儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

三省〔さんせい〕に想う (後編)

三省〔さんせい〕に想う (後編)
  ─── 「省」の2義(意)/聖徳太子と耶律楚材の「省」/結果責任/
無駄・無責任の現代(2010)/“風をおこすものは吏と師”/“黙養” ───


《 師(教師・学校)と「省」 》

 「師走〔師走:12月〕」は、師ですら走り回る(ほど忙しい)という言葉ですから、
昔の先生・師匠は、日ごろよほどのんびりしたものだったのでしょう。

今世は、一転して、いつも走り回っています。

 「教師」という“人種”は、よほど会議が好きな人間と見えます。
そして、次から次へと“コトを生〔ふ〕やす”・“仕事づくり”の名人上手〔じょうず〕です。

それでいて、いっかな省く事ができません。

それは、趣味というより一種の性癖のように思われます。

今時の教師という者を一言に表すと、“賢い愚か者”と造語しました。
矛盾する語の組み合わせながら(小さな巨人のように)、
言い得て妙かなと思っています。

 したがって、学校は“会議漬け”です。
学校は、実〔まこと〕に実〔じつ〕のない会議と膨大な資料・印刷物の山です。

これほどの時間的・物的な無駄は、“親方日の丸”ならではでしょう。
民間会社の“会議漬け”であれば、「省」力化を図れなければ、
いずれ資本主義の原理によって“淘汰”されるというものです。

官公庁は、そんな“会議” をしていても賃金は支払われます。
税金の無駄の典型です。

ちなみに、官制の、日本の一番大規模な会議が「国会」であるともいえましょうか。

 次に、“省〔はぶ〕きなきコト生〔ふ〕やし”についてです。
あるものを【益】やすためには、あるものを【損】じなくてはなりません。

── そこでいくつか、事例を思い起こしました。

1.住宅の間取りプラン : 
  一つの(追加)部屋やより大きなスペースを求めるなら、
  どこかの部屋をあきらめるか狭くするかです。
  “ハコ”の大きさは限られていますからね。
  中途半端な折衷・両用は、どちらもどれも用をなしません。最悪です! 注5)

2.ショッピング : 
  財布の中身は一定です。
  あるものを買いたかったら、他のものはあきらめるか減らすかしなければ、
  借金ができるだけです。 
  足〔た〕るを知り(知足)、「分」を守った(安分)生活が大切です。

3.食毒・過食肥満 : 
  食べること、摂取ばかりで排出を疎〔おろそ〕かにすると
  便秘・宿便で健康を害します。
  エネルギー(カロリー)出入りのバランスを崩して、消費(代謝)が少ないと
  不健康な肥満、肥満に因る万病となります。  ── など等。

 責任という視点においても、敗戦後の教育関係者(教師と監督機関者)は無責任です。

政治家に“結果責任”があるように、教育関係者にも 
── 人間が成人(ひととなるの意)となるのに時間がかかる 
── 結果が出るのに時間がかかるにせよ、
育った人間に対して責任があります。

例えば、最高学府(といわれている)「東京大学」は
多くの人材社会に輩出していると同時に、
多くの犯罪者や問題人間を出しています。

東大の“先生”がたは、これをどのようにお考えになり、
どのように責任を認識なさっているのでしょうか? 

教育者は「成人」に、政治家は「社会」に、“結果責任”があるのです。

 現状においても、学校現場は、“責任”の語は死語のようです。

“権利”ばかりが声高に主張され語られ、
対(ペアー)概念である“義務”・“責任”という語はついぞ耳にした
ことがありません。

共同責任は無責任」という名言がありますが、教師の世界はまさにそれです。
“みんなが責任を取る” は “だれも責任を取らない” ということです。

議長でも分掌〔ぶんしょう〕でも、なんでもかんでも輪番制です。
“もち回り・たらい回し”で誰も責任を取りません。

平等意識もいびつです

体重50kgの人も100kgの人も、おとなも子供も一律に
同じ量のパン(ごはん)を食べさせるがごとき平等思想です。

 教師・学校は、その自らの「分〔ぶん:人間教育〕」は果たせないで、
「分」をこえて能力もないのに他の役割を担って(担わせられて)います

21世紀初頭の日本の教育は、(どうでもよい、むしろ害悪な)枝葉が生い繁り「陽」に過ぎ、
“わからなくなり”・“フン詰まり”状態です

こういう状態を、“お手上げ”というのでしょう。

現今〔いま〕、文化・学道の精華は、どこに視られましょうか?

 【師】は本来、軍隊のリーダー〔指導者〕の意、
そこから「敬」せられて先生の意となりました。 注6) 

人から敬〔うやま〕われ、自らは敬〔つつし〕むというのない先生はいてはいけません。

「師恩友益」という箴言〔しんげん〕があります。が、真の教師が絶滅の危機にあります。
これからの日本は、貴重な“人徳”の君子たる【師】の必要な時代です


注4) 易卦「風雷益」と「山沢損」のペアは、“生〔ふ〕やし”・“削り省く”の理を
    おしえていると私感しています。
    それは、中庸・バランスの原理であるのかもしれません。

注5) 現在、小学校からの英語教育が開始されようとしています。
    愚策の最たるものとして、将来呆れられることでしょう。
    日本の現状は、「国の語」である日本語教育すらままならない、
    つまり言語文化が廃れている危機的状況にあります。
    結果は、母語としての日本語も外国語としての英語(米語)もモノにならない、
    どこの国民か“わからない”人間を溢れさすだけでしょう。

注6) 易卦「地水師」: 戦争の軍師 → 先生の卦 / 忠臣の象〔かたち・しょう〕であり、
    大命を委任されている(指揮君臨する)象。

 

《 言語を省く 》 
 
 私の机上の箴言〔しんげん〕に、「七養」(格言聯璧〔れんぺき〕)を墨書しております。

その 【三】 に「言語を省いて以て神気を養う」があります。 ─── 黙養です。

 明〔みん〕の李二曲〔りにきょく〕は、この “黙養”の修業をしました。
三年の間、軽々しく一語たりと発しないで沈黙を守り、内に力を蓄養することで、
修業の後には、発する言葉に人を信服させた(重みをもった)ということです。

 都市に生活しておりますと(21世紀初頭・大阪)、つくづく “うるさく” 感じます。

いったい、世の中 煩〔うるさ〕過ぎます。喋り過ぎです。
全く、雑音・騒音に満ちています。

その、“うるささ”は、本来の人間の感性・神経を痛め心身を蝕〔むしば〕んでいくようです。

 車・電車などの乗り物やメディアの喧騒は、仕方なくもあきらめがつきますが、
人間の“うるささ”は度し難いものがあります。

殊に、若者学生の傍若無人の“うるささ”には閉口です。

電車の中やファーストフードの店内などの、
本来大声で喋るべきでない公共の場所で、
所かまわず辺りかまわず、大声で喋りまくっています。

そして、四六時中(“中毒”か“依存症”であることを示すように)携帯電話を弄んでいます。

聞きたくなくとも、耳障りに聞こえてくるわけですが、
つくづくどうでもよいような軽佻浮薄な内容です。

おまけに日本語自体がひどいものです。

 あまつさえ、ファーストフード店などでは、(ゴミ箱に放り込むだけの片づけなのに)
食べ散らかし・散乱ぶり目に余るものがあります。

まるで、ヒト以外のある種のホ乳類でもいたかのごとくに ・・・ です。

加えて、店外でも、“持ち帰り”の中味を食べた後の包装紙の類が散乱している光景は、
いたるところに見られます。

それやこれや、全く、動物的。ジャングルにいるような気になった時もあります。

 “現代若者学生気質〔かたぎ〕”は、自他の区別がなく、“自分〔エゴ〕”しかありません。

幼弱児的若者”です

自分が他人〔ひと〕からみて他人〔ひと〕であるという
幼児レベルの認識が欠如しています。

社会化”がなされておらず、他人〔ひと〕の立場に立つことがありません。

キリなき、グチは休題〔さておき〕。

 まったく、都会の日常生活で静寂を確保することは、難しい状況です。

私は、“聞こえざるを聴き、見えざるを観る”、心耳・心眼の世界を目指しているのですが、
そのため(第六感)には、五感の働きを静かに研ぎ澄ませることが必要です。

 ─── “雄弁は銀、沈黙は金”という古諺〔こげん〕がありましたが、
君子は、もの(口)静かなのが善いとつくづく想います。

まことに、言葉を省くは善しです。

 

《 おわりに ・・・ 中庸を! 》 

 東洋思想(儒学)の根源  は、
森羅万象の変化=「変易」とその対応を教えています。

そして同時に、変わらぬもの「不易」と、
そのシンプルなこと「易簡」 〔いかん/簡易〕を教えています。(「易の三義」) 

真理は、シンプルなものです。

吉田松陰先生の言葉にも、
「道は即ち高し、美し、約なり、近なり。」(『講孟餘話』・序文) とあります。

 ニュートンも、「自然は常に単純であり、何らの自家撞着〔じかどうちゃく〕をも持たない」と、
コペルニクスも、「自然は単純を愛す」と述べています。

自然界に対して、一方、人間界はどうでしょうか?

 先述のように、21世紀初頭・現代日本は、
大衆(民主主義)社会の弊が顕〔あらわ〕となっております。

敗戦後65年余の“ツケ”が回ってきて、
抜き差しならぬ状況に至ってまいりました。

それは、東洋流に表現すれば“陰陽のバランスシート”が大きく崩れ、
「陽」が過多・過剰の氾濫状態になっています。

易の【乾】=「ドラゴン」と【震】=「小ドラゴン」の過剰です。

行きつくところは、騒擾〔そうじょう〕、
“わからなくなって”自滅してゆくでしょう。

平たく例えれば、 適食 → 飽食 → 過食 の時代で、
超肥満により全身に身心の病を生じ、重篤に至らんとするがごときです。

 中庸」とは、“ホドよく”過不及がなくなすべきことに中〔かな〕っていることです。

時のよろしきを得て「時中」で、
和〔やわらぎ:(聖徳太子の「憲法十七条」の一)〕を実現して「中和」です。
 

 
 結びにあたり、「三省」を私自身にあてはめて付言しておきます。

奇しくも、「知命」・「知非」の年齢を経て、
何とか、人生の【節】(せつ/「水沢節」卦:節目)を通過いたしております。

自分の半生を振り返って、随分と徒労・無駄の連続であったことを
深く省みて(反省して)おります。

後生〔こうせい:=若人〕に比べて、絶対的に少ない人生の時間〔とき〕です。

 ところで、宮本武蔵は、「我、ことにおいて後悔せず」と言い放っております。

60余度の真剣勝負(文字どおり命をかけた勝負)に、
全勝した剣豪ならではの境地・言葉です(*後悔する時は死んでいる時)。

 私も、歳をかさね、パワーも人生の“持ち時間”も漸減し貴重なものとなっております。

「省みる」を、後悔の意味で繰り返している時間的暇〔いとま〕はありません。

後悔しなくてよいように、しっかりと省かねばなりません。

徒労の時を補い、人生の“帳じり・勘定”を合わせるためにも、
よくよく先を観、残り人生の中身・密度を濃く充実させなければならないと思います。

そして、貴重な生の時間を、実りある“”(=徳)で煌〔きら〕めかせたいものだと思っております。 

─── そんなことを、思い想いました。
                                  ( 完 )

 

三省〔さんせい〕に想う (前編)

三省〔さんせい〕に想う (前編)
  ─── 「省」の2義(意)/聖徳太子と耶律楚材の「省」/結果責任/
無駄・無責任の現代(2010)/“風をおこすものは吏と師”/“黙養” ───


《 はじめに 》

 漱石の 『草枕』の冒頭ではありませんが、
早朝、駅に向かってアスファルトの道路〔みち〕を歩きながら、
(ふと)「三省」についてこう考えました。

 ── 「吾日に、吾が身を三省す」(『論語』・学而第1)。
『論語』の始めの部分に登場する、宗聖・曽子の名言です。

よく、人口に膾炙〔かいしゃ〕しているものの一つといえましょう。

私にとりましても、「三省」の語は、書店“三省堂”の名前に冠していることで、
幼少の頃から馴染んでいるものです。

 そして、(他にもよくあることですが)、極めて有名なものの一つであるわりには、
“とんと意味がわかっていない”で用いられています。

また、“とんと実行されていない”ものでもあります。

 まことに、人間は、懲りないもので「省」がありません。
「三省」には、2000数百年の時を超えて言霊の真理があります。


《 「省」の2つの意味 》

 「三省」の「三」は、(二度ではダメですか? 四度ではダメですか?の)
三度〔みたび〕ではなくて、“あまたたび”・“何度も”ということです。

1)「省」の第一の意味。通常いわれている省〔かえり〕みる”、反省するの意味です。

 “反省するサル”がいましたが、あれは(反省のポーズを)演技させているだけです。
本当にしっかり反省できるのは、ヒトだけの有力な特質の一つでありましょう。

 今者〔いま〕は、全く、誰もが反省しない時世です。
後述いたしますが、誰もが責任を取らない “無責任の時代”と称せましょう。

 いつも、とりわけ政治家は、(宗教家などとは違って) 結果責任があるわけです。
が、誰も口にしません。

総理大臣・閣僚からして、外交・国防という国家的大事においても責任を取りません。 注3) 

そして、国民主権の下、“責任”は、帰する所国民自身にあるわけですが、
メディアも一向にそれを論じることはありません。

 今日の、わが国の教育(徳育)の堕落・退廃の“責任”は、
当然に、直接教育を担当した者が負うものでありましょうに、
いっかな責任の所在が話題になりません。

あれもこれも、猛反省を望みたいものばかりです。
がしかし、そもそも自覚がないあり様です。 
── 経験(歴史)に学ばない現代日本(人)のあり様は、
まさに民族の危機だと懸念しています。

 しかしながら、これでは「省」の真意を尽くしてはいません。
文字どうり“一知半解”というものです。

2)「省」の今一つの意味は、省〔はぶ〕く”です。省エネ・省力化の「しょう」です。

“省く”とは、弁別選良して取捨することです。
新しいものを加えるよりも、省くことのほうがずっと大切で難しいことなのです。

多くの人は、それが理解〔わか〕っていません。

そもそも、新しいものを付加するためには、
旧いもの・不要なものを捨てなければなりません。

国家社会の理〔ことわり〕も、人間自身の生理も同じです。

人の健康も、食べる(摂取)することばかりに目がゆきがちですが、
いかに善く排出するか、発散するかが大切なことなのです。

“出口 − 入口”のバランス(中庸)を得てうまくゆくのです。

 以上、「省」のこの 2つの意味は、もちろん、2つにして 1つです。
善く良く省みて省く、省くべく省みることが重要です。

 私が思いますに、「省」は、個人のレベルにおいても、組織・国家レベルにおいても、
よく知られている第一の意味ですら実現できていません。

いわんや、第二の意味の理解・実現においてをや、です。


《 聖徳太子と耶律楚材の「省」 》 

「省」について、身近な例を一つあげておきましょう。

日本の官庁に、「省」という文字を用いていますね。
“財務省(旧大蔵省)”や“文科省(旧文部省)”といった具合です。

この「省」の使用は、明治時代よりはるか以前、聖徳太子による行政改革にまで遡ります。

唐の律令制度を吸収する中で、採り入れたわけです。

聖徳太子は、日本(古代)史に、さんぜんと輝く偉大なる指導者(リーダー/摂政)にして
当代随一の賢人(儒学・仏教)です。 注1) 

607年には、大帝国・隋〔ずい〕に対等外交の立場を示した国書を、
皇帝・煬帝〔ようだい〕に申し込みます。

 ◎ ── 其の国書に曰く 
日出づる処〔ところ〕の天子、書を日没する処の天子に致す。
恙無〔つつがな〕きや、云云〔うんぬん〕」 と。 (『随書倭国伝』)

東のはての、ちっぽけな名もなき島国(倭国〔わこく〕=日本)の摂政が、
あえて不遜にして賢い表現を持って臨んだのです。 注2) 

そして、翌年“日中国交”が実現をみます。
まさに、日本外交史の金字塔でしょう。 注3)


話を戻しまして、役所というものは、「雑駁〔ざっぱく〕」(ex.駁雑・煩雑)になり、
「冗〔じょう〕」(ex.冗官・冗員・繁冗)になりますので、
省いて「簡〔かん/簡易・簡素〕」を実現すべきものなのです。

然るに、実際には、言葉の意味とはうらはらに、
全く逆に無駄・雑駁・冗員 ・・・ の限りです。

以上の聖徳太子と「省」のことは、故・安岡正篤先生が説かれていたことです。

また、安岡先生は、耶律楚材〔やりつそざい〕の次の言葉をいつも説いておられたと聞いております。

すなわち、「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生〔ふ〕やすは一事を減〔へ〕らすにしかず。」です。

耶律楚材(1190〜1244)は、私も世界史でよく周知している蒙古の偉材・賢材です。
(一般にはご存じない方も多いかと思います。)
政治家として、チンギス=ハン、オゴタイ=ハンに仕え、
モンゴル帝国の政治・経済の基礎を固めた大人物です。

これらのことは、ほんの歴史的一例にすぎませんが、
大きな組織・国家の秩序の礎〔いしずえ〕を創る大人・賢人は、
まず、「省」をしっかりと実現したということです。
    

注1) 太子は、中国の儒学を本〔もと〕として学び、見識・胆識を培ったわけですが、
なぜか聖徳太子=仏教奨励ばかりが強調されているように感じています。
日出づる処〔ところ〕の天子・・・」で外交姿勢、
〔やわらぎ/わ〕を以って貴〔とうと〕しとし・・・」・
「*〔いやび/れい〕を以って本〔もと〕とせよ」(十七条憲法・一,四)で、
官吏(公務員)の原点を鮮やかに示しています。
今日の日本の現状は、何とあやまちそむいていることでしょう!
(*礼 ── 利己主義〔=ジコチュウ〕にならず、他人〔ひと〕・全体の秩序・平和に対して、
その分〔ぶん〕を守ること〔=安分〕)


注2) 太子は、愚か者ではありません。それどころか、大賢人です。
よくよく考え抜いてのことです。
私が、勝手に察しますに。
1.文書の文言は、まずその通りです。
  (日本は中国より東方ですから、日は日本から昇り中国に沈みます。)
2.大運河建設や度重なる遠征で、大帝国・隋も国力が消耗しています。
  強国・高句麗との戦いを控え(煬帝が強行した高句麗遠征3回:612・613・614 は、
  ことごとく失敗し隋滅亡の原因になります)ています。
  こういった(当時の世界)状勢を分析して、
  隋は日本と友好関係でいることにこしたことはない、と考えるであろう ・・・ 云々。
3.当時の大国中国(隋)と日本(倭国)を較べれば、大人と幼児以上の力差です。
  幼稚に強がっているだけですから、はるばる本気で攻めてきたりはしないだろう
  というヨミ(先見)。

以上のことごとを考えて、まず初回この文書を送り(俗に言う“一発かまして”おいてから)、
次には巧みに丁重なる文書を送っています。
ちなみに推測しますに、初めて使いした(遣隋使の)小野妹子〔おののいもこ〕は、
気性激烈な煬帝との謁見で、さぞかし冷や汗をかいたでしょうが!         


注3) 今、中国と尖閣諸島沖・中国漁船衝突事件(10.9〜)を一つの契機として
緊張関係にあります。
日本外交の軟弱ぶり、愚拙さが際立っています。
中国政府が、長年国民に培ってきた“反日思想”が花開き、
歪められたナショナリズムが現出しているところです。
当然、機をみるに「敏」に、ロシアも韓国も動き始め侵し始めています。
国の安全保障を“他人〔ひと〕まかせ”にしているような“お人よし”の法治では、
何とも心もとない限りです。
早い話が、(日本国憲法を事実上作った)同盟国アメリカは、
自国の利益のため以外には決して動くことはないでしょう。
── この太古の聖徳太子の外交にひき比べて、
今日の日本外交のさまを日本人として、まことに恥ずかしく情けなく思います。
日本の為政者の見識・胆識のなさ、国家の誇りも展望〔ビジョン〕もなき軟弱外交。
その愚劣さと浅学ぶりは、世界から充分な軽蔑を抱かれています。
21世紀初頭の日本、優れた善き指導者(リーダー)を持てぬ時代、
国民の憐れさをつくづく想います。

 

《 為政者(政治家・リーダー)の「省」 》

風をおこすものは吏と師」という言葉があります。
官吏と教師が、善き“風化・教化”の本〔もと〕ということです。

いつの時代も、古くて真で深い言葉です。
21世紀初頭の当世(2010年)、吏〔り〕と師〔し〕に想いを馳せて一言してみたいと思います。

先述の、わが国の偉人・聖徳太子に関して。
有名な太子の業績の一つ、周知の「憲法十七条」は、(憲法と名付けられていますが)
一般ピープルのためのものではなく、
官吏(国家公務員)への努力目標・誡〔いまし〕め のような性格のものでした。

今回は、公務員の最たるもの、吏の頂点である政治家(国会・内閣)について、
一言を呈しておきましょう。 

‘09.9 政権が、(政治史上はじめて)自民党から民主党に変わりました。

易卦に擬〔なぞら〕えれば、古き腐劣な【蠱】〔こ/「山風蠱」〕が、
新しい虚弱なもの【明夷】〔めいい/「地火明夷」〕に変わったようなものです。

この、新政権が、永き自民党時代の悪弊・無駄を【革】〔あらため〕ようと 
“事業仕分け” を開始しました(`09.11〜)。

今年10月には、その第3回目(特別会計)が実施されました。

日本の政治の罪悪に近い無駄使いが、恰〔あたか〕も病体のウミを出すように削られ、
それはそれで結構なこと、意義あることです。
が、目下のところ総額としては僅かな削減です(第1回:6900億円、第2回:3500億円)。

また、日本の未来にとって学術・文化・芸術などの
削るべきでないものが混じってはいないでしょうか? 

また、“安い席にいる人”のための施策は、充分に予算化されているのでしょうか?

“仕分け”・削減には、担当者によほどの見識・胆識がなければならない筈です
(そもそも、国家議員が本来そうあるべきです
が) 。

 私には、“事業仕分け”が本〔もと〕を欠く、
糊塗〔こと〕的・小手先のものでしかないように見受けられます。

あまつさえ、パフォーマンスじみた報道がなされ、
“仕分け人”なるヒーローをメディア(TV報道)が作り出しています。

現代政治がぺージェント(見せ物)になっている好例です。

 “無駄”・“仕分け”なら、そもそもの話の第一に、
政府が作成した予算を改めて仕分け(=削減)しているのですから、ご苦労なことです。

この仕分けのプロセスそのものが(無駄なプロセス)、
ないに越したことはないのですから ・・・ 。

そもそもの話の第二に、民主党自身の、
一律(高い席にいる者にも)の“子供手当”をはじめとするバラまき政策が、
無駄・愚策です。

そもそもの話の第三に、現在の国会議員 
── 衆議院議員480人&参議院議員242人  ── が無駄です。

私が想いますに、今の御世〔みよ〕、国会議員そのものが、質・量共に問題です。
「省み省くことが」必要です。

 さて、例えば、大工さんは家を建て、お医者さんは病人を治すのが仕事です。
そのための、専門技術を持ったスペシャリストです。

“家を建てられない大工さん”、“手術の出来ない外科医”など、
いない(いてはいけない)わけです。

ところが、政治家に限っては、そのような素人〔しろうと〕議員を
陸続〔りくぞく〕と誕生させ現在に至っています。

だいたい、選ぶ側も立候補する側も、政治家はなにが仕事かわかっているのでしょうか?

議員は、議会(国会)で法律を作り、
首長(しゅちょう/くびちょう: 総理大臣・知事・市長)は、行政・かじ取り運行を担います。

政府=内閣は“議員内閣制”と言って、衆議院の多数を占める政党によって組織されます。

 国を動かし国家100年の大計を慮〔おもんばか〕る国会議員が、
当然のように臆面もなく、「これから勉強します」というような就任の弁をおっしゃっています。

2500万円〜3000万円ほどもの給与(歳費)を、貰〔もら〕って“勉強する”のでしょうか? 

しっかり勉強修養していて、見識・胆識を持った、
才徳兼備の大人〔たいじん〕が選ばれないでどうなるのでしょうか?
 

徳なき小人〔しょうじん〕、才徳非兼備の少なからぬご歴々が、
莫大な税金を無駄にしてます。

── もし、今が明治期、世界が弱肉強食・帝国主義の時代であれば、
国の存亡をかけて超大国ロシアと無謀な戦いをするか、
隷属に甘んずるかのギリギリの決定を、彼ら議員に託してよしということですね?


 ところで、今年虎(寅)年は、参議院議員選挙の年でした(‘10.7)。

ポスター掲示板を見ますと(大阪選挙区)、10名の候補者。

男女半々で共に30代がおおく、男性は若さをアピールしており、
女性は“みめ麗〔うるわ〕しき”かたがたです。
ほとんど(不自然に)笑っていて、白い歯を見せています。

想いました、さて、これは一体何の候補者達なのだろうか?と。

 “参議院”。かつては、“貴族院”と呼ばれました。
その“良識の府”はどこへいったのでしょうか?

長老・元勲・碩学〔せきがく〕・賢人・大人〔たいじん〕 ・・・ はどこにいるのでしょうか?

今の参議院には、2院制の意義も真理・正義のチエック機能もなにもありません。
まさに、“無用の長物”、税金の最大の無駄使いでしょう!

 21世紀初頭の、わが国大衆(民主主義)社会での政治状況は、
芸能人・スポーツ選手などでメディアに登場する有名人で溢れています。
(むろん例外はありますが)

“客寄せパンダ”と俗称される人々がみな議員バッジをつけています。

少人数ならご愛敬とも言えますが、そんな人ばかりが日本のかじ取りをしているようでは、
危機的状況と言わざるを得ません。

国会議員も地方の首長(知事・市長など)も、
担ぎあげられる当人より担ぎあげる政党が問題です。

それ以上に、何より「本〔もと〕」の問題の責は、
当選させる国民・府県民・市民自身にあります

このことを、マスメディアは(知ってか知らいでか)、一切報じません。

浅愚のゆえというより、わざとでしょう。

それは、国民はマスメディアにとって、“お客様”だからにすぎません

そして、むろんその“ツケ”は、国民自身に回ってくるのです


《 師(教師・学校)と「省」 》

 「師走〔師走:12月〕」は、師ですら走り回る(ほど忙しい)という言葉ですから、
昔の先生・師匠は、日ごろよほどのんびりしたものだったのでしょう。

今世は、一転して、いつも走り回っています。

 「教師」という“人種”は・・・、

※ 続きは、11月18日発行予定のメルマガ「三省に想う(後編)」で配信後、こちらのブログに掲載させて頂きます。



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