2009東大国語第四問

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月28日

問題文
http://nyushi.yomiuri.co.jp/nyushi/honshi/09/t01-31p/10.htm

答案を作ってみました。

第四問
(一)
優夢:
入口を入った土間と上がり框、上った板敷、それより少し高い板の間、さらに一段高い座敷という農家の構造は、かつての農作業の実情に適う合理的なものであったということ。

駿台:
農家の構造には、かつて人々がそれぞれの役割に応じて自然と調和しながら生き生きと働いていた様子が窺えるということ。

代ゼミ:
寸暇を惜しんで農作業にいそしむ当時の人々の暮らしぶりが、上がり框や囲炉裏、段差のある家の造りを通して偲ばれるということ。

(二)
優夢:
家の隅々に住まう多くの祖霊を感じながら生活することは、一見怖いようだが、人生の様々な局面を経験した叔母にとっては、逆に温味が感じられてくつろげるということ。

駿台:
一人で家に居ることによって、自分を見守る祖霊や生をともにした人々と交感し、気持ちが穏やかになるということ。

代ゼミ:
叔母が一人で暮らす家には、多くの先祖の霊が温かい思い出とともにそこかしこに棲みついており、それが彼女の心を安らがせるということ。

(三)
優夢:
村に生まれながらも家督を継ぐことのなかった「私」の父は、列伝のように語り伝えられる長い時間を離れて、都市の中で近代的な個の時間を過ごし、一生を終えていったということ。

駿台:
近代化によって、代々の家で命を受け継ぐ自然とともにある生から離れ、都市の片隅で個人の孤独な生を終えたということ。

代ゼミ:
先祖たちの人生を引き継ぐように生きる広がりのある時間から離脱し、個人の一生を限りとする都会的な時間の中で生を終えたということ。

(四)
優夢:
「私」の父のように、村を出る人間が増え、村の人口が減り、かつ高齢化したことで、かつて盛んだった農村は衰退し、大部分の日本人が近代人として都市の中で個としての人生を生きるようになったから。

駿台:
利便性へと向かう都市化への圧倒的な流れは、都会育ちの筆者の感傷を越えて、今や農村をものみ尽くしてしまっているから。

代ゼミ:
先祖とのつながりを生きる村の時間は都市の時間とは大きく隔たり、その時の流れも豊かな人々の生き方も既に遠い過去のものと思われたから。

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プロ講師の解答に比べるとやはりスマートさで劣りますね。
でも、この第四問に関しては僕の答案も結構いい線いってると自負しています。

↓↓河合塾の講評と解答例
http://hiw.oo.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/09/t01.html

2009東大国語

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月27日

予備校講師ごっこ。
受験が終わって、発表までゆっくりしたい人は読まなくて良いです^^

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国語
第一問(評論)
本文の出典は原研哉『白』。
「白」を巡る不可逆性を綴った文章。
一度白地に印字された文字は、取りかえしがきかない。
だからこそ、芸術は「推敲」を重ねより高い完成度を目指してぎりぎりの闘争を続ける。
ネットが志向する潜在的に永遠の更新を繰り返す可能性を孕む「総合知」に対して、近代以前から受け継がれてきた「白」を背後に抱える美意識が依然として意義を持つことを二項対立的に述べた文章。
テーマの読み取りは比較的容易と思われる。
設問も標準的な良問揃い。
漢字→吟味、器量、真偽、回避、成就

第二問(古文)
本文の出典は『うつほ物語』。平安時代から男はろくでもない生き物だったというお話。
平易な本文と平易な設問。
得意な人は確実に高得点を取ってくると思われる。
古文を不得手とする人は苦しいかもしれない。

第三問(漢文)
出典は万里集九『梅花無尽蔵』。
漢詩とその説明文を読み解く問題。
漢文に特有の、微妙なニュアンスの読み取りが求められる。
これが難なく解ける受験生は、相当漢文慣れしているといってよいだろう。
昨年に比べ、やや難化。

第四問(随筆)
出典は、馬場あき子「山羊小母たちの時間」。
筆者は、前近代の農村に流れていた時間に想いを馳せ、都会の時間に否定的な立場を取る。
典型的な「近代批判」の文章。解答はその方向から作成すれば良いだろう。
全体に答えやすい設問が揃っている。

総評
難易度、分量ともに例年並みで、出題形式に大きな変更は見られない。
その中では漢文がやや難化したと言えるか。
本文以上に、設問が良心的で、受験生は解答が作りやすかったのではないだろうか。

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特に根拠はありません。
僕の感覚に基づく講評なので、そんな風に思う人もいるのか程度に聞いておいていただければ、と思います。

国立二日目

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月26日

お疲れ様でした!!

これから合格発表までの2週間は、人生のうちでも最もモラトリアムらしいモラトリアムの一つだと思います。

僕自身の一年前を振り返ってみても、すごく穏やかで落ち着いた日々でした。


後期の勉強をするしないは、各人の事情によるところでしょうが、ここまで来たら、無責任な話ですが、個人的にはもうどちらでもいいと思います。

塾や学校、はたまた喫茶店で読書の片手間に英語を読むくらいが絵画的で美しいのでは。

まぁ、僕はそれで後期落ちたのだから、責められても仕方ないのですけどね(苦笑)

少し余計なことを書きすぎました。

二日間、はたまた、一年間、いや18年なり19年間というべきか、とにかくお疲れ様でした!!


僕は問題が手には入ったら少し解いてみて、国語の答案くらい作ってみようかと思っています(笑)

上手く書けたら載せます(笑)

ずいぶんと受験ブログらしいトピックで何だか嬉しくなりますね(笑)


では☆

国立一日目

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月25日

国立受験の皆さん、お疲れ様でした。


東大、京大、一橋などなど、明日も試験だという人もあるかと思います。

とにかく休養第一です。
今日これから一時間勉強しなかったとしたら落とすであろう点数と、今日不摂生な過ごし方をして明日体調を崩して落とす点数と、どっちが大きいかということですよね。

僕自身は、現役・浪人時ともに、体調だけは万全の状態で試験に臨むことができました。
まぁ、結果はご存知の通りですが、その点では、純粋に実力不足だっただけなんだと、ある意味で割り切ることができています。

今更僕にできるアドバイスなんてありませんね(苦笑)
あっ、東大組の皆さんは、くれぐれもハサミを忘れないようにして下さい(笑)

無駄に焦っては損です!

それでは、これで終わりの方はお疲れ様でした、明日もある人は引き続き暴れて来て下さい!!

国立前夜

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月24日

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明日はいよいよ国立大学の入試(一日目)ですね!

妙な感傷に浸りながら東大の過去問(しかも数学)を解いてみましたが、全く話になりませんね(苦笑)

まあ、話にならなかったのは去年も同じことですが。


さて、入試前日にこんな記事を読むくらいなら、まだちょうど一年前の記事を読んだ方がマシかと思います(笑)

http://blog.livedoor.jp/julius_caesar2/archives/54983184.html

ここに込められている気持ちの深さは間違いのないものです。


私立受験の皆さん、とりあえずお疲れ様でした!

国立組の皆さん、明日は皆さんの晴れ舞台です!
思い切り暴れてきてください!!

マイケル・ジャクソン

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月24日

焚き火のまえでタンバリンを叩いて「ビリー・ジーン」を踊るマイケル・ジャクソン。らくだたちでさえうっとりとそれに聴きほれている。
(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上)』、講談社文庫)

東京ディズニーランドが開園した。ビヨン・ボルグが引退した。ラジオのトップ・テンの一位はずっとマイケル・ジャクソンだった。
(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(下)』、講談社文庫)

マイケル・ジャクソンの唄が清潔な疫病のように世界を覆っていた。
(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(下)』、講談社文庫)


どうも、どうも。

この小説の舞台は1983年、そうです、マイケル・ジャクソンの、宇宙一有名なお化けアルバム「スリラー」が発売された年です。

マイケル・ジャクソンは、ギネス・ワールド・レコーズで史上最も成功したエンターテイナーとして認定されており、世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。

エルヴィス・プレスリーやザ・ビートルズと並ぶ、音楽史上の天才の一人ですね。

ギネス記録は、

「全米シングルチャートで首位を獲得した最年少ボーカリスト(ジャクソン・ファイヴ当時11歳)」、

「全米シングルチャートで初登場1位を記録した最初のボーカリスト(You Are Not Alone)」、

「年間売上げ高が1億ドルを超えた最初のエンターテイナー(1989年、Forbes誌)」、

「史上最高額の所得を得たエンターテイナー(89年に1億2500万ドル)」

などを保有。

アルバム"Thriller"に関する記録は、

「1億400万枚の世界最高枚数の売り上げ」

「全米アルバムチャートでの最長期間首位(37週・サウンドトラック盤を除く)」、

「最も成功した音楽ビデオ(100万本以上の売上げ)」

などです。

「ビリー・ジーン」は、アルバム「スリラー」の中の一曲で、「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録しました。

アルバム「スリラー」の中でもっともヒットした三曲が、「ビリー・ジーン」「ビート・イット」「スリラー」。

1983年1月発表の「ビリー・ジーン」はマイケル作詞作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われています。

その後この傾向がますます強まったのは誰もが認めるところであり、結果的にこの曲は彼の人生を強く言い表した曲になっているようです。

ちなみに、「ムーンウォーク」が披露されるのは、この曲の間奏においてです。

動画はyoutube、ニコニコ動画などでいくらでも見つかるので、興味の湧いた人は是非探してみてください。

個人的に好きな曲は「ユー・アー・ノット・アローン」、「ヒール・ザ・ワールド」、「ビリー・ジーン」、「ビート・イット」、「マン・イン・ザ・ミラー」あたりですね。

時代

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月23日

 たとえば私が大学生だった時代には、大学生たるもの世界文学を読んだり、現代作家の話題作を読んで、わかったような顔でエラソーに論じてみるのが普通のことだった。しかし今の大学生で文学論を語れる者はほとんどいないだろう。誰も読みやぁしない時代になっているのである。
(清水義範『早わかり世界の文学』、ちくま新書)

 そうは言っても、団塊の世代に“文学のわかる”人が大勢いるかと言ったら、全然そんなイメージはないし、文学好きな大学生は、(経験的に、)今でも少なくない数がいるわけで、結局、こういうのっておじさんの懐古趣味的定型文に過ぎないってことなんでしょうかね。
 「教養主義が崩壊した」ということのイメージはなんとなくわかるんだけど、要は現代的大学生が求める情報の種類が変わったということが大きい気がします。
 ドストエフスキーを読み解くヒマがあったら、「エヴァンゲリオン」にちりばめられた謎を回収した方が有意義だ、的なことを言うと、それはちょっと極端なのかな?
 僕自身はというと、古典的教養は、その情報量を減らしつつも、根絶してほしくはないなというところで、教養主義の根幹にかかわる部分はなんとか掬っていきたいですよね。
 結局、例によって「本を読め、本を」という辺りに落ち着くわけです。 

 2006年から2007年にかけて、光文社の古典新訳文庫で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が亀山郁夫訳で刊行されたところ、それが売れているのである。
 ある若者は読んだ感想として、「『エヴァンゲリオン』以来のショックを受けた」と語ったとか。(同書)

 「我々の立っている場所は、我々の立っていた場所ではないのだ」(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』、講談社文庫)ということですね。

 大学生たるものとりあえず「村上春樹」にかぶれておこう、というのは、きわめて個人的な印象として、好ましい姿勢であるように思います。

一年前

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月16日

今日で慶應法学部法律学科の一般入試を受けてからちょうど一年になります。

うまく言えないけれど、一年前とは人間性も価値観も全く違った人間になったのではないかと感じてます。

良い面でも悪い面でも。

それぞれひとつずつ挙げるとすれば、良い面では世界に対して寛容になったこと、悪い面では―その分―世界に対して無責任になったこと、でしょうか。

結局、今、この瞬間に僕が何をやっているかと言えば、多少お酒が入った状態での徹カラの真っ最中なわけで、そんな人間の言葉がどれだけ受験生の心に届くだろうか、ということですが、そういうことまで含めて発信してしまう寛容さと無責任さなんですよね。


でも、僕は受験生に頑張って欲しいという僕の気持ちを伝えておきたいです。

結局、僕はもう受験生ではないのだから、受験生の複雑な心理なんてわかりはしないのだし、これからも“わからない側の人間”として生きていくしかないのです。

賽はなげられた!

健闘を祈ります。
頑張ってきて下さい!!

小論文小論

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月11日

 小論文の採点者は、たくさんの人の書いたものを読まなければならないので、一般論には飽き飽きしています。新鮮な情報やオリジナリティあふれるシーンが盛り込まれた文章が来なければ、感覚が刺激されないのです。
(齋藤孝『読み上手 書き上手』、ちくまプリマー新書)

 まあ、この齋藤孝の考え方自体、すでに一般論じゃないかという気はしますけどね(笑

 「オリジナリティ溢れる小論文を書きたい!」

 誰でもそう思っているし、でもその方法がわからないから、結局受験生が書く答案は一般論ばかりになってしまうわけです。(かといって、入試において下手に奇をてらうよりは、おとなしく一般論に落ち着いていた方が無難なのは間違いないですが)

 さて、そこで昨日の僕の答案の話になるわけですが、あの答案の最大の強みは、答案中に「デカルト」「物心二元論」「二項対立」という言葉が入っているという、この一点に尽きます。
 「結局、知識人は大切だ」ということを書く受験生なら3000人くらいはいるでしょうが、あの問題で、答案中に「デカルト」の名前を出した受験生の数は、どう多く見積もったって100人は越えないはずです。
 極端なことを言えば、この時点で僕の勝ちなんですよ(笑
 同じ理屈で、おそらく少数派に属するであろう「いや、今は知識人より一般市民の役割の方が重要だ」という趣旨の答案もポイントは高いはずです。なぜこの意見が少数派となるかというと、課題文が「知識人の重要性」を述べているものだからです。
 普通釣られます。そして結論からいえば僕も釣られています(笑
 弱みの方に関して言えば、結局こういう部分にかかわってくる話で、僕の答案では肝心の主張が陳腐なんです。
 持てる修飾語を駆使して、必死で文章を作っているのは分かるんですが、いかんせん中身がない。中身がないのに文体が“小難しい”から余計に浮いてしまう。「デカルト」云々のくだりも、これって結局は具体例の一つとして無理やり書き込んだ枝葉にすぎないんですよね。
  

 まあこうした文体における背伸びは、好意的に受け取られる可能性をさえ持っているという点で、そこまで心配しなくていいと思います。頑張って難しい言葉を使おうとして、しかもそれがある程度成功しているとなれば、採点官の教授連からしたら若き日の自分を見るようで微笑ましいものじゃないですかね(笑

 さて、それではこの答案をさらに良くするにはどうすればいいかという話ですが、一番手っとりばやくて、しかも効果的なのは、答案の中に「二項対立」を生みだして、その中で「二項対立」を批判するという構造を取ってしまう方法じゃないですかね。
 先にその構造を説明してしまいましょう。

 「知識人」と「一般大衆という「二項対立」関係が存在する。
 ↓ ↓ ↓
 しかし、「デカルト」の「物心二元論」に端を発する「二項対立」の図式は見直され始めている。
 ↓ ↓ ↓
 ならば、「知識人」でも「一般大衆」でもない「第三の知的勢力」への眼差しを持ってみてはどうか。 
  
 実にこれだけのことです。しかし、これはかなりハイレベルですよ。
 結局のところ、世の中にある、しかも一流の論説文のほとんどは「ニ項対立」に従って論を進めています。つまり、「一般にはこう思われているけれど〜」で話を始めて、「でも、実はこうなんじゃない」と持って行く、例のやり方ですよね。
 一流とそれ以下の文章を隔てるのは、この「二項対立」の設定の仕方にあるといっても過言ではありません。「二項対立」の中にさらに「二項対立」を設定する、さまざまな角度からの「二項対立」を検討してみるなどなど、やりようはいくらでもあります。
 そして、このやり方は、そのまま大学生のレポートに使えると書いているのが、自身“大学教授”でもあるの石原千秋や齊藤孝です。 
 ……少しは説得力も増しましたかね(笑

 「二項対立が良い/悪い」

 これで立派に二項対立の出来上がりです。弁証法的な思考から脱却しようとしても、そのための方法はないんですよ。
 これがポスト・モダンの現代世界が体系化できない一因です。
 近代の世界は基本的に、二項対立を基盤とする一つの秩序を持っていました。

精神>肉体
正常>狂気
文明>未開
西洋>それ以外
男>女

などなどです。
 
 ……あんまり書くと、僕は素人ですからね、そろそろ適当になってきます(笑
 それから、「デカルト以来」とするか「プラトン以来」とするかは議論の余地がある問題ですが、受験小論文というものを考えたときに「デカルト」の立場というのは特筆すべきものがあります。
 ニーチェでもカントでも、ヘーゲル、ショーペンハウアーでもなく、デカルト。
 まあ、ニーチェやカントで書いたっていいんですけどね、書けるものなら書いてみろってところじゃないですか(笑
 他にはウィトゲンシュタインとかは、テーマによっては使えそうかな。

 要は、デカルトの汎用性は常軌を逸しているということです。何と言っても「近代」という一つの世界の祖と仰がれる人物ですからね。
 どんな小論文にもデカルトの名前と物心二元論の考え方さえ書いておけば、まず間違いないんじゃないでしょうかね? 文科系の小論文で、逆にデカルトが使えないものの方がレアケースかと思います。責任は持てませんが(笑
 デカルトの使い方については、気が向いたらまた日記にしますが、そろそろ僕が満足し始めているので、たぶん日記にはなりません。良かったですね(笑
 
 最後に、上にあげた「第三の知的勢力」、ここで僕は「大学生」のことを想定しています。「俺頑張るよ、先生! だから入学させて?」ということです。青臭い情熱をあえて漂わせて釣ってやるんです(笑

 まあ、これはまるっきりの嘘というわけでもないですけどね。

'08慶應(法)小論文

  • author: julius_caesar2
  • 2009年02月11日

↓↓問題(多分パソコンからでないと読めません><)
http://mainichi.jp/life/edu/exam/daigakubetsu08/graph/keio_hou/ronjutu/1.html   

 昨年の慶應の入試で僕が実際に書いた小論文の答案に、“手を入れた”ものを貼っておきます。原型を知っている人は「オイオイw」と思われるかもしれませんね。
 要約部分を省いて、これで600字ちょっとです。
 精一杯背伸びしてます。
 まあ、一番重要なのは、これを書いた人間が合格したということで、裏を返せば、小論文に関してだけ言えば、このレベルでも合格できるということです。
 もしさらなる需要があれば、この答案の弱みと強みの分析、これをさらに良い答案にするためにはどうしたらよいか、という解説までつけることは可能ですが、どうでしょうかね(笑
  
*******

 私は、今日においてこそ、こうした「知識人」と一般の人々との関わりについての議論が極めて重要な意味を持つと考える。現代という時代は、有史以来かつてない程に情報が氾濫した時代と定義されえよう。いまやインターネットの網の目は全世界を覆い尽くしており、人々は日々大量の情報にさらされている。また、いわゆる「知識・思想」を扱った書籍の類も膨大な数が世に溢れており、日本をはじめとする先進国に暮らす人々であれば誰でも、課題文が冒頭で言及している、いわゆる「インテリ」にカテゴライズされる可能性を持っているといえる。そうした情況の中にあって改めて「知識人」の存在意義を考えてみることにしよう。
 世に溢れている「情報」は、必ずしも「知識・思想」とは一致しない。虚言も大量に紛れ込んでいる。そこに「知識・思想」の体系を見出すことなど望むべくもない。そこで、「知識人」が登場するのである。表面的ではない、深い教養に裏打ちされた「知識・思想」というのは誰でもが容易に手にすることができるわけではない。例えば、デカルトが精神と肉体を相互に独立したものとし、近代哲学の体系を打ち立てて以来、物心二元論の考え方は現代に至るまで、意識するとしないとに関わらず、色濃く影響を及ぼし続けているが、仮に〈男女差別〉という二項対立問題を扱うとして、果たしてその歴史的文脈上に視点を据えることのできる人間がどれほどいるだろうか。今、「知識人」たちには、無秩序に溢れる情報と「知識・思想」との調停役としての役割が希求されているのだ。

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