儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

水【坎】 に想う  (その11)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 水=川の流れ ・・・ 鴨長明・『方丈記』 》

「川の流れのように」 や 「時の流れに身をまかせ」という名曲の表題は、
私たち(日本人)の感性によく適〔かな〕いよく知られています。  注10)  

古代中国において、“水”は“川”と同意でした。

“水”は流れ移りゆくものであり、
したがって川の流れであり、時の流れとも表現できるのです。


東洋思想において、古代の聖人・哲人(ex.孔子・老子・孫子 ・・・・ )は、
“水”をその思想の象〔しょう/かたち〕といたしました

そしてそれは、“水”を(有形・固定したモノとしてではなく)
時間”(無形・移りゆくもの)で捉えるものです

すなわち、水の流れ = 川(の流れ) として捉えるものであったといえましょう。


【東洋思想の水】 
☆水を時間(無形・形而上的)で捉える = 水の流れ = 川(の流れ)


鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』は、
吉田兼好・『徒然草〔つれづれぐさ〕』と共に、
わが国鎌倉期を代表する二大随筆です。  注11)  

両者は、仏者の隠者文学の金字塔で、“仏教的無常観”で貫かれているとされます。

この二大作者・作品は、中国の源流思想(=水【坎】の思想)の影響を
色濃く反映しているということができましょう。


私見ながら、(東洋三大思想、宗教としての)“仏教”が加わると、
「易学(儒学)」・「黄老」の“変化”・“循環”の思想が、
“はかない/むなしい”といった消極的な意味で捉えた
“無常観”(=変化)の悟りになっていると考えられます

【陰陽】の【陰】と捉えることもできましょう。  注12)


水の流れ(=川/「ゆく河の流れ」)を、その文学作品の冒頭に
滔々〔とうとう〕と綴〔つづ〕ったものが、鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』です。

そこでは、“無常観”(=変化)が
ながれる水(河)の象〔しょう/かたち〕となって表わされています。

空間(有形)を捉えているところは絵画的であり、
時間(無形)を捉えているところは哲学的でもある文学作品の書き出しです。

そして、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、・・・ 」と、
まさに流れるような文体で書かれています。

激動の時代に変化・無常を身をもって体感した鴨長明ならではの名文といえましょう。

以下、『方丈記〔ほうじょうき〕』の冒頭部分を引用・紹介しておきましょう。


注10)
◆「川の流れのように」: 美空ひばり さんのヒット曲としてよく知られ、
秋川雅史・椿・近藤真彦・奥村チヨ さんなどで歌われている名曲です。
今なお、多くの人々に唄い親しまれています。
似た題名の曲として、「川の流れの如く(吉田拓郎)」・
「川の流れは(THE BOOM)」・「川の流れを抱いて眠りたい(時任三郎)」 ・・・ etc.

◆「時の流れに身をまかせ」: テレサテン( 麗君) さんのヒット曲として
よく知られています。
似た題名の曲として、「時の流れのように(中山美穂)」・
「時の流れの中に(谷山浩子)」 ・・・ etc.


注11)
平安期の清少納言・『枕草子〔まくらのそうし〕』を加えて、
わが国 “三大随筆”といわれています。


注12)
『徒然草』は 思想的には、一般に 仏教的無常観であるといわれています。
しかし、私は、兼好が 「変化〔へんげ〕の理〔ことわり〕」(74段) と呼ぶものを、
東洋的 “変化〔へんか〕の思想”として捉えてみたいのです。
源流思想としての 易・『易経』の世界観・人間観です。
変化は同時に 「時」 の理でもあります。
序段の「心にうつりゆく」は、時間的遷移〔せんい〕でもあり、
その遷移は中論(弁証法)的に捉えられます。
無限変化 ─ 進化循環するという意味においての 「無常」です
従って兼好の人間観・運命観は、陽性にして肯定的・主体的です。
つまり、宿命と運命を峻別し、運命は人間の力で打開できると信じています。
このことは、中世にあっては、注目すべきことではないでしょうか。
ヘーゲル哲学の運命観も同様であり、
ここに近代精神の先駆を見ることも出来ると思います。 
(高根:「『徒然草』にみる源流思想」より)


◎原典資料

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし

たまきの都のうちに、棟〔むね〕を並べ、甍〔いらか〕を争へる、
高き、いやしき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
あるいは去年〔こぞ〕焼けて今年作れり。
あるいは大家〔おおいえ〕滅びて小家〔こいえ〕となる。
住む人もこれに同じ。
所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、
二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。
朝〔あした〕に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。
また知らず、仮の宿り、誰〔た〕がためにか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。
その主〔あるじ〕とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
あるいは露落ちて花残れり。
残るといへども朝日に枯れぬ。
あるいは花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども夕べを待つことなし。」


《 大 意 》
流れゆく川の流れは(常に)絶えることはなくて、
しかも、(その流れの水は刻々と変化して)同じ水ではありません。

よどんだ所に浮かんでいる水の泡は、一方で消えたかと思へばまた生まれて、
(生まれたかと思えばまた消えて)
長い間同じ状態でとどまっている前例はありません。

世の中の、人と(その)住居も、また(この川の流れや水の泡と)同じようです。

玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ屋根の高さを競い合っている、
身分の高い人や低い人、あらゆる人の住まいは、
時代を経てもなくならないもの(のよう)であるけれども、
それを本当(になくならない家である)かと調べてみると、
昔あった家(で今も残っているもの)はまれです。

あるものは、去年焼けて今年(新しく)作っています。
あるものは、大きな家であったものが没落して小さな家となっています。

(そこに)住んでいる人も(家の場合と)同様です。

場所も変わっていないし、人もたくさんいますけれども、昔見知っていた人は、
二、三十人のうちに、わずかに一人か二人です。

朝に死んでゆく人がいるかと思えば、
夕方生まれる人もいるという(この世の)ならいは、
まさに本当に、水の泡に似ています。

 ── わからないのです、この世に生まれて死ぬ人は、
どこからやって来て、どこへ去っていくのか。

また、(これも)わからないことなのですが、
仮の住まいにすぎないのに、だれのために心を悩ませ、
何によって目を楽しませるのか。

その家の主人と住居とが、あたかも競い合うように儚〔はかな〕く滅び去るありさまは、
例えば朝顔の花(とその上)に置かれた露と変わりません。

ある時には、露が落ちて花が残っています。

残るといっても朝日を浴〔あ〕びて枯れてしまいます。

(また)ある時には、花がしぼんで露がまだ消えないでいます。

(が、しかし)消えないといっても夕方まで残っていることはないのです。


《 レオナルド・ダ・ビンチ と 「水」 》

古来、“天才”と称される偉人は少なくはありません。
が、“万能の天才”(ウオーモ ウニベルサーレ:普遍的人間)と冠される偉人は稀〔まれ〕です。

その“万能の天才”の名声を代表しているのが、
ルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ビンチ です。

賢人・聖人の至れるものが、象〔かた〕どられた“水”であることから、
レオナルドにおいても“水”は強い執着と“楽〔らく〕”を与えているものです・・・




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水【坎】 に想う  (その7)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 老子 と 「水」 》

 水の象〔しょう/かたち〕は、黄老思想の要〔かなめ〕です。

「上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水の若し〕」 (『老子』・第8章)と、
水を無為自然、最高の徳(≒道)の象としているのです(“不争の徳”)。

『老子』・第78章にも
「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し。
而〔しか〕も堅強を攻むる者、之に能〔よ〕く勝〔まさ〕るなし。」とあり(“柔弱の徳”)、
第66章にも「江海の能く百谷〔ひゃっこく〕の王たる所以〔ゆえん〕の者は、
其の善く之に下〔くだ〕るを以て、故に能く百谷の王たり。」とあります。


『老子』・【第8章】では、 “水の象〔しょう〕”“水の徳”として
「不争」が述べられています。

原文で考察してみましょう。
( → 詳しくは、《参考原典資料》 参照のこと)

◎「水善利万物而不争」: 

水は、(万物に恵を与えながら)とうとうたる旅を続け
自然の地形に変化順応して卑〔ひく/=低〕きに就き、先を争いません。

人間界に相当させてみますと、 “徳の感化と無為”と表現できるかと思います。

徳のある人によって周囲の人々は、自然
(※自然: おのずからしかり、でそれ自身でそうであるもの。“What-is-so-itself” )
感化・風化されてゆきます。

徳の人は、善く化し成し、化し育む のです。

それでいて、徳の人 当人は、一向に自分に徳があることも
周囲を善く感化していることも意識していません。── 無為なのです。

(cf.文学作品で例すると、F.バーネット: 『小公子』のセドリック、『小公女』のセーラ、
N.ホーソン: 『人面の大岩』のアーネスト などの“徳の感化と無為”)

“先を争わない”性状は、「老子三宝」(第67章)の第3
「世の中の人々の先頭に立たない」〔=後/謙・譲〕ということで強調されています。


◎「夫唯不争、故無尤。」: 

競い争いして勝とうとしない。
そうであれば、禍咎〔かとが〕もなく幸福が得られるのです。

私は、この短い結文に偉大な真理を想います。

太古より現在に至るまで、人類の不幸の原因の最たるものは、
競い争う(→ 戦争する)ことにありました。

有史以来世界の歴史は、また現在の世界も争い・戦いばかりです。 注7) 

しかも「争い」は減少するどころか、
質量ともに拡大して破滅へと邁進〔まいしん〕しているようです。

私は、水の不争・謙下の徳に、老子の偉大な平和主義・人道主義の顕われを観るのです。


cf.◆ トピックス〔時事 ’13.1〜〕 : 

今、高校運動部・顧問による体罰(暴力?)問題が、メディアを賑わせています。
“知育・体育・徳育”の“体育”も荒〔すさ〕んだものです。

また、社会人でも柔道界コーチの暴力(体罰?)指導が顕在化し、
メディアに格好のネタ(話題)を提供しています。

それやこれや、スポーツ界での不祥事は後を絶たず、食傷気味です。

柔道・剣道・医道 ・・・ 
(文化でも、花〔華〕道・茶道・書道・商道 ・・・ )と“道”がつくのは、
技〔わざ・テクニック〕だけの “術”(柔術・剣術・医術 ・・・ ) に対して、
“武道”が人間精神の修養・徳性の涵養〔かんよう〕を目的とするものだったからです。

今では、“柔道”も“道”とは名ばかりで、
ただの野〔や〕な“JUDO〔ジュウドウ〕”に堕してしまいました。

さて、「勝てば官軍」という言葉がありますが、
現在の“スポーツ”は、争い勝つことにのみその精神が堕落しています。

オリンピック競技大会の(金)メダル獲得競争に代表されるように、
優勝争い・記録更新争いに終始しています。 注8)  

スポーツ(指導者の)体罰・暴力問題も“本〔もと〕”は
この“勝利至上主義”にあります

それは、関係当事者のみならず、メディアの扇動による
一般ピープルの、“勝ちさえすれば良い”という
野蛮な“拝勝主義”・“偏勝主義”の風潮が因〔もと〕になっているのです


老子は、二千年以上もの古〔いにしえ〕に在って、
しかも永きに亘〔わた〕る戦国の時代に在って、
炯眼〔けいがん〕にも、勝利争い・記録争いが不幸の源と見抜いていたのです


注7) 

例えば現在(’13.2.)の、極東・わが国の周りの状勢をみてもキナ臭いものがあります。

日本は、韓国とは竹島、中国とは尖閣諸島、ロシアとは北方領土をめぐって緊迫しており、
北朝鮮は3回目の核実験を実施しました。

「中国は海洋進出を本格化させ、北朝鮮は昨年末の弾道ミサイル発射に続き、
12日に新たな核実験も実施。
日米双方への脅威が増し、『同盟の強化』で対応するには、
集団的自衛権の行使容認に踏み込まざるをえないというわけだ。」

(朝日新聞:“憲法解釈見直し 再燃/安倍首相「環境変わった」”、’13.2.14)


注8) 

「メディアは自国のメダル数を数え上げ、多くの国民はそれに一喜一憂する。
日本だけに限った現象ではない。」 

(朝日新聞:“五輪精神 ほど遠い現実”、’13.2.14)



《 参考原典資料 》

           ( たかね・「大難解〔やさしい〕老子講」抜粋引用)


 水        【老子・水:8章/66章/(68章)/78章】

( 不争謙下 )

《 老子の思想の“象〔しょう〕”は、 ・・・ 水 》

易性・第8章) 注1)   

§. 「上 善 若 水」 〔シャン・シエヌ・ヂュア・シュエ〕 ・・・


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水【坎】 に想う  (その5)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

水(川)は、自然への視点です。
が、ここで人間へ視点を移してみましょう。

そうすると、[ 坎=心・思想 → 徳 ] と捉えることができます。

◆「 心 」 : 【☵】 の(2)陰を物質、1陽を精神(中国流にいえば “気”)と捉えます。
身体に内在する精神・こころです。

その精神・こころは、陰の中を一本貫いています。
“一貫”するものですね。(cf.「孔子一貫の道」) 

真直のイメージは、「直」を表わしているといえます。
「直」の字を分解再構成すると、「徳」の字です。

芯〔しん〕となっているものですから“孚〔まこと/=誠〕”ともいえます。 注3) 
陰の苦労に耐えている忍耐の姿でもあります。

「筋〔すじ〕が(一本)とおっている(人)」・
「筋がね入り(の人)」などという言葉がありますが、
1陽は脊椎動物の背骨と同じく、精神・心に一本通る“徳”であり、
(永遠に)“受け継がれるもの”(cf.DNA、ミーム〔文化的遺伝子〕)である
と、
私は想います。


◆「思想」 : 思想は、身体の中にあって外部からは見えません。
(2)陰の体の中に貫くものが思想です。

また、心の動き(陽)から思想です。 動的概念です。
思想は、最も速い〔fastest〕ものです。
ひらめき・霊感〔inspiration〕です。
 注4)


私が、思い想いますに、黄老思想にしろ儒学(易学)思想にしろ、
万事すべからく、中庸・中徳が肝腎です。

“陰陽のバランス=中庸・中徳” 注5)  を思うと、
八卦(小成卦)で【坎☵】が最もバランスが取れているのではないかと思います。

中正の陽が1と陰が2ですから。
他の【☲】・【☴】は過陽、【☳】・【☶】は過陰です。


また、【☵】は“外柔内剛”、【☲】は“外剛内柔”の象です。

後者の【☲】の人は、いつの世も多いものですし、
一般に社会・メディアに評価され易いものです。

“ちやほやされる”、“スター”の【☲】です。
“中身のないタマゴ”(陰は虚ろ・偽り)でもあります。


古今東西、一般世間は人間の外見・外面〔そとみ・そとずら〕で評価してしまいがちです。
殊に女性に対しては、容貌・容姿にのみ捉われがちです。
炯眼〔けいがん〕・心眼でよく観なければなりません。

人間は、畢竟〔ひっきょう〕大切なものは、中身・情です。
人徳というものです。
それが、【坎☵】の象であると、私は想います。


付言すれば、【水・火】内・外の完全をもって
理想的人間として【水火既成:☵☲】(完成・パーフェクトの意)の卦があるのではないか、
と思います。

また、「五行〔ごぎょう〕思想」の「相生相剋〔そうしょうそうこく〕論」で、
“水剋火”(水で火を消す)と水が上位で
“火剋水”(火で水を蒸発させる)とはなっていない理由〔わけ〕が解ったような気がしています。


注3) 
余事ながら、鉛筆(今時ならボールペン)・万年筆などの筆記具の象(小成卦・八卦)は何か? 
と考えてみました。
一本通る芯〔しん〕(万年筆・毛筆は水分)で【坎☵】でしょう。


注4) 
人象をみますと。2陰(悪・不明・大衆)を貫くから、刑罰・法律。
2陰の体の中に隠れた1陽で、賢者・隠者。
思想から思想家・哲学者・思慮深い人・情の人沈黙の人・苦労人。
ひらめき/霊感〔inspiration〕から易学者・易者。 といった象が出てくるのでしょう。


注5) 
陰陽(男女)のバランス(=中庸)は、私見によれば、
ほんの少々の 陰(女性)の優位を以て中庸・中徳と考えます。
子どもを産み育てる、しなやかな強さを持っているからです。
その結果的事例として、出生時は男子の数がやや多い(成人ではほぼ同じ)、
平均寿命が女性のほうが高いことなどが挙げられましょう。


では、易経64卦(大成卦)で具体的に例示してみましょう。

まず、【坎】の重卦、【坎為水 ☵☵】(習坎:重なることを習といいます)は、
水また水です。

険難重なる象であり、また2爻と5爻が、各々2陰に落ち込んでいる象です。

が、しかし、この象は内に信実あり。
陰の肉体の中に、中庸の徳を持った陽の精神がしっかりと宿っている象でもあります。
2爻と5爻とは【坎為水】の主爻に他なりません。

次に、【水天需 ☵☰】。 需は“待つ”の卦です。
求め待つ、やしない待つ、です。

【乾☰】は、天=精神・無形のものです。

『序卦伝』に、「需とは飲食の道なり。」とあります。
体に必要な食物ばかりでなく、精神の糧〔かて〕の意です。

── 心を養うもの(文化 : culture =心をたがやすものの意)です。

“やしない待つ”とは、徳を函養〔かんよう:≒育成・蓄積〕しながら待つことにほかなりません。
“果報〔かほう〕は練って待て”ですね。

卦辞〔かじ/けじ〕には、「需は孚〔まこと〕あり」とあります。
5爻の陽位に陽爻が位し、中正の象です。

坤の身体に 1陽の気が貫いているのが坎ですから、
心の象とし「孚」(=誠)とするのです。

全卦からみて坎の中爻は、需卦の主爻であり「孚」とみます。

なお、文字でいいますと、“サンズイ”をつけると「濡〔うるお〕す」。
人格(品格)と頭脳をうるおすということでしょう。

“ニンベン”がつくと「儒」。 儒学・儒者の「儒」です。
(cf.真儒=真の儒者・“真儒協会”)

 【☵ 水】 = 水(川)・水の流れ & 心・思想の象 


《 孔子(/孟子) と 「水」 》

儒学の開祖・孔子は、『論語』で 
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」(雍也第6−23) / 
「子、 川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず
。」
(子罕第9−17) と述べています。

孔子を“私淑〔ししゅく〕”した孟子は、孔子の水礼賛を次のように解しています・・・


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水【坎】 に想う  (その4)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 易(象) と 水 》

宇宙・世界のシンボル化された縮図としての八卦の象意〔しょうい〕を想う時、
殊に 水【坎☵/大成卦・重卦=坎為水 ☵☵】 と
そのペア(陰陽逆の関係)としての 火【離☲/大成卦・重卦=離為火 ☲☲】 には、
先哲の深い叡智〔えいち〕と感性を想います。

「易」は、“変化”の意であり“変化の学”です。
その変化するものの代表的象〔しょう/かたち〕が水です。

科学(理科)的にも、物質の三態としての“水の三態”
(液体=水/固体=氷/気体=水蒸気 cf.四態・・・プラズマ )は、
身近な事例です。

横山大観の名作に、壮大な水の循環を描いた「生々流転〔せいせいるてん〕」があります。

水の滴〔しずく〕は川となり、大河となってやがて大海へ注ぎます。

水は変じて、霧〔きり〕・靄〔もや〕 ・・・ 雲となり、
雲は再び変じて雨となって地上に降り注ぎます。

氷(雹〔ひょう〕)や雪に変じることもあります。

地上に注がれたその水は再び流れ集まって川となります。

偉大にして悠游〔ゆうゆう〕たる循環、陰陽の変転変態です。


さて、太古からの易象をみてみますと。【坤☷】は、フラットな大地です。
“天”(=全陽)に対する“地”ですから全陰です。

そのまん中(2本目)に陽があって、
流れる水=川 を象〔かたど〕ったものが 【坎☵】・水です。

2陰の不動・静なる大地に対して、1陽を動的なものとして捉えています。

流れるものが【坎☵】・水であり、止まるものが【艮☶】・山 です。

また、【坎】の低き(陥穽〔かんせい〕)の意をもって捉えてもいます。


ところで、私は易学的に柔軟な発想、並行思考を紹介する意味で、
次のように動機づけて講じることにしています。

【坎】を表わしている算木3本☵をヨコ(=90°回転)にして、
「なんの文字にみえますか?」と問いかけています。

イメージから「水」の文字に見えませんか? 

タテ3本から「川」の文字にみえませんか?! 

そして、古代においては、「水」は同時に「川」も意味しましたと解説を加えます。

── ちなみに、【火=離☲】を講じる場合は、【坎☵】を裏返して(陰陽を逆転して)示し、
「天(=空)にある(赤い)太陽に見えませんか?
(ただし、天の色は中国では黒なので黒い“陽”は青・水色でイメージして下さい)」
と問いかけます。

【離為火】を講じる場合は、小成卦【離☲】【離☲】(上卦と下卦)をヨコに並べ【☲☲】
「両目、眼鏡〔メガネ〕(=明知・よく見える・明るいの象意)に見えませんか?」
と語りかけて、易学的思考・発想のとっかかり(アプローチ)としています。
それはさておき。


【坤/地 ☷】が静的・モノ・固物であったのに対して、
【乾/天 ☰】“陽”は“動的”なものであると同時に“精”なるものでもあります。

精神・精髄などの“精”で、本体・エキスの意です。

人体では、(脊椎動物の)骨であり、頭脳であり、心臓です。

「私は、“水”の人ですので ・・・」 と、よく少しばかりの得意を持って話を始めます。

それは、(水=坎の人が)一白水性であり、移動性の星であり、知的であり、
(お茶漬けのようにサラっとした性格であり、)
法律(家)・教師の職を表わしたりする、
ということの話し始めとして用いています。

が、しかし、真意はそれらのみではなく、“水が徳である”ということ、
水の人は“徳”があるということが言いたかったのです。

このことを、以下、易象で語ってみましょう。


水(川)は、自然への視点です。
が、ここで人間へ視点を移してみましょう。

そうすると・・・


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水【坎】 に想う  (その3)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 トピックス〔時事(2011:春)〕 ── 水 【坎】に想う(2012記) 》 

平成23(‘11)年の日本は、一般ピープルも「水」について
認識を改めさせられた(思い知らされた)年の一つではないでしょうか。

春(3.11)に、死者・行方不明者2万人余りともいわれる“東日本大震災”による災禍。
もっぱら「津波」による水害でした。

一年を経ても、復興は一向に進んでおらずガレキは山積みのまま、
再生はおぼつか無い有様です。

それに付随して、福島第一原子力発電所による事故・放射能汚染。
その直接の原因は、5mを限度水位と想定していたところに10mの津波が襲ってきたということです。
(震源近くでは、15mほどであったと言います。) 

太古の昔、“石のカケラ”(=隕石)が地球に衝突し
恐竜の天下を吾々の祖先とチェンジさせた時の津波は、300mほどとも言われています。

それはともかくとしても、例えば “明治三陸地震”(1896.6.15)では、
(揺れは最大震度4程度だったとされますが、)巨大な津波を引き起こし、
三陸沿岸を最大 38.2 メートルにも達する津波が襲ったとされます。

三陸では、1993年にも“昭和三陸地震”の津波に襲われ千人以上の人命が失われています。

してみると、明らかに今回の福島第一原発事故は、5mの限度水位想定に始まる、
杜撰〔ずさん〕・ナンセンスな安全基準・管理による人災です。

そして、原発の事故処理も一向に進んでいません。

原発の将来像についても(安全保障をはじめ、他の国家的大事と同様に)、
為政者(=政治的指導者)は無策・無計、なんらビジョンがありません。

本〔もと〕立たずして、末〔すえ〕が治まるはずがありません。

非常時、事が大きくなればなるほどリーダの真価が顕〔あら〕われるものです。

泰平に安座・弛緩〔平和ボケ〕したわが国で、
漸〔ようや〕く指導者の資質が問題になりかけてきました。

“国民主権”のもと、有権者たる国民自身の“責任”を想わざるをえません。

ここで、原発・原発事故を、易学的な視点で捉えてみましょう。

原発は、「核」(=太陽)で、火・文明の利器ですから【離】〔り〕です。

【離】の火=核=太陽 を制御し正しく“中和”〔ちゅうわ〕させるのが、
水(メルトダウン〔炉心溶融〕を防ぐ冷却水)の【坎】〔かん〕です。

今回は、人間の“賢〔さか〕しい愚かさ”から、
【坎】の水が制御〔コントロール〕するものであると同時に
(津波という)破壊するものとなってしまいました。

“五行思想”・相生相剋〔そうしょうそうこく〕論にいう “水剋火” になってしまいました。

火・【離】と水【坎】は、本来矛盾・対立するものですが、
正しく“中 〔=止揚・揚棄/アウフヘーベン:Aufheben〕”・“中和”して、
(水と火でご飯・料理ができるように) 「発電」 というものが得られるわけです。
  注2) 

それが、人間の驕〔おご〕りと水の認識忘却により、
【離】(文化文明)が、賁〔かざ〕るものでなく傷〔やぶ〕るものとなりました。

このことは、太古から「老子」によって説かれていることです。

そして次に、震災から半年、
秋9月には、ノロノロ台風(15号)日本列島縦断。
その暴風雨による被災がありました。

尤〔もっと〕も、地震・津波にしろ台風による暴風雨にしろ、
ごくあたりまえの大昔からの天地自然の変化・循環の現象です。

それに対する畏敬の念を忘れ、対策の工夫よろしきを、
嘲笑〔あざわら〕うが如き傲慢〔ごうまん〕さをもって忘れていた報いです。

あらためて、日本人への天(=神)からの警鐘〔けいしょう〕と受け止めるべきです。 

── その天の警鐘を、天意を汲み取る心ある賢人が、
天意・神意に代わって警鐘を鳴らすことを、
(“賢〔さか〕しく詭弁を弄〔もてあそ〕ぶ佞人〔ねいじん〕たち”に) 
咎〔とが〕めだてされる道理がどこにあるのでしょうか? 

私は、それを深く想います。


注2) 
『易経』・「説卦傳」(先天八卦図説明)に、
「天地位を定め、山沢気を通じ、雷風相い薄(せま)り、
水火相い射(いと)わずして八卦相い錯(まじ)わる。」 とあります。


《 易(象) と 水 》

宇宙・世界のシンボル化された縮図としての八卦の象意〔しょうい〕を想う時、
殊に 水【坎☵/大成卦・重卦=坎為水 ☵☵】 
そのペア(陰陽逆の関係)としての 火【離☲/大成卦・重卦=離為火 ☲☲】 には、
先哲の深い叡智〔えいち〕と感性を想います。

「易」は、“変化”の意であり“変化の学”です。

その変化するものの代表的象〔しょう/かたち〕が水です・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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水【坎】 に想う  (その2)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 水【坎☵】 と 火【離☲】 》

私は自分が、太陽の無限の“陽〔よう〕”の恵みと
水の本源的な“陰〔いん〕”の恵みによって生かされているのだと実感しています。

無論このことは、人間に限らず、生きとし生けるもの
天地万物全てについて言えることです。

太陽【離〔り〕☲】 と 水【坎〔かん〕☵】 は、
地球上のあらゆるところに恵みをもたらし、生命を生み育んでいるのです。

そして、陰としての水は陽としての太陽に順〔したが〕い、
雨季と乾季との偉大な循環をもたらしています。

「水」に関しては、 『砂の惑星/デューン(アラキス)』
壮大な 傑作SF小説とその映画の感動が、私の脳裏には鮮明に焼き付いています。

その感動の最〔さい〕たるものは、“砂の惑星”(降水量ゼロ)が
超人(主人公)のもたらす奇跡によって
大降雨がおこり“水の惑星”(≒地球)となるラストシーンです。

地球は水の惑星であり、(父なる太陽の恵みのもと)その生命は、
海=水=【坎☵】から生まれ、水の中で生育しているのです。

「水は命の泉」との表現もあります。

『旧約聖書』に、 「太初(たいしょ)に言(ことば)あり、言は神と共にあり」 とあります。

また、『老子』に 「無名、天地之始。有名、万物之母。」
(無名〔名無き〕は、天地の始めにして、有名〔名有る〕は、万物の母。/
※“無”を天地の始めに名づけ、“有”を万物の母に名づく。)とあります。

宇宙最初の言葉は何だったのでしょうか。

「光」でしょうか、「天」・「知」・・・・ ? 

“奇跡の人”・ヘレン=ケラー女史(Helen A. Keller, 1880-1968)が
最初に理解し発した太初(第一番目)の語は、
“ w - a - t - e - r ” 〔ウォーター:水〕 でした。

神妙なる“奇跡”に相応〔ふさわ〕しい言葉であると、
私は大人になっても感銘を新たにしております。 注1)


注1)
 
何が“奇跡”なのか、お解〔わか〕りでしょうか? 
ヘレンは、2歳の時、失明し耳も聞こえなくなりました(盲聾啞〔もうろうあ〕)。

むろん“水”という具体的な“モノ”は、飲み味わってはいました。

サリバン先生は、
” ・ “a” ・ “t”  ・“e” ・ “r” のスペルを指で手のひらにつづり、
ヘレンに記憶させます。(ウォーター=水 です。)

賢いヘレンは多くの言葉(=スペル)を覚えます。
が、しかし、サリバン先生はどうしようもない絶望的なカベにぶちあたります。

つまり、飲み味わっているその“水”(=モノ)が
「ウォーター=水」という名前のものであるということ
そのもの(=その関係性)を理解させることは出来ないのです。

如何ともし難いカベです。
ところが、ある日突然、ヘレンは手に触れているこの“水”が
“ w - a - t - e - r ” 〔ウォーター:水〕 という名前のモノなのだと、
その関係性に気付きます。

東洋流に表現すれば、“覚〔さと〕った”わけですね。

── “奇跡”が起ったのです。


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《 参考資料 》
          ( たかね・「易経64卦解説奥義/要説版」抜粋・改訂引用)


【 水 と 火 / 坎☵ と 離☲ 】


《 水 と 火 》

1)五行思想では相剋の関係“水剋火”(水で火を消します)。
  その場合、火のパワーが強すぎると(「焼け石に水」で)水で消えません。
  あるいは水が蒸発してしまい“剋”する対象が逆転してしまいます。 
  (・・・ 命学・九星気学・四柱推命など)

2)易の中論だと、水と火(正・テーゼと反・アンチテーゼの異質・対立するもの)を、
  統一・止揚して(アウフヘーベン・中す)、
  新たなるもの(合・ジンテーゼ)を生み出す。〔ヘーゲル弁証法〕

ex.水と火の協力で、ごはん・料理ができます。男性と女性の和合で、子供が生まれます。


《 坎 と 離 》

○ 坎=水は智恵、離=火は聡明  /  
○ 坎離は陰陽逆=中男と中女
○ 坎は耳(の穴)・鼻(の穴)・肛門・性器、 
  離は目=視覚・明らか(【離為火】は両眼) /
○ 坎☵ 離☲ を象〔しょう〕でみると、 
  【☵】は中爻の“まこと”が通っており(“一貫”)、
  【☲】は中身が“うつろ/いつわり”

cf.「渾沌〔こんとん〕の死」(『荘子』) ・・人には7穴(体は9穴)あります。
   渾沌は“のっぺらぼう”。
   1日に1つずつ穴をあけてやったところ、7日で死んでしまいました。

   ──無為自然の本性は、人知を加えると死んでしまうのです。


【考察】 
アマテラスオオミ神は、イザナギの命(男神)の
左目(左は陽)から生まれた太陽神(陽・離・中女)です。 ・・・「

そのスサノオの命は、イザナギの命〔みこと〕の
鼻(の穴)から生まれました( → 【】 )

cf.鼻の外形は盛り上がっているので =艮=山の象 / 
   (フルへッヘンヘンド=うずたかい=鼻、by.『蘭学事始』)

※ 邪馬台国の女王は「卑弥呼」、そのが政治を代行していました。
  この史実(『三国志』魏志倭人伝)と我国の『古事記』の話とを
  重ね併せて考えてみたいものです。

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cf.黒田如水(官兵衛:秀吉の軍師)、横山大観の 
   “生々流転〔せいせいるてん〕”(水の壮大な循環を描く)、
   ※「水を飲めば水の味がする。」(中山みき)

   「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。
   知者は動き、仁者は静かなり。」(『論語』・擁也第6)

   「君子の交わりは淡きこと水の如し、
   小人の交わりは甘きこと醴〔れい:あまざけ〕の如し。」(『荘子』)

   「水魚の交わり」(『三国志』、劉備と孔明)


《 トピックス〔時事(20111:春)〕 ── 水 【坎】に想う(2012記) 》 

平成23(‘11)年の日本は、一般ピープルも「水」について
認識を改めさせられた(思い知らされた)年の一つではないでしょうか。

春(3.11)に、死者・行方不明者2万人余りともいわれる“東日本大震災”による災禍・・・



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