儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

縁尋機妙

第50回 定例講習【特別講義】のあらまし (第3回)

※この記事は、第50回 定例講習【特別講義】のあらまし (第2回) の続きです。


第50回 定例講習(‘12.4.22 ) レジュメ
─── 【特別講義】 あらまし ───    (第3回)


≪ 【損・益】の深意 ── 現代的意義を考える ≫

 易の賓卦・反卦の【損・益】卦、
五行思想の相剋〔そうこく〕関係【水】と【火】、陰・陽の相対関係を、
矛盾・対立するものとして(弁証法的に)捉えるのは、西洋的かもしれません。

私が想いますに、今一つの考え方として、
両者がペアで協力してはたらくという捉え方ができるのではないでしょうか。

東洋的視点とも言えましょう。

それは、車の両輪やコイン(紙幣)の裏表などと例えるよりは、
「呼吸」のような関係に似ていると想います。── といいますのは。

「呼吸」は、 (1) 「呼〔はく〕」と「吸〔すう〕」が、
反対の用(作用・はたらき)でありながら、お互いを助け合っています。

「出入」〔人が出たり入ったり/食物の排泄と摂取〕、
「終始」〔物事の終わりと始まり〕、
「忘却と記憶」〔忘れることと覚える保持すること〕などの関係も、同様です。

(2) 次に強調したいのが、両者の順序です

どちらが先行か、後行かです。

深呼吸は、まず、しっかりと吐いて(汚れた空気を出して、肺を空にして)から、
新鮮な空気を十二分に吸い込むのです。

ですから 「呼 ⇒ 吸」 です。

食物も、まずお腹を空腹にして(宿便を)排泄してからしっかりと食べます。

「出 ⇒ 入」 です。

頭の中も、まず忘れてリセット(空〔から〕・無)にしてから、
新しい知識や忘れたことを再び記憶します。

記憶の定着は“憶え ー 忘れる”を17回以上繰りかえすと実現すると
心理学でいわれていると聞いたことがあります。

つまり、記憶のコツは、忘却することにあるということです。

ですから、 「忘却 ⇒ 記憶」です。

また、ものごと、終わりは始まり。終わって始まります。

『大学』に「物に本末有り、事に終始有り。先後するところを知れば、則ち道に近し。」
とあります。

英語の“コメンスメント”〔commencement:卒業式〕も始まりの意味です。

「始終」といわず「終始」といいます。

「終 ⇒ 始」 です。 

─── このように、【損・益】も【損】が先で【益】は後です。

またかくあるべきなのです。

さて、平成の大衆社会は、先賢の教えに学ばず、
カケネなしの愚行を繰り返しています。

全く、ちぐはぐ、トンチンカンな社会状況です。

己の利ばかりを思い、過陽” で “わからぬ” 状況が蔓延しております。

企業・経済人は、まず(先に)ユーザーへの福音となるように社会貢献を考え、
利益は後です。

公務員・教育の現場も“中庸”を欠き、駁雑〔ばくざつ〕に過ぎます。

まず、よく省〔かえり〕み省〔はぶ〕き、
空〔あき〕を創ってから新規事を益〔ま〕すのです。

なお、余事ながら付言しますと。人生にもリセットが大事かもしれません。

まず、チャラ(白紙)にして、新しい人生が描けるのでしょう。

○ 「〔キョ〕伯玉 行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す。」 ※補)
   (『淮南子〔えなんじ〕』)

安岡正篤先生の著書〔講演録〕・『易と人生哲学』 (致知出版社) で知り、
感銘を受けた文言です。

私は、50の歳の時に奇〔く〕しくも、この言葉・この本に出合ったわけです。

今にして想うにつけても、まさに、 「縁尋機妙」な出合いでした。


※補)

キョ伯玉〔きょはくぎょく〕という人は 孔子がたいへん尊敬していた
衛〔えい〕の国の賢大夫です。

その名言が、これです。

その意味は、今までの四十九年の人生が間違っていた と認識して、
五十歳で人生を“リセット”したということです。

なかなか出来ないことです。

そして、「六十にして、六十化す。」と続きます。

つまり、今までの人生が全部駄目だったと認めたうえで、
そこから 自己改造して進歩向上させていくことが出来るものなのです。


§.【その2】  陰陽相対(待)  ・・・




※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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「真儒協会開設 5周年に想う」 真儒協会副会長 嬉納 禄子

「真儒協会開設 5周年に想う」
                    真儒協会副会長 : 嬉納 禄子 〔きな さちこ〕

―――  照隅啓蒙/たかね研究所/「君子の儒」/「一〔いつ〕なるもの」(不変・変易)/
       「縁尋機妙」/「経の師は遇い易く、人の師は遇い難し」/“変化〔Change〕の学”/
       「時に中す」/「飛龍」  ―――


( ※ 本稿は、さるH.23.4.29 に催された“開設5周年 真儒の集い”で、参加者に配布いたしました 嬉納禄子 女史の随想です。)


《 はじめに 》

 真儒協会開設 5周年を皆さまと共に迎えられますことを、
心よりお慶び申し上げます。

 “真儒協会”は、平成19年 6月16日に、“発足の会を催しまして、
照隅啓蒙〔しょうぐうけいもう〕 ”の対外的活動を開始いたしました。

「光陰矢のごとし」と申しますが、あっという間に月日が流れ 
5周年目の“真儒の集い”を迎えることとなりました。

誠に、感慨深いものがあります。


 念願のインタ−ネットによる発信活動も、
平成21年春から本格的に開始いたしました。

○真儒協会ホームページ : http://jugaku.net/
  (文字検索 : 儒学に学ぶ

○盧会長のブログ : http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/
  (文字検索 : 儒灯 〔じゅとう〕 】

内容も “定例講習レジュメ” ・ “儒学からの言霊” ・ “儒学随想” ・・・ など、
しっかりと充実してまいりました。

沢山の方がご覧になって、自学・自修に利用して頂きつつあります。

ネットによる発信内容に感銘を受けられて、
それをきっかけに、“真儒の集い”に参加されたり、
“定例講習”を受講されたりする方も増えてまいりました。


 『論語』の冒頭に、「朋〔とも〕遠方より来る有り。亦〔また〕楽しからずや。」 (学而第1)
[共に道を学ぼうとして、思いがけなく友人が遠くからはるばるやって来る。
何とまあ、楽しいことではないか。] とあります。 

このことが、近年は、私にとりまして大変身近に力強く感じられております。


 さて、敗戦後の日本は、“日本の善きこころ” を忘れ、
教育現場から(半世紀以上も)道徳・徳育が無くなっています。

これでは日本の未来は危ういと、
盧先生は“儒学”のルネサンス〔再生・復活〕を志されました。

『論語』にいう「温故知新」です。

新たに「真儒協会」を開設され、
“照隅啓蒙〔しょうぐうけいもう〕 ―― もっと光を ―― ”のスローガンのもとに、
今日まで着実な活動を重ねてきておられます。


 真儒協会の中心的活動である“定例講習”は、
「論語」 ・ 「老子」「孝経」 : H.22終了) ・ 「本学〔もとがく〕」 ・ 「易経」 の
4つの講座から構成されております。

全講座を、盧秀人年先生お1人で講義されておいでです。

私は、4科・4人の先生による講義と錯覚して、
いつも不思議を感じるところです。

漢文原書の現代語訳・解説をはじめ、
すべてオリジナルで講習教材を作成され、
またパソコンに入力してレジュメをネット上に発信されております。

http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/cat_10018468.html

いつもながらのこととはいえ、驚異的な多才〔マルチ〕と 
その精励ぶりに感心することしきりです。


 3年余をかけて「孝経」全文の講義が終了し、
昨年度から、「老子」の学習が開始されました。

東洋思想を学ぶ者にとって到達点、ある種の憧憬〔あこがれ〕ともいえる
『易経』『老子』
を、ふたつながら学べますことを
ほんとうにありがたく感じております。

《 師のこと 》
 
 私の師・盧先生は、多芸多才の器量人です。

多くの分野に才能を発揮されています。

学問においても、“ふところ” が深く、多くの専門分野を一身に修められ、
学識を蓄えられておいでです。

公的資格を 50 ほどもお持ちです。


 例えば、美術・デザインの分野では、
「カラー〔色彩〕」の第一人者として知られています。

ご自身、日本で最初の、第一回文科省認定・1級カラーコーディネーターです
(’92認定取得)。

大学で講義されたり民間のスクールや団体で講演を重ねられたり、
教本執筆や教材の開発を手掛けられたりと、
その才能をいかんなく発揮されてきました。


 私も、「たかね研究所」で “色彩研究科”に在籍して、
色彩検定対策講座、パーソナルカラー研修課程などを広く・長く学ばせて頂きました。

“色彩研究科”には、1級カラーコーディネーターやカラーアナリストの
全国レベルの先生方が、きら星のごとくいらっしゃいました。

それらの諸先生方の、個性あふれる優れた面に学ぶことが出来ました。

とても、恵まれたことと感謝いたしております。


 とりわけ、私は、盧先生の肝いりで、
カラー・メイク・アロマのスペシャリストである 汐満未佐子先生に、
パーソナルカラーとメイクの専門的個人指導をして頂きました。

たいへん光栄に思っております。

汐満先生は、真儒協会とのつながりでも、
カラーやメイク、風水の分野で“特別セミナー”をお手伝い頂き、
また毎・年度当初の “真儒の集い”では、司会・進行をお務めになっていらっしゃいます。


 そして、特に記しておきたいのが盧先生のご子息、盧未来さまについてです。

 盧未来さまは、幼少より父君〔ちちぎみ〕に、
『孝経』・『大学』・『論語』・『易経』などの薫陶を受けられました。

“11歳”で、易学の大きな団体で初めての講演 (テーマ : 「易と動物」 を
立派に果たされました。

その折、受講生の(年配)の方が感動なさいまして、
「今まで『易経』は難しいと敬遠していましたが、今日からその考えを改めて、
勉強していきたいと思います。」との感想を述べられたのを、
印象深く記憶しています。

翌年、12歳の時、真儒協会・“発足の会”で、
「教育勅語」 を格調高く朗誦〔ろうしょう〕
されました。


 盧未来さまは、その後、逞〔たくま〕しく成長されており
人望・徳望は衆を超え、強力なリーダーシップを育まれています。

中1で剣道部主将、高1で応援団団長に就かれました。

現在、高校生活を諸活動と勉学に、
「自強不息〔じきょうふそく〕」 (『易経』 乾・大象) で励んでいらっしゃいます。


 盧先生は、よく、「一〔いつ〕なるもの」(不変・変易)は、
一面で“受け継がれるもの”
 (DNA./【雷風恒〔らいふうこう〕】卦)でもある、
と持論を語っておられます。


志と思想は、受け継がれなければなりません。

『論語』に「後生畏るべし」とありますが、
まさに、未来さまのような青年のことをいうのでしょう。

将来、正しく志と思想を“受け継ぎ”、
日本を背負う 「君子の儒」・リ−ダー となり、
“世界の架け橋”となられることを楽しみに期待いたしております。



《 友のこと 》
 
 「たかね易学研究所」の学友で、
物故者となられた方々にも善い人がいました。 

 Rさんは、いつもご自身の波乱に満ちた深い人生体験を、
易学に基づいて語られていました。

それは、私にとって活〔い〕きた学問であり、とても勉強になりました。

難病をかかえており、医師から余命が告げられ、
「その(告げられた寿命の)歳から、すでに10年 生き続けています」
とおっしゃっていたのが、いまだに印象に残っています。

盧先生のもとで学ぶことができる機縁をとても喜ばれて、
熱心に学習されていました。

ご自身が、サロン風の“鑑定所”を開いて、
アドバイザーとして活躍する日を楽しみになさっていましたのに。

残念ながら、その日をまたずに逝〔い〕かれました。

 もうおひと方、Tさんは、真儒・定例講習では、
「(研究)発表」で朗読を務められました。

盧先生から、私といっしょに“書”もご指導していただき
2人して立派な軸装(半折)に仕上げ、美術展に出品したりしました。

彼女は、東洋源流思想を熱心に学ばれていました。

ご自身、「仁徳」が体からにじみでていて、“凛〔りん〕”とした雰囲気の方でした。


 この、類〔たぐい〕まれなるお二人は、私の半生最良の学友・道友でした。

お二人にご縁があったことを身の幸せと思い、
縁尋の機妙〔えんじん きみょう: 善い人から善い人へと縁がつながっていきます。
これは、まことに人知を超えた神秘なものであるということ〕」

想わずにはいられません。

 以上にみてまいりました私の師との、また友との巡り合いにつきましては、
今、この「縁尋機妙」ということばを、深くかみしめております。

人の運命は、人間や学問・モノ事などとの出合いによって、
大きく変わってまいります。

善い師・善い友に巡り合えば生きていく力が増し、
善い学問・モノ事は人生を豊かに輝かせます。

このあたりが、“人生(の成功)は運が大きい”といわれるゆえんなのでしょう。

“自分のことは自分で決めろ”と申しますが、
“変化”に良く即応し善き生活環境(場)に自分をおくには、
善い師・友の導きが重要です。

中国の古い言葉に、
「経〔けい〕の師は遇い易く、人の師は遇い難し」とあります。

講説の先生には出会えても、
人生を教えてくれる先生にはなかなか出会えないものです。


この歳になり、しみじみとこのことを実感しております。


《 私のこと ・・・ 》

 私は、故郷の沖縄から大阪に出てきて 40年ほどになります。

その大半の歳月を「たかね研究所」という“場”での学修活動で過ごしました。

盧先生の講演のアシスタント、政治活動のお手伝い、
歌唱などの芸術活動、などなど。

他所〔ほか〕では得られない、幅広く多彩な人生体験を重ねさせて頂きました。


 私は、師に恵まれているとつくづく思います。

盧先生に出合ったことで、『易経』を筆頭に東洋思想を学ぶことができました。

更に、盧先生とのご縁を通して(間接的に)東洋思想の泰斗〔たいと〕、
安岡正篤先生の教学を学ぶことができています。


 なかんずく、盧先生から東洋思想の源流 『易経』を学べたことは、
私の“人生の宝”・“財産”です。


この易学により、後半生の生き方が一変いたしました。

易は“変化〔Change〕の学”です。

「臨機応変」・“臨変応機”という語があります。

私は、盧先生から、その時々・変化に対して
適切に「敏〔びん〕」に対応すべきであることを教えて頂きました。

「時のよろしきを得る」・「時に随〔したが〕う」・「時に中す」・・・ ということです。

先生から易を学んだことで、窮することなく、
円通自在の易の世界で人生を賁〔かざ〕ることができております。


 ところで、真儒協会では、毎年4月の年度初めに
“真儒の集い”を開催
いたしております。

1部:特別講演 / 2部:式典 の構成内容です。


 私も、平成21年度“真儒の集い”・特別講演で講演させていただきました。

テーマは、「儒学と私 ―― 師と 『易経事始』 との出合い ―― 」です。
http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/50755067.html 

私にとって、過分の貴重な体験でした。

それまで、日本易学協会大阪府支部、関西師友協会・篤教講座などで
講演・発表
の機会を頂いておりました。

しかし、この時の特別講演は、私の人生にとって
一番の大決心・大奮闘で務めさせて頂きました。

私の人生で最大の“実績”です。

盧先生には、最初のあいさつの仕方に始まり、
いろいろと事細かにご指導を頂きました。

結びのあいさつの時には、先生に対する感謝の気持ちで、
胸にこみあげてくるものがありました。


《 おわりに 》

 いま“5周年”の貴重な節目にあたり、
“あなたが、一番大切にしているものは?” と聞かれましたら、
私は迷わず 「師」ですと応えます。

盧先生と、師弟の縁で出合ったという意味です。

それを契機〔けいき〕に学友・道友にも出合えました。

そして、儒学・易学を学ぶことも出来ました。


 現在、真儒協会副会長という過分の要職を頂き、
温かく育んで頂いておりますこと、
またこうして研究や発表の“場”を頂いておりますことに
心から感謝申し上げます。

お陰様をもちまして、浅学菲才な私の、
晩年の人生が “きらめいた” ものとなっております。 

――― これで“善かった”と思えております。


 『易経』 64卦、第一番目の卦【乾為天〔けんいてん〕】の 5爻辞〔こう じ〕に、
「飛龍〔ひりゅう〕 天に在り。  大人〔たいじん〕を見るに利〔よ〕ろし。」とあります。

5爻の陰陽変じて、之卦〔しか:近未来を現わします〕は、
【火天大有〔かてんたいゆう〕】[大いに有〔たも〕つ の意]です。


 真儒協会と盧先生父子が、“インターネットの雲”に乗り 
「飛龍」 となって天翔〔あまがけ〕る
日が来ることを、せつに希望して結びといたします。

                                               ( 以 上 )




「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
※吹田市立博物館における、講演のご案内掲載しております。 (2011年6月)
http://jugaku.net/

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文献渉猟の序

文献渉猟〔しょうりょう〕の序〔はじめに〕
  ―― 読書尚友・読書医俗・縁尋機妙・私淑・読書の三上・文献・温故知新 ――


《 “読書”に想う 》

読書尚友〔どくしょしょうゆう〕」という熟語があります。
本を読むことで、古〔いにしえ〕の賢人を友とするの意です。

『徒然草』にも、「ひとり灯〔ともしび〕のもとに文をひろげて、みぬ代の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。」とあります。

また、21世紀初頭は、“心の時代”とも“癒しの時代”ともいわれますが、
「五医」の中に「読書医俗」(書を読んで俗を医〔いや〕す)という言葉も見られます。

本との出合いは、人の出合いにおける「縁尋機妙〔えんじんきみょう〕」
(良い縁が更に良い縁を尋ねて発展していくことは、何とも人智を超えて神妙なものがあるということ) 
に同じです。

私達は、良い人・良い書物に出合うことを考えなければなりません。

孟子の言葉に、「私淑(ししゅく)」(『孟子』・離婁)があります。
私〔ひそか〕に淑〔よ〕しとするで、直接教えを受けることは出来ないけれども、
書物などを通じて、ひそかに師と仰ぎ模範として学ぶことです。

「孔孟の学」と儒学の正統を称しますが、孔子(BC.551−BC.479)と孟子(BC.372−BC.289)は、200年近く世代がズレています。 (孔子の没後100年余の後孟子が生まれています。)

孟子は、孔子を尊敬しながら、孔子の著作に学んで、孔子の教学を継承・発展させたわけです。

人(師)との出合いは、同時代・同場所に限られますが、本(本中の人物)との出合いは時代(時間と空間)を超越します。
過去の賢人を師とも友ともすることが出来ます。

私淑です。

それによって、その人の人生を大きく良く導き、
豊かなものに飛躍
=中〔ちゅう/アウフヘーベン〕)させてくれるのです。

古今を通じて、私淑する優れた人物を持ち、優れた愛読書を持つことが人生を豊かに輝かせるのです

 

《 読書と私 ―― 回想 》

大学生の頃、友人から「がつぶれるまで本を読みたい」と、ある出版社の社長が言っていたと聞いて
感銘を受けたことが想い起こされます。

また、大学の教授から、本は人生より寿命が長いこと。
“耳学問”は身につかずですから、本を読む“学問”をしなさいと言われたことをよく記憶しています。
目耕”ですね。 ※(易八卦の「離」は目&明智の意、「離為火」の象〔しょう〕なら両眼・メガネの意です。)

幼少年時代、私は体が弱かったせいもあって、よく本を読みました。
“文学少年”といった風?です。
母が、豊かではない家計を切り詰めて、5人の子供たちに書籍を買ってくれました。

西郷南州は「児孫のために美田を残さず」と言いましたが、
母は賢い親は子供に教育を残すものだと言っておりました。

読書のジャンルは、文学・物語・漫画が多かったかと思いますが、
とにかく多読・乱読いたしました。

ちなみに、本の処々にある“さし絵”・“口絵”を楽しく嬉しく感じていました。
このことが、後に私が美術に造詣深くなることにつながっていくことになったのだと思っています。

少年時代、さして学校の勉強はしなかったのですが、成績は良いほうだったようです。
“モノ知り博士”で弁(口)が立ち、人望を得て?“級長”をつとめたのも
豊富な読書によるお蔭〔かげ〕だったかと思います。

自分の、国語力(語彙力)・文章力・読解力・・・感性・想像性・創造性そして情愛といったものは、
この幼少年期の読書に支えられている、と長ずるにつけても実感しています。

今、年の功で諸分野併せて、蔵書の数は万を超えているかと思います。
宝の山か、ゴミの山か? みな専門書ですから、雑誌のような安価ではありません。

が、私の豊かでない経済力の半生の中でも、何とか出費を「節」して工面すれば、
欲しい本が自由に買える生活水準の社会であったことをありがたく感謝しています。

一昔〔ひとむかし〕前の先生は、もともと薄給だったのでしょうが、よく本を買うもので、
本を買うと貨幣〔かね〕が残らないというのが常の態だったと聞いています。

今時の先生は、経済的にも書籍研究の便宜でも随分と恵まれていて隔世の感があります。
尤〔もっと〕も、その代わり?昔の先生は、その志操・学徳の豊かさから、
社会的尊敬と敬意を得ていたと思われます。
少なくとも、そういった教育者が多くいたことは確かです。

人生も壮年となり、修羅場をくぐるが如き闘い転変の中、
分刻みのスケジュール・不休・3時間睡眠といった生活の中で、
教養のための読書は中断いたします。

その騒擾〔そうじょう〕徒労の生活を一段落させて、もしくは中(止揚)して、
再び書籍を読み学びの人生を取り戻しました。

この中年からの読書は、多忙と人生の余時間が少なくなってきたのとで、
一転、多読から良書精読に変わりました。

そして、「読書百遍」くり返し読み味わい楽しむようになりました。

ジャンルも、“四書五経”などの思想的な書物、精神的な書物が中心になってきました。

〔おい〕」を意識する歳になるにつれ、記憶力・記憶保持力などの衰えを感じる反面で、
」が出てきて思索が深まってきました。

世界と人間が、心眼よく「〔み〕」(易卦「風地観」)えてまいりました。
「老」は「考」に、そして「考」は「孝」を想うようになり、
「公」(=義)を思うようになってまいりました。

易に「天山遯〔とん〕」の卦があります。 解脱〔げだつ〕・達観の境地です。
千古不易の名著古典を読み耽〔ふけ〕ると、時間と空間の隔たり感覚を超えて、
文学・芸術ですと“空想・ファンタスティック”な世界に遊べます。

思想・先賢の古典ですと“解脱・救い”の世界に入れます。
まさに「」の境地、「壺中〔こちゅう〕の天」です。

人生50 にもなって、『孝経』、『中庸』、『易経』、『老子』といった経書古典を
一つ一つオリジナルで読了し、座右の書としていきました。

その時々、人生で気にかかっていたことを一つ一つ終えた、
1ステップ・1仕事を遂げた安堵感のような、えもいわれぬ安定感を味わいます。

壮年から初老にかけてならではの、しみじみとした安定感ではあります。

以上のように回想してみました。


今に至って、ただ1つ悔やまれるのは、
自分の幼少期に、経書や史書の古典に出合い指導を受け学ぶ機会があったならば・・・ 
ということです。

長じて大をなす人は、(例えば、吉田松陰先生にしろ安岡正篤先生にしろ)
みな、幼少のころ、父親なりにこの先賢古典の手ほどきをうけておられます。

せめて、愚息にはと思って、小学生の間に『孝経』・『大学』は読了させ、
『易経』を学び始めさせ将来の潤徳修養の布石とさせました。

――― そして、これから人生の収穫期に向かって、書籍を読むと同時に執筆して世に道を広め、
貢献していくのが自分のあるべき姿だと考えるに至っています。


《 現代日本の読書事情・考 》

高度情報社会が進展する中で、読書は、文字書籍以外にも
漫画・アニメ・携帯TEL.活字・音による読書?などさまざまな媒体が登場してまいりました。

そして、過剰駁雑な活字メディアが氾濫しています。

新聞1つとっても、膨大な量です。
内容も大概は、偏倚駁雑〔かたよりごたまぜ〕の記事です。
そのぶ厚い新聞以上の量の広告宣伝チラシ。
これらの情報で、私に必要な情報は何百分の一もありません。

量の過剰と内容の貧弱さ。まさに生産力の浪費。浪費美徳経済の象徴。
紙=神への冒涜〔ぼうとく〕です。

こんな印刷物の大洪水の中で、皮肉にも現代人の読書離れが言われています。
日本語を、読めない・書けない人達が若者層を中心に着実に増えています。

ところで。古人、欧陽脩〔おうようしゅう〕でしたか、読書の「三上」〔さんじょう〕ということをいっています。

すなわち、馬上・枕上〔ちんじょう〕・厠上〔しじょう:トイレの意〕です。
“暇な時の読書身に付かず”で、寸暇を盗んでの読書は効率が良いものです。

さらに、これらの場所・時間でこそ、貴重なインスピレーションを得ることが出来るのです。

「馬上」は、現代では、さしずめ電車中や車中でしょう(自分で運転している時は、運転に集中しましょう!)。 電車の中で、小説や勉強の本を読んでいる人を見るにつけても、微笑ましく思います。

しかし、それは少数で多くは、病的依存(中毒)よろしく携帯TEL.を玩〔もてあそ〕んでいる、お馴染みの光景です。
哀しいものがあります。 他にすることがあるでしょうに。

「人間は、考える葦〔あし〕」(パスカル)、私には電車中は貴重な沈思・考える場です。

松下村塾の聯〔れん:一対の柱かけ〕に、
「万巻の書を読むに非ざるよりは、安〔=寧・いずく〕んぞ千秋〔せんしゅう〕の人たるを得ん。」とあります。

また、“士規七則”に
「志を立てて もって万事の源となす。 書を読みて もって聖賢の訓〔おしえ〕をかんがう。」とあります。

身体にとっての食物が、滋養栄養として必要なように、
読書は精神・心の糧〔かて〕です。

現代日本は、モノ社会、過食・飽食の時代です。

食育」という新しい言葉が唱えられ注目されています。
食物に優れたもの・不要なもの・害あるもの・・・があるように、
書物もよくよく選ばなければなりません。

※ (易卦「山雷頤〔い〕」は、食養生・身心ともに養うことを教えています。
「噬コウ〔ぜいこう〕」の象〔しょう〕は、その開いた頤〔おとがい〕=口の中のモノ・障害物〔4爻の1陽〕を表わしています。)

読書離れと逆の問題も、現代社会の弊害の特色です。
あまりに雑書を読み過ぎ雑学に害され、人間性が横着になった“賢き愚者”も濫造されています。

「不易」なるものとして、古典の価値を尊重・重視しなければなりません。

ある禅宗の碩学が、「古典というものは、まさしく精神の化石燃料である。精神の石油であり、精神の石炭なのだ。」と語られていました。
まさに卓見です。

そして、松陰先生の言葉は、リーダー〔指導的立場にある人〕の皆さん、リーダーたらんとする皆さんには、一層心に刻んで欲しいものです。


《 文献渉猟 》

さて、新たに“文献渉猟”と古風に題しまして、
私(高根)流・読書案内とでもいったジャンル〔分野〕をスタートいたします。

名称の由来は、次のとうりです。

文献」の語は、『論語』の中に見られます。

○ 「殷の礼は吾能〔よ〕く之を言えども、宋は徴〔ちょう=証〕するに足らざるなり。
文献足らざるが故なり。足らば、則ち吾能く之を徴せん。」(八イツ〔イツ〕第3−9)

《大意》
私(孔子)は、殷の時代の礼についてもよく話すが、(その子孫である)宋にも私の言葉を証拠立てるに足る材料が不充分である。 これは、つまり、それを証明するに足る文書・記録と、古礼を知っている賢人がいなくなってしまっているからだ。 もし、文献さえ充分にあるならば、それによって私の言葉がよく証拠立てられるだろうに、残念なことではあるよ。

」は記録・書物。「」は賢の意で、その礼を知っている賢人。
文献が、記録ばかりでなく、故老・賢人(が記憶しているもの)をも指すのは興味深いです。

現在、儒学・経書の教えについても、だんだん着実に、教えられる賢人がいなくなってはいませんか?

渉猟」は、広くわたりあさることから転じて、広く書物などを読むことです。

私達は、偏倚雑駁な情報の洪水の中でよく「省」き、不易の良書を精選し昧読〔まいどく〕せねばなりません。

また、限りある時間・人生で全文を読めるばかりとも限りません。

優れたアブストラクト〔抄録・ダイジェスト〕も必要な時代かと思います。

そして、読書は何より“活読”せねばなりません。
とりわけ古典は、現代の光に照らして読み、自らの目で「観」て活学することが大切です。

これが「温故知新」の深意でしょう。

このような点を考慮して頂いて、私のお薦めの書籍の“文献渉猟”をお読み頂けたらと思います。

結びにあたり、碩学・安岡正篤先生の佳書〔かしょ〕と出合うの言葉を引用しておきます。

「佳〔よ〕い食物もよろしい。佳い酒もよろしい。佳いものは何でも佳いが、
結局佳い人と佳い書と佳い山水との三つであります。
 然し佳い人には案外会えません。佳い山水にもなかなか会えません。
ただ佳い書物だけは、いつでも手に執〔と〕れます。」 (『安岡正篤・一日一言』)

                                   高根 秀人年


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