儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

時中

謹賀壬辰年  (その3)

※この記事は、謹賀壬辰年 (その2) の続きです。

《 干支・九性の易学的考察/ 【水山蹇】・【地雷復】卦・「兌・沢」 》

 次に(やや専門的になりますが)、今年の干支・九性を
易の64卦になおして(翻訳して)解釈・検討してみたいと思います。

 昨年の干支、辛・卯は【沢風大過】卦(‘11.2月“儒灯”参照のこと) 
http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/51184930.html

今年の「壬・辰」は、水山蹇】卦となります。

(以下、高根 「『易経』64卦奥義・要説版」/
第14・15回〔上経〕 第18・19回〔下経〕
定例講習:「易経」64卦 No.24、39 参照のこと)

◆第14回〔上経〕
http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/50753370.html 

◆第15回〔上経〕
http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/50754546.html

◆第18回〔下経〕
http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/50692222.html

◆第19回〔下経〕
http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/50699504.html


○「蹇は、西南に利ろし。東北に利ろしからず
 大人〔たいじん〕を見るに利ろし。貞にして吉。」
  (【蹇】卦辞)

【水山蹇】の「蹇」は、寒さで足が凍えて動けなくなっていることを
象〔かた〕どっている字です。

足止めストップ、3大難卦の一つです。

「西南に利ろし。東北に利ろしからず。」と卦辞にありますのは、
東日本大震災と福島第一原発事故に対する復興の困難さ、
関西(経済)充実の重要さを暗示しているようで“機妙”です。

ただ、“契機(かなめ)”である頼り託すべき大人〔たいじん〕
(リーダー・エリート)がいるかどうかが解決のカギということでしょう。


○「王臣蹇蹇たり。躬〔み〕の故〔こと〕に匪〔あら〕ず。」
  (【蹇】2爻)

そして、“蹇蹇匪躬〔けんけんひきゅう〕”
(みのことにあらず : 自分の名誉や富貴のためではないの意)
とありますように、為政者・指導者は天下国家のために
身を削って光を灯〔とも〕さねばなりません。

君子以て身に反〔かえ〕りて徳を修む。」(大象伝)とあるように、
ただわが身に反〔かえ〕って 省みて、
ますます徳を修めることで解決をはかるのです。


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≪参考資料:高根 「『易経』64卦奥義・要説版」 pp.36-37 引用≫

39. 蹇 【水山けん】  は、足の不自由・行き悩む。

    3(4)難卦、包卦(坤中に離)

 ● 寒さに足が凍えて進めない、足止めストップ、
   「西南に利ろし」(卦辞)、「難〔むずかし〕きなり」(序卦伝)

 cf. 『蹇蹇録〔けんけんろく〕』 (陸奥宗光〔むつむねみつ〕) ── 
     “蹇蹇匪躬〔けんけんひきゅう〕”
     (みのことにあらず : 自分の名誉や富貴のためではないの意)。
      「四面楚歌」( 『史記』 ・“時利あらずして騅〔すい〕ゆかず” 〕。
     “艱難〔かんなん〕、汝を玉にす

 ■ 自然界では、手前に艮の山、向こうに水の険難、
   2・3・4爻も坎を形づくり険難が重なっている形。
   前途の坎険に対して、艮の足止めストップするのがよい。
 
   「険(上卦の坎)を見て能く止まる(下卦の艮山)、知なるかな。」
   (彖伝〔たんでん〕) 
   また、坎を冬とし 艮を山とするので、冬山で行き悩むの象。

 ○ 大象伝 ;
   「山上に水あるは蹇なり。君子以て身に反〔かえ〕りて徳を修む。」
   (艮山の困難の上に 更に坎水で、上下共に行き悩む。
   このような時に、君子は、ただわが身に反〔かえ〕って 省みて、
   ますます徳を修めることで解決をはかるのです。)

 cf.「行なひて得ざるものあれば、皆反りこれを己にもとむ」
    (『孟子』・離婁上)
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 次に、今年の「壬・辰」/【水山蹇】卦の先天卦をみてみますと、
地雷復】卦となります。

【地雷復】卦は、かえる・くり返すの意です。

一陽来復(福)」の出典で、冬からやっと春の兆しが見えてきたということです。


 西洋史でいえば、「復」=ルネサンス (仏・英) Renaissance (伊)リナシメント 
/ 再生・文芸復興の意です。

中世“暗黒時代”から復活、近代への幕開けでした。

日本史でいえば、「復」=「明治の維新」。  ※注1) 
幕府の引退、近代日本の世界史上への躍進でした。


 【復】卦を象〔しょう〕で解釈してまとめてみますと次のとうりです。

2)に要注目です。

■ 下卦 震雷、上卦 坤地。(「剥」の綜卦)
 1)“一陽来復”:12消長卦、1陽5陰卦。
   「剥」の1陽が剥がれ尽くされ、坤地となった大地に1陽が戻ってきた象。
 2)リーダー〔指導者〕のいない民衆(坤地)の中に、
   1陽のリーダー・君子が戻ってきた。復活、新しい局面が拓けていく。
 3)“地を掘って宝を得るの象”(白蛾) ・・・地は外卦坤、
   宝は内卦震の象。掘るは震の動から。


※注1)
「維新」といえば、橋下大阪市長〔前・大阪府知事〕の率いる
“大阪維新の会”が、昨年の選挙で大躍進。
猪突日の出の勢いです。
国政への躍進を着々と進めています。
それはそれでよいことですが、「維新」ではないでしょう。
それは【沢火革】卦、革命・破壊です。
「維新」は『大学』にある言葉で、日新・漸進的で、新旧が調和しています。
幕末〜明治の改新が、“明治革命”と言われず
“明治維新”と称されている所以〔ゆえん〕をよく考えたいものです。
今、「維新」の語が安っぽく利用され、大衆は扇動されています。
また、時代のヒーローとなっている橋下氏が、
「リーダー〔指導者〕のいない民衆(坤地)の中に戻ってきた、
1陽のリーダー・君子」であるかどうかも、疑問です。


 さて、更に、今年の九性・「六赤金性」を易学の
八卦〔はっか/はっけ =小成卦〕でいうと、「兌〔だ〕」です。

64卦(=大成卦/重卦)では、【兌為沢〔だいたく〕】が相当します。

「兌」の象意〔しょうい〕を考えながら、
具体的活学の一例を政界の動きと現状に求めてみましょう。

昨年の九性・「七赤金性」と同一ですので、
昨年の年頭ご挨拶を再掲いたしておきます。


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1)兌は、社交・交流。
  
  まず、国内的に中央政府のいい加減さ、中央と地方の正常な交流が課題です。
  
  大阪都構想・中部都の構想など、“わけのわからぬもの”が
  “ひょいひょい”と出てきております。
  地方の反乱、独自勝手の動きがますます活発になってまいります。

  外交に関しても、中・露・朝・米に対する“宥和政策”の限度を超えた
  軟弱外交・懺悔外交のツケは目に余るものとなってまいりました。
  日本の内外の社交・交流状況は、末期的状況です。

  そして、それと認識出来ない国民が実に多いことがその重篤さを示しています。
  ── 為政者(指導者/リーダー)に“時中”(時じく中す)が全く欠けている、
  そんな為政者を市民・国民が選ぶが故だと考えます。

2)兌沢は、沢〔さわ〕・小川ですので、
  水のように潤し、水の流れのように軽やかに如才なく課題を処理したいもの

  中央政界では、政界再編成への動きも活発化するでしょう。
  国会は“ねじれ”状態にあり、
  与党・民主党は野党との対立の調整は不可欠です。

  菅VS小沢の対立もあり、そもそも民主党内部の調整が出来ていません。

3)兌は口=演説(弁舌)=講習。
  
  4月には統一地方選挙です。
  菅内閣、“有言実行”を唱え“支持率 1%になってもやる!”との言。
  (何を言い、何をやろうというのでしょうか?) 
  “口先だけ”の総理・内閣・政党 ・・・すぐに退陣やむなしでしょう。

  加えて、鳩山・元総理の “舌禍〔ぜっか〕”もいまだに相変わらず報じられています。
  今時の政治家は、大臣・総理でも 『孝経』一つ学修していないのではないでしょか?

  “有言実行”・“口先だけ”・“舌禍”の語で、久々に思い起こしました。

  『孝経』に、「択言択行」が説かれています。 
  卿大夫章第4 : 「口に択言なく、身に択行無し
            言〔こと〕 天下に満ちて口過なく、
            行い 天下に満ちて怨悪無し。」

  《口から発する(公の)言葉は、(全部が善き言で)
  ピック・アップ〔拾い出す/よりわける〕すべきいい加減な悪言・雑言がなく、
  自身の行いも、ピック・アップするような不徳・不道なる
  自分勝手な行いをしないように。
  (そうすれば、人の長たる者や大臣が、)言葉をどれだけ世の中全体に広く使おうとも、
  口過=舌禍 :口舌による過失〕 事件が起きることもないし、
  何をどれだけ世の中全体に広く行おうとも、
  人々(市民・国民)から怨み憎まれることはないのです。》

  また、『易経』・「兌為沢」では、 

  大象伝 : 「麗沢〔りたく :麗は附くの意〕は兌なり。君子以て朋友講習す。」 

  《沢が2つ並んでいるのが兌の卦です。
  お互い和悦の心を持って、潤し益し合うのです。
  このように、君子は、朋友とお互いに講習し〔勉学にいそしみ〕
  潤沢し合って向上し合うように心がけねばなりません。》

4)兌=金(貨幣)=経済、西方金運です。

  わが国経済界は、不況脱出に向けて変則的・変動的対応が必要です。
  国際的にもグローバル化(グローバリズム:米を中心とする世界の経済的交流)が
  進展してくるでしょう。

5)兌=笑い・悦びの意味ですが、見通しは暗いようです。

  本来【兌為沢】は、“笑う少女”の象ですが、多くの男性は苦笑いのようです。
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その後(昨年)の政界の変動を付言しておきますと。
平成23年(2011)9月、野田佳彦内閣が成立しました。

民主党政権3人目の総理です。
“松下政経塾”の一期生です。

“ヤジ”と罵声の中、所信表明演説(9.13)で、
“和と中庸〔ちゅうよう〕の政治”(『中庸』)を掲げ、
(『大学』の8条目)“ 正心 誠意”を標榜〔ひょうぼう〕しました。

これは、かつて安倍晋三総理が “(人徳・仁徳の)美しい国、日本” と
日本のビジョンを示したことと同様に立派なことだと思います。

ただ如何〔いかん〕せん、他の議員・マスメディア・
国民知識人の浅薄さをや ・・・ 。

野田総理はすぐに訪米して、オバマ大統領と会談(9.20)。
“I can do business with him.”
(彼となら仕事ができそうだ)と言われました。

前の2人の総理(菅・鳩山)よりはまだマシ、ということでしょうか。

年明けて、現在は消費税UP! に向けてひた走りです。

(“どじょう〔泥鰌〕”と“(人)龍”ではイメージが違いすぎて少々困惑いたしますが、)
この野田総理は、「リーダー〔指導者〕のいない民衆(坤地)の中に、
1陽のリーダー・君子が戻ってきた。復活、新しい局面が拓けていく。」という、
“(人)龍”になれますことでしょうか?


《 辰 → 龍(竜) 》

「辰年」は、一般に「龍〔たつ〕年」と言われ、
動物の“龍(竜)〔りゅう/*漢学者はリョウと発音します〕”に擬〔なぞら〕えられます。

ただし、龍は他の十二支の動物とは異なり想像上の霊獣です。

しかも、はるか古〔いにしえ〕より洋の東西を問わず存在し、
人々に広く知られています・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。
   (・・・「登龍門」・「逆鱗」・「龍と雲」 ほか)



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器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その6)

※この記事は、器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その5) の続きです。



4)  時間の大切さ  :

 「時間〔とき〕は貨幣〔かね〕なり :(Time is money.)」 という観念を生み出したのは、
当時のイギリスやアメリカの中産階級の人々(デフォーやフランクリン)です。

ロビンソン=クルーソーは、日時計を作り、漂着の日付を基準に年月日を記録します。


 面白いことには、一年目に漂流生活でのバランスシート(損益計算書)を作ります。

島での境遇を考え想って、“悪い点”と“良い点”を“貸方”と“借方”に分けて記し、
そして総合的に差引勘定して十分に良い(利益が出ている)と判断して、
神に感謝しているのです。

このことを、M.ウェーバーが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、
興味深く指摘しています。 ※補注1)

※ 補注1) 
  Weber,Max. 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 1904−05 :
  ウェーバーは、プロテスタンティズムの職業倫理(召命/Beruf, Calling)が、
  資本主義(産業資本)形成・発達の推進力となったと主張しました。
  新しい時代には、それに見合った新しいモラル〔倫理・道徳〕が生まれてきます。
  中世カトリック教会の清貧を中心としたモラルは、
  宗教改革によって、利潤獲得・富の蓄積が神の栄光を表わすものであるという、
  プロテスタンティズムの職業倫理へと変わってゆきます。
  そして更に、理性と自由を基調とする近代市民社会の倫理が形成されてゆくのです。


 一方、東洋の儒学(=易経)の根本的考え方に“中〔ちゅう:中論〕”があります。
“中”はものを産み出すことです(産霊:むすび)。

そして、“時”を重視します。
すなわち、時中〔じちゅう〕” 《時に応じて中す》 ということが大切です。


 例えば、儒学(孔孟)が重んじたものに、服喪〔ふくも:喪に服す〕があります。 ※補注2) 
親が亡くなった場合、3年の喪です。

この期間は、乳児(赤ちゃん)の時、
  親に抱かれ背負われ育ててもらった期間が論拠となっています。 ※補注3)

これに対して、子貢と同様「言語」をもって“孔門の十哲(四科十哲)”に挙げられている
宰我〔さいが/宰予〕と孔子との対立問答が有名です。


 それは、【1】 リーダー〔指導者〕が、その重責の仕事・役割を
3年もの間、休止していては(社会的に)マズいから、
1年で良いのではないかという主張です。 
【2】 (私感ですが、しかも“死んでしまった者”に対してのことです。) 


 さて、孔子も応答・反論できず、問題をすりかえて叱責〔しっせき〕しています。
ここに、(孔孟)儒学の限界・課題の一つがあると考えます。

子貢と宰我とは、当時の “孔門の新人類”=“経済的リーダー〔指導者〕”
であったといえるかも知れません。

※ 補注2) 
  現代日本では、特別な場合を除いて、喪に服する行為は
  “一年間 年賀のやり取りを控える“といった程度ではないかと思います。
  ところで、「黙祷〔もくとう〕(をささげる)」という慣習がよく行われます。
  専ら集団で、30秒から1分ほど無言のまま心の中で冥福を祈るものです。
  今回の、東日本大震災についても 様々な団体・場面でおこなわれていますね。
  (開設5周年・“真儒の集い”でも式典の最初に黙祷を捧げました。)
  ルーツは存じませんが、現代生活にマッチしていて良い慣習だと思います。

※ 補注3) 
  「三つ子の魂、百まで。」 ―― “三つ子”は何歳児? 
  現代発達心理学で、性格はほぼ何歳までに決まるとされていますか? 
  → (    ) 歳
  「三つ子」は、数え年による数え方なので、今の満年齢では 2歳児にあたります。
  発達心理学や教育心理学では、人間の性格はほぼ 2歳までに決まるとされています。
  洋の東西で、経験にともなう智恵と科学的学説が、ピタリと一致するわけです。

 

※ 【 宰我 と 子貢 】 
        
 宰予〔さいよ:BC.552−BC.458〕、字は子我、通称宰我。
言語には宰我・子貢」とあり、子貢と共に“四科十哲”の一人で、
弁舌をもって知られています。

孔子との年齢差29歳。
子貢が孔子と年齢差31歳ですから、宰予と子貢はほぼ同年齢ということです。


 『論語』の中に表われている宰予は、子貢とは対照的に悪い面ばかりが描かれ
孔子と対立して(叱責を受けて)います。

宰予は、孔門の賢く真面目な優等生的多くの弟子の中にあって、
“異端児”・“劣等生”・“不肖の弟子”…といった印象を与えています。

が、しかし、“十哲”にあげられ、孔子との対立が敢えて記されていることからも
(逆に)端倪〔たんげい〕すべからぬ才人・器量人であったと考えられます。

孔子も、“ソリ”・“ウマ”はあわなくも、一目おいていたのではないでしょうか。


○ 「宰我問う、三年の喪は期已〔すで〕に久し。君子三年礼を為さずんば、礼必ず壊〔やぶ〕れん。
  三年楽を為さずんば、楽必ず崩〔くず〕れん。旧穀既に没〔つ〕きて新穀既に升〔みの〕る。
  燧〔すい〕を鑽〔き〕りて火を改む。期にして已〔や〕むべし。|
  子曰く、夫〔か〕の稲を食らい、夫の錦〔にしき〕を衣〔き〕る。
  女〔なんじ〕において安きか。曰く、安し。 
  女安くば則ち之を為せ。夫〔そ〕れ君子の喪に居る、旨〔うま〕きを食らへども甘からず。
  楽を聞けども楽しまず。居所やすからず、故に為さざるなり。今 女安くば則ち之を為せ。|
  宰我出ず。子曰く、予の不仁なるや、
  ※ 子〔こ〕生まれて三年、然る後に父母の懐〔ふところ〕を免る。
  夫れ三年の喪は、天下の通喪〔つうそう〕なり。予や其の父母に三年の愛有るか。」  
   (陽貨第17)


※ 【服喪〔ふくも〕の期間 についての孟子の考え方】
 
○ 斉の宣王、喪を短くせんと欲す。
  公孫丑曰く、「朞〔き:一年〕の喪を為すは、猶已〔や〕むに愈〔まさ〕れるか」 と。 
  孟子曰く、「是れ猶、或る人其の兄の臂〔ひじ〕をネジ〔ねじ/=捩〕るに、
  子 之に謂いて、姑〔しばら〕く徐徐にせよと爾云〔しかい〕うがごとし。
  亦〔また/ただ =唯〕之に孝弟を教うるのみ」と。 | 
  王子に其の母死する者有り。其の傅〔ふ/もりやく〕は、之が為に数月の喪を請う。
  公孫丑曰く、「此〔かく〕の若〔ごと〕き者は何如〔いかん〕ぞや」と。
  曰く、「是れ之を終えんと欲するも、得可〔う・べ〕からざるなり。
  一日を加うと雖〔いへど〕も、已むに愈れり。
  夫〔か〕の之を禁ずる莫〔な〕くして為さざる者を謂うなり」 と。
   (『孟子』・尽心章句上)

《 大意 》
 斉の宣王は、(父母に対する3年の喪は長過ぎるので、1年に)喪を短くしたいと思いました。
公孫丑は、(宣王に頼まれて、孟子に)尋ねました。
「(3年の喪を)1年の喪にするのは、まったく止めるよりは勝〔まさ〕っているのではありませんか。」 

孟子がおっしゃるには、「これは、例えば、ある人が兄の腕をねじ上げているとして、
お前がこの者に向かって、まあまあ徐徐にねじ上げるのがよかろうと言うようなものだ。
(そうではなく、ねじ上げるのが悪いと知ったら)孝弟の道を教得て、
そのようなことは止めさせればよいのだ。
(1年でもやらないよりマシなどと言ってはいかん)」 と。

 (ところで、宣王の妾腹の)王子でその母(側室)の亡くなったものがいました。
その王子の守役〔もりやく〕が、(王子の心中を察して)
王子のために数月の喪につくことを王に請いました。
この事について、公孫丑は、「こういうのはどうでしょうか」と尋ねました。 
孟子がおっしゃるには、「こういう場合は、3年の喪を終えたいと思っても、
(妾腹の子なので)できないのだ。
仮に1日多く行うだけでも、止めて行わないより勝っているのだ。
前に言ったのは、(3年の喪を)誰もさし止める者はないのに、
自ら行わない者のことを言ったのだ」 と。 

 

【 参考 】  ミヒャエル・エンデの 『モモ』 ・・・ 『中庸』の「時中」に学べ 
         (H.22 真儒の集い・特別講演:“ 『グリム童話』と儒学 ”より)

・ (西)ドイツの児童文学者 ミヒャエル・エンデ 〔Michael Ende〕 は、
  1973(s.48)年 『MOMO〔モモ〕』 という作品を発表いたします。
  これは、単なる童話ではなく、世代・時代を超えた普遍性を持つ作品です。
  世界的に非常に高い評価を得ています。

  私は、学生時代の愛読書の一つ、フランスのサン・テグジュペリの 『星の王子さま』
  (“ル・プチ・プランス”:内藤 濯〔あろう〕の名訳です)に通ずるものを感じています。

  「大切なものは、目に見えない。」ということばを、悠〔はるか〕に覚え続けています。

  この歳になりまして、『中庸』に学び
  「その見えざるを観、・・・」ということと重ね合わせたり、
  易卦【観】の心眼で観ることに想いを馳せたりしています。

  さて、モモという主人公の女の子は、今風にいえば ホームレス(浮浪児)です。
  モモは大宇宙の音楽を聴き星々の声を聴く(東洋流にいえば“天の声を聴く”?)
  超能力の持ち主です。

  物語の舞台は、ある時代のある村。
  人々は日々、楽しく歌ったり踊ったり飲食したりしておりました。

  ある日、「時間どろぼう」がやって来て、時間の節約と労働によって、
  貨幣〔かね〕を儲け有名人になることを教えます。

  人々は、それに随って一所懸命努力し、富と名声を得ます。
  が、その代りにみんな孤独になってしまいました。

  そこへ、モモが現われて、「時間どろぼう」を退治します。
  人々は、以前の幸せな生活を取り戻すというストーリーです。

  そして、最後の部分で、このモモの物語を語った人が言います。
  自分は、このお話を過去に起こったことのように話してきましたが、
  これは未来に起こることと思っても良いのですよ、と。


* 「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語」

* 「おとなにも子どもにもかかわる現代社会の大きな問題をとりあげ、
  その病根を痛烈に批判しながら、それをこのようにたのしく、うつくしい
  幻想的な童話の形式(エンデはこれをメールヘン・ロマンと名づけています)
  にまとめる ・・・ 」


 ※ 時間・時計に支配(自己疎外)されている現代人 
        ――― 時間がない(時間を意識しないでよい)のが幸せ


 この作品は、わが国のオイルショックのころ書かれています。
普遍的なものですが、当時から現在の日本(人)の問題ある状況に
ぴったり当てはまるように思います。

 わが国は、おとなも子どもも、時間に追い立てられアクセクと生きています。

私は、日本が改めるべきは、目指すべきは、
「君子而時中」 (君子よく時中す:『中庸』第2章)だと思います。

 


(この続きは、次の記事をご覧下さい。)



※全体は以下のようなタイトル構成となっており、7回に分割してメルマガ配信いたしました。
  (後日、こちらのブログ【儒灯】にも掲載いたしました。)


●5月20日(金) その1 
                《 §.はじめに 》

                《 『論語』 と 子貢 について 》            

●5月23日(月) その2 
                《 D.デフォー と ロビンソン=クルーソー について 》 

                《 経済と道徳・倫理について 》

●5月25日(水) その3 
                《 子貢 と ロビンソン=クルーソー 》
                   1) 理想的人間(像)                

●5月27日(金) その4
                   2) 中庸・中徳                   

●5月30日(月) その5   
                   3) 経済的合理主義                 

●6月1日(水)  その6
                   4) 時間の大切さ                  

●6月3日(金)  その7
                   5) 金儲け(利潤追求)      

                《 結びにかえて 》



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“甘やかし” を “麦ふみ” に想う  (その2)

※この記事は、 “甘やかし” を “麦ふみ” に想う (その1) の続きです。


《 “甘やかし” と “ことわざ”の智恵 》


 “ことわざ”や慣用句というものは、日本の言語文化で非常に優れたものです。
形而上学的な、深遠な真理を、実にわかり易く身近に表現して
一般ピープルに広めています。

思想・哲学を学び教えていますと、
日本人(祖先)の、優れた特質・特技の一つの現れであるナ、といつも感心しています。

 子育てと“甘やかし”に関する、“ことわざ”や慣用句を
思いつくままにピックアップしてみますと。

先述の「可愛い子には、旅をさせろ」/「他人の釜の飯を喰わせろ」以外にも、
「親の甘茶が毒となる」/「親の甘いは子に毒薬」/「若い時の苦労は買ってでもせよ」など
枚挙に遑〔いとま/暇〕有りません。

 西郷南州(隆盛)の、「児孫の為〔ため〕に美田を買わず:【不為児孫買美田】」 
《子孫のためによく肥えた土地を買い残すようなことはしない》 も
実に善い言葉かと思います。

(中国に)「財宝は子孫を殺す」という表現もあります。
逆に、「子どもには金を残せ、金を残せないなら金を生み出す手段を残せ、
それもなかったら生きざまを残せ」ということ言った人もいます。
が、私には、(少なくとも今の時代には)いかがなものかと思われます。

 西郷南州は仁徳・君子タイプの巨人、情の人でもあったとされます。
「代表的日本人」です。

ちなみに、(推測するに)西郷さんのイメージは、
私の亡父のイメージと重なるものがあります。 注2) 

私の母も、(私の幼少の砌〔みぎり〕から)
賢い親は、子に教育を残すものです”と言っていました。
(その“教育”のおかげで、私も私の姉妹も、善き人生行路を
“衣食足りて”無事に生き続けております。)

 私の、とりわけ感慨深いものに、「甘やかし子を捨てる」があります。
「甘やかし」と「子を捨てる」 でキルようにしないと
意味がおかしくなるかと理解しています。

「甘やかし(た)子」を(見捨てて)捨ててしまってはいけませんからね!

また、「捨」の漢字を「拾」と間違える学生諸君がいます。
「捨・てる」を「拾・う」では意味が反対になってしまいます。

 この文言の意味はこうです。 
“甘やかし”(過度・不適切な盲愛)、わがまま一杯に子どもを育てるということは、
子どもをダメにするばかりでなく、
“家出”・“勘当〔かんどう〕”・“監獄入り” ・・・ やらで、
結局は一緒に無事に家に住めなくなる(子を失う)ことをいっています。

まことに、現実を直視しており、簡にして要〔よう〕です。

 また、東洋思想の源流・中国においても、
“甘やかし”の弊害は、古くから誡〔いまし〕められています。

法家思想の『韓非子〔かんぴし〕』に、「慈母に敗子あり」とあります。
母親があまりにも優しすぎて子を“甘やかし”、
幼児期の基本的生活習慣が出来ていないということです。

日本の現状そのままの感じです。

儒家思想の『孟子』にも、“子を換えて教育する”ことが説かれています。
自分の子だと、つい甘やかすからなのでしょう。

 現在の中国(中共)は、人口一つを較べても、日本の10倍以上の大所帯です。
(cf.人口13億と公〔おおやけ〕には言われておりますが実数はもっとでしょう)

その分、光(陽)のあたる部分も大きいですが、
陰〔かげ/いん〕の部分も同様に大きいと言えます。

 というのも、わが国の “甘やかし”・“過保護”の現状は、
少子化(子どもの数が少ない)もその誘因の一つとして、
少なからず影響していると考えられます。

それに比べて、中国における“1人っ子政策”による
“甘やかし”・“過保護”とその弊害は、
日本以上に深刻なものであると推測されます。

私は、中華人民共和国という経済大国は、飽食による肥満大国と
“1人っ子”による少子高齢大国としての課題を抱えた
むつかしい未来”が待っていると思います。 注3)

 ここで、“甘やかし”と“愛”の違いを、儒学の専用語を用いて考えてみましょう。

まず、“中庸”=過不及なきこと、“時中”=時のよろしきを得て中しているか、
という視点が考えられます。

とりわけ、儒学(易学)において、“時”の概念は要〔かなめ〕です。

そして、教育上も、人間の、そして個々人の、
発達段階〔ステージ〕に応じるということが極めて重要です。

 今一つは、「〔ゆる・す〕」と「〔じょ/ゆる・す〕」で表わせる部分の
差異が考えられるかと思います。

といいますのは、「許す」はただ単に許可するで、
精神的な本〔もと:根柢・根本〕がありません。

これに対して、「恕」の字義は“女”の(“口”ではなく)“領域・世界”の意です。

つまり、慈母・悲母の(無償の)愛のことです。

ゆるすこと、いつくしむことがその本質です。

この「(忠)恕」は、「仁」を心の面からみた本質的表現で、
宗聖・曾子が理解した“孔子一貫の道”です。

『論語』の、「夫子〔ふうし〕の道は忠恕〔ちゅうじょ〕のみ。:【夫子之道、忠恕而已矣】 」
(里仁第4) がそれです。

 「許す」と「恕す」、このあたりの違いが、
愚母と賢(慈・悲)母の分かれ目ではないでしょうか。

注2)
余事ながら、西郷さんと父は、姿恰好も似ていたようです。
西郷さんの肖像とされているものと父の全盛時代(壮年期)の写真とは、
確かに、恰幅のよさも顔立ちも醸し出すオーラもよく似ています。

その悲劇的な最後、惜しまれる生涯も重なります。

こんなエピソードを記憶しています。
父は土木・建設業の会社を手広く経営していました。
行きつけの街の写真館から、その撮影した父の写真を(立派に撮れているからでしょう)
店のショーウインドに(宣伝用に)飾らせてほしいとの要望があり、
展示されることとなりました。

そうすると、「西郷さん(の写真)が飾ってある」と 
皆からの(誉めことばの)評判を得たとのことでした。

当時、私は、子ども(小学生)ながらに少し得意だったことを記憶しています。



注3)
共産国・中国は、今や先進資本主義諸国顔負けの
急激な近代化・工業化を強行しています。

昨年(2010)、わが国を抜いて GDP世界第2位となり、
経済面においても“米・中”2大国の時代が到来しつつあります。

この、経済(や軍備)の陽の部分に対して、陰の部分があります。

1979年に始まる“1人っ子政策”は、
今、“甘やかし”・“過保護”による身心の弊害が顕わになり、
将来の人口構成のアンバランス(少子高齢社会)をもたらします。

“1人っ子政策”は親による“甘やかし”を、
急激な高度成長は(公害と)高カロリーの食生活を「助長」したのです。

今や中共は、全体で3億人、5人に1人が肥満ともいわれ、
糖尿病に満ちた肥満大国への道を歩みつつあります。
(`11.1.12 関西TV 参照)


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