冬の朝の学校が好きだった。
まだ誰もいない教室のしんとした冷たい空気も、窓から見えるがらんとしたグラウンドや駐輪場も、ページを開く前の小説みたいに、物語を隠している気配がした。
雑に消された黒板に薄く残る文字や、帰り際の騒めきで乱れた机の並びや、ロッカーの上に置きっぱなしの誰かの私物や、そういう教室のあれこれは昼間の賑やかさを残していて、やがて訪れる喧噪を予感させた。
「つづきから」しかないスタート画面みたい。それを選択する前のつかの間の静寂。
破られる為の沈黙というのは悪くない。待ち合わせの待ち時間と同じだ。破られる為の孤独は、いつもの日常や当たり前の存在を、少し特別なものだと意識させてくれる。
スマホを手に入れる前の僕たちにとって、ひとりの時間は今よりずっとひとりの時間で、だけどそれは、他人の存在をはっきりと意識する時間でもあった。
だから、冷たい教室の窓際の席で、誰かの足音が聞こえるまで本を読んでいるのが好きだった。
冬は、あたたかいから、好き。

10月19日のライブで、思っていた以上に何もわからなくなって、翌日なーんもわかんねえと寝っ転がっていたら、高校時代の友達が「昼飯行くぞ」と乗り込んで来た。スシローに行ったら、光るゴールデンタピオカが流れてきた。友達は「タピオカとか飲んだことねえ」と言った。僕は前にウィズクラのフェスで居酒屋ももちゃんのタピオカジュースをたけ君から一口だけもらっていたので、「ああ、あれね、なかなかうまいよ」と知った風な事を言った。僕は知った風な事を言いがちだと思う。実際は何もわかってないのに。「タピオカを飲んだら、救われるかもしれない」と友達は言った。皮肉である。こんなもので世界は変わったりしない事に、いいかげん僕らは気付いている。しかしそれで諦めるほど、大人でもないのだ。結局、光るゴールデンタピオカをひとつ注文した。タピオカを飲んで、「救われねえ」とひとしきり笑う筈だったのだ。タピオカミルクティーはすぐに来た。どう比べたって写真より見劣りする出来栄えだった。「タピオカは、ライブバンドじゃねえな」と思った。友達はもったいぶって一口飲んだ。「どう?救われた?」と聞くと虚を突かれたような顔で、「ちょっと、救われたかもしれん」と言ったのだった。その後一口僕ももらったら、確かにちょっと救われたみたいな感じがした。それが一昨日の事である。

昨日は久しぶりにフロムザストリートをやった。全員救われてほしいと思った。