ちけん和尚のブログ

ちけん和尚の出来事などを思うまま書き綴って行きます。また、時間に余裕があれば仏教的な観点から仏事や世相を書き綴りますので、是非ご覧ください。また、意見や感想など頂ければ嬉しく思います。  合掌 知憲

2009年09月

純真な子供と仏性

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(雨上がり、カタツムリが嬉しそうに動き回っていた。)

昨日は隣町の葬祭会館でお葬式があった。葬儀屋さんから頼まれたもので、「四十九日が終わると高野山へ納骨される予定なので、葬儀だけお願いします」ということであった。しかも役僧なしで導師一人での葬儀を望んでおられ、止むなくそれを引き受けた。田舎では一人でお葬式をすることはほとんどない。少なくても「片鉢」と言って役僧が三人いるので導師を含めて四人いることになる。結集寺院の関係もあってあまりやりたくないが、一時的な事で施主さんの心情を思えば、そうした田舎の形式から脱却しなければいけないのであろう。

昨日は朝から時折激しく雨が降っていたが、それも葬儀が始まる昼頃にはあがり曇り空となっていた。亡くなられたのは九十三歳になられるおばぁちゃんで、枕経に行かせて頂いた時にはきれいな死に化粧をされていて随分と若く見えた。そのおばぁちゃんの子供は娘さん一人であり、嫁がれて三人の子供さんがおられるがすでに成人されている。おばぁちゃんからすれば孫にあたるその三人の内の一人の娘さんの子供と思われる小さな三才ぐらいの女の子が、大人ばかりの中でひときわ愛嬌を振り撒いていた。おばぁちゃんの年齢を考えると大往生で、家族に悲痛な面持ちはなかったが、それでも葬式というものは沈痛な気持ちになるもので、その女の子がいることによって親族の気持ちが少しほぐれたに違いない。

赤ちゃんから三才、四才ぐらいまでの子供は、生まれたままの純真な心を持っている。その純真な心は仏様の心と同等であるが、成長するにつれてその純真さは薄れて普通の人間になって行く。亡くなられたおばぁちゃんにとって、その血を分けた孫の子供である女の子が仏様の使者のようで、真っ暗闇の中にいる不安な霊魂をどれだけ勇気づけることになったであろうか。また、お孫さんの葬儀への出席も大きい。私はこうした葬儀や法事などに小さな子供や孫が参加してくれることを心から嬉しく思う。純真な子供の心に仏性が宿り大きく育って行き、こうした法縁によって自分の守護仏(神)に気づき信仰の道を志す人が出ることを願って止まないからである。雲っていた空も、骨揚げから帰って来られて初七日をする頃には晴れ間が広がっていた・・・

世代交代の苦悩

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(湿った草むらでじっとしていると何やら動く生き物がいる。吸血虫のヒルであった。)

昨日は寺の行事の一つ、観音講があった。昔は当番が料理を作ったりしていたようであるが、最近は料理屋さんから巻きずしのパックを取っている。この観音講は女性ばかりで、昔は西国観音霊場のご詠歌を約一時間唱えてお勤めをしていたが、その先達をする方が高齢になられて引退された。その後はご詠歌のDVDなどを上映したりしていたが、少し今までの節回しと違って馴染めずに数回で中止して、現在ではそのつど私が企画して何かをすることにしている。昨日は本堂で約十分余り一緒に読経した後に、市販の有名な僧侶が法話しているDVDを放映するつもりであった。ところが朝から七十九歳になる母親が何やら大きな声で吠えている。

前の春の観音講では、お勤めの後に「おくりびと」のDVDを放映して大好評であったはずである。発売の一か月前から予約して入手したもので、田舎では映画館が遠くてなかなか見に行けないので大変喜ばれた。今回は何かと楽しみにしておられる方もいるのであるが、母親は「あんなテープを流してもろても、何も有難くないとたくさんのクレームがきている」と過剰なほどオーバーに言い、「ご詠歌のテープを流すんやったら私が先達をする」とまで言い出す始末である。よくよく聞いてみると確かに一人の方が母親に「以前に放映した西国のご詠歌は節が違うので合わない」というようなことを言われたようである。しかし、その方はその時以来、たまたま用事が重なったりして欠席されている。その時になぜ母親が、最近の状況を説明しなかったのか疑問に思った。

今から思うと、かって私の父親がしている時は母親が全部仕切っていたが、今は私が観音講の中心になるので自分が疎外されているように感じていたのであろう。私の家内も母親のことをよくわかっていて完全に裏方に徹してくれているが、春の観音講が好評だったのが母親にとっては面白くなかったようである。自分がという意識が強すぎて、逆に私を困らせようとするのであろうか。稼業を継ぐとなると何処の家庭でもある問題であるが、少し立場は違う。母親の生き甲斐を取るつもりはないが、もう少し賢い老人になってほしいと願うばかりである。

観音講のメンバーも全員母親の年齢に近い方や八十歳を超えている方もかなりおられる。「密教婦人会」という組織があったが、とても婦人会とはいえないような高齢の方ばかりになったので、現在は解散という形にせずに休止している。この観音講もそうしたいのであるが、楽しみにしておられる方もおられるので続ける方向でいるが、メンバーの世代交代も母親が仕切っている限り望めない。苦悩の日々が続くが、もう少し我慢するしかない。昨日の当番の一人の方が私の気持ちを察してか「年寄りの生き甲斐を奪ったら早死にするし、年寄りが生き甲斐を持ったら若い人が早死にするって聞きますから、ご住職も気を付けてくださいね」と言われてしまった・・・

忌中と神棚の白い紙

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(咲き終わりかけたムクゲの花にツユムシが休憩していた。)

最近は少なくなったが、家に死人が出ると「忌中」と書いた紙を戸口などに張ってあるのを見かけることがあった。また家の中の神棚には白い紙を貼って封をし、お正月の行事は一切せず、「喪中に付、年賀の挨拶は御遠慮させて頂きます」などと挨拶状を出して年賀状は出さない。そうした風習があるのは日本人であれば誰も知っているところである。いつであったか逮夜参りに行った時、小学生の子供から神棚の前に貼られた白い紙を指さして「あの白い紙をどうして貼るの」と尋ねられたことがあった。私は小さい子供にどう説明したら良いのか迷ったが、「亡くなったおじいちゃんの魂は遠い浄土というところへ行くんだけど、それは仏様でないと駄目なんだ。間違って神様の方へ行ったらおじいちゃんは浄土へ行けないので白い紙を貼って入れないようにしているんだよ」と説明した。

古来から死者が出ると一般民衆は浅く土を掘って死体を埋め(埋め墓)、その後振り返ることなく一目散に帰宅してしまい、死者のことは早く忘れようとしたらしい。死んで間もなくの霊は祟りをなす怖い存在と考えられていたのである。神様も同じと考えられ一時的に見放してしまうので、死者を忌む風習のない仏教に救いを求めたようである。死んだら仏教で儀式をするという制度が一般化したのは江戸時代の徳川幕府で、キリスト教を禁止する手段でもあった。明治時代になって神仏分離令が発令されて神葬祭も一部で行われるようになったが、それほど普及していない。そうした時代背景もあって、地鎮祭や結婚式などは神道で、葬式などの仏事は仏教でという観念が自然に定着してきたが、本来は神仏習合であり、私たち僧侶も葬式だけでなく結婚式や地鎮祭、慰霊祭など広く行うことができる。また寺には鎮守明神など神様を複数祀っている寺も多い。



寺の環境作りの大切さ

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(身体を褐色に衣替えして、里芋の葉っぱの上で日向ぼっこをしているカマキリを見つけた。)

抜けるような青空に白い雲が二つ・・・秋の日差しがやさしく照らすのどかな昼下がり、初老の男性がお参りに来られていた。少なくなった池へ谷川から水中ポンプで水をくみ上げて入れていたので、もうそろそろかなと思って玄関を出たところ、ちょうどバッタリと会った。「ようお参りです」と声をかけると、「ここはぼけ封じの寺なんですなぁ」と応じられた。私はそのまま水を止めに行き、戻って来る時にまた鉢合わせしたのでこれも何かの縁と思い、あわてて「ぼけ封じ観音霊場」のパンフレットを寺へ取りに戻ってそれを手渡した。初老の男性はニコニコと笑いながら「ありがとう。いくつか回ったように思うが、何処へ行ったか忘れてしもうた・・・ご利益がなかったのかな・・・」と低い声で言われ、しばらく雑談させていただいた。

どうも老人会の役員をされているらしい。野山を散策できて落ち着けるお寺を探しておられるようで、偶然通りかかった道路の標識を見て立ち寄られたようだ。話の中で「最近はいろいろな寺がありますなぁ。入りずらい寺や居ずらい寺がありますけど、ここはよろしいなぁ・・・」と笑顔で言われる。私には最初その真意がわからなかったが、話していくうちに寺の門戸を開放している寺が少ないということを言いたかったのではないかと思った。寺によっては不審者が入らないようにしっかりと戸閉まりしていて、檀家さんですら玄関のチャイムを押さないと入れない寺もある。せめて寺の住人が居る時ぐらいは門戸を開放してほしいと個人的にはそう思っているのであるが、寺によってそれぞれ事情が異なり防犯面からも難しいのかもしれない。寺はお葬式や法事など死んだ人の供養するのが仕事と思っている人もいるが、少なからず霊場巡りをされている人は「安心」(あんじん)と心のやすらぎを求めて巡礼されている。そうした人の為にも、この男性の言われたように「入りずらい、居ずらい」という環境を見直し、これからの寺が担っている役割を再認識する必要があろう。

午後三時にお参りの約束があった。一方的に話して来られるので、「そうですね」と相槌を打ちながら途中で「すみませんが・・」と話を切り、最後まで聞いてあげられなかったことを申し訳なく思いつつ男性と別れた・・・


わらべ地蔵に供えられたクッキー

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(虫の音に耳を澄ましていたら、オンブバッタを見つけた。)

最近、常瀧寺の境内に祀ってある「うなずき地蔵」「わらべ地蔵」「水子地蔵」へのお参りの方が増えている。特にわらべ地蔵や水子地蔵へはかわいいぬいぐるみやおもちゃ、お菓子などが頻繁に供えられ、お地蔵さんもきっと喜んでおられるに違いない。そうした中一昨日、あとから思えば偶然にもお地蔵さんの縁日であったが、わらべ地蔵さんへまだ若い女性の方がお参りされていた。檀家さんではないが、何度か見かけたことのある女性だ。私は掃除をしていたので拝んでおられるその後ろを何度か行き来したが、全く気にされることなく一心不乱に拝まれている。お経を唱えているというよりもブツブツと何やら語りかけているようでもあった。しばらくして姿が見えなくなったのでわらべ地蔵さんの前に行ってみると、手作りのクッキーと小さなプラスチックのおもちゃが供えてあった。

私はその事を母親に言うと、母親は以前にその女性と話をしたことがあって「あの人は三年前ぐらいに幼稚園に入ったばかりの子供を事故で亡くされたんや。昨年に檀家さんの法事で寺へ参って来られた時に、うちのわらべ地蔵さんを見て我が子に良く似ていてかわいいと思われたのか、それから時々お参りされるようになったんやで」と話してくれた。道理で一般のお参りの方と少し違うと感じていた私は妙に納得する一方で、何とも言えない悲愴な気持ちがフツフツと湧いてくるのを覚えた。人が病気で死ぬことは、この世で宿業が尽きたものとしてある程度諦めもつくが、殺されたり、事故で死ぬことは、非業の死と言われるようにまだ宿業が残っており、なかなか遺族の心からその悲しみを取り去ることはできない。ましてやそれが我が子ともなると、その悲しみはより一層計り知れないものがある。

私は供えられた手作りのクッキーに、母親としての愛情と、それを作っても食べさせてあげることができない我が子への哀惜の念を感じずにはいられなかった。せめてこうしてわらべ地蔵さんにお供えすることにより、少しでもその悲しみを癒しておられるのだろう。「愛別離苦」の悲しみを「現実」として受け入れて行くにはまだ時間がかかると思うが、わらべ地蔵さんのにこやかな微笑みは確実に女性の仏性を芽生えさせているようでもある。「愛別離苦」の悲しみ、苦しみから一刻も早く立ち直られることを願いながら、お地蔵さんに手を合わせ祈った・・・

阿弥陀如来の説法印について

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(境内の山裾のススキが西日に光っていた。)

いつだったか、法事の仕上げ参りに来られた人が「この真っ黒い仏さんは何という仏さんですか」と尋ねられたことがあった。私は「江戸時代に作られた阿弥陀如来ですが、以前は位牌堂で祀っていたので雨が漏って金箔が剥げ落ちてしまったんです」と説明した記憶がある。私の寺にある唯一の阿弥陀如来像であるが、極楽浄土を護る仏様として信仰を集めてきた。阿弥陀如来の大きな特徴は、「阿弥陀説法印」という独特の説法印である。全部で九種類あり、臨終を迎えている人の様々な信仰や程度によって導かれる部屋が違ってくる。上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)の三種類に分かれ、その各品はまた上生(じょうしょう)、中生(ちゅうしょう)、下生(げしょう)の三段階に分かれるのである。三種類と三段階を組み合わせると九種類になり、一番良い部屋は上品上生(じょうぼんじょうしょう)で、最低の部屋は下品下生(げぼんげしょう)ということになる。

最低のランクにある下品下生印は別名で来迎印とも呼ばれ、どんな悪人や罪人でも往生させ救おうとする阿弥陀如来の働きを端的に示している。つまり、臨終の時、信者を浄土に導く為に阿弥陀如来が二十五人の菩薩を伴って迎えにきてくれるのであるが、その際、信心の度合によって説法を受ける部屋が九つのランクに分けられるのである、そしてそれぞれに応じた説法を受けて浄土へ往生させるというものである。浄土経典によると、王族の生まれという身分を捨てて出家して無限に近い修行を重ねたと云われる。それで四十八の誓願を立てて成道し、その四十八願が残らず成就している仏国土を開いた。それが西方極楽浄土である。阿弥陀如来は今もその極楽浄土にいて説法を続けており、念仏するものを浄土に往生させてくれると云われている。

余談であるが、高尚な人柄を評する時に「上品な人」と言い、少し道徳的な面で劣っている人を「下品な人」と言ったりするが、この阿弥陀如来の印からきている。

墓参りで感じた冥加

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(紫色の木の実の間にバッタがいた。)

昨日は秋分の日であり、彼岸の中日であった。神戸の信者さん宅から寺へ戻り檀務を済ませた後、老僧のお墓と歴代住職の墓へお参りした。元々私の寺には境内墓地はなく、寺の対面にある少し離れた山裾にあった。大きな木が生い茂って薄暗く、川が近くを流れていることもあってかジメジメとしていてお墓参りをしていても蚊やヒルに刺される難儀な場所であった。当然ながら小さい時分はお墓へ行くのが嫌で仕方なかったのであるが、二十年ほど前に私の父親と前総代の努力で境内に歴代住職のお墓を移設したのである。その時には、まさか父親自身が移設した歴代の住職のお墓の横に眠るようになるとは思ってもみなかったことであったろう。おかげで有難いことに私は小さい時分に感じていた嫌な思いをすることもなく、気軽にお参りができるのである。

歴代住職のお墓は自然石に文字を刻んだものが多く、欠けたりしているものもある。貧しかった時代を生き抜き、寺を運営してきた歴代の住職方の苦心惨憺の叫びが聞こえてくるようでもある。寺の歴史を伝えるものは江戸時代の中頃以降からで、それ以前は山中にあって焼失したり移転などで何も残っていなくほとんどわからない。寺は法道仙人が開山したということと、その場所にその時に植えられたと伝わる大公孫樹(オオイチョウ)が唯一現存しているだけである。今ある墓は江戸時代中期以降の歴代住職で、それ以前は不明でとりあえず私でまだ十五代目ということになる。

拝みながら、自分が僧侶としてこの場所にいる縁の深さに思いをめぐらしていた。父親が僧侶でこの寺に入った事。父親の先代の住職が亡くなった時の葬儀に親戚の伯父に連れられて母親がお参りしたのが縁で結婚した事。そして私が生まれこの寺に育った事など様々な要因が脳裏をかすめていた。それと同時に、食べて行くのがやっとのこの小さな寺で、父親は本山などへ単身赴任で勤めながら私を育ててくれたことへの感謝の念が込み上げてきた。僧侶になってこの寺を継いだことを一番嬉しく思っているのは亡くなった父親であろう。そんなことを思いながらお経を唱えつつ、知らず知らずのうちに授かっている神仏の加護と恩恵の冥加を噛み締めていた。西に傾いた日差しが父親の石塔の後ろから光背のようにまぶしく光っていた・・・


戒名の意義

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(里芋の葉っぱの上に穴だらけになった桜の枯葉が落ちて影絵を作っていた。)

以前、まだ私が正式な住職でない頃、都会のお寺へ役僧として勤めていた時期がある。その時、戒名はいらないので俗名でお葬式をしてほしいと頼まれたことがあった。私自身は役僧の身分であり決定権がないので住職に相談すると、全く躊躇することなくそれを承諾された。私はどうしても納得できなかったので、別の役僧の方にお願いして担当を外してもらったことがある。

生前に慣れ親しんでいた名前で送りたいとか、戒名はお金がかかるのでいらないとか理由はそれぞれあると思うが、寺院で葬式をするということは仏教徒になるということで、本来は生前に戒名を頂いて仏様に帰依しているのが望ましいが、そうした方は少ないので亡くなった直後に故人を仏弟子として、仏様のところへ送るのである。潅頂と受戒の儀式をして仏弟子となった名前が戒名で、逆にその戒名という新しい名前を受けなければ弟子にはなれず、引導作法もできないので葬儀の意味をなさないということになる。

私たち人間は死によって無になるのではなく、往生という言葉があるように安らかな浄土の世界へ往き生まれるというのが仏教の考え方でもある。だから故人の亡くなった日を「命日」といって故人の往生を願い菩提を祈るのである。人間は一生の間に四つの大きな節目がある。誕生、成人、結婚、死(葬儀)で、その中でも死は、無常の命を終えて仏のいのちへと旅立つ人生最大で最後の大きな節目の儀式として大切な意義を持ち、戒名はその証しでもある。

現代では戒名というとその代金を払ってもらうという観念があるが、本来は三宝に帰依して本尊を敬い、お布施として喜捨するものである。また、寺院も寺の修理や新築に莫大な資金や労力が必要で、そうしたことに協力して貢献のあった人に対して、それにふさわしい戒名を贈って尊敬と感謝の念を表してきたのである。私の寺では、戒名料の四割は寺の会計に入って寺の修繕などの費用に充てられ、残りの二割は生花やローソク、線香などの消耗品となり、その残りが住職の生活費となっている。寺院によってその用途は全く違うかも知れないが、心から仏縁を喜び、喜捨の気持ちがなければ、戒名の代価として「戒名料」を支払うことへの不満が残ることになるだろう。生前に菩提寺があればその住職話し合い、なければ自分の納得できる寺院や住職を見つけて縁をもっておくことも大切である。

大師のことわざ

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(ツユムシとゾウムシがお見合いをしているように見えた。)

昨日は二十一日でお大師の縁日であったが、今年からシルバーウィークとかで敬老の日と重なった。村では「敬老会」が行われていて毎月来られているお参りの人がそちらへ行かれているのか、お参りされる人が少なく寂しい一日であった。そんな中、都会から一組の中年のご夫婦がぼけ封じ観音のお参りに来られていた。本堂を参拝された後、本堂の壁に掲げているお大師様の一生を描いた十数枚の絵の写真を熱心見ておられるので、「ご遠方からのお参りですか」と尋ねると「大阪からです」と応えられ、しばらく雑談に話が弾んだ。中でも「応天門」の出来事を描いている絵の写真に「弘法も筆のあやまり」という表題をつけていたので、大変興味を持たれたようだ。

「応天門」の絵は、お大師様が嵯峨天皇の勅命で応天門の額を書くように言われ、その額を書き終えて高い門の中央に掲げると、「応」の字の点を書き忘れていた。お大師様はそこで掲げられていた額を降ろさずに下から筆を投げつけると、抜けていた点の部分に筆が命中して「応」の字になったという場面を表している。それが「弘法も筆のあやまり」ということわざで、その道に優れた人でも時には失敗することがあるというたとえになったのであるが、そのことわざがこうしたことからきていることを初めて知られたらしい。お大師様にまつわることわざは他にもいくつかある。この「弘法も筆のあやまり」と並んでよく使われるのは「弘法筆を択ばず」ということわざである。

お大師様は、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆」と呼ばれ書の達人であり、筆の良し悪しに関係なくりっぱな字を書くことから、本当の名人は道具の良し悪しに関係なく良い仕事をするというたとえに使われるようになったというのは有名で、ほとんどの方が知るところである。



回向の功徳

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(葉っぱの上に生まれて間もない体長五ミリぐらいの小さなコオロギを見つけた。)

例年であれば彼岸中は暇であるが、昨日はめずらしく法事が入っていた。実家が寺のすぐ下にあるので小さい時分よく遊んだ幼なじみの七回忌の法事である。ちょうど昨日が六回目の祥月命日であった。彼岸入りしたばかりであり、好天にも恵まれて親族にとっては最高の法事日和であったに違いない。彼が亡くなったのは四十五歳という若さであったが、早くに結婚して所帯をもっていたので三人の子供は当時二十歳前後であったように記憶している。会うのは久しぶりで、それぞれたくましく成長されている。特に真ん中の長女はこの春に結婚してご主人と一緒に来ておられて幸せそうである。私はそれが何よりも嬉しかった。

父親を亡くして三回忌を済ませた半年後に、母親も後を追うように亡くなってしまったのである。両親を亡くして悲嘆に暮れる兄と弟を励まし、彼女は母親代わりで精神的支柱となり兄弟助け合って生活をしてきた。一昨年に母親の三回忌をした時、彼女は突然急用ができたとの事で法事に出席できなかったのである。どうしても休めない急な仕事が入ったようで、別の日に墓参りに来られたそうであるが、そんなこともあって、私は彼女のことが心配で気にかけていた。二十代の一番楽しい時期に、父親と母親を続けて亡くした悲しみを乗り越えてけなげに頑張っているのを祖母から聞いていたので、この日「私の主人です」と紹介してくれた彼女に胸が熱くなった。「良かったね。おめでとう」と言うと、恥ずかしそうに照れ笑いされている。その隣でご主人もやさしそうに微笑んで彼女を見つめておられた。

その幸せそうな彼女の姿は、何よりも亡くなった両親が一番喜んでおられるに違いない。実家での読経の後にお墓参りに全員で行くのが習わしであるが、皆車で行く中、彼女とご主人だけは仲良く歩いて来られた。父親が育った故郷の道を二人でお墓まで歩くことで、父親への想いを馳せていたのであろうか。先にお墓に着いて二人を待っていると、とても日差しが強く二人の歩く後ろに出来た長い影が、まるでバージンロードを歩いている二人を亡くなった両親がしっかりと後ろから見守っているように見えた。生と死を隔てようとも、お互いに助け合って両親と仏縁を結ばれているようで、まさに本当の回向の功徳ではないかと墓前に手を合わせ、菩提を祈った。




仏壇の祀り方

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(谷川のせり出した岩の隙間から彼岸花が咲いていた。)

今日から彼岸の入りである。昨日は檀家さんの四七日のお参りに行った。ちょうど頼まれていた位牌が出来上がってきて、私と入れ違いぐらいに仏壇屋さんが持って来られて並べて帰られたそうである。私は「来週少し早目に来て開眼供養をさせて頂きます」と言って仏壇に目を向けると、仏壇の一番高いところにおられるご本尊の横に並べてある。私の「アレッ」と思った顔に気がつかれたのか「お位牌の並べ方はあれで良いのですか」と施主さんが尋ねてこられたので、私は「あそこは仏様を祀るところですので、その下へ並べられたら良いと思います」と言いながら仏壇の前に行き、他の位牌と一緒に並べ変えた。

市販の仏壇であればご本尊は須弥壇(しゅみだん)に祀るようになっているが、このお宅の仏壇は家に作りつけのもので三つの棚があるだけである。スペースが広すぎて間違えるのも無理はない。基本的には市販の仏壇と同じで一番上の段が仏様(ご本尊)で、その下の段に位牌を並べるのであるが、真ん中はご本尊が見えるようにスペースを空けておくのが良い。向って右側が上座となるので先祖代々の位牌や古い位牌を祀る。そして向って左側が下座となり、新しい位牌を並べるのが決まりとなっている。一番下の段にはお供えなどを並べるのであるが一般的にはお花立が二つ、ロウソク立てが二つ、線香立ての五つが揃って「五具足」といわれるが、その場合は一番下の段の両端に置き、その前の両内側にろうそく立て、真ん中に線香立てを置く。

しかしながら、ロウソク立てなどを仏壇の中に入れると位牌やご本尊様が煤けるだけでなく使い勝手が悪いので、仏壇の前の経机の真ん中に線香立て、その両側にロウソク立てを置くと良い。毎日のことなので普段は花立てとロウソク立てを一つづつにして「三具足」で使っても差支えない。その場合は仏壇の一番下の段の向って左側に花立てを置き、経机の真ん中に線香立て、その右側にロウソク立てを置くのが基本である。使わない花立とロウソク立ては仏壇の引き出しなどにしまっておき、お盆や彼岸、法事などの特別な時には出してきて「五具足」でお祀りされると経済的である。

自然の営みの中で

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(コスモスの花にコガネ虫がとまっていた。)

今年になってから写真を撮ることが多くなった。もちろんこのブログに掲載する為である。特に花や虫が好きで、檀務の合間などにほぼ毎日のように写真を撮っている。できるだけ撮りたての新鮮で季節感のあるものをと思ってやっていると、花や小さな虫の呼吸が聞こえてくるような感じがして、今まで気がつかなかった世界に大きな感動を覚えるようになった。春から秋の季節の変化に敏感に反応しながら、花や生き物が精一杯生きている姿は、鮮烈に私の心を捕らえてひとときのやすらぎを与えてくれている。そんな私のフィールドワークは寺の裏庭であるが、母親のわずかばかりの家庭菜園と雑草混じりの花壇が心を落ち着かせてくれている。

裏庭の花はほとんど宿根草や雑草のようなものであるが、それぞれその時を待っていたかのように着実に花を咲かせ、散って行く。それに合わせて生き物も生死を繰り返し命のバトンタッチが行われている様は、まるで私たち人間のものいわぬ師のようでもある。草むらの中にじっと身を潜めていると、たくさんの生き物が息づき、生きる為に動き回っている。食べ尽くされて穴だらけになった花や葉が枯れ落ちる頃には、その生き物もいつの間にかいなくなってしまう。そして厳しい冬を乗り越えて春には再び共生を繰り返す・・・何でもないことであるが、この自然の営みこそが私たちの心に染み入り活力を与えてくれているのではないだろうか。

自然はたくましく雄大である。そこに溶け込んで生き物や私たち人間は生き、生かされている。少し話が逸れるが、お大師様は「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)という著書の中で「それ禿(かむろ)なる樹、定んで禿なるにあらず。春に遭うときはすなわち栄え花咲く。」と言われている。寒々とした冬枯れの木は、いつまでも葉を落としたままでいない。春になれば息を吹き返し花を咲かせるということであるが、冬枯れの木というのは私たち人間の心でもある。動物のように欲望のまま行動したり、自分勝手な人間らしくない生き方をしている人を指している。しかしそうした人も春が来ると植物の花が咲くように、一つの出会いによって人の心に目覚めきれいな花を咲かせるという意味である。一つの出会いとは縁であると思うが、その縁を大切にする生き方をしたいものである。


墓の開眼の慶弔の違い

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(ナスの枯れかけた葉に毛虫が夕日に輝いていた。)

昨晩、知り合いの方から「親戚が新しくお墓を建て納骨するという案内をもらったのですが、慶弔どちらの包み紙でどう書けば良いのですか」という電話をもらった。詳しく聞くと、四十九日までにお墓が間に合わず、この彼岸に納骨されるらしい。この場合、お墓の開眼だけでなく納骨法要があるので考え方とすれば包み紙は弔ということになる。市販の法事用の包み紙に上書きは御香典、御香料などと書き、それより少し小さめに氏名を書き、裏面に金額を書けば良い。

お墓を建立して開眼供養だけの場合、つまりまだお墓に入れるお骨がないのに生前に墓を建立して開眼供養する場合は、慶にあたる。分家してお墓を建てる事は家を新築するのと同じで慶事として尊ばれるが、地方によっては慶弔に分けないところもある。無難な包み方は市販の水引のない包み紙に、御香料と書きその下に氏名を裏面に金額を書けば良い。施主からお寺さんに渡す場合は、慶事用の包み紙でも良いし、水引のない無地の包み紙でも良い。上書きは御布施と書きその右横に少し小さめに開眼供養と書き、その下に施主名、裏面に金額を書けば良い。

「納めるお骨もないのにお墓を建てると早死にする」と言われる人もいるが、これも迷信である。生前戒名と同じ考え方で、むしろ長寿の功徳があるとされ、死後の心配をすることなく天寿を全うできる。地方によっては親の墓は子供が建てるという習わしがあったが、それはまだ土葬の時であり夫婦墓と言われる一代限りの墓が中心であった。現代では火葬となり、カロートを設けた先祖代々の墓が主流となっている。それで墓を建立すると末代にわたるので「めでたい」という観念が強くなったものと思われる。

観想の勧め

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(オンブバッタの影が面白い。)

私は三本の数珠を使い分けしているが、その中でも護摩に使っている数珠は手垢や汗などで飴色になり、二年に一回の割合で数珠の紐を替えないと切れて使えなくなる。特に護摩は観想が重要で、それぞれの仏様の真言を数百回、千回と唱えて数珠を繰る為に消耗が激しい。心を集中して無心に真言を唱え、数珠を繰りながら仏様の境地を想う。そして祈る。単純なことであるが、集中力とその限界を超えようとする気力と体力が必要だ。その祈りにもレベルがあり、修練を積むことによって向上しリズミカルな波動が生まれてくるのである。

一般の家庭の仏壇の前で祈る場合も読経だけでなく、この観想を取り入れると更に効果が上がる。初心のうちは瞑想から入り、慣れてくればそのご本尊の真言や自分の守護仏など信心している仏様の真言を唱えてみると良い。七回又は二十一回、慣れてくれば百八回ゆっくりと唱え、しっかりと自分の心の中に仏様をイメージして祈ることが大切である。仏壇がない場合は、自分の部屋の壁に向かって座れば良い。順序とすれば、先ず礼拝をして正座又は半跏座で座る。線香かお香があればより効果的だ。よくスポーツ選手などはイメージトレーニングをするが、観想も頭の中で良いイメージを作り、ポジティブな脳のインフラ整備をしてから真言を唱えると効果があがる。つまり、邪念を捨てて取り組むことが大切になってくる。

真言(マントラ)は口に出して唱えても良いし、頭の中で唱えても良い。一定のリズムで何回も繰り返し唱えていると、通常の意識の壁を越えて無限の神秘的な広がりを感じるようになる。私のお勧めは「光明真言」である。「オン、アボキャベイロシャノウ、マカボダラマニ、ハンドマジンバラ、ハラバリタヤウン」と少し長いが、すべての仏様に通じる真言で、どの仏様を拝む際にもお唱えでき、その功徳は広大無辺と云われている真言である。慣れれば一つの真言を二秒か三秒ぐらいで言えるので、百回唱えても四分か五分ぐらいで終わる。是非とも試して頂き、精神修養に役立ててほしい。熟練すれば祈りの波動を感じるようになり、きっと有意義な人生を送れるだろう。










祠の中の位牌

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(カマキリがアオバハゴロモを捕まえて食べているところを撮った。)

この二十日から彼岸に入るが、今年は四連休になる。その前の土曜日を入れると五連休となり、行楽に行く人や帰省する人も多いことだろう。そんなことを思っていたら、檀家のおばぁちゃんから性根貫きの依頼の電話があった。庭に祀ってある祠(ほこら)が古くてみっともないのでこの際に処分したいと言われる。ちょうど暇であったのでどんなものか見に行ってみると、庭の奥にひっそりと木陰に隠れるように古びた祠があった。おばぁちゃんが出て来られ「すんませんなぁーこれなんですけど、私の嫁いできた時からあって・・・おじぃさんが拝んでたんですけどボロボロやし、もう誰も参らんので処分しようと思いまして・・・」と話された。

私は「そうやねぇーもうおじぃさんもおってやないし、息子さんに代替わりされてるんでそうされたら良いと思います」と応対し、後日に性根貫きの日時を約束した。そして帰ろうとすると、おばぁちゃんが「こんなものが祠の中に入っているんです」と小さな白木の位牌を取り出された。古くなって位牌の字はかなり読みにくい。おばぁちゃんによれば、おじぃちゃんの友人の位牌らしく、誰も身寄りがないのでおじぃちゃんが引き取って祠の中に祀っておられたようだ。他人の位牌なので、おじぃちゃんとすれば家の仏壇に入れるのは遠慮があったのかも知れない。私は「おじぃちゃんとご縁があった方のようですし、まだ三十三回忌も過ぎていないので寺で祀らせて頂きます」と言うと、おばぁちゃんは「ありがとうございます」と頭を下げられた。

おじぃちゃんのやさしい気持ちがこの古くなった白木の位牌から感じ取れる。おじぃちゃんが亡くなられ、この位牌を拝む人がいなくなったのを寂しがっているかのようなご縁であった。これもおじぃちやんが生前にその旨をおばぁちゃんに話されていたので、おじぃちゃんに縁があった友人ということがわかったが、おばぁちゃんがそれを知らなかったら、ただの無縁さんの位牌として処分していたであろう。この偶然の機縁に、私はそのお位牌に向け無意識のうちにそっと手を合わせていた・・・。

彼岸の意義

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(食べて穴だらけになった葉っぱにバッタの視線を感じた。)

もうすぐ秋の彼岸である。私の住んでいる町は兵庫県の中央、南東部にあり、中央標準時の子午線である東経百三十五度線が町を通過している。そんな関係もあるのかわからないが、昔は一部の地域で「日迎え火送り」といって、朝は太陽の上る東方へ向かい、日中は南方へ、夕方は日の沈む西方へ行き、それぞれの方位にある社寺やお堂に参る行事があったようである。「春分の日」と「秋分の日」は昼と夜の長さが同じで、季節の境目でもあり、特に農耕に従事する人には大切な節目の日として感謝の念を捧げてご先祖様を供養してきたのである。「彼岸」は「日おがむ日」として元は「日願」とも書かれていたようで、お天道様(太陽)を祈り日に願う特別な日であったに違いない。

その特別な日に仏様やご先祖様に供えるのが「ぼた餅」であり「おはぎ」である。ご存じのように言葉は違っても中身は同じで、春に咲くボタンの花から「ボタ餅」、秋に咲く萩の花から「おハギ」と使い分けされているのも面白い。昔の人にとってはもち米とアズキと砂糖は貴重なもので、その貴重なもので真心を込めて作り、仏様や先祖様に供えて感謝の気持ちを表していたのである。

昔からこの彼岸の時期は農作業に忙しかったせいか、田舎では都会のように彼岸参りの習慣がない。墓も村墓が多く点在し境内に墓地を持っている寺院が少ないので意外と静かで、この時期に寺の行事をしたりして彼岸の意義を知らしている寺院もある。気温は暑くもなく寒くもなく、昼間と夜の長さは同じであることから、どちらにもかたよらない心を説く仏教の中道の教えと重なる。この彼岸の日に、先祖に対する想いと共に生命の尊さにも想いを馳せたいものである。                                    

往生の仕方

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(カメムシの一種であろうか、葉っぱの上でダンスをしているようであった。)

昨日、お墓の性根貫きに行った時のことである。「おじゅっさん、ほんでも良い時に逝ってくれましたわ・・・ちょっと寂しなりましたけど・・・」と七十歳半ばになられるおばぁちゃんがボソボソと話された。先月、百歳になられていた母親を見送ったのであるが、母親の生前から「私の方が先に逝くかもしれませんわ」と良く話されていたものである。おばぁちゃんは病弱で、昨年ぐらいまでは明らかに母親の方が病気もせずに元気だったのである。おばぁちゃんの妹さんは数年前に亡くなり、母親の子供は自分だけになってしまったので余計に重荷で悩んでおられたようである。自分がまだ動けるうちに母親を見送ることができて本当に良かったという思いがひしひしと伝わってきた。

今こうした家庭が増えてきている。「老老介護」と言われているように、高齢者が高齢者の介護を在宅でするものであるが、少子化現象に加えて大変な社会問題となってきている。介護疲れで精神的に追い込まれ、最悪の結末になるケースも目立ってきた。長寿は思わぬところで波紋を広げている。よく「天寿に恵まれ大往生されました」などと話すことがあるが、「大往生」を遂げるにも様々な人の支えが必要であり、本人の望む死に方もままならないのかも知れない。まさに「自分一人で生きているのではなく、生かされている」、家族やご近所、友人は勿論、目に見えない数多くの人、まわりの環境に支えられて生きることができるのである。

私は僧侶として逆縁の供養をさせていただくのが一番辛い。逆縁とは自然の順序に反し、親より早く亡くなった子供の供養をすることである。このおばぁちゃんの「良い時に・・・」という冒頭の言葉は、逆縁にならなくて良かったという安堵感がよく出ている。「自宅の畳の上で死にたい」と願う人も多いが、実際のところは病院のベッドで息を引き取る人がほとんどである。この年代の田舎の人は、それならせめてお葬式だけでも自宅から出してあげたいという気持ちが強い。「老老介護」の問題もそうした親を思う気持ちや義務感からくるものであり、年代が下がるにつれてそうした意識が薄れていく気がしているのは私だけであろうか。看取りと死に方(往生)について今一度見つ直して、その時に備えたいものである。

水子供養の余韻

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(オンブバッタの上に乗っているバッタが足を屈伸させているのが面白かった。)

昨日は一日中久しぶりの雨が降っていた。一昨晩は有馬温泉で有志寺院の交流会があり、早朝に帰宅した。そんな時に限ってスケジュールが一杯であわただしい一日を覚悟しなければならなかった。先ずは法事で始まったが、後のことを考えれば少し抑えて読経すれば良いものを、いつも通りの大きな声で力一杯の読経になってしまった。自分の心の底から込み上げてくる情熱をそのままお経の声に反映さすのが私のスタイルで、手加減が出来なかったのである。最後の逮夜参りをした時には声がかすれて風邪でもひいたようなガラガラ声になっていた。

そうした中、水子供養に来られた夫婦と思われる一組のカップルがとても印象に残った。約束の時間より一時間余り早く来られて車で待っておられたが、次の約束の時間に少し余裕があったので待ってもらうのも気の毒と思い先に供養させて頂いた。雨が降りしきる中、傘をさして仲良く石段を登って来られる。二人ともきちっとした地味なスーツを着ておられ好感を持ったが、緊張されているようでどことなく表情が硬い。早速に供養に入ろうとすると、超音波写真などが入った封筒を取り出して「これを・・・」と女性が言われるので、私は「供養が終わった後に加持をさせて頂きますのでその時に出して下さい」と応対した。

そして「約三十分程度かかりますので、足がしびれないように楽な姿勢で聞いて頂いていたら結構です」と言ったのであるが、二人とも正座のままで供養に対する真摯な姿勢が感じ取れた。供養に入って間もなく女性の方が涙を流されていたのであろう、ハンドバックからハンカチを取り出されているような音を察知した。供養が終わり振り返るとやはりハンカチを握りしめ目が赤くなっておられる。私が「先ほどの写真を・・・」と言うと、超音波写真などが入った封筒以外に「これもお願いします」と安産の御守を差し出された。私は一瞬「アァー」と声にならない衝動にかられ、「わかりました」と平静をつくろったが内心は驚きと「かわいそうに」という同情心で一杯になった。

私はプライバシーの問題で供養に必要な事以外は何も聞かないようにしているが、おそらく生まれてくる赤ちゃんを楽しみにして安産のお守りを持たれていたのであろう。そう思うと居た堪れない気持ちになった。二人とも供養が終わった後しばらく正座したまま微動だにしない。何か供養の後の余韻に浸っているように思えた。少しだけお話をさせて頂いたが、次の予約の方が来られているようなので追い立てるようになってしまった事を申し訳なく思った。そして何か励ましの適切な言葉をかけてあげられなかったことを悔いたが、二人の真摯な姿勢はきっとお地蔵さんに届いて温かく見守ってくださるに違いない。今度寺へお参りに来られる時にはこの雨も上がってきっと青空が広がっていることだろう。

葬儀の時の幡

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(ウドの木にカエルが日向ぼっこをしているその回りをハチが飛んでいた。)

昨晩、三逮夜のお参りに行った。十数名のお参りの方が来られていたが、そのうちの一人の若い方が「お葬式の時に庭に立ててあった幡はどんな意味があるのですか」と聞いてこられた。現在は火葬で葬儀会館などでする場合はほとんど見かけなくなったが、昔はこの四本幡を庭に立てて近隣の人に故人の死を知らせる役目もあった。自宅での式が終わるとこの四本の幡を先頭に村の中を通って郊外の墓まで練り歩き、墓で告別式を行ったものである。六十代以上の方なら昔は見慣れた光景であったが、今は自宅で葬儀をしたら親族が火葬場に行っている間に、近隣の人たちがかたずけて処分するのでこの幡の存在を知らない方が多いのかもしれない。

この幡は長さが四尺余りあって「諸行無常」「寂滅為楽」「生滅滅己」「是生滅法」と書く習わしである。「諸行無常」は、万物は常に変化して少しの間もとどまらないという意味で、「寂滅為楽」は生死の苦に対して涅槃の境地を真の楽とする意味である。「生滅滅己」は煩悩の炎を滅し、生死を超越した境地に至ることで、「是生滅法」はあらゆるものは変転して尽きないもので、これが生滅の法であるという意味である。これらは「雪山偈」といわれ、雪山童子が雪山において羅刹(食人鬼)から聞き伝えたとされる偈(詩句)である。

昔は絹の布に書かれていたようであるが、現在では和紙に墨で書く。それを笹竹に吊るし祭壇を祀る庭先に四本並べて立てるのである。田舎でも最近は葬儀会館でお葬式をする家が出てきたが、その場合は棺の上に置いて祀り最後は棺に入れてあげ冥福を祈るようである。

剣道の試合

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(今年はお盆の最中に赤とんぼが飛んでいたが、ようやく撮れた。)

先週の土曜日、高校生になる娘の剣道の試合があった。女子の人数が少ないこともあって何とか準決勝まできたが、その前の試合で苦戦して五回の延長の末にどうにか勝ってコマを進めていた。準決勝も一進一退で延長に入るかと思われたが、残りわずかで場外に押し出されそうになってバランスが崩れたところ、面を取られて負けたのである。明らかに集中力が切れ、余裕がなかったように思う。剣道は四角い枠の中で試合をするが、その枠から二回出ると一本を取られるのでその枠から出ないように試合する。試合巧者や余裕のある者はこの枠から出ない集中力があるばかりか、その枠を利用してチャンスに変えることができるのである。

娘にとっては良い勉強になったことであろう。トーナメントを勝ち上がる体力と精神力をもっと鍛えなければいけないことを痛感したと思う。人生は人との協調性が時に求められるが、剣道は相手に合わせていると勝負にならない。一瞬の相手の動きをしっかりと見て捉え、技を繰り出すことで相手を負かすことができる。少し大袈裟かもしれないが、相手の目の瞬きや息使いを感じ取って反応するぐらいの集中力と心の余裕が勝機を生むのである。疲れて肩で息をしている娘の姿を見ていると「良くやった」という気持ちと「まだこれからやなぁ」という気持ちが交錯する。何事も経験を重ねることで一人前になって行くのだろう。

お経の読み方

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(俊敏に動き回っていたアゲハ蝶。どうにかこうにかやっとのことで撮った。)

先日法事のおときの席で雑談していたら「私のところは浄土宗ですけど、真言宗のお経は難しいですなぁ・・・」と話してこられた。私は「真言宗は漢音で読むのがルールですが、浄土宗は呉音で読まれているようですのでそういった違いの関係もあるかもしれませんね・・・」と応じた。たとえば「阿弥陀経」の最初に「如是我聞、一時・・・」とあるが、浄土宗などでは「ニョゼガモン、イチジ・・・」と読むが、真言宗では「ジョシガブン、イッシ・・・」と読む。お経は中国から伝わり漢訳されて音読みするのが普通であるが、その音読みにも日本の方言と同じで「呉」という地方からきた「呉音」や、唐からきた「唐音」、漢からきた「漢音」などの種類があるのである。

特に真言宗は「真言」や「陀羅尼」といった舌を噛みそうな呪文を唱えるが、これは中国で漢訳されずインドのそのままの言葉(サンスクリット語)をそのまま音写したものである。つまり、仏教の真髄を秘める言葉で、訳すとその効力が失われると考えられていた。そのまま音写することによって諸仏の功徳が得られ、仏と一体化できる呪文のようなものであったのである。ほとんどの方が知っているお経で「般若心経」の最後の部分の「ギャテイギャティ、ハラギャィ・・・」などは陀羅尼であり、このお経の中で唯一音写されている部分である。

本題から少しそれるが、冒頭に書いた「如是我聞」は「このように私は聞いた」という意味である。お釈迦様の説法を聞いた弟子が書き写したものを編集したのがお経の原点であることをよく表している。最近は写経ブームであるが、元々は印刷技術がなくお経を写すことが仏教を伝え知る唯一の手段であった。一字一句を漏らさず丁寧に写すことで仏教のすばらしさを自然に体得していたのであろう。お経には見るだけでも、読むだけでも功徳があると云われている。よく「どうしたらお経を覚えることができますか」と質問されることがあるが、毎日お経の本を見てお経を聞いているだけで「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということわざがあるように自然と覚えられる。お経のCDやテープなどは仏具店などにも置いているし、インターネットでも購入できるので精神修養の一環としても是非お勧めしたい。
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