ちけん和尚のブログ

ちけん和尚の出来事などを思うまま書き綴って行きます。また、時間に余裕があれば仏教的な観点から仏事や世相を書き綴りますので、是非ご覧ください。また、意見や感想など頂ければ嬉しく思います。  合掌 知憲

2010年08月

六曜について

aobahagoromo
(体長一センチぐらいの小さなアオバハゴロモが木にとまっていた。)

最近の暦(カレンダー)はシンプルなものが増えてきたが、昔ながらの六曜が書いてあるものも依然として人気がある。自然と冠婚葬祭などにはそうした六曜の暦を見て日取りを決める人が多いのではないだろうか。結婚式には大安、お葬式は友引を避けたりと、どうしてなのかわからないが無意識に吉凶を避けようとする意識が私たちにはあるようだ。六曜という言葉を知らない人でも、大安や仏滅などの言葉は聞いたことがあるだろう。でもそれがどういう意味なのかと尋ねると、はっきりと答えられる人は少ない。

先勝は釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた日(十二月八日)、友引は釈迦のお葬式の日(二月十九日)、先負は釈迦がお城から家出をした日(十二月十日)、仏滅は釈迦が亡くなった日(二月十五日)、大安は釈迦の誕生日(四月八日)、赤口は釈迦を火葬にした日(二月十七日)である。このように意味を知ると、六曜が仏教と密接に関係が深いことがよくわかるが、現在の六曜はそうした本来のお釈迦様の日付との関係はないようである。やがて大自然の運行に合わせて、干支、九星、七曜星、六曜、二十八宿などが作られ、今日の易占の元となっている。昔から僧侶に天文学者が多く、特に中国で密教を流布させた一行阿闍梨は、「人間は、宇宙の大生命の一つの表れである」という密教の原点から天文学の発展に大きく貢献してきた。六曜などは迷信と思っている人も多いと思うが、天地自然の道理から生まれた先人の知恵に学ぶことも時には必要であると思った。

中陰の七日の大切さ

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(境内のあちこちで宿根のヤブランが花を咲かせている。)

いつであったか、最近は逮夜参りをしない寺院が増えてきていると聞いたことがある。また、寺院によってはお経の本とお経のテープを渡して、逮夜にお坊さんが来られないところもあるという。私の住んでいる田舎町でもそんなお寺さんがポツポツと現実にあるようだ。葬儀の後に繰り上げて初七日をするが、二七日以降は何もなくてその一ヶ月後にいきなり満中陰忌の忌明け法要をするらしい。寺院にとってこんな楽なことはない。ちょっと厳しい見方をすると、僧侶の金儲け主義とでもいうか職務怠慢に他ならない。亡くなられて霊魂の不安定な時期に、僧侶と親類縁者の冥福への祈りがどれだけ故人にとって大きな支えになるか、そうした方は知る由もないのであろう。昔は故人の死を悼み、大祥忌といって三回忌が終わるまで喪に服していたものであるが、忙しい現代ではそんな長くはとても無理である。だからこそ、せめて四十九日ぐらいしっかりと勤めてあげたいものである。初七日や二七日と七日ごとに供養を重ね、七回目に忌明け法要をすることは物事が成就すると考えられていて大変意義深いものである。

昨今、四十九日が三月(みつき)に及ぶといけないと言われ、三十五日(五七日)に忌明け法要をするところがあるが、これは四十九を始終苦とし、三月(みつき)を身に着くと語呂あわせした迷信である。本来は亡くなられた日が月の前半であればそんな三ヶ月にもならず、亡くなられた日によって供養に差が出るのは矛盾している。できることなら、七回目の満中陰忌(七七日)をしてあげることが望ましいし、ここをしっかりと供養してあげることで良い輪廻が生じるに違いない。昔から湯治や薬の服用期間は七日とされ、一週間を七日とした暦の周期も元はユダヤ人の安息日からきている。私たちが日頃よく食べている鶏卵も、親鳥が温めて三七日の二十一日目にヒナにかえるように、生物も七日ごとに生理的変化を起こすものが多いことを考えると、中陰の七日という期間と何らかの関係があるのかも知れない。

親子関係の修復

sarusyberi2(境内のあちこちでサルスベリの花が満開になっている。)

このお盆に遠方に住んでおられる信徒さん宅をお参りさせて頂いた時のこと、たまたま嫁いでおられる娘さんらしき方が二人の小さな子供を連れて里帰りされているようであった。私は「アレッ」と一瞬思ったが、そのまま仏壇の灯明に火を点けて読経の用意をしていると、おしぼりとお茶を施主である奥様が出して下さった。今年はご主人が亡くなられて三年目のお盆であるが、それまで葬儀や法事に娘さんの姿を見かけることは一切なかったのである。奥さんと挨拶をしていると、それをさえぎるように「そんなら帰るわね」と玄関のあたりから声が聞こえてきた。奥さんは「ちょっと失礼します」と言って席を立たれたが、すぐに戻って来られ「すみません、お恥ずかしいことで・・・」と言葉を濁された。普通なら自分の父親の三年目のお盆のお参りが終わってからでも良いと思うのであるが、急な用事でもあったのであろう。私の後ろで奥様一人が仏壇に手を合わされていた。読経が終わり出して頂いたお茶を飲んでいると奥さんが、「あの子(娘)は父親が大嫌いで、家出同然のようにして嫁に行ったんです」と娘さんのことを話されながらその苦しい胸の内を吐露された。亡くなられた父親は人が良く、知人の連帯保証人になったせいでその借金を背負い、生活はかなり苦しかったようだ。奥さんも家計を支える為にかなり無理をして働かれたようで、娘さんのことなど構ってはいられず、両親の愛情を受けることなく疎外感から非行に走り、完全に崩壊していた家族関係を大変悔いておられた。

私はその奥さんと知り合ってから五年余り経つ。ご主人の病気平癒で数回護摩を焚かせて頂いたのがご縁であるが、残念ながら気がつかれた時には末期の肺癌であったようで、病気平癒の祈願も成就しなかった。確か四回ほど護摩焚きに来られ、しばらく電話がないと思っていた矢先の訃報の知らせで、電話口で懇願されて遠方ながら葬式の導師を引き受けたのである。その時に娘さんが一人おられることを知ったのであるが、まるで勘当でもしているかのように娘さんのことは口を閉ざしておられたのが印象に残っている。当然葬式にもその後の供養にも顔を見ることはなかった。しかしながら昨年、父親が亡くなったことを自分の主人にも隠していたことがバレて叱られたようで、三回忌が終わってしばらくしてから娘さんとご主人が揃って仏壇を拝みに来たらしい。それから頻繁に来てくれるようになったことを大変喜んでおられた。娘さんのご主人は天涯孤独で身寄りはいないので、親に対する思いが人一倍強い。それまで腫れ物に触るように誰も娘さんを注意できなかったが、おそらく娘さんのご主人が今までのことを注意してくれたのであろう。今回は子供を連れてお盆参りに来てくれていたらしいが、子供の学習塾の時間を忘れていてあわてて帰られたようだ。まだ娘さんもその子供も完全に母親を受容するにはもう少し時間が必要であるが、少しずつ空白の時間を埋めている。そして完全に崩壊していた親子関係を修復するきっかけとなったのは父親の死であり、父親を祀った仏壇であったことも皮肉であるが、やがてその仏縁の深さに改めて気がつかれる時が来るに違いない。





塔婆のない葬式

yamayuri
(山裾にヤマユリが咲いている。)

先日都会に住んでおられる信徒さんがなくなり、都会の葬儀会館でお葬式をさせて頂いた。田舎と違って葬儀の前にこちらで用意するものは白木の位牌一本だけと簡単で、何か拍子抜けしてしまう。田舎であれば、四本幡や天蓋など書き物がたくさんあり、白木の塔婆も最低三本は必要である。葬儀会館の方に、「こちらでは塔婆はどうされていますか」と尋ねると、「こちらでは塔婆はありません」と言われる。「エエッ、当日の葬式の時の塔婆もないのですか」と再度尋ねると、「ええ、ほとんど見かけませんねぇ」と答えられた。何とどこまで簡素化されているんだろう。少し飽きれてしまうが、都会では葬儀の数も多くいつの間にか簡素化されてしまい、それが当たり前になってしまっているのであろうか。田舎では書き物を仕上げるだけで数時間、ヘタをすると半日余りかかるが、そうした書き物や塔婆かないとなるとお坊さんはかなり楽チンだ。

これは私の個人的な見解であるが、昔のように野辺の送りはできないので幡などの書き物は仕方ないにしても、せめて葬儀当日の塔婆だけは書く必要がある。墓がないなら、お棺に入れてあげれば良い。葬儀はセレモニーの要素が強く、出棺時間が決められている中では十分な供養ができないからである。私が少し驚いていると、都会でも「ご寺院さんによっては塔婆を書かれている方もおられますよ」と会館の女性の方がフォローして下さった。聞くところによると、法事も施主家から要請がない限り塔婆は書かないそうである。お墓がなかったりする家もあるからであろうが、それなら仏壇にしばらく祀って後は寺へ納めるなど処分する方法はあるはずである。ここでは塔婆を建立する功徳については触れないでおくが、先祖代々に渡って行われてきたものを何か「簡素化」という言葉の陰で、こうした傾向にあることを少し残念に思った・・・。

良い祈りのリズム

kabocyaturu(カボチャのツルが夕日に映えて何かのマークのようであった。)

昨日は毎月定例の護摩供養の日であった。朝八時頃、すでに温度計は三十度を軽く超えている・・・今年の残暑はかなり厳しい。前日の夕方に降ったにわか雨で、護摩堂の横を流れる谷川の水も勢いよく流れているが、依然滝へ流れ込む水量は少なく池からの循環水に頼っている。滝が百パーセント谷川の水であれば滝行をしたいのであるが、新鮮な水はほとんど入らないので衛生上無理である。仕方なく自宅でのシャワーを代用しているが、この暑さでは白衣に着替えただけで汗が噴き出てくるのがわかる。午前八時半頃から支度をして九時ちょうどに登壇した。背中や脇の下の毛穴から汗がジワジワと出てきてそれがかゆく、なかなか精神集中できずにいる。しばらくするとそのかゆさも治まり、すっかり肌襦袢が汗を吸ってくれたようだ。一時間余りの前行が終わり火天段へと入るが、護摩木がよく乾燥しているのかいつもより燃え方が早い。余り調子よく燃やしてしまうと、釜が燃えカスで一杯になり添え護摩木が入らなくなるのである。参拝者の方々には十時三十分を過ぎて入場して頂くように言ってあるが、まだそれまでかなり時間があるので一旦火の勢いを落としながらの修法となった。不思議なもので火天段に入ると暑さも忘れていたが、火勢を弱くしたので護摩堂の中は少し煙っていた。

午前十時三十五分頃、突然閉め切っていた護摩堂の戸が開き、一瞬ドキッとする。本堂で雑談して待っておられた参拝者の方々が入って来られたのだ。私は入場されるのを待ちながら調整していたが、それを見て添え護摩に移った。参拝者の大半が八十歳を越えておれるので、少しでも身体の負担を減らして添え護摩から入場して頂くようにしているが、それでも二十分ぐらいかかる。猛暑に加えて更に熱い火を焚くので護摩堂の中はとんでもなく極限状態にあったが、お参りのおばぁちゃん方は欣求浄土(ごんぐじょうど)の心境を志しておられるのかその強さに驚く。いつも最後に全員で般若心経とお不動様の慈救呪を唱えるが、私はこの時にお参りの方々の信心のパワーを強く感じる。「ノウマクサマンダバザラダンセンダマカロシャダソハタヤウンタラタカンマン」という真言の響きが、良い祈りのリズムとなって一体感を醸し出しているようだ。午前十一時、護摩は終了した。先に参拝者の方々には本堂へ戻って頂き、私は破壇作法と最後に三礼をして護摩堂を退出しようとしたら、入口の戸の内側でアマガエルが干からびていた。もう少し早く気がついていればと思ったが、これも自然の摂理であろうか・・・。

経机の必要性

batta3(バッタを撮った)

お盆参りをさせていただいた時のことであるが、ローソク立てが仏壇の奥に置いてあって火を点けるのに苦労した家が何軒かあった。すべて家に作りつけの仏壇であるが、奥行きも広いのでそうなってしまうのかも知れない。また経机が置かれていない家もあって、少し拝みにくく違和感がある家もあった。お盆参りの最中ではよほど親しくない限りアドバイスすることもできず、何かの仏縁の機会でもなければ難しい。毎日の勤行をされている家なら必ず経机を置かれるだろうし、ローソク立てもそんな仏壇の奥には置かれないだろう。自然と使い易いスタイルになるはずであるが、おそらく仏壇を拝まれるのは年に数回ではないかと思われる。

五具足というと、花立てが二つとローソク立てが二つそして真ん中に線香立てであるが、花立は仏壇の一番下の段の両サイドに置き、ローソク立てと線香立ては経机に出された方が使い易い。経机に二つのローソク立ては置きにくい場合は、三具足に準じた使い方が良いだろう。つまり向かって仏壇の左側に花、経机の真ん中に線香立て、その右側にローソク立てを置く。おりんはローソク立てと線香立ての前ぐらいに置けば良い。普段は三具足で使われ、彼岸やお盆などの特別な時には五具足で使われるのも一つの方法である。ローソク立ては仏壇の中に入れると煤けて汚れるので経机に置かれるのが良いが、まだまだ田舎では既成品の仏壇ではなく家に作りつけのものが多いので、経机がない家もある。先ずは経机を置いて頂けるように機会があればお勧めしていかなければと思った・・・。




仏様が祀られていない仏壇

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(雑草の中に、アスターの種類であろうか、ひときわ目立っていた。)

私の村には真言宗と浄土宗の二つの寺がある。昔は二百軒余りあったが、今では百八十軒程度で、その内の十軒程度は無宗教であったり新興宗教であったりする。お盆参りは、昔からの恒例でその実質百七十件余りを宗派に関係なくお参りするのであるが、浄土宗の檀家さんの中にもお大師様や大日如来を祀られている家がある。逆に私の檀家さんでも阿弥陀如来を祀っておられる檀家さんがあったりして、それほどこだわりがないようだ。私としては仏様なら何でも構わないと思っているが、それより仏様が全く祀られていない家が数軒あるのが気になっている。お盆参りをさせて頂く時には、その家の仏様(本尊)を拝み、先祖代々の諸精霊の菩提を祈って導いて頂く。必ずその家に祀られている仏様の真言を唱えて祈念するのであるが、位牌だけで何処にも仏様がおられない家があると仕方なく仏様を観想して拝むが、少し寂しい気持ちになる。中には拝む対象は仏様ではなく、先祖(位牌)と思っておられる方もいるようで、今年も何軒かそんな家があった。気がついてもお盆参りの中では余裕がなく、ゆっくりと施主さんに説明して理解を得るには難しいので、ついついその機会を逃してしまうことが多いのである。

そうした中、初日のお盆参りの最終でお参りした家があった。もう一方の浄土宗の檀家さんにはお節介になるので何も言わないが、たまたま私の檀家さんで親しく最後のお参りということもあって、つい感じたことを率直に言ってしまった。そこの仏壇には位牌しかなかったので、仏様を祀る功徳を話すと施主のおばぁさんが、「うちは新宅で何も知りませんでした、どれくらいかかりますか」と尋ねられるので、「ここは作り付けの仏壇ですので、掛け軸も一回り大きいものが良いと思いますが、それでも一つ四千円程度ですので大日如来とお大師様と不動明王の三枚セットで一万二千円ぐらいですよ」と言うと、「そんならおじゅっさん、お世話してもらえますやろか」と言われ、早速に仏壇屋に手配させて頂いた。先日、仏壇屋さんを連れておばぁさんの家に行き、掛け軸を取り付けしたのであるが、何もなかった白い壁に三つの掛け軸を取り付けると仏壇が見違えるようになった。分家で、十数年前に亡くなられたご主人が当家では初めてのご先祖様ということになるが、しっかりと祀ってあげられなかったという気持ちからであろうか、それを見ておられたおばぁさんの目にうっすらと涙が見える。本当は逮夜参りなどの時に、先代の父親が指導してあげるべきであり、こちらの方こそ申し訳ない気持ちであったが、何よりもおばぁさんの喜ばれている姿に救われた。

酷暑の中の護摩

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(葉っぱの上に小さな虫を見つけた。)

今日は午前九時半頃から専願の護摩の予約が入っていた。今年の残暑は例年になく厳しいものがある。本当はもう少し早朝にしたかったのであるが、今日は二十一日のお大師様の縁日で、護摩堂に祀っているお大師様を拝みに数人の方が早朝に来られるのでこの時間となった。山寺であるので坂道と石段があるが、八時半頃にちょうど一段高くなった護摩堂から掃除をしながら石段下を見ていると、人影が少しずつ大きくなって近づいて来る。常連のおばぁちゃんである。八十歳をとっくに過ぎておられるのに、本当に元気だ。「おじゅっさん、今年はなかなか涼しくなりしまへんなぁ」と声をかけて下さった。私は「ほんまですねぇ」と言いながら、おばぁちゃんの顔を見ると汗が噴き出ている。その汗を持っておられる手ぬぐいで拭きながら、「今からおじゅっさん護摩ですか」と尋ねられるので、「そうなんです、九時半からなんでまだ時間がありますからゆっくり拝んで下さい」と言うと、「大変ですなぁ、ほんまの修行ですねぇ」と笑いながら応じて下さり、早速に拝みに行かれた。

本堂の前には、三十分ほど前にお参りに来られていた二人の方が涼んでおられる。母親が祖茶を出し、母親を交えて三人で話が弾んでいるようである。しばらくするとさっきのおばぁちゃんも合流されていたので、私は入れ替わるように護摩堂に行って今日の専願の護摩を焚く用意を始めた。今日の施主さんはもう四年近く毎月焚いている。必ず約束の時間より少し早目に来られるのが習慣で、今日も施主さんには一応は十時と言っておいたが、お互いに九時半という暗黙の了解があった。予想通り、九時二十五分になると坂道を登って来る自動車の音がして、九時半からの護摩となった。白衣に着替えただけでも暑いが、それに護摩用の衣を着用しその上に如法衣を羽織る。もうその時点で背中はビッショリと濡れていて気持ち悪い。正直なところ、この猛暑日に焚きたくはないというのが本音であるが、そんなことは言っていられない。施主さんのお不動様に縋る気持ちを考えると、しっかりと修法しなければいけないと気持ちを奮い立たせようとするが、お盆の疲れと余りの暑さで身体が異常にだるい。それでも何とか三礼して修法に入ると、何処からこの元気が出てくるのか自分でも不思議であった。

メーンのクライマックスである百八支の投入になると益々絶好調であったが、数十本投入したところで突然に火か消えた。おそらく酸素不足と思われるが、なかなか火が点かない。もう十分に経験してきたことであるが、黙々と上がる煙にちょっとだけ焦る。仕方なく扇子で風を送りボッと火が勢いよく上がった。それ以降は快調で約一時間の護摩を焚き終えたが、全く暑さや倦怠感を感じることなく終了し、最後に祈願の護摩木を三本投入したのである。これが良く燃え、しっかりと般若心経を三回唱える間燃え続けてくれた。施主様の祈願が成就しているのであろうか。この厳しい酷暑の時に、施主様は勿論のこと私にとっても意義のある護摩となったが、着物は汗で滴るぐらいに重くなっていた・・・。

やすらかなお顔

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(忙しくて撮る時間がなく、お盆前に撮った花・・・)

一昨日の夜、遠方の信者さんから訃報の知らせを受けた。一ヶ月ほど前にお盆参りの案内のハガキを出していたのであるが、その時にいつ逝ってもおかしくない状態であると連絡を受けていたのである。何とかお盆参りはさせて頂いたのであるが、律儀にもお盆を過ぎてから黄泉の国へと旅立って行かれた。「おっすさん、もう逝ってもかまへんやろか」とでも言っておられるようで、生前の明朗快活な故人の声が聞こえてきそうである。一昨日の十八日は結集寺院の施餓鬼法会があって助法に参列していたが、それが終わると私のお盆の行事はすべて終了する。いつもであれば夜は苦手で午後十時には就寝するのであるが、その日はやっとお盆の行事が終わったという開放感もあってめずらしくテレビを見てゆっくりしていたら、午後十時半頃に「今、父親が息を引き取りました」と落ち着いた声で電話が入った。亡くなられた故人は私の父親と同世代で長く市会議員をされていたが、九年前に奥さんに先立たれてから数年後に痴呆症が進み入院されていたので、私も長らく顔を拝見していない。

遠方なので通夜の前に枕経をさせていただき、その時にお顔を拝見した。久しぶりに見るそのお顔はとてもきれいであったが、かなり痩せて小さくなられているようで以前のふっくらとした大柄な面影はなかった。私としては故人の奥さんの三回忌法要の時に出会って以来で無理もない。しかしながら、軽く死化粧をしてもらっていることもあるが、とてもやすらかなお顔に見えた。「いろいろ迷惑をかけたなぁ、ありがとう」と感謝して旅立って行かれたようである。喪主さんは一人息子であり、何よりも親子の絆を感じながら温かく見送られたのではないだろうか。慈愛に満ちたやすらかな顔は永遠の命として息子様の心に刻まれたに違いない。そして、いのちの受け継ぎは息子さんから孫へと、確実に受け継がれて行くであろう。晩年はいろんなことを忘れてしまわれた父親であったかも知れないが、幼少の頃の思い出は忘れてはおられないはずである。おそらく幼少の純真な心になられていたからこそ、このようなやすらかなお顔で逝けたのであろう。奇しくも旅立たれた日は十八日で観音様の縁日でもあった・・・

オリンの響き

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(フランターに植えているミニトマトがにわか雨で濡れていた。)

ようやくお盆の行事も終わり、昨日はお盆の間に留守にされていた女性のお宅へお参りさせて頂いた。どうしてもお盆の間は仕事が忙しく休めないので、昨日のお参りとなったのである。檀家さんではなく偶然に知り合った方であるが、頼まれてご主人の三回忌法要をさせて頂いたのが縁で毎年お参りしている。普段は寺から自動車で約一時間程度かかるが、昨日は高速道路の降り口が渋滞していて一時間半余りかかった。私より十歳ぐらい年上であるが、どういうわけか私のことを先生と呼ばれるので恥ずかしくなってくる。昨日もインターホンを押すと、「先生、ご遠方からありがとうございます」と元気な声が返ってきた。まだ知り合ってまだ四年目で日が浅いが、私の留守中に寺によくお参りに来られているようだ。私の信者さんというより、常瀧寺のお不動さんの熱心な信者さんかも知れない。

早速に仏檀の前に座ると、オリンが新調されているのに気がついた。私は「オリンを換えられたのですか」と尋ねると、「そうなんです」と嬉しそうに話される。たまたま線香を買いに行った仏壇店で、展示してあったオリンをチーンと鳴らしたら音色が良かったので衝動的に買われたようだ。私は「良いオリンは、亡くなった人々の苦しみを少しでも長い時間止めるという意味が込められていますので、もしかしたら仏様が買わせたのかも知れませんねぇ」と言うと、「主人は苦しんでいるんでしょうか」と真顔になられた。私は「ご主人はこれだけしっかりと奥様が信心されて拝んでおられるから大丈夫ですよ」と言うと、安心されたみたいである。梵鐘でもオリンでもそうであるが、良い音色のものはいつまでも長く響く。その長く響く音色の余韻に、ご先祖様や故人に思いを馳せ冥福を祈るのである。また、亡くなられてまだ修行されている人や暗闇を彷徨っている人には迷いの闇から目覚めさせ、苦しみを取り除く良音となるに違いない。毎年八月十六日にしている施餓鬼法会にも来ることが出来ないので、事前に申し込まれた添え施餓鬼の塔婆と施餓鬼旗を持参して再度供養させていただいたが、新しくなったオリンの良い響きが心地よかった・・・。オリンは音色を確かめて自分なりに良いと思う音色のものを買うことで、新たな供養の世界が広がることであろう。

いろは歌

sarusuberi1(境内のサルスベリが咲き始めた。)

昨日は毎年恒例の施餓鬼法会があり、無事何とか終了した。前日に隣町にある結集寺院の施餓鬼法会の手伝いに行ったところ、そこの住職がエレキギターで「いろは歌」を演奏して歌っておられるのを聞いて、「是非とも明日うちの施餓鬼でも実演してもらえませんか」とお願いしたのである。快くそれを引き受けて下さり、法要の後に実演してもらった。少し失敗したのはお互いにお盆の最中で忙しく、打ち合わせが不十分でぶっつけ本番となってしまったことだ。四十七文字という短い七五調で、アッという間に終わってしまい何か物足りなさが残った。ゆっくりとフレーズの演奏に合わせて解説して行けば良かったと悔やんでも後の祭りである。私としては式衆の住職方がおられるとしゃべりにくいので退席されてからと思っていたのであるが、普通の歌と違って二番目の歌詞がないのでもう少し工夫が必要であった。

「いろは歌」は高野山真言宗の宗歌でもあり、著作については多説あるが弘法大師が作られたという説も完全には否定できない。この「いろは歌」は大般涅槃経(だいはつねはんきょう)の雪山偈を意訳したもので「諸行無常」を、いろはにほへとちりぬるを(色は匂へど散りぬるを)とし、「是生滅法」を、わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)とし、「生滅滅己」を、うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)とし、「寂滅為楽」を、あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見じ酔ひもせず)としている。この四十七文字の後に「ん」又は「京」を歌い入れて四十八文字とする。当時、高野山の伽藍をつくる時にこの平仮名のおかげで大工さんなどの手間が省けて大いに役立ったという。それまでの漢字文化から書きやすい平仮名の文字は、日本文化の発展に大きく寄与したに違いない。

一族の絆

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(一週間前に撮ったひまわり・・・)

ようやく今日でお盆も三日目となり、ここまで来ると一息つける。昨日までがお盆参りのピークで、少し遠方に住んでおられる檀家さん宅をお参りさせて頂いた。黒川ダム湖の周辺に三軒と生野市内に一軒でドライブには絶好のルートであるが、そうした風情を楽しむ余裕もなくキャンプや釣りで混雑する中を往復した。一旦寺へ戻り、午後からは反対方向にある郊外の檀家さんを数軒回り、今年のお盆参りは二軒を残してほとんど終了した。最後のお宅では毎年のことながら、孫や子供がたくさんおばぁちゃんの家に集まり私を迎えて下さる。おばぁちゃんの二人の娘夫婦とその子供たちであるが、七年ほど前にご主人を亡くされた一人暮らしのおばぁちゃんを気遣ってよく来られているようだ。昨日は約束の時間より三十分余り早く到着したが、全員揃っておられたのですぐにお盆のお勤めをさせて頂いた。お経が終わり、後ろを振り返ると全員何やらコピーした紙を持っておられる。よく見てみると般若心経であったが、お盆参りのお勤めの中では唱えることなく終わってしまった。どうしてもたくさんの檀家さんをお参りするので、般若心経よりも短い理趣経の偈文を唱えるからである。

私は早く気がつけば良かったと思いつつ、「せっかくですから、これから般若心経を唱えます」と再度仏壇に向き直り、般若心経を唱えた。それぞれの読経の大きな声が私の背中の後ろで響き、おばぁちゃんは勿論のこと、二人の娘さんやその子供の声も聞こえてくる。家族全員での読経に、ご先祖様も大変喜ばれているに違いない。七年前におじぃちゃんが亡くなられた時、私はまだ正式の住職ではなくお葬式にも参加していない。三回忌の法事をしたのが初めてこの家族との出会いであった。その時から、亡くなられた父親の菩提を祈る二人の娘さんの信心が際立っていたのが強く印象に残っているが、そうした気持ちが一族の絆を強めているのであろう。私の寺ではお盆参りに留守のところもあり、縁側の戸は開けてあって勝手にお参りして帰るパターンも多い。また、おられてもおばぁちゃん一人で対応され、他の家族は奥でテレビを見て出てこないところも多々ある。そんな中でお盆のひとときを家族全員で読経して先祖に手を合わすことは、本当に意義深いことと思う。お盆参りの最後のそんな光景に、疲れも忘れ何処かへ飛んで行った・・・。

叔父の孤独

hoteiaoi(二か月前にホームセンターで百円で買ってきたホテイアオイが花を咲かせた。)

毎日過酷なお盆参りが続く。本番は十二日と十三日であるが、それまでは郊外の檀家様を一日に数軒お参りさせて頂いている。一昨日は大阪に住んでいる私の叔父のところへお参りした。叔母が六十四歳という若さで急死して三回目のお盆であるが、参列者は叔父とその長女だけで何か寂しさを感じる。次女の家族は用事があったのか欠席していたが、どうも父親との折り合いが悪いようである。長女は責任感が強く、しっかりとお供えや霊具膳などをしてくれていたようであるが、父親のところへ来ると決まって体調を崩している。どうも精神的なものがかなり影響しているのであろう。それまで亡くなった叔母が二人の娘と父親の間に立ってうまく調整していたのであるが、何の兆候もなく突然逝ってしまったものだからお互いがギクシャクとしたままなのである。

叔父は定年退職した後も出向して働いていたが、今年の三月でそれも終わりこの四月からは自宅で寂しく居るようである。叔母は明るく社交的で友達も多かったが、叔父は対象的でこれから先どうなるのか心配だ。「スポーツジムにでも行こうかと思っているんや」と話されていたが、元来スポーツ好きでもなくそれほど熱中するとも思えない。何か趣味でも見つけて欲しいと願うばかりである。何をするにしても扇の要であった叔母の存在は大きく、亡くなってからより一層それを明確にしているが、今更どうなるものでもなく叔父を見守るしかない。仏壇を拝みながら小さな遺影に写っている叔母が、私に「頼むよー」とでも言っているようであった・・・。

高齢者不明の記事

diririi
(遅咲きのデイリりーか裏庭に咲いている。)

今朝の新聞の片隅に「百歳以上の高齢者の所在不明、全国で63人に」という記事が載っていた。昔のように一つ屋根の下に、大家族で暮らしていた時代では考えられないことである。核家族化や地域のコミュニティーが崩壊してきているなど様々な要因が考えられる。民生委員さんなども「個人情報保護法」の間違った解釈の壁もあって苦心されているようであるが、根本は親族の倫理感の問題ではないだろうか。行方不明になっている親や祖父母を、捜索願いも出さずにそのままにしているケースもあるという。一部の方かも知れないが、日本人の良き忠孝の精神はもはや過去のことで忘れ去られようとしている気がしてならない。お盆や彼岸に先祖の墓に手向けして菩提を祈り感謝する気持ちがあれば、そうした人もいなくなるのではないかと記事を読みながら思った・・・

お盆のお供え

himawari
(市内のひまわり畑が満開で青空がよく似合う。)

関西ではいよいよお盆参りの本番を迎える。なるべくお盆入りの十三日に近い日にお参りしてあげようと苦心するが、どうしてもすべてをお盆の間にお参りすることは無理なので、私の寺では明日からお盆参りを始める。今年は初盆の家が五軒あるが、後日お寺へ施餓鬼法要に来てもらって新精霊の供養をするので、少し丁寧にお経をあげるだけで一般のお盆参りと変わらない。亡くなられて四十九日を過ぎてから初めて迎えるお盆を新盆とか初盆と言うが、呼び方も地方によって「ニイボン」、「アラボン」、「ハツボン」などと呼ばれ少し違うようである。

先日、十一日にお参りさせて頂く予定でハガキを出した施主家からお電話を頂いた。昨年に年老いた母親を亡くされた奥様からである。「初めてでお盆のお祀りの仕方がわからないのですが・・・」と尋ねられるので、私は「仏壇の前に置いてある経机では少し小さいので、その代わりに小テーブルか台を置いてその上にテーブルクロスかゴザなどを敷いて下さい。その上にローソク立てや香呂、花立てを並べ、お供えは故人の好きだったものをお供えしてあげたら良いと思いますが・・・」と話しながら、お盆の独特のお供えである「水ノ子」とキュウリとナスビの乗り物ををどう説明したら良いか迷っていた。キュウリとナスビの乗り物は簡単であるが、「水ノ子」はいくつかのやり方があるので、どれが良いか迷っていたのである。結局、「ハスの葉っぱがなかったら里芋の葉っぱでもかまいませんので、その上に洗ったお米を少しと采の目に切ったナスビを混ぜてお供えして下さい。その横にキュウリとナスビの乗り物とホオヅキやソーメンを一束お供えされたら良いと思います」と言ったのであるが、なかなか口頭では理解しにくいので電話を切った後、簡単にメモ書きした紙を郵送しておいた。

中でも「水ノ子」は「水の実」とも云われ、大切なお盆のお供えである。私のところではソーメン鉢に清水を入れて、その中に洗米と采の目に切ったナスビを少量入れて供える。また、キュウリとナスビにはそれぞれおがらの木を短く切ったものを四本刺して足にするが、キュウリは馬に見たてて早く精霊に帰って来てほしいという願いを表し、ナスビは牛に見たてて帰りはゆっくり帰って頂くようにという思いが込められている。現在なら飛行機や自動車ということになるのかも知れないが、お盆を迎えるにあたって先人の先祖に対する温かい思いやりを感じる縁起物ではないだろうか。

幸運を呼ぶポイント

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(メドーセージが咲いていた。)

私たちは一杯良い事が続くと「何か怖い」と思ったり、「運を使い果たしてしまったのではないか」と思う人が多いのではないだろうか。人生全体の出来事で良い事をプラス、悪い事をマイナスとして、全体でプラスマイナスゼロという考え方をいつの間にかしているようだ。実際のところは「万事塞翁が馬」ではないが、人生思いがけないことが幸運を招いたり、不幸につながったりして、誰にも予想はつかない。また、「禍福は糾える縄の如し」とも云われるように、幸福と不幸は巡り巡って代わる代わるやってくるものと思っている人も多い。

先日の定例護摩にお参りされていたあるおばぁちゃんが、「私の両親は苦労して私を育ててくれて、一つも良い事なしに逝きましたけど、逆にその分私は幸せで有難いです。最近この幸せがいつまで続くかそれが心配で仕方ないんですわ」と話された。私は「子供さんやお孫さんにはそれぞれまた違った人生がありますから、心配せんでええんと違いますか」と言うと、「そうですねぇ」と言いながらニコニコと笑われている。添え護摩に子供の分は勿論、たくさんの孫の分までそれぞれ幸せを祈念されている信心家のおばぁちゃんらしい言葉だ。

人によって良い事や幸せの基準は違う。逆に悪い事や不幸に対する見方もかなり違ってくる。それは育った環境が大きく影響するのではないだろうか。環境の著しく悪いところで育つと、良い事は自分の力で成し得たと思い、悪い事は「元々生まれた星が悪い」とか「あの人のせいだ」とか言って責任転嫁して感謝することなく、負のスパイラルが起きてしまうことが多いようだ。ある程度満たされていると、それほどガツガツすることなくすんなりと高い目標を手に入れることもあるようであるが、しっかりと節度を持った上でのことである。

では良い事や幸せを呼び込んだりするにはどうしたら良いのであろうか。私は僧侶の立場から、先ず「感謝の念」を表すことをお勧めしている。神仏に向かって祈りを捧げる時、最初に住所、氏名などを名乗り、今現在生かして頂いていることに感謝の念を表し、その後に具体的なお願いがあればすると良い。その願いも「・・して下さい」というような祈願ではなく、「お助け下さい」というようなおすがりする気持ちで祈念すると効果がある。とにかく日頃から感謝の気持ちを持って生活していると、ネガティブなこともポジティブに捉えられるようになり、良い波長の連鎖が幸せを運ぶに違いない。

水子の良縁

benikanzou(草むらでひと際目立つノカンゾウ。)

私の寺では水子供養をすると、必ず最低二回はお寺に参って頂くようにしている。最初に来られた時に水子地蔵尊のカード型御守りを授与するのであるが、一年か一年半ぐらい経ったらもう一度お寺へ参って頂きそれを返却をして頂くので、最低二回は寺へ足を運ぶことになるのだ。ほとんどの神社や寺院で出しているお守りも同じで、ご利益の目安は一年から一年半ぐらいである。再度新しい御守りを希望される方には新しいものと取り換えるが、ほとんどそれっきりで終わられる方が多い。しかし中には一年の間に何回もお参りされる方もいる。水子供養の性格上、供養をすることに意義はあるが、できるなら最低でも二回は寺へ参って頂くことでより仏様の加護に与り易くなり、良いご縁ができることであろう。

御守りを返却される時は予約なしで、寺の本堂入り口の脇に置いている箱へ返却してもらうようにしているが、数日前に御守りを返却に来られた四十代前後ぐらいに見える夫婦らしきカップルがおられた。男性は大事そうに赤ちゃんを抱いておられる。私はちょうど本堂に活けてある花を交換していた時で、偶然にも本堂の前で手を合わせておられる二人に出会った。「お久しぶりです」と挨拶されたが、年間にたくさんの方々の供養をするので私の記憶はおぼろげである。お話していると、四年前に水子供養に来られたらしく、それ以来毎年数回お参りに来られていると言う。その時に私が話したことをよく覚えておられ、「あの時泣いてばかりいた私に、住職さんが悲しみを縁としてお地蔵さんに縋ってみたらとおっしゃって頂き、時々お参りさせてもらっていたんです。」と女性が話されるのを待ってそれに同調するように、隣で男性が「実は昨年この子を授かったんです。」と嬉しそうに話された。

ご夫婦の真摯な祈りが仏様に通じたのであろうか。私は「本当に良かったですねぇ」と祝福したが、女性の年齢を考えるとかなり幸運なことであったに違いない。まさに水子が結びつけた良縁であろうと私は思った・・・。



即身成仏

semi(護摩堂の横に植わっているケヤキの木にセミがとまっていた。)

数日前、ニュースで生きていたら百十一歳ぐらいになられる老人がミイラのような状態で見つかったという報道があった。家族には「部屋の戸を絶対開けるな」と言い残していたらしく、約三十年間も開かずの間であったらしい。亡くなっていた老人は「即身成仏」をすると言って部屋に閉じこもり、少量の水しか飲んでいなかったと家族が証言している。また近隣の方もインタビューで、「私は臭いには敏感ですぐわかるけど、そのような腐敗したような臭いは一度も感じなかった」と答えておられたが、正に不可思議としか言いようがない。詳しいことはわからないが、おそらく弘法大師の「即身成仏」を真似されたのであろう。

弘法大師は高野山の奥の院に承和二年(835)三月二十一日に「入定」されたということは、弘法大師を信仰している人なら誰も承知している。その後、高野山の五代目の座主の頃に醍醐天皇が弘法大師の為に法衣一式を奉納された。奥の院の御廟を開いてみると、入定されたままの姿で髪や髭は伸び、衣もボロボロになっていたと云われる。そこで、髪や髭を剃り、新しい衣に着せ替えたと云う。真言宗では入滅とか入寂したとは言わず、「入定」(にゅうじょう)という言葉を使い、弘法大師は悟りの境地に入ったと考えられている。いわゆる「即身成仏」で、大日如来の境地に入られ、今なお生きて私たちを見守って下さっているというのが、大師信仰の起源である。

前述の「生きていたら百十一歳」という記事に関して、近隣の人が全く異臭に気がつかなかったと証言されているが、おそらく修行僧がするように軽い断食から始められ、徐々に少しずつ五穀断ちをして行き、最後はわずかな水だけで生きておられたのであろうか。弘法大師に憧れて鎌倉時代頃以降には各地で「即身成仏」を実践された修行僧がいるが、厳しい密教の修行を積んだ上で弟子などの協力があってこそできるもので、おいそれと凡人ができるものではない。単なる真似ごとなら常軌を逸した行為である。年齢を重ねられ自分の内にある仏性に目覚められたのかも知れないが、ちょっと不可思議なニュースが気になった・・・

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