2022年5月3日(火)
犬飼駅から天面山・水ノ元を経て黒松阿蘇神社へ (前編) からの続きです
本日の行程:犬飼駅→伊与床→天面山→水ノ元→黒松阿蘇神社→山田バス停 (路線バスで戻る)
13:07 現在地は水ノ元の手前(北側)の十字路
現在地はこちら
地理院地図
十字路に掲げられた道標
天面山 3.5km とは西側の遊歩道入口までの距離のことで、山頂まではさらに遊歩道を0.7km歩く必要があります。また 栗ケ畑 4.6km とは栗ヶ畑の尾平地区までのことで、栗の木バス停まではさらに1.5km歩かねばなりません(前回はこれで時間を読み間違え、全力で走らされることになりました)。また、これから進む黒松方面への距離の記載はありませんが、山田バス停まで5.9kmの道のりです(阿蘇神社を往復すると追加で0.4km)。
なお、林道宇津尾木栗ヶ畑線を下ると 犬飼商店街 10km (犬飼駅までさらに0.9km)とありますが、先ほど天面山経由で歩いてきた距離が10.5kmでしたので、駅へ戻るならかえって遠回りとなります。
十字路に佇む お地蔵様(道標を兼ねたもの)
お地蔵様の道標の右側には
慶應辰四年 正月吉日 楠郡上且村 村■■(判読できず) 女ふじ
と刻まれています。
慶応4年1月といえば戊辰戦争の始まった時期。その年の9月に江戸時代が終わり、明治に改元されています。この時期に幕府(西国筋郡代)領 上且村(現在の玖珠郡九重町右田上旦(かみだん))の夫婦が、どういった理由で水ノ元に地蔵を寄進したのか気になるところです。
13:08 十字路から南へ50mほどで右手に杉の巨木があります。
巨木の下には弘法大師像が祀られ、その正面に丸い池があります。
これが水ノ元の名前の由来となった湧水です。
丸い池とは別に杉の巨木の根元には小さな池がいくつかあります。
こちらが根元に一番近い遊水地
杉の木から水が湧いているように錯覚しそうです。
水の元の伝説
大同元年(八〇五年)この地に弘法大師が訪れました。なにしろ高い所(標高五四八、五米)に登ってこられましたので喉が渇いて仕方がない、なんとかして水を呑みたいと思っていたところ、ふと村人を見つけました。大師様が「喉が渇いた、水は無かろうか」と所望しました。
そのとき村人は「ハイすぐお持ちします」といってすぐさま下の谷まで駆けおりて、竹の筒に一杯の水を汲んでフウフウ言いながら汗ビッショリになって駆け上り、大師様にその水をさし上げました。
大師様は、水をいかにもおいしそうにゴクリゴクリと一気に呑み干されて、その村人に「この地に水がないとは不便じゃのう。わしがお礼に水を出してあげよう」と、持っておられた杖で、地面を二、三回叩くと、あれふしぎや、この高い所に清水がコンコンと湧き出てきました。
その後、この地に水が絶えることがありません。地方の人々は干ばつが続くと、雨乞いのためにここに水貰いに来るようになったと言うことであります。
これは、土地の古老に語り伝えられている伝説を申しのべました。何か教えられるものがあります。
昭和五十七年一月十五日 犬飼町長 大塚辰夫 建立
村人に水を汲みに行かせる前に杖で叩いて水を出してあげればよかったのに、と突っ込みたくなるお話ですが、弘法大師様はこの村人の優しさに心打たれたからこそ、水を出してあげようと思ったのでしょう。
ここは山頂からの比高が30mほどしかない場所です。地形的に谷になっているわけでもなく、集水面積は50m四方ほどしかありません。普通に考えると水が湧きにくい場所だけに、こんな伝説が生まれたのでしょう。
杉の巨木はのちに御神木として植えられたものだと思いますが、この巨木が降った雨をキープして少しずつ水を湧き出させているのではないか?と考えたくなるほど神秘的な光景です。
13:11 湧水のすぐ先の左手に広場があり、傍らに石碑が立っています。
石碑は三岳道路開通記念碑
表面には 昭和四十九年五月竣工 犬飼町長 後藤栄 書 とあり、その下には
「元三ノ岳在住者」19名の名前が刻まれています。
地理院地図の航空写真(1974-1978)で確認すると、当時 水ノ元の山頂付近に達している車道は黒松東地区からの1本のみなので、「三岳道路」とは今歩いている市道宮脇三ノ岳線を意味しているのでしょう。また、現在水ノ元や三ノ岳周辺に集落はありませんが、「元三岳在住者」と刻まれているのが気になって同じ航空写真で調べてみると、三ノ岳の東側の標高400~500m付近に集落があったことがわかりました。
広場から眺めた犬飼町中心部方面
同じ方向をアップで
碁盤ヶ岳の横に見える白い山肌は石灰石採掘場、烏岳の左に見える茶色い山肌は小松製作所の実用試験場、中央手前の山肌は砕石場です。
広場に掲げられた三ノ岳なかよしパークの案内図
三ノ岳なかよしパークは1992年(平成4年)に開園した犬飼町営の公園で、かつてはバンガローや炊事施設のあるキャンプ場や各種遊具が設置された こども広場がありましたが、2016年(平成28年)に休園(2年後に閉園)となりました。現在では管理棟を残して遊具類は撤去されており、当時の賑わいを偲ぶことは難しくなっています。
なお、犬飼町の人々は水ノ元三角点(標高546.2m)・546m標高点ピーク・地形図に記載されている三ノ岳(標高536m)を総称して三ノ岳と呼んでいます。今回の私は三ノ岳ピーク(536m標高点)・三ノ岳三角点(標高493.4m)ともにスルーしますが、水ノ元三角点を訪問しているので、地元で認識される“三ノ岳”には登ったことになります。
13:13 広場をあとに黒松方面へ進むとすぐ右手の法面に階段があります。
水ノ元の山頂(三角点)を目指す場合は この階段を登ります。
この階段は三ノ岳尺間嶽の参道となっています。
13:15 尺間神社に続く石段は水平距離30mで標高差22mというなかなかの急登です。
13:16 石段を登った山頂部に三ノ岳尺間嶽がまつられていました。
尺間嶽の鮮やかな天井画
犬飼の神社らしく、鮎の絵も描かれています。
13:18 尺間嶽から南西へ60m進むと犬飼町防災行政無線中継施設があります。
三角点は中継施設のフェンスの南側の木の下に設置されています。
13:19 四等三角点(点名:水ノ元) 現在の標高は546.2mです
現在地はこちら
地理院地図
三角点の南側の山頂部には犬飼星(いぬかいぼし)の見える天文台があります。
※「犬飼、星の見える天文台」でなく、「犬飼星、の見える天文台」
調べてみると「犬飼星」とは わし座の α星「アルタイル」のこと(明るさの等級は一等星)。現在の日本では七夕伝説の「牽牛星」や「彦星」として親しまれていますが、奈良時代に七夕伝説が中国から伝わる以前は「犬飼星」と呼ばれていたそうです。
犬飼星の見える天文台は1991年(平成3年)4月にオープンした県内初の一般入場のできる天文台です。
当時は各種イベントも行われて来館者も多かったそうですが、気象条件の厳しい山頂部に立地していることで維持や修理に費用がかかることが多く、近年は町村合併による予算の削減もあって、2016年(平成28年)より休館となっています。
夜空の星を望遠鏡で眺めることは叶いませんが、水ノ元の山頂部に立地するだけに、天文台の外周のテラスからは300度近いパノラマを満喫することができます。
天文台から東方向の眺め
天文台から南東方向の眺め
天文台から南西方向の眺め
地形図での三ノ岳(標高536m)が間近に見えています。
天文台から西方向の眺め
ミニ天文台のようなドームが気になりますが、近づいても窓がなくて正体不明でした。なお、地吉の先には 大分市のつはる少年自然の家 があり、そちらにも天体観測ドームが設置されています。
天文台から北西方向の眺め
天文台から北方向の眺め
天文台から北東方向(海の方向)だけは木々に遮られて見えないのが惜しいです。
13:36 犬飼星の見える天文台を出発。南方向へ舗装路を下ります。
13:38 舗装路から振り返った犬飼星の見える天文台
規模は小さいものの、かつての乗鞍コロナ観測所を彷彿させるドームが印象的です。
13:42 天文台から6分で市道宮脇三ノ岳線に合流
天文台への舗装路はチェーンゲートが設置されているため、車両の乗り入れはできません。
現在地はこちら
地理院地図
13:57 市道宮脇三ノ岳線沿いに残る ←三ノ岳なかよしパーク の標識
現在地はこちら
地理院地図
地形図に「三ノ岳」と記された標高536mピークの東側を巻くあたりです。現在、この付近はスギの人工林となっており人の気配はありませんが、前述のように、かつてこの付近には三ノ岳集落が存在していたのです。
現在地の過去の航空写真
地理院地図(1974-1978)
14:02 かつて集落が存在したとは信じられないほど暗い杉林が続きます。
前述の三岳道路開通記念碑 に「元三岳在住者」の名前が刻まれていることから、昭和49年の記念碑建立時点で三ノ岳集落から人々が離れていた可能性が高いです。
14:05 こちらは標高493.4mの四等三角点(点名:三ノ岳)への取り付き点
現在地はこちら
地理院地図
三ノ岳は地形図に記載された山頂(標高536m)とは別の場所に同名の三角点があります。また、一般に「三ノ岳」と呼ばれるエリア(三ノ岳なかよしパーク・犬飼星の見える天文台)には標高546.2mの四等三角点(点名:水ノ元)があり、ちょっとややこしいことになっています。
冬枯れの時期であれば、三ノ岳山頂や三角点を訪問してみたいのですが、マダニが活発な時期なのでやめておきます。
14:07 三ノ岳なかよしパーク(≒水ノ元)から2km地点を通過
14:15 市道左手に見えるのは 土砂災害発生監視システム 犬飼雨量観測局
これは気象庁のアメダス(犬飼公民館近くに設置)ではなく、大分県三重土木事務所が設置したものです。同様のものは臼杵市野津町の白山神社近くでも見かけました。
14:17 雨量観測局を過ぎると柴北川の谷を一望できるポイントに出ます。
市道脇に建つ 展望台→ の看板
そんな施設がありそうには思えませんが・・・
14:18 市道脇の斜面の樹林の中に“展望台”を支える鉄骨が見えていました。
この時期は前述の看板がないと展望台の存在に気づくことはないでしょう(仮に見えていても登ってみようとは思えないほど老朽化しています)。
現在地はこちら
地理院地図
14:18 “展望台”付近から眺めた柴北川の谷
たしかに良い風景ですが、三ノ岳なかよしパーク・天文台まで行けばさらに好展望が楽しめますし、ここには駐車場がありません。この道を人が歩くのは旧長谷小学校の児童が遠足で訪れた時ぐらいでしょう。現在ではゴールデンウイークでさえ車が通らない道ですが、そんな場所に展望台を設けるだけのパワーが平成初期という時代には存在していたのです。
14:19 展望台付近から眺めた千歳方面
麓から全体像をつかみにくい石田山が、ここからだとよく見えます。
14:20 三ノ岳なかよしパーク(≒水ノ元)から2.8km地点を通過
秋の遠足ではこの看板に励まされた子どもたちも多かったことでしょう。
14:23-29 同行者の足が痛くなったのでちょっと休憩
今日の行程は天面山の遊歩道(約850m)を除いて舗装路歩きなので、そうした道が苦手な方にはハードな行程と言えるかもしれません。
休憩中に眺めた祖母傾の山なみ
手前に見えるのは千歳町と大野町にまたがる低山群ですが、web上の記録を拝見すると ある意味で祖母傾以上にハードな登山を強いられるようです。
休憩中に眺めた柴北川の谷
県道632号中土師犬飼線の姿をはっきり捉えることができるようになりました。
この先、市道宮脇三ノ岳線は昭和49年の開通と同時に造成された三ノ岳カボス園の中をヘアピンカーブを描きながら下っていきます。
14:58 民家の横を通過。ようやく里に下りてきたことを実感します。
15:00 天文台から4.9kmで市道が二手に分かれますが、ここは右折します。
センターラインの白線は左のほうに引かれていますが、市道宮脇三ノ岳線は右へ進みます。地理院地図の航空写真(1974-1978)に左の道は写っていませんでしたので、そちらは後年に建設されたバイパスのようです(道の名称は不明)。
現在地はこちら
地理院地図
15:04 三ノ岳なかよしパーク(≒水ノ元)から5.5km地点を通過
15:11 15:00に通過した分岐から0.8kmで県道632号中土師犬飼線に出ます。
市道宮脇三ノ岳線はここが起点。地形図に記載はありませんが、このあたりの小字を宮脇(阿蘇神社に因む地名か)と呼ぶのでしょう。ゴールの山田バス停は左折して0.2km先ですが、まずは阿蘇神社に参拝したいので右折します。
現在地はこちら
地理院地図
15:13 県道を西へ130mほど進むと右手にイチョウの木と鳥居が見えてきます。
ここが阿蘇神社への参道の入口で、こちらは3基ある鳥居の最初のものです。
この鳥居こそが南北時代に建立されたとされる鳥居です。
建立年を示す文字は彫られていませんが、その特徴的な形状や阿蘇神社に伝わる文書から南北朝時代(1360年代?)に建立されたものとされています。
鳥居の大きさと比較して二本の柱が妙に太かったり、その柱も角ばっていたりして、見るからに古そうな鳥居であることは分かりますが、それが戦国時代や室町時代を飛び越えて南北朝時代のものだったとは。建立から約660年ということは人間だと少なくとも20回は世代交代しているはずなので、途方もなく長い歳月ということになります。
慶長地震も南海地震も耐え抜いた鳥居
素朴な形状でありながら、計算され尽した強靭さ感じます。また、額束の部分が丸いのが新鮮です。
鳥居の隣の灯籠
昭味癸酉(みずのととり・きすいのとり・きゆう)八年 とあるので、昭和8年(1933年)建立のようです。
15:16 参道を進むと二番目の鳥居があります。
こちらは笠木の反りが大きく、今風の鳥居という感じがします。
鳥居に刻まれた 奉 昭和三年四月十九日建立 の文字
“今風”の鳥居といっても戦前のもの。南北朝時代の鳥居を見た後だと時代の感覚が違ってきますね。
二つ目の鳥居の扁額には阿蘇神社と刻まれていました。
黒松の阿蘇神社は南北朝時代~室町時代前期に肥後国の守護であった阿蘇惟村(あそこれむら)(出生年不詳-1406)によって創建されたとされる神社で、全国に約450社あるとされる阿蘇神社の一つです。当時の井田郷長谷村は阿蘇惟村の所領となっていましたが、惟村が所領を(肥後一の宮の)阿蘇神社に寄進した際にその分霊を勧請したとされています。
15:17 二つ目の鳥居のすぐ先に三つ目の鳥居が建っています。
三つ目の鳥居の扁額には 大明神 と刻まれています。
15:17 狛犬の間を抜けて阿蘇神社の拝殿に参拝
現在地はこちら
地理院地図
拝殿に掲げられた額
「敬」「神」はわかりますが、あと二文字は何と書かれているのでしょう。
拝殿の天井画
こちらは草花の絵が多いようです。
15:43 南北朝時代の鳥居の前を河面(かわも)行きのバスが通過
折り返しの犬飼駅行きは26分後なので、そろそろ山田バス停に移動しましょう。
15:51 阿蘇神社から県道を東へ0.4kmでゴールの山田バス停(標高84m)に到着
バス停の目の前には長谷簡易郵便局と たばこ店があります(飲料水の自販機完備)。
現在地はこちら
地理院地図
犬飼駅方面の乗り場は向かい側ですが、郵便局前のベンチを利用できるのがありがたいです。
犬飼駅~河面線は平日5往復(うち1往復は山内で折り返し)、土日祝日2往復の運転です。
16:17 山田バス停を出発。貸切兼用の豪華なバスで犬飼駅へ。
約17kmの行程を歩き通した御褒美でしょうか。最後に遠足気分が盛り上がります。
16:30 終点 犬飼駅で下車。山田からの運賃は260円でした(交通系ICカード非対応)
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今回登った天面山・水ノ元とも山頂近くまで車道が通じているため、車やバイクを使えば駐車地点から徒歩数分で三角点に到達できますが、こうした遠足スタイルで麓から歩いてみると、標高500m前後の山とは思えないほどのスケールの大きさを感じます。天面山の山城にこもった戦国武将たち、水ノ元へ額に汗して登った弘法大師、そんな大師に水を提供した村人。彼らの気持ちに少しでも近づくことができたのであれば、この山登りが成功であったのではないかと考えます。
また、天面山・水ノ元 ともに他のハイカーに会うことはなく、予想通り静かな連休を楽しむことができました。一方、天面山の麓の伊与床地区、三ノ岳の麓の黒松地区には意外なほど人の姿が多く、予想と違って活気ある山里の光景を目にすることになりました。伊与床には深山流伊与床神楽、黒松阿蘇神社には浅草流黒松神楽がありますが、それらが末永く伝承されていくことを願ってやみません。
犬飼駅から天面山・水ノ元を経て黒松阿蘇神社へ (前編) からの続きです
本日の行程:犬飼駅→伊与床→天面山→水ノ元→黒松阿蘇神社→山田バス停 (路線バスで戻る)
13:07 現在地は水ノ元の手前(北側)の十字路
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地理院地図
十字路に掲げられた道標
天面山 3.5km とは西側の遊歩道入口までの距離のことで、山頂まではさらに遊歩道を0.7km歩く必要があります。また 栗ケ畑 4.6km とは栗ヶ畑の尾平地区までのことで、栗の木バス停まではさらに1.5km歩かねばなりません(前回はこれで時間を読み間違え、全力で走らされることになりました)。また、これから進む黒松方面への距離の記載はありませんが、山田バス停まで5.9kmの道のりです(阿蘇神社を往復すると追加で0.4km)。
なお、林道宇津尾木栗ヶ畑線を下ると 犬飼商店街 10km (犬飼駅までさらに0.9km)とありますが、先ほど天面山経由で歩いてきた距離が10.5kmでしたので、駅へ戻るならかえって遠回りとなります。
十字路に佇む お地蔵様(道標を兼ねたもの)
お地蔵様の道標の右側には
慶應辰四年 正月吉日 楠郡上且村 村■■(判読できず) 女ふじ
と刻まれています。
慶応4年1月といえば戊辰戦争の始まった時期。その年の9月に江戸時代が終わり、明治に改元されています。この時期に幕府(西国筋郡代)領 上且村(現在の玖珠郡九重町右田上旦(かみだん))の夫婦が、どういった理由で水ノ元に地蔵を寄進したのか気になるところです。
13:08 十字路から南へ50mほどで右手に杉の巨木があります。
巨木の下には弘法大師像が祀られ、その正面に丸い池があります。
これが水ノ元の名前の由来となった湧水です。
丸い池とは別に杉の巨木の根元には小さな池がいくつかあります。
こちらが根元に一番近い遊水地
杉の木から水が湧いているように錯覚しそうです。
水の元の伝説
大同元年(八〇五年)この地に弘法大師が訪れました。なにしろ高い所(標高五四八、五米)に登ってこられましたので喉が渇いて仕方がない、なんとかして水を呑みたいと思っていたところ、ふと村人を見つけました。大師様が「喉が渇いた、水は無かろうか」と所望しました。
そのとき村人は「ハイすぐお持ちします」といってすぐさま下の谷まで駆けおりて、竹の筒に一杯の水を汲んでフウフウ言いながら汗ビッショリになって駆け上り、大師様にその水をさし上げました。
大師様は、水をいかにもおいしそうにゴクリゴクリと一気に呑み干されて、その村人に「この地に水がないとは不便じゃのう。わしがお礼に水を出してあげよう」と、持っておられた杖で、地面を二、三回叩くと、あれふしぎや、この高い所に清水がコンコンと湧き出てきました。
その後、この地に水が絶えることがありません。地方の人々は干ばつが続くと、雨乞いのためにここに水貰いに来るようになったと言うことであります。
これは、土地の古老に語り伝えられている伝説を申しのべました。何か教えられるものがあります。
昭和五十七年一月十五日 犬飼町長 大塚辰夫 建立
村人に水を汲みに行かせる前に杖で叩いて水を出してあげればよかったのに、と突っ込みたくなるお話ですが、弘法大師様はこの村人の優しさに心打たれたからこそ、水を出してあげようと思ったのでしょう。
ここは山頂からの比高が30mほどしかない場所です。地形的に谷になっているわけでもなく、集水面積は50m四方ほどしかありません。普通に考えると水が湧きにくい場所だけに、こんな伝説が生まれたのでしょう。
杉の巨木はのちに御神木として植えられたものだと思いますが、この巨木が降った雨をキープして少しずつ水を湧き出させているのではないか?と考えたくなるほど神秘的な光景です。
13:11 湧水のすぐ先の左手に広場があり、傍らに石碑が立っています。
石碑は三岳道路開通記念碑
表面には 昭和四十九年五月竣工 犬飼町長 後藤栄 書 とあり、その下には
「元三ノ岳在住者」19名の名前が刻まれています。
地理院地図の航空写真(1974-1978)で確認すると、当時 水ノ元の山頂付近に達している車道は黒松東地区からの1本のみなので、「三岳道路」とは今歩いている市道宮脇三ノ岳線を意味しているのでしょう。また、現在水ノ元や三ノ岳周辺に集落はありませんが、「元三岳在住者」と刻まれているのが気になって同じ航空写真で調べてみると、三ノ岳の東側の標高400~500m付近に集落があったことがわかりました。
広場から眺めた犬飼町中心部方面
同じ方向をアップで
碁盤ヶ岳の横に見える白い山肌は石灰石採掘場、烏岳の左に見える茶色い山肌は小松製作所の実用試験場、中央手前の山肌は砕石場です。
広場に掲げられた三ノ岳なかよしパークの案内図
三ノ岳なかよしパークは1992年(平成4年)に開園した犬飼町営の公園で、かつてはバンガローや炊事施設のあるキャンプ場や各種遊具が設置された こども広場がありましたが、2016年(平成28年)に休園(2年後に閉園)となりました。現在では管理棟を残して遊具類は撤去されており、当時の賑わいを偲ぶことは難しくなっています。
なお、犬飼町の人々は水ノ元三角点(標高546.2m)・546m標高点ピーク・地形図に記載されている三ノ岳(標高536m)を総称して三ノ岳と呼んでいます。今回の私は三ノ岳ピーク(536m標高点)・三ノ岳三角点(標高493.4m)ともにスルーしますが、水ノ元三角点を訪問しているので、地元で認識される“三ノ岳”には登ったことになります。
13:13 広場をあとに黒松方面へ進むとすぐ右手の法面に階段があります。
水ノ元の山頂(三角点)を目指す場合は この階段を登ります。
この階段は三ノ岳尺間嶽の参道となっています。
13:15 尺間神社に続く石段は水平距離30mで標高差22mというなかなかの急登です。
13:16 石段を登った山頂部に三ノ岳尺間嶽がまつられていました。
尺間嶽の鮮やかな天井画
犬飼の神社らしく、鮎の絵も描かれています。
13:18 尺間嶽から南西へ60m進むと犬飼町防災行政無線中継施設があります。
三角点は中継施設のフェンスの南側の木の下に設置されています。
13:19 四等三角点(点名:水ノ元) 現在の標高は546.2mです
現在地はこちら
地理院地図
三角点の南側の山頂部には犬飼星(いぬかいぼし)の見える天文台があります。
※「犬飼、星の見える天文台」でなく、「犬飼星、の見える天文台」
調べてみると「犬飼星」とは わし座の α星「アルタイル」のこと(明るさの等級は一等星)。現在の日本では七夕伝説の「牽牛星」や「彦星」として親しまれていますが、奈良時代に七夕伝説が中国から伝わる以前は「犬飼星」と呼ばれていたそうです。
犬飼星の見える天文台は1991年(平成3年)4月にオープンした県内初の一般入場のできる天文台です。
当時は各種イベントも行われて来館者も多かったそうですが、気象条件の厳しい山頂部に立地していることで維持や修理に費用がかかることが多く、近年は町村合併による予算の削減もあって、2016年(平成28年)より休館となっています。
夜空の星を望遠鏡で眺めることは叶いませんが、水ノ元の山頂部に立地するだけに、天文台の外周のテラスからは300度近いパノラマを満喫することができます。
天文台から東方向の眺め
天文台から南東方向の眺め
天文台から南西方向の眺め
地形図での三ノ岳(標高536m)が間近に見えています。
天文台から西方向の眺め
ミニ天文台のようなドームが気になりますが、近づいても窓がなくて正体不明でした。なお、地吉の先には 大分市のつはる少年自然の家 があり、そちらにも天体観測ドームが設置されています。
天文台から北西方向の眺め
天文台から北方向の眺め
天文台から北東方向(海の方向)だけは木々に遮られて見えないのが惜しいです。
13:36 犬飼星の見える天文台を出発。南方向へ舗装路を下ります。
13:38 舗装路から振り返った犬飼星の見える天文台
規模は小さいものの、かつての乗鞍コロナ観測所を彷彿させるドームが印象的です。
13:42 天文台から6分で市道宮脇三ノ岳線に合流
天文台への舗装路はチェーンゲートが設置されているため、車両の乗り入れはできません。
現在地はこちら
地理院地図
13:57 市道宮脇三ノ岳線沿いに残る ←三ノ岳なかよしパーク の標識
現在地はこちら
地理院地図
地形図に「三ノ岳」と記された標高536mピークの東側を巻くあたりです。現在、この付近はスギの人工林となっており人の気配はありませんが、前述のように、かつてこの付近には三ノ岳集落が存在していたのです。
現在地の過去の航空写真
地理院地図(1974-1978)
14:02 かつて集落が存在したとは信じられないほど暗い杉林が続きます。
前述の三岳道路開通記念碑 に「元三岳在住者」の名前が刻まれていることから、昭和49年の記念碑建立時点で三ノ岳集落から人々が離れていた可能性が高いです。
14:05 こちらは標高493.4mの四等三角点(点名:三ノ岳)への取り付き点
現在地はこちら
地理院地図
三ノ岳は地形図に記載された山頂(標高536m)とは別の場所に同名の三角点があります。また、一般に「三ノ岳」と呼ばれるエリア(三ノ岳なかよしパーク・犬飼星の見える天文台)には標高546.2mの四等三角点(点名:水ノ元)があり、ちょっとややこしいことになっています。
冬枯れの時期であれば、三ノ岳山頂や三角点を訪問してみたいのですが、マダニが活発な時期なのでやめておきます。
14:07 三ノ岳なかよしパーク(≒水ノ元)から2km地点を通過
14:15 市道左手に見えるのは 土砂災害発生監視システム 犬飼雨量観測局
これは気象庁のアメダス(犬飼公民館近くに設置)ではなく、大分県三重土木事務所が設置したものです。同様のものは臼杵市野津町の白山神社近くでも見かけました。
14:17 雨量観測局を過ぎると柴北川の谷を一望できるポイントに出ます。
市道脇に建つ 展望台→ の看板
そんな施設がありそうには思えませんが・・・
14:18 市道脇の斜面の樹林の中に“展望台”を支える鉄骨が見えていました。
この時期は前述の看板がないと展望台の存在に気づくことはないでしょう(仮に見えていても登ってみようとは思えないほど老朽化しています)。
現在地はこちら
地理院地図
14:18 “展望台”付近から眺めた柴北川の谷
たしかに良い風景ですが、三ノ岳なかよしパーク・天文台まで行けばさらに好展望が楽しめますし、ここには駐車場がありません。この道を人が歩くのは旧長谷小学校の児童が遠足で訪れた時ぐらいでしょう。現在ではゴールデンウイークでさえ車が通らない道ですが、そんな場所に展望台を設けるだけのパワーが平成初期という時代には存在していたのです。
14:19 展望台付近から眺めた千歳方面
麓から全体像をつかみにくい石田山が、ここからだとよく見えます。
14:20 三ノ岳なかよしパーク(≒水ノ元)から2.8km地点を通過
秋の遠足ではこの看板に励まされた子どもたちも多かったことでしょう。
14:23-29 同行者の足が痛くなったのでちょっと休憩
今日の行程は天面山の遊歩道(約850m)を除いて舗装路歩きなので、そうした道が苦手な方にはハードな行程と言えるかもしれません。
休憩中に眺めた祖母傾の山なみ
手前に見えるのは千歳町と大野町にまたがる低山群ですが、web上の記録を拝見すると ある意味で祖母傾以上にハードな登山を強いられるようです。
休憩中に眺めた柴北川の谷
県道632号中土師犬飼線の姿をはっきり捉えることができるようになりました。
この先、市道宮脇三ノ岳線は昭和49年の開通と同時に造成された三ノ岳カボス園の中をヘアピンカーブを描きながら下っていきます。
14:58 民家の横を通過。ようやく里に下りてきたことを実感します。
15:00 天文台から4.9kmで市道が二手に分かれますが、ここは右折します。
センターラインの白線は左のほうに引かれていますが、市道宮脇三ノ岳線は右へ進みます。地理院地図の航空写真(1974-1978)に左の道は写っていませんでしたので、そちらは後年に建設されたバイパスのようです(道の名称は不明)。
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15:04 三ノ岳なかよしパーク(≒水ノ元)から5.5km地点を通過
15:11 15:00に通過した分岐から0.8kmで県道632号中土師犬飼線に出ます。
市道宮脇三ノ岳線はここが起点。地形図に記載はありませんが、このあたりの小字を宮脇(阿蘇神社に因む地名か)と呼ぶのでしょう。ゴールの山田バス停は左折して0.2km先ですが、まずは阿蘇神社に参拝したいので右折します。
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15:13 県道を西へ130mほど進むと右手にイチョウの木と鳥居が見えてきます。
ここが阿蘇神社への参道の入口で、こちらは3基ある鳥居の最初のものです。
この鳥居こそが南北時代に建立されたとされる鳥居です。
建立年を示す文字は彫られていませんが、その特徴的な形状や阿蘇神社に伝わる文書から南北朝時代(1360年代?)に建立されたものとされています。
鳥居の大きさと比較して二本の柱が妙に太かったり、その柱も角ばっていたりして、見るからに古そうな鳥居であることは分かりますが、それが戦国時代や室町時代を飛び越えて南北朝時代のものだったとは。建立から約660年ということは人間だと少なくとも20回は世代交代しているはずなので、途方もなく長い歳月ということになります。
慶長地震も南海地震も耐え抜いた鳥居
素朴な形状でありながら、計算され尽した強靭さ感じます。また、額束の部分が丸いのが新鮮です。
鳥居の隣の灯籠
昭味癸酉(みずのととり・きすいのとり・きゆう)八年 とあるので、昭和8年(1933年)建立のようです。
15:16 参道を進むと二番目の鳥居があります。
こちらは笠木の反りが大きく、今風の鳥居という感じがします。
鳥居に刻まれた 奉 昭和三年四月十九日建立 の文字
“今風”の鳥居といっても戦前のもの。南北朝時代の鳥居を見た後だと時代の感覚が違ってきますね。
二つ目の鳥居の扁額には阿蘇神社と刻まれていました。
黒松の阿蘇神社は南北朝時代~室町時代前期に肥後国の守護であった阿蘇惟村(あそこれむら)(出生年不詳-1406)によって創建されたとされる神社で、全国に約450社あるとされる阿蘇神社の一つです。当時の井田郷長谷村は阿蘇惟村の所領となっていましたが、惟村が所領を(肥後一の宮の)阿蘇神社に寄進した際にその分霊を勧請したとされています。
15:17 二つ目の鳥居のすぐ先に三つ目の鳥居が建っています。
三つ目の鳥居の扁額には 大明神 と刻まれています。
15:17 狛犬の間を抜けて阿蘇神社の拝殿に参拝
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拝殿に掲げられた額
「敬」「神」はわかりますが、あと二文字は何と書かれているのでしょう。
拝殿の天井画
こちらは草花の絵が多いようです。
15:43 南北朝時代の鳥居の前を河面(かわも)行きのバスが通過
折り返しの犬飼駅行きは26分後なので、そろそろ山田バス停に移動しましょう。
15:51 阿蘇神社から県道を東へ0.4kmでゴールの山田バス停(標高84m)に到着
バス停の目の前には長谷簡易郵便局と たばこ店があります(飲料水の自販機完備)。
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犬飼駅方面の乗り場は向かい側ですが、郵便局前のベンチを利用できるのがありがたいです。
犬飼駅~河面線は平日5往復(うち1往復は山内で折り返し)、土日祝日2往復の運転です。
16:17 山田バス停を出発。貸切兼用の豪華なバスで犬飼駅へ。
約17kmの行程を歩き通した御褒美でしょうか。最後に遠足気分が盛り上がります。
16:30 終点 犬飼駅で下車。山田からの運賃は260円でした(交通系ICカード非対応)
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今回登った天面山・水ノ元とも山頂近くまで車道が通じているため、車やバイクを使えば駐車地点から徒歩数分で三角点に到達できますが、こうした遠足スタイルで麓から歩いてみると、標高500m前後の山とは思えないほどのスケールの大きさを感じます。天面山の山城にこもった戦国武将たち、水ノ元へ額に汗して登った弘法大師、そんな大師に水を提供した村人。彼らの気持ちに少しでも近づくことができたのであれば、この山登りが成功であったのではないかと考えます。
また、天面山・水ノ元 ともに他のハイカーに会うことはなく、予想通り静かな連休を楽しむことができました。一方、天面山の麓の伊与床地区、三ノ岳の麓の黒松地区には意外なほど人の姿が多く、予想と違って活気ある山里の光景を目にすることになりました。伊与床には深山流伊与床神楽、黒松阿蘇神社には浅草流黒松神楽がありますが、それらが末永く伝承されていくことを願ってやみません。