儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

老子

大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その6

こちらは、前の記事の続きです。

参 考 / 研 究

・・・ ≪ 『大学』・明明徳 ≫

○ 古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先斉其家。欲斉其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。 欲者、先。 欲誠其意者、先致其知。致知在格物。

■ 古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉〔ととの〕う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しゅうす。其の心を正しゅうせんと欲する者は、先ず其の意〔こころばせ〕を誠〔まこと〕にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。知を致すは物を格〔ただ/いた・る〕すに在り。

The ancients who wished to illustrate illustrious virtue throughout the empire, 
first ordered well their own States.  Wishing to order well their 
States,they first regulated their families.Wishing to regulate their families,
they first cultivated their persons.Wishing to cultivate their persons,
they first rectified their hearts.  Wishing to rectify their hearts, they first 
sought to be sincere in their thoughts. Wishing to be sincere in their 
thoughts, they first extended to the utmost their knowledge.

*八条目: 格物 → 致知 → 誠意 → 正心 → 修身 → 斉家 → 治国 → 平天下 

*八条目: 平天下 → 治国 → 斉家 → 修身 → 正心 → 誠意 → 致知 → 格物 

cf.野田佳彦総理、所信表明演説(‘11.9)にて、“和と中庸の政治”を標榜〔ひょうぼう〕し、“正心誠意”(『大学』)の言葉についても語られました。

 

 POINT! (by.たかね)

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★51&10章(重複): 「玄徳」  ―― これが、神秘の「徳〔ちから〕」とよばれる

「 道生之、徳畜之、長之育之、、亭之毒之、養之覆之。生而不有、 為而不恃、長而不宰,
是謂 玄徳。」

*This is called the Mysterious Power.(A.Waley adj. p.153 ) 

*Such is called the mysterious virtue. (D.C.Lau adj. p.14 )

 

コギト(我想う)

《 黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕 と 儒学の「素」〔そ/しろ=白〕 》 

 

――  略  ――

 


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大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その5

こちらは、前の記事の続きです。

研 究

【玄】 → ≪ 「明徳」 と 「玄徳」 ≫

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.103‐105引用)・・・ 〈 無限に根ざした有限は玄妙である 〉

「 そこで人間の徳で申しますと、老子や黄老派は徳の事を 玄徳 と言う。徳とは万物を包容し育成する力であります。それは無限であると言うので玄徳と言うのであります。

これを儒家の方では 明徳  補注)と言う。

玄徳が外に発揚したもの、つまり無から有に出たものが明であります。

儒家は明徳を常に力説する。

老子は、明徳では惜しい。それは限定であるから、宜しく玄徳でなければならない、こういって補うのであります。

われわれの明徳が玄徳に根ざしておれば良い。これがほんとうの明徳であります。

遊離して背〔そむ〕いて来ると、明徳はやがて明徳でなくなってしまう。

昧徳〔まいとく〕になってしまう。」

 

「そこで、教育で申しますと、小学校教育、義務教育というものは何処までも本体を徳育におかなければいけないのであります。

徳育から枝葉を伸ばし、幹を太らせ、実を育てるように、専門学校・大学で色々の知識・技術を教える。

これが正しい学校体系・教育体系であります。

処がろくろく人間としての徳の教育もせずに、小学校の時から妙な異端邪説、下劣な悪習慣をつけて、そのまま大学まで行ってしまうなどは、全くそれを殺してしまうのでありますから、人間を暗愚にしてしまう。

ここに今日の教育の非常な危険があるわけであります。

 

特に国民教育に携わる教師は、最も徳とか道とかの分かる人でなければならないのに、そういう肝腎なことを忘れてしまって、せいぜい上級学校の入学試験に及第者の一人でも多く出すことを最良の如く考えて、無闇につめ込み教育をやる。

胃弱の者に、栄養と称して、暴飲暴食をさせるのと同じことで、直ちに胃潰瘍を起こしてしまう。

これが進むと、胃潰瘍なら手術も出来るが、こればっかりはどうにもならない、最後は、人格破壊者、精神病者になってしまう。

現に現代文明の悲惨な実例は、精神病者、人格破壊者、青少年時代からの非行犯罪者の激増であります。

そういうことを考えて来ると、今日の時代は実にまちがいだらけであります。

それが如何に間違っておるかということの確信は、やはりこういう学問をしないとなかなか得ることが出来ないのであります。」

補注) cf.『大学』の三綱領(「明明徳・在親民・在止於至善」) の1です。
「大学の道は明徳を明らかにするに在り」 (安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収・「政教の原理『大学』新講」p.143引用)
以下、「明徳」:(同上書pp.144-146引用)について。

 

「 これが外国訳になると実に面白い。

レッグの大学訳などを読むと、to illustrate illust-rious virtue と書いてある。

ピカピカする徳ピカピカさせるのでは落第である。

もっと深い意味があるわけで、紀平正美先生は明という徳、明そのものが一つの徳だと言う

では、一体徳とは何ぞ。

こうなると少しも前へ進まないが、この種の講義はこれでいいのだと思う。」

 

「 兎に角、 とは宇宙生命より得たるものを言うので、人間は勿論一切のものは徳のためにある。

徳は得であります

それには種々あって、欲もあれば良心もある。

すべてを含んで徳というのであるが、その得た本質的なるものを特に徳と言う。

そして、われわれの徳の発生する本源、己を包容し超越している大生命をと言う。

 

だから要するにとは、これによって宇宙・人生が存在し、活動している所以〔ゆえん〕のもの、これなくして宇宙も人生も存在することが出来ない、その本質的なものが道で、それが人間に発して徳となる。

これを結んで道徳と言う。 補注) 

従ってその中に宗教も道徳も政治も皆含まっている。

非常に内包の広いの広い外延〔がいえん〕の広い言葉である。

 

そのわれわれの徳には種々の相があるが、その一つに意識というものがある。

われわれの意識される分野は極く少しで、例えば光といっても赤・橙・黄・緑・青・藍・紫等の七色の色閾〔いき〕しか受け取れない。

然し光そのものは無限である。

われわれのこの意識の世界が所謂〔いわゆる〕明徳でありますが、その根柢には自覚されない無限の分野がある。

老子はこれを玄徳と言っている

 

海面にでている氷山の下には、それの八倍のものが沈んでいるという。

丁度それと同じで、有の世界、明の世界の下には潜在している徳、即ち無意識の世界がある。

これを無の世界と言うと誤解をまねくので、無・虚という言葉を使いながら、道家ではよく  という字を使う

 

然し、儒の教は自己を修め人を治める現実の学問で、勿論玄徳の世界を無視するものではないが、兎に角、そのよって立つ基礎は意識にのぼり、感覚で捉える世界、知性・理性によって把握する世界、即ち明徳の世界である

その明徳が何であるかを解明するのが明明徳である。

※補注) 老子の「道」と「徳」については、(§ 51章 )参照のこと


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その4

こちらは、前の記事の続きです。

 【故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。】

*Truly, ‘Only he that rids himself forever of desire can see the 
Secret Essences’;
He that has never rid himself of desire can see only the Outcomes.
(A.Waley  adj. p.141)

*Hence always rid yourself of desires in order to observe its 
secrets;
But always allow yourself to have desires in order to observe its  manifestations.
(D.C.Lau adj. p.6)

*Only one who is eternally free from earthly passions can apprehend 
its spiritual essence; he who is ever clogged by passions can see no 
more than its outer form.
(Kitamura adj. p.6)

 

・「故」: 『老子』には、「故に」・「是を以て」という、上節をうけて次の clouse を導く接続詞が多用されています。「故に」は、“ゆえに”と“まことに”(「固に」同じ)の2つの意味があります。

・「妙」: Deep mystery /玄妙不可思議の理。深淵でわかりにくいもの。 「妙」と「玄」とは関連しています。(後述)   ex. 「玄妙」・「幽玄」 ・・・

・「徼」: Outer form /帰結や端〔はし〕・境界の意。形態・輪郭と解してもよいでしょう。形のないものは、外郭・境界がありませんから(「大方無隅」)。「后廚亮攣で、明白の意。「微妙な始源」に対する「末端の現象」。

※「妙」と「徼」が押韻しています。押韻の関係から、本来「名」か「形」であったものを「徼」にしたのかも知れません。

「 ―― 徼の字は、古来文字学者、老子学者によって色々と説のある問題の文字でありますが、結論を言えば、これは微の文字が置き換えられたと見るのが正しいようであります。」

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.102−103引用) 

・「欲」: desire/欲求の意でしょうが、「将」のように軽く未来の希望を示した語と考えられます。

 

 

 ◎【此両者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、 衆妙之門。

★☆ 第3段は、解説的に書き入れられたように感じます。したがって、この第4段は第2段に直接つながるように思われます。そして、末句の「玄之又玄、衆妙之門」8字が最重要 pointです。

*These two things issued from the same mould, but nevertheless 
are different in name.
This ‘same mould’ we can but call the Mystery,
Or rather the ‘Darker than any Mystery’,
The Doorway whence issued all Secret Essences.
(A.Waley  adj. p.141)

*These two are the same 
But diverge in name as they issue forth.
Bing the same they are called mysteries,
Mystery upon mystery − 
The gateway of the manifold secrets.
(D.C.Lau adj. p.6)

*As development takes place, it receives the different names. ――― 
But in their origin are one and the same.
(Kitamura adj. p.7)

 

・「此両者」: 「始」と「母」と、または「有」と「無」と。 /The spiritual and the material.
( ほか、「道」と「名」/「無名」と「有名」/「無欲」と「有欲」/「妙」と「徼」 )
「始〔はじめ〕にあれば始、終〔おわり〕にあれば母という」(王弼)

・「同出而異名」: 同じものから生まれ出て、例えば、首を「無・始」といい尾を「有・母」と称するようなものと思えば良いでしょう。“火のない所に煙は立たず”といいますが、薪に火がつきその火と煙の関係になぞらえるのも面白いと想います。

・「玄之又玄」: 「玄」は、見れども見えず聴けども聞こえずの“元気”。五感を超えた、霊妙にして神秘的なさまです。造化の神秘的エネルギー(暗黒エネルギー)老子の思想における特異なキーワードの一つです

「玄」のつく語は、暗く幽〔かす〕かで捉えどころのない「道」を暗示す言葉として多用されています。

ex.「玄徳」・「玄牝」・「玄同」・「玄通」・「玄覧」 ・・・ etc.

また、「玄」と「妙」は関連しています。 ex.「微妙にして玄通」 《15章》

妙 = 眇 ≒ 玄

玄は「無」、仏教の「空〔くう〕」です「空」と「無」は、「同出而異名」です

私は、黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕 と 儒学の「素」〔そ/しろ=白〕とが、(対照的に)良くその思想の本質を一文字で現わしていると考えています。

そして、「玄之又玄」は、玄の奥にまだ深奥があることの詩的表現です。

A mystery ―― the mystery of misteries.

★「衆妙之門」: 宇宙・造化の偉大なる作用の出口。(§6章) 「玄牝の門=女性生殖器」・「天地の根=生殖器」も同意です。生(産)み出すものであり、儒学・易学の「中〔ちゅう〕」であり神道の「産霊〔むすび〕」に通ずるものであると考えます

This identity of apparent opposites I call the profound,
the great deep, the open door of bewilderment.

♪「玄」と「門」が押韻しています。

cf.運命学にも、「鬼門〔きもん〕」=「起門〔きもん〕」=「生門〔きもん〕」という語・考え方があります。

★ 宇宙造化の門 : 衆妙之門 = 玄牝の門【女性生殖器】 = 天地の根【生殖器】
/ ≒「中」(易学) ・「産霊〔むすび〕」(神道)


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その3

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 【無名、天地之始。 有名、万物之母。】

*It was from the Nameless that Heaven and Earth sprang;
The named is but the mother that rears the ten thousand 
creatures, each after its kind.
(A.Waley  adj. p.141)

*The nameless was the beginning of heaven and earth;
The named was the mother of the myriad creatures.
(D.C.Lau adj. p.5)

*Without a name, it is the beginning of heaven and earth;
with a name, it is the mother of all things.
(Kitamura adj. p.5)

 

・「無名」: この句は、「無名」で切って 「無名〔名無き〕は、天地の始めにして、有名〔名有る〕は、万物の母。」 と 「無」で切って 「“無”を天地の始めに名づけ、“有”を万物の母に名づく。」と読む2説があります。

前者は「道は常に名無し」《32章》、 後者は「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」(§40章) 、とあるのが解釈の拠り所の一つとなっています。

解釈についても、

A.漢文法によくある「互略法」 :無名は“天地万物”の始め、有名は“天地万物”の母、と解するとわかりよいです

B.「天地の始」と「万物の母」の対応と解釈すると、老子の“万物生成論”(後述)を良く示していると考えられます。即ち、次の序列です。
 〈 道・「無名」 ➔ 気・「有」 ➔ 天地・「有名」 ➔ 「万物」 〉

※「始」と「母」(古音はミ)が押韻

『旧約聖書』(創世記)に書かれている‘元はじまり’を比べると、興味深いものがあります。まず、絶対的“神”があります。神は“有って有るもの”で名がありません。その“神”が、暗黒に光を与え、天と地を分かち“天”と“地”を名づけます。

○「太初(たいしょ)に言(ことば)あり、言は神と共にあり」 (『旧約聖書』・創世記)

→  研 究  その2 《 キリスト教(ユダヤ教)の 神 》 参照のこと

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.101−102引用) ・・・ 〈 有名は一つの限定である 〉

「『無名は天地の始にして、有名は万物の母なり』。有名になるということは、つまりおっ母さんになって、色々なものを生んでゆくことであります然し母になるということは一つの限定であるから、そこで処女〔おとめ〕は貴いのであります。ここから何にでもなれる。だから結婚は、或る意味に於て、惜しむべき限定であります。独りぼっちでおって、神経衰弱になっても困るけれども、物解りの悪い亭主と結婚するくらい悲惨なことはない。だから西洋でも未婚の婦人のことを single blessedness 神から祝福された一人というのであります。

cf.“モラトリアム(人間)”の時代

無 = The Non−existenent /Not−being /Nothing /Complete wholes

有 = The existenent /Being /Something

*有無は、対峙・対立するものではなく一つの環状を成して境界はありません。

 

 研 究  その1  ≪ 仏教の 「色」と「空〔くう〕」 ≫

【仏教】 = 「 色不異空(しきふいくう)。空不異色(くうふいしき)。 色即是空(しきそくぜくう)。空即是色(くうそくぜしき)。 受想行識(じゅそうぎょうしき)。亦復如是(やくぶにょぜ)。 」

(『(摩訶(まか))般若波羅密多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』・唐 三蔵法師玄奘(げんじょう) 訳)

※ 「色」は有、「空〔くう〕」は無。「色」は森羅万象〔しんらばんしょう/=万物: Everything〕のことです。「空〔くう〕」から数学の「0〔ゼロ〕」の概念がうまれます。そして、色即是空 空即是色」とは、この「空」と「色」は“環状”で循環することを表現したものです。
般若心経 600巻も、(老子と同じく)“色・空”の 2文字から説き起こしたわけです。

 

 研 究  その2  ≪ キリスト教(ユダヤ教)の 神 ≫

――― 「十戒〔じゅっかい〕: The Ten Commandmentes 」 の神

映画「十戒」に、モーゼが“神の(いる)山〔シナイ山〕”に登り、神をみるシーンがあります。この神は、キリスト教の元始の神、つまり(イエス・キリストではなく)ユダヤ教のヤーベ(ヤハウェ/エホバ)の神のことです。(by.『旧約聖書』・出エジプト記)

モーゼ:「私を遣わされた神の御名を聞かれたら、何と答えればよいでしょうか?」

神:「わたしは有って有るもの “ I am that I am。その私が遣わしたと言うがよい。」

そして、下山して(神の)「姿は?」と聞かれて、「形は持たれない、永遠の霊の光だ。」と答えます。

*ヤハウェ〔Yahweh〕: 「イスラエル人が崇拝した神。万物の崇拝者で、宇宙の統治者。 エホバ。ヤーウェ。上帝。天帝。」(by.『広辞苑』)


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大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その2

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 【道可道、非常道。 名可名、非常名。】

★☆ この、冒頭・6字一対の文は、極めつけの名文です。『老子』が哲学・思想の書であるのみならず、優れた文学の書である面目躍如たるものがあります。

*The Way that can be told of is not an Unvarying way;
The names that can be named are not unvarying names.
(A.Waley adj. p.141)

*The way that can be spoken of
Is not the constant way;
The name that can be named
Is not the constant name.
(D.C.Lau  adj. p.5)

 

・「道」: 「道」の語は、漢語(原文)でも、とりあえず仮に表現しただけで(形而上的概念をあらわす)適当な代表文字ではありません。日本では、“みち”とし、欧米では中国の発音そのままで、“Tăo”として固有名詞のように扱っています。が、どれも「道」の主体を表示するには苦慮しています。

『老子』全体で、「道」は76回登場しているようで、最重要のキーワードです。老子と荘子の学派を「道家」と呼ぶのは、これによるところでしょう。
―― 《51章》 「道」 と 「徳」 参照のこと

・「道可道、非常 。」: 道は、むろん道路の道でもなく、人生行路のたとえの道でもありません。

A.はじめの「道」は世間一般にいわれている道理としての「道」です。ことに、儒学にいう人 倫の道(仁義・先賢の道/=忠恕・愛・慈悲、=筋道・正義・使命)です。

B.次の「道」は、1)動詞で訳す場合 と 2)名詞(「道とする」)で訳す場合とがあります。「道」を「言う」という意味の動詞で用いる用例は、『詩経』ほかに見られます。が、『老子』ではこの箇所だけです。

C.最後の が、老子哲学の根本概念で、宇宙万物の根源であり、「天地に先立ちて」《15章》あるものです。 =無・虚無。神秘絶対のもので、万物はその Power によって動きます。宇宙の本〔もと〕である「正常の道」は、相対的なものではなく、絶対的虚無です。

※黄老と儒家とは、全く異なる意味で「道」(「徳」も)の語をキーワードとして用います。紛らわしいです。よくよく注意して区別することが肝腎です。

・「常道」: 時と場所を超えて通用する、絶対性・普遍性をもった道。

・「非常名」: 「常名」とは、(仮の名である)「道」に対してつけられた「無名」という名。ということで す。

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.98引用) ・・・ 〈 表現された道は真の道ではない 〉

 ペンシルバニアの或るインテリ紳士が後妻を貰った。紳士には親父がおり、後妻には1人の連れ娘があった。万事うまくいってよく治まったのは良いが、余りうまく治まり過ぎてその結果、紳士の親父が後妻の連れて来た娘を後妻に直してしまった。そのためにわけがわからなくなったのが紳士であります。
わが娘はわが父の妻であるから、わが母である。わが父はわが娘の夫であるから、わが子である。わが妻はわが娘と言う母の母なるが故に、わが祖母である。われはわが父と言う子の子なるが故に、わが孫である。わが父はわが子にして、わが娘はわが母である。わが妻はわが祖母にして、われはわが孫なりということになって、とうとう頭が混乱して死んでしまった、というのであります。

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.98引用)

 ―― 有とは限定であり固定であって、無こそ永遠であり全体である。有限の形の世界からは無という他〔ほか〕はない。無から有を生ずと申しますが、本当に有というものは無から出て来るのであります。無は、言い換えれば全、完〔まった〕しであります西洋ではこれを Complete wholes といっておりますこれはうまい訳の仕方であります。そこから有限・現実の世界に現われて来ると、それはもう限定・固定されてしまう。決して無でもなく常道でもないのであります。

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.100引用)

立身出世の出来る人が、その成功を七分目か八分目くらいに止めておいて、後は子孫に譲っておく。これが一番健全なのであります。

だから『権門に賢子なし』 『売り家と唐様〔からよう〕で書く三代目』などということは、これは真実であります。自分の代に余り柄になく出世するということは、子孫のために大害になる。学問・知識でもそうで、成るべく無に帰しておく。と言うことは成るべく自然に根を下ろすと言うことであります。余り限定し、表現してしまってはいけないのであります。

cf.安倍晋太郎 →晋三(総理)/小泉純一郎 →   /石原慎太郎 →

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.101引用) ・・・ 〈 本当の名は名付くべきなし 〉

 本当の名は無名、名付くべきなしであります。人間でも名付けようのないというのが本当に偉い人であります。あの人はこういう人だ、と直ぐ名付けられるような人は底が知れている。サラリーマンなどは兎角〔とかく〕役職を欲しがりますが、サラリーマンと自己を限定した上に、尚更に係長等と限定してしまうのですから、考えてみればこれくらい勿体ないことはないので、人間、出来得れば浪人するに越したことはないのであります。何をやっているのか、自分でも説明出来ないのだから、他人には尚更わからない。何がなんだか分からない人、これが本当に偉い人なのであります。老子はこういうことをしきりに教えてくれる。だから老子をやると、馬鹿も救われれば、不遇も救われる。大体わずかな株くらい持って、騰〔あが〕り下がりで心臓をどきどきさせるなどというのは、考え様によっては、実際愚かなことであります。

cf.坂本竜馬が、始めて西郷隆盛に会った時、「(西郷とは)どんな人物だったか?」、と聞かれて。「どうも、よくわからない。太鼓のようなお人だ。―― 小さく叩けば小さく反って来るし、大きく叩けば大きく反って来る。」

 

コギト(我想う)

≪ 「名可名、非常名。」 ≫

白い卵のカラに、着色したり模様を描いたりして、“善し”としているような御仁〔ごじん〕が多い時勢です。ニワトリの卵に、表面いくら描いてもニワトリが変わって生まれるわけではありません。そして、むしろ、カラに熱心に彩色している人の卵ほど、中身は空虚〔からっぽ〕であったり、腐っていたり、砂が入っていたりするように感じています。

ところで、私は、大阪に長く居〔お〕りますが、“名”を一部変えて“善し”としているような奇妙な現実・風潮に首を傾げることが、ままあります。外面的・形式的に“名”を変えても、本質が変わるわけではありません。ごまかし・糊塗〔こと〕するものです。逆に「本」〔もと:=本質〕がしっかりしていれば、“名”はうつろいやすいもの、上着のようなものでしかないと考えられます。

ex. ・障害(者) ➔ 「障がい」(害だけ平仮名表記させる)
・養護学校 ➔ 「特別支援学 校」
・父兄会 ➔ 「父母会/保護者会」(漢語の父母は父と母の意ですが、日本語では親・保護者の意です)
・看護婦・士 ➔ 「看護師」(他の専門職は、「弁護士」のように「士」がつきますが・・・) 


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大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その1

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【 1章 】

体道・第1章) 注1) 《 首章・冒頭  ―― 「道」とは? 》

§.「 道可道」 〔タオ・コ・タオ〕

注1) 「体道」とは、道を“身に体する/体得する”(“Embodying the Tao”)という意味でしょう。

「道」の語を用いずに、「道」が万物を生み出していく言妙な働きについて、この1章では、ある種詩的に表現しています。cf.(6章ではリビドー的〔生殖神秘的〕に表現しています)

『老子』の冒頭部分、この首章59字で他の80章全体を要したものといえます。(『易経』の最初【乾】・【坤】も同様です)

『老子』は難解といわれています。が、まずもって、この章は解釈さまざま、とりわけ難解であるといえる部分です。

『老子』は、平易から難にではなく(いきなり一喝)難物を示し、漸次平易に入っていくのです。他の全章を読めば、この章の意は容易に理解出来ます。

○「道可道、非常道。 名可名、非常名。※ |
無名、天地之始。 有名、万物之母。※ |
故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。|
此両者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、 衆妙之門。」

■ 道の道とすべきは、常(の)道に非ず。 名の名とすべきは、常(の)名にあらず。
※(道の道〔い〕うべきは常道に非ず。 名の名づくべきは常名にあらず。) |
無名〔名無き〕は、天地の始めにして、有名〔名有る〕は、万物の母。
※(“無”を天地の始めに名づけ、“有”を万物の母に名づく。) |
故に、常に欲無くして以て其の妙を観〔み〕、常に欲有りて以て其の徼〔きょう〕を観る。 |
此の両者は同じきに出でて而〔しか〕も名を異にす。同じきを之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門なり。


《 大 意 》

これこそが理想の“道”です、と言っているような“道”(=世間一般に言っている道)は、恒久不変の本来の「道」ではありません。これこそが確かな“名”だと言い表わすことのできるような“名” (=世間一般に言っている名)は、普遍的な真実の「名」ではありません。  |

※(言葉で説明〔限定〕出来るような道は〔ニセ物であって〕、(私・老子がいう)恒久不変の本来の「道」ではありません。指して名がつられるような名は、普遍的な真実の「名」ではありません。) 
ex. 「道」という名そのものが名づける人・立場によって、さまざまではありませんか!ですから、正常の道は無名なのです。|

天地の元〔もと〕はじまり(=「道」)には、まだ名前がありません。(ですから、無名は天地の始源です) それが、万物の母(=「天地」)が創造されて初めて、名前が定められました。(ですから、有名は天地で)その天地の間に万物が生まれ育ちます。つまり、有名(=天地)は万物の母胎なのです。

※(〔文字に現わすためやむを得ず〕 「天地の始」めに“無”という字を振りあて、「万物の母」に“有”の字を振りあてます。〔そうして、無から有に説き進もうというのです。〕) |

まことに、恒〔つね〕に無欲であれば、(元始〔もとはじまり〕の「道」の)微妙を観る〔心で認識する〕ことができますが、恒に有欲な人(=一般世俗の人)は、結果・末端の現象(形態)が見えるだけです。 |

この「天地の」と「万物の」(/微妙な始源= と 末端の活動している現象=)の両者は、根元は同じ一体のものでありながら(一方は「無名」・「道」といい、他方は「有名」・「万物」というように)それぞれ違った呼び名となります。

名は違っていても、同じく「道」という根元から出ているので、併せて「玄」( =神秘/不可思議/ほの暗く奥深いもの・深淵なもの)といいます。

その「玄」の上にも、さらに深奥の「玄」なるところ、そこに万物の生まれ出る出口があります。玄妙な働きで、衆〔おお〕くの「妙機」が発する出口(=衆妙の門)です


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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