※この記事は、『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第3回) の続きです。
『徒然草〔つれづれぐさ〕』 にみる儒学思想 其の2(第4回)
――― 変化の思想/「無常」/「変易」/陰陽思想/運命観/中論/
“居は気を移す”/兼好流住宅設計論( ―― 「夏をむねとすべし」)/
“師恩友益”/“益者三友・損者三友”/「無為」・「自然」・「静」/循環の理 ―――
【第127段】 改めて益〔やく〕なきことは
《 現代語訳 》----------------------------------------------------
改めても効果のないことは、(むしろ)改めないのがよいのです。
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「改めて益〔やく〕なきことは、改めぬをよしとするなり。」 :
「益」は“ヤク”と読み、利益・効果・ききめ。
「益無し」は、無益だ・かいがない・つまらない、といった意味です。
メモのような一文のみの段で、前後の関係もなく、
読者には何が言いたいのかほとんど意図が不明です。
兼好は、“無益なことをするな”と処々に説いていますので、
その関連のメモなのかも知れません。
例えば、【第98段】には、
「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうはせぬはよきなり。」
〔(そのことを)しようか、しないでおこうか、と思い迷うことは、
たいていはしないほうがよいものであるよ。〕 と述べています。
かつて、“(どちらか指す手に)迷った時には勢いのある手を指す”
と語っていた将棋の名人がいました。
勝負人(棋士)ならではの、“陽”・“動”の哲学です。
隠者・兼好には、これと逆の“陰”・“静”の哲学思想、
消極的意味における悟り(=あきらめ)を感じます。
さてこの一文。その言いたかったこと、
兼好のこころに浮ぶに至った深層心理・潜在意識(無意識)にある
思想を探ってみるのも、また一興というものです。
―― 私が、思い想いますに、
これは黄老の“無為の思想”への同感なのではないでしょうか?
黄老思想の中で、最も要〔かなめ〕にして難解・特異な哲理は、
「無為」・「自然」・「静」でしょう。
これは、畢竟〔ひっきょう〕するに、
儒学でいう過不及をさける「中庸(中徳/時中)」と同じです。
“無為自然”とは、平たく言えば、ことさらな作為をなくすこと。
自然の法に逆らって無理を押さないということに他なりません。
例えば、大阪から東京へ行くのに、(ワラジばきで)歩いて行くのが、
江戸時代までであれば、それが「自然」であり「無為」であり「静」でありました。
が、しかし今ではそれは、“不自然”で“有為”で“動”です。
飛行機や新幹線や直行バスで移動するのが、
現代の「自然」であり「無為」であり「静」であるといえましょう。
更にもっと、当世という時に中してみれば、
家に居ながらにして、FAX.・TEL.(携帯)・
PC(インターネット)などで用件を片づけるのが、
なお一層「自然・無為・静」の意に適〔かな〕うというものです。
この、自然の命ずるままに任せて人知を加えないという
“無為の思想”は、『老子』全篇を貫いている信条です。
○「道は常に無為にして而〔しか〕も為さざる無し。
・・・・・ 欲せずして以て静ならば、天下は将に自ずから定まらんとす。」
(『老子』・第37章)
〔道はいつも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為しているのです。
(→ 道は何も働きかけていないように見えますが、
全てのものはその理法の下にあり、道を離れては何物もありません。
ですから全てのことは道が為しているとも言えるのです。)〕
cf.“Tao is eternally inactive,
and yet it leaves nothing undone.”
すなわち、 道=無為 であり、それによって万人が自然に感化されるので、
道=無不為 といえるのです。
○「故に聖人云〔いわ〕く、我 無為にして民自〔おの〕ずから化し、
我 静を好みて民自ずから正しく、 ・・・・・ 」 (『老子』・第57章)
〔そこで、古の聖人が言うには、私が何も為さないでいれば、 人民は自然と感化(純化)され、
私が(無欲で)静けさを好めば、(天下)人民は自ずから正しく落ちつき、・・・・・ 〕
cf.“I will do nothing of purpose,
and the people will be transformed
of themselves.”
加うるに、黄老と対照(対峙〔たいじ〕)的に捉えられがちな儒学においても、
“無為”はしっかり尊重されています。例えば。
○「子曰く、無為にして治まるものは其れ舜〔しゅん〕なるか。
夫〔そ〕れ何をか為さんや。
己〔おのれ〕を恭〔うやうや〕しくして正しく南面するのみ。」
(『論語』・衛霊公第15−5)
〔(古の多くの帝王の中で、その徳がゆきわたり民が自然に化し、)
自ら手を下すことなく、天下をうまく治められた人は、まあ舜だろうネ。
いったい、舜は何をなさっていたのだろう。
ただただ、ご自分の身を敬〔つつし〕まれて、真南を向いておられただけだヨ。 *補注) 〕
補注)
天子や諸侯といった君子の位は、
「南面」して(北に位置して)政〔まつりごと〕をとりました。
cf.“May not Shun be instanced
as having governed efficiently
without exertion?
What did he do?
He did nothing but gravely
and rever‐ently occupy his imperial seat.”
【第155段】 世に従はん人は
《 現代語訳 》----------------------------------------------------
〔1〕世間なみに従って生きてゆこうと思う人は、
第一に物事の潮時〔しおどき〕を知らなければなりません。
物事の時機(順序)の悪いことは、人の耳にも逆らい、
気持ちをも悪くさせて、そのことがうまくゆきません。
(ですから)そういう、(そのことをなすべき)機会というものを
心得なければならないのです。・・・
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