歴史と日本人―明日へのとびら―

日本という国は、悠久の歴史を持つ国である。 この国に生まれた喜びと誇りを胸に、本当の歴史、及び日本のあり方について考察してみたい。 そうすることで、「明日へのとびら」が開かれることだろう。

『国体文化』十二月号に拙稿が掲載されました

『国体文化』十二月号に拙稿「資本主義の超克とその先の国家論(九)」が掲載されました。
ご覧いただければ幸いです。

今回は権藤成卿と大杉栄・伊藤野枝を鍵に、クロポトキンの無政府主義の日本的読み替えを論じています。権藤・大杉・伊藤・橘孝三郎・北一輝・幸徳秋水はては柳田国男や影山正治までクロポトキンを読んでいたという話は手前味噌ながら結構面白いのではないかと思います。

月刊日本十二月号に拙稿が掲載されました

『月刊日本』十二月号に拙稿「ふるさとを復活させよう観光立国とインバウンド依存経済の限界」が掲載されました。ご覧いただければ幸いです。

今回は観光地化と、爆買いなどの訪日消費需要に依存する現代日本の状況に警鐘を鳴らしたつもりです。


余談ながら、「観光」とはれっきとした儒教用語です。易経の「観国之光利用賓于王」(国の光を観る。もって王に賓たるによろし)から来ており、「他の地域を見分し、広く人材を探し、国を輝かせる人材に出合いもてなす」という意味があるようです(易経は解釈が難しく、諸説ある)。いずれにしても観光の目的は素晴らしい人物に出会うもしくは他国を学び自分が素晴らしい人物になることが目的にあります。
いまのレジャー志向とはまったく別物なのです。

その地域の人と触れ合い、その地域の素晴らしいところを学ぶ「観光」が一般的となることを願います。

『国体文化』十一月号に拙稿が掲載されました

『国体文化』十一月号に拙稿「資本主義の超克とその先の国家論(八)」が掲載されました。
ご覧いただければ幸いです。

冷戦が忘れさせた社会論

保田與重郎は『戴冠詩人の御一人者』で、「明治はまづ實用主義風に市民社會體制を學ばねばならなかつた。歴史から學び得ぬまでに後れてゐた。兆民もまた諭吉もやはり武士の氣魄である。その李辰日本をアジアに於ける唯一の獨立國とした。近代世界を建設した市民の人文李辰蝋戶の傳統にはなかつた。日露役を越した日本市民文化の昂揚さへ比較すれば淡い姿である。近代市民の人文李辰梁紊蠅貌本に於いては「さびしい浪人の心」が封建への反逆を描いた。中世の世捨人たる俳諧師ではなく時代の監視者たる浪士、明治の三十年代の市民文化さへその失意の丈夫の心の導いたものである。さらに近代の社會主義革新主義さへ浪士の心に導かれたのである。」(『保田與重郎全集』第五巻213頁)と述べている。社会主義革新主義をも「さびしき浪人の心」に位置づけていることは興味深い。
少なくとも明治時代までの社会主義は、在野精神と拝金主義への嫌悪と、格差に憤る義侠心がもたらしたものであって、マルクスは読んではいたがあくまで参考意見として参照していたに過ぎなかった。
そもそも皇室は民を「大御宝」と呼び仁政を施こうと努められてきた。明治以降も皇室は社会福祉政策の源流としての立場も持っていた。
そもそも市場において「神の見えざる手」が働き、自動的に利害関係が調節されるなどということは幻想である。「神」の存在を強く信じたい西欧人の願望の表れではないかという疑いを禁じ得ない。市場が拡大することで伝統的共同体が壊滅の危機に瀕し、一人ひとりが「砂粒の個」として孤立するようになった。共同体を維持するということはムラ社会に人々を閉じ込めるということではない。すべてを、人間の存在価値でさえも、金銭的価値に置き換えようとする力を持つ市場圧力の中で、人々の生活を維持していく防波堤となるものこそ共同体である。
いわゆる右翼、保守と呼ばれるものこそ、「市場圧力からの防波堤」の維持に努めるべきだ。市場は、本質的にグローバルだからである。ところが、冷戦による反共精神がそれを忘れさせ、資本主義への警戒心を甘くさせた。その弊害が、昨今の新自由主義の跳梁跋扈である。冷戦期には反共の名のもとに政権と手を握ることが習い性となってしまい、政権より右の立場から政権を厳しく批判する勢力の醸成を怠った。それはアメリカの占領政策と融和的である自由民主党の方針とも合うものであった。自民党を支持する限り永遠に戦後属国体制のままであるということさえも見えなくなっている。
既に北海道を中心に広大な土地が中華系を中心とした外国勢力によって買い占められている。その多くは税金対策等の理由であろう。しかし、こうしたインバウンド需要を幸いとして外国資本に便宜を図ろうとする勢力がいる。いうまでもなく自民党政権と官僚である。
このような政権のやり方を正当に批判する勢力が生まれなければならない。

『国体文化』十月号に拙稿が掲載されました

『国体文化』十月号に拙稿「資本主義の超克とその先の国家論(七)」が掲載されました。
ご覧いただければ幸いです。

今回から第二章が始まります。

『季刊日本主義』第三十九号(平成二十九年秋号)に拙稿が掲載されました

『季刊日本主義』第三十九号(平成二十九年秋号)に拙稿が掲載されました。

今回は「明治国粋主義とは何だったか」と題しました。明治国粋主義の直面した苦悩と主張を改めて参照し、現代日本を考えるきっかけとなれば幸いです。

ちなみに第一回目の「地理と日本精神」では、松本健一『海岸線の歴史』が伏流となっておりますが、今号は長谷川三千子『からごころ』と『正義の喪失』が伏流となっております。

月刊日本十月号に拙稿が掲載されました

『月刊日本』十月号に拙稿「ふるさとを復活させよう|亙って言うなー地方創生の欺瞞」が掲載されました。ご覧いただければ幸いです。

本号から『月刊日本』での連載が開始します。今のところ隔号掲載の予定です。

『国体文化』九月号に拙稿が掲載されました

『国体文化』九月号に拙稿「資本主義の超克とその先の国家論(六)」が掲載されました。
ご覧いただければ幸いです。

今月号で第一章が終了いたしますので今までの議論の中間総括的内容となっております。
ご覧いただけましたら幸いです。

議員バッジがついているかのようにふるまう人たち

 雑誌に掲載していただいたことの告知を除けば随分久しぶりの更新となってしまいました。

 わたしは安倍批判、自民党批判を書くことも多いですが、やはりそういう言論は保守的とみられる人たちから評判が良くないものです。それでも必要だと思うから書いているのですが、なかなか受け入れてもらえません。

 「安倍が駄目なら誰が総理ならいいんだ」というのがこういう人たちの言い分です。その言い分はとてもよくわかります。しかしわれわれは議員バッジを付けた国会議員ではないのです。おかしいものはおかしいと批判するのが筋ではないでしょうか。

 自民党の応援団でしかないのではなく、堂々と所信を問う一草莽であるべきです。


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西尾幹二氏が以下のように書いているのでご紹介します。

民族の生存懸けた政治議論を 保守の立場から保守政権を批判する勇気と見識が必要だ

平成28年8月18日産經新聞「正論欄」より 評論家・西尾幹二氏

 今でも保守系の集会などでは当然ながら、安倍晋三政権を評価する人が少なくなく、私が疑問や批判を口にするとキッとなってにらまれる。「お前は左翼なのか」という顔をされる。今でも自民党は社会体制を支える最大級の保守勢力で、自民党の右側になぜか自民党を批判する政治勢力が結集しない。欧州各国では保守の右側に必ず保守批判の力が働き、米国でもトランプ一派は共和党の主流派ではなかった。先進国では日本だけが例外である。

≪≪≪仲良しクラブでは窒息死する≫≫≫

 日本政治では今でも左と右の相克だけが対立のすべてであるかのように思われている。民主党も民進党と名を変え、リベラル化したつもりらしいが、共産党に接近し、「何でも反対」の旧日本社会党にどんどん似てきている。ここでも左か右かの対立思考しか働いていない。自民党も民進党もこの硬直によって自らを衰退させていることに気がついていない。
 それでも国内の混乱が激化しないのは、日本は「和」の国だからだという説明がある。まだ経済に余裕があるからだとも。米国のある学者は、世界では一般に多党制が多く、二大政党制を敷く国は英国をモデルにしたアングロサクソン系の国々で、ほかに一党優位制を敷く国として、日本やインドを例に挙げている。自民党を喜ばせるような研究内容である。

 しかし選挙の度に浮動票が帰趨(きすう)を決めている今の日本では、一党優位制が国民に強く支持されているとは必ずしも言えない。仕方ないから自民党に投票する人が大半ではないか。党内にフレッシュな思想論争も起こらない今の自民党は日本国民を窒息させている。

 「受け皿」があればそちらへいっぺんに票が流れるのは、欧米のように保守の右からの保守批判がないからだ。左右のイデオロギー対立ではない議論、保守の立場から保守政権を正々堂々と批判する、民族の生存を懸けた議論が行われていないからである。

 保守政党が単なる仲良しクラブのままでは国民は窒息死する。一党優位制がプラスになる時代もあったが、今は違う。言論知識人の責任もこの点が問われる。

≪≪≪保身や臆病風に吹かれた首相≫≫≫
 
 私は安倍首相の5月3日の憲法改正案における第9条第2項の維持と第3項の追加とは、矛盾していると、6月1日付の本欄で述べた。そのまま改正されれば、両者の不整合は末永く不毛な国内論争を引き起こすだろう、と。
 
 今は極東の軍事情勢が逼迫(ひっぱく)し、改正が追い風を受けている好機でもある。なぜ戦力不保持の第2項の削除に即刻手をつけないのか。空襲の訓練までさせられている日本国民は、一刻も早い有効で本格的な国土防衛を期待している。

 これに対し、首相提案を支持する人々は、万が一改憲案が国民投票で否決されたら永久に改憲の機会が失われることを恐れ、国民各層に受け入れられやすい案を作る必要があり、首相提言はその点、見事であると褒めそやす。
 
 さて、ここは考え所である。右記のような賛成論は国民心理の読み方が浅い。憲法改正をやるやると言っては出したり引っ込めたりしてきた首相に国民はすでに手抜きと保身、臆病風、闘争心の欠如を見ている。外国人も見ている。それなのに憲法改正は結局、やれそうもないという最近の党内の新たな空気の変化と首相の及び腰は、国民に対する裏切りともいうべき一大問題になり始めている。

≪≪≪保守の立場から堂々と批判を≫≫≫

 北朝鮮の核の脅威と中国の軍事的圧力がまさに歴然と立ち現れるさなかで敵に背中を向けた逃亡姿勢でもある。憲法改正をやるやるとかねて言い、旗を掲げていた安倍氏がこの突然の逃げ腰−5月3日の新提言そのものが臭いものに蓋をした逃げ腰の表れなのだが−のあげく、万が一手を引いたら、もうこのあとでどの内閣も手を出せないだろう。

 国民投票で敗れ、改正が永久に葬られるあの幕引き効果と同じ結果になる。やると言って何もやらなかった拉致問題と同じである。いつも支持率ばかり気にし最適の選択肢を逃げる首相の甘さは、憲法問題に至って国民に顔向けできるか否かの正念場を迎えている。

 そもそも自民党は戦争直後に旧敵国宣撫(せんぶ)工作の一環として生まれた米占領軍公認の政党で、首相のためらいにも米国の影がちらつく。憲法9条は日米安保条約と一体化して有効であり、米国にとっても死守すべき一線だった。それが日米両国で疑問視されだしたのは最近のことだ。今まで自民党は委託された権力だった。自分の思想など持つ必要はないとされ、仲良しクラブでまとまり、左からの攻撃は受けても、右からの生存闘争はしないで済むように米国が守ってくれた。

 しかし、今こそ日本の自由と独立のために自民党は嵐とならなければいけない。保守の立場から保守政権を堂々と批判する勇気と見識が今ほど必要なときはない。(評論家・西尾幹二 にしおかんじ)

https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2218

『国体文化』八月号に拙稿が掲載されました

『国体文化』八月号に拙稿「資本主義の超克とその先の国家論(五)」が掲載されました。
ご覧いただければ幸いです。

本号では北一輝と三島由紀夫の国体観を比較しております。

次号で第一章が終了します。
自分で言うのも何ですが、わたしはこの連載で同じことを手を変え品を変え繰り返し繰り返し語っているにすぎません。しかし、その叙述は螺旋階段を下るように、同じようなことを語っているように見えて少しずつ現代の問題、今のわたしたちが抱える問題に降りていくことを目指しました。
管理人について

陸羯南翁


中田耕斎

昭和六十年生まれ。明治期の国民主義者、陸羯南(くがかつなん・写真)の思想に共鳴する。戦前日本の国粋主義に興味を持つ。
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