儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

無為

水【坎】 に想う  (その10)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 日本文化 の 「水」 》

山崎正和〔まさかず〕氏は、「水の東西」(『混沌からの表現』所収/PHP研究所) の中で、
水の東西文化比較論を述べています。

その中で、日本と西洋(欧米)の水について、
典型的具体例として日本の「鹿〔しし〕おどし」と西洋の「噴水」を挙げて、
次のような水の対比で東西の文化を捉えています。

1) (日本の)“流れる水” と (西洋の)“噴き上げる水”
2) (日本の)“時間的な水” と (西洋の)“空間的な水”
3) (日本の)“見えない水” と (西洋の)“目に見える水”

日本人に好まれる日本の美というものは、「鹿おどし」に代表されるように、
“水の流れ”や“時の流れ”といった 
変化するもの・流れるもの・循環するもの、の美です。

“時間”という目に見えない、形のないものです

それに対して、西洋の美は、
「噴水」にシンボライズ〔象徴〕されるように自然に逆らって噴き上がり、
空間に静止し立体を感じさせる、人工的に造形された美です。 ―― 同感のいたりです。


想いますに。「鹿おどし」や「枯山水〔かれさんすい〕」に感じさせられる、
日本の水の文化は、繊細なイマジネーションの世界です。

その世界は、やはり中国源流思想がルーツでしょう。

水を“楽しんだ”孔子、
水をその思想(柔弱・不争謙下・強さなど)の象とした老子、
などの思想に他なりません。

上から下へと(高きから卑〔ひく〕きへと)自然に流れる水は、
老子の、無為自然・変化循環の思想の象〔しょう/かたち〕です。

下から上への人造的、有為不自然な欧米の思想とは、よく対照をなしています。 注9) 


はるか太古の中国源流思想を、わが国の祖先・先哲が、
その“陶鋳力〔とうちゅうりょく: 優れた受容吸収力〕”をもって受け入れました。

そして、日本人の“(ものの)あはれ”・“をかし”といった繊細な感受性が加わって、
より格調高い、水に象〔かたど〕られた日本文化を形成しているのだと考えます。


注9)
易象〔えきしょう〕でみると西洋の文化は、多分に離・火【☲】であり、
東洋・日本のそれは坎・水【☵】であると想います。

というのも、離・火【☲】は人工物=文明であり、目の見えることであり、(外)形です。
そして、 “火”が下から上へと上昇するように、
(西洋の水の代表的あり方としての)噴水は
下から上へと自然と逆に流れてフォーム(形)を形成しています。

坎・水【☵】はその反対です。上から下へと流れ、無為自然です。


《 水=川の流れ ・・・ 鴨長明・『方丈記』 》

「川の流れのように」 や 「時の流れに身をまかせ」という名曲の表題は、
私たち(日本人)の感性によく適〔かな〕いよく知られています。   

古代中国において、“水”は“川”と同意でした。

“水”は流れ移りゆくものであり、したがって川の流れであり、時の流れとも表現できるのです・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。

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(このブログ記事は、5月9日にメールマガジンで配信したものです。
そのメールマガジンをお読みくださった方から以下のようなご意見・ご感想が寄せられましたので、以下にご紹介させて頂きます。)

近所に小さな八幡神社があり、急な階段を下りていくと鳥居があり、
その脇には清水が湧き出ていて小川になって流れています。
今年もそうですが、清水の真ん中にある大きめの岩には、
鏡餅と、小さな柱に青い紙垂(しで)。
これは昔から祭っている「水の神様」だそうです。
ICU大学そばの野川公園内の縄文遺跡の跡にある清水の流れ出る所にも、
お供えを載せたであろう大きな岩があります。
氷河期が終わった後の五千年の中国文化よりも、
温かい暖流の流れる日本には悠に古い縄文文化が花開いており、
そして清水の湧き出る場所は、神の宿る所、と特に大切に感謝をしていたと思われます。

氷河期とても住めなかったヨーロッパ・アジア大陸と違って、
この東アジア一帯には、私の住む日野市近くでも3万年以上前からず〜と住み続けています。
縄文の人々は、黒曜石の分布などからも分かるように、
とても広い範囲で文化的に交流をしていたようです。
多摩センター駅近く、東京都埋蔵文化財センターで見ましたが、
明らかに占いに使ったと思われる傷の付いた鹿の肩甲骨が、遺跡から発見されていました。
また1万年前位までは、黄海や、東シナ海は、九州に近いところまで、陸地が広がっていたようです。
国家などと言う、「分別知」の世界観はなかった時代ですよね。
日本人の気質を今に伝えるような大らかに「神と共に生き」、
「クラフツマンシップ」を発揮していたことでしょう。
世界最初の食料革命となる縄文土器は、女性と子供が製作したそうです。
東京都埋蔵文化財センターが、警視庁の鑑識課に依頼して調べた結果だ、と教えてくれました。
京都の下賀茂神社に、鴨長明の方丈記の住いがあります。
第一宮「玉依姫命」は神のこころと交信していた方、そこの神官の息子が鴨長明。
 
今の私達の暮らしぶりとほど遠いような、神と一体になっていた祖先の方々だったと思います。
私の中にも内在する先祖の残してくれた「アーラヤ識」を発現させて、
謙虚に少しでも良い世の中にお役に立てていけたらと、毎日を学びながら過ごしております。
 
今後ともよろしくご教示方お願いいたします。

(東京在住 65歳 男性)


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『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第4回)

※この記事は、『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第3回) の続きです。

『徒然草〔つれづれぐさ〕』 にみる儒学思想 其の2(第4回)

――― 変化の思想/「無常」/「変易」/陰陽思想/運命観/中論/
“居は気を移す”/兼好流住宅設計論( ―― 「夏をむねとすべし」)/
“師恩友益”/“益者三友・損者三友”/「無為」・「自然」・「静」/循環の理 ―――


【第127段】   改めて益〔やく〕なきことは 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

改めても効果のないことは、(むしろ)改めないのがよいのです。

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「改めて益〔やく〕なきことは、改めぬをよしとするなり。」 : 
「益」は“ヤク”と読み、利益・効果・ききめ。

「益無し」は、無益だ・かいがない・つまらない、といった意味です。

メモのような一文のみの段で、前後の関係もなく、
読者には何が言いたいのかほとんど意図が不明です。

兼好は、“無益なことをするな”と処々に説いていますので、
その関連のメモなのかも知れません。

例えば、【第98段】には、
「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうはせぬはよきなり。」
〔(そのことを)しようか、しないでおこうか、と思い迷うことは、
たいていはしないほうがよいものであるよ。〕 と述べています。

かつて、“(どちらか指す手に)迷った時には勢いのある手を指す”
と語っていた将棋の名人がいました。

勝負人(棋士)ならではの、“陽”・“動”の哲学です。

隠者・兼好には、これと逆の“陰”・“静”の哲学思想、
消極的意味における悟り(=あきらめ)を感じます

さてこの一文。その言いたかったこと、
兼好のこころに浮ぶに至った深層心理・潜在意識(無意識)にある
思想を探ってみるのも、また一興というものです。

―― 私が、思い想いますに、
これは黄老の“無為の思想”への同感なのではないでしょうか?

黄老思想の中で、最も要〔かなめ〕にして難解・特異な哲理は、
「無為」・「自然」・「静」でしょう。

これは、畢竟〔ひっきょう〕するに、
儒学でいう過不及をさける「中庸(中徳/時中)」と同じです。

“無為自然”とは、平たく言えば、ことさらな作為をなくすこと。
自然の法に逆らって無理を押さないということに他なりません。

例えば、大阪から東京へ行くのに、(ワラジばきで)歩いて行くのが、
江戸時代までであれば、それが「自然」であり「無為」であり「静」でありました。

が、しかし今ではそれは、“不自然”で“有為”で“動”です。

飛行機や新幹線や直行バスで移動するのが、
現代の「自然」であり「無為」であり「静」であるといえましょう。

更にもっと、当世という時に中してみれば、
家に居ながらにして、FAX.・TEL.(携帯)・
PC(インターネット)などで用件を片づけるのが、
なお一層「自然・無為・静」の意に適〔かな〕うというものです。

この、自然の命ずるままに任せて人知を加えないという
“無為の思想”は、『老子』全篇を貫いている信条です。


○「道は常に無為にして而〔しか〕も為さざる無し。 
 ・・・・・ 欲せずして以て静ならば、天下は将に自ずから定まらんとす。」

 (『老子』・第37章)

 〔道はいつも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為しているのです。
 (→ 道は何も働きかけていないように見えますが、
 全てのものはその理法の下にあり、道を離れては何物もありません。
 ですから全てのことは道が為しているとも言えるのです。)〕

cf.“Tao is eternally inactive, 
   and yet it leaves nothing undone.”

すなわち、 道=無為   であり、それによって万人が自然に感化されるので、
 道=無不為   といえるのです。


○「故に聖人云〔いわ〕く、我 無為にして民自〔おの〕ずから化し、
 我 静を好みて民自ずから正しく、 ・・・・・ 」 
(『老子』・第57章)

 〔そこで、古の聖人が言うには、私が何も為さないでいれば、 人民は自然と感化(純化)され、
 私が(無欲で)静けさを好めば、(天下)人民は自ずから正しく落ちつき、・・・・・ 〕

cf.“I will do nothing of purpose, 
   and the people will be transformed 
   of themselves.”


加うるに、黄老と対照(対峙〔たいじ〕)的に捉えられがちな儒学においても、
“無為”はしっかり尊重されています。例えば。


○「子曰く、無為にして治まるものは其れ舜〔しゅん〕なるか。
 夫〔そ〕れ何をか為さんや。
 己〔おのれ〕を恭〔うやうや〕しくして正しく南面するのみ。」

 (『論語』・衛霊公第15−5)

 〔(古の多くの帝王の中で、その徳がゆきわたり民が自然に化し、)
 自ら手を下すことなく、天下をうまく治められた人は、まあ舜だろうネ。
 いったい、舜は何をなさっていたのだろう。
 ただただ、ご自分の身を敬〔つつし〕まれて、真南を向いておられただけだヨ。 *補注) 〕


補注)

天子や諸侯といった君子の位は、
「南面」して(北に位置して)政〔まつりごと〕をとりました。

cf.“May not Shun be instanced 
   as having governed efficiently 
   without exertion? 
   What did he do? 
   He did nothing but gravely 
   and rever‐ently occupy his imperial seat.”


【第155段】   世に従はん人は 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

〔1〕世間なみに従って生きてゆこうと思う人は、
   第一に物事の潮時〔しおどき〕を知らなければなりません。
   物事の時機(順序)の悪いことは、人の耳にも逆らい、
   気持ちをも悪くさせて、そのことがうまくゆきません。
   (ですから)そういう、(そのことをなすべき)機会というものを
   心得なければならないのです。・・・



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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