2020年06月11日
「9月入学」が学業の遅れに対する正しい処方ではなかった理由
新型コロナウイルス問題での緊急事態宣言が解除され学校活動が徐々に再開されたが、議論になっていた「9月入学」への移行も見送られた。
筆者はもともと休校の長期化による学業の遅れを取り戻す解決策として、9月入学は正しい処方箋とは考えていなかった。いまだ感染者が増えている現状での見送りは妥当な判断だ。
● 見送られた「9月入学」 党の提言受け首相が表明
新型コロナの感染の本格化が懸念された2月下旬に安倍首相が全国一斉休校を打ち出し、多くの地域では、その後の緊急事態宣言もあって学校教育が最近まで約3カ月間、中断した。
年度末、年度初めはさまざまな行事があるため、授業の実質的な遅れは1カ月弱ともいわれるが、遅れを取り戻す方策として、ウルトラCのごとく現れたのが、9月入学案だった。
一時は明治以来の大改革という声もあったが、世論調査などで、子どもを持つ親などを中心に反対が多いことが明らかになり、5月25日の緊急事態宣言解除の際の会見で、安倍首相は「拙速は避けなければならない」とトーンダウン。
その後、自民党のワーキングチームは「直近の導入は困難」との提言をまとめ、6月2日には安倍首相も今年度や来年度の導入はないとの意向を示している。
教育は一国の人的資本を左右する非常に重要な問題だ。対応を誤れば国民一人一人の生涯所得や国全体の潜在成長率の低下にもつながりかねない。その意味では、この時期の学業の遅れをどう取り戻すかは重要な問題だ。
● 入学時期を遅らせることは逆効果 賃金や生涯所得にも影響
欧米では、天候や教員のストライキなどで想定外に生じた長い休みが、子どもの学力にどう影響するかが分析されている。それによると、想定外の長い休みが、子どもの学力を低下させ、特に低学年に大きなダメージを与えていることがわかっている。
低学年にダメージが大きいというのは、人間にとって早い時期から教育を受けることがその後の人生に重要だ、ということを意味している。また、積み重ねが大事な算数など理科系科目に大きな悪影響が及ぶことを示している。
このほか、夏休みなど長い休みの期間中に、学力格差が拡大するという研究結果もある。親が面倒を見ることが可能なゆとりのある家庭と、そうでない家庭の間で子どもの学習成果に大きな格差が生まれるということも示されている。
これらの研究から推論されるのは、2月末~5月末の約3カ月の休校で、学業期にある日本全体の人的資本の蓄積が大きく遅れたということだ。
また、今回のパンデミック危機では、例えば、大手企業に勤めるホワイトカラーはリモートワークとなる傾向が強いが、そうした親を持つ家庭では、子どもの教育により時間が割かれ、そうでない家庭の子どもとの学力格差がより広がった可能性がある。
それ故、この間の子どもたちの学業の遅れを取り返すことが最優先事項になるが、それに適した手段が、9月入学で年次の終わりを翌年の夏に後ずれさせることなのか、疑問だと言わざるを得ない。
学年終了を翌年夏まで延長し、授業の遅れを取り返すのなら、人的資本の蓄積は変わらない、と考える人もいるだろう。ただ、前述した欧米の研究が指摘するように早期の教育開始がより効果的だとすると、教育開始時期を遅らせることは悪影響が大きい。
ノルウェーの研究によれば、入学時期を遅らせ就学年齢が高くなると、認知能力や学歴には影響はないものの、幼少期に培われる非認知能力の形成が遅滞するため、30歳頃までの賃金が低くなり、逸失生涯所得の影響が長期にわたって持続する。つまり授業の遅れの影響は取り返せないのである。
● 政府のたたき台「3案」 教育現場や生徒に負担
文部科学省は初等・中等教育の9月入学に関する議論のたたき台として「一斉実施案」「段階的実施案」「ゼロ年生案」の3つを示していた。
だが、「一斉実施案」は、2021年9月に入学するのが2014年4月2日~2015年9月1日生まれの17カ月の児童となるため、1学年だけ児童数が1.4倍に急増する。教師数などリソースが限られるため、大きな負担が教育の現場にかかる。
これについては、オックスフォード大学の苅谷剛彦教授らが教師の大幅な不足や学童保育の待機児童の急増などが起きるとする試算を公表している。
教育の現場もさることながら、通常の1.4倍も同級生がいる2021年9月入学の児童は、今後の人生において受験も就職も出生競争も結婚も、あらゆる場面で激しい競争を強いられることになる。
「段階的実施案」は、1学年を13カ月とし、21年は5月入学、22年は6月入学、23年は7月入学、24年は8月入学、25年は9月入学と5年間かけて9月入学に移行するものだ。
これだと、負担が5年間に分散され、教師の不足等の問題は最も小さいようにみえる。児童の負担も5年間に分散できる。
ただ、5年の間、前年度と同じ行事が毎年異なるタイミングでやってくるというのは、別の形で、教育の現場に大きな負荷を強いる可能性がある。1年ごとに同じタイミングでさまざまなイベントを繰り返すというのが、人間社会の自然なありようではないか。
また、成長の過程で毎年同じことを同じタイミングで繰り返すことも、児童の人的資本の蓄積に良い影響を与えると思われる。
「ゼロ年生案」は、新たに追加されたものだが、「一斉実施案」と同様に教師数などのリソース不足の問題を引き起こす。
17カ月間が1学年という問題を避けるため、従来と同じように、4月2日~翌年4月1日生まれの12カ月間の児童を1学年とした上で、現在の幼稚園・保育園の年長組は来年4月~8月にゼロ年制とする。1学年に1.4倍の児童が集中するという問題は避けられるが、小学校が7学年となるため、教師不足や学童保育の待機児童が急増する問題は変わらない。
「段階的実施案」がまだコストが少ないようにみえるが、それでも3案ともに、教育現場や生徒、家族に大きな負担を強いることになるだろう。
● 土曜や夏休みの授業で 遅れを取り戻すのが現実的
日本でもこれまで幼児教育の拡充や初等教育の前倒しスタートが検討されてきた。9月入学はそれらに逆行する。
こうしたことを考えると、初等中等教育の9月入学は、パンデミック危機が引き起こした問題の適切な対応策ではない、ということである。
現実的な対応として考えられるのは、土曜授業や夏休み授業を使って、早い段階で遅れを取り返すことだと思われる。授業の実質的な遅れが1カ月弱だとすれば、土曜授業と夏休みの一部で対応が可能だろう。
慶應義塾大学の中室牧子教授は、入学時期を遅らせることで生じるリスクを取るより、失われた学習期間を早期に取り戻すための継続的な公的支援を行うことが王道としている。
パンデミック危機による休校問題は、世界共通の問題だが、今後、10年間、20年間のデータが蓄積されれば、どこの国が学力低下を避けてうまく対応したかが明白になる。
今回の危機の最中に、社会経済に多大な影響を与える教育制度を劇的に変えようと検討していたのは、日本だけではないだろうか。
危機時でないと、大胆な制度変更はできないという主張は理解できなくはない。しかし、上述の文科省が示した3案が、初等中等教育の9月入学のメリット、デメリットが十分に検討された上でのものだとはとても思えない。
パンデミック危機で社会が混乱しているところに、教育制度の急激な変更が加わり、教育現場に新たな混乱をもたらす可能性の方が高かった。
● 大学の秋入学の議論が発端 高等教育の国際化は大事だが
もともと9月入学の議論は、日本の高等教育の国際化のために、東大の浜田純一前学長が大学入学に限って提唱した話だった。最近のインタビュー記事でも、浜田前学長は、初等・中等教育まで合わせて9月入学にすることには賛成していない。
筆者も大学については9月入学ができれば望ましいと考えているが、導入を急ぐのなら、四半期ごとの入学が可能な4学期制に移行すれば良い。すでに一部の大学では対応可能となっている。
ただし9月入学に移行しても、それだけで日本から海外への留学や日本への留学が必ずしも増えるわけではない。日本人の留学生が少ないのは、言語能力の問題や就職活動の早期化、教育機関の単位交換の問題などが大きいと指摘されている。
また、少子高齢化で若年労働が不足しているということも影響しているのだろう。
一方で、海外からの留学生が少ないのは、卒業した後に専門性に見合う報酬を日本企業が必ずしも払わないという理由もある。
高等教育の国際化は極めて重要だが、入学時期を9月にずらせば、それだけで国際化が著しく進むという話にはならないのだ。他の問題も着実に解決していく必要がある。
● 第2波にも耐える体制作り オンライン教育拡充に財政支出を
今回の「9月入学」をめぐる議論が十分な検討が行われてのことではなかったと思わざるを得ない理由はほかにもある。
例えば、9月入学案がパンデミック危機の第2波が今後、訪れないことを前提としていたようにみえることだ。
感染者数は落ち着き、緊急事態宣言は解除されたとはいえ、夏を過ぎ、気温が再び下がってくると、寒さ対策で換気も悪くなり、秋にも第2波が訪れるリスクは否定できない。
新たな制度を設計したにも拘らず、パンデミックが再燃し、再び休校となった場合、どのように対応するつもりだったのだろうか。
われわれが現在行うべきことは、まずは学業の遅れを取り戻すことだが、それとともに第2波が訪れても、オンラインによるリモート教育ができるICT環境などを整備し、授業を継続できるシステムを作ることではないのか。
今回のパンデミック危機で改めて浮き彫りになったのは、日本のICTの著しい遅れ、つまり通信技術を活用したコミュニケーション体制の整備ができていないことだ。
リモート教育の体制が整備されていれば、休校は避けられたはずだ。パンデミック危機が繰り返すリスクを考えると、ICT教育の充実に財源を割くことは、ワイズスペンディングとなり得る。
リモートワークにしても、顧客と迅速につながるためのICT投資や組織の能力を高めるためのICT投資が十分行われていなかったために迅速に移行できなかった企業も少なくない。
ただ念のために言っておくと、自発的に学ぶことが簡単ではない低学年にはICT教育は必ずしも大きな効果を持たない。また、成績の良い児童はICT教育でますます良い成績を上げ、そうでない児童の成績はますます悪くなる、という傾向もある。
あらゆる問題がそうだが、これさえやれば、全て解決という政策は存在しない。BOJウオッチャーである筆者は、「金融政策に魔法の杖はない」と常々論じているが、中室牧子教授の論文タイトルはまさに『教育に「魔法の杖」はない』だった(FNN Prime ONLINE『解説 教育に「魔法の杖」はない 科学的根拠に基づいて“9月入学”を考える』)。
メリットとコストを比較衡量し、よりましな政策を選択するしかないのが現状だ。
(BNPパリバ証券経済調査本部長 河野龍太郎)
ダイヤモンドオンライン
2020.6.11
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