※この記事は、『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第4回) の続きです。

『徒然草〔つれづれぐさ〕』 にみる儒学思想 其の2(第5回)

─── 変化の思想/「無常」/「変易」/陰陽思想/運命観/中論/
“居は気を移す”/兼好流住宅設計論( ── 「夏をむねとすべし」)/
“師恩友益”/“益者三友・損者三友”/「無為」・「自然」・「静」/循環の理 ───


【第155段】   世に従はん人は 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

〔1〕世間なみに従って生きてゆこうと思う人は、
第一に物事の潮時〔しおどき〕を知らなければなりません。

物事の 時機(順序) の悪いことは、人の耳にも逆らい、
気持ちをも悪くさせて、そのことがうまくゆきません。

(ですから)そういう、(そのことをなすべき)機会というものを
心得なければならないのです。・・・

ただし、病気にかかったり、子を生んだり、
死んだりすることだけは、潮時とは無関係なのです。

ことの 時機(順序) が悪いからといって、やめるわけにはゆきません。

物が生じ、とどまり、変化して衰え、滅するという現象、
すなわち物事が移り変わるという、この人生の重大事は、
ちょうど水勢のはげしい川が、みなぎって流れるようなものなのです

しばらくも停滞することはなく、すぐに実現してゆくものなのです。

ですから、仏道を修めることにつけても、世俗のことにつけても、
必ず成し遂げようと思うことは、潮時などをかれこれ言っていてはなりません。

なんのかのとためらうことなく、足ぶみをしていてはならないのです。


〔2〕春が終わってのちに夏になり、
夏が終わってのちに秋がくるのではありません。

春は春のままですでに夏の気を含み兆〔きざ〕しており、
夏のうちからすでに秋の気は通っており、
秋はそのまま(冬の)寒さとなり、
十月は小春の天気ともいうとおり、草も青くなり、
梅もつぼみを持ってしまうのです。

木の葉の落ちるのも、
まず葉が落ちてそののちに新芽が出てくるのではありません。

木の内部から新芽が兆し発生してくる勢いに
こらえられない(=耐えられない)で落ちるのです。

(次にくるものを)迎える気合〔きあい〕が、
内部にすっかり用意ができているので、
(その次にくるものを、)待ち受けて交替する 順序 がはなはだ早いのです

(人間においてもまた、)生まれ、老い、病み、死ぬ、
この四苦〔しく〕がめぐってくることは、
以上の自然界の物の変化よりも早いのです。

四季はまだそれでも定まった 順序 があります。

死期は 順序 を待ちません。

死は前から来るとは必ずしも限らないのです。

前もって背後に迫っているのです。

人はみな死のあることは知っていますが、
それを予期することがそう痛切ではないうちに、突然に襲ってくるのです。

(それはあたかも)沖まで干潟〔ひがた〕になっている時は、
いかにもはるばると〔=広々と〕しているけれども、
浜べから潮がさしてきて、間もなく一面に満ちてしまうようなものなのです。
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非常に思索的・哲学的な中味の深い内容であると思われます。

前段では、仏教的無常観に基づく兼好の主張が述べられています。

「機嫌」は、本来仏教用語で 「譏嫌」 と書き、
ここでは時期・ころあいの意です。

キーワード 「ついで〔序〕」 は、事の続き/折・場合・機会の意で
前段部二箇所はほぼ同じ意味です。

後段では順序・序列の意です。


「生〔しょう〕・往・異・滅の移りかはる」(四相)、

「猛〔たけ〕き河のみなぎり流るるが如し。
しばしもとどこほらず、ただちに行ひゆくものなり。」、

「真俗〔しんぞく〕につけて(真諦・俗諦)」 と、

相対的に緩急感ずる時間に沿って変化すること、
速やかに流れていくことを述べています。


時の流れを河の流れとのアナロジー〔類似〕で表現している所は、

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」 

の 『方丈記』 〔ほうじょうき〕 書き出しを想起させます。   ( → ※考察1 参照)


「必ず果し遂げんと思わんことは、機嫌をいふべからず。」 

東洋における変化の源流思想は“易”です

変化の思想(変易)は、哲学的に変わらぬものを前提としています。

この「不易」を含んだ変化の理を説いていると、私は理解しています。


後段は、具体例として時(四季)の運行と 
生から死への必然(四苦)の対比が、
無常・変化の理で厳然と述べられています。

ここで特徴的なことは、変化が 内在的超出作用により 
弁証法的な発展の論理で示されている点にあります。   ( → ※考察2 参照)


「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、 ─── 。」 

ヘーゲルの弁証法による 
正(テーゼ)・ 反(アンチテーゼ)・ 合(ジンテーゼ) です。

そして、変化(死)は、必ずしも漸進的でなく
飛躍的に実現されると説きます。

アウフヘーベン(止揚・楊棄 = 中す)です。

東洋流にいえば、儒・仏・道を貫く 「中論」 を展開しているといえるでしょう。


※ [ 考察1 ]

≪ 水(川)の流れ ≫  → (*詳しくは「水(坎:かん)を楽しむ」参照)

古代中国語の“水”は“水”以外に“川”という意味もあります。

変化を水・川の流れに同一視するものは、
儒学・黄老に共通しています。

否、それは古今東西を問わず、
賢人に普遍〔ふへん〕するところとも言えます。

西洋。

古代ギリシアにおいては、“7賢人”の一人タレスが 
「万物の根源は水である」 と言いました。

近代の幕開けルネサンスにおいて、
“3大天才”の一人レオナルド・ダ・ビンチは、水(流水)の研究に没頭し、
水の流れで美と人生を哲学いたしております。


例えば。

「水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である。」 / 

「君が手にふれる水は過ぎし水の最期のものにして、
来るべき水の最初のものである。
現在という時もまたかくのごとし。」


東洋では。

儒学の開祖・孔子は、『論語』で

知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。
知者は動き、仁者は静かなり。」
(雍也第6−23) / 

「子、川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、
逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」
(子罕第9−17)

と言っています。


老荘(道家)の開祖・老子も水の礼讃者で、
“不争”・“謙譲”を“水”に象〔かたど〕り
その政治・思想の要〔かなめ〕といたしました。

例えば。

「上善は水の若〔ごと〕し」
「水は善く万物を利して争わず」
(『老子』・第8章) / 

「天下に水より柔弱〔にゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し」
(『老子』・第78章) etc. ─── 


孔子は水を楽しみ
孟子(や朱子)は川の流れに智の絶えざる・尽きざるものを観、
老子は水の柔弱性と強さをその思想にとりました。


※ [ 考察2 ]

≪ 「知」と「智」と柿の“シブ” / 【離・火】について ≫

“文字”に学んでみますと。 「知」は、“口”に“矢”、
口という矢(=武器)で他者を攻撃、傷つけるの意が「知」です。

危ういものです。

なまじっか(生半可)の知識がむしろ禍〔わざわい〕して
病的に性癖を生じるようになると、
“やまいだれ”がついて「痴」 (=バカものの意) となります。

「知」でくもって、ものごとの「本〔もと〕」が観〔み〕えない
浅薄な知識人のことです。

“賢い愚者” ですね。

ところで、シブ柿は「日(陽)」に干すことによって甘柿になります。

これは、太陽の作用(パワー)により、
シブ柿に内在する “シブ” 自体が日によって
“甘い” もの(善きもの)に変化する
ということです。

したがって、「知」に「日」をプラスして 「智」 としますと、
本来の善きもの、あるべきものとしての“智恵”となるわけです。

(漢字というものは、実に深く考えられて作られていますね。)


私は(職業柄かも知れませんが)、
この“柿のシブと太陽=【離】 → 甘柿”への “化成”
教育という分野にも当て嵌〔は〕まるナ、
と私〔ひそか〕に想っているところです。

そして、「知」は、易の八卦でいうと【離/火】です。

【離】は学術・文化文明です。
【離】=人類の文化文明は、“火と石のカケラ”から始まりました。

それが、21世紀の現在では、携帯電話・PC・インターネット・
原子力発電・ロケット・ミサイル・・・・ etc. を生み出しています。

然るに、【離】は、傷〔やぶ〕るものでもあります。

【離】の持つ危うさです。

私は、「財宝は子孫を殺し、学術は天下を亡ぼす」 
という中国の言葉を知っています。

現在最先端の“学術”である(【離】=太陽=火=)“原子力”も、
核兵器や原発事故で多くの人々に厄災をもたらしている現状では、
この言葉に納得せざるをえません。

【離】そのものが悪いのではなく、
ある特定の人類にその【火】を使う資格があるかなしかの問題です。


cf.「日」は儒学にいう「本(もと)」の学と考えればよいでしょう。

   老子は、 「絶学無憂〔ぜつがくむゆう: 学を絶てば憂い無し〕」
   (『老子』・第20章) と言っております。

   生半可な末梢的な学(末学)を遠ざけよということでしょう。

   また、「知りて知らざるは上〔じょう〕なり。
   知らずしてしるは病〔へい/やまい〕なり。」
(『老子』・第71章) 
   と言っています。

   ちなみに、「知不知上」 は、兼好法師の 

   「 ── いたましうするものから、
   下戸〔げこ〕ならぬこそ男〔をのこ〕はよけれ。」

   〔(酒をすすめられると)困ったような様子はしながらも、
   実際には飲めなくはないのが男としては善いのです。〕
   (『徒然草』・第1段結文) とも発想が同じような気がします。


【第243段】   八〔やつ〕になりし年 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

(わたくしが)八歳になった年に、父にたずねて、
「仏とはどんなものでございましょうか。」と言います。

父が言うには「仏には人間がなったのだ。」・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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