水【坎】 に想う              

─── 水の思い出/水【坎】と火【離】/易(象)と水/
  孔子(/孟子)と「水」・「知者楽水」/老子と水・「上善若水」/
  水の「不争」・「謙下」/孫子と「水」・「兵形象水」/日本文化の「水」/
  水=川の流れ & 心・思想の象/鴨長明・『方丈記』/
  レオナルド・ダ・ビンチと「水」 ───


【サマリー】〔summary: 要約・概括〕 ; ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古代中国語の“水”は、“水”以外に“川”という意味もあります。
変化を水・川の流れに同一視するものは、儒学・黄老に共通しています。

否、それは古今東西を問わず、賢人に普遍〔ふへん〕するところとも言えます。


西洋。
古代ギリシアにおいては、(“7賢人”の一人)西洋哲学の始祖・父とされる タレスが 
「万物の根源は水である」 と言いました。

近代の幕開けルネサンスにおいて、“3大天才”の一人レオナルド・ダ・ビンチは、
水(流水)の研究に没頭し、水の流れで美と人生を哲学いたしております。

例えば。
「水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である。」 / 
「君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、
来るべき水の最初のものである。現在という時もまたかくのごとし。」
と。


東洋。
古代中国において、儒学の開祖・孔子は、『論語』で 
知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」 (雍也第6−23) / 
「子、川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」
(子罕第9−17) と言っています。

老荘(道家)の開祖・老子も水の礼讃者で、“不争”・“謙譲”を“水”に象〔かたど〕り
その政治・思想の要〔かなめ〕といたしました。

例えば。
「上善は水の若〔ごと〕し」「水は善く万物を利して争わず」 (『老子』・第8章) / 
「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し」 (『老子』・第78章) etc. ─── 

孔子は水を楽しみ
孟子(や朱子)は川の流れに智の絶えざる・尽きざるものを観、
老子は水の柔弱性と強さをその思想にとりました。

また、兵家の開祖として知られる孫子は、
「兵の形は水に象〔かたど〕る」 (『孫子』・軍争偏)と、
理想的戦闘態勢が、水のように形を持たず、
変化に対して流動的・柔軟に変化して対応するものであることを述べています。


日本においても、日本人に好まれる“美”というものは、
“水の流れ”や“時の流れ”といった 
変化するもの・流れるもの・循環するもの、の美です。

“時間”という目に見えない、形のないものです。

例えば、鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』 の冒頭、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。・・・ 」 にみられるように、
そこでは、 “無常観” (=変化)がながれる水(河)の象〔しょう/かたち〕となって
表わされています。


畢竟〔ひっきょう〕、東洋思想において賢人たちがその思想の徳象とした“水”は、
“水”を(有形・固定したモノとしてではなく)
変化”と“時間”(無形・移りゆくもの)で捉えるものです。

すなわち、水の流れ = 川(の流れ) として捉えるものであったといえましょう。

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《 はじめに ── “水”の思い出 》

疲れた頭脳と身体を癒す入浴の一時〔ひととき〕。
人生の至福を感じます。

つくづく人間は“水”、私は自分が“水”の人間だナァと感じます。

 ── “水”にまつわる思い出を少々。


(たまたま、今年の干支〔えと・かんし〕は癸・巳〔みずのと・み:→ ミズとヘビ〕ですが)
昔日〔むかし〕、傷つけられた(死んだと思われた)大蛇〔だいじゃ〕を川に捨てると、
生気を取り戻し元気に流れに逆らって水面〔みなも〕を泳ぎだしました。

蛇は水の化身〔けしん〕、水には霊力があるのだと子ども心にも感じ入ったものです。

当時は、田植え前の水を張った水田にも“水蛇〔みずへび〕”が、
殊に夕暮れ時には、くねり滑るようにたくさん泳いでいたものです。

“水”も“蛇”も随分と身近なものでした。


そういえば、易の創始者とされている伝説の聖人“伏犧〔ふつぎ〕”は、
半人半蛇〔だ〕”と伝えられています。

神霊がずっと身近だった太古の時代の話です。

要するに、蛇つかいのシャーマンでしょう。

原始の農耕社会においては、 (雨)水=蛇 を司〔つかさど〕る人が
神秘的・カリスマ的存在だったのでしょう。

それはともかく。


壮年の頃、
「水を飲めば水の味がする」 という言葉を聞いたことがあります。

大病で入院して、脱水症状がでるほどの厳しい“摂水制限”を受けていた時、
何とも水が旨〔うま〕いと感じました。

殊に、(水の変化した)氷・氷入り水(ウォーターの水割り)は、
まさに“甘露甘露〔かんろかんろ〕”でした。

今では、かかる非常の体調の時でなくても、水の味が解かる人間になりました。

水の味は、味の至れるものです。

無の味です。(→ “無味”は、蒸留水=純粋な水 の味とは異なるものです。)


『老子』に 恬淡〔てんたん〕(『老子』・第31章)の語もあります。
心安らか、静かであっさりして執着しないこと、淡白・無欲なことです。

『荘子』の中にも、「虚静〔きょせい〕恬淡」・「恬淡無為」の語があります。

また、 「君子の交わりは淡きこと水の如し、
小人の交わりは甘きこと醴〔れい/あまざけ〕の如し。」
とあります。

淡交〔たんこう〕/水交」です。

要するに、 「上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水の若し〕」 (『老子』・第8章)で、
人間の交わりも含めて万事水の如くすべしです。


さて私は、“水”について想う時さまざまなものが想い起こされます。

私自身、本性〔ほんせい〕“水”の人間です
(ex.一白水性、“偏印”タイプ、知の人 ・・・)。

それもあって、水【坎☵】についての想いは、
私が長年文章でまとめておきたかったテーマの一つです。

今回、“水を楽しむ”つもりで、
“賢人と水”(「知者は水を楽しむ」)といった内容を中心テーマとしながら、
“水”についてそこはかとなく書き綴〔つづ〕ってまいりたいと思います。


《 水【坎】 と 火【離☲】 》

私は自分が、太陽の無限の“陽〔よう〕”の恵みと
水の本源的な“陰〔いん〕”の恵みによって生かされているのだと実感しています。


無論このことは、人間に限らず、生きとし生けるもの天地万物全てについて言えることです・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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