ちけん和尚のブログ

ちけん和尚の出来事などを思うまま書き綴って行きます。また、時間に余裕があれば仏教的な観点から仏事や世相を書き綴りますので、是非ご覧ください。また、意見や感想など頂ければ嬉しく思います。  合掌 知憲

祈りの風景

涙の水子供養

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(ウドの花が散って花火のようだ。)

昨日は予想に反して青い空が広がり、雲一つない晴天の真夏日であった。前日に予約のあった水子供養が入っていたのであるが、余りの暑さで衣に着替えただけで肌襦袢がしっとりとして気持ちが悪い。早く来てほしいと待っていると、約束の十五分前に落ち着いた背広姿の男性と清楚な女性が石段を登って来られた。早速本堂へ上がって頂き受付をさせて頂いていると、何と鳥取県から来られたと言う。ここまでおよそ三時間余りかかったらしいが、そんなに疲れた様子はなかった。こんな山奥の寺まで来なくても、水子供養をしているお寺はたくさんあるのに有難いことである。

私の寺の水子供養では、特製のカード型水子地蔵尊の御守りを開眼させて頂きお渡ししている。御守りはどこの神社仏閣でも同様であると思うが、一般的にご利益の目安は一年程度である。一年から一年半余りの間にもう一度寺へお参り頂いて、本堂の前に設置している返却箱へ返してもらうようにしているが、新たに御守りを希望される方にはその時に申し出があれば再発行させて頂いてきた。水子といえども小さな生命が闇に葬られたわけであり、水子供養はそれぞれの施主さんの心の中に一つのけじめをつけるお葬式のような一面もある。そういう意味では、一年後の一周忌にもう一度寺へ足を運んで頂いて冥福を祈ることで、より確かな成仏への導きとなるはずである。

昨日来られた女性は、供養している間中泣きじゃくっておられた。よほど水子に対する思い入れが強かったのであろう。深くは言及できないが、女性の年齢を見ていたらおそらく最後のチャンスだったのかも知れない。男女間の複雑な事情も絡んでそうした涙となったようであるが、その流された涙を仏縁として幻の小さな命の尊さに思いを廻らして頂きたい。そんなことを思いながら、帰って行かれる後ろ姿を見送った・・・。

偽りのない菩提心

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(私の傍を飛び回る二匹の蝶・・・偶然に向こう側の蝶にピントが合った。)

先々週のことであるが、夕方近くに突然電話がかかってきた。「明日水子供養に行きたいんやけど・・・」とぶしつけな言葉に、私は少しムッとした気持ちを抑えて「何時頃がよろしいですか」と聞き直すと、「付き添いの友達も一緒やったらあかんの?」と言われる。「よろしいですよ。午前十一時でしたら空いていますが、都合はどうですか?」と話を向けると、「そんならそれでお願いします」と素っ気ない返事だ。約束の時間の三十分前ぐらい前から衣に着替えて供養の準備をして待っていると、しばらくして自動車の音が聞こえる。少し早いので関係がない自動車かと思いながら本堂の入口付近を見ていると、少し派手目の服装に髪を茶色に染めた若い女性が石段を登って来られる。もしかしてと思い「予約された方ですか」と尋ねると、首を縦に振ってうなずかれるので「どうぞ、そこで靴を脱いでお上がり下さい」と本堂横の部屋へ案内した。

「お一人ですか?」と尋ねると、「あぁ、友達と一緒やけど、車で待っとく言うんで・・・構いませんわ。」と相変わらず素っ気ない。必要事項を申し込み用紙に記入してもらい、早速供養に入った。供養の前に「少し供養が長くなりますので、足をくずしてしびれないようにして下さい」と言うとペコリと頭を下げられ、思ったより殊勝である。供養の途中、何度かすすり泣くような声が聞こえていた。約十五分余りの供養が終わり、振り返るとピシッと正座をされたままであるが少し辛そうである。「ご遠慮なく足を楽にして下さいね」と言うと、少し緊張した面持ちで、「ハイ」と返事されるるが依然正座されたままである。私の横に置いてあった作法机を彼女の前に置き直し、「今から母体加持をさせて頂きます、そのままで結構ですから」と言い、塗香器のお香を一つまみ取って彼女の手のひらに乗せた。私もお香を一つまみ取って、「このように手を洗うように塗って下さい」と見本を見せると、すぐに要領がわかったようである。母胎加持をしている間中、合掌して目をつぶり一生懸命水子の菩提を祈っておられた。

最初の供養から合わせてここまで約二十数分かかっている。最初から正座されたままなので、少し大柄な彼女の足は限界がきていたのであろう。すべての供養が終わってもう一度「足を楽にして下さいね」と言うと、緊張から解放されたように「フゥー」という吐息と共に足を横にされた。五分ばかりのわずかな時間であったが、母胎加持の功徳や水子にまつわる話をさせて頂いていると、彼女の目が涙で溢れそうになっている。そしておもむろにハンドバックから財布を取り出し「これで」とそのままお布施を差し出されるが、目安の料金よりも多いので「一枚だけでいいですよ」と言うと、「よくしてもらった気持ちですから」と引かない。私は有難く彼女の気持ちを頂戴することにした。それにしても供養の前と後では彼女の表情が全く違う。堅かった蓮のつぼみが開くように、彼女の仏性が開花したのであろうか。外見とは全く対象的な彼女の内面こそ、偽りのない菩提心に違いない。本堂から後姿を見送りながら、深々とおじぎをする彼女がまぶしく輝いて見えた・・・

巡礼者のお手本

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(細長い葉っぱに囲まれてその向こうにサルピアの花が一輪だけ咲いていた。)

一昨日の土曜日、ちょうど昼前でお腹が空いたので食事にしようと思っていると、巡礼の方が納経所へ二人やって来られた。母親がちょうどそこに居たので応対していたのであるが、「納経をお願いします。名古屋から来ました」と元気な声が聞こえる。私は隣の居間でくつろいでいたのであるが、思わずその声に少し開いていた戸の間から目を向けると、六十前後ぐらいに見える女性とその母親らしき方がお参りされている。「近畿十楽観音霊場」と「近畿楽寿観音霊場」を合わせて巡礼されているようであったが、私の寺が七福神の弁財天の札所とわかると「それもお願いします」と言われ、三種類の朱印を四人分頼まれた。霊場会の納経帳が二冊あり、これは専用の用紙を用意しているのでそれを挟みこむだけでいいが、後の二冊は既成品の集印帳で新たにそのページに書き込まなければならず少し時間がかかる。女性の方もよくわかっておられ、その間に「御本尊様へお参りさせて頂きます」とお経をあげに本堂の前へ行かれた。そして張りのあるよい声で開経偈、般若心経、観音経の偈文、十句観音経、諸真言を唱え、それからさらに「ぼけ封じ観音」へ移動して同じようにお経をあげられている。約三十分ぐらいかかったであろうか。これだけ丁寧にお経をあげられる方はそんなにはいない。

納経所へ戻られた時にはすでに納経帳も出来上がっていた。一人の方が「おいくらですか」と精算された後、「お手洗いをお借りしたいのですが・・」と言われる。母親が手洗いの方を指さして「その角ですからどうぞ」と言うと、娘さんらしき方が連れのおばぁちゃんの袈裟を取り、おいずりを脱がしてあげている。たまたま私はその様子を見ていたのであるが、その脱がしてあげたおいずりを丁寧にたたんで自分の頭陀袋に入れられ、おばぁちゃんをお手洗いの方へ誘導されている。母親思いのやさしい娘さんの態度もさることながら、巡礼者としてのすばらしいマナーに感激した。袈裟やおいずるは仏様に仕える大事なもので、お手洗いなどに行く時には脱ぐのが礼儀であるが、袈裟ははずしてもおいずりはそのままの方がほとんどである。厳密に言うとおいずりは巡礼者が着物の上に着る薄い布で、笈を背負う時に背の摺れるのを防ぐ為のものであるので、お手洗いに行く時に脱ぐ必要もない。ただ四国八十八カ所など巡礼する時背中に「南無大師遍照金剛」や「南無観世音菩薩」「南無阿弥陀仏」などと墨で書かれ、お参りされたところの朱印をたくさん押してあるとそれ自体が単なるおいずりではなくなっているような気がする。この方達にとっては、自分達を護ってくれている「有難いもの」として扱うことが、こうしたことにつながっているのであろう。おばぁちゃんがお手洗いから戻って来られ、またやさしく娘さんがおいずりを着せてあげている。私の母親が「お元気そうですね、いくつになられていますの」と娘さんに尋ねると、「七十八歳です、こうして巡礼させて頂いて以前より元気になったみたいです」と言われる横顔が慈愛に満ちていた・・・

不動明王と秘鍵大師

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(スイレンが輝いていた。)

私が住職になって間もない頃、市内に住まれるご夫妻が「秘鍵大師」と「不動明王」を持って来られ、性根貫きをして処分して欲しいと頼まれたことがあった。私は檀務の為に出かけていて留守であったが、母親が応対したようでそれぞれ台座などはバラバラにして無造作に置かれていた。私はその像を見た時、何か言いようのない威厳を感じ「これはこのまま処分しては申し訳ない」という気持ちが湧いてきた。台座を組み立てるといずれも高さ80センチ程度ある立派な像である。特に「秘鍵大師」はお大師様が般若心経秘鍵を講讃されている姿で、右手に剣を持たれているめずらしいものであった。いずれも江戸時代後期の作ではないかと思われ、よく拝まれているように感じた。私はすぐに仏壇を置いている部屋をかたずけて、机などを重ねてそれに無地の布切れで覆い即席の祭壇を作ってそこに祀ることにした。母親が連絡先を聞いていたので電話してみると、奥さんの祖母が拝み屋さんをしていて祀っていたものであることがわかった。祖母が亡くなられしばらくはそのまま祀ってきたらしいが、これだけの仏像を一般の家庭ではとても面倒みれないということで、電話帳で「真言宗」のお寺であれば何とかしてもらえるのではないかという思いがあって持って来られたようだ。せっかくのご縁ですから丁重に祀らせていただくことを伝えると大変喜ばれ、後日ご夫婦で何度かお参りに来られたことが昨日のことのようである。

先月の事、そのご主人から電話があって「28日の午前10時にお参りしたいのですが・・・」と沈んだ声で電話がかかってきた。約束の日時に待っていると、ご主人が一人で来られ大事そうに遺影を持っておられる。そして「三か月前に妻が亡くなり、今日が月命日なんです」と言われるので大変驚きながら仏間へ案内すると、10年ほど前に夫婦で仏像を持ち込まれたことを懐かしむかのように、胸に抱えた遺影を尊像に向けて「ゆき子、わかるか、おばぁちゃんのお不動様とお大師様やで・・・」といきなり語りかけられた。目からは涙が溢れポタポタと遺影に落ちている。奥さんとの思い出が脳裏に浮かんできたのであろうか。しばらく沈黙された後、「家内はおばぁちゃん子でしたから、この仏様をここのお寺で祀って下さることを心から喜んでいまして・・家内と二人でお参りさせてもらった時は必ずおばぁちゃんの冥福を祈ってましたけど、今日はおばぁちゃんに家内を頼みますと言いに来たんです・・・」と話され、持って来られたお供えの包みを差し出される。私は「有難うございます」と言いながらそのお供え物を三宝に乗せて仏様の間に置き、心ばかりの読経をさせて頂いたのであるが、お不動様と秘鍵大師様がここに祀られている縁に、深く思いを巡らさずにはいられなかった・・・

五種類の水子供養

tuyu6(昨日は大雨洪水警報が出る荒れた天気で、小降りになった時に枯れた草木についた雨を撮ったが、水滴が何かの実のようである。)

先日水子供養に来られた方が、「いろいろインターネットで調べてみたのですが、私の方で供養を選べるお寺はここしかなかったので来させていただきました」と挨拶もそこそこにに言われた。早速に申し込み用紙に必要事項を記入してもらいながら、「こちらへ来られるには時間がかかったでしょう」と話を向けると、「少し道に迷ったものですから二時間近くかかってしまいました」と少し顔を紅潮させながら応じて下さった。まだ若い女性である。一人でこんな山奥の寺まで供養をしに来るにはよほど強い思いがあったのではないかと推察できる。私は五種類の供養を説明して「どの供養にされますか」と聞くと、四番目の室内用のお地蔵さんをお祀りするタイプの供養を選択された。「この水子地蔵さんは寺で永代供養もできますし、持ち帰りもできますが、どうされますか」と尋ねると、「持ち帰りしたいのですが、仏壇がなくてもできますか・・・」と言われるので、「大丈夫ですよ、机や棚に祀って頂き、百円ショップなどで売っている小さな容器で水を供えられたらいいですよ」と言うと、安心されたように微笑まれた。女性によって水子に対する思いは様々である。彼女の微笑みを見ていると、少しでもその人の思いに沿った供養をしてあげたいという私の方針が間違っていなかったように感じられて嬉しくなってきた・・・

突然の水子供養

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(ベニバナポロギクが散って白い花火のようである。)

昨日の昼過ぎ、突然電話が鳴った。「もしもし、水子供養をしてほしいのですが・・・」と男性の声である。私は「いつがよろしいですか」と応対すると、「今からは無理ですか」と言われる。私は他に用事が入っていなかったので、「それでは一時間後の二時半に来てもらえますか」と言うと、「わかりました、その時間に行かせて頂きます」と言われ電話を切った。本堂で用意をして待っていると、約束の時間ちょうどにやって来られたが、男性一人である。しかも徒歩で来られているので、「車はどうされたんですか」と尋ねると「下の公民館のところへ留めてきました」と言われる。どうも大型の車で来られているようで、登り口が狭く感じられ用心の為に歩いて来られたようだ。日焼けした顔で「先ほど電話した・・です」としっかりとした口調で言われる。一見して誠実そうな好青年に見えた。手には数珠とお布施の包み紙を持っておられる。そしていきなりそのお布施を渡されるので、「供養が終わった後で結構ですよ」と言いながら申し込み用紙に必要事項を記入してもらった。私のところでは五種類の供養の中から好きな供養を選択できるが、すでに決めてきておられるようだ。供養に入る前に「少し時間が長くなりますから、しびれないように足を崩してもらって構いませんよ」と言ったのであるが、供養が終わり振り返って見ると、背筋を伸ばしてきちっと正座をされたままである。男性の真摯さが垣間見える。女性でないと「母体加持」はできないが、罪障を消滅させる為の加持とお守りの開眼をさせて頂き、少しお話をさせて頂いた。二年前にその当時つき合っていた彼女との間の水子であるが、その当時は若くてどうしたら良いかわからなかったらしい。ずっと気になっていて、たまたま友人にその話をしたら近くに良い寺があるよということで紹介してもらったという。「今日来させてもらって良かったです」と深々と挨拶をされて帰って行かれたが、しばし新緑のさわやかな風と共に何か爽快な気分にさせて頂いた・・・。

小さな子供の仏性

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(枯葉の中からアマガエルが冬眠から覚めたのか、顔をだしていた。)

昨日は隣町で法事があった。私の寺のある村の一番奥に住んでおられたのであるが、三十年ほど前に隣町へ移り住まれていた。施主さんと私は一学年違うが、一緒に小学校へ通った幼馴染みである。六年前に父親を亡くし、二年前にその後を追うように元気だった母親が亡くなった。今回は父親の七回忌と母親の三回忌の法要を行ったのであるが、父親の方は一年余り早い七回忌である。おしどり夫婦で仲の良かったので法事も一緒にしたいという施主さんの思いもあって併修の法要となった。施主さんの母親の葬儀の数日前に生まれたばかりであった長男の子供は女の子で二歳半になっている。お経を唱えていると後ろで一人ブツブツとハイテンションでしゃべっている声がしていた。大人ばかりの中にあって一人愛嬌をふりまいているようだ。私の唱えている理趣経というお経は、木魚などは一切使わず、十九節に分かれている切れ目におりんを打ち鳴らすのであるが、そのおリンの音が面白いらしくその度にキャッキャッと笑うようである。そしてお経の間は私の声に合わせて何やらブツブツと言っているが、本人はお経のつもりなのかも知れない。生れてきた時には亡くなっていて顔も知らないおじいちゃんとおばぁちゃんであるが、小さな彼女の体には間違いなく一族の血が流れている。彼女にとって何もわからないうちに経験した四十九日、一周忌、三回忌と続いた三回目の法縁であるが、とってもすばらしい仏性が育っているように思った。きっと亡くなられた施主さんの両親もあの世で微笑まれていたのではないだろうか。自宅での読経を終えて、施主の息子さんの車の後部座席に母親とその女の子が座り、私は助手席に乗せて頂きお墓へ向かったが、好天に恵まれ新緑がまぶしかった・・・

笈摺(おいずる)に思う

tutuji(山裾にツツジが咲いていた。)

先日、「ぼけ封じ観音」さんへお参りされていた初老の方が納経所へ笈摺(おいずる)を持って来られた。普段は納経帳に朱印を押すことが多くたまに掛け軸があるぐらいなのでで少し戸惑っていると、「朱印を押す場所がなかったら重ね判でかまいませんので・・・」と話される。笈摺を広げてみると無数に朱印が押してあってどこに押したら良いか迷ってしまったが、わずかに袖口のあたりに空間があったのでそこに押印させて頂いた。「これはすごいですねぇ」と話しかけると、人懐っこい顔を綻ばせながら「西国のお寺さんを回ってましたらぼけ封じの観音さんがあると聞きましてなぁ、おかげさんでこれで最後の十番になりました」と話され、「自分が亡くなったらこれを着せてもらいますんや」と嬉しそうに話されていたのが印象に残っている。

私の父親は僧侶であったので紫の衣に着替えさせ袈裟をかけてあげて納棺し見送ったが、他の方々はどうして納棺しているのであろうか。僧侶は納棺の時に立ち会うことはないので詳しいことを知る由もないが、遺族の故人を思う気持ちでそれぞれ変化するだろうし、宗教によっても違ってくるのだろう。昔は仏式であれば経帷子(きょうかたびら)に着替えさせて数珠を持たせて納棺し見送ったものである。その時に、四国八十八か所霊場などの掛け軸や納経帳などがあれば一緒に入れてあげたのであるが、今はそうした風習もだんだんと薄れてきつつあるのではないだろうか。この方のように自分の着る死装束の笈摺(おいずる)を用意するような熱心な仏教徒が世代の若返りとともに減少しているのも一因するのであろう。

「願」と「行」の両立

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(ハナモモの花が満開になっていた。)

お大師様の「般若心経秘鍵」という本の中に、「迷悟我にあれば即ち 発心すれば即ち到る 明暗他にあらざれば即ち 信修すればたちまちに証す」とある。迷いや悟りも我が心の働きであるので、これを信じて発心すれば速やかに覚りに至ることができる。すぐれた智慧も煩悩も我が心を離れて他にあるわけではないので、それを信じて修行すればたちまちに覚り(仏果)を得ることができると云われているのであるが、私の修行時代に師僧から何度も聞かされた言葉でもある。物事を始める時、何をするにしても「発心」しなければ何も起こらない。自分はどうしたいのか、どのようになりたいのか明確な目標や願望がなくては前に進まないのである。「願」を立てたら、それを実現するための「行」が必要となる。願と行と共にそなわってこそ、もの事は成就されるのである。

先日お参りに来られていた顔馴染みの女性の方が、本堂の前に置いている「やる気」と書いた杓文字を持っている貯金箱のお地蔵さんにお賽銭を入れておられたので「ようお参り下さいました」と挨拶して少しお話をさせていただいた。「最近仕事が忙しいんで仏壇もほったらかしで、バチが当たりますわ・・・」と開口一番に言われるが、この方の独特の照れ隠しというかジョークである。しばらく雑談した後にさりげなく「また、これお願いします」と分厚い封筒に入った写経を差し出された。熱心なお不動さんの信者さんで一年に一回の専願護摩と毎月のお参りを欠かされたことはない。その度に写経を奉納されているのである。もう知り合って六年余り経つが、最初はホームページを見ての相談メールであった。自律神経失調症で何もする気にもならず随分と悩まれていたのであるが、その数年前に亡くなられていた父親の供養と合わせて当病平癒で専願の護摩を焚かれたのが信仰のきっかけであった。三年余り毎月焚かれてすっかり元気になられたのである。この方の特徴は「堅実心合掌」というスタイルで両手をしっかりと合わせ、指先をピンとすべて伸ばし、拝んでいると指の先端が自分の鼻の高さから更に上へ上へと上がっていくのである。護摩を焚きだして一年ぐらいで自然とそうしたスタイルになられたようで、気を指先に集中して無心に祈りを捧げ仏様を敬う気持ちがよく出ている。普段はほとんど私の留守中にお参りされていて、先日出会ったのは昨年の十一月以来のことであったが、「願」と「行」がうまくいっているのであろう。彼女のはにかんだ顔が充実感で溢れていた・・・

うなずき地蔵さん

zassou1(雑草が昨日の雨に耐えてピンクのかわいい花をつけていた。)

今日は法事があって午後二時頃寺に戻ると、本堂の前廊下に祀っているうなずき地蔵の前に三人の家族らしき方がお参りされていた。衣を脱いで着替えていると外で話声が聞こえてくる。どうやら母親と小学校の姉妹のようであるが、長いことうなずき地蔵さんの前で拝んでおられるので庭掃除をしていた家内が「うなずきませんか」と声を掛けたようである。お地蔵さんの前で手を合わすとうなずいてくれると思っておられたらしく、家内が「お賽銭を入れて下さると、一瞬うなずきますので見ながら入れて下さい」と言うとようやく理解されたようであった。説明を書いているのであるが、一瞬なのでわかりにくかったのかも知れない。しばらくして家内が「お地蔵さんがうなずかへんみたいやけど・・・」と家の中に飛び込んできた。私が出て行くと、「すみません、言われた通りにしたんですけど・・・」と申し訳なさそうに女性が言われる。私は「すみませんねぇ、ちょっと寒い時期は動きが悪い時があるんですよ」と言って持っていた十円を入れると姉妹の女の子が「ワァー」と言って顔を見合わせた。そして「わたしらは一円やったからあかんかったんやわ」と姉らしき子が言うと「ほんまや、入れた時の音もせんかったもんね」ともう一人の女の子が笑いながら言って、その場がほのぼのとした雰囲気になった。私は「これば江戸時代のからくり人形を作っていた職人さんが作られたもので、一円やと重さが足りないのでうなずきが悪いみたいですねぇ」と言ってその場を離れたが、一円でもこれだけ長く拝んでもらえばきっとご利益はあるに違いない。母親と姉妹の顔がお地蔵さんのようににこやかであった。

彼岸入りの団体のお参り

ajisaime(庭の紫陽花に新芽が出始めた。)

昨日から彼岸入りした。とはいうものの平日ということもあって、全く普段と変わらない。わずかにスーパーの食料品売り場に並ぶお彼岸用のお供えや仏具店、石材屋などのお彼岸セールが彼岸を告げているようだ。そんな中、昨日は事前にハガキで連絡を受けていた近畿楽寿観音霊場会の二十三番札所寺院の檀信徒一行が二十七名お参りされた。この霊場会の事務局を務めさせている私にとっては、久々の団体に涙が出るほど嬉しい。ご住職や副住職も帯同されていてお勤めをされていたが、驚くことに全員が輪袈裟を掛けられ数珠を持って熱心に読経される姿に感銘を受けた。ご住職の布教と指導が行き届いているのであろう。曹洞宗の方々で宗派の違いがあるとはいえ、これだけの人数をまとめるのは大変である。私も見習わなくてはと改めて思った。彼岸入りの良き日にこうしてお寺参りをされることで、善根功徳の効果はより確かなものになって行くのであろう。

信は荘厳から

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(雑草の上に椿の花びらが散り落ちていた。)

昨年、水子供養に来られたまだ若い十代のカップルがいた。それまでは祖母の家で一緒に暮らしていたらしいのであるが、ようやく近くのアパートへ入れるようになったことを大変喜んでいたのが印象に残っている。つい先日、頼まれて仏壇の開眼に行かせて頂いたのである。かなり老朽化したアパートで奥に六畳ぐらいの部屋と手前に四畳半程度の台所があった。その台所の隅のテーブルの上に小さな卓上型の仏壇が置かれている。実を言うと、この仏壇は私の知り合いの仏壇店から古くなった中古をもらってきてあげたものである。よく私の寺の水子霊園にお参りされていたので、顔馴染みになっていろいろと相談を受けていたもので、この仏壇も頼まれていたのである。この若い男性の方は母子家庭で育ち、二年前に母親が病死して祖母に引き取られて生活してきたのであるが、ようやく二十歳を前に祖母の家を出て彼女とアパート暮らしを始めたばかりであった。祖母は新興宗教に入信していて、母親のお葬式もその教団の方がきてしたそうである。しかしながら本人の納得できるものではなく、母親の位牌もないし供養もしてきていないので気になっていたらしい。祖母の家を出た一つの理由でもある。私は以前から相談を受けていたので、事前に母親の名前や命日を聞き戒名をつけて位牌を作らせていた。今まで祖母の家では祀ることができず、本人がそれを一番強く願っていたものである。

仏壇店の方から直接に仏壇と位牌を持って行ってもらったので、私はその時に初めてその仏壇と対面した。前もって仏壇店から聞いていた通り古びてはいるが、美しい花が飾ってありピカピカに掃除がしてあるのですがすがしい気持ちになる。そして何よりも嬉しかったのは、きれいにお霊供膳が供えてあったことだ。どうしたら良いか尋ねられてはいたが、ありあわせのものでいいですよと言っていたので出来栄えに驚いたのである。わざわざ母親が好きだったという黒豆を豆から煮込んで作ったのはいいが固くて失敗したらしいが、見た目にはわからない。「信は荘厳から」という昔からの言葉があるが、お供えは心のあらわれである。母親の供養をしたいという気持ちが十分に伝わってくる。開眼供養が終わって帰る頃には冷たい雨が降り出したが、二人の温かい心に触れて私の気持ちは晴れやかであった。

護摩木の献上

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(ポカポカ陽気で梅の花が満開になっていた。)

昨日は少し動くと汗が出るような暖かさであった。長期予報で一週間雨マークばかりでうっとしい日々が続いていたが、その合間の曇り空か雨が降らずに助かった。ちょうど一週間前に焚いた護摩で最後の檀木を使ってしまったのであわてて護摩木作りをしたのである。昨年暮れに近くの大工さんから頂いた材木の切れ端を斧で割るのであるが、なかなか思うような材質の木がない。というのは程よい乾燥した材木がなく、少し生木に近いので燃やすとパチパチとはじけるのである。割り易い杉の木を使っているのであるが、赤身のところや節のところはもっとはじけるので使えない。たくさんあった材木の中で護摩木として採れたのはわずかに二座分ぐらいであった。困り果てていると、ちょうどお不動さんを拝みに顔なじみの近所の方が来られた。私が悪戦苦闘しているのを見て、「おじゅっさん、うちに使わへんようになった稲木があるから切って来ますわ、ちょっとだけ待っといてもらえますか」と言い残して、サンプル代わりに護摩木を一本持って帰られた。一時間ぐらい待ったであろうか、軽トラックが参道を登って来た。「これはどうですかねぇ」と荷台から切ったばかりの材木を一つ取って私に渡して下さった。早速に割ってみると何とか使えそうである。丁重にお礼を言うと、「こちらの方こそ、こんな有難いことはありません」と嬉しそうに言われた。ほとんど毎日のようにお不動さんを拝みに来られている彼女からすると、自分のところの材木が護摩木として焚かれるのはこの上もない喜びであったようである。「とりあえずあわてて切ってきたんで、少ししかないですけどまた持ってきます」と言って下さる顔は、お不動様のように頼もしく慈愛に満ちていた・・・

悲しみのどん底から

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(ロウバイの花が咲いていた。)

一昨日の深夜、寝ていると突然電話の呼び出し音が鳴った。その日の午後にあった専願護摩などで疲れていたのか、熟睡していたようでしばらく夢の中で鳴り響いていた。現実に気がついてあわてて受話器を取ると、一週間前に父親の七回忌法要をされたばかりの奥さんの声で、「母親が息を引き取りました」とか細い声で短く告げられた。一昨年にご主人を亡くされ、今年の秋にはその三回忌が控えている中での訃報である。この六年間に三人の身内を失ったことになる。奥さんには三人の娘さんがおられ、長女はこの春に大学を卒業して就職が決まっているとはいえ、まだ三女は中学生である。翌朝、枕経に行かせて頂くと、すでに親戚の方々も集まってたおられた。もうすでに何回も法事などで顔を合わせているので顔見知りの方ばかりである。懇ろにお経をあげて冥福を祈っていると、突然嗚咽が漏れた。奥様の声である。父親とご主人を相次いで亡くされその悲しみも癒えぬまま母親の死と、相次ぐ不幸に堪え切れないのは当然である。母親は父親が亡くなる前から病床の身で、その看病も大変であったに違いない。そんな苦労や母親との様々な思い出が胸中を駆け巡っていたことだろう。

六年前にお父様を亡くされた時、「母親の方が先かと思っていたら父親が先に逝ってしまったので、母親にはもう少し頑張ってもらわないと困るんです」と言っておられたのを思い出す。それからすると、もう充分に生きられたのであるが、まさか元気であったご主人がその間に逝くとは誰が予知したであろうか。「老少不定」という言葉があるが、奥様や家族にとっては無常でやり切れないものがある。生きることの儚さをいたずらに嘆くことなく、しかもその無常なる姿をしっかりと見つめながら、私たちがこの世界に存在することの価値を見出して頂きたいと願うばかりである。いのちとは何か、人が生きて死ぬとはどういうことであるか、父親の死から三人の娘さんも十分理解されてきたに違いない。この世とあの世と、世界を隔てても必ずどこかで通じてゆくもので、それが家族の絆というものではないだろうか。

念力岩をも徹す

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(フラワーパークに植えられていたビオラを撮った。)

「思う念力、岩をも通す」という言葉がある。「念力岩をも徹す」ともいい、一心不乱に行えば、どんなことでも必ず成し遂げられるという意味であるが、ここで言う「念力」は願望の強さを指している。一般的に「念力」というと、スプーン曲げのような特殊な能力を連想する人が多いのではないだろうか。また、お寺などで御札や護符を信者さんに渡す時にお加持をして渡すが、その時の加持力は「念力」と何ら変わらない。つまり「念力」の語源からすると、神仏を信じることから生まれる力なのであろう。

先日、この三年余り毎月添え護摩をしてお不動様に「心願成就」を祈られていたある女性からお電話を頂いた。遠方に住んでおられ、毎月の定例護摩に来ることができないので一年分の供養料を毎年まとめて書留で送って来られる。三年前に水子供養で私のお寺へ初めて来られて以来、電話で話をするのは初めてであったが、毎月の添え護摩で施主名を奉読しているので名前を聞いてすぐにわかった。初めて寺に来られた時は三十半ばぐらいの年であったと思うが、好きだった男性との間にできた水子の供養に来られ、ひどく泣きじゃくっておられたので印象に残っている。それからも時々寺にお参りに来られていたようであるが、私はすれ違いで会ったことがなく、私の母親が何回か相談を受けて添え護摩を勧めたようだ。女性同士ということもあってしゃべり易かったのであろうか、不倫であったことや、その男性を忘れられないので結婚はしないことなどを母親に伝えていた。添え護摩も「心願成就」であるので私は彼女の祈願内容を知る由もなかった。それが突然の電話で「この春に結婚するようになりました」と伝えられたのである。詳しく聞いてみると、好きだった彼が正式に離婚してはれて結婚できることになったのだと言う。この三年間ずっとそれを願ってきたらしい。彼女の一途な思いが通じたのは、熱心にお不動様を拝まれ信心された結果で、まさに「思う力」が「念力」へと変化して行ったのであろう。このまま添え護摩をずっと続けられるということであるが、早く幸せな家庭を築いてほしいと私の方からはそう願うばかりである。






おばぁちゃんからもらった元気

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(境内の片隅で春を待つお地蔵さんたち・・・)

昨日は二十一日ということで、お大師様の縁日であった。午前中は遠方で法事があったのであるが、午後から水子供養やお参りが入っていたので食事を辞退して寺に戻った。高速道路は昼頃ということもあって車が少なくスイスイと走り、予定通り午後一時に寺に到着すると午前中にお参りされていたおばぁさんが二人残って雑談されていた。私が玄関の戸を開けると少し驚いたように「おじゃましてます、長いこと居らせてもろうてますんやわ」と顔馴染みのおばぁさんの笑顔があった。そして「おじゅっさん、今日は法事でしたんか、忙しいでんなぁ」と話しかけられ、しばらくその雑談に入れて頂いた。もう八十五歳ぐらいになられているが、腰も曲がらずしっかりと歩いておられる。毎日般若心経の写経をするのが日課で、定期的に寺へお写経を奉納されているが、今度新たに仏画のサークルに入られたという。どうもおばぁちやんは私にこのことを自慢したかったようだ。仏画といっても仏様の絵を薄い紙の上からなぞって写し、それに絵の具で薄い色をつけるものらしいが、そのバイタリティーに驚かされる。おばぁちゃんに「今度仏画が出来上がったら、是非見せて下さいね」と言うと「そんなおじゅっさん、まだまだ見てもらうようなものは出来しまへん」と笑っておられた。わずか三分足らずの短い会話であったが、おばぁちゃんの生き生きとした表情にこちらも嬉しくなり、逆に元気をもらった・・・あわてて少し遅い昼食をとり、午後二時からの檀務に備えた。

葬送の簡略化

kokkas
(この暖かさで落ち葉の下で待機していたクロッカスが一気に開花した。)

昨日は結集寺院の檀家さんが亡くなられ、お葬式の助法に行かせて頂いた。斎場の一角にある会館で行われたのであるが、好天に恵まれポカポカと暖かい陽気で心地よかった。近隣の馴染みのお寺さん四人が集まり控え室で談笑していると、司会の女性の方が打ち合わせに来られた。田舎のお葬式に慣れていない派遣の司会の方のようで、導師様の説明を聞いている顔が不安そうである。田舎のお葬式は、内式(祭壇での式)と外式(野辺の送り)の二部構成になっていてその中間に葬送の配役を披露するのであるが、そのタイミングがわからないようであったので、私は横から割り込むように「そのタイミングがきたらご案内させて頂きます」と言うと安心されていたようであった。

二部構成というのは、昔の土葬の風習をそのまま火葬になっても引き継いでいるものである。土葬の時代は自宅の祭壇で葬送の儀式が終わると、葬式を取り仕切る方が親族や参列の方に配役を読みあげてその役目を知らせる。そしてそれに従って列を作り、導師様を先頭に棺を担いでお墓まで練り歩いていた。お墓に着くと壇の上に棺を置き、それぞれの配役の方々が持って来られたお花やお供えを並べて祭壇を作り野辺の送りの儀式を行っていたものである。火葬になってもその風習が受け継がれ、出棺時間に間に合う範囲の中で自宅や会館でも二部構成にして短縮ながら野辺の送りの儀式をしている。ただ、こうした昔ながらの儀式は、僧侶がたくさんいなければすることができず、都会などでは導師様一人ですることが多いのでこうした風習は忘れ去られようとしている。昨日は斎場と会館が繋がっているので、霊柩車を見送ることもなく参列の方も何か拍子抜けした感があったが、今後こうした形式も含めて益々簡略化の傾向に向かうのであろう・・・

赤ちゃんの仏性

yukigesiki(一昨日に降った雪が昨日の晴天で一気に融けた。常瀧寺の境内の一角にある歴代住職の墓地の雪と空が対照的であった。)

先日あるお宅へお参りさせて頂いていると、参列者の顔がそれぞれニコニコと微笑まれている。私は出してもらったお茶を頂いていたので、ちょうど参列者と対面する形になっていた。それでなぜにニコニコとされているのかわからなかったのであるが、その視線がちょうど私の右後方に向いていることに気がついて私もその方向に顔を向けるとヨチヨチ歩きの赤ちゃんがいた。とてもかわいい赤ちゃんの姿に参列者が微笑まれていたのである。私も思わず顔がほころんだ。仏事の堅苦しい雰囲気を、赤ちゃんがいるだけでほのぼのとした優しい空気に変えてくれる。無意識のうちに私達大人には赤ちゃんを見ると「かわいい」「守ってあげたい」「助けてあげたい」といった感情が本能として備わっているようだ。それが優しさの原点かもしれない。
逆に赤ちゃんには本能的にそうした優しさを引き出す回路が組み込まれているのであろう。考えてみると、人間の赤ちゃんは他の動物と違って生まれて何もできない。立ち上がって歩けるようになるまで一年以上もかかるし、母親の乳も口元までもっていってあげなければ飲むことができないのである。つまり人間の赤ちゃんは他者の力がなければ成長できず、本能的に大人の優しさを引きだして生きるすごい力を持っているようである。そのすごい力こそが仏性ではないだろうか。ヨチヨチ歩きの赤ちゃんを目で追いながらそんなことを思った。

節分の星祭り

hoshimandara(カメラの電池切れで仕方なく、携帯で撮った星供壇。)

昨日は節分、旧暦のお正月であった。この行事が終わらないと新年の感じがしない。前日から星供壇を作り、朝からの修法に備えたのであるが、お供えの「なつめ」が手に入らなくて「乾燥イチジク」と「アンズ」を代用した。護摩堂が広ければ護摩壇に星供のお祭りをすれば一度で済むのであるが、少し狭いので星供壇と護摩壇を別にしなければならず少し面倒であった。朝九時過ぎから星供壇に座り修法に入いる。十時過ぎに星供養が終わり、続いて護摩堂へ移ったのであるが、参拝の方には「今から護摩堂へ行きますが、寒いですので十時四十分ぐらいになったら順次入場してください」と言っておいた。高齢の方が多いので寒い護摩堂に最初からは身体に堪えると思い、二段目の程よいところで入ってきて頂いたのである。星供の護摩の次第にはないのであるが、百八支の乳木を投げ入れて最高潮の時に、全員で般若心経を唱えた。十一時過ぎに護摩が終わって本堂へ戻る。そして恒例の豆まきをした後に、ぜんざいの接待をして祈祷札を配り今年の星祭りが滞りなく終わった。

星祭りの最後に挨拶をさせて頂いたのであるが、今年はお大師様の「秘密曼荼羅十住心論」について少し話をした。お大師様はその中で「鼻下に糞(くそ)あらば、香嗅ぐもまた臭し」と言われている。つまり鼻の下に糞をつけていたら、どんなに香りの良いお香を嗅いでも臭い匂いしかしないという意味である。私達の鼻の下にぶら下げているものはたくさんあり、人によって様々である。お金、学歴、地位、名誉、家、車と数えきれないが、例えばお金持ちや地位、学歴のある人は、貧乏人や身分の低い人を見下してはいないだろうか。豪邸に住んだり高級車に乗る人は、小さな家や車を見て優越感を感じてバカにしていないだろうか。そうしたことをお大師様は「糞」に例えて心配されているのである。目の前の鼻の下にぶら下がっているものに執着して甘んじていると、他人の本当の良さや能力を見抜くことができなくなってしまう。自分がある一定のものを手に入れた時、それは神仏からのご褒美として与えられた報酬であると考えると、自然と感謝の念が生まれて人の気持ちを理解し易くなるのではないだろうか。物質面や表面上のものを手に入れても、心の中身が伴っていなければ「糞」であり、その人からは良いお香の匂いはしてこないのである。

枕経にて感じたこと

昨日は前日に亡くなられた方の枕経に行かせて頂いた。村でも元気なおじぃさんで、少し体調を崩されていたのを知らなかった私は突然の訃報に驚いた。昨年から百歳に近い方が何人か亡くなられたが、このおじぃさんも数え年で九十九歳と節目の百歳まであとわずかであったのが悔やまれる。村でもめずらしく三世代同居の大家族が二軒あったのであるが、昨年に一軒が無くなり今回このおじいさんが亡くなられて二軒とも無くなってしまったことになる。三世代というのはどちらも夫婦が健在であるのが条件で、このおじぃさんにもまだおばぁさんがおられるが、入院されているのでおそらくおじぃさんが亡くなったことも知らないであろう。私の小さい時分は寺の総代もされていてよく寺に来られていたが、怖いイメージしか残っていない。私が住職になってからであるが、亡くなられた知り合いの方の十三回忌が出ているので塔婆供養をしてほしいと寺へ来られたことがあった。どうして他人の家の供養をされるのか疑問に思っていたら、その家族は新興宗教に入信していて先代の時に檀家を外れていたのである。当時九十五歳ぐらいであったと思うが、電動の三輪車に乗って寺までわざわざ来られたことに驚いた。そしてそのお顔を間近で拝見して昔のイメージとはかなり違って、穏やかな印象を持った。老境に入られて仏恩報謝の念が強くなられたのであろうか。私はその塔婆供養を申し出られた時、そのすばらしい善行に頭の下がる思いがしたのが唯一このおじいさんとの接点であり、思い出となってしまった。枕経を唱えながら九十九歳という大いなる人生に敬意を表し冥福を祈った・・・。

いのちの循環

umetubomi
(境内の梅のつぼみがふくらんできた。)

昨晩お勤めをしていたら数年前に亡くなられたおばぁさんの顔が浮かんできた。よく護摩堂に祀っているお大師様を拝みに来られていたのであるが、私の顔を見る度に「まだお迎えがきまへんわ」と照れ笑いしながらよく言われていたものである。十数年前にご主人を亡くされ、二人の子供はいずれも所帯を持って都会暮らしをしているので田舎の実家にはおばぁちやん一人である。長男がおばぁちゃんの部屋を用意しているので一緒に住もうと言ってくれるらしいが、「年を取ってそんな知らんとこへ行くぐらいやったら死んだ方がましや」と田舎の暮らしにこだわっておられた。そんなおばぁちゃんがご主人の十三回忌の法事をされた時におときの席で、「おじゅっさん、私は五十年ほど前に一回死にましたんや」と言われる。聞いてみると、長男を出産される時に血栓が原因で二日余り生死の境を彷徨われたらしい。「最初は身体が軽くてフワーっと浮いた感じでしたんや、風船に乗って飛ばされている感じでトンネルを抜けるときれいな水が流れてましてなぁ、向う岸に亡くなった母親や戦死した兄がおりまして久しぶりに会えてうれしかったんですわ、楽しくてそのまま居たいと思ったんやけど、主人の呼びかけの声が聞こえてきて目が覚めたんですわ」と話される。そして「ここに居たいと思った瞬間に何かわからんけど風船が割れたような感じで主人の声が聞こえてきたのは不思議なことでした」と話されていたのを思い出した。当時、まだ八十代の前半ぐらいであったが、年よりも一回りぐらい若く見えバイタリティがあった。

ところが、その十三回忌の法事をされた数ヵ月後にくも膜下出血で倒れられ緊急入院されたのである。それから数日後に亡くなられたのであるが、倒れて入院されたのを知らなかった私は家族からの訃報に驚き急いで枕経に馳せ参じた。病院でして頂いた死に化粧に薄赤い口紅がよく似合い、観音様のようなきれいなお顔をされていたのを昨日のことのように覚えている。この世ですべて仕事を済まされ、ようやく自分も迷いも苦しみもないあの世へ行けるんだという喜びの顔のようにも見えた。葬儀の後で息子さんから、「母親が息を引き取る前日に、嫁いでいる娘に赤ちゃんが生まれたんです」と聞いた。おばぁちゃんにとっては曾孫であるが、まさに生まれ変わりではないだろうか。その時、おばぁちゃんは亡くなっても「いのち」は巡っている、永遠に生き続けているように感じた。おばぁちゃんが言われていたように五十年前に死んでいたら悔いが残っていたであろうし、「いのちの循環」はなかったかも知れない。おばぁちゃんの「風船が割れたような感じ」は、仏様から「あなたはまだ来るのは早い、もっと娑婆で修行しなさい」という合図であったのであろう。お勤めで「観音経」を唱えていたせいでもないが、観音様におばぁちゃんの顔をダブらせていた・・・
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