ちけん和尚のブログ

ちけん和尚の出来事などを思うまま書き綴って行きます。また、時間に余裕があれば仏教的な観点から仏事や世相を書き綴りますので、是非ご覧ください。また、意見や感想など頂ければ嬉しく思います。  合掌 知憲

2009年10月

「三昧」の境地

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(境内を流れる谷川の浅瀬に落ち葉が溜まり、水が光っていた。)

いよいよ今日で十月も終わり、何か月日が過ぎるのが早く感じられる。日中に比べて夜が長いので読書三昧にふけってみようかと思うが、朝型人間の私はどうも夜が苦手ですぐに眠くなってしまう。ところで、「・・・三昧」という言葉を日頃よく使っているが、この「三昧」という言葉は仏教語でもある。インドのサンスクリット語(梵語)の「サマーディ」をそのまま音写したもので、ひとつのことに夢中になるありさまを指す言葉となった。元々この「サマーディ」という言葉自身は、「よく結合すること」をいい、心が一ヶ所に専注して不動なことを指す言葉であり、「定」と解釈されている。

まさに大乗仏教においては実践そのもので、禅宗では「座禅」、浄土門では「念仏」を言い、密教では「三密」と言われ、印を結び真言を唱え、仏を想うことによって「心が三昧に至る」とされている。密教における瞑想法は「阿字観」というもので、自分と仏(大日如来)との一体化を目指すものである。つまり、「三昧」とは、心を集中して何事にも動ぜず、全くそのものになりきる精神修行を指すものであろうと思う。

真夏の猛暑日には「暑い暑い」と言い、部屋に閉じこもってクーラーをガンガンにかけ、真冬の厳寒日には「寒い寒い」と連発してストーブの傍から離れようとしないのが私たち凡人である。結局は何も手につかず無為に過ごすことが多いのではないだろうか。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」ではないが、暑くても寒くてもそれに動じることなく、一心に打ち込む「三昧」の境地を目指して日々精進したいものである。

一日の気持の差

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(愛子様にちなんだプリンセス・アイコというバラを撮った。)

昨日は檀務が入っていなかったので、伊丹のバラ園へ出かけた。快晴の良い天気でたくさんの人が来園されていた。こんなに本格的なバラを見るのは初めてのことで、たくさんの種類と気品の高い名前のついたバラに感激してのんびりとした半日を過ごさせて頂いた。花を見ていると心がやすらぐのは誰しもであろう。たくさんの来園されている方々の顔は何処が和んでいるように見えた。ちようど花の写真を撮っていると、幼稚園児の一行が先生に引率されてやってきた。小さな園児の顔がほころび「ワーきれい!」と歓声をあげているのを見ているだけで、こちらもバラの花のように華やいだ明るい気持ちになってくる。バラにはトゲがあって仏様に供える花にはできないが、その清楚な美しさは見る人の心を和ませるには十分である。

近くで昼食をとり、午後から近くのショッピングセンターに立ち寄った。午前中ののんびりとした雰囲気とは一転して、人ごみの中をブラブラとするのは疲れる。しばらくすると家内がお手洗いに行きたくなったのでその近くで待っていると、待っている通路の前が喫煙所であった。すると一組の若いカップルがベビーカーを押しながらその部屋へ入って行ったのである。私は唖然とした。ベビーカーには幼い赤ちゃんが眠っている。何もこんな煙の中へ一緒に入らなくてもと思ったのであるが、私にはどうすることもできない。そんな自分にやるせなさを感じながらその場所を離れたが、何かモヤモヤとして気分が晴れなかった。何を買うでもなく、足早に帰宅の途についたのであるが、午前と午後の大きな気持ちの差を感じた一日となった。

猫の前の犬 ??

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(菊に小さなかわいい体長五ミリぐらいの虫がいた。)

昨日は、月末の水曜日で定例の護摩を焚く日であった。ちようど二十八日のお不動様の縁日と重なり絶好の日である。朝から濃霧で晴天が予想されたが少し肌寒く、護摩の用意をしながら白い息を吐いていた。紅葉も急に寒くなったのでだいぶ進んでいるようだ。天気が良かったせいかお参りの方も多く、狭い護摩堂は満員であった。いつも苦労するのは、護摩檀の釜が小さいので檀木を燃やし過ぎると、添え護摩木を投げ入れてもすぐに満杯になるので途中で何度も掻き混ぜて炭化した燃え柄を小さくしなければならないことである。有難いことにそれだけ添え護摩木が多いということであるが、いつも護摩が終わると釜は山のように盛り上がって崩れた一部の燃え柄が檀の上に転げ落ちているのである。以前であれば檀の板が焦げたりして大変であったのであるが、今は不燃材を貼り付けたステンレス板を貼っているので安心である。

護摩が終わってホッとしていたら、一組の観光客らしきご夫婦が犬を連れて参拝されていた。ところが、連れている犬が激しく吠えている。私はちょうど護摩堂のお供えを下げるところであったので、一段高くなった場所から「どうしたんだろう」とその方向を見ていると、一匹の猫にその犬が怯えて吠えていた。その猫は首輪がついていて何処かの飼い猫であるが、よく寺にノコノコと散歩に来ている。自分の庭のように思っているらしく、いつも私を見ても逃げる様子も見せず堂々としているのであるが、昨日もその犬のすぐ前を悠々と通り過ぎるので、犬が立ちすくんで吠えていたのである。「猫の前の鼠」ならぬ「猫の前の犬」になっていたのであろうか。私は遠くからその様子を見ていて思わず笑ってしまった。人間社会と同じように、犬と猫の関係も逆転しているようだ。

法事に子供を参加させよう。

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(境内の紅葉も少しであるが色づき始めた。)

私は法事に子供が参加していると嬉しくなる。たくさんいると騒がしく、読経の最中に気が散ることもあるが、知らないうちにそれに負けないくらいの大きな声にボリュームを上げている。そして必ず読経が終わった後に子供さんを見つめながら法話をすることにしている。すると不思議なもので、急に静かになっておとなしく聞いてくれる子もいるし、私の視線に気がついて親が静かにさせてくれることもある。子供のことなので騒いだり、走り回ったりするのは仕方ないことで、それよりも法事に出席してくれているだけで十分である。子供なりに祖父母や両親が手を合わせている姿を見て、何かを感じ取ってくれるのではないだろうか。また親族と共にお墓へ参り、墓石に水をかけ線香をあげることでご先祖様もこの上もなく喜んで下さっていることであろう。そして寺へ仕上げ参りをして焼香の煙に触れることで、その香りは小さい子供の心にいつまでも残るに違いない。そうした法縁が子供の仏性を育て、将来の社会生活においても大いに役立つのである。

時々「先祖供養をしっかりとしていると幸せになれるんですか」と聞いて来られる方がいる。私は「そう思ってするものではないですよ」と言うのであるが、小さい時分から神仏に馴染んでいればそうした疑問は湧かないだろうし、先祖に対して感謝の気持ちが自然にできるのではないかと思う。自分が小さい時にお世話になった祖父母はもちろんであるが、会ったこともない先祖に対して感謝する習慣を子供の頃に身につけた人は、社会の中でも、人の心に対して敏感でいられるようになるであろうと私の経験からはっきりとそう言える。そして、社会生活でも失敗することが少なくなり、親に対しても思いやりの気持ちが育って良い家族関係ができるはずである。だから法事や墓参り、寺参りに子供や孫を是非とも連れて来て欲しいと願っているが、最近は高齢化で亡くなる方の子供といっても還暦をとっくに過ぎておられる方が多く、孫にあたる子供も子育ての真っ最中である。本当はひ孫でも小学生以下ぐらいの子供が一番良いのであるが・・・なかなか現実は少ないようである。

不動明王について

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(雨上がり、チカラシバが輝いていた。)

最近「お不動さん」を信仰されている方が増えた。私のところでも護摩堂、本堂、本堂の脇部屋など全部で四体の不動明王を祀っている。また、境内の滝場には「水掛け一願不動」と不動明王の化身である「倶梨伽羅龍王」を祀っているのであるが、このところお参りされている方をよく見かけるようになった。観音さんや地蔵さんと並んで人気の三大尊の一角を占めている。修行する者を護る仏様でもあり、護摩などの本尊とされる場合が多い。お大師様が初めて日本にこの仏様を伝えて以来、その信仰は爆発的に広がって行った。大きな特徴は憤怒身で大日如来の化身であるということである。本尊の大日如来に代わって素直に信じない人々を救済する為に身分の低い使い走りと言うか、召し使いとして憤怒の姿をしてその役割を果たしているのである。つまり、明王はすべて大日如来の化身で、憤怒の姿は強烈な慈愛の表れであり必死の形相で我々を救済しようとしているのである。

いつであったか、お参りに来られた方が本堂の脇の部屋に祀っている不動明王の立像を見て、「両脇に童子を従えているのはどうしてですか」と尋ねられたことがある。私は当時まだ勉強不足で「お不動様の仕事はたくさんあるので補助をする為に仕えているのです」と知ったかぶりをしていたのであるが、不動明王の姿の特徴を示した「十九観の相」という図像的特徴の中の十九番目の最後に、「二童子を侍していること」という項目がある。「こんがら童子」と「せいたか童子」と呼ばれる童子で、不動明王の従者には三十六童子、四十八使者などがあるとされ、その内の二童子を従えている場合があるのである。不動明王自身が大日如来の使者であるので、脇侍としての童子もその分身で法身大日如来の性格を持つのであろう。

私は二十数年前、まだサラリーマンであった頃に交通事故で九死に一生を得たのである。その時に助けて頂いたのがお不動様であり、それ以来私はお不動様を信奉してきた。僧侶になってからは毎月定例の不動護摩などを通じて、少しでも多くの方々にそのご加護を分けて頂くように祈念している。また、住職にならせて頂いたお礼に不動明王の化身である「倶梨伽羅龍王」を特注で石材屋に頼み手彫りしてもらった。それを滝場に奉納したのであるが、残念な事に滝の水量がなく循環ポンプを利用しなければならないのが残念である。「滝行」はできないが、ひたすら感謝して祈り続けることで「お不動さん」を観想し、その大きなエネルギーを頂くのである。
http://jyoryuzi.aki.gs/gomakuyou1.html

水子供養大祭の存続

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葉っぱの上にかわいい目の虫を見つけた。カメムシの種類であろうか・・・

昨日は曇り空ながら心配された雨も降らず水子供養大祭を行った。隣の寺の行事と重なってお参りの方は少なく、約二十名程の方々が来られていた。それでも毎年のことではあるが、私と家内と母親の三人しかいないのでそれぞれ役割分担が決まっていてかなり忙しい。母親は受付をして卒塔婆を書く役目で、家内は法要の後におうどんを接待するのでその準備に追われ、私は法要の用意とその執行役を務める。以前は「密教婦人会」なる組織があって手伝ってくれていたのであるが、皆高齢になって今は解散状態にあるので仕方ない。この水子霊園に奉納されている施主さんも高齢になられ、私自身は水子大祭を止めたいのであるが、二十年余り続けてきた母親にとっては思い入れが強くて言うことをきかない。無理やり母親に言われて不自由な身体を引きずるようにお参りされている方もおられ、私としては心が痛む。その時を待つしかない。

そうした中、昨日は一人の若い女性が参拝されていた。以前に水子供養に来られた方であるが、遠方からわざわざこの水子大祭に参拝されようとするお気持ちは本当に尊く有難い。そうした方の為にも水子供養大祭を続けていかなければという思いが一方では湧いてきて、少し複雑な気持ちになった。来年はもう少し形を変えて何らかの方法を模索していかなければいけないであろう。供養の後に出してもらったおうどんを食べながら、そんなことを思っていた・・・





掃除の合間の歓談

tuwabuki(ツワブキの花が咲いた。普段は目立たないがこの時ばかりは存在感がある。)


今年はモミジの色づきが悪いようである。常瀧寺のモミジも中途半端で葉の先が縮れたようになっている。欲しい時期に雨が降らなかったのが原因で、天候に関係しているようである。そのせいか例年に比べて葉が落ちるのが早いなぁと思いながら落ち葉を掃除していると、軽自動車が参道を登ってきた。しばらくして「こんにちわ、いつもお世話になってまして・・・」と檀家さんの女性が降りて来られた。明日に水子大祭をするのでご自分の奉納されている水子地蔵さんの清掃に来られたようである。私は十時過ぎに法事へ行く予定であったが、まだたっぷりと時間があったので少し立ち話をさせて頂いた。

今までお盆参りなどで顔を合わす程度でほとんど話をしたことがなかったのである。私より一回り程度年上であるが、若く見えて話していると女性の流暢な口調に引き込まれて行った。ほとんど女性が一方的にしゃべられるので、私はあいづちを打つぐらいであったが、ふと気がつくとお参りに行く時間になろうとしていた。私は時間が気になって腕時計に視線を落とすと、それを察知されて「すみません。お忙しい時に長話をしてしまって・・・またよろしくお願いします」と言われてその場を別れたが、世間話に加えて日頃思っておられることを率直に聞けてとても楽しい時間であった。

余りにも饒舌にしゃべられたので頭の中をスーと通り抜けてしまった。プライベートの部分もあるのでここで詳しくは書けないが、一つだけ印象に残った事がある。都会に住む叔父の法事に行った時、引き出物が小さな菓子箱一つだけであったそうである。こちらの田舎の方では、もらった香典の額と同額のものを返すのに礼儀を知らないのにもほどがあると少し興奮気味に話された。私はその時、「そうですね、田舎と都会では法事のあり方に少し温度差があるみたいですねぇ」と応じたのであるが、女性との話の中で唯一私がしゃべらして頂いた言葉で、後はすべてあいづちであった。しかし私自身は全く苦痛ではなく、むしろ包み隠さず悩みや愚痴を言って頂ける事を嬉しく思った。アッという間の一時間であったが、掃き掃除したところにはまた枯葉が落ちていた。

読経の癒し

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(朝露に菊の花がぬれて輝いていた。)

昨日は朝方に霧が出て視界が悪かったが、しばらくするとそれも消えて秋晴れの良い天気となった。そんな中、田舎ではめずらしく祥月命日のお参りが入っていた。檀家さんではないが、依頼されて数年前にお葬式をさせて頂いたお宅である。水害の為に家が流されて無くなり私の町内に引っ越して来られたのであるが、その引っ越しと夫の看病で心労が重なり元気だったおばぁさんが突然亡くなられたのである。その半年後に後を追うようにおじぃさんも亡くなられて、現在ではその家に娘さんが一人で住んでおられる。その娘さんもすでに還暦を過ぎられ、その時からすると随分と年月が経った印象があったのであるが、以外にも昨日でちょうど三回目の命日であった。よく考えてみると、昨年に三回忌の法事をしているのであるが、たくさん法事をするので私の中では完全にはるか昔のような記憶でしかなかったのである。

昨日は、その当時から熱心にお参りに来られていた故人といとこであるおじぃさんも来られていた。すでに七十五歳ぐらいになられていると思うが、一時間以上軽トラックを運転されて毎回お参りに来られている。そして何よりも感心させられるのは、このおじぃさんは日蓮宗の檀家さんで全く宗旨が違うのに、般若心経や真言などすべて唱えられる。昨日読経した観音経もしっかりと私に合わせて読まれていた。以前に聞いたことがあるが、西国観音霊場を巡礼された時にお経の本を購入されて毎日唱えられているそうである。その時に「私しゃ熱心な仏教徒でもないんじゃけど、お経をあげとったら心が落ち着くんですわ、意味もわからへんけど読経の後に妙なさわやかな気分になれるんで癖になりましたなぁ・・・」と人の良さそうな笑顔で言われたのを思い出した。

昨年に長年連れ添って、五年余り介護してきた奥さんを亡くされたと言う。昨日久しぶりに会ったらどことなく元気がなさそうに見えた。奥さんを亡くされて気落ちされているのであろうか、私が「大変でしたね」と話を向けると、「いやー長いこと寝とったんで・・・」と言葉少なく言われた。このおじぃさんにとって奥さんの存在があったからこそ、毎日読経をして病気平癒を祈ることで介護のストレスもやわらぎ、やすらいだ気持になっておられたのであろう。「今も毎日お経をあげておられるんでしょう」と言うと、「そうじゃなぁ、お経を言うとったら蓮の華の上に婆さんがおるようでなぁ・・・」とポツリと言われたのがとても印象的であった。胸が熱くなるのを感じながら寺に戻った。


大公孫樹(おおいちょう)

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(常瀧寺の大公孫樹)

昨日は檀務が入っていなかったので、久しぶりに裏山の大公孫樹(おおいちょう)を見に行った。この八月の豪雨でどうなっているのか心配であったが、見に行こういう気持ちはあってもなかなか行動に移せずにいたのである。境内のお墓の脇から登山道に出ると、草が背丈ぐらい伸びて視界をふさいでいて満中に一人がやっと通れる空間があった。すぐにそこを抜けると、今度は大量の土砂が流れてきていて道はあちこちえぐれ陥没している。道が川のようになっていたのであろう。すさまじい水の力である。道幅はあるのでそれらを除けながら百メートルぐらい進むと、いつもの変わりない道になり安堵した。この登山道は途中まで車で登れるようにと新しく切り開いた道で、本来の登山道であった獣道とは全く別のルートである。人工的に無理して設置しているのでどうしても自然の災害には弱い。十年ほど前にこの道が出来た時に「大公孫樹を守る会」なるものが結成されたが、補助金がそれほどでないということで解散状態であり、こうした荒れた道を直す手段がないというのが現状である。

日頃運動不足の私には山道は堪える。寺から八百メートル余りの山道であるが、何カ所かで休憩をとりながら約四十分もかけて登った。大公孫樹は山の中腹にあり、回りを木々に囲まれているのでそれほど大きな災害に遭わず千数百年の風雨に耐えてきた。元々常瀧寺を開基したと云われている法道千人が植えたものであると伝わり、その時分は七堂伽藍を完備した大きな修験の寺であったらしい。あたりには基礎石が散在していてわずかにその名残を留める。一見すると数本のイチョウの木があるように見えるが、一本の木から枝が伸びそこから乳のように瘤が垂れてきて地中にもぐり別の木のようになっている。主幹の木で幹回り十一メートルもある大きな霊木であり、こうした形状のイチョウの木は全国的にもめずらしい。こうした木を保存して後世に少しでも長く残したいのであるが、兵庫県の天然記念物にようやく数年前に指定されたものの、市や県など公共機関は保護に消極的である。私の小学校時代からすると老木の為に枝が折れたりして外観は大きく変化しているのが残念で仕方ない。大公孫樹の下に祀ってある石造のお大師様は相変わらず涼しい目で見つめておられた・・・

一人でする葬儀

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(常瀧寺の石段脇のモミジが紅葉しているが、例年に比べて色づきが悪いような気がする。)

昨日は檀家様の葬儀があった。密葬というか家族葬でしたいとの遺族の強い意志があり、一人で葬儀をしてほしいと懇願されてどうするか随分と悩んだ。村の自宅でお葬式をする以上、これまでの村のしきたりや風習があり、他のお寺さんとの関係もあるので簡単に引き受けられないのである。最初に連絡を受けた時、一旦はその話を保留して枕経に行かせて頂いた時にどうするか話し合う事にした。

今年の三月にガンで入院されたのであるが、すぐに退院されて自宅療養をされていたので回復に向かわれているものと思っていた。まだ六十五歳と若く、奥様とまだ嫁がれていない二人の娘さんを残しての旅立ちはどれだけ心残りであったことであろうか。また、娘さん二人も東京で生活されており、こちらへ戻って来られない意向で、奥さんは家が絶える事をある程度覚悟されているようであった。先行きのそうした不安もあって家族葬を望まれたのであろう。枕経に行かせて頂き、いろいろ話を聞いているうちに、奥さんがメモ書きを見せられた。それは故人が病院のベッドの上で走り書きしたもので、「ご住職様へ」と書かれその後に「私が死んだら一人でお経をあげて下さい、ご迷惑をおかけします」とあった。字は斜めに走り書きされて震えたような字であったが、何とかと読むことができ、奥様へも早く逝くことを詫びる記述が書いてあったのである。

そんなメモ書きと奥様の涙ながらの話を聞いていると、一人で葬式をしてあげようという意思を固めざるを得なかった。都会では導師一人でする光景は見慣れているが、田舎ではまだまだ僧侶四人以上でするのが一般的で、「掟破り」という印象を持たれ、前例を作ることで寺の運営にも影響しかねない。しかしそれは私自身の住職としての決断であり、どうなろうとも後悔をするつもりはないと強く自分に言いきかせて臨んだ。おそらく私の父親である老僧が生きていれば「そんなことはできない」ときっぱりと断っていたであろう。まだ私は僧侶として未熟なのかもしれないが、僧侶という絶対的優位な立場からもの事を判断したくないのである。サラリーマン生活が長かったので少し変わっているのかもしれなが、同じ目線でいたいというのが私の素直な気持ちである。葬儀会館での一人葬は何度もしているが自宅では初めてのことである。鳴り物を入れて役僧の分までするとペースがつかめずかなり疲れたが、引導を終えて退出する時には秋晴れの良い天気であり、さわやかな風がちょうど吹いてきて気持ち良かった・・・

三段階の礼法

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(数年前に購入して植えた宿根の花であるが、花の名前は忘れてわからない。春と秋に可憐な花をつけるので重宝している。)

以前に法事でお参りされていた五歳ぐらいの男の子がピシャッ、ピシャッと柏手を打っていた。あまりにも小さい手でとてもかわいかったが、それに気づいた祖母が「ゆうちゃん、ここはお寺やから手をたたいたら駄目よ」と言って合掌をして見せた。それを見た男の子は祖母の真似をして「こうするの・・・」と言って小さな手を合わせて拝む姿に、思わず回りにいた親戚の方々が微笑まれていた。小さな子供にとって、神社もお寺も区別がつかないだろうし、そうした礼拝の仕方など関係ない。神様や仏様の前にいてかわいらしいしぐさを見せてくれるだけで十分であろう。小さい時分から神仏に馴染むことで良い仏性が育っていくに違いない。

元々古代日本では手を打って拍手することによって相手に敬意を示す風習があった。それが中国から入ってきた「立礼」と合体して神社を参拝する時の作法の元となったのである。また、仏教の手を合わせて合掌礼拝する作法も元はインドから中国へ入り日本へ伝えられたのであるが、中国では「立礼」が主体であった為、立ったままで合掌して礼拝する仏様の拝み方になったと云われている。インドでは三段階の礼拝の仕方があった。立ったままの合掌礼拝と、ひざまずく礼法と、身体ごと両手両足を地につけて拝む「五体投地礼」である。その最初の一番軽い礼法が日本に伝わって今日に至っているのである。今でもインドやチベットなどの奥地へ行くと「五体投地」の礼法で一般の信者も拝まれている姿を目にする。日本でも宗派によって違うが、僧侶になる為の最初の修行はこの「五体投地」の礼法から始まる。

男性一人の水子供養

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(少し遅いが、庭の金木犀がようやく満開でいい匂いを放っている。)

昨日は水子供養の予約が入っていた。約束の時間に少しだけ送れると律儀に電話がかかってきたのであるが、予約電話と寺の電話の住所が違うので、ナビを設定される時に予約電話で入力されて違うところへ行っておられたようである。私も寺で別の用事をしていたので、少しばかりの遅れは全く気にならなかったが、そのわずか前に、一組の男女がタイミングよく観光に来られていたのを間違えて「予約の方ですか」と声掛けしてしまった。それからしばらくして長髪の青年が「遅れてすみません」と言ってやって来られたのである。ところが男性一人である。男性一人で来られる方は年に一人か二人おられるが、極めてめずらしい。ほとんどカップルで来られるか、母親や友人と一緒に来られる方が多いので少し驚いた。

どちらかというと母体に直接影響があるので女性の方の方が供養には向いているのであるが、男性からでもその供養の波動が及び得ぬことはない。プライバシーの問題もあってあまり立ち入っては聞かないようにしているのであるが、今までの経験から、男性一人で来られる場合はその女性と別れられていることが多かった。ところが供養が終わりいろいろ話をさせて頂いていたら向こうから、「今度彼女を連れて近いうちに来させて頂きます。今日は仕事で来れなかったものですから・・・」と話された。そして「少しでも早く供養をしてあげたかったんです」と神妙に言われる。私は「ハッ」とした。何気なしに中絶手術された日を見ていたが、二日前のことである。その日のうちに私の寺を調べて予約されていたのである。私は彼のやさしく誠実な気持ちに頭が下がる思いであった。そしてお供えとして買って来られたのであろう。包み紙から駄菓子を取り出され「これを供えさせて頂きますか」と差し出された。室内で祀っている水子地蔵さんに案内したが、ここでもしっかりと手を合わせて拝まれ、その真摯さに改めて感心させられた。水子とはいえ未生の命を大切に思う彼の気持ちをすばらしく思う。これから先に良い縁に恵まれることを祈りつつ、彼の後姿を見送った・・・

四つのライフステージ

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(たくさん咲いていたコスモスもわずかになった。)

昨晩、夕食を家族でしている時に高校生になる長男が「お父さんやお母さんは死ぬことが怖くないの」と言い出した。唐突な突然の質問に私と家内が唖然としている間に、「僕は年を取るのが怖くて仕方ない。このままでずっとおれたらいいのにと思ってしまう・・・」と付け加えた。家内がすかさず「あんたは幸せやからそんなことを考えれるんやわ、一生懸命に働いている人や生活に追われている人やったらそんなこと考えられへんよ」と言った。その間に私は晩酌の焼酎を一口飲みながら、「生者必滅で植物も動物も人間もいつか寿命がきたらその役目を終えて次の命にバトンを渡すんや、その間を必死で生きていたら別に怖いなんて思わないよ」と言ったのであるが、青春期独特のその率直な思いに「私も若い時そんなことを思ったことがあったのかなぁ」とその後で回顧していた。

現代は人生八十年という時代であるが、大きく分けると一生のライフステージは四つに分けることができると思う。一つは生まれてから二十代ぐらいまでの「生活学習期」、二つ目は二十代から五十代ぐらいまでの「生活活動期」、三つ目は五十代から六十代後半ぐらいまでの「生活安住期」、四つ目は六十代後半から死ぬまでの「生活安楽期」である。この中で四つ目の生活安楽期をどう過ごすかによって人生の良し悪しが決まってくるのではないだろうか。人によってその時期は多少違ってくると思うが、七十代前後からのこの時期に、今まで生きてきたことを土台として生死についてじっくりと思索することで成熟した老境の生き方ができると思う。それが寺巡りや霊場巡りであったりする。そして今まで大した興味もなかった仏教に関心を寄せることができ、その教えを学び知ることで大きな喜びへとつながっていくに違いない。「死」というものは避けて通ることのできないものであるが、しっかりと向き合うことによって積極的で前向きな生き方が必ず見つかり、やすらかな余生になると私は信じている。思わぬ長男の一言であったが、その最初のライフステージを生きていることを考えればその疑問も何となくうなずけるし、誰しも一度や二度はそんな不安を抱きながら成長していくのであろう。








七回忌法要に感じた事

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(境内の谷川の浅瀬にイチョウの落ち葉が流れ着いていた。)

昨日は六年前に亡くなった私と同級生でもある女性の七回忌の法要を行った。当時まだ四十六歳でその前日までとても元気にされていたが、早朝に突然咳き込んでそのまま逝ってしまったのである。喘息の持病があったとはいえ、予期できない早すぎる逝去に誰もが驚き悲嘆に暮れた記憶が脳裏に再現されて辛い読経となった。本来なら嫁いでいるのでご主人の実家の菩提寺で葬儀をされると思っていたが、菩提寺とは付き合いがなくそれまで良く知っていた私のところへ頼みに来られたのである。母親は熱心な私の寺の檀家さんであり、ましてや亡くなった彼女と私は幼なじみで少しでも縁のあるお寺でしてあげたいというご主人の配慮があったのであろう。彼女には姉と弟の二人の子供がいたが、三回忌をした頃に比べると一段と成長して、久しぶりに見る顔はたくましくなってきているように感じた。青年期の多感な時期に母親を亡くしたショックから完全に立ち直っているようである。

私が一番心配していたのはダウン症を患っている弟の方で、言葉がはっきりと言えず自分の意思が伝わりにくいので、親族の中でも一人ぼっちになることが多かった。三回忌ぐらいまではどことなく寂しそうにしていたのが気になっていたのである。昨日は私の顔を見るなり深々とおじぎをして元気よく本堂へ入ってきた。法要が終わって本堂を出る時にもしっかりと挨拶する姿を見ていると、亡くなった母親がどれだけ安心していることかと思い嬉しくなった。おそらく亡くなった後も、彼のことが心配で心配で向うの世界から温かく見守ってきたに違いない。聞けば彼もすでに二十五歳になったと言う。顔の表情こそ変わり無いが、内面はしっかりと成長しているようだ。

本堂での法要の後、お墓参りに出かけた。親戚の一人の男性が線香の束に火をつけそれぞれ親族に数本ずつ配ってもらった。その線香を焼香代わりに墓前に供えて頂く間私は読経を続けていたが、彼の順番になると、たどたどしい言葉ながら「オカァーチャン、オカァーチャン」と二回つぶやくように言って線香を供えたのである。葬儀の時でも黙々としていたのに、よほど恋しくなったのであろうか。小さな声であったので思わず出した彼の言葉に気づいた親族はいなかったが、すぐそばに私はいたので彼のつぶやくような声がはっきりと聞こえた。顔は相変わらずポーカーフェイスであったが、内心は寂しく辛かったに違いない。「よく今まで頑張ってきたね」と母親の代わりに頭を撫でてやりたい気持ちであった。おときの席でウーロン茶を一杯飲み過ぎてブクッと膨れたお腹を突き出し、お相撲さんのようにポンと腹をたたいて私に見せてくれる無邪気で純真なその姿に胸が熱くなった。きっと母親が見守ってくれていることだろう。

カラスの鳴き声と迷信

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(池の中のアメンボの影が面白く足跡のようで光っていた。)

いつだったか、境内で落ち葉を掃除していると、カラスが数羽飛び回って「カァー、カァー」とうるさく鳴いていた。それを聞いていた私の母親が「よう鳴いとるので誰か死ぬ人がおるんやろか」と独り言のようにつぶやくので、「それは迷信やから関係ないよ」と私が言うと、「いいや、そんなことない、カラスがよく鳴いて飛び回っていたらそう云われてきたんや」と言って聞かない。確かに真っ黒で見た目もあまり良くない。「カァー、カァー」となく声も何か気味悪く聞こえ、異様な響きに感じるのは誰しも同じであろう。しかし、何の根拠もなく迷信であることは言うまでもない。昔から日本人は、人が死ぬと肉体が滅びる前にその霊魂は肉体から分離して冥土へ行くと信じられてきた。その霊を運ぶのが鳥であるので、カラスはその使者として「カァー、カァー」と鳴き触れ回っているのではないかと思われてきたようである。

このような迷信は他にもたくさんあり、特に人の死に対しての迷信は多く語り継がれている。例えば「三人で写真を撮ると真ん中の人は早く死ぬ」とか「柿木から落ちると三年しか生きられない」などすべて迷信である。今ではあまり見かけなくなったが、少し前まではお葬式に参列し帰ると玄関や門口で塩をまいたものである。お香典を渡すとお返しに塩入りの小さな袋が御礼の挨拶状と共に入っていた。死者の霊が取りつかないように祓う為のものであるが、それほど死者の霊に対して私たち日本人は敏感で恐れていたのであろう。

観音参りと世渡りの真言

inago(イナゴがいちょうの木の表皮の溝に隠れるようにいるのを見つけた。)

昨日は滋賀県の方から曹洞宗のお寺の団体がお参りの予定であった。同じ霊場会の寺院でご住職とは面識があり、昨年の記念法要でお会いしてからちょうど一年ぶりの再会となる。楽しみにしていたのであるが、予定の時間になっても来られない。昼頃にバスの運転手から道を尋ねる電話がかかってきて午後二時半頃に到着予定と伺っていたのであるが、遅れておられるようでなかなか来られず、結局来られたのは午後四時になろうとしている頃であった。午後四時から次の予定が入っていたのでゆっくりお話できず残念であったが、お元気そうなお顔を拝見できて良かった。私はこのご住職を大変尊敬している。私より一回り以上年上で七十歳前後ではないかと思うが、矍鑠としておられ清潔感が漂う中に機知とした語り口調でとても魅力的である。

ご詠歌がとても上手で、昨日も本堂でお勤めの中で唱えて下さった。宗派や流派が違うとはいえ、ご詠歌のもつ情緒は変わることなく聞く者の心に沁み入る。特に私の寺のご詠歌をこうした形で聞かせて頂くとは思ってもみなかったので感無量であった。以前に会議で一緒にホテルに泊まった時、熱くこの霊場会の在り方について討論したことが懐かしく思い出され、その後にお酒を飲みに行きカラオケで自慢の歌声を聞かせて頂いたことがあった。その美声と全く同じだ。その時に、「最近は(ぼけ)という言葉は余り使うと良くないので私のところでは(痴呆)と言うようにしている」と言われ、オリジナルの真言を教えて頂いた。この近畿楽寿観音霊場会の観音様を拝む時には「おん、痴呆消滅 そわか」と拝まれているそうだ。

またついでに「世渡りのご真言」なるものも教えて頂いたのを思い出した。それは仏教の三毒と云われている貧・瞋・痴(とん・じん・ち)の煩悩を独自の真言のようにしたものである。ご住職のご詠歌を聞きながらそれらを復習するように思い出していた・・・
◇おん サラサラ こだわるまいぞや そわか (貧)
◇おん ニコニコ 腹立てまいぞや そわか  (瞋)
◇おん ブツブツ 愚痴言うまいぞや そわか (痴)  


同行二人の気持ち

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(ゾウムシらしき虫が葉の上で威光を放っていた。)

四国を遍路された方なら「同行二人」(どうぎょうににん)という言葉を見かけたことがあると思う。「おいずる」と言われるもので、巡礼されている方の着物の上に羽織っている薄い布の背中に「同行二人」と墨で書いてあったりする。一人で歩いていても、弘法大師様が一緒に歩いてくれているので「同行二人」というのである。つまりお大師様がどんな辛い時でもいつも見守って下さっているという思いであるが、このお遍路は、お大師様を含めて自分の心の中にいる仏様(仏性)を見つめる旅でもあるのである。「同行二人」で同行する方はもちろん弘法大師様でも良いし、お不動様でも観音様でも良い。またご先祖様や自分の信奉する神仏であっても良いのである。私たちの心の中に「仏性」がある限りいつも「同行二人」である。

だから私は辛い時や苦しい時、嫌なことがあったりして気が滅入っている時などに自分の心の中の仏様と対話するようにしている。そうすると不思議なことに心が落ち着き自ずと答えが見つかる。でも時々仏様も私を試されるのか何の答もしてもらえない時もあるが、そんな時は「合掌」して静かに観想する。そして仏様を思い浮かべることで仏様との共有の時間を楽しむように努めている。そうしているうちに「有難い」と感謝の気持ちが沸いてきて、「辛く苦しいのは自分だけではない、頑張ろう」という仏様の励ましの声が聞こえてくるのである。いつも私の傍らには仏様がおられ「同行二人」であるという気持ちを持っていると、普段気がつかなかったことや、自分の思い違いも「あぁ、そうやったのか」と思い直すことにもつながり、良い結果に導いてくれるはずである。

少し話が脱線するが、仏様を「観想」するのは「観念」することと同じである。「観念」というと「あきらめる」「覚悟する」といった意味にとられるが、これは仏教からきた言葉で、本当の意味は仏様を観察して思念すること、心を集中して仏様の姿や真理をよく考えることである。観念の「観」は見た目、状態を意味し、「念」は思い、気持ちであるが、「念」という字は上に「今」があり、下に「心」がある。つまり「今の心」であり、「観念」するということは「今の心を見る」「今の心の状態を思う」ということになるのである。時には手を合わせて、今ある自分の心を見つめ直し、静かに自分の心の中の仏様と対話してみてはどうだろう。「同行二人」の心髄に近づけるかもしれない。

お写経について

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(裏庭に一輪だけリンドウの花が寂しそうに咲いていた。)

一昨日、お参りから帰って来るとちょうどタイミング良く一組のご夫婦らしき男性と女性が寺の納経所に来られていた。ぼけ封じ観音のお参りで大阪から来られたらしい。軽く挨拶をして通り過ぎようとしていたら私の母親が「お写経について尋ねられとるんやけど・・・」と話かけてきた。私は「ちょっと待っといて下さいね」と手に持っていた荷物を部屋の中へ置いてすぐに納経所へ戻った。二人ともお若く見えたが六十歳を過ぎておられ、この春に亡くなられたおばぁちゃんがこの霊場を巡っていたのが縁で、その残りを回ってみようと思わて参拝に来られたと言う。その亡くなられたおばぁちゃんの遺品の中からこの納経帳とお写経した般若心経がたくさん出てきたので、どうしたら良いかという相談であった。

私は「近くに納経して下さるご縁のあるお寺があればそちらへされるのが一番良いと思いますが、寺によったら写経供養をしていないお寺もありますし、写経の経文が宗派の違いで受けつけできない場合もありますので事前の確認が必要です、もしそうした寺がないようでしたら私の寺でもできますよ」と言うと、「是非こちらでお願いしたいんです、私の母親は門徒の寺ですので多分受け付けて下さらないと思いますので・・・」と答えられた。私は「どれぐらいありますか」と尋ねると「数えてはいませんが数百枚あると思います、どうしたら良いでしょうか」と言われるので、「そしたら送って頂けますか、写経供養して処分しますので」と言うと二人ともニッコリとして安堵された様子であった。

私はそのご夫婦と思われる方に「それだけたくさんあるのでしたら、おばぁちゃんの写経されていた用紙が残っているでしょうから、その用紙にお二人でそれぞれ写経をされ、その写経の末に為と書きその下におばぁちゃんの戒名と菩提を書かれたらおばぁちゃんの供養になりますよ」と私の寺の写経用紙のサンプルを渡して説明した。写経をする場合、心のやすらぎを得るのが目的な場合と先祖供養や個人的な願いを込める場合の二通りがある。後者の場合は「為書き」と言われる願文を書くのが習わしである。経文の終りに、たとえば病気平癒であれば「為病気平癒」、先祖供養であれば「為・・家先祖代々菩提」と書く。これは「経文を書写した功徳を願いに及ぼし、願望の実現を期す」からであると云われている。

お写経といえば「般若心経」が定番であるが、他にも「観音経の偈文」とか日蓮宗であれば「法華経」、浄土真宗であれば「正信偈」などがある。私の寺では般若心経は二百六十二文字で少し時間がかかって大変と思われる人の為に、百十八文字とその半分以下の「不動経」をお勧めしている。
http://jyoryuzi.aki.gs/syakyou.html

早すぎる別れ

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(朝日に輝いてカメムシの種類と思うが、葉っぱの上にとまっていた。)

昨日は村でお葬式があった。私の寺の檀家さんではないが、昔からの村の慣例で葬儀に客僧として招かれた。本来なら一昨日のお葬式であったのであるが、村のお祭りと重なり一日伸ばされたようだ。故人は私より八歳も若く四十五歳、私の弟と同級生でもあった。この夏のお盆参りの時、庭で植木の剪定をされていたので少し立ち話をしたのが私にとっては最後の姿になってしまったが、その時は元気で変わった様子はなく、まさかこんな事になろうとは全く想像もできなかった。九月の始め頃に原因不明の頭痛で入院されたらしいという噂話は聞いていたが、誰もが元気になって戻って来ると信じていたはずである。突然の訃報に驚き、前日のお祭りとは打って変わって村人の多くがが悲しみに暮れた。

お葬式はいつもより二十分ほど早く始まった。会葬者が多く通常の時間では処理仕切れないからである。祭壇はたくさんの花で飾られ、白木の位牌の戒名からは導師様や遺族の故人に対する思いが伝わってくる。僧侶は私を含めて八人で盛大なものとなった。自宅で葬儀をする場合、引導作法が終わると遺族は祭壇の前に進んで焼香をするのであるが、故人の三人の子供の内の真ん中の七歳ぐらいの子供であろうか、祖母に手を引かれて祭壇の前に来て焼香をしていた。祖母の横に並んで祖母のするのを見ながら小さな手を合わせて一生懸命に拝んでいる。そして顔を上げて祭壇の遺影をじっと見てしばらくその場を離れようとしない。後ろが詰まっているのを気にした祖母がそっと抱くように連れて行かれた。私は読経しながらその様子を見ていたが、小さな子供の胸中を思うと熱いものが込み上げてきてたまらず声を詰まらせてしまった。

亡くなられて三日間を過ごし四日目の葬儀で、もう十分に泣き尽くされたのであろう。遺族は悲しみを堪えて淡々としておられるように見えたが、まだまだこの悲しみを悲しみとして受け入れ癒していくには時間がかかるに違いない。特に奥様やまだ幼い三人の子供さんにとっては余りにも早すぎる別れで、やり切れない思いや辛さで一杯であろう。この悲しみはきっと残された家族の心を強くし、まだ幼い子供も父親に先立たれた母親を労りと感謝の気持ちを養ってくれるはずである。そして亡くなった父親から与えられた愛情を、いつか他の人へも分かち与えることができるような人へと大きく成長させてくれるものと思う。今日の盛大な葬儀は、家族の共通の思い出の中に、いつまでもいつまでも生き続けていくであろう。

生死の現場を経験して

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(山裾の雑草の中にひっそりと咲いている花を見つけた。)

私は弟と八歳も年の差があり、兄弟としての時間を過ごしたのはごくわずかであったような気がする。私が小学校二年生になった時に弟が生れた。当時はまだ病院での出産ではなく自宅へ産婆さんに来てもらっての出産で、今でもその時の事をよく覚えている。私は産湯にするお湯を沸かす役目を父親から言われ、わけのわからないままひたすらお湯を沸かしていた。今の時代と違ってボタン一つで沸くような便利なものではなく、大きな釜で下から薪を焚いて沸かさなければならず、子供とってはなかなか面倒な作業であった。そうこうしているうちに父親から「おーい、もういいからこっちへ早く来い」と母親の枕元へ呼ばれ、弟が生まれてくる瞬間に立ち会ったものである。真っ赤に血で染まった弟を最初に一目見た時、その生々しさに驚き思わず目をそむけた、その記憶は今もはっきりと脳裏に焼きついている。

今思えばその出来事は大きな衝撃であった。だがその陰に隠れて印象としては薄いのであるが、一年前の小学校一年生になった時にこの逆の貴重な体験をしていた。私の父親は先住の住職が亡くなったのでこの寺へ入山してきたのであるが、その奥さんに子供はなく引き取り先がないので一緒に寺で同居していたのである。私にとっては血縁関係のないおばぁさんであったが、大変かわいがってもらっていた。そのおばぁさんが亡くなってお葬式をした時には、それがどういう意味なのか理解できずにいたが、しばらく経っておばぁさんが居ないことで子供ながらに死んでしまったんだという実感が湧いてきて、とても悲しく寂しい気持ちになった。

このような小学校一年、二年の小さな時期に、生命の終りと発生という両極端な生々しい経験をさせて頂いたことが、今の私に仏性を育み大きな財産となっている。反面、今の子供や若者にとってこうした経験をする機会が少なくなっていることを残念に思う。子供の時代に、生と死の現場に立ち会うことは、命の尊さを知る機縁にもなり、心の財産になっていくのではないだろうか。そうした環境作りも必要ではないかと最近ふと思った・・・



ボチボチとゆとりを持って

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(毎年この季節、同じ場所に咲く菊の種類であると思うが、今年も咲き始めた。)

私は僧侶になる前のサラリーマン時代に設備会社で現場監督をしていた時期があった。設備会社といっても冷凍、空調がメインであったが、たまに衛生設備も付随した工事もしなければならなかった。私自身、衛生設備は苦手で下請けの職人さんに頼り切っていたのであるが、ある時、高さ二メートルもある浄化槽を埋設する工事をしていた。場所が狭くて重機が入らず人間の手で掘らなければならなかった。あいにくその日は他の現場が忙しくて、六十歳ぐらいの職人さん一人しかきていない。私は場所を指示してしばらく見ていたが、何分スコップ一つで動作もゆっくりなので今日はそれほど工事は進まないだろうと思い、「ちょっと他の現場を回ってきますのでよろしくお願いします」と言ってその現場を離れた。

それから四時間ほど経って現場に戻ってみると、何と幅一メートル、長さ二メートルぐらいの大きさで、本人がスポッと隠れるぐらいの深さまで掘られていた。私はとてもそんなに一人で掘れるとは思ってもみなかったので大変驚き、これは土がやわらかくて掘り易かったのではないかとしばらく見ていた。すると石混じりの固い土で、職人さんはスコップを足で何度もガッガッと踏みながら表面を削り取り、それをスコップですくってゆっくりと自分の背丈より高いところへ掘り投げられる。一連の動作はスローモーションビデオのようでゆくりとしているが、機械のように正確で休むことなく黙々とされている。午後三時になったので缶コーヒーを買ってきて「休憩しましょうか」と声掛けすると、真黒な人懐っこい顔を上げられ「ありがとう」と言いながら缶コーヒーに手を伸ばされた。

私は「すごいですね、たった一人でこれだけ掘られるとは・・・」と話を向けると「いやいや、もう年やからボチボチやらな若い人みたいにはいきませんわ」と謙遜された。私はこれぞまさに本当の職人さんであると思った。ここまで一人で掘るにはほとんど休みなしでやられたに違いない。私たち素人や若くて力のある人は力任せに急いでやろうとして、頑張り過ぎる。そうすると疲れて休まなければならない。一旦休むと今度は仕事に移るまで時間がかかる。その悪循環の繰り返しで思うように進まないことが多い。職人さんの言葉のように「ボチボチ」とするということは、私たちが生きていく上で大切なことではないかとその時職人さんに教えてもらったような気がした。「ボチボチ」としたゆとりを持って生きたいものである。
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