立ち尽くしていた。セブンイレブンの駐車場だ。途方に暮れる他ない。地球上の金木犀がいっぺんに開花したのではないかというほどの強い香りだった。金木犀の匂いは、静寂に溶ける。夜にしか匂わないのはそんなわけだ。演出過剰だ。センチメンタルを強いられている。沈黙が騒々しい。別に、浸るような記憶もないが、黙って通り過ぎるのは無粋が過ぎる。ただ晩御飯を買いに来ただけなのだ。ここで立ち止まる道理はない。が、立ち尽くす他なかった。感傷に暮れたわけではない、ただ、これも礼儀だ。秋は短い。知らん顔して通り過ぎるわけにもいくまい。煙草を一本吸ってから用事を済ませるくらいの余裕はあっていい。

諸君、息災かい。結構。なによりだ。武運を祈るよ。

さて、このコンビニの前にはやけに趣のある家がある。向こう三軒両隣軒並み普通の民家なのだが、その家だけ明らかに世界観が違う。古い日本家屋だが、よくある古民家とはまた風情が違う。趣深さを、狙ってやっている感じがする。意図的に時間が止めてある。こんな家に住んでいるのは蟲師か京極夏彦くらいだと思う。洋服で入ったらなんらかの術が解けて更地になりそうな気配すらある。人が住んでいるのかはわからないけど、和服を着ていてくれないと話が合わん。人ならざる何かが住んでいるかもしれない。その家の庭に、立派な金木犀の木があった。匂いの正体はこいつだ。これが金木犀の木だと、その時気がついた。それまでは家の雰囲気に圧倒されて枝垂れ柳かなんかだと思っていたけど、よく見たら金木犀だった。家が家だ、この芳香にはまじないのようなものが掛かっていてもおかしくない。よくないものが見えるかもしれん。それはそれで結構な事だが、面倒事は避けたい。まだやらねばならぬ事がないでもないのだ。非日常は魅力的だが、今やる事ではない。それこそ、こんな通り一遍ありふれた毎日も、数か月後には非日常なのだ。戻ろうと思っても戻れぬ日々だ。悔いは残すな。勇んで行け。何も残らなくとも、思い出が残れば万歳だ。未来は信用してないし、どちらかといえば嫌いだが、それでも行かねばならん。好きだろうと嫌いだろうと、大事なのは行く末だ。用心せねばならん。行く末は明るいものであって然るべきだ。だが未来は信用できん、ほかっておいたらすぐに暗い路地に入りたがる。ぐっと堪えて進まねば辿り着かぬ場所もある。そんな時、思い出はきっと役に立つ。いいかい、君の今日は使い捨てじゃない。明日になったら元通り、じゃあないんだ。より良い未来には、より良い過去がいる。ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん。無駄にしてしまった今日を無駄と嘆くな。その悔しさは、明日の君の背中を押すかもしれないぜ。誰も押してくれなかった背中をだ。行きたい場所に、無事に着けたらいいなと思うよ。

秋の夜長だ、読みかけの本が三冊あるが、新しい物語の続きを辿るというのはエネルギーがいるもので、忙しい時に片手間でやるには少し気が重い事もある。なので寝る前に読んだことのある本を適当に数ページ読んで寝ようと思って京極夏彦の京極堂シリーズを手に取った。古本屋であり陰陽師である京極堂が胡散臭い説法で憑き物を落とし呪いだのなんだのと騒がしい事件を解決していくミステリーだ。「この世には不思議なことなど何もないのだよ」が決め台詞だ。呪詛やまじないや儀式の類、オカルトな怪事件を、「なに、ただの殺人事件さ」と現実的に斬っていく様は痛快で面白い。ミステリ部分はおまけで、京極堂の胡散臭い説法やハッタリを楽しむ小説だという人もいる。
秋の夜長にぴったりな、くそ長い鈍器みたいに分厚い小説だ。