儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

特別公開講座のご案内

※新型コロナウィルス感染対策のため中止延期となりました。悪しからずご了承ください。

一般社団法人関西師友協会が開催される「篤教講座200回記念公開講座」にて、当真儒協会会長の盧秀人年が講演いたします。
一般のご参加も可能ですので、ぜひお運びください。(要申込み)

テーマは 「令和を迎えて易とは何か」

(関西師友協会の講座案内より引用)
先師・安岡正篤先生が逝かれた翌年、昭和59年、成人教学研修所の学監・伊与田覚先生が安岡正篤先生の教学を顕彰すべく「篤教講座」を創設されました。 爾来36年、今日まで休会することなく「東洋倫理概論」「易学入門」等、安岡教学を基本に学び続け、ここに200回を迎えました。
これを記念して、公開講座を開催することになりました。会員・非会員の別なくご参加を歓迎します。

日時 令和2年6月21日(日) 受付/午後1時〜
講座/午後 1:30〜4:45  懇談会/午後 5:00〜6:45
会場 AP大阪淀屋橋
大阪市中央区北浜3-2-25 京阪淀屋橋ビル3階
京阪・大阪メトロ 淀屋橋駅17番出口上のビル
アクセスマップ
会費 講座のみ/1,500円  講座・懇談会/4,000円
(どちらも当日会場で)
※懇談会までお申し込みの方で当日無断欠席の場合は、キャンセル料が発生します。
講座
  1. 「篤教講座200回を振り返る」 関西師友協会 藤原利幸先生
  2. 「令和を迎えて易とは何か」 易学研究家 盧秀人年
  3. 「易と人生」 関西師友協会 常任講師 鈴木重夫先生
申込締切 令和2年6月1日必着 先着50名様まで
申込方法 申込書をダウンロードし必要事項をご記入の上、FAXでお送りいただくか、メールにてお申込みください。
メールの場合は、氏名、住所、連絡先(TEL)、「講座のみ」または「講座と懇談会」を明記の上、送信してください。
申込書のダウンロードはこちら
申込先 一般社団法人 関西師友協会  ホームページ
FAX 06−6244−3327

第72回 定例講習 特別講義  その2

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

§2。 「「易と動物 (Part1)」/ 「易と植物 (Part1)」

真儒協会会長: 盧 秀人年

《 はじめに 》  

歴史書である司馬遷[しばせん]の『史記』が、
生き生きと人間が描かれていることから優れた文学性を持っていると言われているように、
歴史や思想の書が物語性(文学性)を持っていることはままあります。

我国においても、本来歴史書である『古事記』は、
“神話”でもあり“古事記物語”であるとも言えましょう。

西洋の書物でも、宗教の書(聖典)である『聖書』が、
“聖書物語”として児童の間で広く親しまれ読まれていますね。


東洋源流思想の英知である 『易経[えききょう]』 は、
帝王学とも呼ばれ儒学経書(五経“[ごきょう]”)の筆頭です。

“辞[じ・ことば]”と“象〔しょう・かたち〕”、
さらに「易経本文」と「十翼[じゅうよく :10の解説・参考書]」が
融合合体したところに、その面目躍如たるものがあります。

さらに、易占(易筮[えきぜ])と思想・哲学の書であるという
“二重性”を持つところが『易経』の『易経』たるゆえんのものです。

そんなところから、私は『易経』は“東洋の奇(跡)書”と呼ぶに
相応[ふさわ]しいものであると考えております


さて、この古[いにしえ]の聖人・賢人たちによって創られた
“言霊[ことだま]”の書・『易経』は、その“神秘性”とともに
親しく近しい動物・植物がたくさん登場する物語性を持っているのです。

その視点から言えば、さしずめ“易経物語”といったところです。


例えば、64卦[け/か]の第一番目【乾為天〔けんいてん〕☰☰】は、
“陽”の想像上の動物“(竜)〔りゅう/ドラゴン〕”の物語が
(6つの爻〔こう〕の辞に)寓意[ぐうい]的に語られています。

また、『易経』の本文には、次のようなおなじみの動物に因〔ちな〕む
名文言がたくさん登場しています。

―― 「君子豹変」(&「大人虎変」)(【沢火革〔たくかかく〕☱☲】)/
「虎の尾を履「ふ」む」 (【天沢履〔てんたくり〕☰☱】)/
「虎視眈眈[こしたんたん](【山雷頤〔さんらいい〕☶☳】) などがそれです。


しかしながら、難解を持って知られる『易経』は、
東洋最古の書物でありながら、その“物語性”に視点をあてて
児童に親しませることができるような書きものを、私は知りません。

そんな訳で、今回、“易と動物”・“易と植物”といった視点から
『易経』をまとめることを始めてみました。


なお、“「易経と動物」”についてのアプローチは、
かつて愚息・未来が11才の時 「易と動物 ― 竜から小狐へ ― 」 
と題して初講演したもの(2006.6. 於:日本易学協会大阪府支部学習会)が
出発点になっております。 


《 太古の神秘的動物と人間とのかかわり 》  

● 四 霊
  麒麟〔きりん〕/鳳凰〔ほうおう〕/亀/龍(竜)

● 四 神 (神獣)
   玄武〔げんぶ〕/青竜〔せいりゅう〕/朱雀〔すざく〕/
   白虎〔びゃっこ〕 ※黄龍〔おうりゅう〕

   cf.キトラ古墳・高松塚古墳/
      子(鼠/ネズミ)人・丑(牛/ウシ)人・寅(虎/トラ)人 ・・・・


四神カット 省略

       cf. 韓国の“四神”伝説         (DVD.「太王四神記」より)

○“雲を呼ぶ雲師〔うんさ〕”: 雲師〔うんさ〕 【青竜】
  = 東方を司る 雲の守護神

○“風を吹かせる風伯〔プンベク〕”: 風伯〔プンベク〕 【白虎】
  = 西方を司る 風の守護神

○“雨を降らせる「雨師〔ウサ〕」”: 「雨師〔ウサ〕」 【玄武】
  = 北方を司る 雨の守護神

【朱雀】 = 南方を司る 火の守護神

 ―― 朱雀以外の三神は、(暴走する)朱雀を殺せませんでした。
    四神はお互いに制し合うのみです。
    (朱雀の暴走を押さえる「雨師〔ウサ〕」【玄武】) 

★【黒朱雀】; 怒りによって暴走した朱雀

 ・「朱雀の火を消すために世界は7日間ずっと雨が降り続いた。
  その雨で地獄のような火は消えた
  たが、世界が水の中に沈んでしまった。」

◆朱雀【離・火】と玄武【坎・水】: 朱雀の暴走を押さえる玄武 
 ――→ 原発の是非を易学的に考える;
 (【火☲=原子力】を制御・消すのは【水☵=智・まこと】)


● 龍(竜)〔ドラゴン〕について (蛇が出世すると竜になる?)

 ・ “伏犧〔ふつぎ〕” = 半身半獣・“蛇身人首〔たしんじんしゅ〕”
   cf.スフィンクス(エジプト)=“人頭獅子〔ライオン〕身”/
      ケンタウロス〔ケンタウルス〕(『ギリシア神話』) 
      = 上半身人・下半身馬

 ・  = 水の神、シャーマン(巫覡〔ふげき/ぶげき〕・巫女〔みこ〕)
   ex.卑弥呼〔ひみこ〕

   ★“八岐(俣)大蛇〔ヤマタノオロチ〕・素戔嗚尊〔すさのおのみこと〕(『古事記』) /
    “エデンの園の蛇”(『聖書』) /“ヒドラ〔Hydra〕”(9つの頭を持つ蛇)
     &“メドゥサ〔Medusa〕”(蛇の髪を持ちこれを見る者を石に変えた。
     ペルセウスに退治され、その頭はアテナに贈られ
     その胴から“天馬・ペガソス”が生まれた。)(『ギリシア神話』) /
    “ドラゴン”退治とそのパワーの獲得・ジークフリート(『ニーベルンゲンの歌』)

   cf.  蛇は脳幹〔のうかん〕しかない!
    “脳”= 1.脳幹(原始脳・本能) ヒトでは退化している 
          2.大脳皮質(思考)
         ――― ●本能(素・野生)は【陽】  ■知性は【陰】

考 察

西洋のドラゴン(竜)は、“翼”を持ち自力で空を飛びます。

堅い“ウロコ”を持ち“火を吐く”
“陽”・【離☲】物の権化〔ごんげ〕そのものです。


一方、『易経』に登場する東洋の龍(竜)は、
“陰”の“水”=“雲”と融合・協力して空を飛びます。

本来“水”の化身である“蛇”に変化出世(?)したものが龍(竜)でしょう。

龍(竜)は“陽”・【離☲】物ですが(ex.【乾為天】)、
“水”の“陰”性【坎☵】も含んでいると考えられます。

先の、朱雀【離・火】と玄武【坎・水】の関係とのアナロジー〔類似〕を想います。


《 『易経』の中の動物 》

『易経』の64卦は、さまざまな人生の場面〔シーン:scene〕・
状況〔スチュエーション:situation〕を表しています。

したがって、そこにはさまざまな人間が登場いたしております。

そして同時に、多くの人間に(当時は)身近な動物たちが登場しています。 

―― ある時は、神秘的に寓意〔ぐうい〕的に、
またある時は、愛くるしく親しみをもって登場しています。

これは、“易”の思想を動物(&植物)に、
より理解〔わか〕り易く象〔かたど〕ったものと言えましょう。

私には、これらの動物(&植物)が登場することにより、
*“易の物語性”がより色濃く章〔あや〕どられているように思われます。 注)


『易経』の中の動物を語るにあたり
まず最初に、“易”の字義と動物との関連について触れておきましょう。

「易」の文字のなりたちについては、
“日月〔にちげつ〕説”と“蜥易〔せきえき〕説”とがよく知られています。

前者の“日月説”は、「易」の文字を
「日」と「月」の組み合わせであるとするものです。

しかし、「易」の下の部分は「月」ではありませんので妥当ではないでしょう。

後者の“蜥易説”は、ハ虫類の「蜥蜴〔とかげ/蠑螈・竜子とも書きます〕」を
字義とするものです。

“虫”へんに“易”で「蜴〔とかげ〕」という文字が作られています。

“易”は、変化〔チェンジ:change〕とそれへの対応の学です。

「蜴〔とかげ〕」は、さまざまに色が変化する(変化して見える/“12変”)ので
“変易”〔チェインジ〕に通じるということです。

尤〔もっと〕も、私が思いますには、実際には「蜥蜴」は体色を変化させませんから、
「蜴〔とかげ〕」はトカゲ科のハ虫類の総称でしょう。

“カメレオン”の類〔たぐ〕いのハ虫類のことかも知れませんね?

注)
私は、古代中国の『易経』の象〔しょう/かたち〕として登場する動(植)物の“たとえ話”と、
古代ギリシアの『イソップ寓話〔ぐうわ〕』の動物譚〔たん:=物語〕には、
とてもアナロジー〔類似〕を感じます。

謎に包まれた“哲人”である作者によって書かれた『イソップ寓話』は、
動物に擬〔なぞ〕らえられた生き方の知恵であり、
世界中で現在に至るまで普遍的に愛読され続けています。

『イソップ寓話』が書かれたと考えられる古代ギリシアのアテネの全盛期はBC.5世紀ごろ、
『易経』の解説(「十翼」)を整えたといわれている孔子が活躍したのもほぼ同時期です。

洋の東西で時代もさして変わらないころのアナロジー〔類似〕です。


《 『易経』(本文中心)に登場する植物たち 一覧 》

龍(竜)

【乾】辞・初・2・4・5・上爻・用 /【坤】上爻 
→ ※龍は【乾】の象/
    cf.龍の三棲〔さんせい〕

【革】5・上爻 “大人虎変”・“君子豹変”/
【履】辞・4爻 “虎の尾を履む”/【頤】4爻 “虎視眈々”

○馬:【屯】2・4・上爻/【明夷】2爻/【睽】初爻/【渙】初爻/【中孚】4爻
“馬匹〔ばひつ=両馬〕亡〔うしな〕う” ○牝馬〔ひんば〕:【坤】辞 
○白馬(の王子):【賁】4爻 ○良馬:【大畜】3爻

鹿

【屯】3爻

○魚:【姤】2・4爻  ○魚の目刺し:【剥】5爻  ○鮒:【井】2爻

○牛:【睽】3爻/【无妄】3爻 “繋がれた牛”/
【旅】上爻 “牛を易に喪〔うしな〕う”/【既済】5爻 “東隣の牛を殺す” 
○黄牛:【遯】2爻/【革】初爻“黄牛の革〔かく〕”  
○童牛:【大畜】4爻  ○牝牛〔ひんぎゅう〕【離】辞

〔しのと〕
=豚

○豕〔しのと〕:【睽】上爻 ○獖豕〔ふんし〕:【大畜】5爻 ※去勢したいのしし
○羸豕〔るいし〕:【姤】初爻 ※やせ豚

○霊亀:【頤】初爻 ※万年を経た亀 
○“十朋〔じっぽう〕の亀”:【損】5爻/【益】2爻 ※非常に高価な亀

○羊:【大壮】5爻 “羊を易に喪〔うしな〕う”/
【夬】4爻 “牽羊〔ひかれるひつじ〕”/
【帰妹】上爻 “士羊を刲〔さ〕きて血无〔な〕し” 
○羝羊〔ていよう〕:【大壮】3・上爻 ※牡羊〔おひつじ〕

鼫鼠 〔せきそ〕

【晋】4爻 ※大ネズミ、ムササビ? (→ 最悪人の意)

〔えもの〕
=鳥・禽獣

○禽〔えもの〕:【師】5爻/【恒】4爻/【井】初爻  
○前禽〔ぜんきん〕:【比】5爻 ※目前の禽獣、または前へ逃げ去る禽獣の意

〔はやぶさ〕

【解】上爻

〔こう〕
=水鳥

【漸】初爻〜上爻  → ※鴻の動きで語られています

〔きじ〕

【旅】5爻

〔つる〕

鳴鶴とその子:【中孚】2爻 ※“鳴鶴陰に在り、その子これに和す。”

翰音 〔かんおん〕
=鶏

【中孚】上爻 “翰音天に登る”〔→ろくに飛べない鶏は天に昇ってもすぐに落ちるの意〕

○鳥:【旅】上爻 “鳥その巣を焚〔や〕かる”  ○飛鳥:【小過】辞・初・上爻
※【雷山☳☶】の卦象から

豚魚 〔とんぎょ〕
=イルカ

【中孚】辞 “豚魚吉” → ※黄河イルカのことか?

○狐:【既済】初・上爻  ○三狐:【解】2爻 ※三匹の狐 
○小狐〔しょうこ・こぎつね〕:【未済】辞・初爻 “其の尾を濡〔ぬ〕らす”/
上爻 “其の首を濡らす” ※狐は【坎☵】の象



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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大難解 (やさしい) ・ 老子 (RAOTZU) 講   ≪序の言〔ことば〕≫


《 はじめに 》

私の執筆・制作中の「老子」講義用テキスト、
『大難解〔やさしい〕・老子講』 が間もなく完成いたします。

本稿は、私の主宰する“真儒協会”の“定例講習・「老子」”で、私が講じてきたものと
“関西師友協会・篤教講座”において講じた折に制作した教材・資料がベースになっております。

講義用に『老子』の原典・解説書を英文文献も交えて解かり易く書き下ろしており、
又「易学」の視点も盛り込んだ老子の総括的内容となっております。

(手前味噌で恐縮ながら)難解をもって知られる老子の思想を、
咀嚼〔そしゃく:よくよくかみ砕き味わうこと〕してポイントをまとめあげ、
そしてビジュアル化も図った労作です。

私はこの研究学修で、20世紀初頭、平成の現代(日本)の“光”をあてながら
「老子」と“対話”してまいりました。

故〔ふる〕くて新しい「老子」を活学した試みでもあります

今回、その「序の言」を書き終えましたので、紹介掲載しておきたいと思います。
なお、タイトルの“よみ”「大難解 ⇒ やさしい」は、次の意味からつけました。

★はるかに遠・大なるものは反(返)ります。 
── 極(至)大に難解なるものはやさしい〔易しい:simple〕のです。
これが、黄老(老子)思想の真髄です!


────────────────────────────────────────


《 序 の 言 〔ことば〕 》

儒学と老荘(黄老・道家)思想は、東洋思想の二大潮流であり、
その二面性・二属性を形成する
ものです。

国家・社会のレベルでも、個人のレベルでも、
儒学的人間像と老荘的人間像の2面性・2属性があります。

また、そうあらなければなりません。

東洋思想の泰斗〔たいと〕、故・安岡正篤先生も述べられておられますように、
“易”と“老子”は東洋思想・哲学の至れるものであり行きつくものであり、
ある種、憧憬〔あこがれ・しょうけい〕の学びの世界です


◎「
東洋の学問を学んでだんだん深くなって参りますと、
どうしても易と老子を学びたくなる、
と言うよりは学ばぬものがない
と言うのが本当のようであります。
又そういう専門的な問題を別にしても、
人生を自分から考えるようになった人々は、
読めると読めないにかかわらず、
易や老子に憧憬〔しょうけい〕を持つのであります。
(*安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収「老子と現代」 p.88引用 )


私は、浅学菲才〔せんがくひさい〕に加えて、50代の若さにもかかわらず、
善き機会と場を得て「易学」と「老子」を二つながらに講じさせて頂いていることを、
まことに有り難く想っております。

別の言い方をすれば、「易学」と「老子」を二つながらに講じ“楽しみ”ながら、
いまだ命(身心)を健〔すこ〕やかに存〔ながら〕えている天恵に深く感謝し、
“しあわせ”を感じています。

さて、東洋の奇書、『易経』と『老子』は難解をもって知られます。

諸々の教養人の思想・学問的憧憬〔あこがれ・しょうけい〕である
一つの所以〔ゆえん〕でもありましょう。

とりわけ『老子』は、神秘に満ち謎めいていて、
解釈も難解を超えて諸説紛々〔ふんぷん〕意味不明という箇所も多々あります。

西洋の学、それも社会科学系(法学・経済学・商学)の専門教養しか持たなかった私が、
易や老子をライフワークにするに至ったというのは、
まことに“縁尋機妙〔えんじんきみょう〕”なる出合いでありました。

そして、それは自分自身の文化・芸術的DNAがそうさせたのだと想っています。
平たく申せば“ハマリ役”のように“むいていた”ということでしょう。

若き日、不思議に何かに導かれるように易に学び自修し、
(広く儒学=四書五経を学修し)
やがて、自ずから然るべく(「自然」に)“黄老”に至ったのでした。

私が、「老子」を全くの独学で、短期間に(一応)修められたのは、
やはり20余年に亘って独学で易学を原典〔オリジナル〕で修めていた
というベースがあったからだと思います。

そして、「易学」と「老子」を併せて修めてまいりますと、
至れる者同士、その重なる所が実に多くより確かに理解〔わか〕ってまいります。

「老子」への学修は、そんなごく小さな覚知〔かくち/覚り〕を
積み重ねていくようなものであった気がしています。

“易”と“老子”の世界は、私にとって、“壺中(の)天”です

しみじみと思い想うにつけても、
壮年期、窮することなく円通自在な易学に出合っていなかったら
私の後半生もどうなっていたかわからない気がします。

また、黄老の学がなければ、晩年が心平穏・豊かなものとはならず
惨めなものとなったに違いないと思います。

≪ 学ぶ → 楽しむ → 遊ぶ ≫ と学修は至って行きます。

黄老の世界は、私にとって、現実の中にあって
心中は隠者の世界に遊ぶような気がします。

ところで、E.H.カー は「歴史とは、現在と過去との対話である」と言い、
孔子は「温故而知新」(故〔ふる/古〕きを温〔あたた/たず・ねて〕めて
新しきを知れば、以て師となるべし)の名言を残しております。

そもそも、優れた古典を修める(修めねばならない)意味は
この言〔ことば〕の中に在ります。

現代を善くし未来を展望するには、優れた古典の思想・哲学が必要です。

殊に、現代は、価値観が錯綜〔さくそう〕し課題が多岐にわたっています。

大衆民主主義社会の弊害が蔓延〔まんえん〕し、
人間の「本〔もと〕」が忘れられ乱れてまいりますと
古典に救いを求めるしかありません。

指導者(リーダー)的立場にある者はなおさらのことです。

言葉を変えれば、古典を“活学”するということです。

本稿では、“帛書老子”・“楚簡(竹簡)老子”の新発見による研究成果も踏まえながら、
20世紀初頭、平成の現代(日本)の“光”をあてながら、
「老子」と“対話”してまいりました。

故〔ふる〕くて新しい「老子」を活学してまいりました
── 具体的には、“コギト(我想う)”や“トピックス〔時事〕”に述べてある試みがそれです。

老子の“現実的平和主義”に想う≫ /
≪ユートピア=理想郷(社会・国家)について≫ /
水【坎】 を楽しむ≫ などは、
かねてから文にまとめておきたかったテーマです。

本稿・「老子」の講義冊子は、私の主宰する真儒協会の定例講習や
特別講義(3年余 約40回ほど)で講じてまいりましたものと、
安岡正篤氏にちなむ関西師友協会・篤教講座(1年弱 連続4回)において
講じた折に制作した教材・資料がベースになっております。

その折々で一所懸命に、深慮取り組んだ内容です。

そのコツコツと【畜】〔たくわ〕えた精華を、
講義冊子(テキスト)として形にすることができますことを嬉しく想っております。

易卦に【水沢節】があります。
“竹の節〔ふし〕”・“節目〔ふしめ〕”の意です。
“節から(新たに)芽が出る”とも申します。

今回の『大難解〔やさしい〕老子 講』の編纂を、
私の易学と老子研究の大きな“節目”としたいと考えています。

また、晩節の始まりとしたいと考えています。

この、ささやかな労作は、殆〔ほとん〕ど顧みられることなく
著者の無名と共に埋もれてしまうでしょう。

それは、「老子」に学ぶ者にとって相応〔ふさわ〕しいことかも知れません。

それでも、ごく限られた数にせよ、活眼の人々や志徳ある若者に役立ち、
その精神の糧〔かて〕となることを期待しています。

それによって、“一粒の麦、地に落ちて死なずです。

微〔かす〕かな一本の“ろうそくの灯〔ともしび〕”にせよ、
“受け継がれ”、やがて時の宜〔よろ〕しきを得て、
燎原〔りょうげん〕の火の如く燃え盛り人々の心を照らし、
ユートピア社会を築く原動力となることがあるやもしれません ・・・ 。


高根 秀人年  (‘13/ H.25 春 )


( 以上 )

水【坎】 に想う  (その5)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

水(川)は、自然への視点です。
が、ここで人間へ視点を移してみましょう。

そうすると、[ 坎=心・思想 → 徳 ] と捉えることができます。

◆「 心 」 : 【☵】 の(2)陰を物質、1陽を精神(中国流にいえば “気”)と捉えます。
身体に内在する精神・こころです。

その精神・こころは、陰の中を一本貫いています。
“一貫”するものですね。(cf.「孔子一貫の道」) 

真直のイメージは、「直」を表わしているといえます。
「直」の字を分解再構成すると、「徳」の字です。

芯〔しん〕となっているものですから“孚〔まこと/=誠〕”ともいえます。 注3) 
陰の苦労に耐えている忍耐の姿でもあります。

「筋〔すじ〕が(一本)とおっている(人)」・
「筋がね入り(の人)」などという言葉がありますが、
1陽は脊椎動物の背骨と同じく、精神・心に一本通る“徳”であり、
(永遠に)“受け継がれるもの”(cf.DNA、ミーム〔文化的遺伝子〕)である
と、
私は想います。


◆「思想」 : 思想は、身体の中にあって外部からは見えません。
(2)陰の体の中に貫くものが思想です。

また、心の動き(陽)から思想です。 動的概念です。
思想は、最も速い〔fastest〕ものです。
ひらめき・霊感〔inspiration〕です。
 注4)


私が、思い想いますに、黄老思想にしろ儒学(易学)思想にしろ、
万事すべからく、中庸・中徳が肝腎です。

“陰陽のバランス=中庸・中徳” 注5)  を思うと、
八卦(小成卦)で【坎☵】が最もバランスが取れているのではないかと思います。

中正の陽が1と陰が2ですから。
他の【☲】・【☴】は過陽、【☳】・【☶】は過陰です。


また、【☵】は“外柔内剛”、【☲】は“外剛内柔”の象です。

後者の【☲】の人は、いつの世も多いものですし、
一般に社会・メディアに評価され易いものです。

“ちやほやされる”、“スター”の【☲】です。
“中身のないタマゴ”(陰は虚ろ・偽り)でもあります。


古今東西、一般世間は人間の外見・外面〔そとみ・そとずら〕で評価してしまいがちです。
殊に女性に対しては、容貌・容姿にのみ捉われがちです。
炯眼〔けいがん〕・心眼でよく観なければなりません。

人間は、畢竟〔ひっきょう〕大切なものは、中身・情です。
人徳というものです。
それが、【坎☵】の象であると、私は想います。


付言すれば、【水・火】内・外の完全をもって
理想的人間として【水火既成:☵☲】(完成・パーフェクトの意)の卦があるのではないか、
と思います。

また、「五行〔ごぎょう〕思想」の「相生相剋〔そうしょうそうこく〕論」で、
“水剋火”(水で火を消す)と水が上位で
“火剋水”(火で水を蒸発させる)とはなっていない理由〔わけ〕が解ったような気がしています。


注3) 
余事ながら、鉛筆(今時ならボールペン)・万年筆などの筆記具の象(小成卦・八卦)は何か? 
と考えてみました。
一本通る芯〔しん〕(万年筆・毛筆は水分)で【坎☵】でしょう。


注4) 
人象をみますと。2陰(悪・不明・大衆)を貫くから、刑罰・法律。
2陰の体の中に隠れた1陽で、賢者・隠者。
思想から思想家・哲学者・思慮深い人・情の人沈黙の人・苦労人。
ひらめき/霊感〔inspiration〕から易学者・易者。 といった象が出てくるのでしょう。


注5) 
陰陽(男女)のバランス(=中庸)は、私見によれば、
ほんの少々の 陰(女性)の優位を以て中庸・中徳と考えます。
子どもを産み育てる、しなやかな強さを持っているからです。
その結果的事例として、出生時は男子の数がやや多い(成人ではほぼ同じ)、
平均寿命が女性のほうが高いことなどが挙げられましょう。


では、易経64卦(大成卦)で具体的に例示してみましょう。

まず、【坎】の重卦、【坎為水 ☵☵】(習坎:重なることを習といいます)は、
水また水です。

険難重なる象であり、また2爻と5爻が、各々2陰に落ち込んでいる象です。

が、しかし、この象は内に信実あり。
陰の肉体の中に、中庸の徳を持った陽の精神がしっかりと宿っている象でもあります。
2爻と5爻とは【坎為水】の主爻に他なりません。

次に、【水天需 ☵☰】。 需は“待つ”の卦です。
求め待つ、やしない待つ、です。

【乾☰】は、天=精神・無形のものです。

『序卦伝』に、「需とは飲食の道なり。」とあります。
体に必要な食物ばかりでなく、精神の糧〔かて〕の意です。

── 心を養うもの(文化 : culture =心をたがやすものの意)です。

“やしない待つ”とは、徳を函養〔かんよう:≒育成・蓄積〕しながら待つことにほかなりません。
“果報〔かほう〕は練って待て”ですね。

卦辞〔かじ/けじ〕には、「需は孚〔まこと〕あり」とあります。
5爻の陽位に陽爻が位し、中正の象です。

坤の身体に 1陽の気が貫いているのが坎ですから、
心の象とし「孚」(=誠)とするのです。

全卦からみて坎の中爻は、需卦の主爻であり「孚」とみます。

なお、文字でいいますと、“サンズイ”をつけると「濡〔うるお〕す」。
人格(品格)と頭脳をうるおすということでしょう。

“ニンベン”がつくと「儒」。 儒学・儒者の「儒」です。
(cf.真儒=真の儒者・“真儒協会”)

 【☵ 水】 = 水(川)・水の流れ & 心・思想の象 


《 孔子(/孟子) と 「水」 》

儒学の開祖・孔子は、『論語』で 
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」(雍也第6−23) / 
「子、 川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず
。」
(子罕第9−17) と述べています。

孔子を“私淑〔ししゅく〕”した孟子は、孔子の水礼賛を次のように解しています・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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水【坎】 に想う  (その4)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 易(象) と 水 》

宇宙・世界のシンボル化された縮図としての八卦の象意〔しょうい〕を想う時、
殊に 水【坎☵/大成卦・重卦=坎為水 ☵☵】 と
そのペア(陰陽逆の関係)としての 火【離☲/大成卦・重卦=離為火 ☲☲】 には、
先哲の深い叡智〔えいち〕と感性を想います。

「易」は、“変化”の意であり“変化の学”です。
その変化するものの代表的象〔しょう/かたち〕が水です。

科学(理科)的にも、物質の三態としての“水の三態”
(液体=水/固体=氷/気体=水蒸気 cf.四態・・・プラズマ )は、
身近な事例です。

横山大観の名作に、壮大な水の循環を描いた「生々流転〔せいせいるてん〕」があります。

水の滴〔しずく〕は川となり、大河となってやがて大海へ注ぎます。

水は変じて、霧〔きり〕・靄〔もや〕 ・・・ 雲となり、
雲は再び変じて雨となって地上に降り注ぎます。

氷(雹〔ひょう〕)や雪に変じることもあります。

地上に注がれたその水は再び流れ集まって川となります。

偉大にして悠游〔ゆうゆう〕たる循環、陰陽の変転変態です。


さて、太古からの易象をみてみますと。【坤☷】は、フラットな大地です。
“天”(=全陽)に対する“地”ですから全陰です。

そのまん中(2本目)に陽があって、
流れる水=川 を象〔かたど〕ったものが 【坎☵】・水です。

2陰の不動・静なる大地に対して、1陽を動的なものとして捉えています。

流れるものが【坎☵】・水であり、止まるものが【艮☶】・山 です。

また、【坎】の低き(陥穽〔かんせい〕)の意をもって捉えてもいます。


ところで、私は易学的に柔軟な発想、並行思考を紹介する意味で、
次のように動機づけて講じることにしています。

【坎】を表わしている算木3本☵をヨコ(=90°回転)にして、
「なんの文字にみえますか?」と問いかけています。

イメージから「水」の文字に見えませんか? 

タテ3本から「川」の文字にみえませんか?! 

そして、古代においては、「水」は同時に「川」も意味しましたと解説を加えます。

── ちなみに、【火=離☲】を講じる場合は、【坎☵】を裏返して(陰陽を逆転して)示し、
「天(=空)にある(赤い)太陽に見えませんか?
(ただし、天の色は中国では黒なので黒い“陽”は青・水色でイメージして下さい)」
と問いかけます。

【離為火】を講じる場合は、小成卦【離☲】【離☲】(上卦と下卦)をヨコに並べ【☲☲】
「両目、眼鏡〔メガネ〕(=明知・よく見える・明るいの象意)に見えませんか?」
と語りかけて、易学的思考・発想のとっかかり(アプローチ)としています。
それはさておき。


【坤/地 ☷】が静的・モノ・固物であったのに対して、
【乾/天 ☰】“陽”は“動的”なものであると同時に“精”なるものでもあります。

精神・精髄などの“精”で、本体・エキスの意です。

人体では、(脊椎動物の)骨であり、頭脳であり、心臓です。

「私は、“水”の人ですので ・・・」 と、よく少しばかりの得意を持って話を始めます。

それは、(水=坎の人が)一白水性であり、移動性の星であり、知的であり、
(お茶漬けのようにサラっとした性格であり、)
法律(家)・教師の職を表わしたりする、
ということの話し始めとして用いています。

が、しかし、真意はそれらのみではなく、“水が徳である”ということ、
水の人は“徳”があるということが言いたかったのです。

このことを、以下、易象で語ってみましょう。


水(川)は、自然への視点です。
が、ここで人間へ視点を移してみましょう。

そうすると・・・


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水【坎】 に想う  (その1)

水【坎】 に想う              

─── 水の思い出/水【坎】と火【離】/易(象)と水/
  孔子(/孟子)と「水」・「知者楽水」/老子と水・「上善若水」/
  水の「不争」・「謙下」/孫子と「水」・「兵形象水」/日本文化の「水」/
  水=川の流れ & 心・思想の象/鴨長明・『方丈記』/
  レオナルド・ダ・ビンチと「水」 ───


【サマリー】〔summary: 要約・概括〕 ; ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古代中国語の“水”は、“水”以外に“川”という意味もあります。
変化を水・川の流れに同一視するものは、儒学・黄老に共通しています。

否、それは古今東西を問わず、賢人に普遍〔ふへん〕するところとも言えます。


西洋。
古代ギリシアにおいては、(“7賢人”の一人)西洋哲学の始祖・父とされる タレスが 
「万物の根源は水である」 と言いました。

近代の幕開けルネサンスにおいて、“3大天才”の一人レオナルド・ダ・ビンチは、
水(流水)の研究に没頭し、水の流れで美と人生を哲学いたしております。

例えば。
「水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である。」 / 
「君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、
来るべき水の最初のものである。現在という時もまたかくのごとし。」
と。


東洋。
古代中国において、儒学の開祖・孔子は、『論語』で 
知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」 (雍也第6−23) / 
「子、川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」
(子罕第9−17) と言っています。

老荘(道家)の開祖・老子も水の礼讃者で、“不争”・“謙譲”を“水”に象〔かたど〕り
その政治・思想の要〔かなめ〕といたしました。

例えば。
「上善は水の若〔ごと〕し」「水は善く万物を利して争わず」 (『老子』・第8章) / 
「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し」 (『老子』・第78章) etc. ─── 

孔子は水を楽しみ
孟子(や朱子)は川の流れに智の絶えざる・尽きざるものを観、
老子は水の柔弱性と強さをその思想にとりました。

また、兵家の開祖として知られる孫子は、
「兵の形は水に象〔かたど〕る」 (『孫子』・軍争偏)と、
理想的戦闘態勢が、水のように形を持たず、
変化に対して流動的・柔軟に変化して対応するものであることを述べています。


日本においても、日本人に好まれる“美”というものは、
“水の流れ”や“時の流れ”といった 
変化するもの・流れるもの・循環するもの、の美です。

“時間”という目に見えない、形のないものです。

例えば、鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』 の冒頭、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。・・・ 」 にみられるように、
そこでは、 “無常観” (=変化)がながれる水(河)の象〔しょう/かたち〕となって
表わされています。


畢竟〔ひっきょう〕、東洋思想において賢人たちがその思想の徳象とした“水”は、
“水”を(有形・固定したモノとしてではなく)
変化”と“時間”(無形・移りゆくもの)で捉えるものです。

すなわち、水の流れ = 川(の流れ) として捉えるものであったといえましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


《 はじめに ── “水”の思い出 》

疲れた頭脳と身体を癒す入浴の一時〔ひととき〕。
人生の至福を感じます。

つくづく人間は“水”、私は自分が“水”の人間だナァと感じます。

 ── “水”にまつわる思い出を少々。


(たまたま、今年の干支〔えと・かんし〕は癸・巳〔みずのと・み:→ ミズとヘビ〕ですが)
昔日〔むかし〕、傷つけられた(死んだと思われた)大蛇〔だいじゃ〕を川に捨てると、
生気を取り戻し元気に流れに逆らって水面〔みなも〕を泳ぎだしました。

蛇は水の化身〔けしん〕、水には霊力があるのだと子ども心にも感じ入ったものです。

当時は、田植え前の水を張った水田にも“水蛇〔みずへび〕”が、
殊に夕暮れ時には、くねり滑るようにたくさん泳いでいたものです。

“水”も“蛇”も随分と身近なものでした。


そういえば、易の創始者とされている伝説の聖人“伏犧〔ふつぎ〕”は、
半人半蛇〔だ〕”と伝えられています。

神霊がずっと身近だった太古の時代の話です。

要するに、蛇つかいのシャーマンでしょう。

原始の農耕社会においては、 (雨)水=蛇 を司〔つかさど〕る人が
神秘的・カリスマ的存在だったのでしょう。

それはともかく。


壮年の頃、
「水を飲めば水の味がする」 という言葉を聞いたことがあります。

大病で入院して、脱水症状がでるほどの厳しい“摂水制限”を受けていた時、
何とも水が旨〔うま〕いと感じました。

殊に、(水の変化した)氷・氷入り水(ウォーターの水割り)は、
まさに“甘露甘露〔かんろかんろ〕”でした。

今では、かかる非常の体調の時でなくても、水の味が解かる人間になりました。

水の味は、味の至れるものです。

無の味です。(→ “無味”は、蒸留水=純粋な水 の味とは異なるものです。)


『老子』に 恬淡〔てんたん〕(『老子』・第31章)の語もあります。
心安らか、静かであっさりして執着しないこと、淡白・無欲なことです。

『荘子』の中にも、「虚静〔きょせい〕恬淡」・「恬淡無為」の語があります。

また、 「君子の交わりは淡きこと水の如し、
小人の交わりは甘きこと醴〔れい/あまざけ〕の如し。」
とあります。

淡交〔たんこう〕/水交」です。

要するに、 「上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水の若し〕」 (『老子』・第8章)で、
人間の交わりも含めて万事水の如くすべしです。


さて私は、“水”について想う時さまざまなものが想い起こされます。

私自身、本性〔ほんせい〕“水”の人間です
(ex.一白水性、“偏印”タイプ、知の人 ・・・)。

それもあって、水【坎☵】についての想いは、
私が長年文章でまとめておきたかったテーマの一つです。

今回、“水を楽しむ”つもりで、
“賢人と水”(「知者は水を楽しむ」)といった内容を中心テーマとしながら、
“水”についてそこはかとなく書き綴〔つづ〕ってまいりたいと思います。


《 水【坎】 と 火【離☲】 》

私は自分が、太陽の無限の“陽〔よう〕”の恵みと
水の本源的な“陰〔いん〕”の恵みによって生かされているのだと実感しています。


無論このことは、人間に限らず、生きとし生けるもの天地万物全てについて言えることです・・・


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