歴史と日本人―明日へのとびら―

日本という国は、悠久の歴史を持つ国である。 この国に生まれた喜びと誇りを胸に、本当の歴史、及び日本のあり方について考察してみたい。 そうすることで、「明日へのとびら」が開かれることだろう。

『国体文化』六月号に拙稿が掲載されました

『国体文化』六月号に拙稿「資本主義の超克とその先の国家論(三)」が掲載されました。
ご覧いただければ幸いです。

今回は武士道と社会主義の関係についてです。前半の中では特に重要な部分に当たるのでここからでもお読みいただけましたら幸いです。

なお、「動報」の国体思想研究会についての報告でも、わたしについて言及していただいております。

竹内好の怒り

 60年安保では岸内閣の日米安全保障条約改定に反対する大規模なデモが発生している。その過程で、羽田空港で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティー大統領報道官が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に迎えの車を包囲されて動けなくなり、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生した。ハガティーは「この人らは日本に対する忠誠心さえもない人たちである」とコメントした。
 この発言に怒ったのがいわゆる左翼的アジア主義者の竹内好である。竹内は、「本心は日本を独立国と思っていないのではないか。彼が『日本に対する忠誠心』というとき、その本意は『アメリカに対する忠誠心』と重なっているのではないか」と述べた。
 当時の英米世論は概してデモ隊に批判的であった。イギリスの新聞は、「東京の狂信的な若者ども」は「かつて真珠湾をたたき、シンガポールで同胞をいためた狂信者の子供である」と評した。アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」、「日本人は、戦前とちっとも変っていない」と言ったという。
 これら英米世論やハガティーの人種差別的な反応には驚かされる。なるほど現代の目から見ればデモ隊がインターナショナルを歌っていたり、ソ連から金が出ていたことなど、その敵意はわからないでもない部分もある。だが、竹内が喝破したように、英米には日本人を自分たちの言うことを聞いて当然という意識がありありと見える。竹内が怒るのも当然だし、そこにはインターナショナル的な左翼思想に収まらない、いわば愛国的な側面も感じ取ることが出来よう。

参考:小熊英二『民主と愛国』540頁

『国体文化』五月号に拙稿が掲載されました

『国体文化』五月号に拙稿「資本主義の超克とその先の国家論(二)」が掲載されました。
ご覧いただければ幸いです。

第二回は福沢諭吉、田口卯吉、徳富蘇峰の市場に関する言説を中心に取り上げております。わたしの主張は多くない箇所ですが歴史的な議論としては大事な箇所ではないかと考えております。

日本学協会『日本』五月号に拙稿が掲載されました

日本学協会『日本』五月号に、拙稿「澁川春海の尊皇思想」が掲載されました。
掲載していただける旨はすでにご連絡いただいておりましたが、わたしは六月号だと勘違いしておりましたので親しい方にもご案内しておりませんでした。ご覧いただけましたら幸いです。

日米同盟の即時破棄を主張する

晩年の平泉澄は、自民党が行う憲法改正に批判的であったという。自民党のやり方に従えば、今よりもずっと対米従属を深めるような憲法に改正されてしまうからに他ならない。

現状北朝鮮情勢が逼迫する中で、米国とさらに関係を深め、共に国防に努めるべしという考え方がある。一見、「現実的」な意見に映る。ただそれは、日米同盟下に於いて日本は外交・国防上の自主決定権をほとんど持っていないという「現実」に目を背けた議論である。現状の日米同盟体制では、日本側の協力が必要か否かはアメリカが決めるのであって、日本が決めるのではない。即ち日米同盟を破棄しない限り、日本の主体的な外交・国防上の政策はないということである。わたしが日米同盟即時破棄を訴える所以である。

過去記事を紹介するので併せてお目通しいただけたら幸いです。
◆まず日米同盟から改めよ〜日米同盟の抜本見直しと憲法改正の順逆を問う〜
◆良心を問え―自主防衛論―

橘孝三郎と柳宗悦

橘孝三郎と柳宗悦はともに近代都市文明から逃避し、伝統的社会に自らの居場所を求めた。彼らは先天的に伝統的ムラ社会の住人だったわけではない。彼らは後天的に農村に生きることを獲得したのである。

橘孝三郎と柳宗悦の直接的接点を見出すのは難しい。だが、橘孝三郎の兄弟村にはミレーの絵とともにウィリアム・ブレイクの絵も掲げられていたという。ブレイクこそ柳の原点であり、両者の関心が近かったことをうかがわせる。橘孝三郎の妹はやの二年先輩で親しい中だった人物は、柳宗悦の妻兼子であった。宗悦・兼子夫妻ははやを訪ねて水戸に赴いたこともあったという。両者がそこで出会っていた可能性も高い。

そうした人脈的つながりだけではなく、柳と橘は伝統を信仰的に理解していたことも共通している。
柳は「伝統は一人立ちができないものを助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお蔭で小さな人間も大きな海原を乗り切ることが出来る。伝統は個人の脆さを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起こさねばならない」(「美の法門」『柳宗悦全集』十八巻19頁)と述べている。ここでの柳にとっての「伝統」は「信仰」に近い。
柳は民藝を共同体によって生み出されるものとして捉えていた。したがって民藝は高名な芸術家によって生み出されるのではなく、無名の庶民が自らの必要に従って作られるものと考えていた。一方で資本主義社会がもたらす機械的な量産をあさましいものと思い、共同体に培われた文化を破壊するものとして捉えている。

橘は「日本愛国革新本義」で、「東洋の真精神に還って、世界的大都市中心に動かされつつある個人本位的烏合体的、寄合所帯的近世資本主義を超克、解消し得るに足る、国民本位的、共存共栄的、協同体完全国民社会を築き上げることより外ないと信ずる」と述べた(『現代日本思想体系31超国家主義』222頁)。また、「社会主義と言はず、個人主義と言はず、西洋唯物文明精神の本質に属する思想はその唯物精神の然らしむる処に従つて、だんだん聞いてゆくと、結局人間といふものは「胃袋と生殖器」だといふ事になつてしまふようだ。(中略)成程、人間は胃袋と生殖器に違ひない。さういふ言葉にはまことに耳聴けなくてはならん真理がある。然し、胃袋と生殖器である人間は同時に、頭脳と心臓であつた事を忘れてはならない」(『農本建国論』237頁)。
橘も物質文明を超克するところに共同体の意義を見出していた。

執筆原稿一覧及び今後の予定(活字化されたもの)

●執筆原稿一覧(活字化されたもの、および今後の予定)

◆『国体文化』
 ・「陸羯南の国家的社会主義」(平成二十八年五月号)
  …陸羯南が明治三十年に書いた「国家的社会主義」を中心に陸の弱者救済的国家論を描く。
 ・「資本主義の超克とその先の国家論」(平成二十九年四月号〜)
  …國體を重視する立場からの資本主義批判。

◆『大亜細亜』
 ◇創刊号(平成二十八年六月)
 ・「陸羯南のアジア認識」
  …陸羯南『国際論』を中心として陸の対外舘、アジア認識を描いた。
 ・「時論 価値観外交の世界観から興亜の使命へ」
  …トランプの共和党米大量候補決定、ドゥテルテ政権成立等を受け、冷戦的な価値観外交は終焉したことを論じる。そのうえで興亜の使命を改めて確認。
 ◇第二号(平成二十八年十月)
 ・「(巻頭言)トランプ大統領就任の意味と興亜の使命」
  …トランプ大統領就任を受けて改めて興亜の使命を論じる。
 ・「柳宗悦のアジア的価値観」
  …柳宗悦の伝統、霊性に対する感覚を学ぶ。
 ・「(時論)外国人労働者問題から見る目指すべき大道の覚醒」
  …低賃金労働者の供給源と化している「外国人技能実習制度」「外国人留学生」を推進する現政権および巨大資本を批判。
 ◇第三号(平成二十九年四月〜五月頃発行予定)
 ・「近世東洋史」…元朝から現代にいたる支那を中心とした歴史を振り返る。
 ・「右翼から国士へ」…「反共」から「正統の追求」へ
 ・「書評 古谷経衡「アメリカに喧嘩を売る国 フィリピン大統領ロドリゴ・ドゥテルテの政治手腕」」

◆「月刊日本」
 ・平成二十七年十月号「読者より」欄…戦後日本の物質的幸福の追求批判
 ・平成二十八年九月号 書評井尻千男『歴史にとって美とは何か』
 ・平成二十九年四月号「読者より」欄
  …陸羯南の言論にかける姿勢とマスコミ批判

◆その他
 ・「おかしな竹田恒泰氏の論文」(『西尾幹二のブログ論壇』所収、平成二十二年十二月刊)
 ・「伝統と信仰」(愛媛県師友会機関紙「ひ」第五〇二号)
  …利害関係以外の価値を見失った現代社会に対し「伝統」と「信仰」という価値観を提示
 ・「澁川春海の尊皇思想」(日本学協会『日本』に掲載予定?)
 ・「地理と日本精神」(『季刊 日本主義』に持ち込み予定。掲載の採否未定)

田崎仁義「東洋の経済と西洋のエコノミー」要旨

田崎仁義は日本の皇道経済学者の一人である。
田崎は明治十三年、新潟県に生まれた。明治大学講師などを経て大正五年に米ハーバード大学へ留学。帰国後、大阪商業大学教授となる。その後、ロンドン大学に留学し、帰国後、大阪商業大学に皇道研究会を設立。その後神宮皇学館大学講師を務めたほか、戦後も明治大学講師、国士舘大学教授などを務めた。昭和五十一年、満九十五歳で亡くなった人物である。主に儒学的観点から皇道経済を説いた。

主な著書に、『王道天下之研究』『皇道原理と絶対臣道』『孔子と王道の政治経済』『皇道・王道・覇道・民道』『大木国家日本』などがある。『皇道原理と絶対臣道』では浅見絅斎『靖献遺言』を取り上げるなど崎門学の造詣も深い人物である。徳富蘇峰は「田崎博士は予の尊敬する学者の一人也。研鑽兀々、世上の営利名声を無視し、只だ講学是れ事とす。然かも其の論ずる所、決して迂腐寒酸の学究にあらず。而して亦た固より曲学阿世の徒と其科を殊にす。所謂る道を信じる厚くして、自ら知る明なるもの、君に於て之を見る」と評している。

田崎仁義の人生で転機となったのは明治天皇の御不例御崩御の際に、平癒回復を純真に祈る国民の姿に感動したことである。その時田崎は、自らの心に抱いてきた皇道國體観に更なる確信を得た。また、ハーバード大学留学時などに欧米人の有識者と言えども日本の国家観を理解できないことに気づいた。また、同時に日本人が欧米人の意見をありがたがる風潮に疑問を持った。そこで皇道國體を立証するために心血を注いだ。

頭山満は、「さきにねる 後の戸締り 頼むなり」という久坂玄瑞の辞世の句をそのまま田崎に託したという。

そんな田崎が昭和三十六年に書いた原稿に「東洋の経済、西洋のエコノミー」というものがある(国士舘大学政経論叢所収)。本稿ではこの要旨を以下に掲載する。

「経済」という言葉は熊沢蕃山、貝原益軒、太宰春台などによって用いられてきたが、明治以降エコノミーの訳語として定着した。しかしそれは真に適切だっただろうか。「経済」とは「経世済民」、「経国済民」が語源であり、天下国家を経綸し、世俗人民を救済厚生せんとする意味が込められている。一方エコノミーはラテン語の「Oeconomia」に基づくもので、要は家計のやりくりを示す言葉であった。東洋の経済は「営利」や「蓄財」を思わせない言葉であるのに対して、西洋のエコノミーは個人的な理財の側面があり、経済が公を意味するのに対してエコノミーは私身的である。故にエコノミーには「庶民の窮乏を救済する」とか「天下国家を経綸する」という意味合いはない。これは偶然発生したものではなく必ずそれぞれの文化、文明的経緯を経ているものである。


資本の目的は自ら膨張することにあり、必ずしも自国政府の言うことを聞く必要はない、嫌ならタックスヘイブンを求めて移動したって良いのだというのが近頃のグローバル資本の言い分である。そういいながら国家が提供するインフラや文化、教育、通貨及び通貨の安定性、安全保障、外交交渉力などに全く依存しきっているのが今の大資本の姿である。このような態度を理解するカギとなるのが「自己利益」である。自己利益の追求のためなら傲岸にも利用できるものはすべて利用し、自己利益に不利と思えばヒステリックに攻撃し、しかもそれを恥とも思わない態度の由来は西洋の「エコノミー」にある。「エコノミー」を超克し「経済」に回帰することが必要なのだ。
田崎の論考自体はここまで踏み込んでいないが、自然とそのように考えさせられるものとなっている。

『国体文化』四月号に拙稿が掲載されました

『国体文化』四月号に拙稿「資本主義の超克とその先の国家論(一)」が掲載されました。
ご覧いただければ幸いです。
「(一)」とついていることから分かる通り長期分載の一回目となります。
全文を一気に編集部に託し、少しずつ分載されるため全何回になるかはわたしもわからないのですが、一年以上になることが想定されます。

余談ながら本稿のわたしの名前のルビが違っています。第二回目から直ります。

断じてリベラルにはなりたくない

わたしは資本主義批判を書くことも多いが、その資本主義批判がリベラルや社会民主主義と錯覚・混同されるのを恐れる。薄甘いリベラルなど断じてお断りだ。次代を真に切り開くのは、保守でもリベラルでもなく、そうした「現実的」な対立を突き抜けた思想によるものであろう。池上彰のような、いろいろな人の言っていることをそつなくまとめて中間点をとるような論じ方は、わたしの目指すところではない。

ここで戦後史を振り返ってみると、昭和二十年代までは、憲法改正の機運は実は強かった。当時の世論調査でも憲法改正に「賛成」が「反対」を大きく引き離していた。
その機運が変わるのが昭和三十年代である。戦後復興が徐々に本格化する時代である。人々は「花より団子(竹内洋)」の風潮に染まりつつあった。憲法改正に「反対」が「賛成」を上回るのは昭和三十二年、岸内閣の頃である。その後の池田内閣では所得倍増が掲げられ、岸内閣にあった安全保障論議は棚上げされた。その前からすでに「もはや戦後ではない」などという標語が叫ばれるなど、「個人的な生活の豊かさ」にばかり目線が向いていた。当時の「進歩的」知識人はそれを自らの議論の勝利であるかのようにとらえ、「新憲法感覚の定着」だと寿いでいたが、その中で忘れられていったのは何も右派的議論だけではなく、左派的議論も徐々に退潮していくこととなった。

このような、池田内閣が成立した昭和三十五年(1960年)の頃の日本を、桶谷秀昭は「六〇年代の日本は、ふりかへつて茫然と困惑に陥るやうなものがあつた」と述べている。これは、政治の季節が終わり、政治で解決できなかった賃金格差などの問題が(のちの時代から見れば一時的にせよ)「経済成長」ですべて解決してしまったという困惑ではないだろうか。

こうした経済成長にうつつを抜かす戦後日本に絶望的な思いを持った人物の一人に三島由紀夫がいる。三島は「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」と記す。この言葉は池田内閣から十年後の昭和四十五年に記されたものであった。

翻って現代は、その経済成長すら危うくなった時代である。大企業や一部の富裕層はいざ知らず、一般国民が経済成長を実感することなどまずありえない。それどころか格差が開くことを「自己責任」であるとする新自由主義や、移民を肯定するグローバリズムが平然と唱えられている。これらを採用しなければ経済成長は達成できないという。そうかも知れない。だがそれは、そもそも何のための経済成長か、という議論を決定的に欠いている。

このような時代にリベラルや社会民主主義は、「生きさせろ」と富の分配を訴えることはできるが、何が社会として「正しい」分配なのか、それを問えなくなってきている。せいぜい「個人の人権が蹂躙されている」などというばかりだ。それは全体構造の欠陥を無視した弥縫策に過ぎない。だからリベラルや社会民主主義は決定的にダメなのである。西欧近代の超克と國體の明徴を論じていた戦前の論客の足元にも及ばない。彼らは國體の明徴が民主主義、資本主義、共産主義、帝国主義などを真に超克すると信じた。戦後、人々はそれをアナクロで狂信的、封建的だと罵っていたが、その戦後知識人は近代思想の問題点には踏み込めないでいる。
大理想による文明の転換こそが必要なのであって、「現実的」なリベラル、社会民主主義は時代の荒波にもまれ海の藻屑と消えるべき存在である。

参考文献
竹内洋『革新幻像の戦後史』
桶谷秀昭『昭和精神史 戦後編』
三島由紀夫『文化防衛論』(ちくま文庫版)
管理人について

陸羯南翁


中田耕斎

昭和六十年生まれ。明治期の国民主義者、陸羯南(くがかつなん・写真)の思想に共鳴する。戦前日本の国粋主義に興味を持つ。
*コメントに関しては原則削除は行いませんが、間違って二重に書き込まれた場合などは編集または一つ削除する場合がございますのであらかじめご了承ください。荒しは事前に通告の上、削除することがあります。





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