2019年2月9日(土)
大分市の東部、大野(おおの)川と乙津(おとづ)川に囲まれたデルタ地帯には鶴崎(つるさき)・三佐(みさ)・家島(いえじま)の各地区があります。
鶴崎・三佐・家島の位置関係
地理院地図
昭和中期までは鶴崎と三佐の間に堀川(ほりかわ)(弥栄川)、鶴崎と家島の間に小中島(おなかしま)川が流れており、各地区は橋を介して行き来する関係でした。
1960年代の鶴崎・三佐・家島の航空写真
地理院地図(1961-1969年)
江戸時代、現在の大分市中心部(府内城周辺)は府内藩(1658年以降は松平氏)の領地でしたが、鶴崎は肥後藩(細川氏)、三佐は岡藩(中川氏)、家島は臼杵藩(稲葉氏)の領地となっていました。
瀬戸内海に面した当地は古くから海上交通の要として重要視されており、江戸時代には米をはじめとする物資の輸送や参勤交代(九州~大坂は船で移動)の便宜を図るため、各藩に領地が与えられたと言われています。また、岡藩と臼杵藩については大野川の水運を行っており、河口部の三佐・家島は海上輸送との中継地としても重要であったそうです。
一見 登山と関係なさそうなエリアですが、地理院地図で三角点を探していて気になる場所を見つけました。それが三佐の小中島川沿いに設置された標高7.9mの三等三角点(点名:三佐)です。
地理院地図
三佐三角点の位置をグーグルマップで確認してみると 遠見山 の文字が見えるではありませんか。大分県で一番標高の低い山と言えば、大分市滝尾地区にある碇山(いかりやま) (標高56m)が有名ですが、こちらは一桁違う7.9m。大阪市港区の天保山(標高4.5m)や徳島市の弁天山(標高6.1m)には及びませんが、標高10m以下で「山」を名乗っているのには大いに心を惹かれます。
グーグルマップ
ネタバレになりますが、遠見山のあたりをストリートビューを覗いてみると大分バスの「三佐」バス停が目の前です。バスを降りて数十歩で登頂できそうですね。これはもうバスに乗って登りに行くしかありません。
ただし、遠見山“登山”だけでは物足らないと思いますし、適度なウォーキングも楽しみたいので、松原緑地公園を抜けて乙津川沿いに鶴崎駅まで歩くことにしました。その際、藩政時代の歴史を感じられるスポットにも立ち寄ってみたいと思います。

本日の行程:三佐バス停・遠見山→三佐漁港→松原緑地→三海橋→海原橋→龍神社(←→三佐地区の各寺社)→鶴崎駅
今回は大分市の作成した三佐校区歴史マップをガイドブック代わりにして歩くことにしました。本文中の説明文も一部こちらから引用しています。
三佐校区歴史マップへのリンクはこちら(pdf)→ 表面(地図) 裏面(歴史スポット紹介)

11:38 大分駅前より大分バスC50系統 三佐経由 鶴崎支所 行きに乗車。この系統の運転本数は少なく、日中は2~3時間空く時間帯もあるため時刻の下調べが必須となります。

11:56 大分商業のところから臨海産業道路(通称:40メートル道路、正式名称:県道22号 大在大分港線)に出たバスは片側3車線の道を快走します。車窓左手には新日鉄住金 大分製鉄所の緩衝緑地が延々と続き、独特の景観を見せてくれます。途中には「文政開」というバス停があり、この地域の歴史が感じられます。

12:06 家島橋の手前で臨海産業道路と分かれたバスは小中島川(鶴崎第2埠頭)に沿った道を北上します。江戸時代から続く港町というより新産都の港湾といった風景ですが、大分市内で港の見える路線は貴重です。

12:07 三佐バス停で下車。大分駅からの運賃は400円です(交通系ICカード利用可)。
ここはバスの転回所も兼ねており、乗車してきたバスは来た道を戻っていきます。大分バスC50系統は実質的には大分駅~三佐と三佐~鶴崎支所の系統を1本にまとめたものであり、三佐を跨いで乗車する人は多くないようです。

バス停の左に目を転じてみると・・・ これが目的地の遠見山です。
現在地はこちら
地理院地図

12:08 地域の方のぬくもりの伝わる三佐のバス停。バスの終点としても魅力的な場所です。なお、市の防災標識によると当地の海抜は2.6mとのこと。遠見山の標高が7.9mなのですが、比高が5.3mもあるようには見えません。それではバス停の右手の階段から登山を開始しましょう。

12:09 バス停横から20歩程度で遠見山の三等三角点(点名:三佐)に到着。モミジの木の下に金比羅様が祀られていました。以下、「三佐校区歴史マップ」より引用」します。
遠見山
江戸時代、三佐を船着き場として竹田中川藩 (注:岡藩) 参勤交代の御座船をはじめ、三佐沖を航行する船の標識として灯台が建っていました。木造二層の灯台で、遠く国東半島、佐賀関まで望まれたといいます。山上や麓には、金比羅様の祠や三佐漁協の碑などが建っています。

遠見山に建つ「三佐漁業協同組合沿革碑」
昭和中期まで、遠見山の横に漁協の建物があったそうです。

遠見山の山頂から北側の眺め。小中島川を挟んでJXTG製油所(旧 九州石油製油所)が見えました。

12:10 スイセンの花咲く遠見山をあとに、三佐漁港のほうに歩を進めていきます。

12:12 対岸に九州地方唯一の製油所を望みながら小中島川沿いの道を北上します。

12:16 遠見山から5分で三佐漁港(三佐船溜)に着きました。

上の画像を加工してコンビナートが建設される以前の様子をイメージしてみました。背後の松原はたぶん変わっていないと思います。

12:17 三佐漁港から眺めた製油所。参勤交代の船が発着していたのはもう少し内陸側(小中島川の上流側)のようですが、岡藩 中川公参勤交代の船団や大坂からの廻船が出入りしていた時代がしのばれます。
現在地はこちら
地理院地図

12:23 三佐漁港から道なりに西へ進んでいくと6分で松原緑地公園にさしかかります。ここは以前から存在した海岸の松原をベースに、コンビナート建設の際に照葉樹等を植樹して緩衝緑地を作り、公園化したものです。このまま市道を進むのも勿体ないので、右折して緑地の中に入ってみましょう。
現在地はこちら
地理院地図

12:25 松の多い林を北東へ進んでいきます。画像の道は古くからの海岸線をトレースするものです。沿道には古めかしいトイレや休憩舎が設けられていますが、散策する人の姿はありません。

緩衝緑地にはヤブツバキが植樹されていて、開花の時期を迎えていました。

12:32 適当なところで引き返して南西方向に戻ります。緑地の北側(コンビナート側)にはサッカー兼ソフトボールのグラウンドがありました。

12:33 ひとつ手前の画像のグラウンドに隣接する別のグラウンド。どちらも昭和電工のグラウンドとなっています。
なお、緑地の南側には市営の松原東・松原西球場があり、「OBSおはよう野球」やソフトボールの試合会場として親しまれています。

12:35 大分石油化学コンビナートの入口に出ました。ここから先は私道なので市街地方面に左折。

大分石油化学コンビナートを形成する企業名。左上に書かれた昭和電工が中核となっています。大分石油化学コンビナートは1969年(昭和44年)に操業を開始しました。以下、昭和電工(株)のホームページより引用します。
大分石油化学コンビナートは、大分市東部の別府湾に面した大分臨海工業地帯2号地埋立地(約170万m2)に立地しており、現在11社の化学企業で構成されています。その大分石油化学コンビナートの中核を成すのが、昭和電工(株)大分コンビナートです。石油からできるナフサを中心とした原料をもとにエチレンプラントで生産される石油化学基礎製品は、パイプラインを通じてプラスチックや合成ゴム、塗料、溶剤等の原料として、コンビナート構成企業各社のプラントへ供給されています。
現在地はこちら
地理院地図

12:37 市道を歩き始めてすぐに右折。引き続き緑地公園内を歩くことにします。

12:37 ひと気のない松林を進みます。林の外から波の音でも聞こえてきそうなロケーションですが、コンビナートの操業音が賑やかに響いてきており、風景とのギャップに驚かされます。

12:39 臨海工業地帯が形成される以前から存在したであろう松林。この奥に遠浅の砂浜があって海水浴などができていたのでしょう。
1960年代の同地点の航空写真
地理院地図(1961~1969年)

12:39 松林の中にはブランコや滑り台など昭和後期を思い出させる遊具がありましたが、遊んでいる子供の姿はありません。市街地からそう遠くない場所にあるのですが、歩いてアクセスできる距離ではありません。どうせ車に乗って行くなら、最新の遊具がそろった鶴崎スポーツパークや佐野植物公園が選ばれるのでしょう。こちらのトイレは入るのにちょっと勇気が必要なタイプですし。

セアカゴケグモへの注意を喚起する立て札
これでは子供を遊ばせたくないのも理解できます。埠頭近くではどうしても外来生物が侵入しやすくなりますね。ただ、普段の低山歩きではスズメバチ・マダニ・マムシなど命の危険に直結する生物と遭遇することも多いので、セアカゴケグモ程度なら過度に神経質になることもないのかなと思ったりします(気持ちの良いものではありませんけどね)。

12:40 昭和感満載の休憩舎。高床式なのでお金がかかっています。

12:42 本当に気持ちの良い松林を進んでいきます。貸切状態なのがもったいないぐらいです。

12:43 このあたりまで来ると人工的な緑地公園の雰囲気が漂いますが、メジャーな山の山麓の人工林(スギ・ヒノキ林)を歩くよりよほど楽しいです。

元が自然の松林とは言え、現在は行政の管理する公園なので、松枯れ防止剤の注入や老化木の伐採等の手入れが続けられています。

12:47 松原緑地の西端にはまた別のグラウンドがありました。ここは駐車場から遠いため使用頻度は低そうです。

12:50 東西約1.3kmにわたって続いた松原緑地公園を抜けると、乙津泊地沿いの臨港道路(市道ではない)に出ます。向かいは県営乙津上屋です。ここから臨港道路を南に進みます。
現在地はこちら
地理院地図
乙津泊地には1972年から1980年まで大分~那智勝浦~名古屋を結ぶ太平洋沿海フェリー(現 太平洋フェリーの前身となった会社)が就航していました。残念ながら私は乗船したことがありませんが、もしオイルショックを乗り越えて航路が存続していれば、長野や静岡の山の行き帰りに利用することもあったでしょう。

12:52 門司税関大分税関支署の前に係留された広域監視艇「ぶんご」
沖合で麻薬・覚せい剤・拳銃等の密輸の監視業務にあたるそうで、最高速力は38.55ノット(約70km/h)とのこと。海のパトカーといったところでしょう。

12:53 乙津泊地の南端で乙津川の右岸堤防に上がります。振り返ると別府湾の向こうに国東半島の山々が見えていました。

12:54 ここから乙津川の右岸堤防を鶴崎まで進むことになります。

12:57 先ほどバスで通過した臨海産業道路(40m道路)の三海(さんかい)橋とクロスします。竣工は1970年頃のようですが、名前の由来は両岸の三川(みつがわ)と海原(かいわら)に因んだものでしょうか? なお、橋のたもとには横断歩道がないため左手の海原天満社を経由して道路の下をパスすることにします。

12:58 海原天満社に参拝します。以下、三佐歴史マップより引用。
海原天満社
菅原道真を祀り、古くから海原の鎮守様として崇敬を集めていますが、創立年月は不詳。大祭には山車が御輿のお供をして新町の龍神社まで御神幸が行われ、御輿が社殿に還御すると、境内で角力を催すのが例となっています。
現在地はこちら
地理院地図

13:01 臨海産業道路の下を通って乙津川の右岸堤防に戻りました。前方には次の海原(かいわら)橋が見えています。

13:02 市道三佐三川線の海原橋の奥に本宮山・霊山・障子岳が見えました。霊山の真後ろに障子岳山頂部が重なっていますね。
現在地はこちら
地理院地図

13:04 海原橋を過ぎると堤防の幅が広まり、乙津川桜づつみ の看板が立っていました。1997年の河川法改正で堤防上に桜などの植樹ができなくなりましたが、こちらは従来の堤防の外側に土を盛っているため植樹は問題なく、堤防機能の強化にも寄与しているそうです。桜の季節に歩いてみたい場所ですね。

13:07 続いて現れるのは明治大分水路橋。麦焼酎二階堂のCM映像に出てきそうな味わいのあるコンクリート橋です。形状からして明治時代のものではなく、後年架け替えられたもののようです。
明治大分水路は由布市挾間町の大分川から取水し、稙田地区・滝尾地区を経て東大分地区に続く灌漑用水路です。その名の通り、1897年(明治30年)に起工・1899年(明治32年)頃竣工という長い歴史を持つ水路です。
10月に護国神社から松栄山に登った際、城東中学校の近くで「明治大分水路記念碑」を見つけましたが、乙津川を渡って三佐地区まで延びていたとは驚きです。現在では三佐地区に水田は残っていないようですが、地理院地図の航空写真で確認してみると1980年頃までは臨海産業道路周辺に広大な水田が広がっていました。この橋は三佐地区の発展に大きな役割を果たしてきたことでしょう。

13:08 前方に日豊本線 乙津川橋梁、その奥に先日登った九六位山系が見えてきました。

13:10 九六位山系の東側、鶴崎の町の向こうには白山も見えています。

13:11 左手に龍神社が見えたら、堤防から離れて三佐地区の寺社をめぐってみたいと思います。
以下、弥栄川常夜燈・太刀振神社・海潮寺・尋声寺・円光寺の項まで「三佐校区歴史マップ」より引用。
龍神社
縁起は不明ですが、新町の住民が鎮守様として大切にお祀りし、お世話しています。海原天満社の春の大祭では、御神輿の御旅所となります。
現在地はこちら
地理院地図

13:12 龍神社の横から北東に向かって延びる堀川緑地の中を歩きます。昭和中期まで、ここに堀川(弥栄川)が流れており、鶴崎と三佐の境となっていました。江戸時代は犬飼から大野川・乙津川を下ってきた川舟が堀川に入ってきて、物資の積み下ろしを行っていたそうです。

13:14 堀川緑地の中ほどにある公園。ここで目を左に転じると・・・

13:14 石造りの重厚な 常夜燈 が残っていました。
弥栄川の常夜燈
船の出入りを誘導し“海上闇夜東西失ひし時”の燈台、これが常夜燈です。三佐には何カ所か常夜燈がありましたが、現存しているのは堀川緑地公園の中にある、この1基だけです。江戸末期の天保15年(1844年)の年号が刻まれています。
堀川緑地が市道鶴崎三佐線と交差する場所に鶴三(つるみ)橋 があります。現在では堀川(弥栄川)が埋め立てられているため、一見すると橋には見えません。

13:26 鶴三橋交差点から北東に少し入った場所に太刀振神社があります。
太刀振神社
当初は祇園社として板屋町に祀られていましたが、明治14年12月、現在地の広小路に移転。同時に竹田市拝田原の中川神社御分霊を分祀して、社号も太刀振神社と改められました。祭神は素佐鳴尊(スサノオノミコト)を主神とし、中川清秀、中川秀政、中川秀成の中川神社御分霊三柱が祀られています。三佐の住民には御祀宮(おしのみや)の俗称で親しまれています。
現在地はこちら
地理院地図

13:28 太刀振神社から西に2分ほど歩くと海潮寺に着きます。この通りには東から海潮寺・尋声寺・円光寺と3つの寺院が並んでいます。
梵音山 海潮寺 (臨済宗妙心寺派)
慶長3年(1598年)より以前に、現在三方面の薬師堂のある場所に、月浦得和尚によって創建されました。承応年間(1652年)、中川久盛公のとき、堂宇が手狭になったことから浦町の現在地に移転。奉られていた薬師如来を薬師堂に残し、千手観音が本尊として安置されました。

13:30 海潮寺の西隣に位置する尋声寺
靏林山 来迎院 尋声寺 (西山浄土宗)
大分市錦町の来迎寺住職顕空宅岸によって、大分市津留(現在の今津留)に創建されましたが、元和年間(1615~1623年)に三佐浦町の現在地に移転しました。本尊は阿弥陀如来。岡藩中川家とは関係が深く、墓地には柴山両賀をはじめ、中川家家臣の墓が多く建っています。

13:31 尋声寺の西隣に位置する円光寺
浄華山 円光寺 (浄土真宗本願寺派)
僧了照によって大分市津留に創建されましたが、元和年間(1615~1623年)に三佐浦町の現在地に移されました。当時は円龍寺と称されていましたが、寛文年間(1661~1672年)に現在の名前に改められました。本尊は阿弥陀如来。
龍神社・弥栄川常夜燈・太刀振神社・海潮寺・尋声寺・円光寺の界隈は1983年(昭和58年)から2015年(平成27年)にかけて区間整理が行われており、新しい住宅の立ち並ぶ町並みからは江戸時代の面影はほとんど感じられません。しかし、至近距離に寺社が集まるようすは新興住宅地のものではなく、三佐が歴史ある港町であることを伝えてくれます。
本来なら、「岡藩船三佐入港船絵馬」の奉納された 野坂(のさか・やさか)神社 を参拝しておくべきでしたが、ルートから外れていたため割愛しました。ここは別の機会に訪れてみたいです。
野坂神社訪問記はこちら→三佐 野坂神社から臨海産業道路の緑地を抜けて亀塚古墳へ(前編)

13:37 龍神社の横、乙津川の右岸堤防に戻ってきました。

13:40 続いて現れるのが日豊本線 乙津川橋梁。大分行きの「にちりん10号」が轟音を立てて渡っていきました。
日豊線の大分~幸崎間は1914年(大正3年)に開通しました(当時は日豊本線でなく豊州本線と呼んでいました)。乙津川橋梁はコンクリート橋でなく昔ながらのガーダー橋のため、電車の通過音が派手に響き渡ります。
現在地はこちら
地理院地図

13:53 乙津川橋梁の南側の土手はスイセンの花畑。せっかくなので次の電車まで待ってみました。

13:59 国道197号の乙津橋に出ました。ここで乙津川と別れ、国道を鶴崎駅に向かいます。
乙津橋は1955年(昭和30年)に開通したボーストリングトラス橋で、なかなかレトロな形状をしています。片側1車線で老朽化が進んでいることもあり、補修(架け替え?)が検討されているようです。

14:06 JR日豊本線 鶴崎駅に到着。当地で400年以上の歴史を持つ鶴崎踊のモニュメントが迎えてくれました。
現在地はこちら
地理院地図
駅の時刻表を見ると14:14の中山香行きがありましたが、遠路佐伯からやってくるので混雑していそうです。大分駅までのJR運賃230円は魅力ですが、立ちたくないのでバスでのんびり帰ることにします。

14:23 鶴崎駅前から大分バスD22系統 花高松・柳通り経由大分駅行きに乗車。海原橋を渡る系統は上り2本、下り1本のみの運転です(日祝日は運転無し)。大分駅までの運賃は420円です(本数の多い高城経由なら360円)。
----------------------------------------------------------------------
私はこれまで三佐の歴史についてほとんど予備知識がありませんでしたが、三角点探しから遠見山を知ったことで、三佐が岡藩の港町として栄えた歴史を学ぶことができました。大分の山好きにとって、岡藩の中川氏に縁のある山と言えば真っ先に大船山、続いて小富士山が思い出されますが、三佐とも深い縁があったことを知ることができたのは大きな収穫でした。
くじゅう・祖母傾・由布鶴見のような山域は国立公園・国定公園に指定されているため、江戸時代から現在までさほど風景が変化していないと思います。今回歩いた三佐地区は、この200年で風景が大きく変化した場所です。遠見山に登り、松原を抜け、乙津川堤防を歩いている間、常に過去(藩政時代のみならず、臨海工業地帯が形成される以前の昭和中期まで)の光景を脳内で再生しながら歩いていたと思います。こうした歴史を感じるウォーキングもなかなか良いものだと感じました。
大分市の東部、大野(おおの)川と乙津(おとづ)川に囲まれたデルタ地帯には鶴崎(つるさき)・三佐(みさ)・家島(いえじま)の各地区があります。
鶴崎・三佐・家島の位置関係
地理院地図
昭和中期までは鶴崎と三佐の間に堀川(ほりかわ)(弥栄川)、鶴崎と家島の間に小中島(おなかしま)川が流れており、各地区は橋を介して行き来する関係でした。
1960年代の鶴崎・三佐・家島の航空写真
地理院地図(1961-1969年)
江戸時代、現在の大分市中心部(府内城周辺)は府内藩(1658年以降は松平氏)の領地でしたが、鶴崎は肥後藩(細川氏)、三佐は岡藩(中川氏)、家島は臼杵藩(稲葉氏)の領地となっていました。
瀬戸内海に面した当地は古くから海上交通の要として重要視されており、江戸時代には米をはじめとする物資の輸送や参勤交代(九州~大坂は船で移動)の便宜を図るため、各藩に領地が与えられたと言われています。また、岡藩と臼杵藩については大野川の水運を行っており、河口部の三佐・家島は海上輸送との中継地としても重要であったそうです。
一見 登山と関係なさそうなエリアですが、地理院地図で三角点を探していて気になる場所を見つけました。それが三佐の小中島川沿いに設置された標高7.9mの三等三角点(点名:三佐)です。
地理院地図
三佐三角点の位置をグーグルマップで確認してみると 遠見山 の文字が見えるではありませんか。大分県で一番標高の低い山と言えば、大分市滝尾地区にある碇山(いかりやま) (標高56m)が有名ですが、こちらは一桁違う7.9m。大阪市港区の天保山(標高4.5m)や徳島市の弁天山(標高6.1m)には及びませんが、標高10m以下で「山」を名乗っているのには大いに心を惹かれます。
グーグルマップ
ネタバレになりますが、遠見山のあたりをストリートビューを覗いてみると大分バスの「三佐」バス停が目の前です。バスを降りて数十歩で登頂できそうですね。これはもうバスに乗って登りに行くしかありません。
ただし、遠見山“登山”だけでは物足らないと思いますし、適度なウォーキングも楽しみたいので、松原緑地公園を抜けて乙津川沿いに鶴崎駅まで歩くことにしました。その際、藩政時代の歴史を感じられるスポットにも立ち寄ってみたいと思います。

本日の行程:三佐バス停・遠見山→三佐漁港→松原緑地→三海橋→海原橋→龍神社(←→三佐地区の各寺社)→鶴崎駅
今回は大分市の作成した三佐校区歴史マップをガイドブック代わりにして歩くことにしました。本文中の説明文も一部こちらから引用しています。
三佐校区歴史マップへのリンクはこちら(pdf)→ 表面(地図) 裏面(歴史スポット紹介)

11:38 大分駅前より大分バスC50系統 三佐経由 鶴崎支所 行きに乗車。この系統の運転本数は少なく、日中は2~3時間空く時間帯もあるため時刻の下調べが必須となります。

11:56 大分商業のところから臨海産業道路(通称:40メートル道路、正式名称:県道22号 大在大分港線)に出たバスは片側3車線の道を快走します。車窓左手には新日鉄住金 大分製鉄所の緩衝緑地が延々と続き、独特の景観を見せてくれます。途中には「文政開」というバス停があり、この地域の歴史が感じられます。

12:06 家島橋の手前で臨海産業道路と分かれたバスは小中島川(鶴崎第2埠頭)に沿った道を北上します。江戸時代から続く港町というより新産都の港湾といった風景ですが、大分市内で港の見える路線は貴重です。

12:07 三佐バス停で下車。大分駅からの運賃は400円です(交通系ICカード利用可)。
ここはバスの転回所も兼ねており、乗車してきたバスは来た道を戻っていきます。大分バスC50系統は実質的には大分駅~三佐と三佐~鶴崎支所の系統を1本にまとめたものであり、三佐を跨いで乗車する人は多くないようです。

バス停の左に目を転じてみると・・・ これが目的地の遠見山です。
現在地はこちら
地理院地図

12:08 地域の方のぬくもりの伝わる三佐のバス停。バスの終点としても魅力的な場所です。なお、市の防災標識によると当地の海抜は2.6mとのこと。遠見山の標高が7.9mなのですが、比高が5.3mもあるようには見えません。それではバス停の右手の階段から登山を開始しましょう。

12:09 バス停横から20歩程度で遠見山の三等三角点(点名:三佐)に到着。モミジの木の下に金比羅様が祀られていました。以下、「三佐校区歴史マップ」より引用」します。
遠見山
江戸時代、三佐を船着き場として竹田中川藩 (注:岡藩) 参勤交代の御座船をはじめ、三佐沖を航行する船の標識として灯台が建っていました。木造二層の灯台で、遠く国東半島、佐賀関まで望まれたといいます。山上や麓には、金比羅様の祠や三佐漁協の碑などが建っています。

遠見山に建つ「三佐漁業協同組合沿革碑」
昭和中期まで、遠見山の横に漁協の建物があったそうです。

遠見山の山頂から北側の眺め。小中島川を挟んでJXTG製油所(旧 九州石油製油所)が見えました。

12:10 スイセンの花咲く遠見山をあとに、三佐漁港のほうに歩を進めていきます。

12:12 対岸に九州地方唯一の製油所を望みながら小中島川沿いの道を北上します。

12:16 遠見山から5分で三佐漁港(三佐船溜)に着きました。

上の画像を加工してコンビナートが建設される以前の様子をイメージしてみました。背後の松原はたぶん変わっていないと思います。

12:17 三佐漁港から眺めた製油所。参勤交代の船が発着していたのはもう少し内陸側(小中島川の上流側)のようですが、岡藩 中川公参勤交代の船団や大坂からの廻船が出入りしていた時代がしのばれます。
現在地はこちら
地理院地図

12:23 三佐漁港から道なりに西へ進んでいくと6分で松原緑地公園にさしかかります。ここは以前から存在した海岸の松原をベースに、コンビナート建設の際に照葉樹等を植樹して緩衝緑地を作り、公園化したものです。このまま市道を進むのも勿体ないので、右折して緑地の中に入ってみましょう。
現在地はこちら
地理院地図

12:25 松の多い林を北東へ進んでいきます。画像の道は古くからの海岸線をトレースするものです。沿道には古めかしいトイレや休憩舎が設けられていますが、散策する人の姿はありません。

緩衝緑地にはヤブツバキが植樹されていて、開花の時期を迎えていました。

12:32 適当なところで引き返して南西方向に戻ります。緑地の北側(コンビナート側)にはサッカー兼ソフトボールのグラウンドがありました。

12:33 ひとつ手前の画像のグラウンドに隣接する別のグラウンド。どちらも昭和電工のグラウンドとなっています。
なお、緑地の南側には市営の松原東・松原西球場があり、「OBSおはよう野球」やソフトボールの試合会場として親しまれています。

12:35 大分石油化学コンビナートの入口に出ました。ここから先は私道なので市街地方面に左折。

大分石油化学コンビナートを形成する企業名。左上に書かれた昭和電工が中核となっています。大分石油化学コンビナートは1969年(昭和44年)に操業を開始しました。以下、昭和電工(株)のホームページより引用します。
大分石油化学コンビナートは、大分市東部の別府湾に面した大分臨海工業地帯2号地埋立地(約170万m2)に立地しており、現在11社の化学企業で構成されています。その大分石油化学コンビナートの中核を成すのが、昭和電工(株)大分コンビナートです。石油からできるナフサを中心とした原料をもとにエチレンプラントで生産される石油化学基礎製品は、パイプラインを通じてプラスチックや合成ゴム、塗料、溶剤等の原料として、コンビナート構成企業各社のプラントへ供給されています。
現在地はこちら
地理院地図

12:37 市道を歩き始めてすぐに右折。引き続き緑地公園内を歩くことにします。

12:37 ひと気のない松林を進みます。林の外から波の音でも聞こえてきそうなロケーションですが、コンビナートの操業音が賑やかに響いてきており、風景とのギャップに驚かされます。

12:39 臨海工業地帯が形成される以前から存在したであろう松林。この奥に遠浅の砂浜があって海水浴などができていたのでしょう。
1960年代の同地点の航空写真
地理院地図(1961~1969年)

12:39 松林の中にはブランコや滑り台など昭和後期を思い出させる遊具がありましたが、遊んでいる子供の姿はありません。市街地からそう遠くない場所にあるのですが、歩いてアクセスできる距離ではありません。どうせ車に乗って行くなら、最新の遊具がそろった鶴崎スポーツパークや佐野植物公園が選ばれるのでしょう。こちらのトイレは入るのにちょっと勇気が必要なタイプですし。

セアカゴケグモへの注意を喚起する立て札
これでは子供を遊ばせたくないのも理解できます。埠頭近くではどうしても外来生物が侵入しやすくなりますね。ただ、普段の低山歩きではスズメバチ・マダニ・マムシなど命の危険に直結する生物と遭遇することも多いので、セアカゴケグモ程度なら過度に神経質になることもないのかなと思ったりします(気持ちの良いものではありませんけどね)。

12:40 昭和感満載の休憩舎。高床式なのでお金がかかっています。

12:42 本当に気持ちの良い松林を進んでいきます。貸切状態なのがもったいないぐらいです。

12:43 このあたりまで来ると人工的な緑地公園の雰囲気が漂いますが、メジャーな山の山麓の人工林(スギ・ヒノキ林)を歩くよりよほど楽しいです。

元が自然の松林とは言え、現在は行政の管理する公園なので、松枯れ防止剤の注入や老化木の伐採等の手入れが続けられています。

12:47 松原緑地の西端にはまた別のグラウンドがありました。ここは駐車場から遠いため使用頻度は低そうです。

12:50 東西約1.3kmにわたって続いた松原緑地公園を抜けると、乙津泊地沿いの臨港道路(市道ではない)に出ます。向かいは県営乙津上屋です。ここから臨港道路を南に進みます。
現在地はこちら
地理院地図
乙津泊地には1972年から1980年まで大分~那智勝浦~名古屋を結ぶ太平洋沿海フェリー(現 太平洋フェリーの前身となった会社)が就航していました。残念ながら私は乗船したことがありませんが、もしオイルショックを乗り越えて航路が存続していれば、長野や静岡の山の行き帰りに利用することもあったでしょう。

12:52 門司税関大分税関支署の前に係留された広域監視艇「ぶんご」
沖合で麻薬・覚せい剤・拳銃等の密輸の監視業務にあたるそうで、最高速力は38.55ノット(約70km/h)とのこと。海のパトカーといったところでしょう。

12:53 乙津泊地の南端で乙津川の右岸堤防に上がります。振り返ると別府湾の向こうに国東半島の山々が見えていました。

12:54 ここから乙津川の右岸堤防を鶴崎まで進むことになります。

12:57 先ほどバスで通過した臨海産業道路(40m道路)の三海(さんかい)橋とクロスします。竣工は1970年頃のようですが、名前の由来は両岸の三川(みつがわ)と海原(かいわら)に因んだものでしょうか? なお、橋のたもとには横断歩道がないため左手の海原天満社を経由して道路の下をパスすることにします。

12:58 海原天満社に参拝します。以下、三佐歴史マップより引用。
海原天満社
菅原道真を祀り、古くから海原の鎮守様として崇敬を集めていますが、創立年月は不詳。大祭には山車が御輿のお供をして新町の龍神社まで御神幸が行われ、御輿が社殿に還御すると、境内で角力を催すのが例となっています。
現在地はこちら
地理院地図

13:01 臨海産業道路の下を通って乙津川の右岸堤防に戻りました。前方には次の海原(かいわら)橋が見えています。

13:02 市道三佐三川線の海原橋の奥に本宮山・霊山・障子岳が見えました。霊山の真後ろに障子岳山頂部が重なっていますね。
現在地はこちら
地理院地図

13:04 海原橋を過ぎると堤防の幅が広まり、乙津川桜づつみ の看板が立っていました。1997年の河川法改正で堤防上に桜などの植樹ができなくなりましたが、こちらは従来の堤防の外側に土を盛っているため植樹は問題なく、堤防機能の強化にも寄与しているそうです。桜の季節に歩いてみたい場所ですね。

13:07 続いて現れるのは明治大分水路橋。麦焼酎二階堂のCM映像に出てきそうな味わいのあるコンクリート橋です。形状からして明治時代のものではなく、後年架け替えられたもののようです。
明治大分水路は由布市挾間町の大分川から取水し、稙田地区・滝尾地区を経て東大分地区に続く灌漑用水路です。その名の通り、1897年(明治30年)に起工・1899年(明治32年)頃竣工という長い歴史を持つ水路です。
10月に護国神社から松栄山に登った際、城東中学校の近くで「明治大分水路記念碑」を見つけましたが、乙津川を渡って三佐地区まで延びていたとは驚きです。現在では三佐地区に水田は残っていないようですが、地理院地図の航空写真で確認してみると1980年頃までは臨海産業道路周辺に広大な水田が広がっていました。この橋は三佐地区の発展に大きな役割を果たしてきたことでしょう。

13:08 前方に日豊本線 乙津川橋梁、その奥に先日登った九六位山系が見えてきました。

13:10 九六位山系の東側、鶴崎の町の向こうには白山も見えています。

13:11 左手に龍神社が見えたら、堤防から離れて三佐地区の寺社をめぐってみたいと思います。
以下、弥栄川常夜燈・太刀振神社・海潮寺・尋声寺・円光寺の項まで「三佐校区歴史マップ」より引用。
龍神社
縁起は不明ですが、新町の住民が鎮守様として大切にお祀りし、お世話しています。海原天満社の春の大祭では、御神輿の御旅所となります。
現在地はこちら
地理院地図

13:12 龍神社の横から北東に向かって延びる堀川緑地の中を歩きます。昭和中期まで、ここに堀川(弥栄川)が流れており、鶴崎と三佐の境となっていました。江戸時代は犬飼から大野川・乙津川を下ってきた川舟が堀川に入ってきて、物資の積み下ろしを行っていたそうです。

13:14 堀川緑地の中ほどにある公園。ここで目を左に転じると・・・

13:14 石造りの重厚な 常夜燈 が残っていました。
弥栄川の常夜燈
船の出入りを誘導し“海上闇夜東西失ひし時”の燈台、これが常夜燈です。三佐には何カ所か常夜燈がありましたが、現存しているのは堀川緑地公園の中にある、この1基だけです。江戸末期の天保15年(1844年)の年号が刻まれています。
堀川緑地が市道鶴崎三佐線と交差する場所に鶴三(つるみ)橋 があります。現在では堀川(弥栄川)が埋め立てられているため、一見すると橋には見えません。

13:26 鶴三橋交差点から北東に少し入った場所に太刀振神社があります。
太刀振神社
当初は祇園社として板屋町に祀られていましたが、明治14年12月、現在地の広小路に移転。同時に竹田市拝田原の中川神社御分霊を分祀して、社号も太刀振神社と改められました。祭神は素佐鳴尊(スサノオノミコト)を主神とし、中川清秀、中川秀政、中川秀成の中川神社御分霊三柱が祀られています。三佐の住民には御祀宮(おしのみや)の俗称で親しまれています。
現在地はこちら
地理院地図

13:28 太刀振神社から西に2分ほど歩くと海潮寺に着きます。この通りには東から海潮寺・尋声寺・円光寺と3つの寺院が並んでいます。
梵音山 海潮寺 (臨済宗妙心寺派)
慶長3年(1598年)より以前に、現在三方面の薬師堂のある場所に、月浦得和尚によって創建されました。承応年間(1652年)、中川久盛公のとき、堂宇が手狭になったことから浦町の現在地に移転。奉られていた薬師如来を薬師堂に残し、千手観音が本尊として安置されました。

13:30 海潮寺の西隣に位置する尋声寺
靏林山 来迎院 尋声寺 (西山浄土宗)
大分市錦町の来迎寺住職顕空宅岸によって、大分市津留(現在の今津留)に創建されましたが、元和年間(1615~1623年)に三佐浦町の現在地に移転しました。本尊は阿弥陀如来。岡藩中川家とは関係が深く、墓地には柴山両賀をはじめ、中川家家臣の墓が多く建っています。

13:31 尋声寺の西隣に位置する円光寺
浄華山 円光寺 (浄土真宗本願寺派)
僧了照によって大分市津留に創建されましたが、元和年間(1615~1623年)に三佐浦町の現在地に移されました。当時は円龍寺と称されていましたが、寛文年間(1661~1672年)に現在の名前に改められました。本尊は阿弥陀如来。
龍神社・弥栄川常夜燈・太刀振神社・海潮寺・尋声寺・円光寺の界隈は1983年(昭和58年)から2015年(平成27年)にかけて区間整理が行われており、新しい住宅の立ち並ぶ町並みからは江戸時代の面影はほとんど感じられません。しかし、至近距離に寺社が集まるようすは新興住宅地のものではなく、三佐が歴史ある港町であることを伝えてくれます。
本来なら、「岡藩船三佐入港船絵馬」の奉納された 野坂(のさか・やさか)神社 を参拝しておくべきでしたが、ルートから外れていたため割愛しました。ここは別の機会に訪れてみたいです。
野坂神社訪問記はこちら→三佐 野坂神社から臨海産業道路の緑地を抜けて亀塚古墳へ(前編)

13:37 龍神社の横、乙津川の右岸堤防に戻ってきました。

13:40 続いて現れるのが日豊本線 乙津川橋梁。大分行きの「にちりん10号」が轟音を立てて渡っていきました。
日豊線の大分~幸崎間は1914年(大正3年)に開通しました(当時は日豊本線でなく豊州本線と呼んでいました)。乙津川橋梁はコンクリート橋でなく昔ながらのガーダー橋のため、電車の通過音が派手に響き渡ります。
現在地はこちら
地理院地図

13:53 乙津川橋梁の南側の土手はスイセンの花畑。せっかくなので次の電車まで待ってみました。

13:59 国道197号の乙津橋に出ました。ここで乙津川と別れ、国道を鶴崎駅に向かいます。
乙津橋は1955年(昭和30年)に開通したボーストリングトラス橋で、なかなかレトロな形状をしています。片側1車線で老朽化が進んでいることもあり、補修(架け替え?)が検討されているようです。

14:06 JR日豊本線 鶴崎駅に到着。当地で400年以上の歴史を持つ鶴崎踊のモニュメントが迎えてくれました。
現在地はこちら
地理院地図
駅の時刻表を見ると14:14の中山香行きがありましたが、遠路佐伯からやってくるので混雑していそうです。大分駅までのJR運賃230円は魅力ですが、立ちたくないのでバスでのんびり帰ることにします。

14:23 鶴崎駅前から大分バスD22系統 花高松・柳通り経由大分駅行きに乗車。海原橋を渡る系統は上り2本、下り1本のみの運転です(日祝日は運転無し)。大分駅までの運賃は420円です(本数の多い高城経由なら360円)。
----------------------------------------------------------------------
私はこれまで三佐の歴史についてほとんど予備知識がありませんでしたが、三角点探しから遠見山を知ったことで、三佐が岡藩の港町として栄えた歴史を学ぶことができました。大分の山好きにとって、岡藩の中川氏に縁のある山と言えば真っ先に大船山、続いて小富士山が思い出されますが、三佐とも深い縁があったことを知ることができたのは大きな収穫でした。
くじゅう・祖母傾・由布鶴見のような山域は国立公園・国定公園に指定されているため、江戸時代から現在までさほど風景が変化していないと思います。今回歩いた三佐地区は、この200年で風景が大きく変化した場所です。遠見山に登り、松原を抜け、乙津川堤防を歩いている間、常に過去(藩政時代のみならず、臨海工業地帯が形成される以前の昭和中期まで)の光景を脳内で再生しながら歩いていたと思います。こうした歴史を感じるウォーキングもなかなか良いものだと感じました。










小学校の運動会の応援歌(だいたい替え歌)は校歌と同じく地元の山や川が登場するのが興味深いですね。さて、最近の私は山歩きから逸脱してブラタモリ状態になりつつありますが、一記事の中にひとつは三角点か「〇〇山」と名のつく場所を入れてギリギリ体裁を整えています。