儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

謹賀丁酉年 〔謹んで丁酉年を賀します〕 その2

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 酉 → 鳥 あれこれ 》

「酉=鳥」。十二支・「酉年」は、一般に「鳥〔とり〕〕年」と言われ、
動物の「鳥〔Bird〕」、とりわけ「鶏〔にわとり:Hen/Cock〕」に当てはめられます。

「鶏」は古来より食用とされており、より以上に日常的な鳥だからでしょうか? 

よく用いられている英語の“チキン〔Chichen〕”は、
食用としての鶏の肉に用いられる語です。

「鳥」にちなむ文言や言い回しについてあれこれ述べてみたいと思います。

まずは「鶏」

現在「鶏」は、専ら肉・卵を食するために飼育されています。
が、古くは“時を告げるモノ”としても利用されておりました。

○「鶏鳴狗盗〔けいめいくとう〕」 (『史記』)

故事:戦国時代。
斉〔せい〕の王族に、孟嘗君田文〔もうしょうくんでんぶん〕という城主がいました。
その名声を慕って、多くの一芸一能に秀でた食客〔しょっかく〕達が集まってきました。
その中には、“どろぼうの達人”や“声色〔こわいろ:鳴き真似〕自慢”の変わり種までいました。
後年、彼らのその一芸一能に命を救われることになります。

「鶏鳴」は、夜明けの時を告げる“鶏の鳴き声”のこと。
「狗盗」は、“コソ泥〔=コソコソ盗む〕”のことです。
昔時〔むかし〕、(野良)狗〔いぬ:犬〕は、泥棒のようにそっと、
コソコソと家に入ってきたのでしょう。

想いますに、現代はスペシャリストの時代(cf.早大の一芸入試)。
この故事に共通するものがあるようですね!?

○「鶏口牛後〔けいこうぎゅうご〕」/「鶏口となるも牛後となるなかれ」 (『戦国策』)

故事:戦国時代。
“戦国の七雄”がしのぎを削っていた時代、雄弁家・蘇秦〔そしん〕が、
最強国「秦〔しん〕」に臣従せずに独立を保つべく六国の団結を説いたものです。
大きい牛の尻尾〔しっぽ〕でいるよりは、小さくとも鶏の口となれの意です。
大企業の下っ端でいるか中小企業のトップになるか、ですね!
西洋版ですと、「ライオンの尻尾〔しっぽ〕となるより犬の頭になるがまし」(イギリス)。
「ローマで二番になるより村で一番になるがまし」(シーザー)。

○「鶏を割〔さ〕くに焉〔いずく〕んぞ牛刀を用いん」 (『論語』・陽貨第17)

故事:戦国時代。
孔子が弟子の子游〔しゆう〕が治めている“武城”という一町村を訪れた時のジョーク〔冗談〕の文言。
「鶏を料理する(解体する)のに、大きな牛切り包丁を用いる必要はない」という喩〔たと〕えで、小さな事を処理するのに大人物を登用したり大がかりな手段方法を用いるには及ばないの意です。

次は「烏/鴉〔からす〕」

「烏」の文字は、“鳥〔とり〕”の目の部分が(黒いため)遠くから見えないので
その部分に相当する「ヨコ一〔いち〕」がない、という面白い字です。

日本に10種、世界に100種もいると言われています。

今も昔も、「烏」は人の住まいの身近にいる鳥です。

殊〔こと〕に現代の都市部では、“あだ花”のごとく
「烏」ばかりが繁殖し、生ゴミをあさり散らかして
住民の顰蹙〔ひんしゅく〕をかっているところです。 注)

私は、昔時〔むかし〕知った「カラスが焼け死んだくらいのこと」という
小説の表現が、妙に印象深く頭に焼き付いています。

「烏」は、動物における“猫”と同じく
“軽いもの”として扱われています。

そして、鳥類の中では一番知能が高いといわれ、
その狡賢〔ずるがしこ〕いところから、
専〔もっぱ〕ら、あまり芳しくないことを意味する文言に使われています。

○「烏合の集〔うごうのしゅう〕」 (『後漢書』〔ごかんじょ〕):

故事は、後漢〔ごかん〕の光武帝が天下の群雄を相手に奮闘していた時代。
光武帝に味方していた将軍が敵将に対して発した言葉です。
「烏」の集まりのように、規律も統制もとれていない群衆のことで、
“とるに足らないくだらぬ連中の集まり”の意です。
(後述の“雁行〔がんこう〕”と呼ばれ美しく秩序だった雁と真逆〔まぎゃく〕ですね!)
今にいたるまでよく用いられています。
とりわけ、現代ではよくよくあてはまるケースが多々ありますね。

○「鵜〔う〕のまねをする烏」:

鵜は水鳥ですから烏が真似をしても溺れてしまいます。
『イソップ寓話〔ぐうわ〕』に“おしゃれガラス”という
他の鳥の羽を自分にくっ付ける話がありましたね。

○「烏喙〔うかい〕」:

“からすのくちばし”、そのようにとがった口のことです。
欲の深いことを表している人相であるといいます。

○「烏有に帰す」:すっかりなくなってしまうこと。

○「烏の雌雄」(誰か烏の雌雄を知らん)

○「烏の行水」 ・・・とまあ、枚挙に暇〔いとま〕がありません。

反面で、
○「烏鳥〔うちょう〕の私情」のように、
子が親を養おうとする心根〔こころね〕をいった
善〔よ〕い意味の文言もあります。

童謡にも 
「烏なぜ啼くの 烏は山に 可愛〔かわいい〕七つの 子があるからよ 
可愛〔かわいい〕 可愛〔かわいい〕 と烏は啼くの ・・・ 」

(七つの子:野口雨情 作詞) と歌われていますね。

親子の情が深いのでしょう。

そういえば昔時〔むかし〕、登校途中の生徒が、
学校付近で頻繁にカラスに襲われるということがありました。

近くにカラスの巣があって、
子どもがいるため親ガラスの気が立っているのが原因でした。

伝説の「烏」について付言しておきましょう。

○「八咫烏〔やたがらす/やたのからす〕」:

“三種の神器〔じんぎ〕”の一つ“八咫鏡〔やたのかがみ〕”の“八咫”です。
“八咫”は大きくて広いの意。
中国の伝説で、太陽の化身、太陽の中にいるという三本足の烏です。
「三本足」は、易学の“天・地・人”の“三才”を表しているのでしょう
日本でも古く、『古事記』・『日本書紀』、
キトラ古墳の壁画・玉虫厨子〔たまむしのずし:法隆寺蔵〕台座などに見ることが出来ます。
「八咫烏」は、天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕の使神として大鳥となってあらわれ、
日本を統一したとされている神武天皇を、
大和〔やまと〕の橿原〔かしはら〕まで道案内したといいます。
“導きの神”としての篤い信仰があります。
なお、外国版の幸せを運ぶ鳥、伝説の鳥では、
グアテマラの国旗や通貨に描かれている“ケツァール”がよく知られています。 

注) 
余事ながら。漢文の句法で「烏〜(乎)」は、(安・悪・焉・寧〜と同様、)
“いづクンゾ〜(や・か)”と疑問や反語を表します。
また、「烏乎/烏呼」〔ああ〕は、嘆息・感嘆のことばです。=「嗚呼」。

「烏」についてはこのくらいにして、他の「鳥〔とり〕」にまつわる文言を少々拾っておきますと。

○「鷲〔わし〕は、はい(はえ)をとらない」は、
大人物は細かいことには頓着しないの意。

○「鳩〔はと〕の怒りをおそれよ」、
この鳩は普段柔和な女性になぞらえられたもののようです。

○「鳥小屋のトリより口の中の卵」(明日の鶏より今日の卵)

○「能ある鷹〔たか〕は爪をかくす」

○「鶴の一声」

○「立つ鳥あとを濁さず」 ・・・ etc.

私の(興がむくという意味で)好きなものに、

○「鳥なき里の蝙蝠〔こうもり〕」があります。

鳥がいないところでは一応飛べる蝙蝠なんぞがハバをきかせるの意で、
優れた人がいないところでは小人〔しょうじん:つまらない人〕が威張り・
のさばるということの喩〔たと〕えです。

私には、これが易卦の【地火明夷〔めいい〕☷☲】と重なって身につまされるものがあります。

【明夷】は、【離☲】の明るいもの・正しいものが夷〔やぶ〕れることです。

今の時代は、徳のない時代・蒙〔くら〕い時代ですが、
このままでは【明夷】の“君子の道 閉ざされ、小人はびこる”時代になってしまいます。

「鳥〔とり〕」のお話の結びに「鴻雁〔こうがん〕」について述べたいと想います。

「鴻雁」は、中国古典によく登場している鳥です。例えば・・・

 

※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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謹賀丁酉年 〔謹んで丁酉年を賀します〕 その1

謹賀丁酉年 〔謹んで丁酉年を賀します〕 その1

――― 丁・酉・一白水性/新旧両勢力の衝突/今年の漢字「金」
/【火沢睽〔けい〕☲☱】・【天水訟☰☵】卦/“背き離れる”/「鶏鳴狗盗」・「鶏口牛後」
/「八咫烏〔やたがらす:三本足の烏〕」/「鳥なき里の蝙蝠〔こうもり〕」
/鴻雁〔こうがん〕/『易経』のヒロイン“K女”・“KIMIKO”
/【山火賁☶☲】卦  ―――

《 はじめに ・・・ 干支について 》

明けて平成29年(2017)。
新年を皆様と迎えますこと、大慶でございます。

歳重ねの想いを新たに、例年のように干支〔えと/かんし〕から始めて、
いささか本年の観想といったものを述べてみたいと思います。

今年の干支〔えと/かんし〕は、(俗にいうトリではなく)
「丁・酉〔ひのと・とり/てい・ゆう〕です。

干支は、十干〔じっかん〕(天干)と十二支(地支)です。

かつてはこの、10と12の組み合わせで、
60干支〔かんし〕の暦を作っていました。

そして、本来十二支は、動物とは専門的には直接関係ありません。
が、動物のイメージ・連想は、人口に膾炙〔かいしゃ〕しています。

干支を「今年のエトは、トリで ・・・ 」とメディアが薄々軽々と
報じているところです。

また、干支は旧暦(太陰太陽暦:我国で明治維新期まで用いられました)ですから、
年始は 2月4日(立春)からで、2月3日(節分)までは、
まだ「丙・申〔ひのえ・さる/へい・しん〕」です。

これらのことを確認しておきまして、
これから本年の干支「丁・酉」年にまつわるお話をしてまいりましょう。

 

《 今年(‘16)の漢字 「金」 》

昨年・平成28(2016)年の世相をあらわす文字(「今年の漢字」)は「金」でした。
(一昨年は「安」、その前は「税」。) 注1) 

リオデジャネイロ五輪での日本選手達の金メダル獲得ラッシュ。

前東京都知事の辞任や東京五輪開催に伴う経費など
“政治と金”をめぐる問題。

米大統領候補トランプ氏から連想される
金髪や金持ちのイメージを反映しているもの、と報じられています。

五輪・金メダルからの連想による「金」は、
2000年と2012年に続き3回目です。

古代ギリシアに起源する古代オリンピック競技大会は、
“平和への(願いの)祭典”として“平等”を大切にして
約1200年間も生き続けました。 注2) 

私は、勝つことのみ、(金)メダルの数を競うのみ、の
スポーツマンシップ
に堕落した現代のオリンピック競技大会を残念に想います。

古〔いにしえ〕の孔子の時代から
“射は的に中〔あた〕ることを主とせず”/
“君子は人と争い勝負を競うことはしないが、
もしするとすれば弓の競射だろうか”(八佾・第3)などと、
その勝利第一主義は嘆かれています。

そして、“貨幣”=「金」についても、
私は、貨幣〔かね〕そのものに価値を置く今の日本の
“拝金主義”・“儲け主義”
を情けなく想います。

「 5 7 5 / それにつけても金の欲しさよ」と、
上の句に続いて下の句が読めるのは、
いつの時代にも共通した世相ではありましょう。

けれども、現代人はあまりに「足〔たる〕を知らず」、
「満足することなき」に過ぎてはいないでしょうか?

また、2位は「選」で18歳選挙権の導入や
電力自由化で個々人の選択肢が増えたことによるもの。

3位は「変」で英国のEU離脱などの世界情勢の変化や
島根・鳥取の地震など天変地異によるもの、とのことです。

私は、候補の漢字を見るにつけて毎年感じ想うのですが、
倫理・道徳の根本をなす漢字は一字も登場していません。

“徳”・“仁”・“恕”・“義”・“孝”・“恥”・“敬”・“譲”・・・ 
といった珠玉の貴重な言葉が忘れ去られ「死語」となりつつあります。

むろん、文字だけでなくその精神が忘れ去られようとしているのです。

まことに、残念でなりません。

注1)
“その年の世相を表す漢字を発表する「今年の漢字」(日本漢字能力検定協会主催)が
今年で22年目を迎えます。
「今年の漢字」は1995年に始まり、
毎年「漢字の日」の12月12日に清水寺の森清範〔せいはん〕貫主〔かんす〕が揮毫し、
清水の舞台で発表されています。”

◆ 歴代の「今年の漢字」
1995 「震」 (阪神・淡路大震災、オウム真理教事件)
1996 「食」 (O〔オー〕157集団食中毒)
1997 「倒」 (山一証券経営破綻〔はたん〕)
1998 「毒」 (カレー毒物混入事件)
1999 「末」 (世紀末)
2000 「金」 (シドニー五輪)
2001 「戦」 (米・同時多発テロ)
2002 「帰」 (拉致被害者の帰国)
2003 「虎」 (阪神タイガースのリーグ優勝)
2004 「災」 (相次ぐ台風上陸)
2005 「愛」 (紀宮さま成婚、「愛・地球博」)
2006 「命」 (悠仁さま誕生)
2007 「偽」 (食品偽装)
2008 「変」 (リーマン・ショック)
2009 「新」 (政権交代)
2010 「暑」 (猛暑日が連続)
2011 「絆」 (東日本大震災)
2012 「金」 (ロンドン五輪やノーベル賞)
2013 「輪」 (東京五輪開催決定)
2014 「税」 (消費税率8%に引き上げ) ――(以上、朝日新聞:2014.12.13 引用)
2015 「安」 (安保関連法、安倍内閣〔アベノミクス〕)
2016 「金」 (リオデジャネイロ五輪、“政治と金”をめぐる問題)

注2)
“古代オリンピック”は、ギリシアのポリス〔都市国家〕から生まれ(BC.8世紀〜)、
平和への願いと平等という価値観を大切にすることで、
1200年間(〜AD.394)もの長きにわたり、休戦を守って生き続けました。
優勝者に与えられたものは、頭に巻く一本のヒモ(彫像を作ってよいという権利)だけだったといいます。
“近代オリンピック”は、1896年、ピエール・ド・クーベルタンによって復活されました。
その歴史は、(リオデジャネイロオリンピックで)120年です。
その間、戦争あり、不正(ドーピングなど)あり、メダル獲得競争あり ・・・・ です。

 

《 丁・酉 & 一白水性 の深意 》

さて、今年の干支「丁・酉〔ひのと・とり/てい・ゆう〕には、
どのような深意があり、どのように方向づけるとよいのでしょうか。

十干「丁〔ひのと〕」は、(五行)「火」の“陰”です。

「一」〔いち〕と「亅」〔はねぼう/けつ〕とからできています。

「一」 は、従来の代表的な動き=“陽気”がまだ続いていることを示しており、
昨年の「丙〔ひのえ〕」の上の「一」の続きと解せます。

「亅」は、旧勢力の陽気に対抗する新しい動きを示しています。
つまり、「丁」という文字は、新旧両勢力の衝突を意味しているのです

十二支”の「酉〔ゆう/とり〕」は、
酒を醸〔かも〕す麹〔こうじ〕が甕〔かめ/みか〕の中に在って
発酵するのを示す象形文字です。

甕の中で発酵したエネルギーがいつ爆発するかわからない情況を示しているのです。

したがって「丁・酉」の今年は、
今までの陽の勢力に対抗する新しい気風(=甕の中で発酵した新しいエネルギー)が
衝突するという形勢を現していると考えられます

字義から時期を推察してみますと、陽気の陰〔かげ〕りは5月ごろ、
新しい勢力による困難な情勢(黍〔きび〕の発酵)は仲秋ともいえましょう。

※(以上の干支の解説については、安岡正篤氏干支学によりました。 
『干支新話(安岡正篤先生講録)』・関西師友協会刊。p.85、p.127 参照。)

 

付言しますに、後述いたしますが、
干支の「丁・酉」を易卦に直すと【火沢睽〔けい〕☲☱】
(先天卦:【天水訟☰☵】)となります。

“そむ〔叛/背〕く”・“そね〔嫉〕む”の意です。

「火」と「水」、「中女」と「少女」の対立・反目です。

が同時に、火水が折り合ってゆく、
対立矛盾を統合(=中す/アウフヘーベン)してゆくべき、
という意味でもあります。

干支の文字の示すものと、易卦の象意〔しょうい〕とが
ピッタリと符合していますね!

 

また次に、九性(星)気学で今年は「一白水性(星)」にあたります。

陰陽五行思想・「木/火/土/金/水」の「水性」です。

易の八卦でいえば【坎〔かん〕☵】が相当します。

【坎】は、“水”であり、“陥〔おちいる〕であり、
人間で言えば“中男/次男”です。

象〔しょう〕の【☵】は、中爻〔こう〕が
背骨・肉体を貫く精神・一貫するもの・不変不易なるもの
・仁徳・・・を現しています。

「水」(液体)は、氷(固体)となり水蒸気(気体)となり
三つの態に変化します。

孔子や老子という賢人は、水の象〔しょう/かたち〕を
その思想の要〔かなめ〕としています。 注)

「一白水性(星)」には、理念・連絡・親和・情・水没・無彩色(白/黒)・・・ 
などの現象を現す意味が考えられます。

今年の時勢を推し測ってみますと。

政治・外交・経済・家庭・・・すべての分野で流動的であり、
洪水氾濫のような危険をいつも孕〔はら〕んでいるといえましょう。

龍(水と陽の象)が、水中(淵〔ふち〕)に潜んで飛翔する力を蓄えるように、
力を蓄える年でしょう

注)
儒学の開祖・孔子は、『論語』で 
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」(雍也第6)/
「子、川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」(子罕第9) 
と言っています。
老荘(道家)の開祖・老子も水の礼讃者で、
“不争”・“謙譲”を“水”に象〔かたど〕りその政治・思想の要〔かなめ〕といたしました。
例えば。「上善は水の若〔ごと〕し」「水は善く万物を利して争わず」(『老子』・第8章) /
「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し」(『老子』・第78章) etc. ―― 
孔子は水を楽しみ、孟子(や朱子)は川の流れに智の絶えざる・尽きざるものを観、
老子は水の柔弱性と強さをその思想にとりました。

 

なお、日本の現情勢を眺めてみますと、
内外共に、以上に見てまいりましたこの対立の厳しい情勢が在ります

たとえば、国際政治・外交面では、
韓国の朴槿恵〔パククネ〕大統領弾劾〔だんがい〕をめぐる
政情不安定と我が国との対立、
米国のトランプ大統領就任(2017.1)により予想される
世界と日米関係の混乱・緊張、をはじめとして
中国、ロシアなど各国との対立です。

経済面でも“EU問題”、“TPP問題”などの対立。

国内でも、政治は与野党の対立ばかりが目に立ち、
経済(“アベノミクス”)も課題多しです。

そもそも現代の社会・世界そのものが、
個人も国も自分中心主義が目立ち過ぎます。

この、かかる情勢から考え想いますことは、
親和の精神・“中庸=バランス”を図ることの大切さに他なりません

 

《 酉 → 鳥 あれこれ 》

「酉=鳥」

十二支・「酉年」は、一般に「鳥〔とり〕〕年」と言われ、
動物の「鳥〔Bird〕」、とりわけ「鶏〔にわとり:Hen/Cock〕」に当てはめられます。

「鶏」は古来より食用とされており、より以上に日常的な鳥だからでしょうか? 

よく用いられている英語の“チキン〔Chichen〕”は、
食用としての鶏の肉に用いられる語です。

「鳥」にちなむ文言や言い回しについてあれこれ述べてみたいと思います。・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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