紋切型2

  • author: julius_caesar2
  • 2012年12月19日

前の記事の続きの話。
あの記事を書こうと思い立った理由はいくつかあるのだけれど、そのうちの一つは、あれを書く直前ににファミマで立ち読みした『文藝春秋』。なんか創刊90周年記念とかで「歴史を動かした90人」とかいう特集をやっていて、そのなかの一人に小津安二郎が入っていて、岩下志麻が小津の思い出話を書いてるんだけど(他には司葉子が原節子について、樹木希林が杉村春子について書いていたりする)、まあこのエピソード自体はいろんなところに載っているので、別に今回はじめて読んだわけでもないけど、改めて感銘をうけたんですよね。何かというと、岩下志麻が紹介している小津のこんな言葉です。

「志麻ちゃん、人間は悲しいときに、悲しい顔をするわけではないよ。人間の喜怒哀楽は、そんなに単純なものではないんだよ」

小津の映画ほど紋切型(しばしば言われる「小津的」の意味)という形容が似合う映像作家はおそらく他にいません。その小津が人間の表情のある種の紋切型を徹底的に忌避していたという事実。そしてそのことによって生まれる圧倒的な熱量。
ここには紋切型であることの可能性が見事に示されているように思うのです。これは、冒頭に名前を出したフロベールとかなり共通する点で、実はこれが一番言いたかったことでもあるのだけれど、例によって脱線を繰り返しているうちにこんなことになっちゃいました。
というのは、フロベールについて、ブルックスはおおよそ「紋切型の表現を完璧に配置することによってリアリズムの新たな境地を切り開いた」というようなことを言っています。つまり、フロベールにおいては紋切型は避けられるものではなくて、あえて引き受けてそこから何かを作り出すものであるというわけです(これがさっきチラッと書いた映画ジャンルのお約束の逸脱とつながるかなと思ってました)。
つまり、フロベールは紋切型を徹底的に(もちろん相当に自覚的に)用いることで、そこから逸脱する何か、こう言って良ければこれまで誰も見たことのない何か、すなわち何か「新しいもの」を創りだそうとしたと言っていんだと思います(そしてそれに成功している)。
これはまさしく小津の映画に言えることです。小津は似たようなテーマ(娘の結婚とか家族の離散とか)を繰り返し繰り返し映画化し、その映画の中でも同じようなキャラクター(同じようなキャストで!)に同じような台詞を言わせて、同じような構図で同じようなショットを同じようなリズムでこれでもかこれでもかと積み重ねた作家です。
ストーリーに新鮮味は一切ないし、乱暴に言えば(厳密に言えば微妙な部分はあって、それがまたおもしろいんですが)、それ単独で何か新しい事柄を表現するような台詞や場面もないです。どこかで見たことのあるような、どこででもみかけるような台詞やモチーフばかりです。
にも関わらず、彼の作品は決定的に新しいし(いまだに全く古びていない)、徹底的に独創的なものに仕上がっています。これはいったいどういうことなのかと。
先ほどから繰り返し述べているように、執拗な反復が何か新しいもの、はっきり言って不気味なものを召喚しているんですよね。実は僕が小津に惹かれた最大の要因はこういったことだったのかもしれません。

紋切型の完璧な配置によって新しい世界を創造すること。

ここでおもしろいのは、小津研究の第一人者である蓮實重彦の専門が実はフロベールだという符号の一致です。
この認識にたって蓮實重彦の『監督 小津安二郎』を読み返してみると、蓮實がこの著作でやろうとしていたのはまさに紋切型(=小津的なもの)から小津を解放することで、それは、小津が(あえて)用いた紋切型を紋切型のレベルで解釈する(=小津的なものに絡め取られる)のではなくて、そこから滲み出してしまった「何か壮絶なもの」をきちんと掬いあげて評価することだったと言い換えていいんだと思います(なるほど、そうだったのか!)。
ちょっとさすがにもう疲れてしまったので引用はしませんが、蓮實はこの本の中で実際にフロベールの名前も、彼の著作である『紋切型事典』の名前も出しています。そして終章「快楽と残酷さ」において、まさに「紋切型」という言葉で『晩春』を読み解いていくのです。
蓮實は「もののあわれ」とか「風流」といった紋切型の言葉で小津を形容することを蛇蝎のごとくに嫌います。なぜならこうした紋切型の言葉は、小津が徹底的な紋切型によって生み出すことに成功した「何か」に比して、圧倒的に貧しいからです。
蓮實がなぜこれほど「小津的」という形容を嫌うのか実は今までよくわかっていなかったということです(ちょっとカッコつけてるくらいにしか正直思っていなかった。いわゆる蓮實節というか)。でも、今ならよくわかる。
小津が紋切型を通して絞り出した「何か」を紋切型の言葉で語ってしまうことの、あまりの貧しさ。やっぱり小津はすごいし、蓮實もすごいわ。

ちなみに僕が去年ゼミで書いた小津論も、無意識のうちに小津の「紋切型」が生み出す「何か」に吸い寄せられていたのだということが、今なら分かります。小津映画には赤色がよく出てくるというレベルの紋切型の説明を、なんとかそれ以上のものに高めたかったということなんだと思います。
小津の赤色ぞれ自体には意味は無い(変に意味を読み込むことは新たな「紋切型」を招くだけです)。でも、それが繰り返し繰り返し出てくることには意味がある。
安易に意味に回収させることなく、小津の過剰な赤色が持つ豊かさを肯定したい。
おそらくこれが一年前の僕の目論見だったんだと思います。
そしてその目論見はおそらく半分くらいまでは成功して、あとの半分で失敗している(紋切型に回収されかけている)と言えるでしょう。
でも、この敗北は無意味ではないと思う。小津の豊かさに全身全霊で向かっていった言葉が、結局その豊かさを捉えきれずに敗北を喫する。
はからずも僕はそのことによって(身を呈して敗北してみせることで)、おそらくは小津の豊かさを証拠立てることに成功していたのです。


こないだ立教で蓮實先生の講演(『ボヴァリー夫人』のフィクション論)があったから聴きにいったのだけれど、その時に上で書いたようなフロベールと小津の「紋切型」に対する仕方みたいなものの共通性について質問したら「フロベールと小津は一切関係ないのでその質問にはお答えできません」と一蹴されてしまいました。まあでも、そのあとちゃっかりサインをいただけたので、良かったです。講演自体はとっても刺激的で面白かったですよ。

紋切型

  • author: julius_caesar2
  • 2012年12月14日

先日、ゼミの先生のところで開かれた勉強会でフロベールの「紋切型」についてのピーター・ブルックスの分析に触れて、世界の見方が変わってしまうくらいのショックを受けた。高校のときくらいから僕が感じていたもやもや感に一つの形を与えてくれた。あれ以来(つまりここ数週間)、身の回りのあらゆる事柄に関して、その紋切型性について考えてしまうようになった。

昔から感じていたもやもや感というのは、紋切型の表現に対する強烈な嫌悪感に関することで、たとえば「努力しても成功するとは限らないけれど、成功した人はみんな努力している」みたいな言い方が僕は死ぬほど嫌いなのだけれど、ブルックスの分析に触れて、自分がなぜこういう言い方がそんなに嫌いなのかということが説明できるようになった。なぜ嫌いかといえば、これが紋切型の表現だから。もっと言えば、こういうことを平気で口にするような人は自分の言葉が紋切型であることに気付いてすらいないから。その自分の言葉の紋切型性への無自覚さみたいなものが主として僕を苛立たせていたんだと思う。こういう人は、自分が何か意味深いことを言っているつもりになっているのだけれど、実はそれはただの紋切型でしかない、そしてそれを聞かされる自分(=僕)はそんな風に感性が死んでいる人間に説教されるような屈辱的な立場に置かれている、ということが嫌悪感の原因なんだと思う(言葉がきつかったらごめんね)。
(「紋切型」が嫌いだというのは昔から思ってたんだけど、それがフロベールとか小津とか、僕の文学・芸術観の一番根っこにあるようなものと実はつながっていることがはっきりと認識できてしまって、自分でも感動してしまったということが言いたい。単に「紋切型うざいよね」ってことだけじゃなくて、僕がもっとも評価しているのがそうしたものからいかに自由でありうるかみたいなことだったというのがわかったんです。)

このとき「努力しても成功するとは限らないけれど、成功した人はみんな努力している」という表現の内容の当否はもはや問題になっていない。あえて当否について言えば、むしろこれが概ね真理だろうということを認めるに吝かではないくらいだし。まあ中には本当に天賦の才を授かっているような人もいるにはいるのだろうけれども、そんなのは全人類の1%にも満たないだろうし、つまりは僕やあなたのことではありえないので、結局なにがしかのものになるためにはそれなりの研鑽を積まなければならないというのは当たり前の話ではある(当たり前すぎるということがまさに問題になっている)。というか、ここで「そんなの嘘だね」と言って反抗してしまうことも、それはそれでどうしようもないくらいに紋切型の反応になってしまうんだよね。別にこういうときの正しい反応の仕方があるとも思わないけど、どっちかに振り切れずに「宙吊り状態に耐える」(←これも目下のところの僕の最大のテーマの一つです。塾の生徒にはこれを「大人」の定義として教え込んでいます。何をするにしても、どこかに誰もが納得するような全てを解決してくれるような絶対的な答えがあるわけじゃない。そんなものはどこにもありはしないのだけれど、そういう中にあっても、その責任を自身が引き受けつつ、とりあえずの解を選んでみる。結局その繰り返しでしかない。いつかどこか絶対的に安定した場所にたどり着けるなんてことはない。生きている以上、常に何かに「引き裂かれつつ」(←これも好きな表現)あるしかない、みたいな価値観です。そして、こういう価値観もまた紋切型の手を逃れることはできません。それでも、なお、なのです、たぶん)みたいな応答の仕方をその都度模索するしかないんじゃないかとは思う。

「この人の話はおもしろい/つまらない」みたいな判断が何に由来するのか、ずっとはっきりとはわからなかったのだけれど、今はその人が自身の紋切型性についての自覚をどの程度持ってしゃべっているのかというのは一つの有力な指標になりうるんじゃないかと思っている。

というかたぶん紋切型でない表現なんてこの世には存在しない。もちろんその紋切型性には程度差があって、100人いたら80人くらいが言いそうだというレベルの紋切型と、100人いたらまあせいぜい10人くらいしか言えないだろうなというレベルの紋切型という感じになると思う。でも、100人いたら1人しか言えないようなことであっても、それはやっぱり紋切型なんだと思う。だって10000人集まったら100人は同じことを言えることになるから。この世に存在するどんな表現であっても(言語表現に限らず絵画や音楽表現であっても)、また今はまだ存在しないけれどこれから存在するであろうどんな表現であっても、それは存在した時点で紋切型に堕してしまうと言っていいのではないかと思う。

そう考えると、たとえば詩人や作家の使命というものの困難さというか、不可能さがよくわかる。特に僕の理解では、詩人というのは、まだこの世に存在していない事柄(物の見方や感じ方、すなわち人間のあり方の可能性)を新たに言葉によってそこに誕生させるような芸術家のことをいうということになっているけれども(換言すれば世界の豊かさを積み増す人)、でもいくら彼らが新しいものを生み出しても、それが人口に膾炙するようになればたちまち紋切型になってしまう。流行り言葉がたちまち使い捨てられてしまうのと似ているかもしれない。たぶん百年後に「リア充」とか「イケメン」とかいう言葉は使われていないんじゃないか。「あ、その言い方新鮮!」とか「その発想はなかった」というようなものでも、人々が使っていくうちに飽きられて、やがて忘れ去られていく。たとえば映画ジャンルについて考えると分かりよいかもしれない。ある映画が大ヒットすると、それを真似た作品が大量に作られて一つのジャンルを形成することがある。西部劇とか時代劇とかSFとかゾンビ映画とか、そういう感じで。でもその流行りは早晩終わりを迎える。はじめのうちはそのジャンルの中でまだ誰もやっていないものを見つけることができるので、むしろあるジャンルの草創期にはある種の熱気があるとさえ言っていいのかもしれないけれど、やがてネタ切れをおこして、二番煎じ、三番煎じが横行するようになると、観客に飽きられて、そのジャンルは捨て去られていくことになる(それが何十年かして何かのの拍子にそのジャンルに属する作品がウケたりすると、またジャンル熱が再燃したりするし、あるいは他のジャンルとくっついて新たなジャンルを形成することもある)。このときにおもしろいと思うのは、ジャンルにはお約束というものがあるのだけれど、そのお約束が映画の内容を制限する(不自由さをもたらす)と同時に、その制限があるがゆえにこそ、それを壊したときにある種のカタルシスの瞬間が訪れることがあるという点です。つまり、紋切型の表現がそこにあるおかげで、それを壊すことに寄る新たな想像のもとになるというようなことなのだけれど、これは紋切型の可能性を考えるうえでヒントになると思う。あとでまた触れると思うけど。

「紋切型」について考えているうちに、ふとバルトの「零度のエクリチュール」ってこのことなんじゃないかと思った。二年前によくわかんないまま読んでよくわかんないままになってるから実は全然見当はずれかもしれないけれど、バルトは、自分が無垢のエクリチュールとか零度のエクリチュールとか呼んだものをさかんに実現不可能なもののように書いていたような気がして、それってまさに言葉や文体が紋切型化することを指しているんじゃないかと思ったけど、さすがにそれは牽強付会かもしれない。でも構造主義的な言語観に則っているんだから、やっぱりそんなに外れてもないかもしれない。エクリチュールっていうのは、固有の言葉遣いの体系みたいなもののことで、内田樹の比喩を使えば、例えば「男子中学生のエクリチュール」とか「不良少女のエクリチュール」とか「渋谷にいるギャルのエクリチュール」とか「カリスマ塾講師のエクリチュール」とかたぶんそういうもののことです。「あー、なんか喋り方が塾の先生っぽいね」とか「あの人おたくっぽい喋り方するよね」みたいなイメージってなんとなくみんな分かりますよね。つまりみんな紋切型の文体を採用しているのです。そしてそれが恐ろしいのは、文体(すなわち言葉遣い)のレベルに留まらないというところです。不良っぽい喋り方をする人は、不良っぽい格好をしていて不良っぽい髪型をしていて、不良っぽい行動をします。オタクもそうですよね。オタクっぽい格好って、共通するイメージありますよね(チェックシャツ、メガネ、リュック、そこからのぞいたポスター、みたいな)。だから、特にフランスみたいな階級社会においては言葉遣いでその人の階級が、すなわち人生が決まっちゃうんだよ、というふうに内田樹はまとめているけれど、結構乱暴な読みのような気はするので、いずれじっくりバルトとも向き合ってみたい。

とりあえず本棚から『エクリチュールの零度』を引っ張りだしてきてパラパラしたけど、なんか言ってることが全部僕の読みにこじつけられる気がしてきてそれはそれで怖い。たとえばこんなの。

 著作家の言語体は、廃絶された形式と未知の形式との間に宙吊りになっていて、資本であるよりは、むしろ限界なのである。(ロラン・バルト『エクリチュールの零度』、ちくま学芸文庫、20頁。)

たぶんめっちゃ構造主義っぽいこと言ってるんだよね。
これとかになると何言ってるのかよくわからなくなるけど、なんとなくかっこいい。

エクリチュールというのは、両義的な現実である。すなわち、一方において、エクリチュールはたしかに著作家と彼の社会との対立から生まれるのであるが、他方において、エクリチュールは、この社会的な目的性から、一種の悲劇的な移送によって、著作家を、彼の創造の道具的な源泉へと送り返すのだ。(28頁。)

たぶんあるエクリチュール使う以上、いくら社会と対決しようと思っても、すでにそのエクリチュールには社会的なものが張り付いているので、不可能だ、とかそういうことを言っているのではないかと思うのだけれど。

他にもこういう格好いい表現が並んでいる。

エクリチュールは、つねに言語の彼方に根を張っていて、線のようにではなく、胚種のように生育するのだ。(32頁。)

権力なり権力の影なりは、つねに価値論的なエクリチュールを制定するに至るのである。(32頁。)

あるエクリチュールを採用する――あるエクリチュールを引き受けると言う方がよいかもしれない――ということは、選択のすべての前提を回避するということであり、その選択の根拠を既得のものとして明示することなのだ。(41頁。)

バルザックの<<彼>>は、カエサルの<<彼>>に類似している。(53頁。)

<文学>は、燐のようなものである。すなわち、それは、死のうと試みる時点において、この上なく強く輝くのだ。(55頁。)

<小説>においても、現代芸術全体に固有の破壊的であると同時に再建的な仕掛けが見出される。(56頁。)

現代の最も偉大な諸作品は、一種の奇蹟的な身ごなしで、できるかぎり長いあいだ、<文学>の入り口に立ち止まるのである。(56頁。)

<小説>とは、ひとつの<死>である。(57頁。)

ぱらぱら読み返しててちょっとずつ思い出してきたけど、エクリチュールと文体とはまた違うものだもんね。さすがにちょっと乱暴すぎたね。でも根底にある考え方は通じるところがあると思う。バルトとかフーコーとかラカンとか、学部のうちにきちんと読めなかったのが心残りといえば心残り。けどまあその分散々好きなことやってきたんだし、大学院に進めたらそういう勉強もしっかりしていきた。

少し前の文脈に話を戻すと、そもそも例えば詩人が創りだした新しい何かを、「新しい」と呼んでいいのかという問題もあるんだろうと思う。なんかこの辺になるともう哲学って感じがして、あんまり哲学的なことを考えるのは得意ではないのでどう言えばいいのかよくわかんないけど(とはいえそういう訓練も積んでいかなければならないのだろうけど)、さっきも書いたみたいに、たぶんすべての表現は多かれ少なかれ紋切型であるしかないのだとは思う。だって、言語表現に限って言えば、我々が使う言葉はすべて外部から与えられたものだから。すべての言葉にはすでに何かしらの意味付けが施されてしまっている(=偏見が含まれている)から。たとえば「犬」という一見価値中立そうに見える言葉だって、目の前にいる動物を「犬」と呼ぶことで、その時点でいろんな可能性を排除することになるから。いろんな可能性を排除して「犬」という紋切型で処理している。一事が万事こういうことで、言葉を使えば必ずその言葉につきまとっている意味を引きずらなきゃいけない。じゃあ、新しい言葉や言語体系を作り出せばいいかというと、そうしたところで「何か」をもとにせざるを得ないわけで、そんなことで自由になれるものではないし、それだって使っていくうちにどんどん紋切型化していく。

だから、たとえば「自分の言葉で書けばいいんだよ」みたいな言い方も(小学生の作文指導にありがち)僕は嫌いで、それは「自分の言葉なんて存在しない」と思っているから(そんなことを小学生に言っても仕方がなくて、この場合はあくまで相対的な意味で使っているのだろうからそんなに目くじらたてなくてもいいんだろうけど)。
より紋切型でないものを目指すアプローチの仕方にはすごく惹かれる。より人が言わなそうなことを言わなそうな仕方で、というのはずっと僕のテーマです(その割にはいつもつまんねーことしか言ってねーじゃんかとかいう声が聞こえてきて泣きそうです)。

この話には続きがあるのだけれど、今回はここまでにしておきましょう。

『幕末太陽傳』

  • author: julius_caesar2
  • 2012年12月10日

日曜日にシネマヴェーラ渋谷(ユーロスペースの上)で『幕末太陽傳』を見てきました。監督は川島雄三。主演はフランキー堺。助演に石原裕次郎。

世界最高レベルの充実度を誇る日本映画の中でも最高峰に位置する作品の一つですね。これが映画館でかかっているのに見に行かないとかはっきり言ってありえないです。仮にも人類として生を受けたからにはこの作品を見てから死ぬのが筋だろうと思います。

随所に散りばめられた軽妙なギャグが生み出す軽みと、名状しがたいしみじみとした深い味わいを同時に表現することに成功している稀有な映画。

ショットに関しては、とりわけ、女郎二人の喧嘩を長回しで捉えたシークエンスと、ラストのロングショットが素晴らしすぎます。

実を言えば、個人的には小津なんかと比べると「超好き!」とまでは行かない作品ではあるのだけれど、とは言え、見たら見たでやっぱり深く感動してしまいます。川島雄三とフランキー堺という二人の天才の出会いがもたらした奇跡のシャシンです。

ちなみにごく一般的な映画ファンの価値観を想定して50年代の日本映画から五本を選び出すとすれば、

黒澤明『七人の侍』
小津安二郎『東京物語』
成瀬巳喜男『浮雲』
溝口健二『雨月物語』(or『山椒大夫』)
川島雄三『幕末太陽傳』

でほとんど決まりでしょう。
もちろんこれらの「メジャー」な映画以外にも傑作はたくさんあるけど、一応誰でも知ってる作品となるとね。

『ドコニモイケナイ』

  • author: julius_caesar2
  • 2012年12月09日

渋谷のユーロスペースで映画『ドコニモイケナイ』を見てきた。なんかもうフィルムが妖気を放っていたよ。

昨日までこんな映画をやってることも知らなかったんだけど、たまたま感想ツイートを目にして、『スカイフォール』をはじめとして、現在数多ある魅力的な新作を後回しにしてでも、どうしても見に行きたい気持ちになったのでした。
この『ドコニモイケナイ』は夢破れた統合失調症の女の子を撮ったドキュメンタリー映画。正確には、最初から統失だったんじゃなくて、10年前に当時映画学校の学生だった監督が、渋谷の路上で歌っていた彼女を撮り始めたらその途中で統合失調症を発症しちゃうんだよね。で、彼女は実家の佐賀に帰って入院。その9年後に監督たちが佐賀に乗り込み、再会した彼女に再びカメラを向けるという感じ。

この作品の最大の強みは、何と言っても現実世界の10年分の時間(もちろん間は全部飛んでいるのだけれど)がフィルムに刻みつけられている点だと思う。一人の人間の、はっきり言って落ちるところまで落ちた現在と、夢に燃えていた10年前が同じ映画の中に共存していることの、これはもう残酷さ以外の何物でもない。そしてカメラはその残酷さを切り取ることしかできない。それはカメラの(あるいは映画の)無力さを露呈していると同時に、しかしながら実はある種の優しさの発露でもあったように、ラストのロングショットを見るに及んで思い至る。これはもうロングショットの威力を遺憾なく発揮してみせた見事な長回し。

カメラの無力さと優しさの併存しているこの映画最後のロングショットの圧倒的な映像的強度を前に、僕は、思わず喉元まででかかってしまった「絶望の対義語にあたる言葉」の使用を厳に慎むことを決心したのでした。

天才監督

  • author: julius_caesar2
  • 2012年12月04日

 というわけで、天才監督を見分ける方法が分かりました。
「あなたにとって映画とはなんですか?」(それにしても愚かな質問ですね)と聞かれたら「知らないね」と答え、「あなたはこの映画をつうじて何を訴えたいのですか?」と聞かれたら「べつに」と答える人。
 こういう人の映画を見ましょう。
(内田樹『うほほいシネクラブ』、文春新書、208頁。)

「どんな発想で描いたんですか?」って言われたってさ、どんな発想も何もないじゃない、べつに。猫を描いただけで、「どうしてこの絵を描く気になったんですか?」「知らねえよ!」。映画と一緒で、「どうしてこの映画を撮る気になったんですか?」「知らねんよそんなもの!」っていうの、あるじゃない。「この映画で何を言いたいんですか?」「知らないよ、だから!」って(笑)。
(北野武『物語』、ロッキング・オン、294頁。)

やっぱり北野武は天才だったんですね。笑
でも、真面目な話、ここで揶揄されているのがいったい何なのかということが、実感として理解できるようになったというだけでも、大学に(五年間も!笑)通った価値は(決して大げさではなく)あると思っています。
ちなみに、北野武はこう言ってはいますが、いざ「この作品のテーマは?」なんて雑誌やなんかのインタビューで訊かれると、結構まじめに語ってくれる人でもあります。いい人なんですよね。

今日も世界はかように豊かな有り様を孕みつつ、静かに廻っていくのです。

お久しぶり

  • author: julius_caesar2
  • 2012年12月03日

お久しぶりです。
前に更新してから半年以上経ってるんですね。
僕はといえば、相変わらず映画ばかり見て日々をすごしています。
まあ、調子はぼちぼちといったところですかね。
でも、最近はちょっといろんなことがうまくいかない周期みたいで、あんまり機嫌はよくないかもしれません。
この半年で映画に対する考え方も随分と変わったと思います。
映画研究を、一生の仕事にしてもいいなと心から思えるようになりました。
来春には卒業する予定ですが(単位が揃えば、ですが)、卒業後は院に進学することを考えています。
院試は来年の二月。就職活動は完全にやめてしまったので、これに落ちると晴れてニートになります。

このブログもどうしようかと思うのですが、また気が向いたら更新するかもしれません。

とりあえず、現在の僕のオールタイム・ベスト10でも紹介しておきます(順不同です)。

原一男『ゆきゆきて、神軍』
北野武『キッズ・リターン』
侯孝賢『悲情城市』
宮崎駿『もののけ姫』
溝口健二『山椒大夫』
小津安二郎『晩春』
小津安二郎『麦秋』
小津安二郎『東京物語』
小津安二郎『東京物語』(←)
小津安二郎『秋刀魚の味』

プラス5本(戦前限定)で、

山中貞雄『丹下左膳餘話 百萬両の壺』(1935年)
溝口健二『浪華悲歌』(1936年)
溝口健二『祇園の姉妹』(1936年)
成瀬巳喜男『女人哀愁』(1937年)
小津安二郎『淑女は何を忘れたか』(1937年)

少しはそれっぽくなったかな。笑

やっぱり、日本映画こそ至高ですよ。
みなさん、日本映画を見ましょう。

「教育の奇跡」について

  • author: julius_caesar2
  • 2012年03月17日

 内田樹が直近のブログエントリの中でラカンの次のような言葉を紹介していました。

「人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです」

 塾講師をしていると、この感覚は実感として非常によく分かります。
 たとえば前回のテキストに「驚倒する」という言葉が出てきました。生徒がその意味を訊いてきます。

「先生、『驚倒する』ってどういう意味ですか?」

 僕は以下のように答えました。

「『驚愕する』を強めた言い方だね。文字通り倒れるほど驚くことだよ。ほら、ベタな漫画とかで、びっくりしすぎた登場人物がひっくり返ったりするじゃない? ああいう感じ」

 なんてことのないやりとりのように思われるかもしれませんが、考えてもみてください。「驚倒する」なんて言葉、みなさんは普段から使いますか? 僕は使いません。というか、お恥ずかしい話ですが、正直なところを申し上げると、僕は「驚倒する」という表現を、このとき生まれて初めて目にしました。
 少なくとも、それ以前に見聞きした記憶のない言葉遣いです。
 
 でも、答えられてしまう。なぜか、それは僕が教師という立場、すなわち「知っているものの立場」に立たされているからです。

 試みに、同じ質問を、生徒ではなく友人にされた場合を考えてみましょうか。

「ねえ、この『驚倒する』ってどういう意味だろう?」
「えー、たぶん『倒れるほど驚く』とかそんな感じじゃない?」

 この「たぶん」という言葉は、生徒相手には絶対に言えない言葉です。
 僕は「驚倒する」という言葉の正確な意味は知りません(辞書を引いて調べてはいません)。それでも、生徒に対しては自信を持ってその意味を断言することができるのです(しかも合っているのです、たぶん)。
 これが教育の奇跡でなくて、何なのでしょう。


 内田樹はラカンのこの言葉に加えて「生徒たちは教師が教えていないことを学ぶ」とも言っています。
 たとえば生徒のなかには「信憑」という熟語が読めない子もいます(読める子もいます、最近の小学生は賢いですよ。「咎める」「耽る」「凌駕」「相殺」「檻」くらいなら、読める子は読めるし意味も知っています。残念ながら「瀰漫」「巷間」「贅言」は読めなかったみたいだけど)。

 そこで僕はこれは「しんぴょう」と読むのだと教え、同じ音読みをする熟語として「憑依」という言葉を挙げ、訓読みした表現として「取り憑く」があるということを示しました。
 僕が教えたのはそれだけなのですが、もしかしたら、生徒の中には、そこからもとの「信憑」という熟語に帰って、

「なるほど、何かを強く信じるということはそのものに取り憑いてしまうイメージなんだな。だから霊的な事柄と祈りとは親和性が高いのか。それに、ある話を信じた人だけが呪われるみたいな怪談話も沢山あるし、信じること、強く思いなすことは取り憑くことの要件なのかもしれないな。確かに、『源氏物語』の六条御息所はそんな感じだし!」

というようなところまで考えを発展させられる子がいるかもしれません。でもそれは僕が教えたのではありません。
 確かに僕は「憑依」や「取り憑く」という言葉は教えましたが、その先は生徒が勝手に学んでしまったことです。
 そうして、生徒たちは僕が教えた内容以上の境位にやすやすと到達してしまうのです。
 これが教育の奇跡でなくて、何なのでしょう。

 というわけで、この手の話が好きな人は、是非内田先生の元の記事を読んでみて下さい。

教育の奇跡
http://blog.tatsuru.com/


 最近、BODY SHOPのハンドクリーム(モロッカンローズ)のお陰でごきげんです。めちゃくちゃいい匂いがしますよ、ぜひお試しあれ。

 それでは!

『ヒューゴの不思議な発明』

  • author: julius_caesar2
  • 2012年03月10日

ご無沙汰しております。

相変わらず映画を見まくる日々でございます。

最近、話題の『ヒューゴ』を見て来ました。

泣きました。超泣きました。

ストーリーが破綻しているとか、伏線が機能していないとか、そんなことはもはやどうでもいいのです。
正しく「映画愛」についての映画でした。

あと、『キック・アス』のクロエちゃんが成長して、超可愛くなってましたね。
帰りにTSUTAYAでクロエちゃん主演の『モールス』を借りてしまったくらいです。
血まみれのクロエちゃんもまたかわゆ!

あと、何気に就活始めました。
まだES一社しかだしてないし、完璧に社会を舐めきってる就活生ですが、思い出作りの一環にでもなればと思います。

進路については、いまだに全然まじめに考えていませんが、漠然と、大学院に進むのもアリかなーとか思い始めています。
映画のゼミで、小津安二郎論を書いてみて、こういうのを続けるのも悪くないかもなと思ってしまったのでした。

ではでは。

2011年に見た映画

  • author: julius_caesar2
  • 2012年01月01日

あけましておめでとうございます。
2011年の各月に見た映画の本数とその月のベストワン(月によっては2本まで)を載せていきます。

1月…9本
『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー)

2月…14本
『プラダを着た悪魔』(デヴィッド・フランケル)

3月…12本
『リリイ・シュシュのすべて』(岩井俊二)

4月…11本
『カッコーの巣の上で』(ミロシュ・フォアマン)

5月…21本
『ブラック・スワン』(ダーレン・アロノフスキー)

6月…33本
『海角七号』(魏徳聖)

上半期小計…100本

7月…30本
『塔の上のラプンツェル』(バイロン・ハワード/ネイサン・グレノ)
『ヒックとドラゴン』( ディーン・デュボア/クリス・サンダース)

8月…40本
『秋日和』(小津安二郎)
『東京物語』(小津安二郎)

9月…41本
『コクリコ坂から』(宮崎吾朗)
『モテキ』(大根仁)

10月…51本
『タンポポ』(伊丹十三)
『奇跡』(是枝裕和)

11月…34本
『赤ひげ』(黒澤明)
『猟奇的な彼女』(クァク・ジョヨン)

12月…32本
『秋刀魚の味』(小津安二郎)
『二十四の瞳』(木下恵介)

下半期小計…228本

合計…328本


2011年はたくさんの映画と出会うことができました。
わけても小津安二郎との出会いは大きかったです。

2011年の映画納めは小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(三回目)でした。
2012年の映画初めは小津安二郎の『晩春』(二回目)です。

今年も多くの素敵な映画たちと出会えることを期待しています。

小津安二郎

  • author: julius_caesar2
  • 2011年12月31日

映画ゼミのメーリスに流した文章の転載です。
2011年のラスト2時間は、小津の遺作『秋刀魚の味』(1962年)を見て過ごします。
紅白で林檎嬢とガガ様を見ることができたので、テレビはもういいです。笑

―――――――

みなさま

映画のお知らせです。
12月31日(土)〜1月6日(金)の期間に早稲田松竹で小津安二郎監督の作品が上映されます。
http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/schedule.html
上映されるのは『東京物語』(1953年)と『東京暮色』(1957年)の二本です。

『東京物語』は一般に小津の最高傑作とみなされる作品で、国内外の多くのランキングで上位に入ります。
たとえばキネマ旬報のオールタイムベストテンでは1995年と2009年の国内映画のランキングで『東京物語』が一位を獲得しています
(ちなみにいずれの年も二位は黒澤明の『七人の侍』です)。
あるいは、世界の映画批評家が集まって映画のベスト10を選出する『SIGHT AND SOUND』2002年版では、
批評家によって五位にランクされています(これが日本映画の最高位です。ちなみに一位はウェルズの『市民ケーン』)。
未見の方も、見たことのあるという方も、この機会にぜひ映画館のスクリーンで鑑賞してみてください。
僕は今年だけで三回『東京物語』を見ていますが、見るたびに感動の度合いが深まっていくとんでもない映画です。
今年は今の時点までに331本の映画を見てきましたが(年が改まる前にあと2〜3本は見る予定ですが)、
その中であえて一位を選ぶとすればこの『東京物語』です。
一度見て心に響くものがなかったという方も、ぜひ最挑戦してみてください。

一方の『東京暮色』は小津の最大の失敗作とも言われる作品です。とにかく暗い話です。
僕はこの作品の主演女優の有馬稲子が好きなので楽しんで見ることができましたが、
中には有馬稲子がこの作品をぶち壊しにしていると言って憤りを露わにしているような人もいます。
直木賞作家でかつて『東京物語』の助監督を務めたことのある高橋治は以下のように述べています。

……『東京暮色』は他の女優で撮られる。そして、小津の生涯で忘れ得ぬような失敗作が生まれる。
選ばれた女優(註:有馬稲子のこと)には表現などははるか彼方の話で、役柄の理解力さえなかった。
岸の穴を埋める女優は滅多にはいないということだろう。
(高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』、岩波現代文庫、244頁。)

岸というのは、前作の『早春』に出演して小津の気に入られた岸恵子のことで、
小津は彼女を念頭に『東京暮色』の脚本を書いたと言われているのですが、
岸はフランス人と結婚してフランスへ移住してしまいます。
でも、僕には有馬稲子がそんなに悪いとは思えないし、『東京暮色』がそこまでひどい作品だとも思えません。
これが小津の作品であることに変わりはありませんし、この作品を好きだという人も勿論います。
また『東京暮色』は原節子と怪優・山田五十鈴の共演が見られる唯一の小津映画でもあって、それだけでも一見の価値ありです。

例によって長々と失礼しました。
年末年始でお時間がある方はぜひご覧になってみてください。

最近は、小津安二郎にハマった影響で、もっぱら50年代周辺の日本映画ばかり見ています。
黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男、木下惠介などが毎年のように古典を撮っていた、夢のような時代です。
ちなみに今年の映画館納めは先日見たアニメ映画の『けいおん!』になりそうです。
やっぱりアニメもいいですね。あずにゃんがぶっちぎりでかわいかったです。

それでは、みなさま、良いお年を。

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