スピーチの極意

スピーチの極意   十箇条
  1.スピーチの目指すところを明確にする
  2.エピソード、具体例を盛り込んだ原稿を作り、全文暗記すること
  3.力を抜き、心静かに平常心で臨むこと
  4.タイムキーパーを立てること
  5.トップバッターとして登場するのは極力避けること
  6.聴衆が静かになるのを待って始めること
  7.しっかりと前を向き、左右を向いて、
      会場全体を見渡しながらかたりかけること
  8.言葉はゆっくり、声は腹から出すこと
  9.導入部は静かに、徐々に盛り上げ、感動的にしめくくること
10.最後まで、決して泣かないこと

原田マハ著「本日は、お日柄もよく」という本にスピーチの極意10箇条が書いてあった。

何気なくよった本屋でジャケ買いをした本である。












この本は、冒頭主人公のOL二ノ宮こと葉が幼馴染 厚志の結婚式に参列した時に
伝説のスピーチライター久遠久美の祝辞を聞き感動をしたシーンから始まる。

新郎の厚志は 大手広告代理店勤務という設定で、牛丼チェーン吉原家の担当。
このスピーチの前に彼の会社のクライアントである吉原家の社長が祝辞をしているといった状況

このスピーチがすごい……ひこ込まれてしまった。


・・・以下抜粋・・・

「宴たけなわではございますが、
ここで、もうひとつ祝辞を頂戴いたします」

司会者の声が響いた。

新郎新婦が席に着くタイミングで、
立ち上がったひとがいる。

「新郎の知人で、新郎が大変尊敬されている
『言葉のプロフェッショナル』、久遠久美さまです。
久遠さま、よろしくお願いします」

私は顔を上げて、壇上を見た。

あのひとだ。

マイクの前に立ち、
係りの人にスタンドの高さを調節してもらっている。
マイクに手をやり、黙っている。
メモは持っていない。

ざわざわ、ざわざわ、歓談が続いている。
なかなか話し出さない。
ざわ、ざわ、ざわ。

会場の声が、やがて波が引くように静まった。

まだ話さない。

なんだろ、あのひと?
スピーチするのに、黙りこんじゃってる。

不審な空気が広がったのか、
やがて会場は、水を打ったようにしんと静まり返った。

「あれは、二カ月ほどまえのことだったでしょうか。
ある夜、厚志君が『相談がある』と言って、
私に電話をしてきました」

ぎょっとした。
なんだかすごい始まり方だ。

スピーチというより、告白みたいじゃないか。

私は思わず身を乗り出した。
と、周りを見ると、
お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも身を乗り出している。

妙齢の美人が「相談」ときた。
興味が湧かないはずがない。

おばあちゃんだけが、びしっと背筋を伸ばしたまま、
姿勢を崩していない。
ただし、目はつぶらずに、まっすぐ壇上をみつめている。

「『実は好きな人ができた。
会社でアルバイトをしている子で、まだ二十歳そこそこ。
すごくかわいくて、とってもいい子で、
みんな彼女を狙っている。

だから僕は考えた。
結婚しちゃえばいいって。

それって、早すぎますか?』

厚志君はそう言ってきたのです。

私はすぐさま答えました。

『それのどこが相談なの?
もう決めてるじゃない』って」

どっと会場が沸いた。

お父さんもお母さんも、笑っている。
お兄ちゃんは腕組をして、しょうがねえなあ、という苦笑の顔だ。
おばあちゃんは、ぷっと噴き出して、着物の袖で口もとを押さえた。

笑い声が収まるのを待つように、
一拍おいてから、彼女は続けた。

「世の中に、早ければ早いほどおいしいものが、みっつあります。

一、 ボージョレ・ヌーヴォー(ふむふむ)。

二、『吉原家』の牛丼(爆笑)。

三、結婚(ほお〜)。

今日は、会場にこのみっつが勢ぞろいしていますね。
大変、幸先がいい。

そう思いませんか、皆さん?」

拍手が起こった。
うまい、と私は今度こそ膝を打った。

『吉原家』の社長は、満足そうにうなずいている。
新郎新婦も一緒になって、盛んに拍手している。

「そして、年月を重ねれば重ねるほど、
深いうまみが増してくるものが、みっつあります。

一、愛情(おお〜)。

二、人生(おお〜)。

そして三、結婚です」

もう一度、拍手が起こった。

それが収まるのをまたもや待って、
続ける。

「新郎のご両親は、残念ながら、一昨年、昨年と、
この日を待たずに他界されました。

私は縁あって、新郎の父上、衆議院議員、今川篤郎先生と
懇意にさせていただいておりました」

そう聞いて、急に納得した。
このひとは、今川のおじさんの関係者、だったんだ。
秘書だったのかもしれない。
そういわれると、そんな感じがする。
頭の回転が速く、いかにも切れそうな政策秘書。

「奥様を亡くされた先生に、生前一度だけ、
失礼を承知でうかがったことがあります。

『ご結婚なされて、一番よかったことはなんでしたか?』

先生は、あの独特のシブい声で、
それでもたまらなくお優しい口調でおっしゃいました。

『深いうまみのある人生を、
あいつと一緒に味わえたことかな』

そして、こうもおっしゃいました。

『一度、厚志にも言ってやらなくちゃな。
ときにしょっぱくても苦くても、
人生の最後のほうで、一番甘いのが、結婚なんだ。
お前もさっさと体験してみろ、いいもんだぞ、って』」

会場が、しんとなった。

厚志君は、じっと前を見据えている。
その目が、ほんのりと潤んでいるのがわかる。

「はたしてお父さまが、厚志君にその言葉を伝えたかどうか、
私にはわかりません。

けれどこうして、
いっぱいの愛情と豊かな人生を分かち合うために、
厚志君は恵里さんとともに、ここに座っている。

お父さまに代わって、申し上げたいです。

『どうだ厚志、結婚ってなかなかいいもんだろ?』」

あたたかな笑い声が起こる。
厚志君と恵里ちゃんは、顔を見合わせて笑った。

その拍子に、恵里ちゃんのつややかな頬を、
涙がひとすじ、伝って落ちた。

「お父さまも愛されたフランスの作家、
ジョルジュ・サンドは言いました。
あのショパンを生涯、苦しみながらも愛し続けた
彼女の言葉です。

『愛せよ。
人生において、
よきものはそれだけである』

本日は、お日柄もよく、
心温かな人々に見守られ、
ふたつの人生をひとつに重ねて、
いまからふたりで歩いていってください。

たったひとつの、
よきもののために」

おめでとう。

最後の言葉が、彼女の口から離れた瞬間。
あたたかな、実にあたたかな拍手が、
会場を埋め尽くした。

恵里ちゃんは、白い手袋の指先で涙を拭っている。
厚志君が、その肩をそっと抱いている。

お父さん、お兄ちゃんは、夢中で手を叩いている。
お母さんは、ナプキンで鼻を押さえている。
おばあちゃんは、ていねいに、いつまでも、
静かな拍手を送っている。

私は……私は、
情けないことに、
さっきつけ直したマスカラがまた落ちてしまうほど、
泣いていた。


・・・・・・・・
 
冒頭から心を奪われた。
食い入るようにこの本を吸い込まれていき
1日で読んでしまった。



■ポイント抜粋


・出だしの一分でお祝いを四回も言ってる。
 で、また聴衆の耳が離れる。
 なんだこいつ、おんなじことばっか
 言ってるよ、ってね(p13)


・フレーズの冒頭に、「えー」とか「あー」とか
 付けるのは、しゃべるのに
 自信がない証拠(p14)


・檀上に上がって、まず五秒待つ。
 会場が静かになるのを。
 五秒で無理なら、十秒。(p80)


・原稿はきっちり仕上げる。
 けれど、決して読まない・・
 棒読みになったとたん、
 聴衆の関心が薄れるから(p91)


・スピーチライターの心得として、
 もっとも初歩的で、かつ難しいこと。
 人の話を聞けなかったら、
 スピーチライターにはなれないわけよ(p163)


〜以下抜粋〜
 久美は、この十箇条の基本となる「静」の考え方をこと葉に教えていくシーン抜粋

 まず、心を平静にして思い浮かべる。このスピーチの目指すところはどこにあるのか。

それは、スピーチをする場や状況によってさまざまだ。披露宴のときは、新郎新婦を祝って。

弔事ならば、故人を偲び、遺族を思いやって。国会の演説ならば、国民全体の気持ちを代弁しなければならない。

 それから、スピーチに向かうとき。必要以上に力を入れたり、

虚勢を張ったりする必要はない。力を抜き、心静かに平常心で臨む。

 そして、壇上に上がって、まず五秒待つ。会場が静かになるのを。五秒で無理なら、十秒。

それでもダメなら十五秒。十五秒というのは、けっこう長い。たいてい、聴衆は十五秒以内に静まる。

だから、壇上に上がってすぐに始めずに、五秒間隔で静かになるのを待つ。

 スピーチの導入部も、あくまで静かに始める。はじめ方はさまざまだが、「ただいまご紹介にあずかりました」とか

「ひとことお祝いを述べさせていただきます」というような、無駄な枕詞は極力避ける。

いきなりエピソードから始めてもいい。結論を先に言ってしまってもいい。

とにかく、最初のフレーズがどんなふうに聴衆の耳に届くか。それでそのスピーチの印象が決まる。

聴衆を煽る激しい言葉や、あまりにも力強いフレーズは避ける。あくまでも、静かに、けれど心を打つ入り口を作る。

 原稿はきっちり仕上げる。けれど、決して読まない。

どれだけすぐれた原稿であっても、棒読みになったとたん、聴衆の関心が薄れるから。必ず全文暗記すること。

とはいえ、あまり複雑で長い原稿は覚えられないから、短くまとめること。

その中で、自分でも覚えやすいエピソードを交えるといい。言葉を贈る自分も、贈られる側も、一生忘れないようなエピソードを――。

…………………………………

ビジネスでも同じなのではないか……。
プレゼンテーション、メールなどなど

一瞬で相手のハートを盗む!と尊敬する上司がよく言っていた。
毎度、毎日会えない中で どうやったら一瞬で相手のハートを盗めるか?というような事を
よくおっしゃていた。


一瞬でハートを盗めるかどうか?

相手に興味を持ってもらえるかどうか?

私などまだまだであるが
大事なのは 自分の言葉で伝える事なのではないか?と
ある時に気づき それを実践してきた。


こんな私でも人様の前で講演をする事がある
その時に意識しているのは

相手に何かを伝える時には、具体的なエピソード中心で
自分だけの体験を伝える事

自分の言葉で伝える事

そう思ってきた。

この本を読んで いいスピーチとは
自分だけの言葉を使う事 という事だと解釈した。

また人様の前で喋りたくなってきたなあ………。

浜松の町工場本田技研工業から世界のHONDAへ

1ヶ月前に美容院のスタッフの勧めでバッサリ髪を切ったのであるが

これが思いがけぬ好評であった。

伸びるのが早いのでもうまとまりがつかなくなった感があり

現在、美容院で髪をまた バッサリ、サッパリときっております。

大好きな伊集院静先生の本を持ってきてます。

読む前にブログiPadで書いてます…………。












最近、このペルーでのホンダのテレビCMの存在を知った。

素晴らしい内容で さすが世界のホンダだと思わせる内容

私は瞬間でホンダを誇りに感じ、さらに好きになった。


メーカーが商品を供給するだけでなく

そこから様々な無限の可能性というものを感じさせる内容であるからだ。


【以下説明】

続いてはペルーから。自動車やバイクで知られるHondaが制作した、実話をもとにした映像です。ジャングルの奥地の町で、ある母親が、難産の末、赤ちゃんを出産。しかし、産まれたばかりの赤ちゃんは呼吸に問題があり、設備の整った都会の病院へ搬送しなければ助からないという危機に瀕していました。一刻を争う事態の中、赤ちゃんを救った奇跡とは…?

母親:私の赤ちゃん、どうして泣かないの?何が起きているの?

医師:赤ちゃんは、呼吸がうまくできなかったのです。「ここでは、これ以上対応できない」と告げました。必要な医療設備がなく、都会の病院へすぐに搬送しなければいけませんでした。

DJ:家族はわずかな望みを持ってやって来た。一刻を争う事態だ。すぐにマイクを持って、町中に呼びかけたよ。コンタマナの皆さん!ひとりの母親が、俺たちの助けを必要としている!バイクにのってプログレソ空港まで今すぐ集まってくれ!お願いだ!俺たちの助けが必要なんだ。

パイロット:飛行機が離陸するには暗すぎました。空港には夜間離陸用の設備はありません。しかし、何百もの蛍が現れ、滑走路を照らしたのです。

テロップ「ペルーには温かいハートがある」

赤ちゃんを救ったのは、ラジオの呼びかけに応じて集まったバイカーたち。離陸するには暗く危険な滑走路をヘッドライトで照らしたのです。このエピソードは、ペルー国内で大々的に報道されその実話を元に、現地でバイクを生産・販売するHondaがペルーの人々に敬意を表して制作したメッセージ映像でした。

バイクの滑走路にバイカーたちが集まり そのヘッドライトで飛行機が飛び立っていき 母子ともに健康に現在は過ごせているというもの


…………鳥肌がたった。

ホンダが日本の企業であることと

私はちょっとであるがホンダにご縁があるからだ。

89歳で亡くなった母方の祖父の務めた会社が本田技研工業であった。

私は早くに父が亡くなったという事もあり

物心ついてから同居した祖父が父親のかわりでもあった為

HONDAの帝王学を徹底的に思い出話という形で帝王学を教えてもらった。

技術系だった祖父は 兵役終了後
大日本航空という国策で作った航空会社に勤務

大陸に駐在する 関東軍並びにの物流を民間の大日本航空が受託しており
祖父は大日本航空社員という立場で陸軍に従事し サイパン、タイ、フィリピンから中国など 飛び回っていたそうである。

航空会社の技師として大陸で働いていたが終戦と同時に会社は解散

いわゆる会社が倒産し路頭に迷っていたそうだ。

それを拾ってくれたのが、1946年に創業した本田技研工業。
まだ町工場に毛の生えたような会社に技術系の祖父は友人の紹介で就職することになった。

友達に誘われて行った面接

真面目な祖父は 本田総一郎が面接をしてくれた歳に

「森君 君は本田をどういう会社にしたいのかね?」

という問いに

「はい 私にような者を拾ってくれた本田を日本一の会社にしたいと思っています。」と答えたらしい

本田総一郎は

「ばかもの!なんで世界一を目指さないんだ。世界一という事は必然的に日本一じゃないか!」と

面接でいきなり罵倒された、


が 「その心意気は大したものだ」とその場で入社内定

また 本田が浜松の町工場だった時の話である。

そんな町工場の本田に入社した祖父は

拾ってくれた本田の為に一生懸命に働いた。

本当に一生懸命働いたようだ。

あるときに 真面目な祖父は 深夜まで 工場に残り

せっせと道具を磨いたりして 掃除をしていたらしい。

それが拾ってくれた本田への恩返しであると思って

そこにベロベロに酔っぱらった本田総一郎が帰社する

 

「お前 何やってんだ!?」と社長

「はい 会社の為に今自分が出来る事をやっているんです。」

 ベロベロの本田宗一郎に褒められたらしい………。

次の日に出社すると壁に 人事発令が出ており

係長に昇格をしていたそうである。

世界の本田が まだ浜松の本田だった時の事である。


 1951年 埼玉県和光市に 新しい工場を作ることになると

社員のご両親が祖父の家に 進物を持って並ぶらしい


趣旨は 『うちの息子を埼玉に転勤させないで欲しい………』という懇願だった。

祖父は 本田宗一郎に魅せられ 世界を目指していたので

世界を目指す本田の社員のご両親がこれでは困ると

一切、懇願を受け入れず 進物など 受け取らず ただ祖母に命じて

来た社員のご両親の名前だけを記録させ

人事権を持っていた祖父は どんどん辞令を出して行ったそうであ


後に、スーパーカブの爆発的ヒット


当時、浜松工場の責任者であった祖父が本社の藤沢武夫専務からの


「売れているんだからもっと作れ!」

という矢のような最速があったらしい。

この藤沢武夫という 専務の事を祖父は本当に尊敬をしていた。

技術の本田総一郎

経営の藤沢武夫

と二人三脚でHONDAを作った専務である。

藤沢専務に本当に仕事を教えてもらった………と常に言っていた。


「工場だってみんな頑張っているんだ!できないものはできない」

突っぱねていると


藤沢専務からの命令は祖父へ
「一回、出荷の現場をトラックに隣に乗ってみてきなさい」
というシンプルなもの

『なんで行かなきゃならないのか!』と突き返すが、ダメだどうしても行って来いとのこと

渋々出荷のトラックに乗り込み大阪へ

大阪に着いたトラックが助手席の祖父が見たのは

スーパーカブの荷受け場所で

現金を札束を握りしめた販売店主たちが100人以上 


「俺に売ってくれ!俺に売ってくれ!」

というホンダのトラックに群がり
まっている人だかりであった。

その狂ったような人の中にスーパーカブを乗せたトラックがつくそうである。

祖父は生前、よくこの話を 江戸っ子らしく 粋な語り口で私にし


「藤沢専務はずるい! あれをわざと俺に知っていて見せやがった!あれを見てしまうと
俺も男だ・・・どうしてもやらなきゃならんくなる。解ってて見せやがった。
だから専務はずるいんだよ」


と 嬉しそうに 楽しそうに まるで昨日のことのように いつも話してくれた。

藤沢専務 に策に見事にひっかかんたんだ……。

HONDACMを見ると あの祖父の楽しそうな笑顔を思い出す。

大正生まれの祖父が 人生をかけた本田技研工業

その本田技研工場が世界のHONDAへ。


祖父に夢が 本田宗一郎の夢が、藤沢武夫の夢が


昭和の偉人たちの夢がそこにある。


こういうCMを作れる会社が日本企業である事を私は誇りに思う。


【藤沢武夫専務の魔術】

経営として生産、営業と意見が食い違う時は

お互いの最終的な目標が一緒である事をお互いに意識させ

お互いがお互いの大変な状況をなんとしてでも見せ合うことで

心のスイッチを押させ 常識では考えられない知恵と工夫で乗り切ろうとする事がある。


それをやった場合には 部下から ずるいんだなあと 笑いながら言われるようなパターンがいい。


何故 ミッドウェー海戦で日本は敗北したのか?

8月15日の71回目の終戦記念日

15日に靖国に行けなかったので その前の週末、土日2日連続で行ってしまった。

夜の靖国神社は幻想的である。

この時の写真がこれ






































先人達の御霊に感謝の気持ちを伝えてくる。
いやあ心が凛としますな…………。


というわけで今回は

太平洋戦争についての事

長年興味があり自分なりに色々研究をしてきた。

 
圧倒的な小国である極東の日本 大日本帝國が

なぜあの大戦に向かってしまったのか?
当時の日本は何を考えていたのか?
本当に日本は勝とうと思っていたのか?
日本の狙いはなんだったのか?
山本五十六司令長官の狙いは何だったのか?
何故、負けたのか?

ということを自分が勉強しまとめた事をミッドウェー海戦を中心に書いてみる



1941年太平洋戦争開戦を決意
「本八日未明、帝国陸海軍は西太平洋上において米英と戦争状態に入れり」
という状態に突入

日本は、山本五十六司令長官は何を狙ったのか?


12月8日
ハワイ真珠湾があった後のミッドウェー海戦
2011年12月8日は帝国海軍の機動部隊が、
アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島パールハーバー他を
攻撃 いわゆる真珠湾攻撃を連合国司令長官 山本五十六が立案し大成功を収める。

山本長官は
米海軍を守勢に追い詰めるために
もう一度奇襲攻撃を考えた。

山本長官の目的は勝利ではない。渡米経験もある山本は
アメリカ海軍に勝とうなんて思っていなかった。
現実主義者の山本五十六はこれっぽっちも考えてなかった。

山本五十六司令長官の狙ったのはただ一つ 

「米国海軍 と米国民をして救うべからざる程度にその士気を阻喪せしむ」

アメリカは長期戦に弱い
大統領の任期は4年………反戦運動が巻き起こるとたちまち 世論が変わってしまうことがある
山本五十六はこの戦意消失を狙ったのである。

バーン!バーン!って奇襲攻撃を二発 かませば
アメリカの反戦運動が起こるのではないか?

アメリカの南北戦争での死者が62万人
アメリカは死者が50万人を超えると 戦争を辞める傾向があると
山本五十六はよんでいた。

だから反戦運動を引き起こせば絶対にアメリカは割れる
これが五十六の狙い、一発目の真珠湾は 大成功し 見事にアメリカの背中を切りつける。

相手を背中から斬りつけた。この切りつけたおかげでアメリカ海軍はガタガタになった。

しかし利き腕の右腕を切り落としていないという事で
山本五十六司令長官の発案で 決行された第二の矢が ミッドウェー海戦である。

アメリカから戦意を消失さえすれば ……というのが山本五十六の狙い

一方 日露戦争における 日本海海戦が忘れられない日本軍

艦隊決戦でどちらかが全部ぶっ潰して消えて無くす事を狙う

精神的攻撃→山本五十六→戦意を消失させて早期講和
物理的攻撃→日本軍→なるべく自分は傷つかず相手だけを破壊

と考えた方がバラバラだった。

そもそも真珠湾攻撃の後 、日本軍はハワイに上陸していない
あれだけの奇襲攻撃をし ハワイをボロボロにしておきながら
 ハワイ上陸作戦を日本は取らなかった。

何故か? 自らが傷つくという攻撃方法を日本軍が 考えていなかったからである。
上陸作戦には被害を被る。それを日本軍は避けたのである。これは戦争する上で
馬鹿げている作戦

一方アメリカは夜陰に乗じて日本軍が乗り込んでくると思い海兵隊が海岸線に立って防備をしていたのだ。

なぜ日本軍は上陸作戦を決行しなかったのか?


重複するが
山本五十六と日本軍が考えていることが違った。

もしハワイを占領していたら………どうなっただろうか?
1945年 敗戦という形で終わったのだろうか?
少なくとも全然違った形になっていたのでは無いか?と思う。

戦争をする上で の絶対は

『統一感が無い戦線は絶対に敗れる。』ということであり
当時の日本はバラバラの状態であった。これでは戦は勝てるはずが無い

北太平洋、中部太平洋にまたがる海域を
日本海軍が一挙に占拠するというの
大日本帝國の作戦

投入兵力 戦艦約200隻、航空兵力700機、乗員将兵10万人
主役は航空兵力を有する南雲中将率いる第一機動部隊空母4隻
ミッドウェー海戦に投入された兵力である。

日本海軍のシナリオ
6月5日北西250海里へ進出
航空兵力によるミッドウェー基地を攻撃し
この間母艦搭載半数は敵空母出現に備えて待機

6月7日ミッドウェー上陸し航空機を着陸せしめ
随時 米国海軍を空母搭載機と合わせ攻撃をする。

ミッドウェーからアリューシャン列島、トラック島まで
太平洋の5分の4を日本の航空兵力全部網の目に抑えるという重大な作戦であった。

米海軍は太平洋と大西洋に艦隊を二つ配備しているのでものすごく苦しかった
よく日本はアメリカの圧倒的な物量に負けたと言われるが、少なくとも
この時点では アメリカの物量は豊富でなく 日本海軍が圧倒的に物量で勝っていた。

この段階では日本海軍が世界最強と謳われた航空兵力と技術を持っていた。

これが1日で全て消えた……これがミッドウェー海戦

対する

対するアメリカの太平洋艦隊は空母エンタープライズとホーネット2隻のみ
戦艦を持っていないアメリカに司令官は

チェスター・ウィリアム・ニミッツ アメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官

ニミッツは山本が絶対に仕掛けてくると読んでいた。

アメリカは
珊瑚海海戦で コテンパンにやっつけられていたヨークタウンという空母をハワイで
三日間で修理し戦線に復帰をさせた。これは日本にとっては考えられないことであった。
日本軍はヨークタウンは沈んだと思い込んでいた。

そもそも日本とアメリカの戦争の考え方が違う。

ボロボロになりながらも港に持って行き 修理をする力
これも立派な戦争の力なのであった。日本にはこの発想がなかった。

またアメリカはレーダー開発に力を入れている。
悔しいことにレーダーを発明をしたのは 皮肉にも日本人
八木アンテナというものである。

八木アンテナを米、英は徹底的に取り入れ徹底的に研究し取り入れたが
日本はそんなことは一切しなかった。

暗号解読と無線傍受 ニミッツはこれに力を入れ
日本軍は一切力を入れなかった。戦争にはそんなもの必要ないと判断をした。

戦争とは軍人だけが行うものではなく
国家の全てをかけて行うもの
アメリカは全てをこの戦争にかけていた。


ニミッツは戦略を一つ

『日本軍の空母だけやっつけろ、他は一切やらなくてかまわない!』


対する日本軍

『ミッドウェー基地を攻略しろ!近寄ってきた空母も一緒にやっつけろ!』

戦争をする上で 目的を二つというのは絶対に避けなければならない。

と目的が二つあった。
これは戦争という常に予想できない事が起きる際にはアドリブが効かなくなる。
緊急時に判断がぶれるからである。

また 零戦のパイロットの技術は圧倒的に日本が上であった。
アメリカは空母から三割が飛び立てず海に落ちるのである。
技術の欠陥をアメリカはシステムでカバーした。


徹底的に装甲を厚くし、玉は散弾銃のように広範囲に広がる玉を開発
とりあえず打てば広がるので何らかしら当たるのである。

また零戦との戦闘は1:1で戦う事を禁じたのである。
必ず数的優位の状況を意図的に作らせた。

相手の技術を認めた上でそれに対し、個の力ではなく
システムを導入する事で対抗していった。


個人主義対合理主義




というわけで今日の結論


【日本軍がミッドウェー海戦で負けた原因】
① そもそもの太平洋戦争の目的を山本五十六大本営が取り違えていたこと
②ミッドウェー海戦の目的を一つに絞らず 二つにしてしまった事
③②の為に 現場でどっちを優先すればいいのか?というアドリブが効かず 全て指示待ちになってしまった事
④アメリカは決戦の現場だけでなく 修理、無線傍受など戦闘に関わる事以外を含めた総合力で戦った事
⑤アメリカは相手の長所を認め、受け入れた上で合理的なシステムで対抗した事

【ミッドウェー海戦の敗戦から学ぶビジネスでも通用する勝利の鉄則】
①イノベーションを起こす事
②勝負の指標が何であるかを把握する事
③敵の指標の無効化
④新しい指標を創る事


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