儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

甘やかし

“甘やかし” を “麦ふみ” に想う  (その3)

※この記事は、 “甘やかし” を “麦ふみ” に想う (その2) の続きです。


《 「舐犢〔しとく〕の愛」 ・・・ 祖母の盲目的愛》 

 唐土〔もろこし〕に、「舐犢〔しとく〕の愛」(『後漢書』・楊彪伝)という言葉もあります。

古〔いにしえ〕の重み・深みのある言葉ですね。

犢〔こうし〕を母牛が舐〔な〕めるような愛の意、
転じて溺愛〔できあい〕することです。

わが国で言えば、「猫かわいがり」といったものでしょうか。
( 『広辞苑』には、《猫をかわいがるような甘やかした愛し方》 とあります。
が、私は、親猫のように子猫を舐めかわいがる:
舐猫〔なめねこ/しびょう〕の愛”とイメージすると面白いと思います。)

 今も昔も、専ら、祖母の愛は度を越した盲愛・溺愛で、
その弊〔へい〕甚だしいものがあるようです。

教職という仕事柄、多くの親子関係に接していますと、
「舐犢の愛」・“舐猫の愛”も直接に見聞きしています。

祖母が、金品を過度に、(時の宜しきを得ずに)与え、
“甘やかし”過剰で孫をダメにしてしまっています。

遠方の施設や学校(ときには檻のなか)に入れることになり、
つまり「家出」して同じ家に住めなくなっています。

文言どうり「甘やかし 子(孫〔まご〕)を捨てる」結果になってしまっているのです。



 この、祖母の盲目的愛がもたらす弊害の誘因・原因を、
2つの視点から考えてみました。

 まず第1に、直接には祖母の(孫に対する)“甘やかし”のようですが、
実際にはその父・母も同様に“甘い”のです。

祖母が育てたその子は、孫にとっての親です。
つまり、父母と祖父母の二代に亘〔わた〕っているところが、
問題の深刻さと解決の困難さであるといえましょう。

“甘やかし”の弊害の制御は二重に難しいということです。

 加えて第2に、すべての問題事例を通じて、
経済的(金品)に恵まれている家庭という共通点があります。

金品そのものが悪いわけではありませんが、
経済的に恵まれ(過ぎ)ていなければ、
きっと事情は違っていたでしょう。

父親の遺産相続・配分をめぐって、
母親・兄弟姉妹・親族が醜く争うことは、ままあることです。

“甘やかし”・金品のこの害毒は、あたかも、易八卦の【離・火】を
食や暖や明かりといった文化的なものに使わずに、
武器・兵器に使って自ら傷〔やぶ〕るがごときものです。



 思いつくままに、一つエピソードを付言いたします。
(アメリカ歴代大統領中)人気ナンバーワン、後に伝説ともなった若き大統領、 
J.F.ケネディー大統領の学生時代の話です。

大金持ちの一族期待の子でありながら、
賢明な親は、決して普通の学生がそうである以上のお金を与えなかったそうです。

しかしやがて、ケネディーが上院議員となり大統領への道を歩む時には、
一族が総力・全資力を傾注して大統領誕生を実現します。

甘やかすことなく、また経済的支援・資金力を 
“時に応じて”適切に使ったのです。 ── それはともかく。

 無論のこと、母にも 愚母もあれば賢母もあります。
祖母にも 甘い祖母もあれば賢い祖母もあります。

少子高齢社会の急速な進展により、
祖(父)母の影響力とその役割は重要度を増しています

祖母が賢であるか愚であるかの、
(とりわけ子の長男に対する)影響力の差は大きいものがあります。


ところで、私より前の世代、偉人・尊敬する人物の一人が、
野口英世〔のぐちひでよ〕博士です。

私も博士を尊敬しています。
ですが、野口英世を産み育てたお母さん(お「シカ」さん)には
もっと心からの偉大さを思い想います。

たどたどしい文字(“ひらがな”を息子・英世に手紙を書くために勉強します)でつづられた
アメリカにいる野口博士への手紙は、
読むにつけても、一言一句 涙を禁じ得ません ・・・・ 。

 賢人・大人は偉大です。
が、賢人・大人を産み育てた“おっかさん”は、もっと偉大です。
そのまた“おばあさん”もまた偉大です。

“愚祖母 ─ 愚母” の連鎖と同じく、
“賢祖母 ─ 賢母”の連鎖も続きます。

“受け継がれるもの = 優れたDNAの連鎖(「忠恕」)” の中にこそ
「一〔いつ」なるものはあります。


《 おわりに ・・・ 「家貧しくして孝子出づ」 》

 「豊かさ」が言われ、同時に 「豊かさとは何か?」 が問われています。
英語の “RICH 〔リッチ〕”には、
1) 貨幣〔かね〕もち と 2)(物心共々の)豊かさの2つの意味
が考えられます。

対〔たい〕の “POOR 〔プアー〕”には、 
1) 貨幣〔かね〕がない と 2)教養やこころの豊さがない 
の2つの意味が考えられます。

私は、今も昔も(多分これからも)お貨幣〔かね〕はありません。
が、知的財産やこころは豊かなつもりですので“RICH 〔リッチ〕” である、
と自負しています。

 かつて、マザー・テレサが来日された時、日本の印象を聞かれて
“モノは豊かだけれども心の貧しい国”と語られたことが思い起こされます。

敗戦後、「奇跡的」とも称される復興・高度成長を遂げ、
一時は「経済大国」ともいわれました。
(cf. 昨年中国に抜かれるまでGDP世界第2位) 

然しながら、失ったもの・その弊も、じつに大きなものがあったのです。


 “じゃがいも理論”は、自然(生物)界からの発想ですが、
社会・歴史的な視点で “衣食(経済) ─ 礼節(礼義・節義) ”の関係で
想っていることがあります。

衣食足りて礼節(栄辱)を知る」(「管子」・牧民) という、
よく知られている古代中国の文言があります。

確かに、戦乱の時代や敗戦直後などで、あまりにも経済的状況が劣悪ですと
人心が荒〔すさ〕むこともありましょう。

しかし、モノ(経済)が豊かであれば善いかというとそうでもありません。

むしろ、(過度の)経済的優良が、
“心の貧しさ”をよぶ傾向があるのではないでしょうか。



 私(高根)が語れば、“衣食過ぎて礼節(栄辱)を忘れる”いったところです。

本来は必要・有益なものでも、過ぎれば害毒として働くのです。
植物にとって有用な水も、多すぎれば根腐れをおこします。

平たく“食”に例えれば、本来人体にとって必要・有益な栄養分(糖分)も
過ぎれば健康を害し(糖尿病・肥満による諸疾病)命を奪います。

栄養過多(糖尿病)の人にとっては、
一定レベル以上の食物は害物・毒物に変じます。

この場合、美味〔おい〕しい食物を与えることは、
“甘やかし”であって愛情ではないのです。


 今、わが国の教育は、「教育的配慮」・「教育的愛情」・「人権尊重」 ・・・ 
などといった、他人〔ひと〕が抗し難い美名・名目のもと
“甘やかし”が蔓延しています。

その現状は、あたかも過度の栄養分(糖分)が肥満と疾病〔しっぺい〕をもたらし、
糖尿病を病んでいるのに、それでも運動もさせず
過食させ糖分を与え続けているようなものです。

病状は、極めて重篤です。



 “栄養不足・失調”も“飽食→過食”もダメです。
適食 =“中庸・中和”です。

経済的豊かさもあるレベルまではプラスに働きますが、
過ぎればマイナスです。

過不及なく、またモノと精神(こころ)とのバランス=“中庸”を
実現しなければなりません。

 


 ところで、私の好きなことばに、「家貧しくして孝子出づ」があります。

「家貧しくして」が、自分の実体験で(多少は)わかるのと、
「孝子」が、自分の“不孝”への“反面教師”としての想いから
一入〔ひとしお〕深い感銘を受けています。


 “孝”の精神・思想は、儒学思想・日本思想の要〔かなめ〕を成してきたものです。

今時〔いま〕「孝」の文字は死語となりつつあり、
“孝”の精神・思想は、その文字とともに忘れ去られようとしています。

“孝”の道は廃〔すた〕れ、家族・人倫 荒廃の極みにあります。



 教育界から『孝経〔こうきょう〕』も忘れ去られようとしています。
(cf. ちなみに「公共:コウキョウ」の精神もそうです) 

『孝経』は、孔子の後継であり、『論語』編纂の中心的役割を果たしたともいわれる
曾子〔そうし〕が著したといわれています。

儒学の「経書〔けいしょ〕」で、第一番目(早期に)学ぶ名著です。


 私は、『孝経』を愚息(小学生時)に 3年がかりで学修・暗記させ、
真儒・定例講習で 4年余をかけて全文を講じました。

不孝なる自分が、この齢〔よわい〕にして、“孝”を学び教えるにつけても
この「家貧しくして孝子出づ」 は(『孝経』文中のことばではありませんが)
好きなことばです。



 話を戻しまして。
「家貧しくして」は、「家は貧しかったけれども・貧しいにもかかわらず」というよりは、
「貧しかったからこそ」と捉えられると思います。

(モノが)貧しからこそ、その情愛が強まったと捉えられるのです。
そして、“踏まれた麦”のように逞〔たくま〕しく育つのです。

東大合格者の8割は、金持ちの家庭と言いますから、
今時の恵まれ過ぎている学生には理解できないことかも知れません。

寒いから温め合い、乏しいから分け合い譲り合うのです。
モノのない時代には、乏しい食物・ごちそうを、
親は自分は食べずとも子どもたちに与える(べき)ものです。── 私の親もそうでした。

その子どもは、親の“愛”に“愛と敬”をもって応えるのです。
現代、飽食 ─ 過食 の状態にあって、
むしろ逆に食物を奪い合うがごとき親子の関係です。



 かつて日本は、(モノ・経済的に)極めて貧しいちっぽけな島国でした。

しかし、心豊かな“道と徳”の国でした

そのことで、世界中の国々から一目置かれ、尊敬を勝ち取っていました。

私は、自分の両親を尊敬します。

過去の日本・先祖を尊敬します。

そうして、昔日〔むかし〕の日本に、日本民族としての誇りを感じると同時に、
今日〔いま〕の日本・日本人であることを恥ずかしく想っています

                                        ( 以 上 )



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“甘やかし” を “麦ふみ” に想う  (その2)

※この記事は、 “甘やかし” を “麦ふみ” に想う (その1) の続きです。


《 “甘やかし” と “ことわざ”の智恵 》


 “ことわざ”や慣用句というものは、日本の言語文化で非常に優れたものです。
形而上学的な、深遠な真理を、実にわかり易く身近に表現して
一般ピープルに広めています。

思想・哲学を学び教えていますと、
日本人(祖先)の、優れた特質・特技の一つの現れであるナ、といつも感心しています。

 子育てと“甘やかし”に関する、“ことわざ”や慣用句を
思いつくままにピックアップしてみますと。

先述の「可愛い子には、旅をさせろ」/「他人の釜の飯を喰わせろ」以外にも、
「親の甘茶が毒となる」/「親の甘いは子に毒薬」/「若い時の苦労は買ってでもせよ」など
枚挙に遑〔いとま/暇〕有りません。

 西郷南州(隆盛)の、「児孫の為〔ため〕に美田を買わず:【不為児孫買美田】」 
《子孫のためによく肥えた土地を買い残すようなことはしない》 も
実に善い言葉かと思います。

(中国に)「財宝は子孫を殺す」という表現もあります。
逆に、「子どもには金を残せ、金を残せないなら金を生み出す手段を残せ、
それもなかったら生きざまを残せ」ということ言った人もいます。
が、私には、(少なくとも今の時代には)いかがなものかと思われます。

 西郷南州は仁徳・君子タイプの巨人、情の人でもあったとされます。
「代表的日本人」です。

ちなみに、(推測するに)西郷さんのイメージは、
私の亡父のイメージと重なるものがあります。 注2) 

私の母も、(私の幼少の砌〔みぎり〕から)
賢い親は、子に教育を残すものです”と言っていました。
(その“教育”のおかげで、私も私の姉妹も、善き人生行路を
“衣食足りて”無事に生き続けております。)

 私の、とりわけ感慨深いものに、「甘やかし子を捨てる」があります。
「甘やかし」と「子を捨てる」 でキルようにしないと
意味がおかしくなるかと理解しています。

「甘やかし(た)子」を(見捨てて)捨ててしまってはいけませんからね!

また、「捨」の漢字を「拾」と間違える学生諸君がいます。
「捨・てる」を「拾・う」では意味が反対になってしまいます。

 この文言の意味はこうです。 
“甘やかし”(過度・不適切な盲愛)、わがまま一杯に子どもを育てるということは、
子どもをダメにするばかりでなく、
“家出”・“勘当〔かんどう〕”・“監獄入り” ・・・ やらで、
結局は一緒に無事に家に住めなくなる(子を失う)ことをいっています。

まことに、現実を直視しており、簡にして要〔よう〕です。

 また、東洋思想の源流・中国においても、
“甘やかし”の弊害は、古くから誡〔いまし〕められています。

法家思想の『韓非子〔かんぴし〕』に、「慈母に敗子あり」とあります。
母親があまりにも優しすぎて子を“甘やかし”、
幼児期の基本的生活習慣が出来ていないということです。

日本の現状そのままの感じです。

儒家思想の『孟子』にも、“子を換えて教育する”ことが説かれています。
自分の子だと、つい甘やかすからなのでしょう。

 現在の中国(中共)は、人口一つを較べても、日本の10倍以上の大所帯です。
(cf.人口13億と公〔おおやけ〕には言われておりますが実数はもっとでしょう)

その分、光(陽)のあたる部分も大きいですが、
陰〔かげ/いん〕の部分も同様に大きいと言えます。

 というのも、わが国の “甘やかし”・“過保護”の現状は、
少子化(子どもの数が少ない)もその誘因の一つとして、
少なからず影響していると考えられます。

それに比べて、中国における“1人っ子政策”による
“甘やかし”・“過保護”とその弊害は、
日本以上に深刻なものであると推測されます。

私は、中華人民共和国という経済大国は、飽食による肥満大国と
“1人っ子”による少子高齢大国としての課題を抱えた
むつかしい未来”が待っていると思います。 注3)

 ここで、“甘やかし”と“愛”の違いを、儒学の専用語を用いて考えてみましょう。

まず、“中庸”=過不及なきこと、“時中”=時のよろしきを得て中しているか、
という視点が考えられます。

とりわけ、儒学(易学)において、“時”の概念は要〔かなめ〕です。

そして、教育上も、人間の、そして個々人の、
発達段階〔ステージ〕に応じるということが極めて重要です。

 今一つは、「〔ゆる・す〕」と「〔じょ/ゆる・す〕」で表わせる部分の
差異が考えられるかと思います。

といいますのは、「許す」はただ単に許可するで、
精神的な本〔もと:根柢・根本〕がありません。

これに対して、「恕」の字義は“女”の(“口”ではなく)“領域・世界”の意です。

つまり、慈母・悲母の(無償の)愛のことです。

ゆるすこと、いつくしむことがその本質です。

この「(忠)恕」は、「仁」を心の面からみた本質的表現で、
宗聖・曾子が理解した“孔子一貫の道”です。

『論語』の、「夫子〔ふうし〕の道は忠恕〔ちゅうじょ〕のみ。:【夫子之道、忠恕而已矣】 」
(里仁第4) がそれです。

 「許す」と「恕す」、このあたりの違いが、
愚母と賢(慈・悲)母の分かれ目ではないでしょうか。

注2)
余事ながら、西郷さんと父は、姿恰好も似ていたようです。
西郷さんの肖像とされているものと父の全盛時代(壮年期)の写真とは、
確かに、恰幅のよさも顔立ちも醸し出すオーラもよく似ています。

その悲劇的な最後、惜しまれる生涯も重なります。

こんなエピソードを記憶しています。
父は土木・建設業の会社を手広く経営していました。
行きつけの街の写真館から、その撮影した父の写真を(立派に撮れているからでしょう)
店のショーウインドに(宣伝用に)飾らせてほしいとの要望があり、
展示されることとなりました。

そうすると、「西郷さん(の写真)が飾ってある」と 
皆からの(誉めことばの)評判を得たとのことでした。

当時、私は、子ども(小学生)ながらに少し得意だったことを記憶しています。



注3)
共産国・中国は、今や先進資本主義諸国顔負けの
急激な近代化・工業化を強行しています。

昨年(2010)、わが国を抜いて GDP世界第2位となり、
経済面においても“米・中”2大国の時代が到来しつつあります。

この、経済(や軍備)の陽の部分に対して、陰の部分があります。

1979年に始まる“1人っ子政策”は、
今、“甘やかし”・“過保護”による身心の弊害が顕わになり、
将来の人口構成のアンバランス(少子高齢社会)をもたらします。

“1人っ子政策”は親による“甘やかし”を、
急激な高度成長は(公害と)高カロリーの食生活を「助長」したのです。

今や中共は、全体で3億人、5人に1人が肥満ともいわれ、
糖尿病に満ちた肥満大国への道を歩みつつあります。
(`11.1.12 関西TV 参照)


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“甘やかし” を “麦ふみ” に想う  (その1)

“甘やかし” を “麦ふみ” に想う 

───  “ゴミふみ”と麦ふみ /“じゃがいも理論”/ 「甘やかし子を捨てる」 /
  舐犢〔しとく〕の愛・“舐猫の愛”/ 『孝経』 / 「家貧しくして孝子出づ」  ────

 

《 はじめに 》

私は、週2回、勤務先の高校で、“(もえるゴミの)ゴミふみ”をしています。
── どういうことかと申しますと、次のような事情です。

ゴミの公的回収費用は、(有料化の論議はあるものの)どこも無料だと思います。
そして、“ゴミ(回収ビニール)袋”のあり方は、自治体によってまちまちです。

このところ、ゴミ袋は指定化・有料化の傾向にあります。
一般のゴミ袋も店頭から、黒い袋は次第に姿を消し、
いつしか白色・半透明のものに変わってきていますね。

例えば、四国・愛媛の郷里の市〔し〕では、一枚(大)40円ほどの指定袋です。
現住の大阪北部の市では、市が自治会を通じて一定数無料配布しています。
一般の白または半透明袋でもよいことになっています。

これに対して、職場のある大阪南部の市では、(大)100円と少々高値です。
有料ゴミ袋の利益は、ゴミ回収関連の経費の一部を補填〔ほてん〕しているのでしょう。

一枚の値段は、しれているとも言えます。
それでも、(学校のように)消費数がまとまるとかなりの負担金額になります。

このゴミ袋にかかる費用を少しでも節約するために、
できるだけ(圧縮し、カサを減らして)“詰め込む”・“押し込む”ということです。

そんなわけで、やや大きめ(70リットル)厚出で黄色い柄の袋に、
“これでもか”といわんばかりに“親の敵〔かたき〕のように”、
大の男が足で踏みに踏んで
飲料の紙パックなどなどを踏みつぶしているというわけなのです。

まあ、特殊地域的な異様な風情〔ふぜい〕
(椿事〔ちんじ〕?)といったところでしょうか。〔苦笑〕


長い前置きは、この位といたしまして。

この“ゴミふみ”をしながら、不思議と“麦ふみ”を連想いたします。
そのあれこれ脳裡〔のうり〕に想っていますことを、今回まとめてみました。

 

《 麦踏み 》

 文部省唱歌・“冬景色”に、 ♪♯

「 1.さ霧消ゆる 湊江〔みなとえ〕の   舟に白し 朝の霜
    ただ 水鳥の声はして   いまだ覚めず 岸の家 / ♪
  2.烏〔からす〕鳴きて 木に高く  人は畑に 麦を踏む  
    げに小春日の のどけしや  かえり咲きの 花も見ゆ 」

とあります。(カラオケにあるので、時々歌っています♪)

私が幼少の砌〔みぎり〕、自分の家は農家ではなく、都市在住でしたので 
「畑に 麦を踏む」という直接の体験はないのですが、
小学国語の教科書挿し絵に、麦踏みの光景の挿し絵が幾度か登場していたのを
微〔かす〕かにに記憶しています。

ついでに、「小春日」。

小春日・小春日和〔こはるびより/小6月/ Indian summer〕は、
晩秋から初冬にかけてのポカポカと暖かいうららかな(=小春)日・ひよりのことです。

学生諸君で勘違いしている人が見受けられますが、
春の候を指した用語ではありません。

昨年(‘10.12)師走のはじめ頃、
天気予報で「小春日和」の表現をつかっていたのは、興深いものがありました。
(ちなみに、昨年末に発表の、一年の世相を表す漢字は「暑」でした。)

─── 話を戻しまして。



今時の学生には、とんと「麦踏み」の話が通じません。

例によって、言葉そのものの内容を示す説明と、
加えて(何故かという)解説が必要です。


ところで、『孟子』(公孫丑上)の中に、「助長」という寓話があります。
稲の成長を助けてやろうと、一日中引っ張り伸ばし
全部ダメにしてしまった愚かな男の話です。

(周りの人が)無理に力を添え、かえってこれ(=本人)を害することです。
(そこから、悪い傾向を一層強くすること、
/物事の成長・発展のために外から力を添えることの意で使われます。) 

「助長」は、稲を引っ張りダメにすることでたとえた、孟子の作り話です。
が、「麦踏み」は麦を踏んで善くする現実の話・実際の話です。

冬の寒さの中、成長して伸びようとしている麦の若芽を足で踏みつけるのです。

それによって、(適度な負荷・ダメージによって)、
逆に麦がしっかり丈夫に育つということなのです。

冬期、土が霜で浮いた状態なのを踏み固める効果があるのかも知れません。

中国には、「獅子の子おとし
(獅子=ライオンは中国にいませんから虎でしょう。
虎は、生まれた子を千仞〔せんじん〕の谷に落とし、
這い上がり生き残った子だけを養育する)
という、まことしやかな言い伝えもあります。


わが国にも、「可愛い子には、旅をさせろ」・「他人の釜の飯を喰わせろ」 
・・・ などなど。

自分の子を苦難・艱難の環境において、
その器量を試したり 育成したりせよと誡〔いまし〕めていますね。

 

《 “甘やかし” と “じゃがいも理論” 》
 
じゃがいも理論”は、誰もご存知ないでしょう。
これは私が高校生の頃、単なる思いつきで考案したものを自称したものです。

私の若かりし時登場した「ポテトチップス」は、スナック菓子の主流となり、
ありきたりと思われていた「じゃがいも(馬鈴薯〔ばれいしょ〕)」も
人気のシャレた野菜となりました。

さらに、その後“カウチ・ポテト族”などという、
(数十年前の)当世若者気質〔かたぎ〕を表わす言葉も誕生しました。

これは、自宅で“カウチ”に寝そべって(孤独に)“ポテトチップス”をかじりながら、
独りファミコンなどに時を過ごす若者気質のことです。

平成の御世、「ポテトチップス」の類のスナック菓子は全盛を極め
店頭にところ狭しと安価に並べられています。

そして、“じゃがいも”も、昔は非常に安価で庶民的で、
“コロッケ”・“肉じゃが”を始め家庭料理(お袋の料理)の主要食材でした。

片栗粉”(馬鈴薯でんぷん)も懐かしいです。

が、今時、都市部でスーパーの店頭に並ぶと
(ひと山いくらでなく、一個いくらで売られており) 
決っして安価とはいえないと感じることしきりです。


さて、私は農業に関する専門知識があるわけではありません。
けれども、洋の東西を問わず、広く栽培され
古くから好んで食されているこの“じゃがいも”の栽培は、
肥沃な土地である必要はありません。

いな、むしろ痩〔や〕せた土地で良く育ちます。

しっかりと、せっせと光合成(炭酸同化作用)を行い、
できた養分(デンプン)を 根(=じゃが芋部)に蓄えるのです。



人間(ヒト)の場合も、(経済的にもお金持ちではなく) 
一見小柄で華奢〔きゃしゃ〕な体つきのお母さんが、
ずいぶん子沢山であったりすることを思い浮かべたものです。

そこから、
物質的・生物学的環境に(適度に)恵まれていない方ほうが、
子孫を多く残す意思・パワーがある

と、考え “じゃがいも理論” と名付けました。

今(2010.12)、エチゼンクラゲの異常発生が報じられています。
その原因を、学者は異常気象により、クラゲにストレスが加わり
多量の繁殖をもたらしたのではないかと説明していました。

およそ、動植物=生物〔せいぶつ〕の本能として、
自分の生〔せい〕の不安(ストレス)があると
子孫を残そうという本源的働きが活発になるということなのでしょう。

シンプルといえばシンプルな、自然の摂理には違いありません。

現代日本の、物質的に過度に恵まれた社会において、
子供を産み育てようという、
人間本来の、女(母)性本来の意思・願望が鈍化〔どんか〕してきています。

今や※出生率は、1.2人程にまで半減しています。
生物学的・民族的・国家的危機です。 注1)

われわれ人間ともうしますものは、ともすると、自分が生物であること、
動物であることを忘れてしまいがちです。

天地自然の存在を超越した、何かしら特別な存在であると錯覚する人がいます。

結局最後に生き残る者は、最も強い者でも最も賢いものでもない。
それは、変化し続けるものである。」 

これは、『種の起源』で著名な生物学者チャールズ・ダーウィンの言葉です。
(儒学=『易経』は、変化とその対応の学です。) 

“甘やかし”・“過保護”は、ヒトを種〔しゅ〕として弱くしてしまいます。
“負のDNA”を連鎖させます。

人工薬や好環境に依存し過ぎると、自然治癒力を弱めていゆき、
いずれヒトは簡単に疾病〔しっぺい〕に斃〔たお〕れてしまいます。

今の日本人は、“負のDNA”を連鎖させ、
どんどん弱くなっていくように思えてなりません。

“じゃがいも”は、“じゃがいも”の立場から言えば、
“甘やかされず”(劣悪な)環境に変化・適応し、
種としてのパワーを強めながら種として繁栄しているとも表現できましょう。



注1)
正確には※「合計特殊出生率」。
本来人口が減少せずに、(ひと組=2人の男女が)再生産されるためには、
“2.2人”ほどの子どもを育てなければなりません。

今や、子どもの数は着実に減少し、(2005年で) 1.25人にまで低下しています。
半数近くに減った子ども達は、長じてまた、
半減に近い次世代しか生産しないという“連鎖”です。

日本人で減った人口(労働力人口)は、当然に、外国人が流入してくるわけです。

この「少子化」の現状を、「(女性の)産む権利=産まない権利」や
教育費の高額や「経済社会的な子育て環境の不整備」などの理由に
すり替えているように思われます。

そもそも、主要因は、子(子孫)を産み育てる本能・本源的パワーそれ自体が、
鈍化衰退していることにあります。
(ヒトという)種〔しゅ〕の危機、日本人という民族の危機です。



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