、
       おくりなして タン〔たん〕


○ 「吾れ、少〔わか〕くして賤〔いや〕 し、故に鄙事〔ひじ〕に多能なり。
  君子多ならんや、多ならざるなり。」  (子罕〔しかん〕 ・ 第9)


○ 「牢曰く、子云〔のたま〕う、『吾試〔もち〕いられず。故に芸あり。』 と。」 
  (子罕・第9)

【コギト(吾想う)】 ── 
『論語』 には、 「君子多能を恥ず」 とあります。
が、西欧古代ギリシアの理想的人間像は “調和の美” を実現した人。
ルネサンスの理想的人間像は 、“普遍的人間(万能人)” 。
そして現代は、“(人の都合)が闊歩〔かっぽ〕” する “スペシャリスト” の時代です。


○ 「子曰く、吾十有五にして学に志す。 三十にして立つ。 四十にして惑わず。
  五十にして天命を知る。 六十にして耳従う。
  七十にして心の欲する所に従えども 矩〔のり〕を踰〔こ〕えず。」
  (為政・第2) 

 cf. 志学 ─ 而立 ─ 不惑 ─ 知命 ─ 耳順 ─ 従心 



■ ── 孔子の人間像

○  「 食〔し/いい〕 は精 〔せい/しらげ〕 を厭〔*きわ/あ・かず/いと・わず〕 めず
  膾〔かい/なます〕 は細を厭めず。 
  食の饐〔い〕 して〔あい〕 せる、
  魚の餒〔たい/あさ・れて〕 して肉の敗〔ふる/やぶ・れたる〕 びたるは食らわず。
  色の悪しきは食らわず。 臭〔におい〕 の悪しきは食らわず。
  〔じん〕 を失いたるは食らわず。 
  時ならざるは食らわず
  割〔きりめ〕 正しからざれば食らわず。 
  其の醤〔しょう〕 を得ざれば食らわず。
  肉は多しと雖も食気(食〔し〕の気) に勝たしめず。 | 
  唯 酒は量なし、乱に及ばず
  沽酒市脯〔こしゅしほ/かえる酒かえるほじし〕 は食らわず。
  薑〔はじかみ〕 を徹〔す/てっ・せず〕 てずして食らう、多くは食らわず。
  公〔こう〕 に祭れば肉を宿せしめず。 
  祭肉は三日を出ださず。 三日を出づれば之を食らわず。 
  食らうに語らず。寝〔い〕 ぬるに言わず。
  疏食菜羮〔そしさいこう〕 瓜〔か/うり〕 と雖も祭るに必ず斉如〔さいじょ〕 たり。」       
  (郷党・第10)


《大意》
 ご飯は、あまり精白(白米) にしすぎないように
膾〔なます〕 も細かく切り刻みすぎないように。
(ご飯の)すえて味が変わったものや、
魚が傷んで肉の腐りかかったものは食べない。
色が悪くなったもの、臭〔におい〕 の悪くなったものは食べない。
料理かげん(煮かげんなど) の良くないものも食べない。
季節はずれ(旬〔しゅん〕でない) ものは食べない
切り方の正しくないものも食べない。
適当な〔したじ :つけ汁の類〕 がなければ食べない。
肉は、多くあっても食欲がなければ食べない(=お腹のすき具合に応じて食べる)。
ただ、酒については、別にこれこれという適量はないけれども、乱れるところまでは飲まない
店頭に並べてあるような(たなざらしの) 酒やら乾肉は食べない。
薑〔はじかみ :ショウガの類〕 は、のけずに食べるけれども、多くは食べない。 
主君の祭りを助けたときには、(お供え物のおさがりの) 肉を宵ごしにしない。
(また) わが家の祭りの肉は三日を越さないようにして、三日を越えたら食べないようにした。
食事中は話をせず、寝るときもしゃべらない。
粗末なご飯や野菜スープや瓜のようなものでも、
(初取りの) お祭りをするときには、必ずおごそかに敬意を尽くしました。


・「食不厭精」 ・・・ 「食」 は、食事という名詞では“シ”、
            食べるという動詞では “ショク” と読みます。  
            cf.“三白の害” → 白米・白砂糖・白パン
               昔は西欧では食パンを白くするために 【 チョーク 】 を混ぜていました


・「膾不厭細」 ・・・ “なます” は、肉や魚を細かく切ってあえたもの
            cf.焼き肉店(「0111」) ユッケ食中毒 ('11.4〜)

  「これはいろいろ学者が調べまして、この厭ふという字は、
  あくといふ意味があり、またきはめるといふ意味がある。
  意味の自からなる連絡転化でありますが、そこで精を厭はずではなくて、
  精すなはち白きを厭〔きは〕 めず。
  或は白きを厭〔あ〕 かず、厭〔あ〕 かずといへば、
  腹一杯食べないといふことになるわけであります。
  ・・・・・ 中略 ・・・・・ 
  さういふことを考へて参りますと、
  食は白きを厭〔あ〕 かずといふのもよろしいが、
  精を厭〔きは〕 めず、あまり十分に白米にしない、
  かういふ方がよく当たつてをるようで、面白く思はれます。」 
   (安岡正篤・『朝の論語』 P.22 引用)


・「不時不食」 ・・・ “ 時中〔じちゅう〕 ” = 時の重視

 1)季節のもの、旬〔しゅん〕 のもの (成熟する時期に達したもの) を食す
    cf.「七養」の第1: 《 時令に順うて 以て元気を養う 》  
        → 鳥は、果物の “熟しごろ” を的確に見計らって、ついばみますね。

 2)間食をしない (食事の時間を重視) 
    cf.映画「グレムリン」 : PM.11時以降の食事はダメ


・「不得其醤不食」 ・・・ 「醤」
は、つけ汁・スパイスの類で
              衛生上の意味(毒消し・殺菌) も持っています
               ex. 寿司やサシミに“わさび”、カニに “酢”


・「唯酒無量、不及乱」 ・・・ 酒を飲んでも、乱れるまでは飲まないの意
   cf.珍解釈:「これをみろ、聖人の孔子でさえ、酒は量るなかれ、
         及はずんば乱すと言ってござる」と喜んだそうです。



○ 「子曰く、疏食〔そし〕 を飯〔くら〕 い、水を飲み、
  肱〔ひじ〕 を曲げて之を枕とす。
  楽しみ亦〔また〕 その中〔うち〕 に在り。
  不義にして富み且つ貴きは,我に於て浮雲〔ふうん〕 のごとし。」
   (述而・第7)


q.なぜお茶ではなく「水」を飲むのでしょうか? (贅沢だから?健康のため?)

【コギト(吾想う)】 ── 
平成の御世は、“過食の時代” ・ “グルメの時代” です。
マス・メディア(TV.など) は、(CM.だらけの合間に) 食べ物と
スポーツばかりを報じています。
日本の重篤なる、この堕落・頽廃の蔓延〔まんえん〕は、
古代(西)ローマ帝国末期の状況と似ています。
(尤〔もっと〕も、日本がローマ帝国ほどの繁栄をしたわけではありませんが。)
“パンと見せ物” への欲望に賢き(?)ローマ市民は溺れ
頽廃文化が蔓延し、為政者(皇帝) はその欲求に応えました。



■ ── 孔子の思想

・「」 : 
「人」 に 「二」 をそえた字、人と人の間に生じる自然な親愛の情。
( 『論語』 に100回以上登場します。)


・「忠恕」 〔ちゅうじょ = まごころと思いやり〕 : 
仁を心の面からみた側面、理想に向かって限りなく進む方を「忠」、
包容していく方を「恕」で表し、
結んで「忠恕」 ── 徹底した人道主義

→ 「」 : 自分のまごころ (※忠義の忠ではありません)/
        心の中にある純粋なまごころ/ “中する心” /
        弁証法的進歩 ・ 止揚〔アウフヘーベン:高める・中す〕/
        限りない進歩向上

→ 「」 : 「心」 と 「如」。
        「口」 は、領域 ・ 世界で “女の領域・世界” /
        転じて天地 ・ 自然・造化/
        造化そのまま(仏そのまま)に進んでゆく、来る(如来)/ごとし/
        “ゆるす” /他人への思いやり、他人の身になってその心情を思いやる心

cf.“女をば法〔のり〕 のみくら〔御座 〕といふぞげに釈迦も達磨もひょいひょいと出る”
     (一休和尚)  / ・神道 “産霊〔むすび〕”



─── “夫子(孔子) 「一貫〔いっかん/いつもってつらぬく・おこなう〕 の道」 ”

○ 子曰く、「参や、吾が道は一〔いつ〕 以て之を貫く(或いはおこなう) 」 と。
  曽子曰く、 「唯〔い〕」と。 子出ず。
  門人問うて曰く、「何の謂いぞや」 と。 曽子曰く、「夫子の道は、忠恕のみ」 と。
  (里仁・第4−15)


《 大意 》
孔先生がおっしゃるには、
「参や、わしの道は一〔いつ〕 なるもので貫いておる(行っておる)。
(その道がわかっておるか?)」 
曽子はすぐに、「はい〔唯〕。(よく承知いたしております)」と答えました。
他の門人たちが、(禅問答のようでさっぱりわからないので)
「今のお話は、一体どういう意味なのですか。」 と問いました。
曽子は、「先生の説かれる道は 
“忠恕” ( ── 思いやり と いつくしみ ・ まごころ と 思いやり/
造化の心、そのまま、限りなく進歩向上していくこと)
 のほかにはありませんよ」
と答えました。

 
※ 曽子は、敢えて と言わずに解り易く具体的に 忠恕と表現したと考えられます。

【コギト(吾想う)】 ──  とは?
・ 思いやりといつくしみ (忠恕 ・ 愛 ・ 慈悲) / 「忠」【おのれ】 は中する心
 限りなく進歩向上する心 = 弁証法的進歩 / 
 「恕」【人におよぼす】 = 女の領域 ・ 女の世界 = 造化
「一〔いつ〕なるもの」 = 「永遠なるもの」 = 「受け継がれるもの」
・ “見えざるものを観、聞こえざるものを聴く” ことによって智〔さとる〕 (覚智)



・「」 : 仁を客観化してみた側面 (=慣習法的社会規範)
○  「顔淵、仁を問う。 子曰く、己に克〔か〕 ちて礼に復〔かえ〕 るを仁と為す。」  
   (顔淵・第12) 
    ── “克己復礼” 〔こっきふくれい〕
○ 「樊遅〔はんち〕、仁を問う。
  子曰く、人を愛す。知を問う。子曰く、人を知る。」  
   (顔淵・第12)

  “仁” = “愛” = “(慈)悲”   
  cf. 「愛( いと / かな )しい」


・「徳治主義」 :
○  「子曰く、これを道〔みちび〕 くに政を以てし、
  これを斉〔ととの〕 うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。
  これを道くに徳を以てし、これを斉〔ととの〕 うるに礼を以てすれば
  恥ありて且〔か〕 つ 格〔ただ〕 し。」   (為政・第2)



(この続きは、次のブログ記事に掲載しております。)


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