2018年04月19日

てってれ〜♪

ほいっ!カズですぉ〜(・∀・)つ
今回はキャスト写真第3弾!!v( ̄∇ ̄)v
いやぁ〜そこのお兄さんっ!
いい写真が撮れましたゼ〜ット!
ん?もったいぶらずにはよせんかいと?

分かりました!
今回は『長澤えみる』さんの登場です♪
気になる『長澤えみる』さんのプロフはコチラ!

長澤03






















長澤02


























どない?
性格良し!
スタイル良し!
非の打ちどころが有りません!
もうね、入らない理由が見当たらない!
ささ!お早目のお電話お待ちしておりますゼ〜ット!

jun5781 at 13:38|PermalinkComments(0)

2018年04月02日

第2弾!

どもw
今日は写真が出来あがったセラピストをご紹介させて頂きま〜す!
『青山えみり』さん!青山えみりさんのプロフはコチラ!

先ずね・・・
キレイっすよ!
写真じゃ伝わらないかな〜〜〜
マジでいいっすよ!
出勤自体も少ないのでHPに上がったらチャンスですぞ!
んで写真がこちら!!
青山キャスト作成02



















青山キャスト作成03






























他のセラピストも写真が出来次第UPしますね〜〜( ´∀`)つ

jun5781 at 14:28|PermalinkComments(0)

2018年03月28日

皆様!お久しぶりで御座います!

どもw
すいません〜〜すっかりご無沙汰しておりました@カズで御座います。。。
すっかり放置プレイが得意技になっておりました・・・
もうね、シコシコお仕事しておりましたよ〜〜
んでね!
今日はアロマファンの皆様にご報告がありまっす!v( ̄∇ ̄)v

最近アロマヴィーナスではHPの写真を撮り直しておりました!
第一弾は『高島千聖』さん

高島03
























高島02


























どないだ.。゚+.(・∀・)゚+.゚
高島千聖さんのプロフィールはコチラ!

スタイル抜群の責め上手!
高身長に美しいバスト、くびれたウエスト、スラリと伸びた手脚!とても優しく礼儀正しくお淑やかでありながらプレイ入ればエロさ全開!癒しを感じながら『千聖』さんの他の追随を許さないエロエロマッサージをご堪能ください!これからの成長が楽しみな逸材です。見つめられると『ドキッ』としてしまいます♪♪

もうね!入らない理由が見当たらない!
今ならご案内可能で御座いますぞ!

お早目のお電話をお待ちしております!

jun5781 at 14:18|PermalinkComments(0)

2018年01月11日

豪華絢爛!

images














お久しぶりで御座います!
@カズで御座います!

本日の出勤!
豪華絢爛でございますよ〜

今ならあの人気セラピストもご案内可能で御座います!

ささ!早い者勝ち!

お電話お待ちしております!

本日の出勤はコチラ!

jun5781 at 18:18|PermalinkComments(0)

2017年11月30日

歴史ミステリー

毎度w
このタイトルなww
さて今回は 『光秀=天海?』 ざんすw

ダウンロード (1)

















天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師(じげんだいし)。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与したとされている人物。

なんで天海が光秀なん?となる方も多いのではないでしょうか。

まずこのお坊さんですが、出自が先ず謎だらけ。
で、弟子が「師匠はどこの生れですか?」の問いかけに「俗世の事は忘れてしまった。君達がそんな事を知っても何の事にもならん。」と言って一切話さなかったそうです。

また突然関ヶ原の戦いに家康の近くに現れ、その後の江戸幕府に深く関わったとされているのです。

ポッと出の坊さんにそこまでする?と言うのが光秀=天海?の根拠となるのです。

その根拠として・・・

・日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。

・日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。

・徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測。

・光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。

・関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」には学僧であるはずの天海が家康本陣に描かれており、大阪城天守閣には、その時に天海が着たとされる鎧が残っている。

・光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍徳川家光の乳母になり、天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけたこと。

・光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)

・童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説。

・天海が亡くなったときの布施帳(寛永寺蔵)によると、光秀と親交のあった妙心寺、光秀の菩提寺である西教寺、光秀が連歌会を開いた愛宕威徳院から香典が届けられたのに対し、天海会津出身説によると天海にゆかりがあるといわれる龍興寺、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった。

・喜多院には天海の遺品とされる鉄砲が現存している。光秀は鉄砲の名手であった。

・『東叡山開山慈眼大師縁起』によると、家康と天海が初めて対面したときには、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったという。家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」と目を見張ったとある。

・比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある。

・本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている。

・山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。

・徳川家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾庄兵衛の縁者の三沢局が採用されていること。

Edo_hori


















関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる。

天海は家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされる。

「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものである。天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えたとされる。

なお、富士山は実際には「北」(真北)から112度ずれているが、天海を始めとする当時の江戸の人々は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたという。江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされる。

また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされる。陰陽道の知識により、地形の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされる。

江戸城の場所が決定した後、藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われたが、天海は、実務的な作業工程とは次元を異にする、思想・宗教的な面で設計に関わっていたとされる。

江戸城の工事は寛永17年(1640年)に終わるが、その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお存命しており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったとされる。

天海は、江戸城の内部を渦郭式という「の」の字型の構造にすることや、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることなどを助言したとされる。「の」の字型の構造は、城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したものとされるが、他に、敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされる。

天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされる。

天海は、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めた。寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味するが、天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺の側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどし、寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう狙ったとされる。

上記の他、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、江戸城の鬼門鎮護を厚くしたとされる。

また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、日枝神社(日吉大社から分祀)を移すなどして、鎮護を意図したとされる。

神田神社の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭とされるが、それらの祭りは、天海により、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもされていたとされる。

江戸城の位置は、寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線とが交差する地点にあったとされ、天海が鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視していたことがうかがわれるとされる。

天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされる。

将門の首塚は奥州道に通じる大手門、将門の胴を祀る神田神社は上州道に通じる神田橋門、将門の手を祀る鳥越神社は奥州道に通じる浅草橋門、将門の足を祀る津久土八幡神社は中山道に通じる牛込門、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門に置かれたとされる。天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされる。

この天海の江戸設計によって現在の東京が震災や戦争から逸早く復興を遂げたとする説もあるのです。

如何でしたでしょうか。

今回も長くなってしまいました・・・
ではまた!

jun5781 at 13:10|PermalinkComments(0)
アロマヴィーナス
アロマヴィーナス 船橋・幕張店
日々の営業の奮闘記やHPには書かない裏話を書いていきたいと思います…!
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ご意見・ご質問などありましたらどんどんコメント下さい。
よろしくお願い致します!
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@さっちん

こんにちは。MAXコーヒーをこよなく愛する、生粋の千葉っ子@さっちんです。当店にてのM男へのフライトを安全にサポートさせていただきます。ここ船橋・幕張でいつまでも皆様とともに歩ませて下さい。何卒よろしくお願いいたします。