儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

論語

『犬にも論語』の序 (その2)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)


次に指導者〔リーダー〕にも『論語』ということについて述べておきたいと思います。

私が(一応)半世紀近くも『論語』に親しみ、その500余りもの文言の中で、
いまだに感銘第一に挙げたいものが「温故知新」です。

皮相的浅薄な知識としては知らぬ者がないほど、お馴染みの文言です。

しかるに、二千数百年の時間と空間を経てもなお、
現代の日本にとって最も重要なものと強く感じています。


○ 子曰、温故而知新、可以為師矣。 (為政・第2)

「子曰く、「故〔ふる〕きを温〔あたた/たず・ねて〕めて新しきをしれば、
以て師たるべし。」 と。

《 孔先生がおっしゃるには、「古い事柄〔歴史・古典〕を深くしっかりと探求して、
(そこから得た英知を)現在の実際の諸課題に活学して見識をもつ
それでこそ人々の指導者〔リーダー〕である師(=先生)
となることができるのだよ。」 》  補注4)


この「師」が、現代的意味においてもキーワードです。

「師」は易卦・【地水師】にもとづく語で
“いくさ〔戦・軍〕”の意です(ex. 師団・出師〔=軍を出す〕の表)。

いくさで最も重要なのは知謀に長〔た〕けた“軍師”。

そこから派生して、人を導く“先生”の意となりました。
(ex. 師匠・教師・恩師) 

確かに、孔子についても“先生”・“教育者”との位置づけも
当〔とう〕を得ていると思います。

けれども、より適切なのは、
優れて賢い有徳の“指導者〔リーダー/君子〕”と解するのが善いと思います。

現代の指導者〔リーダー〕は、広く、
重役・管理職・ブレーン・理事者・政治家・教育者 ・・・
などと称される立場の人々が該当すると考えたいと想います。


本来、指導者〔リーダー〕のための帝王学の経書〔けいしょ〕が、
五経〔ごきょう〕の筆頭 『易経』
ではあります。

けれども、儒学そのものが指導者〔リーダー〕の学ぶべきものです。

四書の筆頭『論語』も、一般ピープルから指導者〔リーダー〕まで、
全ての人々に普及した処世の学、人生哲学の書であると同時に、
指導者〔リーダー〕たらんとする者の「本〔もと〕」を形成させる
道義/徳義教育のテキストブックでもあるのです

つまり、いやしくも“人の長〔ちょう〕”たらんとする者が、
まず第一に学ぶべきものです


指導者不在、指導者教育のなっていない現代日本において、
その意味でも『論語』を学ぶことは急務です。

── “指導者には『易経』”・“指導者にも『論語』”です


21世紀初頭の現代は、“グローバル”な世界の時勢にあります。  補注5) 

わが国は、2011年春から英語教育の小学校必修化が開始され進展しつつあります。

また、現在(2012)「グローバルリーダー」なる方向性が指向されつつあります。

内容的には、専〔もっぱ〕ら“話せる英語教育”と
“国際交流”への対応が中心に考えられています。  補注6) 


私想いますに、わが国は、まず 母語=日本語 を
しっかりと善く身につけさせるべきです。

その上で、国際語としての【英語】を修得すべきです。

そして、何より忘れてはならないことは(現実にはすっかり忘れているようですが)、
話す中身、教養・人徳(品格)が肝腎〔かんじん〕です

いくら英語をペラペラと流暢〔りゅうちょう〕に話せても、
その話している中身が浅薄であり、
教養・仁徳(品格)に欠けるものではダメです。

それこそ、日本人の恥を世界に吹聴〔ふいちょう〕し、
曝〔さら〕しているようなものです。

それならば、むしろ母語でしっかりと表現するほうがマシというものです。

今のままでは、生半可な母語(日本語)しか話せない
“日系日本人(?)”
を濫造してゆくことになりそうです。

── “「英語」より 『論語』”です!


そもそも、“グローバル”・“グローバルな世界”と申しますのは、
アメリカの、(経済を中心とする)影響力によるまとまりを意味する世界です。

政治的にはアメリカ一国の、言語文化的には英語(英米)の、
パワー(影響力・画一化・支配)が覇〔は〕をとなえている時代
といえましょう。

畢竟〔ひっきょう〕するに、わが国のしかるべき方向性は、
この“グローバル”にまったく追随することではなく、
わが国の古き善き道義・徳義を取り戻すことです。  補注7)  

わが国の指導者〔リーダー〕は、
「温故知新」に根ざした指導者〔リーダー〕でなければなりません。

── “「温故知新」の指導者〔リーダー〕”を志向するための『論語』(儒学)
ということを付言して、
『犬に論語』 編集・執筆の嚆矢〔こうし: はじまり〕といたします。

(2014年・夏)


補注4)

温故而知新」。 この「温」は、
1.「故〔ふる/古〕きをアタタめて」とも
2.「故きをタズねて」とも読み、解します。

1.の「温めて」は、原義はゆっくり肉を煮込んでスープを作ること。
また、私は、カレーやシチューを“ねかせて”さらに一工夫を加えて
あたため直し新しい味を引き出すことと解しています。 

2.の「温ねて」は、なぜ “尋ねる” と読むのでしょうか?
「温」の字は、氵サンズイ(水) + 日=囚(元字) + 皿 からなります。

つまり、囚人に対して、水と皿に食物を盛って(差し入れて)訪れ、
「お前は、如何〔どう〕してこんな所にいるんだい? ・・・・ 」 と
あたたかく尋ね諭〔さと〕すところから成っている、と教わったことがあります。

深いお話です。

儒学で重んじる人間のあり方、あるべき姿が示されています。

“情”の世界、“仁〔思いやり〕 ”、“恕〔ゆるす〕”、
“悔い改める”、改め善く“変化する” ・・・ です。

 「師」 ── 易卦 【地水師】

*いくさ〔戦・軍〕(ex. 師団・出師の表) → 戦争の軍師 

  → 「先生」(ex. 師匠・教師・恩師・医師)  
    cf. 子=先生 (ex. 孔子=孔先生)

*「記問(物知り)の学は、以て人の師為るに足らず」 (『礼記』学記)

  “あんたは、牛のケツじゃな”とは何の意味? 
   ⇒ (牛=モー の尻 → “ものしり”)
   cf.  情報 → 知識 → 見識 → 胆識 

  “経の師は遇い易く、人の師は遇い難し” (郭 林宗)
   = 「レーゼ〔本を読む〕・マイスター〔先生〕・レーベ〔人生の生〕・マイスター 」
   (by安岡正篤)  (高根:「温故知新」研究 抜粋引用)


補注5) 

「21世紀初頭の現代は、“国際化の時代”・“グローバル時代と称されています。

グローバルな世界と申しますのは、
米国の、経済を中心とする影響力によるまとまりを意味する世界です。

政治的には米国の、言語文化的には英語(英米)のパワー(影響力・支配)が
覇〔は〕をとなえている時代といえましょう。

現今〔いま:2014〕その弊害・課題が、顕〔あら〕わになりつつあります。

その「陽〔よう〕」の面を視〔み〕れば、
文明的には“ナノ(テクノロジー)の時代”です。

コンピューター、インターネットで緊密に結ばれる
ユビキタス社会”が到来しようとしています。

しかるに反面において、「陰〔いん〕」の視点から近未来を展望してみると、
地球環境はますます荒廃しております。

また、とりわけ中国・日本において、急速に少子(超)高齢社会が進展しており、
これは大きな問題を孕〔はら〕んでいます。」

(高根講演:『英語でABC論語カルタ』 序文 抜粋引用)


補注6) 

☆トピックス: わが国の大学入試制度について

○現在の暗記中心の“センター試験”による入試制度は、
近々(早ければ2021年度入試から)考える力を重視したものに制度変更される計画です。

○グローバルな人材の育成を目指し、大学のグローバル化を進めるべく、
「国際バカロレア (IB)」〔世界各国の大学入学資格が得られる教育プログラム〕を
入試に取り入れる大学が増え始めています。 (2014.8.23. 朝日新聞)


補注7) 

一言に要せば、道義教育/徳義教育のルネサンス〔復興再生〕です。

具体的に私見を少々付言しておきますと。

1.初等(=幼児&児童)教育に『論語』を取り入れる
     ─── 【失われた日本の古き善き家庭教育の代替再生】

2.大学入試制度を改正して(他科の比重を減らし)“漢学”の比重を大きくする 
     ─── 【道義立国・日本のあるべき指導者の育成】

3.企業(官公庁)内外の社員研修・教育に“儒学”を導入する
     ─── 【経済立国・日本のあるべき本〔もと〕を取り戻す】

※ 『論語』・“漢学”・“儒学”を指導できる先生を養成するための
  国公立の機関をつくる
     ─── 【“先生の先生”の必要性が今後でてくる】


( 以 上 )


『犬にも論語』の序 (その1)

『犬に論語』の序     

──── “ことわざ”/「論語読みの論語知らず」・「犬に論語」/“犬に論語”/
「グローバルリーダー」/“「英語」より 『論語』”/日本のあるべき指導者像
=「温故知新」の指導者 ────

                                 ● 高根 秀人年

◆ 今年度(2014)から編集・執筆を開始しております
  『犬にも論語』の“はしがき”草稿が仕上がりましたので、
  掲載しておきたいと思います。
  真儒講習定例講習の「論語」は、来年度(2015.5〜)から、
  今までの「論語」講義のおさらい・まとめも兼ねて、
  この『犬にも論語』をテキストにして講じようと考えております。

“ことわざ”という、日本の国語文化は、極めて優れた賢さ(=易の【離☲】)の産物です。

世界に誇れる精華です。

というのも、それが、深遠・高邁〔こうまい〕な思想哲学を一般ピープルに、
わかり易く生活処世の智恵として表現し、広く普及させてきているものだからです。

“ことわざ”は親しみ易くわかり易くするため、身近な動物や品物が登場しています。

それによって、幼少の頃より精神の糧〔かて〕となり 、
善き美しき日本人の“本〔もと〕”を形成してまいりました


その“ことわざ”に、儒学の経書〔けいしょ〕であり、
人生・処世の智恵の書でもある『論語』の書名そのものも登場しています。

「論語読みの論語知らず」 と 「犬に論語」がそれです。

「論語読みの論語知らず」は、“いろはカルタ” 補注1) の中にも登場しており、
子どもから広く大人〔おとな〕にまで、口ずさまれ用いられてきて
現代に至っているものです。

これは、“論語読み”=『論語』を(専門にして)教える人でありながら、
よくは『論語』の真意・深意がわかっていない人、
机上書物の論で実行が伴っていない御人〔ごじん〕に用いられます。

「医者の不養生」・「紺屋〔こうや〕の白袴」などと同じ意味でも用いられますが、
専〔もっぱ〕ら(悪い意味での)“有名無実”・“専門バカ”といった
強い否定的意味で使われることが多いように思います。 補注2) 

子どもの教育的遊具であった“カルタ”の中に加えられ、
老若男女を問わず人口に膾炙〔かいしゃ〕しているこの語は、
それだけ以前は『論語』が普及し、日常生活に根差していたことを示しています。

反面で、一知半解・浅薄〔せんぱく〕口舌の徒が多かったことも推測されますね。


今一つの「犬に論語」。 補注3) 

“ことわざ”には“猫”(どうしようもない、しょうもないものの象徴の動物?)を筆頭に、
意図する内容をわかり易くするために身近な動物が否定的意味で登場します。

に小判」・「に真珠」・「の耳に念仏」・「に経文」などなど。

動物ではありませんが、「ヌカに釘」・「トウフにかすがい」などといった“ことわざ”と同意です。

道理を説き聞かせても かいがないことの喩〔たと〕えです。


ところで、興味深いことに、“ことわざ”には相反する二つの意味が盛り込まれていて、
相反する意味で通用しています。

“ことわざの二面性・二極性”とでもいえるものです。

それだけ人生は陰陽相反して変化するものなのでしょう。


例えば、“犬”が登場する「犬も歩けば棒に当たる」も、
1.(棒がよくないものであれば)動けば良くないことに出くわす の意と 
2.(棒がよいものであれば)動けば思いがけずラッキーなことが得られる 
の二様に解し用いられます。 

もう一例。

「焼け石に水」も、
1.焼け石(=火)に少々水をかけても(蒸発してしまい)何の役にも立たない
  (→ 火事を消火できない) の意と
2.焼け石(=火)も多量の水をかければ冷えてしまう(→ 火事も消火される)
の相反する意に解し用いられます。


さて、「犬に論語」に話を戻しましょう。

私の十数年来飼っている愛犬 
── 大阪府から貰ったメスの雑種犬(里親が見つからなければ殺処分犬) ── は、
子犬のころから(私の研究所=教場で生活する時間が多かったので)、
聞かせるでもなく『論語』・『易経』などの儒学を聞かせ、聞かせられて育っています。

「門前の小僧習わぬ経〔きょう〕を読む」で、
人間でいえば徳のある人物に育っています。

善い人相(犬相?)もしていると言われています。

ちなみに、3カ国語(日・英・仏)のかなりの数の単語を理解し、
英語を少々話します(「ワン!」)。

教育学的にいうと、善い環境が善い人間性を形成していったわけです

感化教育”ですね!

image_dogs_1

こういうことから、先述の肯定的意味を定かにするために、
「も」を加えてみました。

「焼け石にも水」(=火が水で消える)、「犬に論語」です。

“犬”ですらかくあるのですから、いわんや“人”においてをや ですね。

── 現代人にも『論語』です


補注1) 

「いろは短歌を記した読み札48枚と、その意味を絵解きした絵札48枚と
合計96枚を一組としたもの。江戸後期に始まり、犬棒カルタはその代表。」
 (『広辞苑』)

私は、幼児童・高齢者へ教育ツールとしての「カルタ」〔carta/歌留多・骨牌〕の復権
想っています。

☆資料     ≪高根:吹田市立博物館・講演/第5講 『英語でABC論語カルタ』引用≫

─── いろは がるた ───

● い : 「犬も歩けば棒にあたる」
  ろ : 「論〔ろん〕より証拠」/
  は : 「花より団子〔だんご〕
  (江戸がるた)

■ い : 「一寸〔いっすん〕先は闇〔やみ〕/
  ろ : 「論語読みの論語知らず
  は : 「針〔はり〕の穴から天のぞく」 
  (上方がるた)

「いろはがるた」は、わが国江戸期(後期・化政文化)の優れた教育における、
そのツール(手段・方法)の一つです。

和歌のカードである「(小倉)百人一首」なども、
より古い歴史を持つ同様のツールといえましょう。

そもそも「いろはにほへと・・・・」(=いろは歌)そのものが、
他の言語には類をみない日本言語文化の傑作です。

仮名文字(ひらがな&カタカナ)は、
平安時代に中国伝来の漢字を簡略化(ひらがな)したり
一部を取って(カタカナ)発案されました。

これで、容易に日本語を文字で表記することが可能になりました。

とりわけ、漢字に対する“ルビ(ふりがな)”は、何とも偉大な工夫です

そして、「あいうえお・・・」 47の仮名を1字も余さずすべて用いて 
“いろは歌”という素晴らしい作品を創り出しました。

これは、七五調で曲節〔きょくせつ〕をつけて歌われました。 注) 

なお、「かるた」〔carta/歌留多・骨牌〕の言葉は、
かつて世界史をリードした強国ポルトガルの語です。

西洋のカード(トランプなど)が、専〔もっぱ〕らゲーム・娯楽であるのに対して、
「いろはがるた」は、文化教養と娯楽を渾然〔こんぜん〕一体に兼ね備えた
優れものといえましょう。

西洋のカードとは、似ていて否なるものといえましょう。

殊〔こと〕に、内容文言において、
“ことわざ”・“慣用句”・“格言”・・・ などと称されるものが
用いられていることが重要です。

これらの短いフレーズは、本来は深遠な思想や人生(処世)哲学を、
一般庶民にきわめてわかり易くかみ砕いて表現したものです。

そして、それらを家庭教育・初等教育の場において
日本中に普及させたことは偉大です

見事としか言いようがありません。

日本文化の英智を改めて想います。


注) 
「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ 
うゐ〔イ〕のおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑ〔エ〕ひもせす」

「いろは匂いへ〔エ〕ど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ〔ン〕 
有為〔ウイ〕の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひ〔エイ〕もせず」

*「いろは歌」の元は仏教の『涅槃経〔ねはんぎょう〕』にある、次の四句と言われています。

「 諸行無常〔しょぎょうむじょう〕/是生滅法〔ぜしょうめっぽう〕/
          生滅滅已〔しょうめつめつい〕/寂滅為楽〔じゃくめついらく〕 」



補注2) 

本来『論語』は経書〔けいしょ: 儒学の優れたメインテキストブック〕であり、
非常な深意があり、われわれが幾度となく何年も
『論語』を語り講じても尽きせぬものがあることも事実です。

そして、その庶民への広まりと共に浅解誤用もされてきているものもあります。 

安岡正篤氏はその著作の名称に「論語読みの論語知らず」を使用されており、
上述のその肯定的な意味で用いられています。


補注3) 

犬も(猫とともに)よくことわざに登場しています。

「犬の遠吠〔とおぼ〕え」・「犬も食わぬ」・「犬の川端歩き」 ・・・。

“犬でも”・“犬ですら”といったニュアンンスで、くだらないもの劣るもの、
もしくはありきたりのものの代表として扱われています。

私が人生哲学を語るときによく用いるもう一つの犬に関することわざに、
「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」があります。

犬でさえ飼われた恩を忘れない、ましていわんや人間においてをや ・・・ 
との意で用いられます。

が、私は「犬は」を積極的・肯定的に解して、
犬の忠実さ賢さの意で捉え用いたいと思います。

賢犬・“忠犬ハチ公”の意ですね! 

── 想いますに、“猫は三年飼っても三日で恩を忘れる”、
現代人の有り様も長年受けた恩義をまったく忘れているがごとき浮薄なものです。




※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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儒学の「素」に想う (その1)

儒学の「素」〔そ/しろ=白〕に想う 

――― 孔子と“色の弟子”子夏〔しか〕の問答/
  “色”の三(定)義/「素以為絢」・「繪事後素」/
  素〔そ・しろ・す・もと〕=白:white/
  “五色〔ごしき〕”・イッテンの“ペンタード”/白賁〔はくひ〕/
  素行・自得≒安分知足・無為自然/儒学の「素」〔そ/しろ=白〕・【離☲】/
  黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕・【坎☵】/“(善)美なるものは白” ――――


《 §.はじめに 》

最近(2014)スピーチで、
「皆さんには、進路(将来・人生・職業)に対するいろいろな思いがあるでしょう。
―― そこにをつけなければなりません・・・」
という表現を耳にしたことがあります。

また、駅の宣伝大パネルで、某大学の宣伝広告に、
巨大な“カメレオン” 補注1) が虹色に彩色されて描かれ
「キミハナニイロ?」とキャッチコピーが大きく書かれていました。

これらは、色と人生が重ねられて擬〔なぞら〕えられて語られているほんの一例です。
21世紀は“カラーの時代 〔Color Ages〕”ということを改めて感じました。

そもそも色の世界を持つもの(色が見えるもの)は、ホ乳類だけです。
犬の人生(犬生?)や猫の人生(猫生?)は、
白と黒の“グレースケール”の中に表現され擬〔なぞら〕えられるわけです。


ところで、孔子の弟子に子夏〔しか〕という人がいます。
“子貢〔しこう〕”と字面〔じずら〕が似ていて間違えそうですが ・・・ 。

『論語』文学子游子夏(先進・第11)とありますように、
「四科(十哲)」では、子游と共に文学に位置づけられている大学者です。
「文学」というのは、古典・経学のことです。

姓は卜〔ぼく〕、名は商。子夏は字〔あざな〕です。
孔子より、44歳年少です
謹厳実直、まじめで学究タイプの人柄であったといいます。

文才があり、殊〔こと〕に礼学の研究では第一人者です。
大学学長・総長といった感じでしょうか。

曾子が仁を重視する立場(忠恕派)なのに対して、
子夏は礼を重視する立場(礼学派)です。

儒学の六経を後世に伝えた功績は、まことに大なるものがあります。
(漢代の経学は、子夏の影響力によるものが大きいです。) 

長寿を得て、多くの門弟を育成しました。
その子を亡くした悲しみで、盲目になったとも伝えられています。

子夏は『論語』でしか知られることがない、といってもよい人です。
が、私は、非常にその文言に印象深いものがあります。

というのは、“色”っぽい(?)弟子・子夏としての意なのです。
私感ながら、『論語』は子夏の言に、
“色”にまつわる記述が多くあるように思われるのです。

私、日本最初の 1級カラーコーディネーター
(’92. 現文部科学省認定「色彩検定」)としましては、
子夏は、孔子門下で “色の弟子”としての印象なのです。 補)


さて、『論語』の一節に、“絵の事”に擬えて
「素」=“白”について述べられている孔子と子夏の興味深い問答があります。
(八佾・第3−8) 

「素」〔そ/しろ=白〕・【離☲】は、儒学思想の要〔かなめ〕です
私は、“「白と黒」は色の本質であり、「素〔そ〕と玄」は人間の本質であり、
【離☲】と【坎☵】は万物の源 である”
 と考えております

今回は、この問答の一節を“切り口”にして、
「素」=“白”が持つ人間学的・形而上学的な真意・深意にアプローチしてみたいと想います。


補注1) 

易学・『易経』は、変化とその対応の学です。
「易」の字義について、蜥易〔せきえき〕説というものがあります。
それは、「蜴」(とかげ)に因〔ちな〕むとするもので、
トカゲ〔蜥蜴・石竜子〕は変化するからというものです。
私は、この「蜴」を、体表の色を周囲の環境に合わせて
千変万化させる(保護色)“カメレオン”の一種ではないかと想像しています。

補)

“色”の三(定)義を考える(色相・明度・彩度の“三属性・三要素”のことではありません)

(1)“色っぽい”の意。「色」の文字は、元来男女の“からみ”を表した象形文字です。
   この意味は、東洋においてのみです。
(2)“カラー〔色彩(学):Coror/Corour〕”の意。欧米における “色”は、この意味です。
(3)“顔色”の意。「顔(色)が青(白)い」 といったように、顔に出る色のことです。

cf.漢方(中医)と顔色 ⇒ 五行・五色の思想から体系立てられています。

ex.“五色診”後述


《 §1.孔子と子夏の「素」をめぐる問答 》


『論語』 に孔子と子夏の、「素」=“白”をめぐる興味深い問答があります。
まずは、全文を紹介いたしましょう。 

○“子夏問いて曰く、「『巧笑倩〔こうしょう せん〕たり、
美目盼〔びもく はん/へん〕たり、素〔そ〕以て絢〔あや〕を為す。』 ※注) 
とは何の謂いぞや。」 | 
子曰く、「絵事〔かいじ/絵の事〕は、 
A:素より後〔のち〕にす(後る) 」 B:素を後〔のち〕にす。」と。 | 
曰く、「礼は後か」 | 
子曰く、「予〔われ/よ〕を起こすものは、商なり。 (※予を起こすものなり。商や・・・ ) 
始めて与〔とも〕に詩を言うべきのみ。」と。”  

(八佾・第3−8)

  
【 子夏問曰、巧笑倩兮、美目盼兮、以為絢兮、何謂也。| 
子曰、繪事後素。 | 
曰、禮後乎。 | 子曰、起予者商也。
始可與言詩已矣。(※子曰、起予者。商也始可與言詩已矣。) 


《 大 意 》
子夏が、「『にっこり〔莞爾〕と笑うと口元が可愛らしく(エクボが出て愛嬌があり)、
目(元)はパッチリと(黒い瞳が白に対照して)いかにも美しく、
(その白い素肌の)上にうっすらと白粉〔おしろい〕のお化粧を刷〔は〕いて、
何とも艶〔あで〕やか』※注) という詩がありますが、
これはどういう意味のことを言っているのでしょうか。」 と質問しました。 |
孔先生がおっしゃるのには、「絵画で言えば、 
A:(の胡粉〔ごふん〕)で地塗りしてその上に彩色するようなものだ。」
B:彩色して一番最後に白色の絵具(胡粉〔ごふん〕)で仕上げるようなものだ。
」 
と。 |
(子夏が質問して言うには) 
A:礼(儀作法)は、まごころ〔忠信〕というベース・地塗りが出来てから行われるものですね。」 
B:(まごころをもとにして) 礼(儀作法)が人の修養・仕上げにあたるものなのですね
。」 |
孔先生がおっしゃるのには、
「わしの思いつかなかったことを言って(啓発して)くれる者は商(子夏の名)だね。
(※わしの思いつかなかったことを言って(啓発して)くれたものだね。商よ、お前でこそ、共に ・・・ ) 
商のような(古典を活学できる)人にして、はじめて共に詩を語ることができるというものだね〜。」 と。


《 解 説 》
子夏のこの時の年齢はさだかではありませんが、
(孔子との年齢差を考えるにつけても)おそらく若々しい青年だったでしょう。
純情内気な子夏が、生真面目〔きまじめ〕に(艶〔つや〕っぽいことについての)とぼけた質問をして、
それに対して覚人達人の孔子が ポン とよくわからぬ応〔こた〕えをしています。
その応えに、賢く類推し凛〔りん〕として思考を閃〔ひらめ〕かせています。
禮後乎」とわずか三字で表現したところに“打てば響く”がごとき子夏のシャープな覚りが感じられます。
その賢い弟子に対して「起予者」と三字で応じた孔子も流石〔さすが〕なるものがあります。

―― この問答の深意は、読者のみなさんには、“禅問答”のようで、
トン とよくわからないものでしょう。
このあたりが又、『論語』の得も言われぬ妙味たるゆえんかもしれません。


※注) 
『詩経』の詩について、上2句は衛風・碩人篇にありますが、下1句は見当たりません。
「笑〔え〕まい可愛いや口もとえくぼ、目もと美しぱっちりと、白さで美しさをしあげたよ。」
(金谷治・『論語』 p.56 参照引用)


参考資料

「 人形 〔にんぎょう〕 」      1911(M.44)年 5月 

   文部省唱歌/作詞作曲ともに不詳/ 『尋常小学校唱歌・第一学年用』

1.わたしの人形はよい人形。
  目は ぱっちりと いろじろで、
  小さい口もと 愛らしい。
  わたしの人形はよい人形。

2.わたしの人形はよい人形。
  歌を うたえば ねんねして、
  ひとりでおいても 泣きません。 
  わたしの人形はよい人形。


※1970年代、替え歌 CMソング(関西地区限定)  『モリシゲ人形のうた』

1.わたしの人形は モリシゲで
  お顔がよくて 可愛くて
  五人囃子に 内裏さま
  たのしいみんなの ひな祭り

 ―――  2.3.4.5.

 最後に

  目は ぱっちりと いろじろで
  小さい口もと 愛らしい
  わたしの人形は よい人形。


《 §2.白 white = 素 について 》

「素」“そ”は、それを 「絵事」=色彩 として捉えれば、「素」“しろ”と発音されます。
「黒:Black」に対する「白:White」です。

この色彩としての“白・黒”の概念については、
次の3つの場合を考えることができると思います・・・



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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謹賀甲午年  その1

謹賀甲午年 〔謹んで甲午年を賀します〕 その1

───  甲・午・四緑木性/「輪」・「おもてなし」/“仁”・“核〔さね〕”/
「赤兎(馬)」と「騅〔すい〕」/「馬のはなむけ」・「馬が合う」/
【雷火豊】・【火天大有】卦
  ───


《 はじめに ・・・ 干支について 》

明けて平成26年(2014)。 
新年を皆様と迎えますこと、大慶でございます。


今年の干支〔えと/かんし〕は、(俗にいうウマではなく)
「甲・午〔きのえ・うま/こう・ご〕です。

干支は、十干〔じっかん〕(天干)と十二支(地支)です。

かつてはこの、10 と 12 の組み合わせで、
60干支〔かんし〕の暦を作っていました。

「丙・午〔ひのえ・うま/へい・ご〕」と発音が似ているので、
たまに勘違いをしている人を見かけます。

(丙・午年生まれの女性は、じゃじゃ馬だとの
広く知られている俗説・妄説と関連しての勘違いでしょう。)


そして、本来十二支は、動物とは専門的には直接関係ありません。
が、動物のイメージ・連想は、人口に膾炙〔かいしゃ〕しています。


干支を「今年のエトは、ウマで ・・・ 」とメディアが薄々軽々と報じているところです。

また、干支は旧暦(太陰太陽暦:我国で明治維新期まで用いられました)ですから、
年始は 2月4日(立春)からで、
2月3日(節分)までは、まだ「癸・巳〔みずのと・み/き・し〕」です。

これらのことを確認しておきまして、
これから干支「癸・巳」年のお話をして、私の年頭所感としたいと思います。


《 「輪」 と 「おもてなし」 》

昨年・平成25年の世相をあらわす文字(「今年の漢字」)は「輪」でした。

(一昨年は「金」、その前は「絆」。) 

── 2020年の“東京五輪”の開催決定や相次ぐ自然災害への支援の輪からの連想です。

この「輪」の文字が世相をあらわす文字として思った(当てた)人も多かったことでしょう。

「今年の漢字」に応募された語の半数以上の多数による決定であったわけですから、
“一般ピープル並みの連想をするならば当たる”、という理屈です。

翌日の朝日新聞“天声人語”でも、
「輪」が“東京五輪”と“人のつながり”という連想から述べられていました。 注1)


しかるに、私は多数の連想からは離れて居るようで、「輪」から連想するものは、第一感『論語』でした。

というのも、『論語』は『輪語』ともいいます

人口に膾炙〔かいしゃ/=普及〕している『論語』の書名の由来は、
多くの弟子たちが(孔子の言葉を)論じてピックアップしたことによる名称といわれています。

この『論語』の別称が『輪語』で、弟子たちが“輪”になって論じたからの意からでしょう。

(cf.他に『倫語〔りんご〕』・『円珠経〔えんじゅきょう〕』ともいわれています) 

私は、『論語』=『輪語』の(精神の)見直し、これからの再生の必要性を連想し想ったのでした。


そして、この『論語』の中に、100回以上も登場する
(『論語』=孔子の思想)キーワードが「仁〔じん〕」です。

「仁」とは“人が二人”と書きます。

人と人の間に生じる自然な親愛の情、相手を思いやることです。

「仁」=“恕〔じょ/ゆる・す〕”であり、
キリスト教の “愛”であり、仏教の“(慈)悲”に相当いたします。


また、“核〔さね〕”の意でもあります。

植物の種でいえば“胚〔はい〕”にあたります。

中華料理のスイーツの“杏仁豆腐〔あんにんどうふ〕”は、
杏〔あんず〕の種子からつくりますね。 注2) 

動物でいえば“卵〔らん〕”にあたります。 
── つまり、始原出発点であり、
(人として)欠くべからざる最も重要なものの意ということです。 注3) 


私なりに易学的に考えてみますと、“核〔さね〕”は“陽”であり生成発展です。

そして、「仁」の象〔しょう〕は【坎〔かん: 水】です。

【坤〔こん: 地】の肉体(陰)に貫き通る(“一貫するもの”)一本の陽、
すなわち“善き精神”であり“まこと”であるのです

老子もその思想を“水”【坎〔かん: 〕】に象っています。


ところで、“東京五輪”招致のプレゼンテーションの中で、
流行語大賞の候補にもなった(滝川クリステルさんの)
「お・も・て・な・し」という語がありました。

日本語の“おもてなし”とは、
相手に対するまごころ・おもいやりの念(=仁)に他なりません
。 注4)


前回の“北京オリンピック”(2008.8.8.8.)を中国が開催するにあたり、
従来の共産国の方針を(表面的にはですが)大転換して、
儒学・孔子を生んだ国であることを世界にアピールしました。

開会式で「有朋自遠方来、不亦楽乎。」
(朋〔とも〕あり、遠方より来たる、亦〔また〕楽しからずや。)と
論語の冒頭を高らかに唱〔うた〕ったのは、記憶に新しいことですね。

わが国は、まず“東京オリンピック”に浮かれて
東日本大震災の復興や福島第一原発事故の善処・展望を
等閑〔なおざり〕にしないことが大切です。

そうして、わが国も“東京オリンピック”に向けて、
忘れている日本儒学の古き善き伝統を復活させるべく、
“輪語”・“おもてなし(=仁)”に想いを向けるべきです。


注1)“日本漢字能力検定協会は「今年の漢字」を「輪」と発表した。
   毎年、公募をして一番多く寄せられた字が選ばれる。
   「おかえり、五輪」 「ようこそ、五輪」の思いを込めた人が多かったのだろう。
   ▽人のつながりを「輪」に例えることもある。・・・ ”
   (2013.12.13.朝日新聞・天声人語)


注2) 現代の学生諸君が、「仁」=「核〔さね〕」を
   どのような若者表現で理解しているのか、参考までに述べてみますと; 

○ 「仁」とは、── 人の自然な心情で、愛・慈悲と同じことで、
  それが人間の核になっている/真心〔まごころ〕のことで、
  心の真ん中=核 を意味する/(人間の)核である心にあるもの/
  人間にとっての核であり、変わることなき中心の核/
  核のように続いてゆくもの(≒DNA・永遠・連続・一貫するもの)/
  思いやりを大切にしてブレない核で貫かれているもの/
  いろいろなものの核、人と人との間にできる核/
  思いやり、それは人格の核となる/
  核(胚や卵黄)のようにこれから成長していきなさいということ/
  核(胚や卵黄)は栄養分(種の白い部分や卵の白味)があって育ちます。
  (それが人間にとって学ぶということでしょうか?) etc.


注3)トピックス“卵〔らん〕”・「万能細胞」について:

   ES細胞(2007年・ノーベル賞・Mエバンス博士・英)に続き、
   昨年i PS細胞(2012年・ノーベル賞・山中伸弥 京大教授)、
   今年2014年STAP細胞(小保方晴子 理研ユニットリーダー)。


注4)“寒い季節こそ人の情けは身にしみる。
   流行語になった「おもてなし」の最たるものは、
   能で知られる「鉢木〔はちのき〕」だろう。・・・”
   (2014.2.7.朝日新聞・天声人語)

   旅の僧〔北条(最明寺)時頼〕が、雪道に悩んだ時、
   貧家の主人〔佐野源左衛門常世〕が、暖をとる薪が底をつくと
   愛蔵の梅・松・桜の鉢の木を焚〔た〕いてもてなした話です。

   ちなみに『三国志(演義)』では、似たスチュエーションで、
   山中にさまよっていた劉備玄徳をもてなすのに
   、主人が自分の愛妻を殺してその肉を供するという“大陸的なもてなし”の話が登場します。

   (※われわれにはショッキングな話ですが、原書では美談として扱われているのです。)


《 甲・午 & 四緑木性 の深意 》


 さて、今年の干支「甲・午」には、どのような深意があり、
どのように方向づけるとよいのでしょうか。・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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むかしの中国から学ぶ 第5講 「英語でABC論語カルタ」 (その4)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

【 今回の“ABC論語カルタ”の講演 】

今回の“ABC論語カルタ”の講演は、ア)のパターン
(英語を話せる英語指導者が用いるツール)
で試作中のもの
26パターンを紹介・解説いたしました。

参考までに、そのいくつかをご紹介しておきましょう。

ex.

 D    【delight】  (大いに)楽しむ/嬉しさ・楽しさ

The Master said, “ The wize delight in water, the humane delight in mountains. ”
【子曰、知者楽水、仁者楽山。】 (雍也第6−23)
「子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。」
(孔先生がおっしゃいました。「知者は、〔水が流れるように流動的で、変化に対応して窮するこ
とがないので〕水を楽しみ、仁者は、〔泰山のようにどっしりと、やすらかにゆったりとしているので〕山を楽しむのです。」)

ex.

 F   【friend】  友/学友〔がくゆう/がくとも〕 ・ 道友〔どうゆう/みちとも〕

The Master said, “ It is a pleasure, isn’t it? To have friends coming from far
away and talk to each other. ”

【(子曰)、有朋自遠方来、不亦楽乎。】 (学而第1−1)
「(子曰)、朋あり遠方より来〔きた〕る(朋遠方より来る有り)、亦〔ま〕た楽しからずや。」
(孔先生がおっしゃいました。「だれか友〔=学友/道友〕が、遠くからやってきて語り合う、何とも楽しいことだねェ。」)     
 cf.山県有朋〔やまがたありとも〕/*「不亦〜乎」: なんと〜ではないか。詠嘆を表します。

ex.

 R    【respect】   尊敬

The Master said, “Yan Pingzhong was skilled in his dealings with others.
Even after a long period , he treated his acquaintances with respect. ”

【子曰、晏平仲善興人交、久而(人)敬之。】 (公冶長第5−17)
「子曰く、晏平仲〔あんぺいちゅう〕は善〔よ〕く興人と交わり、(人)*久しくして之を敬す。」
(孔先生がおっしゃいました。「晏平仲は、立派に人と交際され、長い間交際しても慣れ過ぎることがなく、*友人たちに敬意をもって接した。〔友人たちは敬意をもって彼に接した。〕」)
cf.晏平仲:名は嬰〔えい〕・平はおくり名・仲は字〔あざな〕、斉〔せい〕の名宰相、『晏子春秋』/
「久敬〔きゅうけい〕」/(人)の字を加えて読むと他人〔ひと〕が晏子を敬ったの意になります → 
Yan Pingzhong’s acquaintances treated him with respect.

ex.

 T    【timely】  時宜〔じぎ〕を得た/時機をみて

The Master said, “ To learn something and timely practice it. ----― that’s
enjoyable, isn’t it?”

【子曰、学而時習之、不亦説乎。】 (学而第1−1)
「子曰く、学びて之を時習す、亦〔また〕説ばしからずや。」
(孔先生がおっしゃいました。「学んで、時機に応じておさらいをする、何とも楽しいことだねェ。」)
 cf.『論語』の冒頭・ “小論語” の一節/「時習」の深意→ sometimes / from time to time
や alwaysはダメ。 /*「不亦〜乎」: なんと〜ではないか。詠嘆を表します。

( 以 上 )


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むかしの中国から学ぶ 第5講 「英語でABC論語カルタ」 (その3)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 ABC論語カルタ 》

◎英語・中国語(漢語)・日本語 の語学教育ツール / 
◎イラスト・絵画による美術・情操教育ツール / 
◎内容文言による徳育・基本的生活習慣形成のベース
(*儒学徳目の基本的キーワードで創られています)


 わが国は、21世紀・ “グローバルな時代” に在って、
また同時に少子(超)高齢社会が進展しております。

かかる時代情勢において、 “ABC論語カルタ” は、
古くも新しい優れた伝統的教育ツール〔手段・方法〕として、私が考案中のものです。

 親子(祖父母・孫)で、 び・しめ・べる 伝統的教育ツールで、
現代の荒〔すさ〕んだ“心の貧しい”・“家庭の(絆の)貧しい”時代にこそ
相応〔ふさわ〕しいものだと考えます。

「温故而知新」です。 ── その意義・特色を挙げてみますと。


【 意義・特色 】

1) 親子(祖父母・孫)で、び・しめ・べます。
   親子(祖父母・孫)の絆〔きずな〕を、
   親が子に自然に知識・教養を教えながら創ることが出来ます。
   家庭(教育)の再生です。
2) 高齢者世代(その子どもであった親世代)自身の教養・頭脳の活性化
   (=ボケ予防)が図れます。
3) 進展する超高齢社会での高齢者の果たすべき社会的役割は、
   (経済的に稼ぎ働くことではなく)蓄積した人生の文化遺産(=経験・教養)を
   孫の世代(=次の次の世代)に教えることではないでしょうか。
   「一〔いつ〕なるもの」は受け継がれるものに他なりません。
   そのために必要な、ノウハウ〔やり方〕・ツール〔具体的教材〕となります。
4) 家庭教育の場でのツールであると同時に、内容を深化・工夫することにより、
   学校(公)教育・私教育の場に導入できます。
   就中〔なかんずく〕、語学教育・徳育(加えて描画・イラストによる芸術・情操教育)を
   一体化して行うことができます。  補注)


補注)

小学校教育の現場に英語教育の必修化が実施されました(‘11.春〜)。
然しながら、そもそも、一体誰が、どれほどの素養のある教師が、
どのような方法で授業に携わっているのでしょうか? 
現実は、“つけやきば”で小手先末梢的なものです。
このままでは、母語(日本語)も英語も生半可な人間を濫造する教育となるだけです。
また、中国では儒学を国教化し、『論語』を児童教育に導入しています。
日本も、本来あるべき儒学教育を再生していくべきです。
が、それにしても、当面そのための“師”と“ツール”にこと欠くことは必至です。
儒学的教養を教えることのできる先生がいません。
その先生・指導者を育成する先生(=師の師)たる人も、ますます稀少です。


【 “ABC論語カルタ”の試作 】

●まず、【カードの枚数】: “いろはがるた”は、末尾に「京」の字が加えられ
 48文字(鎌倉時代)が、読み札と絵札の 48×2=96 枚で構成されています。
 “ABC論語カルタ”は、アルファベット26文字が、
 読み札と絵札の 26×2=52 枚で構成されるということになります。
 量的に少ないと考えるようならば、アルファベットを大文字・小文字それぞれ 
 26×2=52 枚 とし、全体を52×2=104枚で構成すれば、
 ホド善いボリュームになるかと思います。

●次に、【カードの構成形式】: “いろはがるた”は、
 “いろはにほへと ・・・(あいうえお ・・・)”が単語の頭〔かしら〕に
 つくように作られています。
 【い】 → 「ぬ〔犬〕も歩けば棒にあたる」 といった具合ですね。
 してみると、“ABC論語カルタ”の作り方には、2通りが考えられます。
 それは、次の2パターンです。
 ア) アルファベットABC(スペル)・・・を、英語の単語(キーワード)のスペルを中心に考える
 イ) アルファベットABC(発音)・・・を、日本語(=漢字・漢語)の発音を中心に考える

─── 具体的に例示してみましょう。
◆『論語』(儒学)のキーワード 「愛/愛する」 を用いるとしましょう。
 「愛」「仁」 ・ 「(慈)悲」 と同じ概念です。
 “人べん”に“二”で、人と人とのかかわり・ヒュ─マンリレーションズをさします。
 “思いやり”のことです。
 「仁」の語は、『論語』に100回以上登場いたします。
 「愛」は専らキリスト教で用いられています。
 したがって英語の “love”も最重要キーワードです。
 『論語』に該当文言を探してみますと次のものが非常にシンプルで明確です。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

《漢》 【樊遅問仁、子曰愛人。】 (顔淵12−22)
《日》 「樊遅仁を問う、子曰く、人を 愛す 。」
《英》
 Fan Che asked about humaneness.
    The Master said,“ It is to
 love  others. ”

《現代語訳》
(樊遅〔はんち〕が、“仁〔じん〕”とはどのようなものですかとお尋ねしましたところ、
孔先生は「人を愛することだョ。」 とおっしゃいました。)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ア)のパターンですと、 「愛/愛する」= love  は “l・o・v・e”のスペルですから
 アルファベットの 【 L 】 の分類となります。
 英語・語学教育の中に、『論語』を取り入れるというニュアンスです。
 英語を話せる英語指導者が用いるツールとしてよいでしょう。

イ)のパターンですと、アルファベットの音を日本語(カタカナ)表記します。
 「愛/愛する」=アイ〔ai〕= I (アイ)〔ai〕ですから、
 アルファベットの 【 I 】 の分類となります。
 こちらは、日本人には用いやすいと思います。
 英語の初心者・入門者向きです。
 指導者(=読み手)に英語の素養があまりない場合によいでしょう。
 日本語(漢文)・『論語』をベースにしながら英語も学べるといったニュアンスです。


★ ア) と イ)、その目的と対象と水準〔レベル〕に応じて、
  2 とおりを作り組み合わせて用いるのもよいと思います。


【 今回の“ABC論語カルタ”の講演 】

今回の“ABC論語カルタ”の講演は、ア)のパターン
(英語を話せる英語指導者が用いるツール)
で試作中のもの
26パターンを紹介・解説いたしました。

参考までに、そのいくつかをご紹介しておきましょう・・・



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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