2007年05月

2007年05月31日 11:02

 松岡農相の自殺について政界、民間などから様々なコメントがなされた。
政界からのコメントは概ね「残念」「無念」など松岡氏の胸中を自らに映したものだった。それに引き換えマスコミ、民衆のほとんどは「卑怯」「やっぱりクロだ」「安倍首相不信」となった。
 最近の傾向としてマスコミは政治家の行動を一般大衆のものと比較して批判する論法が目立つ。そもそも政治家と一般人はその仕事の性質上、根本的にちがうものだ。
政治化には権限が委譲されていて、それに付随するように利権が発生する。それに対して一般人は法令を遵守し勤労に勤しみ、納税の義務を負わされている。
 もちろん、政治家とて法令遵守や納税の義務は免れる事は出来ない。しかし敢えて言えば優先順位が一般人と異なる。先ごろ石原東京都知事が外遊する際のホテル代が高すぎるとの批判がマスコミ主導で行われたのもその一例である。都知事と一般人との金銭感覚を比較し「税金の無駄遣い」と糾弾したのだ。流行語になった「格差」と絡めて「庶民感覚の欠落」と決め付けるのは無知な嫌がらせに等しい。
 話を戻せば・・・松岡農相自殺の場合も一般感覚で論じると本質を見誤ることになる。彼が「追い詰められた」のは事実だろう。しかし、何故自殺をしたかを考えると
追い詰められて発作的に死を選んだわけではなさそうだ。8通にも及ぶ遺書を用意し、自分の立場を弁解し、遺された者たちへの配慮を示した。この先行き自分が生き続けることによって生じる様々な不都合に蓋をする必要があった。権利と利権の狭間で泳ぐうちに、巨大な力が自分を縛り付ける。それでも歩けるうちはよかった。おそらく彼の足は最早自分の感覚を持たなくなっていたことだろう。立ち止まることなど許される筈もない。まして戻る事など到底できない。昔、武士がそうしたように「腹を切る」ことで最後の自己主張をするしか方法はなかったと推察する。政治家とはそうしたものなのだ。我々一般人とはかけ離れた仕事環境・感覚の中で生きているのである。

2007年05月25日 00:16

  「24日の日本高野連全国理事会では、プロ野球西武の裏金問題についても審議があり、再発防止などを求める要望書を根来泰周コミッショナー代行に送ることを決めた。
 要望書では(1)西武が金銭を渡した選手がいた関係校への謝罪(2)04年1月に交わしたドラフトに関する覚書を今後は履行する考えが根来氏にあるかの確認(3)今後のスカウト活動で違反があった場合の厳正な処分(少なくとも04年1月以降)(4)公正なスカウト活動が展開されるための抜本的な改革、を求めている。」
 上記のような記事があった。高野連の無能さが浮き彫りである。彼らにとっての改革は第一がことが起こった時の処罰の在り方なのだろう。高野連が本気で改革を望むなら、第一に考えるべきは球児達のことでなければならない。他のスポーツとの比較を冷静にし、球児達の成長と野球の発展にどのような形態が望ましいのかを、広く論議を尽くすことが肝要だ。自分たちが黙認してきた事実を糊塗する為に強権を発動してはいけない。
 このような現象は他の事件と意外な共通点がある。兄が妹を殺害した事件があった。あの事件後親がマスコミにあてた書簡に「二人の関係は世間で言われているように険悪な関係ではなかった」と先ず自分の家庭生活を擁護し次に「妹がもっと素直であったなら・・・」と死んでしまった妹に全ての罪をなすりつけた。そこには親の描いた家庭しか見当たらず、現実の家庭は存在すらしていない。
 高野連もこの親と変わりはない。息子を球児、妹をプロ球団に置き換えて考えるとその類似性に気づく。自らが描いた理想を追い求め、現実を直視しようとしない。とっくの昔に壊れてしまった王国にほころびが出ると処罰で修復を計る。本来「保守」とはこうした頑迷なものではない。自分たちが求める目的に向かう道は一つではない。目的を達成させる手段の選択には柔軟に対応すべきで手段に囚われてはいけない。

2007年05月17日 16:50

 子供による親殺しが続発している。原因や動機は様々だろうが、確実に言えることは親の子供に対する過干渉だ。しかし、親が自分の価値観を子供に押し付けるのは今に始まった事ではない。子供に期待を込めて教育を施すのは親の役割とも言える。では何故今になってそれら親の行為が問題になってきたのか。
 親が子を叱る場合時として「お前は駄目だ」「どうしてこんなことも分からんのだ」などの言葉を発する。子供としては自分の全人格をも否定するような言葉を浴びせられても、「親」だから許せた。親と子の間には出生以来の信頼関係が存在する。子供にとっては、どんなことがあっても「最後は助けてくれる」と言う揺ぎ無い信頼である。ところが敗戦後「子供中心主義教育」が導入され、子供の個性や自主性の育成の為に道徳などの社会的価値観が否定された。自己の確立の前では社会性など問題にされない考えは親子関係ですら例外ではなくなってきた。親子が共に自分のことしか考えなくなっては関係の崩壊は免れない。
 家族愛=郷土愛=愛国心と言う図式があるなら、家族の崩壊は国家の崩壊に繋がる。いや、ひょっとしたらすでに国家の崩壊が始まっていて、それが家庭生活にまで影響を及ぼしているのかも知れない。戦後レジームからの脱出を目指す安倍内閣だが、一世紀後の日本を見据えた改革が望まれる。日本国民が自ら考え行動する・・・こんな当たり前のことすら出来ないでいる現状に気付かなければならない。
 国家の核としての家族制度を持続するには、社会における家族の位置づけを明確に理解しなければならない。親は子になにをどのように伝えるべきか、子はどのように社会と結びついていくのかを社会全体のテーマとして考えていく時が来た。

2007年05月07日 19:16

 高校野球の特待生問題で、伊吹文科相は7日の衆院教育再生特別委で「特待生制度そのものが悪いとは思わない」とする一方、「親元を離れて、大勢の野球の能力のある者を集めて、それで校名をあげようというのは少し教育の本筋から離れている」と述べ、「野球留学」を批判した。(アサヒコム)
 この記事は文科相の言葉を曲解している。高野連と一蓮托生の朝日としては批判の矛先を各高校に向けておく必要があるのだろう。これと同じ論評をしたNHKも同様だ。
伊吹文科相は現在の野球留学のあり方に言及したに過ぎず、発言の趣旨は{野球以外のスポーツでは特待生制度があり、アマチュア規定に違反していないことを踏まえ、「高校野球連盟が、社会一般の風潮を考えられて、どう対応されるかということが大きなポイントだと思う」と指摘。さらに「特待生として認めてあげて、親元で皆が高校生活を送りながら学校間の技量を競う」ことが「本来のアマチュア精神の在り方」ではないかとした。}にある。要するに頑なに特待生を拒否し処罰を以ってことの解決にあたろうとする高野連に苦言を呈したと見るべきだ。
 自分の夢の実現のために親元を離れて修行に励むことが教育に反しているとは思えない。優秀な選手が集まることで切磋琢磨が行われ精神的にも技術的にも成長するとも考えられる。学校はそうした環境を提供することで、生徒の夢を現実の者へと導く。これは高校球児達だけに止まらない、在校生、同窓生ひいては地域の人々にも勇気と希望をもたらすことにもなる。スポーツにおいて優秀な成績を収めたことで学校の名があがるのは当然だ。問題は名を挙げる為に行われるのか教育が先なのかと言うことになろうが、本音と建前のすり替えなど判定のしようがない。伊吹文科相もそうしたことは先刻承知だろう。あからさまな高野連批判を避けて、話の枕として野球留学を持ち出したと見るのが妥当だ。



2007年05月02日 00:37

 手品師がテレビ局を訴えた。理由は行き過ぎたネタばらしだ。コインを使用する手品でコインに穴を開けたとして製造業者が逮捕され、その報道に便乗してコイン手品のトリックを放映したという。テレビは本質的に覗き見が主体だ。ニュース、ワイドショーは言うに及ばず、対談番組などの質問も覗き見の本能をくすぐる内容で進められる。
 私も手品が大好きである。鮮やかな手捌きと軽妙な話術で煙に巻かれた時、騙されたにも拘わらず清々しささえ感じる。タネを知りたい衝動は確かにあるが、手品ファンとしては知らぬが華である。自分も同じことがやりたくなって道具を買うのだが、トリックの単純さに呆気にとられてしまう。そして改めて手品師の度胸と技に感嘆してしまうのだ。
 初めて我が家にテレビが来た時、子供心に「これで火事が見れる」と思いわくわくした。当時、消防自動車がけたたましいサイレンを鳴らして行くと自転車で後を追っていた。どいう訳か火事を見るのが好きだった。そしてカラーテレビが登場した時も「火事をカラーで見れる」と思った。自分にとってテレビは火事見物を体験させてくれる道具でもあったのだ。火事場見物と言う野次馬行為を容易にさせてくれたテレビは日常では目にすることが出来ない多くのモノを茶の間に届けてくれた。
 しかし刺激は更なる刺激を求めた。新鮮だった火事の映像もいつしか慣れてしまい、胸がときめく事もなくなった。野球場に出掛けた時も実物にはアップや字幕、解説が無いことに気付かされる始末だ。旅行に出掛けても初めて来たと言う感動がない。見た事がある山や海、店や道が続く。小学校の遠足ほどの感動も覚えないのである。度重なる疑似体験は、いつしかバーチャルの域を超えて現実との狭間をぼかしてしまう。単なる情報として頭に入ったものが記憶として定着してしまうのだ。くわばらくわばら・・・好奇心を満たし、はらはらドキドキしたいのなら、テレビは見るべきではない。