ちけん和尚のブログ

ちけん和尚の出来事などを思うまま書き綴って行きます。また、時間に余裕があれば仏教的な観点から仏事や世相を書き綴りますので、是非ご覧ください。また、意見や感想など頂ければ嬉しく思います。  合掌 知憲

2008年06月

連日の法事3

一昨日、昨日と連日法事が続いた。小さな田舎寺ではめったにないことである。いずれも梅雨空で雨が降ったり止んだりとパッとしない天気であった。

一昨日の方は満中陰忌の法事で親族もたくさん参列しておられ、施主も気合が入っているのがよくわかる。私も定刻より十五分余り早く到着したが、すでに全員そろっておられたので、少し早めに開経させて頂いた。

そして家での法事が終わり、隣町のお墓へ車に分乗して向かった。今にも雨が降ってきそうな天気でヤキモキする。まだ納骨法要が控えているからだ。

お墓に到着して、すぐに施主さんたちもやって来られた。施主さんは申し訳けなさそうに、「おすっさん、ちょつと待っといてもらえもへんか。昨日からお墓参りの道具を忘れたらあかんと思うて車に積んどいたんやけど、間違えて別の車に乗ってきたんで家内がもうすぐその車で来ますんで・・・」

やっぱり施主さん気合が入りすぎて緊張しておられる。待つ事10分余り、奥さんが到着して納骨法要を始めたが、心配していた雨がポツリポツリと落ちてきた。

納骨法要の回向文が雨に濡れて墨がにじむ。何とか全員が焼香を済ませたので、早めにお経を切り上げた。そして納骨したお墓の廻りを塩で清め、洗米をまいて餓鬼供養をした後、「先に寺へ戻って用意をしておきますので、水向けされたらすぐにお寺へお参りください。」と言い残してあわてて寺へ戻った。

幸いにも降り出した雨は少し小康状態になっている。寺に戻ってすぐに、ぞろぞろと寺参りにやって来られた。ようやく施主さんの緊張が解けたようで笑顔になられているが、お供えの包みを持たれたままである。普通は本尊にお供えしてからお経を唱えるがこちらから催促するのもおかしいので、そのままお勤めを済ませた。

帰る時になって、家内の方へお供えを渡されていた。やっぱり硬くなられているのであろう。どこかぎこちない。奥様はお墓から自宅へ直行されて自宅でのオトキの用意をされているのか姿がない。

私は自分の車を寺に置き、親族の車に乗せてもらって施主さんの自宅へ向かった。自宅へ到着するとまだお膳の用意が出来ていない。奥さんが墓参りの間に用意をされる予定が、忘れ物をしたので奥さんも墓参りをされたので間に合わなかったのである。
たくさんの親族の方も手伝って、三十分送れのオトキとなり、午後三時頃寺に送っていただいた。

そして昨日の法事である。昨日は三回忌ということもあるが、寂しいものであった。というのも、亡くなられたおばぁちゃんは百四歳という長寿であった為に親族も八十歳近くになられていて遠方から来ることができないのである。従って家族三人の寂しいものとなった。

現代の高齢化社会の象徴のような法事で、一人っ子の息子さんに子供もなく将来的には家の存続も厳しい。
一昨日の法事は子供二人ではあるが、孫は九人もいて賑やかであったのと対照的である。今後このような高齢化と少子化の問題は仏事だけでなく、日本人の生活そのものをに深刻な影響が出てくると改めて思った。









都会のお墓・・・

今日は都会に住んでおられる信者さんの納骨があった。ほんとうは四十九日でする予定であったが、真冬の寒い時であり少し暖かくなってからしようということで今日の日となった。

梅雨の不安定な時期で心配していたが、良い天気に恵まれ気持ちよく納骨法要を済ますことができた。

ただ、大きな霊園は田舎の墓地と違って小さなスペースにつつ一杯の墓を建てさせている。まるでお墓の団地のようで窮屈な感じがしてならない。

霊園は企業であるので営利主義も仕方ないが、相応の価格設定とはいえかなりの高額なものである。せめて隣との境界ぐらいできないものかと思ってしまう。

それと今日気がついた事は、塔婆が建っている墓が極端に少ないということである。
都会の法事は塔婆供養をしない寺が多いと聞いてはいたが、お墓を見ていると一目瞭然である。

塔婆は供養に欠かせないものであり、無辺の功徳がある。故人への供養の証しでもあり手紙の役目も果たすのである。ですから腐るまでお墓に建てて置くのが習わしだ。

ところがこの霊園は塔婆を建てるように設計している墓が少なく、塔婆が建っている墓も少ない。霊園が美観を重視しているのかもしれない。

「古い塔婆を燃やす施設はないのですか。」と霊園の人に尋ねてみた。すると、「この霊園に出入りしているお寺さんがお焚き上げ供養して下さるので、管理事務所で有料でお預かりします。」との事であった。

やっぱり・・・・・私は何か寂しい気持ちになった。
施主様には「今度来た時に私が持って帰りますから。」と言って、霊園を後にした。

専願の護摩・・・

今日は予約で午前10時から護摩の予約が入っていた。常連の方で、もう三年余りも毎月護摩を焚いておられる。

乳癌であり、月一回の病院の定期検査の前には必ず来られる。少しでも神仏の力で病気平癒の加護に預かり、良い結果を得たい為である。

いつものように少し早めに準備していると、予想通り約束の30分前に来られた。もう長く毎月の事なので、阿吽の呼吸のように相手の性分というか性格がわかる。

今日は久しぶりに自身のお母さんと一緒だ。お母さんも毎回付き添いで来られていたのであるが、最近はなかなか娘さんと予定が合わなかったらしく、三ヵ月ぶりである。

今日は少し蒸し暑く、何もしなくても汗が出てくるような天気であった。いつものように護摩を修法をして最後の祈願の護摩木を燃やした。私のところでは、祈願の護摩木は「専顔護摩」の場合三本を燃やす事にしている。

当然の事、本人の祈願に加えて必ず先祖の供養をする。特に女性の場合は、女性方の先祖供養をすることによって、祈願成就の加護を受けやすいのである。

いつもだと般若心経を早めに三遍唱えるとちょうど良い。ちょうど良いというのは、祈願した護摩木が完全に燃えてしまうまでである。

ところが今日はそれ以外に、お不動さまの慈救呪を七回と光明真言を七回唱えるまで燃え続けていた。不思議な事である。同じ材質と同じ量なので普通はそんなに変わることはない。

私には施主家のご先祖様がたくさんおられ、大変歓迎されてなごりおしいようにように思えた。また毎回毎回先祖の供養をしてきているので、感謝されているのかもしれない。信心の深さは時として偉大な力を生み出す・・・という事を何かの本で読んだことがあるが、まさにその通りではないかと思える出来事だった。

水子供養・・・5

今日は雨が一日中降ったり止んだりとうっとうしい天気である。そんな中、予約していただいていた一組のご夫婦らしき方々が水子供養に来られた。

「どれくらいかかりましたか。」とご主人に尋ねると、「二時間半ぐらいです。」という答えが返ってきた。随分と遠くから来られたようである。

申し込み用紙の住所を見てなるほどと思ったが、高速道路を使用されて少し遠回りをされたようだ。いつものように、「当寺の水子供養は五種類の中から選択できす。」
と言って種類の内容を書いたボードを提示した。

すると、迷うことなく「二番目の特別水子供養でお願いします。」という返事があった。ホームページを見てすでに決められ来られていたようである。

水子の命日も先週になっており、まだ一週間余りしか経っていない。他に子供さんがおられるかとかいったプライベートの事はなるべく聞かないようにしているが、その雰囲気や言葉などから水子に対する思い入れの度合いを感じ取ることができる。

女性一人で来られる人やたまに男性一人で来られる人もいる。一番多いのは男女のペアである。しかしそれが夫婦なのか、恋人同士なのか、友人同士なのかといった詮索はしたことはない。しないでもだいたいの雰囲気でわかってくる。

今日の方も想像ではあるが、四十歳前後のご夫婦であることは間違いないと思う。また、雰囲気から他に子供さんがおられるような気がする。

水子供養が終り母体加持に移った時、奥さんの方の様子が明らかに違っていた。気丈な感じのクールな方であったが、目元にうっすらとしたものが光っておりしおらしくみえた。供養が母性に波動したのであろうか。

供養が終り後姿を見送っていると、振り返って深々とおじぎをして頂いた。供養に来られた時に激しく降っていた雨が、帰られる時には止んでいた・・・・・。




「やばい」という言葉・・・1

最近の若者は、「やばい」という言葉を口癖のように頻繁に使う。私の小さい時などは、父親からそんなきたない言葉は使ったらいけないと注意されて育ってきた。

「やばい」という言葉は、昔でいうと「危険」とか「都合が悪い」というような意味合いであったが、現代では使われ方がかなり違ってきているような気がする。

自分の心情を表現する言葉として使われ、「便利言葉」の一つになっている。たとえば「まじー」や「チョー」とかいうような簡略化された言葉が主体となっている中にあって、「やばい」も若者にとってはそのような語彙を失った言葉の一つになっているような気がする。

最近の中高年も少し若ぶって平然と若者言葉をマネしている人を見かける。時代の変化と共に言語も変化していくのは当然であるが、せめて中高年ぐらいは好ましくない言葉を使ってほしくない。

簡略化された言葉が主流になると、美しい日本語が消えてしまいかねない事態となる危険性になることこそ本当に「やばい」と思う。

現代の若者の語彙力の低下は歴然としているが、そうした若者が子供を育てて行くのである・・・美しい日本語が消えてしまわないようにしたいものである。
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