エドモントンブログ

エドモントンというバンドで岡崎を中心に活動しています。。
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2013年10月

レイジーキッズの企画イベントを見に行きました。

季節は秋の中頃で、その日予定されていた台風は少しばかりの気を利かせ、進路を大きく変更した。
レイジーキッズの初企画イベント「許されるはずのない僕達とそれを隠した恥ずかしい言葉 」の開かれた日の事だ。
台風は来なかったけれど、まるで台風のような熱量で言葉や音が吹き荒れるライブハウスの中に僕はいた。
僕は今日、レイジーキッズの企画ライブの中にいた。

それは、ひとつの体験だった。
とても大きな何かだということはわかるけれど、それが大きすぎて全体像が掴めないような、そんな体験。
だから僕は今、何を書いたらいいのか、何もわからないでいる。

わかっている事だけ書くと、僕はやっぱり音楽が好きだという事。
それからやっぱり、ここにいる人たちはみんな、音楽が好きなんだという事。

他にも何か頭の中でぐるぐるしているものが沢山ある気がするけれど、それはなんだか捉えようがなくて、とても言葉にはできそうもないので、わざわざ何か言う必要はないのかもしれない。

あんなにすごいライブを見た後で、その後を濁すような真似もしたくないし。

今日はあの場にいれてよかった、そう思うばかりだ。





私生活

台風が近づいている、なんて噂を耳にした。

窓を開けると強い風が吹き込んできて、カーテンと一緒に、壁に掛けてあったカレンダーが大きく揺れた。
これは台風が来るという噂もあながちデタラメなものではないらしい。
久しぶりに目に止めたカレンダーは八月のままで、そういえば随分めくっていなかったなと少し自分のものぐさ具合に嫌気がさした。
カレンダーの表示が八月でも、少しも違和感を感じない。そんなに時間が経っただろうか。
月日というものはもう少しゆっくり流れていたような気がするけれど。
例えばもっと子供の頃は、予約したゲームの発売日が待ち遠しくて、とても長い時間、それこそ2週間やそこらが永遠のように長かった筈だけれど。

そっか、待ち遠しいほど楽しみな事が無くなっただけか、とか、そんな風に、思ってみたり。

止まったままのカレンダーも、机に溜まっていくお茶のペットボトルも、切れたままチューナの電池も、台風情報すら映すことのないテレビも、置いたままの蚊取り線香も、この部屋に堆積していく時間の厚みのなさを物語っているみたいだ。
歳月の重みを感じない。それは生活の薄っぺらさからきているものかもしれないけれど、それにしたって、どんなものであれ薄い生活なんてものがあるとは思えないが。

どんな暮らしであれ、簡単な生活なんてものはないだろうし。
それは別に金銭的問題とかじゃなく、まして日々を悲観的になっているわけでもなく、そうでなくても生活していれば色々な事があるという事で。

社会人として朝は取り敢えずテレビを付けてニュースを見るとか、そうやってある程度の情報は持っていかないといけないなと思ったりすることもあるけれど、実行したことはない。
そもそも社会人という言葉もあんまり好きではないし。なんだっていうんだろうな、社会人って。
一体なんのカテゴライズで、それが何のものさしになるっていうんだろう。

生活をする以上、社会と接点を持たない人なんていないだろうに。

僕の部屋に別にテレビやカレンダーなんてなくてもいいし、それを薄っぺらいと思えてしまう日があっても構わないけれど、だったらせめて、作る曲くらいは、僕にとって厚みのあるものであってほしい。
そこに生活が積もっていってほしいと思う。
後になって色々を、少しでも思い出せるように。

ギターをガツガツ練習する方でもないし、周りのバンドを見ていてもスタンスの違いを感じるし、もしかしたら僕は駄目なタイプかもしれないけれど、けれど、音楽くらいは正しい正しくないなんて秤がないことを祈る。
何に重点を置いたって、いいじゃないか。
でもやっぱり、ちゃんと聴くに堪えるものにしたいので、それなりの練習はしなくちゃなとは思うけれど。

そういえば、前回書いた山の正式名称は白山というみたいだよ。
頂上付近は白山公園という名前までついてるみたいだ。
考えてみれば国宝の寺の隣にあるんだから名前くらいあるか。

今日も長くなったな。歌詞が書けなくて、やっぱりだからこれは逃避だ。
歌詞が書けないから、余計な事を書いてみたくなるんだと思う。

最近は、どこに居ても金木犀のしんとした匂いがする。

アケビの実

この近所にも、アケビの木が自生している山がある。
言わずと知れたスッショ山である。
当然、この名称を名付けた僕と友人の他には知る人など少ないと思うが、ならばこの山の正式名称はと問われたらそれこそ誰も知らない山だろう。
入口に、これでも山門というのかもしれないけれど、そんな寂れた入口に何か名前の書いた看板があったような気がするけれど、その風化具合が周りの木々と良い塩梅で溶け合って、誰もそれが看板だなんて思わないだろうし、ましてそれが案内板で、かつては観光所として機能させようとした向きがあったなどとは窺い知ることは不可能だろう。

こうしてみれば、名前すらないただの山だが、その山道の途中には何かが祭られている祠や、小さな物語じみた神話が添えられている曰くありげな横穴や、頂上には展望台と呼ばれるべきであろう小さな高台だって作られている。

山道は途中で竹林へと抜ける横道があり、その竹林を進むと巨大な送電塔の根本へと差し掛かる。
送電塔の周り数メートルには竹は生えておらず、生い茂る竹林のなかでその送電塔の周りだけ妙に明るい開けた空間になっていて、僕たちはそれをセーブポイントと名付けた。
なんだか神聖な雰囲気がするからだ。日が差しているという当たり前のことが、ここでは特別に感じられる。
僕がもっとずっと子供だったなら、秘密基地にしていたところだ。

そんな山にアケビは実っている。自生していると言ったけれど、その始まりが果たして自然の手によるものだったかどうかは定かではない。
こんな山でも管理している人がいるのだろうし、昔は何か目的があって人の手によって育てられていたかもしれない。
今となっては、自生といって差し支えないとは思うが。

アケビの身は、果物の中ではとても風変りだと思う。味や風味もそうだし、食感も。
皮は高級料亭で出されることもあるらしいけれど、進んで食べたいと思うようなものでもないし、実の方も味こそ甘味が強く美味しいとは思うのだが、如何せん種が多すぎて食べる所など殆どありはしない。

リンゴでも齧った方が、幾分心も晴れるというものだ。

さっきから何が言いたいかというと、僕は何も考えていない。
作りかけの曲の歌詞を書くのに難航して、それで、なんだか考えるのが嫌になって、こうやってダラダラ適当に文字を打ってみたりする。

だって、この文字を打ち終わったら、また僕は歌詞を考える作業に戻らなければいけない。
そしてそれは、いかに自分が何も書けないかという事の検証作業でしかないのだ。
たった二行を書くのに三日を費やして、これも没かもなと薄々感じている。
そう思ってる時点で駄目だ。

それでも僕には書きたいものがあった筈だと。
書き留めておきたい何かがまだ残っている筈だと。
少しだけ感傷に浸ってみる。
手に余る感傷をどうにかするために曲を作るのか、曲を作るために感傷的な気分を用意しているのか、そんなの僕にも分らないけれど、でも、曲を作りたいと思うときにイメージする風景はいくつかあって、それは絶対的で、その基準を満たしていなくては駄目で、しかし一番最初のその風景まで遡るとそれは小学2年生くらいの生活の風景なので、結構根深いモノかもなと思ったりする。

気分を盛り上げる為に言っておこう。
さあ、楽しくなってきやがった。

別に、いつも通りなんだけどね。

走るという事

冬の風物詩、というわけではないけれど、冬はマラソンの季節だ。
中学校や高校でも冬にはマラソン大会があって、マラソンなんて呼べるのかわからないような短い距離を、それでも皆嘆きあったり、本気になったりしながら、一人きりだったり、少人数で固まったりして、そうやってゴールを目指す。

ゴールをすると、大体それはお汁粉だったり豚汁だったりするのだけれど、そういう暖かいものが手渡されて、冷たい寒空の下火照った体を冷ましながら、皆笑いながら食べるのだ。

冷たかったり、温かかったり、走ったり、止まったりしながら、そうやって最後に笑えるのは、なんかいいなって思う。
世の中の色んな事が、全部そうだったらいいなって思う。
寒かったり、熱くなったり、息が切れたり、焦ったり、して。

高校二年生のマラソン大会の後、そういう一連の流れを経て教室に戻ると、黒板に「優勝おめでとう」の文字が大きく書かれていた。
三年生は受験勉強に専念しろということなのか、マラソン大会は二年生で最後だ。
人生最後のマラソンだなんて言ってた同級生もいたっけ。
たぶんそうなるんだろうなと、僕も思った。

優勝おめでとう。この大会で優勝したのは僕だ。だけどそれは偶然の事で、同じ部活にランニングで勝てない奴が一人居た。ただ、偶々この日、風邪を引いていたっていうだけで。

皆が嘆きあうマラソン大会を、僕は結構ドキドキしながら待っていた。
夜部活が終わってから、先輩と学校の周りを走ったりして。
それで、緊張していた。

誰もが適当に済ますような学校行事で、あまり真剣になるのは恥ずかしいから平静を装ったけど。
勝てるかもしれないと思ったし、勝てないなとも思ったし、勝ちたいなとも思ったし、あいつ風邪ひかねーかなとも思ったし、でもそう思う事自体負けてんじゃんって思ったし、なんだかよくわからなかったけど、走っていれば余計な事は考えられないから、それでよかった。

とにかく、部活でも成績の振るわなかった僕は、それでもやっぱり勝ち負けに拘る気持ちは根付いていて、それで、そんな僕にも何かを残せるかもしれないこの行事に、少し期待していたんだと思う。

結局、その最後は不戦に終わって、残ったのは持て余す気持ちだった。
自分が嬉しかったのかもどうかもよくわからないような。
「でもあいつ休んでなかったら多分あいつ勝っとったよな」って、そんな声が聞こえる教室で。

あれから随分経って、本気で走ることも無くなって、運動不足が気になりだした僕は、少しランニングを始めた。
体を動かす程度の、軽いものだけれど。

ただ走っていると、懐かしいなと思う。この感じ懐かしいな。風の匂いとか、地面の硬さとか、景色が流れていく速度とか、息が切れる感じや、走り終わった後の体の心地良いダルさも。
負けたくないなって思った事も、何かを残したいなって思った事も。

ただのランナーズハイなのかもしれない、それでも、なんだかまだ終わっていない気がして、もっと走りたいなと思ってしまう。

そんな体力も無くなって、そもそも体を動かす事も少なくなって、だけど疲れだけは依然より感じるようになってしまった、今でも。



最近寒いね

そろそろ炬燵を出してもいい頃合いだろうか。
いい加減10月も後半戦に差し掛かってきたところだし、明日いきなり猛暑が振り返すなんてこともないだろうと思うし、流石にね、ここまでこれば。
そうやって油断させておいて厚着して出掛けた僕らを笑っているのが毎度の残暑のやり方だから、衣替えのタイミングにもいい加減疑心暗鬼になってしまっているけれど。

寒かったら、厚着して出掛ければいいんだ。
僕らはいつも、これから起こるかもしれない何かを勝手に想像して、躊躇いがちになってしまう。

そういう思い切りのよさみたいなのも案外必要なのかもしれない。
リスクを回避したいがために、動けなくなってしまうのは非常によく聞くケースで、僕だって実際そうで、それが癖になってしまっている。

僕の場合は、ただの怠け癖かもしれないけれど。
考えなしはいけないけれど、ある程度の思い切りのよさは必要だ。

だから炬燵を出そう。
結果、それで炬燵から出られなくなってしまったとしてもだ。
虎穴に入らずんば虎児を得ず、というやつだ。
深淵を覗き込むとき深淵もまたこちらを覗いているのだ。

なんて要らない問答を繰り返している内に、家を出る時間だ。夜勤だからね。

本当はこんなこと書くつもりじゃなかったんだけどな。
なんかもっと、季節も変わることだし、変わっていくことと変わらないことについてとか、節目についての感慨について考えてみようと思ったんだけど。

当たり障りのない時節の挨拶を書いてる内に、興が乗った。

こんな風に、意図していなかった何かに流されながら、それを楽しいと感じながら、僕はまたバンドでライブをやれるようになってここまで来て、これからも思いがけない何かに後押しされながら、変わったり変わらなかったりするんだろう。

僕は今、音楽とかライブとかライブハウスとか、どんどん好きになっていっているから、思い返せば偶然としかいえないような色んなことに、ありがたさが募るばかりだ。
プロフィール

植村

音楽とか小説が好きです。
エドモントンというバンドをやってます。
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