清廉会で文民統制についての座談会を以前行った(近日中に公開されるだろう)ので、田母神論文及び文民統制について基本的なところはそちらで言いつくした。今日はそれの余談に関する(しかし重要な)ことを語り、今年最後の記事としたい。

 文民統制とは簡潔にいえば政治の軍事に対する優先だが、それはどの程度の拘束なのだろうか。実はこれも各国の歴史伝統などにより決定されていくのであって、普遍的な原理原則はない。まずそこを共通理解にしなくてはならない。つまり日本は日本なりの文民と軍人の型を見つけなければいけないということだ。

 文民が軍人を統制する方法はいろいろあるが、今回の田母神論文に関連するとすれば「イデオロギーによる統制」であろう。実はそれを行っている(た)のはソ連と北朝鮮である。ソ連の軍隊は八割以上が共産党員だったと言われる。
 私は何も共産圏だから悪だと頭からきめつけるつもりはない。しかしこうした「イデオロギーによる統制」を日本で行うのは無理がある。おそらく田母神論文を抹殺したいと考える論客の多くは日本国憲法擁護論者であろうが、元来日本国憲法は政府解釈でいくらご都合をつけようとも条文そのものを虚心に眺めれば軍隊というのは持っていない、持つことを放棄している文面になっている。それもそのはず、日本国憲法は「占領基本法」であり、つまり米国が日本占領下においての統治方針を決定したのが通称「日本国憲法」である。したがって国防は米軍が日本を占領しているのだから米軍が担うに決まっている、とアメリカは考えただろう。それを「戦争の放棄」などという語句で糊塗しているにすぎない。
 そこでその占領基本法を未だに後生大事に抱いている半国家・日本は建前上は軍隊を持たない奇妙奇天烈な国家となった。建前上軍隊を持たない国家にそもそも「文民統制」など成り立つはずがない。文民が統制するはずの「軍人」がそもそも存在しないからである。にもかかわらず文民統制ができるという神経を疑う。ましてや軍隊を否定している「占領基本法」から逸脱しない範囲で出ている「政府見解」なるものに軍人が拘束される筋合いがあるはずがない。「日本にはそもそも軍隊がない」というのが最高法規の建前であることを忘れてはならない。

 実はここまではまだ今日の論旨の半分である。まだもう一つ重要な問題が隠されている。
 「田母神論文」なるものは註も付いていない懸賞論文であり、論壇で出されている議論の寄せ集めであった。軍内部に通達された文書でもないのになぜこれほどまでに馬鹿騒ぎを繰り広げたのだろうか。異常に過敏な反応だと言わねばならない。
 ここで思い起こされるのはドイツのことである。ドイツはナチスの犯罪に時効を設けていない、個人保証もしている、だからドイツは(日本と違って)反省している、ヴァイツゼッカーの演説を見よ、という言い方がいつまでたってもなされているが、ドイツは反省しているのだろうか。むしろ私には「ナチスの犯罪には時効を設けない」などは何か韓国の親日派に対する断罪を見るような、異様なものを感じてしまう。本当にドイツはナチスを反省しているのだろうか。むしろ「反省しているように見られたい」のではないだろうか。自己の過去を異様に断罪したがる人は、本当に断罪しているというよりも、過去と違っている、と人に誇示したいのである。自分はもう今までの自分ではない、と必死に誇示して見せることで己の消えそうな誇りを必死に守っている(もちろん私は窮極的には己の過去を断罪するのは誇りではないと思っているが)。だからナチスの犯罪には事項があってはならないだとか、「歴史家論争」の中でもナチスの罪を他の歴史事件と同列化するのを拒絶してしまったりするのだ。田母神論文においても日本の戦前を必死になって否定したがっている人が神経質に「いかなる戦前肯定もあってはならない」と「過去と変わった自分」を誇示しているようにも思われる。その意味で彼らにとっては「日本は侵略国家ではない」とは絶対に言ってはならない言葉なのだ。彼らは日本の戦前を否定し、「戦前から変わった」と誇示することを己の共同体的誇りとしている。繰り返すようだが「誇り」のあり方としてはそれはかなりゆがんだものである。しかし戦前を否定してしまったら「日本は平和国家になった」だとか「民主主義だ」とか自己催眠をかけていくしか道はない。それゆえ懸賞論文にまで神経質に反発を示すのではないだろうか。それは外の目におびえてそれに見合うように自己まで変えてしまった哀れな姿である。

 奇しくも田母神論文は「日本は戦前とは違う」という偏執狂もしくは自己否定のイデオロギーにより軍隊を文民統制しようとする人間がこの社会に非常に多いことをあぶりだした。ドイツ式軍隊には私は詳しくないが、もしナチス式の敬礼をドイツ軍に復活させよと言う人がいたら轟々たる批判を浴びるのではないだろうか。それはナチスが重大な犯罪を犯したからではない(なぜなら敬礼作法とナチスの犯罪は無関係だから)。ナチスと同じとみられることに極度におびえ、そのことを自己の集団的誇りにしている人がいるからである。同じように田母神論文は受け入れられるはずもない。まだまだ日本社会には「戦前と変わった」と見られることを異常に妄信し、それを誇りとする人が多いからである。人の目におびえているからこそ神経質に、そして異常に潔癖である。人に良く見られようと、偽善的言葉づかいに終始し、その仮面はついに元の顔と一体化してしまっているのである。「反省している」という偽善者が受けが良いと、彼らは信じている。だから、先を争って偽善者になる。
 自己評価を過度に気に掛けるのは誇りを失ったものの常である。明治維新のときの東北出身者がそうであった。戦後日本もそうである。そういう点においては日本とドイツは同じである。

 敗戦国の悲哀と言えば、それまでだが。