儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

儒学の「素」に想う (その3)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)


《 §3.白 賁 〔はくひ〕 について 》

儒学の源流思想(形而上学)は、『易経』になります。

その重要性は“五経”〔ごきょう〕の筆頭に位置づけられていたことからもわかります。


『易経』(=儒学)の思想にいう、賁〔かざ〕りの極致〔きょくち: 最高で最上の境地〕が
「白賁」〔はくひ・白く賁る〕です。

「白」=「素」〔そ・しろ〕です。


この「白」は 
(1) 最高の色「白」でもあり 
(2) 何も賁ることがない「空〔くう〕・無」(=“徳”で賁る) ことでもあります。


孔子は、『易経』を愛読しその研究家でもあったので、
この「白賁」の教養をもとに答えた可能性もなくはないでしょう。

その意図するところは同じです。
(尤〔もっと〕も、突然の『詩経』の文言についての質問であり、
「易は」ではなく「絵事は」とあるので、
直接「白賁」を脳裏に描いての言であるかどうかは疑問ですが。)


≪参考資料:高根・「『易経』64卦奥義・要説版」 p.22 抜粋引用≫

 

§.易卦 【山火賁〔ひ〕】  「賁〔ひ〕」は、かざる・あや。

(高根流 超高齢社会の卦

“文化の原則”は、知識・教養で身をかざること、
 本当のかざりは躾〔しつけ〕、晩年・夕日・有終の美、衰退の美・
 “モミジの紅葉” ・・・もみじ狩り(=愛でる)、“賁臨”、
 やぶれる・失敗する

  cf.「火」と「石のカケラ」から文化・文明はスタートした。(by.高根) 

  ・「天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す。」(彖伝)

  ※ 文明(離)の宜〔よろ〕しきに止まる(艮)のが人文。
    人文を観察して天下の人々を教化育成すべき。

  ・上爻辞: 「白く賁る。」“白賁”・・・美(徳)の極致、
                     あや・かざりの究極は「白」・“素”

    (1)すべての光を反射する
    (2)なにもない(染まっていない・白紙・素)

  ※ インテリアC、カラーC、福祉住環境C・・・の卦/
    超高齢社会の卦 (by.高根)


■上卦 艮山の下に下卦 離。   

  1)離の美を止めている象。
      → ※文明(離)の宜〔よろ〕しきに止まる(艮)のが人文

  2)山下に火ある象。山に沈む太陽(夕陽・夕映え・晩年のきらめき)。



《 §4.『中庸』と『老子』 ── 「素行自得」と「安分知足」/「無為自然」 》

○「君子は、其の位にして行い、その外〔ほか〕を願わず。 | 
 富貴にしては富貴に行い、貧賤にしては貧賤に行い、
 夷狄〔いてき〕にしては夷狄に行い、患難にしては患難に行う。 | 
 君子は入るとして自得せざる無し。」
   (『中庸』・第14章) ・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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儒学の「素」に想う (その2)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 §2.白 white = 素 について 》

「素」“そ”は、それを 「絵事」=色彩 として捉えれば、
「素」“しろ”と発音されます。

「黒:Black」に対する「白:White」です。

この色彩としての“白・黒”の概念については、
次の3つの場合を考えることができると思います。


(1)“White:白色”の意 :

白い地〔じ〕や紙の上に文字や絵をかく〔書く・画く〕場合です。

この色彩学上の「白:White」は、
すべての色を反射したもの(反射率100%、吸収率 0%)です。

すべての色は“三原色”から構成されます。

「色光(加法混色)の三原色」
(=黄みの赤【R:アール】・紫みの青【B:ビー】・緑【G:ジー】)
を重ねますと白色光となります。


逆にすべての色を吸収すると(反射率0%、吸収率 100%)、
「黒:Black」になります。

「絵の具・色料(減法混色)の三原色」
(赤紫【M:マゼンタ】・紫みの青【C:シアン】・黄【Y:イエロ−】)
をすべて合わせると(理論上は)黒色になります。

宇宙空間に存在するという“ブラックホール”は、
あらゆるものを吸収(光さえも吸収)している空間なので
“暗黒”空間であるということのようです。


ちなみに、この色料(絵の具)の三原色 + 白・黒 の5色が、
東洋(五行〔ごぎょう〕)思想にいう「五色〔ごしき〕」であり、
西洋色彩学にいうヨハネス・イッテンのペンタード(五原色)です。 ⇒ 参考資料 1)

image_20141001_1



(2)“何もない”の意 :

白を何もないの意で用いる場合があります。
「素」を“す”と発音する場合はそれでしょう。

“白紙に戻す”といえば、何もない「素〔もと=元〕」の状態に戻すことです。

関西で「素〔す〕うどん」といいますのは、
何もトッピングしていない“かけうどん”のことです。

関東で“酢入りうどん”と勘違いしている人もいたとか(笑)。

“うどん”は白色ですが、その意ではないと思います。

“素〔す〕肌”や“す〔素?〕っぴん”も、白い肌ではなく、
化粧していないありのまま(=天然・自然)の肌・顔のことでしょう。

“素足〔すあし〕”も、履〔は〕き物を履いていない裸足〔はだし〕のことでしょう。


「素=す」について加えれば、
例えば、スイカなどの野菜で、中に空洞ができている状態を
“ス〔素?〕が入〔い〕っている”などと表現しています。

“レンコン〔蓮根〕”は“蓮〔はす〕”の地下茎(ハスノネ)です。

“蓮”は仏教でも尊ばれている植物で、“はちす”ともいいます(古称)。
“レンコン〔蓮根〕”に8つほど穴(=ス)が空〔あ〕いているからではないでしょうか?


本来ある日本語の用法かどうかは定かではありませんが、
“素〔す〕の自分”・“素〔す〕になれる”とか
“人間、素〔す〕が大事”とか使うのを聞いたこともあります。

この場合の「素〔す〕」は「素〔もと〕」・「本〔もと〕」に近く、
偏見や先入観のない状態を指しているのでしょう。


また、白は易の八卦で示すと【離☲】と考えられます。

が、同時に【離☲】が持つ空〔くう〕・虚・中身がないの意であるとも考えられましょう。

“無”・“空〔くう〕” (ex.“空〔くう〕白”・“空〔から〕手”・“空〔から〕約束”)は、
黄老の思想・仏教の思想に重なってまいります。


(3)“透明なものがある”の意 :

さらに特殊な場合が考えられます。

何も無いといっても、宇宙空間のような真空ではなく、
地球上には“空気”があります。

例えば、遠くの山が青みがかかって見えるのは、
空気の層があるからです。

すなわち、空気の色は青色だからです。

従って逆に言えば、青色を少しずつ山の本来の色に混ぜて、
さらに輪郭をボカして描けば遠くの山々が表現できるというものです。

(cf.レオナルド・ダ・ヴィンチ: 色彩遠近法・空気遠近法・スフマート〔ぼかし〕)


また、“透明人間”ではないですが、
“透明なものがある”という場合があります。

例えば、ガラスやビニールなどは、白色ではなく何も無いのでもなく、
透明なものが存在するのです。

バリアーのような物理的エネルギー層も、
目に見えなくても存在しています。


自然科学で、宇宙や生命の誕生について
“無から有を生じた”といっても、
その “無”は“Nothing”〔何もない〕ということではなく、
「素〔もと〕」はあってのこと
でしょう。

形而上学(思想・哲学)で、黄老思想の“道=無”から有を生じるのも、
仏教思想の“空〔くう〕”から有を生じるのも、
“Nothing”からということではないのです。


cf.≪宇宙の誕生≫ 
「暗黒空間(時代)」/水素・ヘリウム・暗黒物質/「ファーストスター」 
(太陽の100万倍・青白〜白)/宇宙の膨張は加速度的・「暗黒エネルギー」の存在 
(高根・『大難解老子講』 pp.46〜49 参照のこと)


さて、この色彩学の白・黒の概念を“人間学”に擬〔なぞら〕えれば、
白=「素」・黒=「玄」と表現されます。

例えば、“素人〔しろうと〕”・“玄人〔くろうと〕”という対応語がありますね。

私が想いますに、それは結論的に要せば、
「白:White」=儒学の「素〔そ〕」・「黒:Black」=黄老の「玄〔げん〕」
ということです。

そして、それを易学的に表象すれば、
「白:White」=【離〔り〕☲】・「黒:Black」=【坎〔かん〕☵】
です。


儒学の「素〔そ〕」は、「明〔めい〕」です。

儒学は「明徳〔明という徳〕」を重視します。

例えば、『大学』の書き出しは
「大学の道は明徳を明らかにするに在り」(明明徳 とあります。

一方、黄老(老荘)のほうは「玄徳」を重視します。

明と玄(=暗)は、陽と陰と捉えることもできましょう。

この両者は、二様・相対峙〔あいたいじ〕するようなものではなく、
表裏一体です。

(深層)心理学的に“氷山”で図示してみますと、
次のようなものだと考えられます。 ⇒ 参考資料 2)


image_20141001_2



☆儒学の「素」〔そ/しろ=白〕/【離☲】 と 黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕/【坎☵】


─── “「白と黒」は色の本質であり、「素〔そ〕と玄」は人間の本質であり、
      【離】と【坎】は万物の源 である” ───
 (by たかね)



《 §3.白 賁 〔はくひ〕 について 》

儒学の源流思想(形而上学)は、『易経』になります。

その重要性は“五経”〔ごきょう〕の筆頭に位置づけられていたことからもわかります・・・



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儒学の「素」に想う (その1)

儒学の「素」〔そ/しろ=白〕に想う 

――― 孔子と“色の弟子”子夏〔しか〕の問答/
  “色”の三(定)義/「素以為絢」・「繪事後素」/
  素〔そ・しろ・す・もと〕=白:white/
  “五色〔ごしき〕”・イッテンの“ペンタード”/白賁〔はくひ〕/
  素行・自得≒安分知足・無為自然/儒学の「素」〔そ/しろ=白〕・【離☲】/
  黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕・【坎☵】/“(善)美なるものは白” ――――


《 §.はじめに 》

最近(2014)スピーチで、
「皆さんには、進路(将来・人生・職業)に対するいろいろな思いがあるでしょう。
―― そこにをつけなければなりません・・・」
という表現を耳にしたことがあります。

また、駅の宣伝大パネルで、某大学の宣伝広告に、
巨大な“カメレオン” 補注1) が虹色に彩色されて描かれ
「キミハナニイロ?」とキャッチコピーが大きく書かれていました。

これらは、色と人生が重ねられて擬〔なぞら〕えられて語られているほんの一例です。
21世紀は“カラーの時代 〔Color Ages〕”ということを改めて感じました。

そもそも色の世界を持つもの(色が見えるもの)は、ホ乳類だけです。
犬の人生(犬生?)や猫の人生(猫生?)は、
白と黒の“グレースケール”の中に表現され擬〔なぞら〕えられるわけです。


ところで、孔子の弟子に子夏〔しか〕という人がいます。
“子貢〔しこう〕”と字面〔じずら〕が似ていて間違えそうですが ・・・ 。

『論語』文学子游子夏(先進・第11)とありますように、
「四科(十哲)」では、子游と共に文学に位置づけられている大学者です。
「文学」というのは、古典・経学のことです。

姓は卜〔ぼく〕、名は商。子夏は字〔あざな〕です。
孔子より、44歳年少です
謹厳実直、まじめで学究タイプの人柄であったといいます。

文才があり、殊〔こと〕に礼学の研究では第一人者です。
大学学長・総長といった感じでしょうか。

曾子が仁を重視する立場(忠恕派)なのに対して、
子夏は礼を重視する立場(礼学派)です。

儒学の六経を後世に伝えた功績は、まことに大なるものがあります。
(漢代の経学は、子夏の影響力によるものが大きいです。) 

長寿を得て、多くの門弟を育成しました。
その子を亡くした悲しみで、盲目になったとも伝えられています。

子夏は『論語』でしか知られることがない、といってもよい人です。
が、私は、非常にその文言に印象深いものがあります。

というのは、“色”っぽい(?)弟子・子夏としての意なのです。
私感ながら、『論語』は子夏の言に、
“色”にまつわる記述が多くあるように思われるのです。

私、日本最初の 1級カラーコーディネーター
(’92. 現文部科学省認定「色彩検定」)としましては、
子夏は、孔子門下で “色の弟子”としての印象なのです。 補)


さて、『論語』の一節に、“絵の事”に擬えて
「素」=“白”について述べられている孔子と子夏の興味深い問答があります。
(八佾・第3−8) 

「素」〔そ/しろ=白〕・【離☲】は、儒学思想の要〔かなめ〕です
私は、“「白と黒」は色の本質であり、「素〔そ〕と玄」は人間の本質であり、
【離☲】と【坎☵】は万物の源 である”
 と考えております

今回は、この問答の一節を“切り口”にして、
「素」=“白”が持つ人間学的・形而上学的な真意・深意にアプローチしてみたいと想います。


補注1) 

易学・『易経』は、変化とその対応の学です。
「易」の字義について、蜥易〔せきえき〕説というものがあります。
それは、「蜴」(とかげ)に因〔ちな〕むとするもので、
トカゲ〔蜥蜴・石竜子〕は変化するからというものです。
私は、この「蜴」を、体表の色を周囲の環境に合わせて
千変万化させる(保護色)“カメレオン”の一種ではないかと想像しています。

補)

“色”の三(定)義を考える(色相・明度・彩度の“三属性・三要素”のことではありません)

(1)“色っぽい”の意。「色」の文字は、元来男女の“からみ”を表した象形文字です。
   この意味は、東洋においてのみです。
(2)“カラー〔色彩(学):Coror/Corour〕”の意。欧米における “色”は、この意味です。
(3)“顔色”の意。「顔(色)が青(白)い」 といったように、顔に出る色のことです。

cf.漢方(中医)と顔色 ⇒ 五行・五色の思想から体系立てられています。

ex.“五色診”後述


《 §1.孔子と子夏の「素」をめぐる問答 》


『論語』 に孔子と子夏の、「素」=“白”をめぐる興味深い問答があります。
まずは、全文を紹介いたしましょう。 

○“子夏問いて曰く、「『巧笑倩〔こうしょう せん〕たり、
美目盼〔びもく はん/へん〕たり、素〔そ〕以て絢〔あや〕を為す。』 ※注) 
とは何の謂いぞや。」 | 
子曰く、「絵事〔かいじ/絵の事〕は、 
A:素より後〔のち〕にす(後る) 」 B:素を後〔のち〕にす。」と。 | 
曰く、「礼は後か」 | 
子曰く、「予〔われ/よ〕を起こすものは、商なり。 (※予を起こすものなり。商や・・・ ) 
始めて与〔とも〕に詩を言うべきのみ。」と。”  

(八佾・第3−8)

  
【 子夏問曰、巧笑倩兮、美目盼兮、以為絢兮、何謂也。| 
子曰、繪事後素。 | 
曰、禮後乎。 | 子曰、起予者商也。
始可與言詩已矣。(※子曰、起予者。商也始可與言詩已矣。) 


《 大 意 》
子夏が、「『にっこり〔莞爾〕と笑うと口元が可愛らしく(エクボが出て愛嬌があり)、
目(元)はパッチリと(黒い瞳が白に対照して)いかにも美しく、
(その白い素肌の)上にうっすらと白粉〔おしろい〕のお化粧を刷〔は〕いて、
何とも艶〔あで〕やか』※注) という詩がありますが、
これはどういう意味のことを言っているのでしょうか。」 と質問しました。 |
孔先生がおっしゃるのには、「絵画で言えば、 
A:(の胡粉〔ごふん〕)で地塗りしてその上に彩色するようなものだ。」
B:彩色して一番最後に白色の絵具(胡粉〔ごふん〕)で仕上げるようなものだ。
」 
と。 |
(子夏が質問して言うには) 
A:礼(儀作法)は、まごころ〔忠信〕というベース・地塗りが出来てから行われるものですね。」 
B:(まごころをもとにして) 礼(儀作法)が人の修養・仕上げにあたるものなのですね
。」 |
孔先生がおっしゃるのには、
「わしの思いつかなかったことを言って(啓発して)くれる者は商(子夏の名)だね。
(※わしの思いつかなかったことを言って(啓発して)くれたものだね。商よ、お前でこそ、共に ・・・ ) 
商のような(古典を活学できる)人にして、はじめて共に詩を語ることができるというものだね〜。」 と。


《 解 説 》
子夏のこの時の年齢はさだかではありませんが、
(孔子との年齢差を考えるにつけても)おそらく若々しい青年だったでしょう。
純情内気な子夏が、生真面目〔きまじめ〕に(艶〔つや〕っぽいことについての)とぼけた質問をして、
それに対して覚人達人の孔子が ポン とよくわからぬ応〔こた〕えをしています。
その応えに、賢く類推し凛〔りん〕として思考を閃〔ひらめ〕かせています。
禮後乎」とわずか三字で表現したところに“打てば響く”がごとき子夏のシャープな覚りが感じられます。
その賢い弟子に対して「起予者」と三字で応じた孔子も流石〔さすが〕なるものがあります。

―― この問答の深意は、読者のみなさんには、“禅問答”のようで、
トン とよくわからないものでしょう。
このあたりが又、『論語』の得も言われぬ妙味たるゆえんかもしれません。


※注) 
『詩経』の詩について、上2句は衛風・碩人篇にありますが、下1句は見当たりません。
「笑〔え〕まい可愛いや口もとえくぼ、目もと美しぱっちりと、白さで美しさをしあげたよ。」
(金谷治・『論語』 p.56 参照引用)


参考資料

「 人形 〔にんぎょう〕 」      1911(M.44)年 5月 

   文部省唱歌/作詞作曲ともに不詳/ 『尋常小学校唱歌・第一学年用』

1.わたしの人形はよい人形。
  目は ぱっちりと いろじろで、
  小さい口もと 愛らしい。
  わたしの人形はよい人形。

2.わたしの人形はよい人形。
  歌を うたえば ねんねして、
  ひとりでおいても 泣きません。 
  わたしの人形はよい人形。


※1970年代、替え歌 CMソング(関西地区限定)  『モリシゲ人形のうた』

1.わたしの人形は モリシゲで
  お顔がよくて 可愛くて
  五人囃子に 内裏さま
  たのしいみんなの ひな祭り

 ―――  2.3.4.5.

 最後に

  目は ぱっちりと いろじろで
  小さい口もと 愛らしい
  わたしの人形は よい人形。


《 §2.白 white = 素 について 》

「素」“そ”は、それを 「絵事」=色彩 として捉えれば、「素」“しろ”と発音されます。
「黒:Black」に対する「白:White」です。

この色彩としての“白・黒”の概念については、
次の3つの場合を考えることができると思います・・・



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