シルバーウィークはインプット
今週も活字に囲まれ読みたかった本を読んでます。

ニトリ創業者の似鳥昭雄社長の私の履歴書がめちゃくちゃ面白い・・・・破天荒というか無茶苦茶ながらクスっと笑いながら読めてしまう。

新聞にこの本の事が紹介されており
「運は創るもの」という本を買って読んでみる。

以下 破天荒な点
・米が家になく食べられなかった
・父親、母親から子供時代は気絶するくらい殴られた
・地元工業高校に裏口入学するために校長に米俵をワイロとして贈った
・北海学園大入試で到底受からないので、カンニングをする
・暴力団のマネをして水商売客の未払い金の取り立てのアルバイトをする
・父の会社に就職してすぐに自分が貯めた5万円を持って家出

次元が違うが私の辿ってきた半生に若干類似性を感じ
親近感を覚える。いつか 「私の履歴書」ならぬ
「私のカルテ」と称してここに書いていきたいと思っている。以下詳細を記載します。

この本 おすすめ。



▪️樺太生まれ 引き上げ後、母はヤミ米屋
父がヤミ米の仕入れと物流を担当し、母が販売する姿はニトリの初期の経営に似ていた

▪️父は昭和10年代に樺太に移住。そこで結婚し農業を営んでいた。太平洋戦争が始まると出征し敗戦後はシベリアに抑留された。
母は気丈な性格。がっしりした体つき。男に負けない豪傑だった。

▪️きつい手伝い 両親から殴られる
父からも月に一回ぐらい、気絶するまでなぐられた。
熱があっても手伝いは休めない。逆に「気が抜けている」とひどく怒られる。
食器が飛び交う激しい夫婦げんかも絶えなかった。勝つのは腕っ節が強い母だ。


▪️ちょっとでもへまをすると両親からは殴られる。今の時代なら虐待ととられるかもしれない。
空腹のあまり「もっと食べたい」なんて言ったら、味噌汁をぶっかけられ、ぶん殴られた。


▪️地吹雪の中、置き去りに
手伝いなのに生死の境に直面することが何度もあった。

父とともに倉庫へヤミ米を取りに行くのだが、冬は大変。地吹雪の中、前が見えず、馬ぞりが溝に落ちてしまうのだ。父は近くの民家に助けを求めに行く際、「決してここから離れるな。下手に動いたら、道に迷い、確実に遭難するからな」と厳命する。
薄い防寒着にゴム1枚の粗悪な長靴を履いているだけ。凍え死んでしまいそうだ。数時間して父は戻ってくる。
にこにこしていろと殴られる
冬のある日、配達先で震えていると、玄関を後にした直後、母からなぐられた。
「相手先の家ではきちんと挨拶して、にこにこしていろ。震えている姿なんて相手が不愉快なだけだ」
確かにこにこしていると、リンゴやミカンをもらえる。うれしくて芯まで食べたものだ。以来、一歩家を出たらとにかくにこにこするようになった。

▪️足のつかない自転車で米の配達
乗れないと、こっぴどくしかられる。「巨人の星」どころではない。血だらけになりながら、ようやく乗れるようになった。
失敗するとまた殴られるので、夜に1人で練習した。
小学4年生の時にヤミ米の運搬用に中古の自転車を買い与えられた。サドルをまたいでも地面につま先がつかない。それでも両親は目標の距離まで運転できるまで許さない。

▪️楽しみは寝ることだけ
楽しみは寝ることだけ。そのときだけは苦しみから逃れられるからだ。

▪️ヤミ米の配達には毎日かり出される。
うさぎとヒヨコの飼育も私の仕事。餌もなく、エサ用の残飯探しが大変だった。
小さかった弟や妹への子守もして遊ぶ時間もない。
両親への憎しみも強まったが、反抗はできない。
家では殴られながらこき使われ、学校でも悲惨な目に遭っていた。


▪️小学校ではいじめられっ子
「ヤミ屋、ヤミ屋」としょっちゅうののしられた。体も小さく、トイレに呼びつけられてやはり殴られる。
同級生は私を後ろ向きに立たせて、おしりのつぎはぎを的にしてボールをぶつける。逃げるとぼこぼこにされる。
登校時は学校へ着くまで長い竹ざおでつつかれまくる。
いじめられてもいつもニタニタしているので「ニタリくん」と呼ばれていた。

▪️クラスでも有数の貧乏一家で、着ている衣服はつぎはぎだらけ。
親にいじめられる理由を話すと、「つぎはぎで何が悪い。ヤミ米屋で生きているのだから堂々としろ」と逆に怒られる始末。逃げ場はない。
勉強苦手、通信簿で母にウソ
のみ込みが悪く、先生が何を言っているのか分からない。だから通信簿も5段階の1か2ばかり。母には「1が1番良くて、5が最低」とウソをついていた。
周囲も「昭雄ちゃん、またたたかれるから」と黙っていたらしい。

▪️さすがに誰かが教えてばれちゃった。もちろん家に帰ったらたたかれ、「勉強しろ」と言う。そのくせ手伝いばかり。成績が伸びることはなかった。
クラスで一人だけ漢字で名前を書けないのは似鳥君だけで、教えても教えても覚えられず、結局ひらがなで書いていました(当時の担任の話)
中学時代もいじめ 配達中、川に突き落とされる
ヤミ米を配達しているとき川沿いで同級生たちと出くわした。嫌な予感が走ったが、もう避けられない。同級生たちは自転車もろとも川に突き落とした。頭から突っ込んでいれば死んでいただろう。


▪️どろどろの姿で家に帰り母に話すと「落ちた米を拾ってこい」という。まるで漫画のような世界だが、仕方がないので川に戻り、どろどろの米を持ち帰った。それを食べたのは言うまでもない。
高校入試はことごとく落ちた
ヤミ米の販売先の友人が工業高校の校長先生だった。夜中に米1俵を届け、「何としてでも合格したいんです」と訴えた。

▪️そのおかげかどうかは分からない。補欠合格となった。
高校でもいじめ 配達のオートバイを奪われる
不良グループから因縁をつけられ、時折、痛めつけられる。
配達の仕事に使うオートバイに乗っていたら、殴られた上に奪われてしまった。

▪️父は取り戻してこいと言うが、1人では無理だ。3~4歳上で不良生活を送るいとこに相談。無事バイクは戻った。
ただ「このままではダメだ」と思い、アルバイトで稼ぎ、ボクシングジムに通った。もちろんけんかに強くなるためだ。

▪️成績は悪いがそろばんだけは得意
成績は相変わらず悪い。学年どん尻が私の定位置となった。
ただ高校時代は少し人生が上向いてきた気がする。手先が器用なせいか、そろばんだけは得意だった。珠算部に入り、一心不乱に腕を磨いた。

▪️学内の大会で1位に選ばれた。校長から賞状を手渡されるとき、「先生、私は入学前に米を届けた似鳥です」と話すと、「おー、あのときの君か。よく頑張ったな」と喜んでくれた。

▪️親の仕事から逃げるために短大進学
父は自分がやっていたコンクリート会社を私に継がせるつもりだった。ヤミ米の販売とともにコンクリート会社も長年手伝っていたので、技能は身についていた。だが土日に休みもなく仕事はきつい。まだ社会には出たくない。

▪️何とか札幌短期大学に滑り込んだ。もっとも親の仕事から逃げるためだから、大学はろくに行かない。空手部に入ったぐらいで、勉強はしない。授業料は自分で払う約束だから、年中アルバイトばかりしていた。

▪️カンニング失敗するもギリギリ大学編入
自分の実力ではとうてい入れない。そこでカンニングを思いついた。英語は編入試験を受ける同じ短大の友人に任せ、経済学は「俺がやる」と決めた。

ところが英語を担当する友人が問題を解くのに必死で、見せてくれない。一方、私も必死で書いたが、教える余裕などなかった。おかげで英語はさっぱりだった。
それまでとにかくいじめられ、バカにされてきたため、周囲を見返すつもりで北海学園大学には入りたかった。

私が合格し、友人は落ちた。私の点数は経済学が70点で、英語は5点。両方で70点が合格ラインだった。

▪️留年回避に必死  「単位のため」先生尾行
先生が飲んでいる日に私も入店。「偶然ですね。私は先生の門下生です。講義は本当に面白いです」と話しかける。先生は恐妻家であると分かった。
先生の奥さんに電話し、「教え子の似鳥と申します。今日は先生を朝までお借りしますから」とアリバイ作りに一役買った。
おかげで「優」をもらえる約束をした。

▪️教授を褒めたり、ワインを届けたり、単位取得に動いた。
しかし簡単には単位をくれない先生がいたので尾行してみた。行きつけの飲み屋があることが分かった。どうも店のママがお気に入りらしい。

▪️取り立て屋のアルバイト 「その筋の人」を演じる
近所の弟分を引き連れ、ツケを払わない客の元へ出向く。「ごめんなすって」。
なかなか支払いに応じようとはしない。そこで弟分が暴れる。
そして兄貴役の私が「お客さんは払わないとは言ってないだろう」となだめ役に回る。するとたいていの客は払ってくれる。

夜のスナックで客の未払い金の「取り立て屋」をした。当時は任侠映画の時代。私は浴衣を着て、「その筋の人」を演じる。


▪️ハスラー 仕事あっせん 現場監督
パチンコ、ビリヤードにスマートボール。特にビリヤードには自信があり、ハスラーとしてずいぶん稼いだ。
家出して大通公園をうろつく女性が増えてたので、仕事のあっせんをして紹介料をもらっていた。
父の会社を通じ、一軒家の基礎工事を請け負い、私は現場の総監督を務める。大学の体育会の仲間の馬力には本当に助けられた。私が事業主なので、報酬は当時の会社員の1.5倍はあった。

▪️そんな破天荒な大学生活ながら、無事に2年で卒業できた。
卒業後父の会社手伝う  病気でも「働け」嫌で家出
働いてまもなく盲腸を患った。手術が遅れ、回復は思わしくなかった。
医者もしばらく安静するように診断したが、親は「家で遊んでいる余裕はない。働け」という。扱いは幼少期となんら変わりはない。
復帰したが、傷は痛む。自分の身は自分で守らなければならない。
母が米の配達をしているときを見計らって家出に踏み切った。

▪️家出した後、友人に頼る。保証人もなく、部屋も借りられないので、住み込みで働ける仕事を探した。
住み込みで仕事、営業ノルマ達成できず解雇の危機
この頃、人前でまじめなことを話そうとすると赤面したり、言葉につまったりと、軽い対人恐怖症だった。
外回り後、寮の食事や掃除をする仕事を引き受けて、何とか残留した。

▪️広告を中小企業から取ってくる仕事。ノルマが達成できないと辞めさせられてしまうが、住むところもない。
花札で解雇から逃れようとする
一つだけ生き残る道を見いだした。花札だ。
所長が大の花札好き。私へのツケは3カ月分の給料に相当する金額になり、催促しても払ってもらえない。
私はこう言い放った。「クビの時は借金を返してくださいよ」

▪️6カ月が過ぎたが、花札のおかげで辞めさせられない。ところが本社がこのことに気づき、所長に解雇するように伝えた。所長は私へのツケをどこかで工面し、「悪いけど、これで辞めてくれ」とお金を渡され、ついに解雇されてしまった。

▪️ついに父親の会社に戻る
住所不定で保証人もいない。職は見つからない。金がないどころか食べるのにも困る状況。1カ月ぐらい北海道内を放浪。
再び前の会社の所長の元へ駆け込み入社を懇願。相変わらず営業はさっぱり。結局、「君は成長しないな」と言われ、6カ月で再びお払い箱に。
父の弟で似鳥コンクリート工業の専務にばったり会った。「だらしない生活をいつまでしているんだ。仕事がないなら、手伝え」と言われ、そのまま会社に戻った。旭川での水道工事現場の監督の助手をすることになった。
1年ぶりに自宅へ戻ると、父は「何しに帰ってきたんだ」と一升瓶を投げつけた。ベランダのガラスは粉々に砕け、慌てて叔父とともに逃げ出した。

▪️母はなぜか占師に聞いて、「札幌で元気にしている」というお告げを聞いていたそうだ。そのせいか、怒られることはなかった。
季節工と花札や酒で勝負
監督になったのはいいが、現場作業員をまとめるのが大変だった。半分は各地から集まる季節労働者だ。そのリーダー格は体中に入れ墨を彫り、100キロはある巨漢だった。
ちょっと不満があると季節工たちはストライキに入る。「文句があるなら部下たちを引き揚げるぞ」と脅す。「どうしたら言うことを聞いてくれるのか」と聞くと、「力比べ、相撲、花札、酒で全部勝ったらな」という。
まず花札は勝った。力比べは石を運ぶのは仕事で慣れており、勝利。そして相撲は奇跡的に勝てた。次は酒飲み競争。こちらは勝負がつかず、引き分けた。すると親分は「大学出の割にやるじゃないか。言うことは聞いてやる」と言い、和解できた。

▪️道内のどこの現場よりチームはまとまり、仕事のスピードはどこより速く、利益率も群を抜いた。
父親の会社を辞職
作業員宿舎が火の不始末で全焼。責任を取り辞職。父の会社は赤字で将来性はないから自分の道を考えろと言われる。
23歳で起業 「似鳥家具卸センター北支店」
卸とつけることで「安い」イメージを与え、センターは「大きい」というイメージが湧く。北支店としたのは他に本店があるように思わせるためだ。我ながら浅知恵も甚だしい。

▪️ちょうど似鳥コンクリート工業の所有する40坪の土地・建物があった。この建物で商売でもやろうと決めた。周辺は住宅も多い。衣食住のうち、周辺を探すと家具屋だけがない。当時は家具の将来性や可能性など何も考えていない。当然チェーン店という発想もない。食べていくための生業として家具販売を選んだ。お気に入り詳細を見る
父の言葉 心にずっと残り、実践するように心がけた
「おまえはのろまで、だらしない。成功するには人の2倍努力するか、人のやらない事をやるしかない」
「頭が悪いのだから、有名大学を卒業した優秀な人材を使えばいいんだ」

▪️成功の秘訣
当時は極度のあがり症でうまく接客ができない。ところが嫁入りした家内が販売上手で、私は仕入れや物流などの仕事に専念できた。
もし私が販売上手だったら、街の人気店で終わっていたかもしれない。
「短所あるを喜び、長所なきを悲しめ」は私の好きな言葉だ。
ロマンとビジョンを掲げ、「他社より5年先をゆく」経営を進めてきた
逆に何もできないから、色々な人の力を借りながら成功できたと思う。
家内からは「あなたは人が普通にできることはできないけど、人がやらないことはやるわね」とからかわれる。
賢くないので、あれこれとリスクは考えずに突っ走ることができた。