歴史と日本人―明日へのとびら―

日本という国は、悠久の歴史を持つ国である。 この国に生まれた喜びと誇りを胸に、本当の歴史、及び日本のあり方について考察してみたい。 そうすることで、「明日へのとびら」が開かれることだろう。

サマータイムでは電力需要は減らない

 大規模停電になるとの危機感から、関東では電力需要抑制策が練られているが、悲観的な気持ちにしかならない。出てくる策が「サマータイム」じゃ意味がない。サマータイムで電力需要は減らない。

 理由はいくつかある。
 一つ目はどうせ一時間早くしたところで通常と同じ時間まで働かされる、というもの。石原慎太郎はじめ資本主義者はサマータイム導入に熱心だ。お客様のためなどと小理屈を押しつけて働かされる。職場の雰囲気によって温度差はあるが、日本の職場で仕事がなかろうとも早く帰ることは困難である。相互監視監獄社会で早く帰ったら即減点となるのが職場というものである。早く帰れと口先では上司は言うが、それはアリバイ作りにすぎない。それを信じたらバカを見るのは自分である。
 一つ目の理由は感情的なものでしかないではないか、という批判も成り立つ。が、二つ目の理由はそういった感情的なものではない。それは「ピーク時の削減にならない」である。仮にサマータイムを行い一時間早く帰れたところで、ピーク時はしっかり仕事場にいるので削減になっていないのである。大規模停電を避けるために必要なのは「総電力量を減らすこと」ではなく、「ピーク時に使う電力を減らすこと」である。したがってピーク時に仕事をしている時点でダメなのである。

 効果的な策としては「大規模なフレックス制」か「輪番休日」だろう。「大規模なフレックス制」はみんなでずらすサマータイムと違い、各人で一日のうち決められた時間を働けばいつ来ていつ帰っても良いというものだ。極端な話夜九時に出社して翌朝朝六時に帰っても良いということだ。「輪番休日」はその名の通り交代で休ませるもの。土日をずらすだけでなく休みを増やすほうが望ましいが、経済への影響を考慮するなら休みの日をずらすだけでもよい。

 夏になればどうせ高齢者が熱中症で亡くなり、原発停止を主張したマスコミは責任をとることなく総理の責任を追及し、総理は「前政権のことなのでコメントは差し控えたい」と言い逃れるだろう。前政権云々は悪い冗談としても、いずれにしてもバカ騒ぎが夏まで続くかと思うだけでうんざりするばかりだ。

中田耕斎が選ぶ良書4

 お知らせするのをサボっていたが、『西尾幹二のブログ論壇』に私の原稿が引用された。「インターネット日録」にも転載された、竹田恒泰氏の論文を批判した記事だ。拙稿はどうでもよいのだが、『西尾幹二のブログ論壇』には「倶楽部ジパング・日本」の渡辺望さんが書き下ろしで解説をしている。そこに拙稿に触れた部分がある。私は内心自分の書いた文章が、「竹田氏につくか、西尾氏につくか」といった文脈でばかり語られるのには辟易していた。むしろ「皇室の西洋王室化」とか「皇室と近代原理」といった重要な命題に踏み込んで思索したかったのだ。渡辺さんが私の「西洋王室化」という言葉に反応して拙稿に触れておられることに勇気づけられたのであった。

 さて良書を紹介していこうと思う。最近読書量が落ちた。よってご紹介できる本も少ない。日々の忙しさなどいいわけでしかないが…。

増田不三雄『社内失業』
薬師院仁志『社会主義の誤解を解く』
関岡英之『帝国陸軍 見果てぬ防共回廊』
村上護 編『山頭火句集』
袰岩 奈々『○のない大人 ×だらけの子供』
中野剛『TPP亡国論』
「NHKスペシャル」取材班『アフリカ』
原田宗典『あはははは(笑)』
杉山茂樹『4−2−3−1』

 この中で最優秀は『アフリカ』。この本は「NHKスペシャル」でドキュメンタリーとして公開したものを活字化した本だが、とにかく内容が濃い。薄ぺっらな新書が増える中で読みごたえがある本だ。経済がグローバル化し、ヒトモノカネに国境の制約がなくなってきた。アフリカは今世界で最もそれが進んでいる場所である。グローバル化による良いところも悪いところもアフリカを見ればわかる。アフリカは現代社会の縮図だ。もちろんヨーロッパでもアメリカでもなく、アフリカが実験台となっていることも含めて。

 上にあげた本の中で毛色が違うのは『あはははは(笑)』。これはただ笑ってリラックスするためだけの本だ。人を笑わせることにもまた著者の力量が出るのである。
 『4−2−3−1』はサッカーの戦術の流れを詳しく解説した本で、うんちくに近いが意外にも面白かった。戦術は時に個人の力を凌駕する。

楡周平『衆愚の時代』書評

 誠に久しぶりの更新である。特にブログを再開する予定もないが、これは書きたいという心が起こったので書き留めておこうと思う。

 楡周平が新潮新書で『衆愚の時代』という本を書いている(リンクはアマゾン)。

 この本は世の中に偽善的言説があふれ、耳触りのいい言葉ばかりをメディアも人も述べ立てるようになった、というものだ。そのうたい文句とともに語られるのは主に格差反対論に対する異論である。

 内容をあえて語るまでもなくアマゾンのレビューを一部引用すると、
一部は、テレビコメンテーターへの茶の間的ツッコミ。
一部は、現実を逃避する若者をでっちあげてのお説教。
一部は、現場を知らない学者が何を言ってるんだという文句。
一部は、元サラリーマンによるサラリーマン自慢。
一部は、株が博打だという至極当たり前の話。
一部は、年配者の気持ちをまったく無視した夢見話。
一部は、官僚も民主党もなっちゃいないという御託・・・。

この本で著者は、偽善的な社会に対して毒を吐いているようなのですが、
その毒に切れ味がありません。新味もありません。
ネットで不満を語り合う若者に対して
「いったい、今の世の中がどれほど悪いというのでしょう。」と語る一方で、
民主党や官僚を批判して今の日本は不幸だと嘆いてもいます。
矛盾点はもとより、思慮を欠いた主張と軽薄な物言いが目に余ります。
この程度の話なら、飲み屋でするだけにしていただきたかった。
「衆愚の時代」という大袈裟なタイトルに、
羊頭狗肉で儲けようとする出版社のあざとさを感じます。

タイトルに引かれて購入。
確かにテレビに出てくるコメンテーターなどの論調に違和感を感じることはよくあるし、同意できる内容もある。

が、他の多くの方のレビュー同様、
・数字的な根拠や資料が皆無に近い
・後半はほとんど酔っぱらいの若者に対する愚痴
・論理展開が稚拙

年に何回が引いてしまう「買わなきゃよかった本」を引いてしまったという感じです。

全編を通して「一般にメディアで言われてる」論調を否定していますが、
著者の意見自体がどこかで見たことあるような論調で、
独自性が感じられませんでした。
それこそネットなどにおける「大衆」と論じてることはあまり変わらず、
ある意味、著者自身が大衆迎合していると言えます。

一見すると鋭いことを言っているようですが、
矛盾やツッコミどころもけっこうあります。
論調が極端なだけに荒削りなのはしょうがないのですが…
私には合いませんでした。

 この辺りが正当な書評といったところで、まさに読む価値のないクズ本の資格を持った本といえる。
 例えば、著者はこう書いている。
今の若者は一億総中流と言われた時代のまっただ中で育ってきました。多くの家庭がマイホームを持ち、自家用車があり、家電製品も一揃いは備わっている。高校にしても全入時代。大学進学もえり好みしなければどこかの大学に入学できる。加えてかつて五段階で評価された通知表はなんだか訳わからないものになり、あげくは運動会の徒競争においては順位をつけるのが悪いといって、ゴール前で手を繋いでテープを切れと命ずる学校まで出てくる始末です。

 この短い文章だけで何個突っ込みどころがあるのだろう。「一億総中流と言われた時代のまっただ中」の時期と「高校・大学全入時代」と「通知表が変わった時期」はそれぞれずいぶん時期に差があるはずだが、「若者」とはいったい何者なのだろうか。そして「徒競争で一斉ゴール」は(著者が文句を言っていたはずの)マスコミが流布した都市伝説の類である。

 別の箇所でも、弱者の視点ばかり報じる「下から目線」ばかりもてはやされるが、「上から目線」は悪いことなのか、と書いておきながら政治家や官僚を批判する個所では「庶民感覚」という名の立派な「下から目線」で切り捨てて見せる錯乱ぶりである。第一官僚批判などマスコミが最も好むところではないか。

 一事が万事この調子で、読むごとに本当に投げ捨てたくなるような怒りにかられ、その後著者に憐れみすら感じざるを得なくなる。

 と、ここまでで終わっていたら私は書評を書かなかっただろう。
 むしろ興味深く感じたのは弱者の過保護を衆愚とみなし格差肯定の言説を書いていた著者の論旨はいつの間にか若者バッシングになり、サラリーマン肯定になり、株やFXなどの近年勃興したものの否定になり、中高年の首切りを憂い、老後の豊かな生活への社会システムを語るほうに流れていくことである。つまりこれは著者が団塊世代の忠実な代弁者たらんとしていることがうかがわれるのだ。ネットで書かれている書評を見ても「(衆愚を批判しておきながら)著者自身が(馬鹿なので)衆愚になっている」という論調が目立つ。だが、そうだろうか。著者は本当に「衆愚」を批判しているのだろうか。衆愚がいけないと思っているのだろうか。ネットでちょっと検索しただけでもわかるような事項を本人も確認せず、出版社も確認をしなかったとすれば、これはもはや確信犯と考えたほうがよいのではないだろうか。

 著者は簡単な自分が書いているものの確認すら取らない。「本当のこと」など大衆は知りたくもないからである。

 著者は衆愚の解決策など何一つ語らない。そんなものは大衆は望んでいないからである。

 著者は論旨の一貫性など全く気にしない。大衆はそんなものどうでもいいからである。

 格差賛成でも官僚や政治家はたたかねばならない。大衆はそれらにはなれないからだ。

 格差に反対してはならない。世代間格差で得をしている団塊の利権に踏み込むからである。

 役立たずなのに年功序列により高給をもらっている団塊世代を擁護してほしいという期待に見事にこたえたのである。

 「飲み屋での愚痴レベル」と書いた書評があったが、大衆が望むのはまさに飲み屋や昼休みに愚痴りながら世相を憂いて見せる見本、テキストなのである。うっとうしい世の中を切り捨てて「すっとさせてみせる」ことなのである。それ以外のすべては大衆そして著者にとっては余計なことなのだ。そのためには単行本を買う資金的余裕を持ち世相を嘆いて見せたがる団塊世代を読者層に想定しなければならない。愚かでうだつが上がらず若者にもなめられて憤懣やるかたないが、生まれた時代がよくカネはあるものの老後に不安を覚える団塊世代に媚びつくした内容となっているのである。著者は小説家だが、読者を想定しながら書くことなど小説家の得意技ではないか。

 勘違いしてはならない。著者は衆愚を憂いているのではない。著者は衆愚を謳歌しているのである。自らが道化となって、衆愚の時代を満喫するすべを提示して見せたのだ。この本の題は『格差賛成!』でも『マスコミの偽善』でもふさわしくない。『衆愚の時代』とはまさに絶妙の題なのだ。これ以外の題では著者の真の意図は見えてこない。「衆愚の時代」でなければこのような本は到底世に出なかったであろうからだ。

 この本を読んで何かを得たいと思うのならば私は全くおススメしない。得るものなど何もない。時間の無駄であり、ただ腹が立つだけだ。しかし、行間を読み著者の真意を探ることが好きな偏屈者ならば、少しは楽しめるかもしれない。

中田耕斎が選ぶ良書 3

 良書を発見する喜びは考古学のようである。紙束の中から自らにとって得るものが大きいものを探すことは喜びである。本は読むだけでなく買うことから楽しいのである。本を買う喜びとは本と出合う喜びである。本との出会いも一期一会である。私は人に勧められたもの、本の中で著者が薦めていたものを除いては店頭で買うようにしている。本と自分との出会いだからである。

 見沢知廉『天皇ごっこ』
 畑政憲『ムツゴロウの放浪記』
 本多勝一『日本語の作文技術』*南京で認識が違うからといって本多勝一を読まないのは損である。
 石渡嶺司・大沢仁『就活のバカヤロー』
 重松清『疾走』
 岡倉覚三『日本の目覚め』
 石原莞爾『最終戦争論』
 イェーリング『権利のための闘争』*批判的に参考にすべき本。
 佐伯啓思『欲望と資本主義』
 八木秀次『明治憲法の思想』
 浅羽道明『アナーキズム』
 長谷川三千子『民主主義とは何なのか』
 関岡英之『拒否できない日本』
 関曠野『民族とは何か』
 金完燮『親日派のための弁明』
 *『親日派の〜』は2も出ているが、こちらは如何にも産経新聞ホシュな内容で面白くない。いわゆる「ホシュ」にくくられない面白さを感じるのはこれと『娼婦論』。
 中央公論『日本の名著17 陸羯南・三宅雪嶺』*特に陸羯南『国際論』は必読。
 長山靖生『人はなぜ歴史を偽造するのか』
 岩田温『日本人の歴史哲学』
 木村三浩『右翼は終わってねぇぞ!!』
 中野孝次『清貧の思想』
 猪瀬直樹『ミカドの肖像』
 村上春樹『スプートニクの恋人』
 小飼弾『働かざる者飢えるべからず。』
 植木不等式『悲しきネクタイ』

 これからも私のとっての良書は増えていくだろう。
 ひとまずここまでである。

中田耕斎が選ぶ良書 2

(前回からの続き)

 良書はだいたい五十冊から百冊に一冊くらいだろう。それを得るためには膨大な駄本と付き合わなければならない。だが駄本が無価値かというとそうではない。「いい本しか読みたくない」というぜいたくな態度では必ずいい本には出合えない。本との出会いは人との出会いと同じで、開いてみて初めてわかるのだ。そこで失敗したところで、それは次の成功につながるのだから、厳密には失敗といえない。だから私は購入したすべての本をとっておいている。谷沢永一は『人間通』で言っている。吝嗇くさい厳選趣味ではなく、思いきって身銭を切り、自分の関心のある分野の本を手当たりしだいに買いなさい。自動車を運転するために教習所に何十万も払うではないか、自動車に乗りたい人でそれを惜しいと思う人がいるか。本も同じである、二十万円本を買ったって不服はないはずだ。或る人が友としてふさわしいか、まずは一杯やってみるのと同じだ。まず、買え。是が入門に不可欠の手続きだ、と(要旨)。あるいは『新書がベスト』で小飼弾はまず本棚を買え、と言っている。精読よりも多読である。

 余談だが小飼弾の『新書がベスト』はこの本棚を買え、という話以外はあまり参考になるものはなく、良書とはいえない。著者によれば生き残るために本を読まなければならないそうだが、むしろ森銑三(『書物』)のように読みたいから読むのだ、と言い切ってしまう方が明快である。

中島義道『人間嫌いのルール』
佐伯啓志『自由と民主主義をもうやめる』
山本夏彦『何用あって月世界へ』
井上ひさし『吉里吉里人』
藤原正彦『国家の品格』
猪野健治『右翼・行動の論理』
中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの』
福井雄三『板垣征四郎と石原莞爾』
佐野眞一『誰が本を殺すのか』
野村秋介『さらば群青』
小林よしのり『戦争論』
大崎善生『将棋の子』
谷沢永一『紙つぶて』『人間通』
水月昭道『高学歴ワーキングプア』
稲泉連『仕事漂流』
森銑三・柴田宵曲『書物』

(続く)

中田耕斎が選ぶ良書

 良書というものは求めても得難いものだ。そして人それぞれ好みが違うから始末が悪い。しかしそれでも人に大きな影響を与える本というものは確かに存在し、それを多く見つけることもまた読書の喜びでもある。これから私がよいと思った本を挙げていく。順番に意味はない。手元に近い本棚から見て言ったらそうなっただけのことだ。とりあえず題と著者名のみ書き連ねていくが気が向いたら書評するかもしれない。ちなみに「よい本」というのは「著者の主張が伝わってきて、それが大いに参考になるもの」である。それが私の思想と同じとは限らない。というより私の思想ではない。そもそも思想とは他人と共有することが不可能なものだからだ。あるいは俗っぽい本だと、読んでいて素直に恐れ入ったものもこの良書群に入れている。

島崎藤村『夜明け前』
夏目漱石『こゝろ』
乾くるみ『イニシエーション・ラブ』
中島敦『李稜・山月記』(ここに収録されている「弟子」はよい)
権藤成卿『自治民範』
司馬遼太郎『峠』『国盗り物語』
佐藤一斎『言志四録』
田中香浦編『田中智学語録 天下は愚に滅ぶ』
『論語』
吉田兼好『徒然草』
小路田泰直『日本史の思想』
薬師院仁志『日本とフランス二つの民主主義』
高山正之『スーチー女史は善人か』*同著者の「変見自在」の本はどれもよい。
下村湖人『論語物語』
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』
赤木智弘『若者を見殺しにする国』
小熊英二『単一民族神話の起源』『民主と愛国』
林房雄『天皇の起源』
西尾幹二『江戸のダイナミズム』
渡辺清『私の天皇観』*反皇室論者にとっての「天皇」という存在が分かる
井沢元彦『言霊』
横山源之助『日本の下層社会』
荒俣宏『ブックライフ自由自在』
山田真哉『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い』
山田ズーニー『伝わる!揺さぶる!文章を書く』
鈴木邦男『右翼は言論の敵か』
須原一秀『自死という生きかた』
桶谷秀昭『日本人の遺訓』
筒井康隆『アホの壁』
(続く)

選挙と資本主義

 笑っていた。

 相変わらず、といってよいかもしれない。

 相変わらずやつらは笑っていた。

 候補者は笑顔を振りまき、希望を語り、日本を変革すると言い、明るく、さわやかで前向きであった。

 彼らを選ぶ当の国民は経済の後退に苦しみ、年収が減り、将来への展望を失っているのにもかかわらず。

 選ぶ側と選ばれる側。この両者は好対照をなしている。

 権力はカネで買えるというのは資本主義世界の一つの理屈である。基本的にはカネを積めば大概の権力は買える仕組みとなっている。たとえ勉強家でなくとも、先を見通す目がなくとも、カネと選ぶ側の前で道化と化して見せる根性さえあれば権力者となる。勉強しても、先を見通す目を養っても、カネがなければ権力は握れない。

 権力に近づかなくてもよい。もともとあんな場所は魑魅魍魎のすみかだ。

 しかし権力者はどうか人々を巻き添えにせんでほしい。

 所詮奴らの馬鹿騒ぎと給料は、選ぶ側から出るのに、さらなる負担を求めるのはよしてほしい。

 福祉など少なくしてもよい。その代わり権力の横暴とカネの暴力とは無関係な場所にいたい。

 

外国人労働者という人身売買の実情

 外国人労働者が本国でどのように「教育」され、「研修」と称して低賃金で日本で使い捨てられているかの実態を告発した本が『ルポ差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)である。この本は外国人労働者に好意的に過ぎ、また日本での定住、待遇改善を求める点で私とは意見が異なる(私は最初から呼ばない方がお互い幸せという考え)が、ここまでひどいことが行われていたのかと憤りと資本主義の腐臭を見せつけられたかのような思いがする。

 外国人労働者の多くは労働者ではなく「国際交流」だとかなんだかんだと言い訳をつけて「研修生」として働かされるのだが、もちろんそれは最低賃金に引っかからないためである。製造業などの3K職場に勤め、給料は手取り月一万五千円程度である。寮生活のため飯や家の心配はないがその分朝から夜まで働かされる。

 この本は支那の小さな農村にある「職業訓練校」の光景から始まる。そこではこれから日本で働こうとする人々が迷彩服を着て軍隊式の教育を受ける。日本で働くためにどうして軍隊式の教練が必要なのか。軍隊式の訓練により労働者生活に必要な「忍耐」と「根性」を養うためだという。もちろんこれらは日本の経営者の「要望」にかなう人材を送り届けるために為されているのである。「支配―従属」の関係を体で叩き込むことが必要なのだという。

 ときおり経済右派の政治家などが「日本人の若者はハングリー精神を失った」「外国人の方が優秀だ」といい若者バッシングを繰り返した揚句「若者を甘やかすな」とか「移民の積極化」などを叫んだりする。こういうことを言う連中は不勉強極まりないので、まるで支那の労働者がみな「真面目」で柴らしい人材であるかのようにいう。その背後には意図にかなうように軍隊教育を受けさせられている実情があった。そして本国に逃げ帰れないように労働者をだまして多額の借金を背負わせたりする不当な輩もいた。

 これらは一部の意見だという言い方も成り立つかもしれない。しかし奴隷売買のようなことが現に行われていて、それらをダシに甘い汁を吸うものが日支双方にいるということは確かだ。奴隷貿易化した外国人労働者は本人の希望とは無関係に使い捨てられてくる。

 私が危機感を持つのは日本人の労働者もこうした奴隷と化した外国人労働者に引きずられ少しずつ待遇が下がっていくことが予想されるからである。長期的には外国人に対して行われているような劣悪な待遇が日本の下層民に対しても当たり前のように行われる日がやってくるだろう。

義の欠如と資本主義

 政治と経済は連動している。時代の風潮は両者に如実に表れる。現代の風潮は弱者叩きとそれを喝采する俗物の大衆である。小泉純一郎が「小泉チルドレン」を引き連れ選挙を圧勝した時、それは多くの人の前にあからさまに現れた。公認を受けなかった人を「抵抗勢力」と名指しし、落選に追いやった。「劇場型」と言われたが、まさに芝居のように勧善懲悪の物語を提示して見せたのだ。

 それに倣った小沢一郎は「小沢ガールズ」を連れ「政権交代」を成し遂げた。政権交代後の見通しがあったわけではなかった。人々はただ「一回やらせてみよう」と民主党を支持した。

 両者ともなんとなくただ現代の閉塞感をぶっ壊してくれそうな雰囲気だけを売り物にし、その実彼らが実際にやったことはといえばその閉塞感をさらに強めただけであった。

 それにしても両者に共通する権力をかさにきてそれに歯向かうものを叩き潰すやりくちはどうだ。カネや権力をあからさまに露出しそれにより吸引力を持たそうとする。その仕組みは資本主義そのものである。資本主義に道理など始めからない。カネや権力をもつものが「勝ち」を再生産し続けるのが資本主義である。努力して成り上がれるかのような幻想があるだけにそれはなおさら厄介である。

 昨今の富裕者とやらの言い分は誠にひどい。曰く、「俺たちは努力している(お前たちは努力していない)。成功者が敬われるのは当然だ(だからもっと俺を敬え)。富裕者にやる気を出す仕組みにしなければやる気を失い海外に資本が流出してしまう(だから貧乏人が税金をたくさん払え)」。小泉や小沢で繰り返された権力やカネの力にかさを着て弱者をたたきつぶそうとする醜く卑しい根性が惜しげもなく披歴されている。正義も道徳も惻隠の情もなく、ただカネの力を信じているかのように見える。

 ところで私の少ない社会人経験からいうのもおかしいが、概して競争の激しい場所では人はピリピリして険悪な雰囲気が漂い、それだけでなく社外は愚か社内の人間さえ出し抜こうとし、人の落ち度を過度にあげつらい、自分の立場を人を蹴落とすことで守ろうとする傾向にある。上司は自分の立場を脅かす新人の成長の芽をつぶし、嘘をついても売り上げがすべてという発想を持つ。もちろんこういう企業が長持ちするはずもない。過度な競争は却って相互不信を生みうまくいかないのである。

 そもそも人はそれぞれ違うのだから、お互い比べ合うことから解放されるはずもない。あいつの方が女にもてる、あいつのほうが背が高い、頭がいい、人と人が集う限り競争から解放されるはずがない。それに加えて人為的に競争をあおれば、人々の精神や人間関係さえも崩壊してしまう。

 競争で欠けるのは素朴な義の意識である。道徳の崩壊はカネと権力を露骨に見せる資本主義にある。

言志四録 十

 今日は言志録の百七十六番。

 方は類を以てあつまり、物は群を以て分る。人君は国を以て党を為す者なり。苟くも然ること能わずんば、下各自ら相党せん。是れ必然の理なり。故に下に朋党有るは君道の衰えたるなり。乱の兆しなり。
 (訳)進むべき道を同じくする者が集まり、物は群ごとに分かれる。民の上に立つ者は国を以て党とする者である。いやしくもそうすることができなければ、下々の者は自分たちで集まるだろう。これは必然のことである。故に下々に党派ができるということは上に立つ者の道義の衰えである。乱の兆しである。


 もともと儒的世界観では挙国一致が理想である。国として集っているからには一致結束してことに当たるのが望ましく、各人意見がバラバラでは困るという世界観がある。現実にそういう事態があり得るのかと考えると難しいが、一つの理想として魅力的なものである。

 政党政治が機能を失いつつある今国としてひとまとまりになる力を信じることもよい。
管理人について

陸羯南翁


中田耕斎

明治期の国民主義者、陸羯南(くがかつなん・写真)の思想に共鳴する。西洋嫌いの対外硬論者。近代日本思想史専攻の大学院生だった。二十五歳。古今東西の政治思想書・古典を読むことを日課とする。連絡先:kousuke_60422@yahoo.co.jp
*当ブログは管理人・中田耕斎の思索の記録です。そのため各記事はすべてどこかで問題意識が繋がったものとなっています。なるべく過去記事のリンクをつけるようにしますが、過去記事に書いた部分では、ご理解いただいているものとして論証を省いて書くこともありますので、ご容赦ください。また、コメントに関しては原則削除は行いませんが、間違って二重に書き込まれた場合などは編集または一つ削除する場合がございますのであらかじめご了承ください。荒しは事前に通告の上、削除することがあります。



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