2022年6月2日(木)

道の駅小国から宮原線遊歩道を歩いて北里柴三郎記念館・下城滝へ (前編) からの続きです

小国→北里
本日の行程:道の駅小国(ゆうステーション)→幸野川橋梁→北里駅跡→北里柴三郎記念館→幸野川橋梁下→下城滝・鍋釜滝・下城の大イチョウ  (路線バスで戻る)

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11:36 現在地は北里(きたざと)駅跡の北側、国道387号の旧道沿いにある“駅前広場”
    ここから国道387号(バイパス)には戻らず、旧道を北里柴三郎記念館方面へ進みます。

現在地はこちら

地理院地図

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11:38 “駅前広場”から西へ150mほど進むと旧宮原線北里橋梁を望む三差路に着きます。

 北里橋梁は1938年(昭和13年)頃に竣工した延長60mのコンクリート製5連アーチ橋です。戦争による工事中断で宮原線(宝泉寺~肥後小国)の開業は1954年(昭和29年)まで待つことになりますが、橋梁部分は戦前に完成していたことになります。

 目指す北里柴三郎記念館へは右折しますが、北里橋梁の下を通る農道があるので、そこを歩いて橋梁を見上げてみたいと思います。

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11:39 橋梁下に残る「けたに注意」のプレート

 この橋の上を列車が走っていた頃、橋の下を通る道は国道387号だったわけで、大型車両の通行もあったことでしょう。角の部分はコンクリートが削られた跡がありました。

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旧道から見上げたコンクリートアーチ

 資材不足の時代に建設されたため鉄筋は入っていないそうですが、コンクリートから赤茶色の液が垂れた跡が確認できました。

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11:40 旧道から分岐する農道に入り、南側から北里橋梁を眺めてみました。

 かつては中央付近の南北に杉の木があってアーチが見えにくかったそうですが、現在では両側とも伐採されてスッキリとした外観になりました。

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北里橋梁のアーチ径間は10mとのことなので、列車が走るとこんな感じだったのでしょう。

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農道から見上げた北里橋梁

 石造アーチ橋と同じように、拱環(こうかん・きょうかん)(アーチ環)部分と側壁部分が別パーツで造られていることがわかります。その継ぎ目部分から木が生えているのは御愛嬌。歩道橋としての使用なら強度的に問題ないのでしょう。

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11:41 北西側から見上げた北里橋梁
   線路は緩い曲線を描いているのですが、橋の下からだとわかりづらいものです。

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11:42 農道は県道318号に合流。西へ100mも進むと北里柴三郎記念館の下に着きます。

 画像のバスベイは観光客の乗降用に整備されたものでしょうか(廃止された路線バスは 西村方面←→奴留湯方面 の道を走っていたので、画像のバスベイは使用しなかった)。2024年から発行される新千円札に北里柴三郎博士の肖像が採用されたため、記念館を訪れるツアーもこれから増えていくのでしょう。

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駐車場も完備されていますが、国道387号から少し入るので気づきにくいかもしれません。

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11:43 北里柴三郎記念館へ入ります(受付は画像に写っていない右側の建物)。

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地理院地図

以下、小国町HPより引用します

北里柴三郎記念館
 小国町出身である故北里柴三郎博士の生家や、博士から小国町に寄贈された北里文庫(図書館)を改修し、偉業をたたえているのが北里柴三郎記念館です。
 この施設は生前、博士が大正5年に建てた貴賓館、北里文庫があった敷地に、昭和62年、博士の学問を受け継ぐ北里研究所、北里学園が中心になって博士の生家の復元修復を行うとともに、北里文庫の建物を利用して博士に関する遺品などを陳列し、小国町に寄贈されたものです。


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北里柴三郎記念館の入館料は大人(個人)で400円です。

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主な見学施設は 旧北里文庫・貴賓館・生家 の3棟です。

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受付棟の隣の洋館が旧 北里文庫 です。

以下、小国町HPより引用します

北里文庫
 大正5年(1916)、博士が私財1万円余を投じて、郷里の青少年に贈りました。当時、熊本県立図書館につぐ大図書館と言われ、蔵書数1,511冊と記録にあり、終戦時までよく利用されました。木造洋風建築120平方メートル。
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 当時の1万円は現在の3000万円ほどの価値だといわれています。東京でなく郷里の熊本県に、しかも熊本市街地から遠く離れた(歩けば2日かかる距離)北里に、県立図書館に匹敵するような図書館を建設した北里柴三郎博士。才能や資金に恵まれて東京に集まってきた学生だけにでなく、郷里の若者にも学習の機会を提供した姿勢は特筆すべきことと思います。
 現在、旧北里文庫の建物は北里柴三郎博士の生い立ちや功績、ゆかりの品々を展示した資料館として使用されています(館内は撮影禁止)。
 
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北里文庫の横に建てられた日本家屋が貴賓館です。

以下、小国町HPより引用します

貴賓館
 北里文庫建設と同時に建てられた和風木造2階建物で、小国杉の大木によって建てられています。大正5年8月10日の落成式には、博士は一家をあげて参列し、ここで数日過ごされました。
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 ここも靴を脱いで館内を見学できるようになっているので、お邪魔してみましょう。

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貴賓館の一階は縁側が開放されて外からも見学が可能です。

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貴賓館二階へ続く階段

 私の実家にあった急な階段を思わせるような懐かしい雰囲気です。こちらはスペースを有効利用するため上部で右に曲がっているのが特徴です。

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二階の広間

 北側と東側の雨戸や障子がすべて開け放たれ、北里地区と涌蓋山を一望することができます。訪問時は初夏の風が吹き抜けており、何時間でも過ごしていたくなるような心地よさ。「〇〇楼」と名付けたくなるような素敵な建物です。ただ、毎日朝晩に何枚もの雨戸と障子を開け閉めするのは管理人の方にとっては大変な作業ではないかと思います。

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貴賓館二階の縁側から眺めた涌蓋山(わいたさん)(標高1500m)と北里地区

 中央左に見えるのは旧北里小学校(2009年閉校)ですが、北里柴三郎は1853年(嘉永5年)の生まれのため、まだこの小学校はできていません(創立は1873年)。柴三郎は8歳の時から2年間、伯母の嫁ぎ先の橋本家(現在の南小国町)に預けられて、その後の4年間は森藩士の娘であった母の実家(現在の玖珠町)に預けられていたため、少年期に北里で過ごした時間は長くなかったようです。

 それでも北里川の流れと涌蓋山の姿は柴三郎博士の原風景として残っていたはずで、北里文庫や貴賓館をこの地に建てたのも、両親や北里地区への感謝の思いからだったのではないかと思います。

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貴賓館二階の縁側から眺めた北里柴三郎生家(その一部を移築したもの)

 その後方を宮原線の築堤が横切っていますが、ここを最初に列車が走ったのは博士が1931年(昭和6年)に亡くなってから23年後(昭和29年)のこと。東京から帰京した博士が北里駅で降り立って故郷に錦を飾るという光景は実現しませんでしたが、北里文庫の設立で故郷に貢献しましたし、細菌の研究で世界中の人々の健康に貢献したことは周知のとおりです。
 
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続いて北里柴三郎博士生家を見学します

以下、小国町HPより引用します

博士の生家の一部
 明治28年(1895)両親を東京に呼び、空き家となっていた生家を昭和40年の河川の改修工事にあわせて移築・復元されたものです。現存するのはその一部です。


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整然とした生家の内部
奥の部屋から柴三郎の父 惟保(これのぶ)、母 貞(てい)の写真がこちらを見つめています。

  父の惟保は北里村の庄屋を務めていたため、当時としても立派な家だったのでないかと思います。移築された生家には家財道具が置かれていないためガランとした印象を受けますが、柴三郎が両親と暮らしていた時代もこのように整然と片付けられていたのではないかと個人的には思います(柴三郎が伯母の嫁ぎ先に預けられていた時は縁側を磨き上げるのが日課だったそうです)。

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生家の前から眺めた貴賓館(手前)と旧北里文庫(奥)

奥に見える2本の杉の木は1916年(大正5年)に北里柴三郎夫妻が手植えしたものです。

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旧北里文庫の建物と続く土蔵

この土蔵は書庫として使用されていたもので、現時点では非公開となっています。

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最後に北里柴三郎博士の胸像と涌蓋山を一枚

この風景の中から世界に誇る細菌学者が生まれたのかと思うと感慨深いです。

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12:17 北里柴三郎記念館を辞して県道318号北里宮原線を西へ進みます。

 この県道は途中の幸野川橋梁までは旧国鉄宮原線跡と並走します。2019年5月に涌蓋山に登った帰り、岳の湯発ゆうステーション行の産交バスでこの県道を通ったのですが、岳の湯線は2020年3月に廃止となってしまいました。この先は、鉄道だけでなくバスの廃線跡も巡るウォーキングとなります。

2019年5月の記録→黒川温泉から平野台・ウィンドファーム・涌蓋山を経て岳の湯へ (前編) (後編)

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12:22 記念館から0.4km、峠の手前で県道は旧国鉄宮原線跡を跨ぎます。

 すぐ下には先ほど通りぬけてきた北里トンネルが口を開けています。蒸気機関車時代は煤煙の直撃を食らいそうな場所ですが、当時はマイカーがあまり普及していなかったため、実際に煙を浴びた人は少なそうです。

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12:24 国鉄がトンネルで越える稜線を県道は切り通しでクリアします。

 かつてはトンネルでもあったのかと昔の航空写真を見てみましたが、昭和50年頃の時点では切り通しだったようです。

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12:29 峠の切り通しから0.5kmで今度は県道が旧国鉄宮原線跡の下をくぐります。

 12:22のトンネル入口の画像もこちらの画像も左側が北里駅方向、右側が肥後小国駅方向です。事情を知らないと「あれっ!?」となりますが、12:24の画像切り通しの先で県道が鉄道の北里トンネルの上を通っているため、県道と鉄道跡の交差はこれで3回目ということになります。

現在地はこちら

地理院地図

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跨道橋の橋台に貼られた標識

 前述のように橋桁は鉄道廃止後に載せ替えられていますが、ここだけ見ると昭和30年代から時が止まったままのようです。

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12:39 左から樅木(もみき/もみのき)の流れが近づいてくるとまもなく幸野川(こうのがわ)橋梁です。

 樅木川に架かる橋なのに幸野川橋梁というのが不思議ですが、ここから南東に直線距離で2.7km離れた上流の上田(かみだ)地区に幸野大神宮という神社があるので、幸野川というのは樅木川の別名のようです。

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12:39 記念館から1.9kmで旧国鉄宮原線 幸野川(こうのがわ)橋梁の下に到着

 幸野川橋梁は1939年(昭和14年)頃に竣工した延長112mのコンクリート製6連アーチ橋です。北里橋梁と同じく戦前に竣工していた橋ですが、戦争の激化で工事は中断し(1943年(昭和18年)には宮原線の既開通区間(宝泉寺~恵良)も営業休止となった)、ここを営業列車が走るのは1954年(昭和29年)まで待たなければなりませんでした。

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地理院地図

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幸野川橋梁の最大の特徴はアーチの間に透かし穴があること

 旧国鉄宮原線跡に残る7ヶ所のコンクリートアーチ橋の中で透かし穴が設けられているのはここだけです。透かし穴があっても強度的には問題ないようで、デザインの一つとして設けられたものでしょうが、コンクリートの節約という目的もあったのかもしれません。

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直下から見上げると威圧感のあるコンクリートアーチ
高さは不明ですが近くの電柱より高いので15mほどでしょうか。

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12:42 西側から眺めた6連アーチの幸野川橋梁

 5本の橋脚のうち中央の3本には3つの透かし穴、両端の2本には2つの透かし穴があります。これは6つのアーチのうち、中央の4つ(径間20m)と両端の2つ(径間10m)のサイズが異なるため、両端2本の橋脚が左右非対称になってしまうことから生じた違いです。

 幸野川橋梁も北里橋梁と同じく2004年(平成16年)に国の登録有形文化財(建造物)となっています。

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12:43 田んぼの水鏡に映る幸野川橋梁
   この角度だと背景の杉林に埋没してしまいます。もう少し川の近くから眺めてみましょう。

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12:44 樅木川の上から眺めた幸野川橋梁

 ここからだとアーチ橋が空に浮き立ちました。これだけでも風景として絵になりますが、やはり一度でいいから橋の上を走る列車を生で眺めてみたかったものです。

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眼鏡橋のように見えるのは水鏡の時期ならではです。

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中央4つのアーチの径間が20mということなので、国鉄のディーゼルカー1両分となります。
現役当時の光景を勝手にイメージしてみました。

道の駅小国から宮原線遊歩道を歩いて北里柴三郎記念館・下城滝へ (後編) へ続きます