ちけん和尚のブログ

ちけん和尚の出来事などを思うまま書き綴って行きます。また、時間に余裕があれば仏教的な観点から仏事や世相を書き綴りますので、是非ご覧ください。また、意見や感想など頂ければ嬉しく思います。  合掌 知憲

2010年02月

皆勤賞

hana2(散歩中に見つけた青い花・・・)

昨日、高校生になる息子が卒業アルバムをもらって帰ってきた。今日の卒業式を前に、予行演習を兼ねて登校していたようだ。もらって帰ってきたのはアルバムの他に成績表など諸々あったようであるが、私に見せてくれたのは皆勤賞だけであった。三年間無遅刻、無欠勤で唯一それが私に誇れるものであったのであろう。皆勤賞の記念の鳳凰が描かれているガラス製の盾を嬉しそうに「これ、すごいやろ」と自慢気にしている顔はまだまだ無邪気な子供である。そんな十八歳というすばらしい青春期を生きている子供を見ていると、私もそんな頃があったんだなぁと無限の可能性を秘めた若さが羨ましくもなってくるが、本人にとってはまだまだ人生の序章の通過点でしかないのであろう。そんなことを思いつつ、春の嵐のような暴風雨に大きく揺れている庭木に、思わず視線をおくった・・・

あと一ヶ月もしないうちに、大学生としての一人暮らしが始まる。親元を離れて、初めてその有難さに気づく時がくるであろうが、今はそのひとときを楽しく過ごして悔いのないようにしてほしい。不器用で何の取り得もない息子であるが、休まず続けることを大切にしているみたいでわずかながらも成長しているようだ。

念力岩をも徹す

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(フラワーパークに植えられていたビオラを撮った。)

「思う念力、岩をも通す」という言葉がある。「念力岩をも徹す」ともいい、一心不乱に行えば、どんなことでも必ず成し遂げられるという意味であるが、ここで言う「念力」は願望の強さを指している。一般的に「念力」というと、スプーン曲げのような特殊な能力を連想する人が多いのではないだろうか。また、お寺などで御札や護符を信者さんに渡す時にお加持をして渡すが、その時の加持力は「念力」と何ら変わらない。つまり「念力」の語源からすると、神仏を信じることから生まれる力なのであろう。

先日、この三年余り毎月添え護摩をしてお不動様に「心願成就」を祈られていたある女性からお電話を頂いた。遠方に住んでおられ、毎月の定例護摩に来ることができないので一年分の供養料を毎年まとめて書留で送って来られる。三年前に水子供養で私のお寺へ初めて来られて以来、電話で話をするのは初めてであったが、毎月の添え護摩で施主名を奉読しているので名前を聞いてすぐにわかった。初めて寺に来られた時は三十半ばぐらいの年であったと思うが、好きだった男性との間にできた水子の供養に来られ、ひどく泣きじゃくっておられたので印象に残っている。それからも時々寺にお参りに来られていたようであるが、私はすれ違いで会ったことがなく、私の母親が何回か相談を受けて添え護摩を勧めたようだ。女性同士ということもあってしゃべり易かったのであろうか、不倫であったことや、その男性を忘れられないので結婚はしないことなどを母親に伝えていた。添え護摩も「心願成就」であるので私は彼女の祈願内容を知る由もなかった。それが突然の電話で「この春に結婚するようになりました」と伝えられたのである。詳しく聞いてみると、好きだった彼が正式に離婚してはれて結婚できることになったのだと言う。この三年間ずっとそれを願ってきたらしい。彼女の一途な思いが通じたのは、熱心にお不動様を拝まれ信心された結果で、まさに「思う力」が「念力」へと変化して行ったのであろう。このまま添え護摩をずっと続けられるということであるが、早く幸せな家庭を築いてほしいと私の方からはそう願うばかりである。






世代交代の辛抱

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(梅の花がほころんできた。)

昨日は好天に恵まれ朝こそ少し寒かったが、昼頃から気温がぐんぐんと上がって心地よかった。二月末の水曜日ということで、毎月定例の護摩供養をする日であった。今月は二月三日の節分にも護摩を焚いているのでお参りは少ないと思っていたが、春のポカポカ陽気のおかげかいつもより多い十五名の方がお参りされている。添え護摩木の方もいつもより数十本も多く、途中で何回か釜をかき混ぜてかさを減らさないと処理仕切れない状況であった。ありがたいことではあるが、私自身の気持ちとしては少し複雑である。この護摩供養は先代の父親の時からの引き継ぎで、その頃からの信者さんがほとんどである。当然のことながら八十才近くになっている母親が一手に仕切っていて、私達に任せようとはしないのである。私の家内は専ら昼食(ちらし寿司)の接待しか任せてもらえない状態で、私も母親から護摩の修法費として一定の謝礼をもらってはいるが、いくら収入があったのかもわからない状態である。四年前に父親が亡くなった時に一度取り上げようとしたのであるが、激しい抵抗にあってしばらく様子を見ようとズルズルと今日まできていた。収入の残りは何やら目的があって貯金しているみたいで、それが本人の生き甲斐となっているようでもある。また、今お参りされているほとんどの方々が自分の信者と思っているふしもあって、まだまだ現役の大黒さんのつもりのようだ。昨日の異常な張り切りようを見ていて、もう少し私達の辛抱は続くように思った・・・。

「一紙小消息」から

kurokkas1(落ち葉の中から芽をだしているクロッカスを見つけた。)

私の住んでいる村には二つのお寺があり、もう一方のお寺は浄土宗である。長い間住職さんがおられず、近くのお寺さんが兼務されているのであるが、村の風習でどちらかにお葬式があると来賓の僧として出席する。おかげで法然上人の「一紙小消息」という文章を暗記するまでになった。

「アヒガタキ本願ニアヒテ、オコシガタキ道心ヲオコシテ、ハナレガタキ輪廻ノ里ヲハナレテ、生レガタキ浄土ニ往生セン事、ヨロコビノナカノヨロコビナリ」と述べられているものである。つまり、阿弥陀の本願に遭うことができ、起こしにくい道を求める心を起こして、離れにくい生死の輪廻の迷いの世界を離れて、生まれようと思ってもなかなか生まれがたい極楽浄土に生まれさせていただくことは、数ある悦びの中でも最も大きな悦びであると云われている。

そこには生きることへの感動と感謝が込められ、それこそが死がきても壊れることのない本当の幸福であると教示されている。数えきれない動植物の中で、人間としての生命に生まれたことを「ウケガタキ人身ヲウケテ」と表現されて始まる文章が私は大好きである。そしてその有難さを改めて思い知るのである。

二月の「二」からの連想

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(花壇の隅に白い花が咲いていた。)

昨日夕食を食べていると長男が「今日は何の日か知っている?」と尋ねてきた。私や家内は全く何のことかわからなかったので、「今日は二月の・・・あぁわかった、誰かの成績みたいやなぁ」と言うと、「よう言うなぁ、今日は伯父ちゃんの誕生日やんか、あかんなぁ」と切り返してきた。そう言えば家内の兄の誕生日である。長男の誕生日は同じ2月の11日と近いので覚えていたのであろうか。家内は「ありがとう、忘れとったわ、」と早速メールを打っていた。考えてみると2月は「逃げる」とか言うように、何かバタバタとアッという間に過ぎ去る感がある。

仏教では二というと、「二覚」を連想する。「二覚」とは本覚と始覚で、本覚は私達が本来そなわっている清浄な悟りの智慧のことである。修行などによって本覚に目覚めて行くことを始覚という。
また、「二空」という言葉もある。「二空」とは「人空」と「法空」で、人の主体としての自我という実態が存在しないことを「人空」といい、あらゆる存在に実体性がないことを「法空」といっている。

おばぁちゃんからもらった元気

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(境内の片隅で春を待つお地蔵さんたち・・・)

昨日は二十一日ということで、お大師様の縁日であった。午前中は遠方で法事があったのであるが、午後から水子供養やお参りが入っていたので食事を辞退して寺に戻った。高速道路は昼頃ということもあって車が少なくスイスイと走り、予定通り午後一時に寺に到着すると午前中にお参りされていたおばぁさんが二人残って雑談されていた。私が玄関の戸を開けると少し驚いたように「おじゃましてます、長いこと居らせてもろうてますんやわ」と顔馴染みのおばぁさんの笑顔があった。そして「おじゅっさん、今日は法事でしたんか、忙しいでんなぁ」と話しかけられ、しばらくその雑談に入れて頂いた。もう八十五歳ぐらいになられているが、腰も曲がらずしっかりと歩いておられる。毎日般若心経の写経をするのが日課で、定期的に寺へお写経を奉納されているが、今度新たに仏画のサークルに入られたという。どうもおばぁちやんは私にこのことを自慢したかったようだ。仏画といっても仏様の絵を薄い紙の上からなぞって写し、それに絵の具で薄い色をつけるものらしいが、そのバイタリティーに驚かされる。おばぁちゃんに「今度仏画が出来上がったら、是非見せて下さいね」と言うと「そんなおじゅっさん、まだまだ見てもらうようなものは出来しまへん」と笑っておられた。わずか三分足らずの短い会話であったが、おばぁちゃんの生き生きとした表情にこちらも嬉しくなり、逆に元気をもらった・・・あわてて少し遅い昼食をとり、午後二時からの檀務に備えた。

お大師様の言葉(2)

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(固まりから飛び立つ寸前の落下傘のような種子)

「般若心経秘鍵」という書の中に「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く、一字に千里を含み、即身に法如を証す」とある。つまり真言には、私達の考えの遠く及ばない功徳があるので、真言を心に観じ口に唱えれば、ことごとく煩悩を取り去ることができる。なぜなら、真言の一字一句に無量無辺の意味が含まれているからである。だから真言を観誦すれば、この身このままで覚りを体得できるという。私達が毎日生活して行く中で、悩みや苦しみ、悲しみなど様々な逆境に遭遇するだろう。そんな時、一心に真言を唱えれば必ず一筋の光明に照らされ道は開けるはずである。真言は神秘的で不思議な威神力を持っている言葉であることは今更言うまでもない。私は困難なことがあると、本尊様の真言と光明真言を唱える。心が軽くなってくるまで一心に唱える。すると何かわからないが、心が楽になり何処からともなく仏様の声が聞こえてきて励まして下さっているような気になってくる。私にとってはどんな薬よりも良く効く処方箋だ。



お大師様の言葉(1)

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(雑草の葉についた霜が光っていた。)

お大師様の「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)という書物の中に、「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」という名言がある。私達人間は何遍も生まれては死に、死んでは生まれ、それを何回も何回も繰り返してきている。けれども、どこから来てどこへ行くのか、それを知る人はいない。この世は無常である。といった意味で、「生」と「死」を五回使ってこの世のはかなさを表現されている。「生死」をワンセットにして連続的な移り変わりとして捉えると、私達の「生」と「死」は分離できないもので、日常の生活の中で人の「死」通してこそ命の大切さを感じて本当の生き方が見えてくるのではないだろうか。私達が今こうして生きているのは、何か意味があって、何かの使命があるかもしれない、そう考えると生かして頂いているこの「生」を精一杯生きなければいけないと勤行をしながら、そんなことを思った。

あしゅく如来

tuwabukiwa(ツワブキの種子が朝日に輝いていた。)

先日、七回忌の法要をさせて頂いたお宅で、「七回忌はアシュク如来という仏様が亡くなられたお父様の魂を護り導いてくれます、この仏様は左手のこぶしを握り、へそのところに置いています、右手は、ひざがしらのところから下に垂らしています、これは菩提心が強固であることを表しています、つまり亡くなられたお父様が今まで修行をされ身につけた菩提心をより強固なものにして下さります、修業の最終仕上げというべきところで、次のステップを前にして魂が落ち着く回忌です、ですからこれまでちっともお父さんの夢を見ない方でも、もしかしたら夢に出て来られるかもしれませんよ」と話をすると、私と同世代の娘さんが涙ぐんでおられた。その横でおばぁさんが「この子らには特別やさしかったからねぇー」と同調するように微笑れたのが印象的であった。

あしゅく如来の「しゅく」という字は門の中に三人の「人」がいるのであるが、当用漢字にはない。あしゅくとは、物事に動じない、腹を立てない、怒らないという意味である。密教では揺るぎない菩提心の徳を象徴していて、修業を妨げるいかなる煩悩に対しても心が動じないことを意味している。宝憧如来(ほうどうにょらい)と同体であるといわれ、東方を守護する。

明王について

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(日陰で遅咲きの椿の花が咲いていた。)

明王と言えばすぐに不動明王をイメージする方が多いのではないだろうか。その言葉の「明」とは、元来「知る」という意味の動詞から派生した梵語の「ヴィドヤー」という言葉からきている。つまり、「知識」を表す女性名詞であったが、それが発展して神秘的な力を持つ言葉そのものを指すようになった。密教では聖なる言葉である真言や陀羅尼を「明」と呼び、こうした呪力をもった者を「ヴィドャーダラ」(持明者)と称し、その王者が明王ということになる。外見は、ほとんどの明王が怒りに身を震わせた恐ろしげな憤怒の相である。その憤怒の形相も、もっぱら災難を防ぐカードマン的な役割と悪事に向かって行って相手を降伏させる二種類のタイプがある。

特徴的な明王をあげると、唯一明王の中で温和な菩薩の顔をしているのは「孔雀明王」である。数ある明王の中で最も恐ろしい顔をしているのは「太元帥明王」(だいげんすいみょうおう)で、五大明王をしのぐ威力を持つとされている。筋骨隆々でものすごい憤怒の形相であるが、やや痩身なのが「鳥枢沙摩明王」(うすさまみょうおう)で、よく寺院などの手洗いや便所にこの明王の御札が貼ってあるのを見かけた人がいるかと思うが、不浄な汚れたところを清める働きをする明王である。不動明王に次いで「愛のキューピット」として私達の人気を集めているのは「愛染明王」で今更説明することもない。明王とは真言や陀羅尼の神秘的な呪力からできた尊格で、明王そのものが密教の仏様なのである。

護摩のお供え

mokurenme(境内のモクレンの木の芽が膨らんできた。)

寺には冷蔵庫の他に冷凍専門のストッカーが置いてある。田舎なのでそんなに買物に行けないので冷凍食品の他にお供え用の丸餅と調理した小豆、丸く握ったおにぎりなどを冷凍している。突然の護摩が入ると対処できないからである。護摩には丸く握ったおにぎり、調理した小豆、丸餅、果物の四種類のお供えが必要で、果物は季節に応じたものを使う。昔は小豆などはそのつど調理していたが、最近は調理された缶詰などがあるのでそれを小分けにして冷凍しておき、解凍して使う。仏様は特に甘い小豆が好きなので、その上に砂糖をふりかけて供えるのが秘伝というか師僧からの言い伝えである。昨日ストッカーの中を整理しながら、こんな便利な冷凍技術のなかった時代は大変だっただろうなと思いをめぐらしていた・・・

護摩には食用油が必要であるが、これも私のところでは護摩の種類によってサラダ油と胡麻油を使い分けし、それにバターやハチミツを混ぜることがある。もっぱら自分の研鑚の為に焚く場合が多いが、ケーキを焼く時のような甘い香りがして楽しい気分になる。きっと仏様もその甘い香りが好きではないかと、私自身が勝手な思い込みをしているせいであろうか。壇木や乳木の種類も甘木とだけ伝わっていて、どの種類の木を使いなさいという決まりはないが、甘くて良い香りのものが好まれるようだ。

数珠について

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(アオキの葉と赤い実がきれいだった。)

昨年のことであるが、法事で寺参りされた檀家の方が首に数珠をネックレスのように掛けられていた。私は少し気になったので、「真言宗では首に掛けることを認めていませんので、しない方がいいですよ」と気心のしれた方であったのでアドバイスしたことがあった。他宗のお坊さんや修験道の方などもよく首に掛けられているのを見る。宗派によって考え方の違いがあるのかも知れないが、なぜ首にかけてはいけないかと問われるとはっきり説明はできない。真言宗では口伝として「数珠は首にかけることをしてはいけない」と代々師僧から弟子へ伝えられてきているが、その伝来や意義を考えるとわかるような気がする。お釈迦様の時代の初期仏教では数珠というものはなく、元々はインドのバラモン僧が普段首に掛けて神に祈りを捧げていたものが、ヒンズー教に採り入れられ、キリスト教、イスラム教と普及して、仏教へは少し遅れて入ってきたようである。小乗仏教の頃であるが、その普及には時間がかかっていたようである。本格的には大乗仏教になってからで、特に密教が起こってからは密教僧にとっては、真言や陀羅尼の数を数える道具として欠かすことのできない重宝なものとなった。

我が国においても聖徳太子の時代に金剛子の念誦が百済より伝わったとされているが普及はしなかった。所持するようになったのは、お大師様(空海)が唐より三種類の念珠を持ち帰ってからである。その後僧侶や貴族、一部の仏教信者であった武将が持つようになったもので、一般の仏教徒が必需品として所持するようになったのは江戸時代以降のことであると推測できる。
数珠を擦り合わせるようになった起源は、お導師様が回りの僧(識衆)に一定の作法や真言をお唱えし終わったことを知らせる為に、数珠を擦って音で合図するようになったものである。念珠は字の如く、珠を一つまさぐるごとに仏様を念ずるもので、本連(百八珠)と呼ばれる数珠には、母珠と言われる二個の親珠があり、腕に掛けるときは、「緒止め」(通した紐を結んである方の母珠)でない方の母珠(タラマ)を左腕の上にする。その房は外に垂らす。タラマと房を結ぶ小さな輪があり、一つの子珠が入っているのが目印である。その先が二つに分かれて五個ずつ子珠がついていて上下にスライドする。百八回数えると、その五個の小珠を一つ上にスライドさせ、十個全部上げると千八十回数を繰ったことになるのである。また、タラマから七つめと二十一個目には小さな種類の違う目印の珠が入っているが、これは最も良く使う数であるのでその数がわかるようにしてあるのである。つまり、仏教では七が物事(祈願)が成就する数で、三は吉数でありそれを三回繰り返すと二十一で、更に成就し易くなると云われている為である。

父親への回想4(永遠のいのち)

正式に「このまま最後まで病院で面倒をみさせて頂くようになりました」と年配の看護士さんから翌日連絡を受けた。よくよく考えてみると、救急で運ばれてきた日から一ヶ月余り、私達が泊まり込みで付き添いしていた時期は一番奥の少し広い一人部屋に入れて頂いていたが、泊まり込みをしなくなって数日後にナースステーションの前にある六人部屋へ移されていた。病院側としても予想に反して父親の生命力が勝っていたのであろう。しかし、緊急入院してから三ヶ月、もうかなりの限界が近づいているようにも思えた。食事がとれないので点滴のみで栄養補給をしているのであるが、身体は痩せ細り、その点滴の針をさせる血管が堅くてなくなってきているのである。また、もう一つ大きな悩みが浮上していた。それは十二月も半ば近くとなり、大晦日やお正月になったらどうしようということであった。檀家さんにも迷惑がかかるので、それだけは避けたいと願う毎日が続いた。クリスマスを過ぎた頃、担当医の方から「現状の措置ができなくなった時に次の段階を望まれますか」というようなことを尋ねられた。そのような言葉であったかどうかはっきりはしないが、要するに延命措置を望まれますかという意味ではないかと解釈した。私は「ここまで生かせて頂いたら十分です」とだけ答えた。いよいよその時が近づいている。私の不安が的中しないことを祈りつつ、年末の三十日を迎えた。大晦日と元旦は寺の行事などで忙しく誰も病院へ来ることができない。早くても二日の午後になることを父親に謝り、病室を後にした。もう後は仏様のご加護に任すしかなく、その時はその時と泰然自若に構えるしかなかった。

年が明けて二日、病院の方からは何の連絡もなく一先ずホッとしながらも、朝から檀家様を一軒ずつ回って年始の挨拶をするのが慣例で、これが終わらないと病院へは行けない。息子と手分けして回り午前中で済ませ、午後から病院へ向かった。病院へ着くと午後二時を過ぎていた。それまで毎日顔を見ていたので、久しぶりに会う人のようで少し緊張したが、すぐに顔を見て安心した。少し眠っていたようであるが、すぐに私達に気が付き目を開けてうなずいているようであった。無事を確認してしばらく家族で談笑していると、息子が突然「アッ!」と声を出して異変に気がついた。すぐに看護士さんが脈拍を測り連絡を受けた担当医が駆けつけてきた。「十四時十三分、ご臨終です」と短く伝えられた。わずかに西へ傾く太陽を先導するが如く、黄泉の国に魂を飛ばして再び帰り来たらざるの姿を示し、我らが世を去っていった。まるで私達家族が来るのを待っていたかのような旅立ちである。目頭が熱くなったが、それほど涙は出なかった。病気になるまではお互い心が離れていたが、病気になってからは悔いが残らないようにその距離を縮めるべく、一生懸命看病してきた感があった。最後まで肺ガンの方は全く症状が出なく咽頭ガンによるものであったが、この病気がわかり治療を始めてちょうど二年間という歳月を共に闘ってきた同志のような気持になっていたのである。父親の最後の姿は、私や子供に大きなメッセージを残してくれたのではないかと思った。永遠のいのちとして今も私達家族の心に生き続けている。 合掌

父親への回想(3)

晋山式の終わった夜から病院での看病が始まった。親戚の叔母や私の弟に連絡をとり、もうそんなに長くは生きられないことを伝え、その晩は母親が付き添った。私達は子供の学校があるのでその晩は一旦帰宅して、翌日から母親と交代した。寺の方は総代様に連絡しているとはいえ、一般のお参りや納経の方が来られたりするので留守にするわけにもいかず、母親に居てもらい私と家内で付添いすることにした。二週間が山と言われていたが、自宅での看病とは違い、病院の行き届いた設備と看護のおかげで見る見るうちに元気になってきているようであった。担当の先生も驚いておられる様子であったが、終末期でいつ逝ってもおかしくない状態に変わりはないと再度伝えられた。その二週間を過ぎ、三週間、そして四週間が経った。私と家内で交代しながらの看病であるが、お互い疲労がピークに達している。特に家内は早朝に帰宅して子供の朝食を作り学校へ送り出して、洗濯などの所用を済ませてからお昼前に病院に戻るという生活が続いていたのでフラフラであった。これ以上続けば倒れてしまうと思い、緊急の連絡先を婦長に伝えて夜は帰宅させて頂くことにした。それまではいつ逝くのかという不安があったが、この様子ではまだまだ大丈夫と勝手に判断をせざるを得ない状況になっていた。

その後担当医も代わり、父親も完全に復活してきて昼と夜が逆転していた。私達が介護している昼間はグッスリと寝ているのであるが、夜はその分目が冴えて寝ないで起きている。深夜は誰も眠っていて相手してくれないので、ベッドの手摺りを叩いたりしてあばれる日々が続き、翌日に病院へ行くと婦長から呼び出されて怒られることもしばしばで、看護士さんからも昼間は車イスに乗せて散歩させて昼は眠らせないようにして下さいとの要請もあった。元気になってくれたのは良かったが、モルヒネで幻覚症状もひどくなってきている。少し油断していると、気持ち悪いのかパジャマのズボンに手を入れて紙おむつを引きちぎる。特に夜などは当直の看護士さんだけになるので監視が十分にできず、朝に私達が行くと紙おむつをはずしてベッドや床の上がおしっこでビショビショになっていてそれを掃除する日々が続いた。自分の思うようにならないので、相変わらず夜中に手すりをたたいたりして迷惑をかけている。仕方無く病院側から夜間だけ手足の拘束を提案され私達も承諾した。その頃になると父親は、私や母親を見ても誰かわからないようであったが、唯一家内だけはわかるのか筆談を良くしていた。朝の八時に病院へ行き、夜は七時頃には帰らせて頂く毎日であったが、家内と檀務がある時などは交代して比較的私達の身体の方は楽になった。

そうした生活が三ヶ月続いた時、婦長から「この病院は治る見込みのある患者さんの為の病院ですので、別の病院へ移るか自宅へ連れて帰られるかどちらかにして下さい」と突然言われた。別の病院と言っても終末期の患者を受け入れてくれるところもなく、また自宅では設備や環境が悪い上、点滴でしか栄養が摂れない身体では到底無理な話である。十日余りの猶予をもらっていたがどうすることもできず困っていると、担当の医師が「私が責任を持って最後まで面倒をみますのでご安心下さい」と力強く言って下さったのである。私にはその言葉が仏様の声のようであった。後でその先生にお話を聞くと、偶然にも喉の腫瘍の摘出手術をして下さった先生の後輩でその先生を大変尊敬されていて、その手術の時も手伝ってくださっていたのである。二ヶ月ほど前に人事異動があって、手術をして下さった先生は別の病院の責任者となられ、この先生もこの病院へ耳鼻咽喉科の先生として派遣されていたのである。私の父親のことも当時からよく知っておられたと言う。何という偶然であろうか。私はその幸運に心から感謝した。(続く)

父親への回想(2)

父親を家で介護するのは思った以上に大変であった。トイレや風呂に手すりをつけて少しでも自分でできるようにと配慮したが、本人は何をするにしても呼び鈴を鳴らして私達を呼びつけた。元々健康な時から依頼心が強い方であったが、病気になってそれが更にひどくなったようである。声が出ないので自分の意思が伝わらず余計にイライラしていたのかも知れない。二、三時間おきに痰がたまると苦しくなるので、喉に開けた穴にネブライザーという機械で蒸気をあてるのであるが、全く自分でやろうとしないのである。筆談で諭すと、それが気に食わないらしく顔をしかめずらして怒りをぶつけてくる。もっと大変であったのは入浴で、私が入れようとしても頑なに拒むのに、家内に任すと喜んで入浴する。そしてこちらの事など全く気にせず身体を洗ってからでも長くお湯に浸かっているのである。喉の穴からお湯が入ると溺れるので、そうならないように見張っていなければならず、こちらの方がお湯の蒸気でのぼせてくる始末であった。母親はそうした介護が苦手なのか、あるいは現実逃避なのか恐る恐る見守っているようで、自らすることはなかった。そんなこともあって父親は母親に対して筆談でよく愚痴を書いたりするようになっていた。また自分でできることをしない父親を叱る役目は私であったが、何度注意しても聞く耳を持たず筆談にも応じようとはしない。まだ自分が住職であるというプライドからであろうか、私への抵抗がかなりあるように思えた。もっぱら頼っていくのは家内だけとなっていた。

そんな葛藤の日々が四ヶ月余り続いたのであるが、少しずつ流動食も摂れなくなり手術した後からは膿が出るようになって近くの診療所へ通う日々が続いた。その頃からであろうか、ようやく父親が自分の置かれたその状況を理解したわけではないと思うが、おむつを取り換えたりすると私達に感謝の言葉をホワイトボードに書き込むようになっていた。そして私の言うことも素直に聞いてくれるようになったのである。確実に終末期に近づいているようでもあった。しかしちょうどその頃、半年前に寺の総会で決まっていた私の晋山式が近づいていた。もしかしてその前に亡くなったらどうしょうかと心配で仕方なかったのであるが、何とか持ち堪えている。晋山式当日を迎えても、内心は穏やかでなく「何とか今日一日頑張って欲しい」とその一念であった。その間世話ができないので、当時小学校の六年生であった娘に頼んだ。ところが、式典の始まる直前ぐらいから容体が急変していたようであったが、何とか娘の懸命の看護もあって小康状態を保っていた。式典をしている本堂と父親が寝ていた離れの部屋は距離にして十数メートルぐらいで、晋山式の様子が聞こえていたのであろうか、ずっと涙を流していたことを後から娘に聞いて胸が熱くなるのを覚えた。まさか本人もこんな病気で突然倒れるとは思ってもみなかったであろう。元気であれば自分が中心となって式典を指揮していたに違いない。その胸中は複雑であったと思うが、私としては生きているうちに晋山式が出来たことを率直に嬉しく思った。式典が終わった後、何人かのお寺さんが父親の寝ている部屋を見舞って下さったが、その時も自分から手を差し出して涙を流していたと言う。声が出せれば「息子をよろしく頼みます」とでも言いたかったのであろう。モルヒネで痛みを抑えているので幻覚症状があったりして普段は精神的に不安定であるが、この時ばかりは意識がはっきりしていたように思えた。お客様も帰られて一段落した頃、容態が急変した。あわてて診療所の先生に往診にきて頂き、先生の指示で救急車を要請して最初に診断して頂いた地域の総合病院へ搬送することとなったのである。当直の先生から「この二週間ぐらいが山ですので、そのつもりで」と言われ、その夜から私達は病室に泊まり込むこととなったが、今日の晴れ舞台が終わるまで一生懸命に病魔と闘い頑張ってくれていたようで、思わず仏様に感謝せずにはいられなかった。(続く)

父親への回想(1)

私の父親が亡くなって四年目になる。私の小さい時から本山勤めで、お寺の行事やお葬式などがあると帰ってきては用事を済ましてすぐに戻っていたので、自分の寺にいる時間は短く父親と遊んだ記憶もほとんどない。昔人間というか、ワンマンであったので一方的にやかましく言われるのが嫌で自然と母親に頼ってしまっていた。今から考えるとそれも父親としては面白くなくなかったのであろう。そんな悪循環もあって大人になっても父親とゆっくり話したことがなかった。むしろ父親の方が腹を割ってしゃべることを避けていたようにも思える。本山を定年退職して寺にずっと居るようになってからは、食事の時間以外は居間に出て来ることはなく自室でテレビや読書、昼寝などをして過ごし、それ以外は庭の掃き掃除が唯一の趣味のようであった。本山での生活が長かったので、自室で好きなテレビを見て過ごすことに慣れてしまっていたのかも知れない。晩年になってもそうした生活のリズムは変わらず、居間で食事をしている時でも自分の好きなテレビを見て他に譲歩することは決してなかった。私が先行きに不安を感じ「住職の資格を取りに本山へ登る」と言った時も、「まだ早い」と反対したのであるが、母親が説得して渋々認めてくれた。それが虫の知らせであったのであろう。亡くなるちょうど二年前に咽頭ガンにかかり、調べていくと肺ガンにもなっていることがわかって治療に入ったのである。当初の三週間余りは病室が取れないということで、病院まで片道八十キロメートル余りある距離を車で送って行き、檀務などがある日はとんぼ返りして引き返しまた迎えに行っていた。妙なもので父親が病気なったことで、それまでのわだかまりみたいなものが消えていた。そしてよく住職の資格をとっていたものだと仏様に感謝した。

病室が空いてからは入院させてもらい毎日病室へ通っていたが、わがままが強く随分と看護士さんに迷惑をかけたようである。肺ガンの方は最初から内科の先生が治療に消極的で自覚症状も全くないので耳鼻咽喉科の先生の治療を優先し、放射線治療で咽頭ガンは小さくなって三ヶ月余りで退院した。しかし、その三ヶ月後再び調子が悪くなり再入院したのである。完治は無理なことはわかっていたのであるが、今回は喉の痛みが激しく食事もできないほどであった。それを見兼ねた主治医の先生が、その根源である腫瘍の摘出手術をして下さったのである。僧侶としては声帯を失ってお経をあげることはできなくなるのであるが、父親は何の迷いもなく手術を切望したのには驚いた。よほど痛みが激しく辛かったのであろう。また主治医の先生も治る見込みがない患者の為に、十時間にも及ぶ大手術をして下さったことに感謝の気持ちで一杯であった。それからまた三ヶ月余りの入院とリハビリが続き、やっとのことで自宅へ戻ることができたのであるが、本人は声が出ないことはすぐに諦めたようで早く寺へ戻りたいという気持ちが強過ぎて相変わらず周囲の方々に迷惑をかけていた。私と家内も各日おきに病室を訪れていたのであるが、病院を退院するに当たって親族の介護がどれほどできるかどうかテストがあった。主に入浴が中心で、自分で身体を洗うことができないので喉に穴を開けているところから水が入らないようにして、局所などをきれいに洗ってあげれるかどうかのテストである。私はさすがに少し照れがあって躊躇していると、家内が何のためらいもなくきれいに洗い一発で合格となった。その頃になると筆談での意思の疎通も何とかできるようになり、主治医の先生や看護士さんにお礼を言って念願の寺に戻ることができたのは、本人にとって大きな喜びであったに違いない。ただ家族にとっては終末期がいつ訪れるか、それまでの介護をどうして行くかなど不安で一杯であったことは言うまでもない。しかし、この一年余りの介護で少しは今までの恩返しというか、孝行ができたことは私にとっても幸運なことであった。そして不安もあったが、最後まで世話をして見届けたいという気持ちが強くなっていたように思う。(次回へ)

撞木の試し打ち

私の寺の鐘は、大晦日の除夜の鐘で百八回つくぐらいでほとんど鳴らすことがない。それ以外ではたまに法事などでお参りに来られた方や、行事の時に「早くお参りに来て下さい」という意味を込めて鳴らすぐらいである。寺院によっては毎日の朝や夕方に鐘をつくところもある。元々時計がなかった江戸時代には、寺の鐘をついて人々に時刻を知らせていたものである。また、その昔は僧侶たちに朝夕の起床時間や就寝時間を知らせたり、仏事の為の集合時間の合図を伝えるものであった。私も高野山での学生時代、修行させて頂いていた寺院の廊下に小さな鐘(半鐘)が吊るされていて、毎朝担当になると眠たい目をこすりながら打ち鳴らしていた。冬のこの時期になると早朝は零下二十度ぐらいまで気温が下がり、寺の廊下は氷の上を歩いているようで感覚がなくなってしまう。鐘を打ち鳴らす棒(撞木)を持つ手も寒さでうまく握れず、衣の袖を手袋代わりにして叩いていたものである。

平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という名文句があるが、インドの寺院では「カンチー」という鳴らし物を使っていて木製であり、日本で使われている木魚のようなものであったという。それで仏道修行者の生活に規律を与えていたのであるが、「祇園精舎の鐘」は木魚のような響きであったのであろうか。現在の寺院にある梵鐘と呼ばれている鐘は青銅製で、日本独特の優雅な鐘の音に改良され「和鐘」となっている。「ゴォーン」という響きは、何か日本人の心に郷愁を呼び起こす音色のようだ。昨日、梵鐘を突く撞木棒の予備の棒として乾燥させていた「シュロ」というヤシ科の常緑樹の木を試し打ちして、その響きにそんなことを思った。

葬送の簡略化

kokkas
(この暖かさで落ち葉の下で待機していたクロッカスが一気に開花した。)

昨日は結集寺院の檀家さんが亡くなられ、お葬式の助法に行かせて頂いた。斎場の一角にある会館で行われたのであるが、好天に恵まれポカポカと暖かい陽気で心地よかった。近隣の馴染みのお寺さん四人が集まり控え室で談笑していると、司会の女性の方が打ち合わせに来られた。田舎のお葬式に慣れていない派遣の司会の方のようで、導師様の説明を聞いている顔が不安そうである。田舎のお葬式は、内式(祭壇での式)と外式(野辺の送り)の二部構成になっていてその中間に葬送の配役を披露するのであるが、そのタイミングがわからないようであったので、私は横から割り込むように「そのタイミングがきたらご案内させて頂きます」と言うと安心されていたようであった。

二部構成というのは、昔の土葬の風習をそのまま火葬になっても引き継いでいるものである。土葬の時代は自宅の祭壇で葬送の儀式が終わると、葬式を取り仕切る方が親族や参列の方に配役を読みあげてその役目を知らせる。そしてそれに従って列を作り、導師様を先頭に棺を担いでお墓まで練り歩いていた。お墓に着くと壇の上に棺を置き、それぞれの配役の方々が持って来られたお花やお供えを並べて祭壇を作り野辺の送りの儀式を行っていたものである。火葬になってもその風習が受け継がれ、出棺時間に間に合う範囲の中で自宅や会館でも二部構成にして短縮ながら野辺の送りの儀式をしている。ただ、こうした昔ながらの儀式は、僧侶がたくさんいなければすることができず、都会などでは導師様一人ですることが多いのでこうした風習は忘れ去られようとしている。昨日は斎場と会館が繋がっているので、霊柩車を見送ることもなく参列の方も何か拍子抜けした感があったが、今後こうした形式も含めて益々簡略化の傾向に向かうのであろう・・・

おやつの謂れ

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(氷の水滴)

「三時のおやつ」と言いながらムシャムシャと菓子を食べていた息子が、「昔はお葬式に行って帰ってきたら饅頭をもらってきたけど、最近はあんまりないなぁ」と言い出した。そう言われてみると、葬式の簡略化を推進している地区が多くなり、お茶受けなどの饅頭を出さないところが多くなってきている。昔はお葬式や法事などが続くとお饅頭がたくさんあって、「おやつ」というとその饅頭ばかりで食べ飽きていたものであるが、いざなくなると少し寂しい感じがする。これからは葬儀屋さんを介してお葬式をする家が増えて、昔ながらのもてなしは次第に消滅して行くのであろう。昔は地区で祭壇を共有していて、亡くなられた方の所属している組と隣の助け組で祭壇を組み立てて葬儀の準備をしていた。僧侶には接待係から300mlの瓶に入ったお酒とお茶受けの饅頭が配られていたのである。

ちなみに午後三時頃に食べる「おやつ」は、「八つ時」(やつどき)に食べたので「おやつ」と言うようになった。「八つ時」というと今の午後二時から三時頃に当たり、一休みしてお茶やお菓子を食べる習慣があって、これを「おやつ」というようになったものである。

赤ちゃんの仏性

yukigesiki(一昨日に降った雪が昨日の晴天で一気に融けた。常瀧寺の境内の一角にある歴代住職の墓地の雪と空が対照的であった。)

先日あるお宅へお参りさせて頂いていると、参列者の顔がそれぞれニコニコと微笑まれている。私は出してもらったお茶を頂いていたので、ちょうど参列者と対面する形になっていた。それでなぜにニコニコとされているのかわからなかったのであるが、その視線がちょうど私の右後方に向いていることに気がついて私もその方向に顔を向けるとヨチヨチ歩きの赤ちゃんがいた。とてもかわいい赤ちゃんの姿に参列者が微笑まれていたのである。私も思わず顔がほころんだ。仏事の堅苦しい雰囲気を、赤ちゃんがいるだけでほのぼのとした優しい空気に変えてくれる。無意識のうちに私達大人には赤ちゃんを見ると「かわいい」「守ってあげたい」「助けてあげたい」といった感情が本能として備わっているようだ。それが優しさの原点かもしれない。
逆に赤ちゃんには本能的にそうした優しさを引き出す回路が組み込まれているのであろう。考えてみると、人間の赤ちゃんは他の動物と違って生まれて何もできない。立ち上がって歩けるようになるまで一年以上もかかるし、母親の乳も口元までもっていってあげなければ飲むことができないのである。つまり人間の赤ちゃんは他者の力がなければ成長できず、本能的に大人の優しさを引きだして生きるすごい力を持っているようである。そのすごい力こそが仏性ではないだろうか。ヨチヨチ歩きの赤ちゃんを目で追いながらそんなことを思った。

眼前の利より弱者への気遣い

ここ数年雪が少なかったが、久しぶりに雪が降り積もった。ちょうど土、日であったので通学や通勤の方にとっては幸いであったのかも知れない。そんな中、ショッピングセンターは週末ということでたくさんの人で一杯であった。私もちょうど夕食の食材を買いに家内と車で出かけたのであるが、建物に近い駐車場は満杯で少し離れた所に停めざるを得なかった。そして吹雪の中ショッピングセンターの入口を目指して歩いていると、少し前に足を引きずりながら歩いておられる男性の方がおられる。杖のようなもので支えながら歩いておられるので、傘がさせずに頭は雪で真白になっておられた。私は傘を差しかけて、「大丈夫ですか」と声を掛けると、「ありがとうございます、駐車場がなくて・・・」と言葉少なに答えられるので、「そうですねぇ、今日は一杯ですねぇ」と言いながら肩を支えるようにして建物の軒下までご一緒させて頂いた。どうも片足は義足で身障者のようであったが、見ず知らずの人にプライベートなことを聞くわけにもいかずその場で別れた。

買い物をし終わった頃には吹雪は治まっていた。ショッピングセンターの出入り口から外へ出ると、すぐ近くに身障者用のパーキングがある。そこに若い女性の二人組が車へ乗り込もうとしていたのであるが、どう見ても健常者に見えた。その車の前を通り過ぎながらフロントガラスを見たのであるが、許可書らしきものも見当たらない。その場所は三台が身障者用のスペースでわざわざ色分けして広いスペースをとってあるので、一般の駐車場と間違えることは考えにくく、故意に停めたと思われる。ついでに他の二台の車にもそれらしき許可書がなかった。一概には断定できないが、もしその三台の方々が健常者であれば少し寂しい気持ちになる。自分の都合や利益だけで行動する方が増えてきているのであろうか。もしここが空いていれば、さっきの男性はそんなに苦労することなく入場できたのにと思わずにはいられなかった。お大師様は「秘蔵宝鑰」という書物の中で「凡夫は善悪に盲いて、因果有ることを信ぜず。ただし眼前の利のみを見る、何ぞ地獄の火を知らん。」と言われている。つまり「世の凡人は善悪の判断がつかず、そこに因果応報の理があることも知らない。ただ目の前の利益を見ているだけの者に、どうして地獄の恐ろしさがわかるだろうか。」と言われているのであるが、「眼前の利」ではなく、他人や弱者に気遣いのできるようになりたいものである。
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