日本古代史に関する若干の考察

奈良~平安前期を中心としたコラム・雑感・備忘・小考

 
  約二年振りの更新です。この間に東京から福岡へ転勤になるなど、環境がめまぐるしく変化したこともあって、かなり久方振りとなってしまいました(要因の大半は、怠慢ですが...)。
 さらに、日本古代史に関するブログを標榜しているのにも拘わらず、今回は大幅に時代を下って近世の絵図をテーマをした内容です。開設当初から一貫性が無く、申し訳ございません^^;
 
 学生時代に地元周辺の歴史を辿っていたところ、大変興味深い土地にめぐり合い、いつか文章に起こそうと思っていたものになります。


 1431520685422















DSC_0098















※上記絵図のうち、オレンジ色部分が鎌田村、緑色と薄紅色部分が横根村、それ以外の白色部分(鎌田村と横根村以外の地域)は大蔵村、右端の川は多摩川を指す。なお、赤ペンと黒鉛筆による文字の記入は筆者による。


 
 当該絵図の名称は「多摩郡大蔵・鎌田・横根三ヶ村入会絵図」である。現在、旧彦根藩世田谷領代官の大場家が所蔵している。
この絵図は、天保七年(1836)七月に関東代官中村八太夫へ提出した物の控えであり、これと時を同じくして、当該絵図記載の3ヶ村と同じ彦根藩世田谷領の他の村々も、各々絵図を提出した。また、これらの絵図を提出した理由は不明瞭であるが、提出時期が天保の改革の直前であることから、関東取締出役の再編強化と何らかの関係があるとみられる。


 以上が『世田谷区史料』1)の解説であるが、ここで何点かの疑問が生じる。
 第一に、絵図を天保七年(1836)七月に関東代官へ提出した、という史料的根拠が何ら示されていない。本当に作製(提出)年代が合致するのか、確認をする必要があろう。
 第二に、作製(提出)理由についてである。絵図提出と関東取締出役の再編強化との関わりが、実際にあったのかどうかということである。これも検討しなければならないであろう。
 第三に、先述した通り、当該絵図は彦根藩世田谷領の中心部にあたる13ヶ村の個々の村絵図と共に提出されたというが、それに従えば、唯一、この絵図のみが複数の村々について描かれたものということになる。さらに言えば、その13ヶ村の内には、当該絵図に描写されている大蔵村・鎌田村・横根村も含まれているのである。個別の村絵図を作製しておきながら、なぜわざわざ三ヶ村にまたがった絵図を別途作る必要があったのであろうか。


 そして、実際に絵図を眺めてみて、最も驚嘆すべきは鎌田村の形状である。通常、飛地と言えば、本村と地続きでない他村に入り組んだ土地のことである。しかしながら、絵図に描かれている鎌田村は、どの地区が本村かどうかすら判別し難い、著しく特異な形状を呈しており、村そのものが飛地状の、いわば「飛地村」なのである。このように鎌田村が、飛地のような様態を示していたのはなぜかということもまた、大きな疑問として挙げることができよう。

 上述のような疑問点を中心として、本稿の次節以下に景観復元的手法を用いて検討を試みる。



  註

(1)東京都世田谷区編『世田谷区史料』第三集(東京都世田谷区、1960)


 前稿までの刑罰としての改姓名については、いずれ国史に散見する全ての事例を集計してまとめたいと考えております。
 
 さて先日、仕事運に良いという評判を聞き、現住居の氏神様と思われる亀戸天神と大國魂神社へ参拝してきました。まず亀戸天神へ。



130529_1338~01
 亀戸天神社は東の太宰府天満宮、「東宰府天満宮」とも称された神社で、菅原道真公と天穂日命(アメノホヒ。菅原氏の祖先神とされる)を祀る。 なお、創建は寛文元年(1661)であり、当該期からはかなり下る。

 
 周知のごとく、右大臣であった道真は昌泰四年(
901)に突如、大宰権帥に左遷(事実上の配流)されてしまう(昌泰の変)。これについては、左大臣藤原時平らの勢力による讒言とするのが通説である。




【史料1】『政事要略』巻二十二「年中行事二十二八月上 北野天神会事」

而右大臣菅原朝臣、寒門与利大臣上収給利。而不知止足之分、有専権之心、以佞謟之情欺惑前上皇之御意。然恐慎上皇之御情天万奉行、无敢恕御情欲行廃立、離間父子之慈、淑皮兄弟之愛。詞者之天 心逆。是皆天下所知奈利。不宜居大臣之位、須法律奈倍不倍之。然而殊為有所念奈牟、停大臣之官 大宰権帥罷給

(右大臣菅原朝臣、寒門より俄に大臣に上り収め給はれり。而るに止足の分を知らず、専権の心有り、佞謟の情を以て、前の上皇の御意を欺き惑はす。然るを上皇の御情を恐れ慎まで奉行し、敢えて御情を恕ること無くて、廃立を行ひ、父子の慈を離間し、兄弟の愛を淑皮せんと欲す。詞は辞ひ順はして、心は逆なり。これ皆、天下の知る所なり。大臣の位に居るべからず、須らく法律のまにまに罪なば給ふべし。然るに殊に念ふ所有りてなむ、大臣の官を停め、大宰権帥に罷し給ふ。)


 醍醐天皇の宣命(【史料1】)により排斥された道真は延喜三年(903)、悲運のうちに配所である大宰府で薨ずるが、大納言(道真の後任として右大臣)源光の変死、皇太子保明親王・皇太孫慶頼王の夭死、有名な清涼殿への落雷など、道真の怨霊によるとされた数多くの事件を契機として、御霊信仰、また雷神(天神)信仰と結び付き、後に「学問の神様」としての信仰が現出して今に至る。



 次に府中の大國魂神社へ。


 一般(特に関東圏)に「府中」と言えば、東京都府中市を想起する方が多いと思われるが、全国に「府中」「国府」といった地名や駅名(例えば広島県府中市、神奈川県の国府津、千葉県の国府台)は多く残されており、いずれも令制下における国府が存した、または関係施設などがあったことに由来している。


130529_1546~01

 今回挙げる府中は周知の通り、武蔵国の国府が置かれた地で、大國魂神社の境内はまさしくその国府跡の一部に該当している。

 大國魂神社は武蔵国の総社(端的に言えば、国内の諸神を合祀した神社)である。起源は景行天皇四十一年(111)とされるが、これはあくまでも伝承によるもので歴史学的な根拠は乏しい。主祭神は大國魂大神(大国主命と同神と見做される)で、他に国内の有力な神や諸神を祀る。




【史料2】『続日本紀』宝亀二年(771)十月己卯(27日)

己夘、太政官奏、武藏國雖属山道、兼承海道。公使繁多、祗供難堪。其東山驛路、從上野國新田驛、達下野國足利驛。此便道也。而枉從上野國邑樂郡、經五ケ驛、到武藏國、事畢去日、又取同道、向下野國。今東海道者、從相模國夷參驛、達下総國、其間四驛、往還便近。而去此就彼損害極多。臣等商量、改東山道、属東海道、公私得所、人馬有息。奏可。

(己卯、太政官奏すらく、武蔵国は山道に属すと雖も、兼ねて海道を承ける。公使繁多にして、祇供堪え難し。其の東山の駅路は、上野国新田駅より下野国足利駅に達せり。此れ便道なり。而るに枉げて上野国邑楽郡より五ケ駅を経て、武蔵国に到り、事畢りて去る日、また同道を取り、下野国に向ふ。今、東海道は、相模国夷参駅より下総国に達し、その間四駅にして往還便近なり。而るに此れを去り彼に就くことを損害極めて多し。臣ら商量するに、東山道を改め、東海道に属せば、公私ところを得て、人馬有息せむ。奏可す。)


 元々、武蔵国はいわゆる五畿七道のうち、元々は東山道に属していたのであるが、交通の便を考慮され東海道へと転属となった(【史料2】)ことは、現代のイメージには余り無いと思う。


 要約すれば、
武蔵国は東山道に属しているが、東海道の交通も受け持っていて、公使の往来も非常に多い。その東山道の駅路(官道)は、上野国新田駅(群馬県太田市付近)から下野国足利駅(栃木県足利市付近)へと達している道があり、そこから分岐して上野国邑楽郡から五つの駅を経由して、武蔵国へと至り、用事が終わると、再び同じ道を戻って下野国へ向かう。今、東海道は相模国夷参駅(「いさま」駅と読む。神奈川県座間市付近)
より下総国(現在の千葉県北部・東京都の隅田川以東など)に達していて、その間は四駅で便利であるので、武蔵国を東海道へ転属させれば公私とも人馬が休まる。
 というものである。


 一般に勘違いしがちと思われるのが、どうしても東海道・東山道と聞くと、近世の東海道を始めとした街道を想起してしまうことであろう。
 
 しかし、古代の(五畿)七道は行政区分であると同時に、駅路という計画道路であり、非常に直線的で幅が広い大規模な道であったのである。
 規模は
10kmにもわたる直線が続き、幅10mに達する箇所も多数存在したと見受けられるなど、江戸時代の街道や現代の高速道路なども及ばないほどであった。 (1)


130529_1515~01



 

 ということで、霊験あらたかな両社を参拝し、大国魂神社ではふるさと府中歴史館や隣接する国衙跡(画像左)も観てきました。ご利益があるとよいのですが^^

 古代の駅路・駅については、いずれ機会を設けて改めて書きたいと思います。



 
 註
 
(1)中村太一『日本の古代道路を探す-律令国家のアウトバーン-』(平凡社、2000

 閑話休題、本論へ戻ります。


【史料1】『続日本紀』天平十九年(747)十月乙巳(3日)条

乙巳、勅曰、春宮少属従八位上御方大野所願之姓、思欲許賜。然大野之父、於浄御原朝庭在皇子之列。而縁微過、遂被廃退。朕甚哀憐。所以、不賜其姓也。

(乙巳、勅して曰はく、春宮少属従八位上御方大野の願へる所の姓、許し賜はむと思欲す。然れども大野が父は、浄御原の朝庭に皇子の列に在り。而るに微過に縁りて、遂に廃め退けられたり。朕甚だ哀憐む。所以に、其の姓を賜はず。)  


【史料2】『続日本紀』天平宝字五年(761)三月己酉(24日)条(再掲)

己酉。葦原王坐以刄殺人。賜姓龍田眞人。流多褹嶋。男女六人復令相隨。葦原王者。三品忍壁親王之孫。從四位下山前王之男。天性凶惡。喜遊酒肆。時与御使連麻呂。博飮忽發怒。刺殺屠其股完。便置胸上而膾之。及他罪状明白。有司奏請其罪。帝以宗室之故。不忍致法。仍除王名配流。

(書き下しは前稿を参照のこと)


  【史料1】は御方大野という人物の、賜姓請願に対する回答の勅である。ここで言う「姓」は、狭義の姓(カバネ)として捉えてよいと思う。要するに無姓であったのである。

 記事によると、大野の父である某皇子が、浄御原朝庭(天武朝)の時代に「微過」を犯し、「廃退」せられたことが分かる。大野の父がいったい誰なのか、また事件の詳細そのものも明らかではないが、皇族から除かれ「御方」と賜姓されたのは某皇子の時と考えてよかろう。


  【史料2】は前稿でも載せたが、葦原王が刃物による殺人の罪に問われ、王本人と子六人が「龍田真人」を賜姓された上、配流された事件である。

 
 そもそも、刑罰として皇親に賜姓を行う、また貴族官人や良民の名を改悪する、というような規定は律(現代で言う刑法にあたる)には存在しない。ただし皇親や貴族官人が殺人を始めとする重罪を犯しても、天皇の優詔があり(皇親の場合は賜姓した上で)一等下して流罪に処すケースは多い。

 
 【史料2】は天武朝(記事は聖武朝)、【史料3】は淳仁朝であるが、両者とも必要以上に姓名を貶されたものではなく、考謙・称徳朝の異常性を看取できるであろう。

 
 では、どのような背景から考謙・称徳朝に差別的な改姓名が行われたのであろうか。 


【史料3】『続日本紀』天平宝字八年(764)十月壬申(9日)条

(上略)山村王宣詔曰、挂〈末久毛〉畏朕〈我〉天先帝〈乃〉御命以〈天〉朕〈仁〉勅〈之久〉天下〈方〉朕子伊末之〈仁〉授給事〈乎之〉云〈方〉王〈乎〉奴〈止〉成〈止毛〉奴〈乎〉王〈止〉云〈止毛〉汝〈乃〉爲〈牟末仁末尓〉假令後〈仁〉帝〈止〉立〈天〉在人〈伊〉立〈乃〉後〈尓〉汝〈乃多米仁〉无礼〈之弖〉不從奈賣〈久〉在〈牟〉人〈乎方〉帝〈乃〉位〈仁〉置〈許止方〉不得。又君臣〈乃〉理〈仁〉從〈天〉貞〈久〉淨〈岐〉心〈乎〉以〈天〉助奉侍〈牟之〉帝〈止〉在〈己止方〉得〈止〉勅〈岐〉。可久在御命〈乎〉朕又一二〈乃〉竪子等〈止〉侍〈天〉聞食〈天〉在。然今帝〈止之天〉侍人〈乎〉此年己呂見〈仁〉其位〈仁毛〉不堪。是〈乃味仁〉不在。今聞〈仁〉仲麻呂〈止〉同心〈之天〉竊朕〈乎〉掃〈止〉謀〈家利〉。又竊六千〈乃〉兵〈乎〉發〈之〉等等乃〈比〉又七人〈乃味之天〉關〈仁〉入〈牟止毛〉謀〈家利〉。精兵〈乎之天〉押〈之非天〉壞亂〈天〉罸滅〈止〉云〈家利〉。故是以帝位〈乎方〉退賜〈天〉親王〈乃〉位賜〈天〉淡路國〈乃〉公〈止〉退賜〈止〉勅御命〈乎〉聞食〈止〉宣。(下略)

 (山村王、詔を宣して曰はく、挂けまくも畏き朕が天の先帝の御命を以て朕に勅ひしく、天下を朕が子いましに授け給ふ。事をし云はば、王を奴と成すとも奴を王と云ふとも、汝の為むまにまに、仮ひ令し後に帝と立ちて在る人い、立ちの後に汝のために無礼して従はず、なめく在らむ人をば、帝の位に置くことは得ざれ。また君臣の理に従ひて貞しく浄き心を以て助け奉り侍らむし帝と在ることは得むと勅ひき。かく在る御命を朕はまた一・二の竪子どもと侍りて聞きたまへて在る。然るに今の帝として侍る人を此の年ごろ見るに、其の位にも堪えず。これのみに在らず、今聞くに仲麻呂と心を同じくにして、窃かに朕を掃はむと謀りけり。また窃かに六千の兵を発しととのひ、また七人のみにして関に入らむと謀りけり。精兵をして押ししひて壊り乱りて罸し滅さむと云ひけり。故に、是を以て帝の位をば退け賜ひて、親王の位を賜ひて、淡路国の公として退け賜ふと勅る御命を聞きたまへ、と宣る。)

 
 上記【史料3】は、淳仁天皇廃位の際に考謙=称徳天皇から発せられた詔であり、後継者選定においては血統すら止揚できるという称徳の絶対的君主観を体現した宣言と見做される。(1)

 この詔に登場する「王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも汝の為むまにまに」の一文に象徴されるような、草壁皇統の嫡系意識が遠因と思われる考謙=称徳による専恣が、皇位継承関係者を始めとした皇親のみならず、それ以外の氏族に対しても同様にそれらの血統、そして姓氏や名のこだわりを意識的にせよ無意識的にせよ持たせた結果、処罰としての異常な改姓名へと繋がったのではないかと考えたい。


 最後に今更で恐縮だが、氏・姓の本来の語義は次の通りである。
 
 仮に氷上真人塩焼を例にとると、「氷上」が氏(ウジ)、「真人」が狭義の姓(カバネ)、「氷上真人」が広義の姓(カバネ)、「塩焼」が名である。広義の姓は、氏と狭義の姓を合わせて氏姓とも言う。なお狭義の姓は、いわゆる八色の姓に該当する。
 
 専門の研究論文も含めた様々な文献において、これらを誤用あるいは曖昧な使用方をしている例が少なからず見受けられるので、是正すべきであろう。


 
(1)佐藤長門「称徳天皇の後継問題-宇佐八幡神託事件の深層をさぐる-」(『日本古代王権の構造と展開』所収、吉川弘文館、2009)

このページのトップヘ