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2016年08月

浜松の町工場本田技研工業から世界のHONDAへ

1ヶ月前に美容院のスタッフの勧めでバッサリ髪を切ったのであるが

これが思いがけぬ好評であった。

伸びるのが早いのでもうまとまりがつかなくなった感があり

現在、美容院で髪をまた バッサリ、サッパリときっております。

大好きな伊集院静先生の本を持ってきてます。

読む前にブログiPadで書いてます…………。












最近、このペルーでのホンダのテレビCMの存在を知った。

素晴らしい内容で さすが世界のホンダだと思わせる内容

私は瞬間でホンダを誇りに感じ、さらに好きになった。


メーカーが商品を供給するだけでなく

そこから様々な無限の可能性というものを感じさせる内容であるからだ。


【以下説明】

続いてはペルーから。自動車やバイクで知られるHondaが制作した、実話をもとにした映像です。ジャングルの奥地の町で、ある母親が、難産の末、赤ちゃんを出産。しかし、産まれたばかりの赤ちゃんは呼吸に問題があり、設備の整った都会の病院へ搬送しなければ助からないという危機に瀕していました。一刻を争う事態の中、赤ちゃんを救った奇跡とは…?

母親:私の赤ちゃん、どうして泣かないの?何が起きているの?

医師:赤ちゃんは、呼吸がうまくできなかったのです。「ここでは、これ以上対応できない」と告げました。必要な医療設備がなく、都会の病院へすぐに搬送しなければいけませんでした。

DJ:家族はわずかな望みを持ってやって来た。一刻を争う事態だ。すぐにマイクを持って、町中に呼びかけたよ。コンタマナの皆さん!ひとりの母親が、俺たちの助けを必要としている!バイクにのってプログレソ空港まで今すぐ集まってくれ!お願いだ!俺たちの助けが必要なんだ。

パイロット:飛行機が離陸するには暗すぎました。空港には夜間離陸用の設備はありません。しかし、何百もの蛍が現れ、滑走路を照らしたのです。

テロップ「ペルーには温かいハートがある」

赤ちゃんを救ったのは、ラジオの呼びかけに応じて集まったバイカーたち。離陸するには暗く危険な滑走路をヘッドライトで照らしたのです。このエピソードは、ペルー国内で大々的に報道されその実話を元に、現地でバイクを生産・販売するHondaがペルーの人々に敬意を表して制作したメッセージ映像でした。

バイクの滑走路にバイカーたちが集まり そのヘッドライトで飛行機が飛び立っていき 母子ともに健康に現在は過ごせているというもの


…………鳥肌がたった。

ホンダが日本の企業であることと

私はちょっとであるがホンダにご縁があるからだ。

89歳で亡くなった母方の祖父の務めた会社が本田技研工業であった。

私は早くに父が亡くなったという事もあり

物心ついてから同居した祖父が父親のかわりでもあった為

HONDAの帝王学を徹底的に思い出話という形で帝王学を教えてもらった。

技術系だった祖父は 兵役終了後
大日本航空という国策で作った航空会社に勤務

大陸に駐在する 関東軍並びにの物流を民間の大日本航空が受託しており
祖父は大日本航空社員という立場で陸軍に従事し サイパン、タイ、フィリピンから中国など 飛び回っていたそうである。

航空会社の技師として大陸で働いていたが終戦と同時に会社は解散

いわゆる会社が倒産し路頭に迷っていたそうだ。

それを拾ってくれたのが、1946年に創業した本田技研工業。
まだ町工場に毛の生えたような会社に技術系の祖父は友人の紹介で就職することになった。

友達に誘われて行った面接

真面目な祖父は 本田総一郎が面接をしてくれた歳に

「森君 君は本田をどういう会社にしたいのかね?」

という問いに

「はい 私にような者を拾ってくれた本田を日本一の会社にしたいと思っています。」と答えたらしい

本田総一郎は

「ばかもの!なんで世界一を目指さないんだ。世界一という事は必然的に日本一じゃないか!」と

面接でいきなり罵倒された、


が 「その心意気は大したものだ」とその場で入社内定

また 本田が浜松の町工場だった時の話である。

そんな町工場の本田に入社した祖父は

拾ってくれた本田の為に一生懸命に働いた。

本当に一生懸命働いたようだ。

あるときに 真面目な祖父は 深夜まで 工場に残り

せっせと道具を磨いたりして 掃除をしていたらしい。

それが拾ってくれた本田への恩返しであると思って

そこにベロベロに酔っぱらった本田総一郎が帰社する

 

「お前 何やってんだ!?」と社長

「はい 会社の為に今自分が出来る事をやっているんです。」

 ベロベロの本田宗一郎に褒められたらしい………。

次の日に出社すると壁に 人事発令が出ており

係長に昇格をしていたそうである。

世界の本田が まだ浜松の本田だった時の事である。


 1951年 埼玉県和光市に 新しい工場を作ることになると

社員のご両親が祖父の家に 進物を持って並ぶらしい


趣旨は 『うちの息子を埼玉に転勤させないで欲しい………』という懇願だった。

祖父は 本田宗一郎に魅せられ 世界を目指していたので

世界を目指す本田の社員のご両親がこれでは困ると

一切、懇願を受け入れず 進物など 受け取らず ただ祖母に命じて

来た社員のご両親の名前だけを記録させ

人事権を持っていた祖父は どんどん辞令を出して行ったそうであ


後に、スーパーカブの爆発的ヒット


当時、浜松工場の責任者であった祖父が本社の藤沢武夫専務からの


「売れているんだからもっと作れ!」

という矢のような最速があったらしい。

この藤沢武夫という 専務の事を祖父は本当に尊敬をしていた。

技術の本田総一郎

経営の藤沢武夫

と二人三脚でHONDAを作った専務である。

藤沢専務に本当に仕事を教えてもらった………と常に言っていた。


「工場だってみんな頑張っているんだ!できないものはできない」

突っぱねていると


藤沢専務からの命令は祖父へ
「一回、出荷の現場をトラックに隣に乗ってみてきなさい」
というシンプルなもの

『なんで行かなきゃならないのか!』と突き返すが、ダメだどうしても行って来いとのこと

渋々出荷のトラックに乗り込み大阪へ

大阪に着いたトラックが助手席の祖父が見たのは

スーパーカブの荷受け場所で

現金を札束を握りしめた販売店主たちが100人以上 


「俺に売ってくれ!俺に売ってくれ!」

というホンダのトラックに群がり
まっている人だかりであった。

その狂ったような人の中にスーパーカブを乗せたトラックがつくそうである。

祖父は生前、よくこの話を 江戸っ子らしく 粋な語り口で私にし


「藤沢専務はずるい! あれをわざと俺に知っていて見せやがった!あれを見てしまうと
俺も男だ・・・どうしてもやらなきゃならんくなる。解ってて見せやがった。
だから専務はずるいんだよ」


と 嬉しそうに 楽しそうに まるで昨日のことのように いつも話してくれた。

藤沢専務 に策に見事にひっかかんたんだ……。

HONDACMを見ると あの祖父の楽しそうな笑顔を思い出す。

大正生まれの祖父が 人生をかけた本田技研工業

その本田技研工場が世界のHONDAへ。


祖父に夢が 本田宗一郎の夢が、藤沢武夫の夢が


昭和の偉人たちの夢がそこにある。


こういうCMを作れる会社が日本企業である事を私は誇りに思う。


【藤沢武夫専務の魔術】

経営として生産、営業と意見が食い違う時は

お互いの最終的な目標が一緒である事をお互いに意識させ

お互いがお互いの大変な状況をなんとしてでも見せ合うことで

心のスイッチを押させ 常識では考えられない知恵と工夫で乗り切ろうとする事がある。


それをやった場合には 部下から ずるいんだなあと 笑いながら言われるようなパターンがいい。


何故 ミッドウェー海戦で日本は敗北したのか?

8月15日の71回目の終戦記念日

15日に靖国に行けなかったので その前の週末、土日2日連続で行ってしまった。

夜の靖国神社は幻想的である。

この時の写真がこれ






































先人達の御霊に感謝の気持ちを伝えてくる。
いやあ心が凛としますな…………。


というわけで今回は

太平洋戦争についての事

長年興味があり自分なりに色々研究をしてきた。

 
圧倒的な小国である極東の日本 大日本帝國が

なぜあの大戦に向かってしまったのか?
当時の日本は何を考えていたのか?
本当に日本は勝とうと思っていたのか?
日本の狙いはなんだったのか?
山本五十六司令長官の狙いは何だったのか?
何故、負けたのか?

ということを自分が勉強しまとめた事をミッドウェー海戦を中心に書いてみる



1941年太平洋戦争開戦を決意
「本八日未明、帝国陸海軍は西太平洋上において米英と戦争状態に入れり」
という状態に突入

日本は、山本五十六司令長官は何を狙ったのか?


12月8日
ハワイ真珠湾があった後のミッドウェー海戦
2011年12月8日は帝国海軍の機動部隊が、
アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島パールハーバー他を
攻撃 いわゆる真珠湾攻撃を連合国司令長官 山本五十六が立案し大成功を収める。

山本長官は
米海軍を守勢に追い詰めるために
もう一度奇襲攻撃を考えた。

山本長官の目的は勝利ではない。渡米経験もある山本は
アメリカ海軍に勝とうなんて思っていなかった。
現実主義者の山本五十六はこれっぽっちも考えてなかった。

山本五十六司令長官の狙ったのはただ一つ 

「米国海軍 と米国民をして救うべからざる程度にその士気を阻喪せしむ」

アメリカは長期戦に弱い
大統領の任期は4年………反戦運動が巻き起こるとたちまち 世論が変わってしまうことがある
山本五十六はこの戦意消失を狙ったのである。

バーン!バーン!って奇襲攻撃を二発 かませば
アメリカの反戦運動が起こるのではないか?

アメリカの南北戦争での死者が62万人
アメリカは死者が50万人を超えると 戦争を辞める傾向があると
山本五十六はよんでいた。

だから反戦運動を引き起こせば絶対にアメリカは割れる
これが五十六の狙い、一発目の真珠湾は 大成功し 見事にアメリカの背中を切りつける。

相手を背中から斬りつけた。この切りつけたおかげでアメリカ海軍はガタガタになった。

しかし利き腕の右腕を切り落としていないという事で
山本五十六司令長官の発案で 決行された第二の矢が ミッドウェー海戦である。

アメリカから戦意を消失さえすれば ……というのが山本五十六の狙い

一方 日露戦争における 日本海海戦が忘れられない日本軍

艦隊決戦でどちらかが全部ぶっ潰して消えて無くす事を狙う

精神的攻撃→山本五十六→戦意を消失させて早期講和
物理的攻撃→日本軍→なるべく自分は傷つかず相手だけを破壊

と考えた方がバラバラだった。

そもそも真珠湾攻撃の後 、日本軍はハワイに上陸していない
あれだけの奇襲攻撃をし ハワイをボロボロにしておきながら
 ハワイ上陸作戦を日本は取らなかった。

何故か? 自らが傷つくという攻撃方法を日本軍が 考えていなかったからである。
上陸作戦には被害を被る。それを日本軍は避けたのである。これは戦争する上で
馬鹿げている作戦

一方アメリカは夜陰に乗じて日本軍が乗り込んでくると思い海兵隊が海岸線に立って防備をしていたのだ。

なぜ日本軍は上陸作戦を決行しなかったのか?


重複するが
山本五十六と日本軍が考えていることが違った。

もしハワイを占領していたら………どうなっただろうか?
1945年 敗戦という形で終わったのだろうか?
少なくとも全然違った形になっていたのでは無いか?と思う。

戦争をする上で の絶対は

『統一感が無い戦線は絶対に敗れる。』ということであり
当時の日本はバラバラの状態であった。これでは戦は勝てるはずが無い

北太平洋、中部太平洋にまたがる海域を
日本海軍が一挙に占拠するというの
大日本帝國の作戦

投入兵力 戦艦約200隻、航空兵力700機、乗員将兵10万人
主役は航空兵力を有する南雲中将率いる第一機動部隊空母4隻
ミッドウェー海戦に投入された兵力である。

日本海軍のシナリオ
6月5日北西250海里へ進出
航空兵力によるミッドウェー基地を攻撃し
この間母艦搭載半数は敵空母出現に備えて待機

6月7日ミッドウェー上陸し航空機を着陸せしめ
随時 米国海軍を空母搭載機と合わせ攻撃をする。

ミッドウェーからアリューシャン列島、トラック島まで
太平洋の5分の4を日本の航空兵力全部網の目に抑えるという重大な作戦であった。

米海軍は太平洋と大西洋に艦隊を二つ配備しているのでものすごく苦しかった
よく日本はアメリカの圧倒的な物量に負けたと言われるが、少なくとも
この時点では アメリカの物量は豊富でなく 日本海軍が圧倒的に物量で勝っていた。

この段階では日本海軍が世界最強と謳われた航空兵力と技術を持っていた。

これが1日で全て消えた……これがミッドウェー海戦

対する

対するアメリカの太平洋艦隊は空母エンタープライズとホーネット2隻のみ
戦艦を持っていないアメリカに司令官は

チェスター・ウィリアム・ニミッツ アメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官

ニミッツは山本が絶対に仕掛けてくると読んでいた。

アメリカは
珊瑚海海戦で コテンパンにやっつけられていたヨークタウンという空母をハワイで
三日間で修理し戦線に復帰をさせた。これは日本にとっては考えられないことであった。
日本軍はヨークタウンは沈んだと思い込んでいた。

そもそも日本とアメリカの戦争の考え方が違う。

ボロボロになりながらも港に持って行き 修理をする力
これも立派な戦争の力なのであった。日本にはこの発想がなかった。

またアメリカはレーダー開発に力を入れている。
悔しいことにレーダーを発明をしたのは 皮肉にも日本人
八木アンテナというものである。

八木アンテナを米、英は徹底的に取り入れ徹底的に研究し取り入れたが
日本はそんなことは一切しなかった。

暗号解読と無線傍受 ニミッツはこれに力を入れ
日本軍は一切力を入れなかった。戦争にはそんなもの必要ないと判断をした。

戦争とは軍人だけが行うものではなく
国家の全てをかけて行うもの
アメリカは全てをこの戦争にかけていた。


ニミッツは戦略を一つ

『日本軍の空母だけやっつけろ、他は一切やらなくてかまわない!』


対する日本軍

『ミッドウェー基地を攻略しろ!近寄ってきた空母も一緒にやっつけろ!』

戦争をする上で 目的を二つというのは絶対に避けなければならない。

と目的が二つあった。
これは戦争という常に予想できない事が起きる際にはアドリブが効かなくなる。
緊急時に判断がぶれるからである。

また 零戦のパイロットの技術は圧倒的に日本が上であった。
アメリカは空母から三割が飛び立てず海に落ちるのである。
技術の欠陥をアメリカはシステムでカバーした。


徹底的に装甲を厚くし、玉は散弾銃のように広範囲に広がる玉を開発
とりあえず打てば広がるので何らかしら当たるのである。

また零戦との戦闘は1:1で戦う事を禁じたのである。
必ず数的優位の状況を意図的に作らせた。

相手の技術を認めた上でそれに対し、個の力ではなく
システムを導入する事で対抗していった。


個人主義対合理主義




というわけで今日の結論


【日本軍がミッドウェー海戦で負けた原因】
① そもそもの太平洋戦争の目的を山本五十六大本営が取り違えていたこと
②ミッドウェー海戦の目的を一つに絞らず 二つにしてしまった事
③②の為に 現場でどっちを優先すればいいのか?というアドリブが効かず 全て指示待ちになってしまった事
④アメリカは決戦の現場だけでなく 修理、無線傍受など戦闘に関わる事以外を含めた総合力で戦った事
⑤アメリカは相手の長所を認め、受け入れた上で合理的なシステムで対抗した事

【ミッドウェー海戦の敗戦から学ぶビジネスでも通用する勝利の鉄則】
①イノベーションを起こす事
②勝負の指標が何であるかを把握する事
③敵の指標の無効化
④新しい指標を創る事


歌舞伎町 のコマ劇前で 学んだ事

今日も暑いっすね



今日 リオ五輪開幕


早朝から上野公園のライブサイトに行ってきました。


マジでとろけるように暑かった…………。







さておき……

今日から時間を見つけては


前回の天才漫画家との事件簿が予想に反して

好評だったため、勝手ながらこれをシリーズ化させて頂き

数々の珍事件をこの場に書き起こしていきます。


『漫画家から学んだ教訓シリーズ』

記念すべき2回目はこれ…………



『瞬時に歌舞伎町に擬態化事件』


 擬態(ぎたい、mimicry, mimesis)とは、

  • 他のものに、ようすや姿を似せること[1]
  • 動物が、攻撃や自衛などのために、からだの色や形などを、周囲の物や植物・動物に似せること[1]。本項では、動物以外の生物によるものも含めて扱う。
(出典:ウィキペディア)


 

今から20年前、マンガ家の悪友とほぼ毎日歌舞伎町のコマ劇の前でナンパをしまくっていた。

彼は 最初に声を掛ける勇気がないので 私が声を掛け

「いやいあ・・・どうしたんだい?お嬢?」と真打登場ぽく 現れる

挙句の果てには、サインペンと紙を持っていて 女の子の前で

スラスラと彼のマンガを描きながら

 

「この作者っておれっち!」と文化人とは思えない行動に出ていた。

 

そんなナンパなど成功するわけもなく

いつも コマ劇前で 彼と二人ふらふらしていた。

 

当時は彼は十代とは思えないほどのお金を滅茶苦茶持っていたが

私と居る時は いつも私の 金銭感覚に合わせてくれて

いつも一緒のものを 割り勘で食べていた。

そういう彼の気遣いが嬉しくて 私は滅茶苦茶貧乏だったけど

とっても居心地が良かった。

 

いつも毒舌ばかり・・・そんな女の子に優しくもない二人が

モテるはずもない

 

だけど心はいつも充実していて楽しかった。

彼と一緒に 同じ空気を吸って、同じものを食べ、同じものを見て、過ごせたからだ。

 

そんな中、いつものように歌舞伎町で 遊んでいると

 

突然、滅茶苦茶怖いお兄さんたちに囲まれた私。

 

私の方が背が高かったので目立ったのだろう。

私がまず捕まった。

 

おそらく 女の子に声を掛けているのが目障りだったのだろう。

 

「お前、ここで何してんだ!?ここは俺の縄張りだぞ・・・」というような事を言われ

その場で いきなり 殴られた。

そして ボッコボッコにされたのだ。突然である・・

 

 

殴られながら・・・

(あれ?彼はどこにいったのだ?どうして助けてくれないんだ・・・?何してんだ?)と 両手でガードをしながら

目を配り探してみると彼を発見する。

 

彼は目の前にある牛めしの松屋に入り、普通に食券を買っており

そのまま普通に 牛丼を食べ始めた。

 

そう・・・街と同化、擬態化をしていたのである。

 

「あいつなんで助けてくれないんだ!まじかよ!」と思うのを通り越して

思わず心の中で笑ってしまった。殴られながら あいつスゲーなと心から思った。

 

全く彼に怒りなど感じないのだ。

 

私はこれ以降、彼の呼び名を 歌舞伎町に溶け込み擬態とする

 

また彼をみると牛丼に真正面から向き合い、紅生姜を乗っけていた。

 


というわけで ボッコボッコにされ うずくまっていると食事を終えた彼が来た。

 

「いやあ 大変だったなあ・・・牛丼食いながら心配だったよ・・・大丈夫?」

 

とくる彼

 

歌舞伎町の擬態士、曰く、非力の彼が助けに入ったところで 二人ともやられてしまう。

それよりは被害を最小限に抑える為に 瞬間、松屋に入り 食券を買ったとの事。

 

むしろ 俺のおかげで大事にならなかったんだぜ!感謝しろよ!

 

と助けてもらえず ボコボコに殴られた私に感謝しろよ!とおなか一杯の彼の一言を聞いて

 

「・・・・・・。」

 

心の底から天才だと思った。

全く彼の頭の回転にはかなわないと思った。

マジでこいつ天才だなって思った。

 

神様が与えた才能というのは本当にあるのだと思った。

 

こいつには勝てない。。。。

 

 

と 傷だらけの私と おなか一杯の擬態士と がっはっは!と笑って煙草を吸った。

 

楽しかったなあ。

 だけど 一切彼に 怒りの感情がないのである。

今でもこの当時を思い出しても全く彼には怒りはない


感謝をしているぐらいである。


むしろ それを通り越して すごいと思わせてしまう。


天才ってマジでいるんだな……と思った。



この事件から学んだ教訓

 

「最悪の状況になった場合には 瞬時に自分の置かれている状況を判断し 被害を最小限に食い止めるべく判断をする

 この場合、自分が無力だった場合 行動を起こすと逆に被害が大きくなるという前提を踏まえなければならない。

 また回避する際には どうやったらそういう回避方法が思いつくのかという魔術的な方法が最善である。」

 

彼と体験した珍事件からは 学んだ教訓は 今、金言として私の中に生きている。

 



『まとめ』

歌舞伎町で仲間が怖いお兄さんに絡まれたら 松屋に逃げ込み食券を買いましょう

その際には一切、殴られておる友達の事は忘れ牛丼に向き合いましょう。

もし若干でも気になった場合には 紅生姜を牛丼に守る事でその気持ちを抑えましょう。

ぼったくりバーを経験した人生から学んだ事

というわけで 今日も飲んでます……

いやあ ビールの美味しい季節です!


二杯目突入ですわ………。























最近、よくニュースで歌舞伎町のぼったくりバーのニュースを見る

歌舞伎町大学出身としては………
歌舞伎町も強くなったな……と思うが

その昔、私は ぼったくれれるとわかっていながら 火中の栗を拾いに行った事がある。
拾う事で 人生のネタになると逆転の発想をしたからだ。


詳細は以下

高校生の時に仲良くしていた友人が 現役の漫画家だった。
同級生で同い年ながら 講談社と契約する売れっ子のギャグマンガ。
お互いの趣味がバイクいじり ということで 学校は違うのに毎日一緒にいた。



彼は 漫画の取材になるということで 私も好奇心旺盛という事で
様々な分野の いろんな人に会い、色んな世界に 取材を兼ねて
ギャグマンガのネタを、私は暇つぶしを兼ねて 無謀なところに飛び込んでいった。


「人生は二つしかない
ぼっったくりバーを経験するか してないかだ ! おれと一緒に経験した人生を歩こう!一生言えるぞ!」

と口車に乗せられ20年前の夏……
新宿までバイク2ケツで 行き
免許証、大金などは バイクの荷物入れにかくして
ジーパン、サンダル、Tシャツの二人が財布に5000円だけ入れ 歩きタバコしながら歌舞伎町の
セントラルロードを歩く

「お兄さん どう?かわいい子いるよ!」と声をかけられ

「マジっすか?キレイ系がいいっすね!」と

5000円でいいからと吸い込まれたバカ二匹

座った瞬間 女の子が10人つき ビールの小瓶をポンポンポン!
がっはっは・!!!!と 飲む私たち

それはもう 最高の夜モテるモテる………。

さて会計は見事に13万……うん ぐらいだったと思う。

5000円ぽっきりというのは我々だけでお姉さんの分は違うとのこと。

後ろには ものすごい喧嘩が強そうなお兄さんが睨んでいる。

こっちはガリガリのバカ二匹


そこで 漫画家の友人が これしかねえ!5000円を出し、そして続けざまに
ツタヤのカードを出し 「これで好きなものを借りてくれ!それを売ってくれ!」と切り出す。

それがめちゃくちゃ受けた・・・・マジで笑いが取れた 。

北野武監督が言っていたが、めちゃくちゃ緊張する場面では ちょっとした笑いが 悪魔のように押し寄せてくるものらしい
……。


明らかに若い、格好も含めお金がなさそうな我々に同情をしたのであろう。

「この状況でそのツタヤのカードを出す度胸に一本取られた。俺たちもこれは長いが
 この切り返しは初めてだ。お前らどうせ金がないんだろう・・・・?5000円でいいから
今日はいい社会勉強をしたと思って気を付けて帰れ!それから人生はそんなに甘くないぞ!お前たち!」と約束通り5000円だった。

「いやーやまちゃん これで俺たちは ぼったくりバーを経験した男だ!」とがっはっはと帰宅する。

そこから二人は見事、ぼったくりバーを経験した人間となったのである。


ここから得た教訓は……

『絶体絶命のピンチでも諦めず なんらかしらの打ち手がある事

私の人生場合には、その打ち手とはユーモアがあったほうが、その打ち手が解決に繋がる確率が高い』


という事だ。

仕事でもプライベートでも絶体絶命のピンチが多々あったが、ちょっと自分の置かれておる状況を第三者的に
上から見ることで どうやったらそういう発想になるのか?というような悪魔的な、魔術的なユーモアある発想で乗り切る事が多々あった。自分絶体絶命のピンチ!を救ったには なんでこんな発想になるの?という魔術的な戦術であった。

絶体絶命の時こそユーモアを忘れない


その漫画家の彼が教えてくれた金言である。


ユーモアのある人生を!




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