10月27日に信州に行って、泊りがけで五井野正博士の講演会に参加し、「ゴッホが愛した歌川派美術館」で浮世絵の勉強をしてきました。

 今回の会員向けの講演会に参加のため、私は土曜日に仕事を終えてから電車で信州に向かいました。講演会の前日には博士を囲んで前夜祭のような宴会があり、博士を囲んで貴重なお話を聞くことができました。私は、天下泰平さんの隣に座り、博士のお話を間近で拝聴できる幸運に恵まれました。

 博士のお話は次第に深みを帯びて場の波動が上がり、最後は少人数向けの説法のような形式となりました。博士のお話を拝聴する上で、法華経の理解は不可欠です。私は博士の説法を聞くために、これまで法華経等の大乗仏教の勉強をしてきたと言っても過言ではありません。

 世の中の誰よりも仏教特に法華経を会得されている博士御自身が質問に答えて下さるとのことで、私は法華経如来寿量品に関して以下のような内容の質問をさせていただきました。


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 <以下質問の概略>

 
法華経如来寿量品の中の「良医の譬 」で、「其の諸の子の中に」より以下の文章では、子(衆生)が親(仏)の教えに順って薬を飲まないので、親は方便をもって死を示しております。これは仏にはなかなか遭えず、仏に会える事は非常に貴重なことであるとの譬とされています。  「是の時、諸の子は」より以下は、親(仏)が死んだと方便を用いることにより、子(衆生)が親に会えたことの有り難みを知り、親が処方してくれた薬を飲み、病気が治ることの譬とされています。


 「親(仏)が方便として「死」を示す事で、子(衆生)は親になかなか会えないことを嘆き、それまでなかなか飲もうという気になれなかった、親が特別に調合してくれた薬を飲んで治った」とされていますが、「方便の死」を示す事だけで病気に罹ってしまった子は本当に治るのでしょうか、また処方されたこの特別の薬とはGOPのことでしょうか。また「方便の死」を示すのでなく、現実には浮世絵を見せる事で病気が治せるのでしょうか。

 <質問終了>

 これに対する博士のお答えは以下のようなものでした。

「心に毒が入ってしまっては治すことは不可能です。毒とは魔の事を意味します。魔は仏とならず、仏は魔とならず、です。仏陀が居られた娑婆の世界は便所のような世界でしたが、そこでは泥の中に蓮の華が咲きました。毒が人間の神経の隅々にまで入り込んでしまった現世はヘドロの世界です。ヘドロで華は咲きません。またGOPはこの法華経に出て来た薬のことではなく、薬師如来左手に持つ薬壺のことです。」

 改めて末法の現世の酷さを再確認させられました。

 博士は「成住壊空」の事を繰り返し語られていました。
 西洋の宗教では「空」の概念を理解していないから駄目です。西洋の宗教では神と人、あるいは神と奴隷との関係が語られていますが、仏教は「教え」の宗教ですと語られました。

 博士の説法は徹夜で朝7時にまで及びましたが、その内容の深さと波動の高さから眠気を感じることはありませんでした。 

 また途中で博士がシンセサイザーでダンスに合うような素晴らしい演奏を披露してくれました。その卓越した腕前は自動演奏のようにすら思え、また時折インパクトを与えて、曲にメリハリをつけて下さりました。

 講演終了後に購入したDVDの博士のダンスを見て改めて思ったのですが、博士は諸芸に於いて万能です。博士は、真に覚る(菩薩の階段を一段一段上がっていって、五十二位の妙覚に達する)ということがどのようなことなのか、身をもって示されているのです。

 私が解説した、「華厳経 その1〜十地品」では、菩薩が難勝地に達すると万有の本質観を成就した結果として事象を平等視する、十平等心をおこし、四諦観(苦諦、集諦、滅諦、道諦)によって宇宙の如実相を究め、生類の教化のために世のあらゆる学芸を修めるとされています。また遠行地に達すると証りの智慧の成就により、自然の流露として一切の行為は慈悲行と現れて完成される十種の妙行を挙げて一切の仏行を該摂し、方便(教化)波羅蜜が中心となるとされています。

 その三段階上が法雲地でその上が等覚、そのまた上の最上位が妙覚とされています。妙覚に達している博士が絵画・音楽・ダンスなどの芸術にも通じているのは、ある意味当然のことなのかもしれません。凡人には伺い知れない世界なのです。