空を見上げて
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恋愛

星を追う子ども

震災の影響で延期されていた、新海誠監督のアニメーション「星を追う子ども」が、昨日から上演が開始されたので、今日、早速見に行って来ました。

インターネット上の書き込みでは、「ジブリのパクり疑惑」がまことしやかに囁かれていますが、確かに、シーンやキャラクターにそれらしいものが見えることは見えるのですが、私は、新海監督独特のストーリー展開にすっかり魅了されましたので、それらの疑惑はまったく気になりませんでした。本筋はまさに新海監督のものです。

それに、今回は、難しい設定を抜きにして、すんなり世界観に入れるようになったと思います。
前2作では、ノベライズされた小説を読まないと、時代背景や設定、果ては登場人物と主人公との関係がわからない場合があったのですが、本作では、「これはこの世界観なんだ」ですんなり理解すればよいものと感じました。

前3作もそうなのですが、今回も「喪失」がメインテーマになっています。

「喪失」の感情をどのように人間は乗り越え、克服していくのか、「喪失」の感情をどのように昇華すればいいのかを見る側に問いかけています。

恋愛感情と喪失感。それが新海監督作品のキーワードです。

さぞかし客が入っているものと思いきや、なんと一番小さい100席前後のホールでした。入場者も20名前後だったでしょうか。

まだマイナーな監督だから、こんな扱いなのかな。それとも、来週に舞台挨拶に来るから、その様子見なのでしょうか?あまりの人の少なさに、ちょっと興ざめしました。

ま、あまり人がいない方がいいですけどね。ただ、小さいホールだと、スクリーンが近すぎて逆に目が疲れます。視野角にスクリーンが収まりきらないんだもん。


ほんと、空の描写がきれいだった。山の稜線も。星の描写も。そこだけでも見る価値あります。

来週の舞台挨拶、結局、見に行くんだろうなあ。







金色のこびとjzb04406  at 22:03コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

やっぱりテーマに乗ってみる

「友達ってどんな存在?」だそうです。

ともだち、20世紀少年、というのはおいといて、結局、主観の問題ではないでしょうか。

自分が友達だと思う人は友達で、そうでないと思う人は違う、それだけのことではないでしょうか。

裏切られて「今まで友達だと思ってたのに」とか怒る人も、中にはいるかもしれません。でも、お互いにそれを確認しあうほどのものでもないと思うのです。

自分がそう感じているならば、それでいいではないですか。

このテーマについては、突き詰めると、男女間に友情はあり得るか、というところまで行き着いてしまいます。

では、友情とは何でしょうか?

友情とは、文字どおり「友」を思う「情」です。この場合、お互いに「情」があるからこそ、友情なのです。

「友達」、つまり「友」だけならば、「情」は関係ないのです。

私には、友達は沢山いますが、友情を持った友はほとんどいません。

強いて言えば、件の文通相手でしょうか。

彼女との関係は、恋愛ではありません。友情です。勿論、恋愛にしてはいけません。

ただ、本当にそうなのか、という疑問も、自分の中に浮かびつつあります。

自分で、擬似恋愛の対象、としているのかもしれませんが、そこは自分にも良くわかりません。

友達ねえ、この年齢になると、友達なんか作れないんだよ…。

これを読んでいる皆さんは、早く友達作っておきなさいね。

ただ、それだけ。以上。




金色のこびとjzb04406  at 22:28コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

またまたテーマに乗ってみる

「大好きだった初恋の人と今の恋人、どちらを選ぶ?」だそうです。

お互いに好きだったのならば、それは初恋の人を選ぶでしょう。
私ならそうします。

でも、初恋でも、自分の片思いで叶わなかった場合はどうでしょうか?

相手はどうも思っていない。でも、今は好意を持っている。
それくらいじゃあね、今の恋人を捨ててまで、関係を修復する気にはなりません。

あまり初恋をひきづりすぎると、「秒速5センチメートル」の貴樹のようになってしまいます。

いつまでも、ずっと遠くにある何かに手を伸ばしたくて、でも届かなくて、結局、他の女性と付き合っても、傷付けるだけで幸福にしてやれない、恋愛に不器用な男になってしまいます。

別に、恋愛に器用であればよいと言っているわけではありません。相手を傷付けるような事が問題だと言いたいのです。

彼自身も傷付いているのはわかるのですが、それ以上に彼に係った女性達は傷付いているのです。それに気付くのは、彼がもっとも長く付き合った女性を失ったあとです。

彼自身の苦しみは理解できます。自分と似ています。
明里自身が言っているように、貴樹のことはもう自分の一部。それは彼自身も同じことでしょう。でも、彼はもう手の届くことのない、その一部を捜し求めているのです。

これ以上書くのは、切ないです。
自分の初恋は、ひどかったから…。

結論を言えば、自分が好きと思う人よりも、自分を好いてくれる人を選ぶのが正解だと思います。

今日は、以上。これ以上書くと泣けてくるので書きません。

金色のこびとjzb04406  at 23:02コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

雨ですね

今日は、朝は晴れ間が見えていたのですが、夜は激しい雨になりました。
帰り道もオートバイなので、当然、レインウエアは持ってはいるのですが、ままよ、とそのまま疾走しました。
そのため、帰宅時には、全身ずぶぬれでした。

でも、雨にぬれるのは大好きです。バイクで雨の中を疾走するのも。
勿論、ぬれるのは覚悟の上です。雨のしぶき、服に染み込んでくる冷たさ、そんな雨にさえ風情を感じます。

でも、降り過ぎはいけませんよね。各地で大雨の被害が出ているようです。今年は全国的に多いようですね。

雨、大江千里の「Rain」という歌を思い出します。

男から見れば、女々しいと感じてしまう歌詞なのですが、大好きな曲です。
槇原敬之さんもカバーしてアルバムに入れています。

安部恭弘さんの「RainyDay Girl」という曲も、雨にまつわる名曲です。かつての恋人と再会する主人公、主人公は未だにミュージシャンの夢を捨て切れず、仕事を辞めてまで音楽を続けている。でも、彼女は、既に別の男性と結婚していて、来年には母親になるという。夢に生き続ける男性と、現実を生きる女性の交差点を描いた、松本隆の詞と安部恭弘の曲が融合した名作です。

やはり、男の方がロマンチストですよね、女性よりも。
夢に目がくらんで突っ走るのは、一方的に男性が多い筈です。妥協ができないんですね。
一方、女性は、合理的な妥協点を計算していて、それ以上は進みません。現実主義というか、計算高いというか、かなえられる夢と現実を明確に分けて考えています。

だから、恋愛にはドラマがあるのでしょうね。
やはり、脳レベルから相違があるのでしょうから。

それでも、ロマンチストでいいんです。
夢を追ってもいいんです。
追える夢がある人は幸せです。

夢に向かえる勇気。何にも屈しない意思とチカラ。
それだけは忘れない。いや、忘れようもない。
それだけは断言できる。

金色のこびとjzb04406  at 22:25コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

友人

 皆さんには、友達と言える人が何人いますか?また、真の友達って、何でしょうか?私にはよくわかりません。私は、出会っても、いつの間にか自然消滅という例も体験しているし、小学生時代は友人であった(と思っていた)のに、同じ高校で同じクラスになったとたん、私をいじめるようになった例も体験しています。この年齢になると、本当に友人は減ってしまいます。社会に疲れてしまうのに、それを共有する人がいない、それが非常に悲しいことです。

 しかしながら、インターネット等から、共通の趣味で友人になった人なども結構います。ただ、趣味の話題などで盛り上がって、勝手にこちらで友人と思っているだけなのかもしれません。

 高校で私をいじめた彼は、私が初めて好きになった女子と付き合っていました。彼としては、横恋慕の相手をいじめることによって、私と彼女が接近するのを阻止しようとしていたのかもしれません。

 彼女が彼と交際していることを知ったのは、私が彼女に告白し、振られた後でした。

 私は激しく傷付きました。私が好きになった彼女は、私の全人格を否定した彼と付き合っている。でも、私には彼女を否定することはできない。なぜなら、私は彼女のことが好きだから。かといって、彼を否定することもできない。それは、私自身が好きになった当時の彼女を否定することになるから。

 結局、私は自分を責めるしかできませんでした。彼女を否定すれば、私は彼の被害者として生きていけるけれど、彼を好いていることを差し引いても、私は彼女のことが好きだった。だから、私は、私自身を否定するしかなかった。

 だから、人間不信になりました。私は愛される価値のない人間だと。
 その後、その人間不信を自らの手で打ち消すかのように、彼女とは全く違うタイプの何人かの女性に、告白をしましたが、受け入れてくれる女性はいませんでした。

 恋愛の痛手は恋愛でしか埋められません。でも、神様は、私には何の手も差し伸べてはくれませんでした。

 大学に入学し一人暮らしを始めても、私はずっと心を閉ざしたままでした。
 普段はサングラスをして、口ほどにものを言ってしまう私の目を隠し、誰にも心を開きませんでした。いつか彼に合法的に復讐してやる、とまで考えたこともあります。今になって考えれば、非常に浅はかな考えだとは思いますけど。

 今となっては、彼女の顔もうっすらとしか思い出せません。小柄で明るく、きらきらしたイメージの娘だったと記憶しています。

 卒業20年の同窓会も、彼が出席したらと思うと、怖くて出られませんでした。
 自分は何も悪くないのに、堂々と顔を出せるはずなのに、でも会えば会ったで、今まで溜め込んできた何かを彼にぶつけそうで怖かったのです。そして、そのこと自身を彼が認識していない、または忘れているであろうことを、私は絶対に許せませんでした。

 今でも考えます。あの恋が実っていれば、今の私の人生はどうなっていただろうかと。当時17歳の若造で、1学年下の彼女。1年は続いても、大学進学後の関係継続は無理だろうなあ。感情だけで突っ走っていたあの頃、たとえいじめられていても自分としては輝いていたのではないか、と改めて思います。

 私は小・中学でもいじめの標的でした。だから、小中高の記憶は、授業の記憶だけで、学校の記憶というものがありません。授業は大好きだった(体育以外は)けれど、学校は大嫌いでした。特に休み時間や昼食時間は耐え難い苦痛でした。私が私でいられる居場所がないのです。いじめられる子や不登校の子の気持ちがわかりますか?彼らには居場所がないのです。私にも、どこにも居場所はありませんでした。授業時間以外には。

 幸い、成績も上位の部類であったので、ストレートで第1志望の大学に受かりましたが、それは、早く高校を卒業して、大学の自由な風に吹かれたかったからに他なりません。

 でも、大学でも自分の居場所はあったのだろうか?いまだに大学で留年する夢を見ます。
 ネームバリューで選んでしまった就職先にも、自分の居場所をいまだに見つけられずにいます。

 人生とは、自分の居場所を探す旅なのでしょうか?

金色のこびとjzb04406  at 22:20コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ!