※この記事は、謹賀辛卯年 (その1) の続きです。
一昨年8月、「坤」・陰の閉塞感を破って、歴史的政権交代が実現し、
民主党・鳩山内閣による政治がスタ−トしました。
高い支持率、世論の期待を担っての華々〔はなばな〕しいスタートでした。
昨年はその本格的展開(“正念場”?)で、政権の真価が問われる年でした。
私は昨年、「【无妄】卦の深意に学び慮〔おもんばか〕り、
天意(民意?)に逆らって天罰てきめんとならぬように」 と、
このメルマガで書きました(昨年“儒灯”・「謹賀庚寅年」参照のこと)。
http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/50941530.html
残念ながら、“幾〔き〕”をみて危惧〔きぐ〕したとうりに推移しました。
鳩山内閣(鳩山・小沢体制)は退陣し、菅内閣に交代しました。
その菅内閣も本年組閣し直してなお、
現今〔いま〕支持率は惨たる低位(20%をキル)を示しています。
本年、立春を経て政情を慮〔おもんばか〕りますに。
【大過】の卦が明らかに示しているように、
菅総理(内閣)にとって荷が重すぎます。責任が重すぎます。
その重みに耐えかねて、「棟撓み」軋〔きし〕みの悲鳴をあげています。
(鳩山政権と)菅政権というより、与党・民主党そのものにとって
“任〔にん〕重すぎて”、“道遠すぎる”ということです。
このことは自明として、かつての日本の与党・自民党の現状においても
似たようなものです。いわんや、他の野党においてをやです。
とうとう、“日本”の「棟木」となり「大黒柱」となる為政者が
見当たらなくなりました。
優れて善き指導者(リーダー)を持てぬ国民ほど、憐れなものはありません。
大衆民主社会のもと、その責は(主権の存する)国民自身にあります。
有徳君子の善き指導者を遠き慮〔おもんばかり〕して育成しなければなりません。
また、【節】卦といえば、新年早々の菅内閣の組閣人事での、
与謝野馨氏の経済政策担当大臣就任(‘11.1)に対して、
メディアが(その変節についても)大きく取り沙汰しています。
というのも、元々自民党で財務相を務めていましたが、
新党「たちあがれ日本」を立ち上げました。(‘10.4.10)
そして今回の、民主党内閣での大臣就任です。注2)
与謝野氏は、明治期の文学者 与謝野晶子・鉄幹夫妻のお孫さんにあたります。
私は、今近々、“地域エリア”の授業で
大阪府堺市出身の与謝野晶子の文芸を教えていますので、
尚更に関心を持っている次第です。
【節】=節操・志節・節義・・・は、担がれるものにも問われますが、
担ぎあげた菅総理、そして民主党、そもそも為政者そのものに問われるべき現状です。
現今〔いま〕、「節」は「恥」と共に地に堕〔お〕ちて忘れられた感があります。
さて、更に、今年の九性・「七赤金性」を易学の八卦〔はっか/はっけ =小成卦〕でいうと、
「兌〔だ〕」です。
64卦(=大成卦/重卦)では、【兌為沢〔だいたく〕】が相当します。
「兌」の象意〔しょうい〕を考えながら、
具体的活学の一例を政界の動きと現状に求めてみましょう。
1) 兌は、社交・交流。
まず、国内的に中央政府のいい加減さ、中央と地方の正常な交流が課題です。
大阪都構想・中部都の構想など、“わけのわからぬもの”が
“ひょいひょい”と出てきております。
地方の反乱、独自勝手の動きがますます活発になってまいります。
外交に関しても、中・露・朝・米に対する“宥和政策”の限度を超えた
軟弱外交・懺悔外交のツケは目に余るものとなってまいりました。
日本の内外の社交・交流状況は、末期的状況です。
そして、それと認識出来ない国民が実に多いことがその重篤さを示しています。
── 為政者(指導者/リーダー)に“時中”(時じく中す)が全く欠けている、
そんな為政者を市民・国民が選ぶが故だと考えます。
2) 兌沢は、沢〔さわ〕・小川ですので、
水のように潤し、水の流れのように軽やかに如才なく課題を処理したいもの。
中央政界では、政界再編成への動きも活発化するでしょう。
国会は“ねじれ”状態にあり、
与党・民主党は野党との対立の調整は不可欠です。
菅VS小沢の対立もあり、そもそも民主党内部の調整が出来ていません。
3) 兌は口=演説(弁舌)=講習。
4月には統一地方選挙です。
菅内閣、“有言実行”を唱え“支持率 1%になってもやる!”との言。
(何を言い、何をやろうというのでしょうか?)
“口先だけ”の総理・内閣・政党 ・・・すぐに退陣やむなしでしょう。
加えて、鳩山・元総理の “舌禍〔ぜっか〕”もいまだに相変わらず報じられています。
今時の政治家は、大臣・総理でも 『孝経』一つ学修していないのではないでしょか?
“有言実行”・“口先だけ”・“舌禍”の語で、久々に思い起こしました。
『孝経』に、「択言択行」が説かれています。
卿大夫章第4 : 「口に択言なく、身に択行無し。
言〔こと〕 天下に満ちて口過なく、
行い 天下に満ちて怨悪無し。」
《口から発する(公の)言葉は、(全部が善き言で)
ピック・アップ〔拾い出す/よりわける〕すべきいい加減な悪言・雑言がなく、
自身の行いも、ピック・アップするような不徳・不道なる
自分勝手な行いをしないように。
(そうすれば、人の長たる者や大臣が、)言葉をどれだけ世の中全体に広く使おうとも、
口過〔=舌禍 :口舌による過失〕 事件が起きることもないし、
何をどれだけ世の中全体に広く行おうとも、
人々(市民・国民)から怨み憎まれることはないのです。》
また、『易経』・「兌為沢」では、
大象伝 : 「麗沢〔りたく :麗は附くの意〕は兌なり。君子以て朋友講習す。」
《沢が2つ並んでいるのが兌の卦です。
お互い和悦の心を持って、潤し益し合うのです。
このように、君子は、朋友とお互いに講習し〔勉学にいそしみ〕
潤沢し合って向上し合うように心がけねばなりません。》
4) 兌=金(貨幣)=経済、西方金運です。
わが国経済界は、不況脱出に向けて変則的・変動的対応が必要です。
国際的にもグローバル化(グローバリズム:米を中心とする世界の経済的交流)が
進展してくるでしょう。
5) 兌=笑い・悦びの意味ですが、見通しは暗いようです。
本来【兌為沢】は、“笑う少女”の象ですが、多くの男性は苦笑いのようです。
注2)
TV. 番組(‘11.1.23 「サンデーM))で、この与謝野氏“変節”をめぐって、
明治維新期の、福沢諭吉による勝海舟の批判を取り上げていました。
(明治期の与謝野晶子・鉄幹夫妻のお孫さんにあたるとはいえ)
与謝野馨氏と勝海舟を単純に重ねダブらせるのは、
その安易いかがなものかとは思います。
が、ちょうどよい機会ですので、一言記しておきます。
幕臣・勝海舟は、“西郷 VS 勝 会談” で
江戸無血開城を実現したことで知られるように、
滅びゆく徳川幕府の終〔しま〕いを善くするように活躍した偉人です。
更に、明治政府樹立後も、海軍卿・外務大丞〔だいじょう〕・枢密顧問官などの
新政府要職を歴任します。
そして、旧幕臣たちの身が立つように尽力するのです。
(ex.静岡への8万人移住、茶の栽培)
この勝の転身を、当時の思想・言論界のホープ福沢諭吉が厳しく批判します。
己が立身出世をはかり節義がない、
よろしく(やせ我慢して)身を引くのが日本人(武士)の美徳ではないのか?と。
福沢は、『瘠我慢〔やせがまん〕の説』を著し、
それを公表する前に、書簡にて勝にその旨を質〔ただ〕します。
それに対する勝の返事は、次のようなものでした。
「行蔵〔こうぞう〕は我に存す。
毀誉〔きよ〕は他人の主張 我に与〔あず〕からず我に関せず
と存候〔ぞんじそうろう〕。」
《出所進退は、(信念にもとづいて)自分で決めます。
(それへの)評価は、他人が勝手にすればよいので、おいらの知ったことじゃナイ
と考えております。》
さて、確かに幕臣では、勝海舟ばかりが陽の目を見て、
日本史の表舞台に立っています。
幕臣の功労者として、“幕末の三舟〔さんしゅう〕”
すなわち 勝海舟〔かいしゅう〕・山岡鉄舟〔てっしゅう〕・高橋泥舟〔でいしゅう〕
が挙げられます。
高橋泥舟(鉄舟の義兄)は、出所進退明白で、
武士として美しく生き慶喜公と共に“蔵〔かく〕れ”引退します。
その功績もリーダーとしての器量も大なるものがあったにもかかわらず、
他の2人ほどの歴史的評価を受けていません。
故・安岡正篤先生は、その著『日本精神の研究』(「国士の風〔三〕」)の中で、
この高橋泥舟を、歴史に隠れた真のリーダー・“美徳の人”として、
高く評価され深く敬慕されています。
西郷隆盛が“徳のかった君子タイプ”と評されるの対して、
勝海舟は“才のかった小人〔しょうじん〕タイプ”と評されます。
私は、才たけて世渡り上手の勝には、ある種の“ずるさ”を感じます。
思い想いますに、出所進退(行蔵:行くか、蔵〔かく〕れるか)は
人間の価値〔ねうち〕を決める要〔かなめ:モメント〕です。
安岡先生は、
「我々は行蔵に対して人格の命ずる決定的要求を節義という。
故に節義は士に取って至上命令である。
日本精神を論ずる時、この方面はどうしても閑却することが出来ない。
まして今物質文明の爛熟、人心の頽廃と共に
人間の行蔵の甚だしく紊乱〔びんらん〕している時、
節義のいずくにも奮うべきもののない時、
これを論ずることは切実なる内訟〔=自責〕を
人間に與〔あた〕うるものではあるまいか。」(前掲書)
と述べられています。
時移り平成の現在、
各界指導者(リーダー)の道徳観はまったく地に堕ち、
出所進退の紊乱〔びんらん〕・節義のなさ、
さらに甚だしいものがあります。
なお、先のメディアが触れていなかった(抜かしていた)ことを
2点補っておきます。
1) 福沢は、榎本武揚〔えのもとたけあき〕にも同様の書簡を送ります。
海軍奉行・榎本は、最後まで箱館“五稜郭〔ごりょうかく〕”で
新政府軍と戦います。 が、転身。
駐露公使として樺太・千島交換条約(1875)を締結し、
以後明治政府の海軍卿、逓信〔ていしん〕・文部・外務大臣などを歴任します。
それに対する榎本の返事は、「公務多忙につき、今は返事が書けません」 でした。
2) 福沢は、勝からの返事を受け取って
『瘠我慢の説』の出版を見送っています。
勝の死後に、自分の死の直前の明治34年になって、
『丁丑〔ていちゅう〕公論』(西郷擁護論)と共に発刊するのです。
これは、勝に敬意を表してのことなのでしょう。
才人、才人のこころを知る、でしょう。
─── 以上にざっと述べましたことは、今の学校教育では、
(おそらく)聞いたことがなかった“物語”ではなかったでしょうか。
※ この続きは、次の記事(謹賀辛卯年 その3)をご覧下さい。。
(・・・ 大津事件・児島惟謙/「暑」・“寒”・“温” )
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