歴史と日本人―明日へのとびら―

日本という国は、悠久の歴史を持つ国である。 この国に生まれた喜びと誇りを胸に、本当の歴史、及び日本のあり方について考察してみたい。 そうすることで、「明日へのとびら」が開かれることだろう。

陸羯南について

陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望― 下(終)

第二部 陸羯南にとっての「国際」

 人はその国、その土地に根付かなければ決して信用を得られない。「親米保守」は冷戦の崩壊とともにその存在意義を失った。今後求められるのは佐藤優が言うところの「親日保守」であり、それは自国の伝統や文化を重んじ、自国の国益を主張するというごく当たり前の態度である。なぜそれが当たり前の態度か。国際社会は力により物事が決定していくからである。武力や経済力、国際社会での発言力が物事を左右するのは、帝国主義時代も今も全く変わるものではない。力こそが国際社会の標語である。

 国際化するとは、決して自国をグローバルスタンダードに合わせるということではない。国際化とは自国の概念を他国に広げることを指す。国際化とは、何か普遍的なルールを共有するということではない。強国のルールを受け入れること、あるいは自国が強国となり、国際社会に自国のやり方を強制していく、そんな力と力のやり取りのことである(佐伯啓思『従属国家論』57〜60頁)。このような正しい意味での「国際」関係を理解していた人物に陸羯南がいる。
 陸羯南は『国際論』で、日本の国家目的を欧米の侵略を止めさせることに置いた。陸の国際認識は『国際論』に言い尽くされている。陸は世界史を力による侵略、非侵略の歴史と見做し、侵略がどのようにして行われるかを詳細に論じた。それによれば、侵略は外交に対し憧れのような感情を持たせることから始まり、次に経済的に依存させ、最後には領土を奪うのだという。ただし近年の侵略は領土まで欲するものは少なくなっているといったことまで触れている。そのうえで日本がどう対抗するかといえば、まずは自国の使命を自覚することだという。日本の使命は「六合を兼ねて八紘を掩う」ことにあり、世界に公道をもたらし弱肉強食の国際関係を止めさせることにある、という。国際法は所詮欧米が決めた、欧米に有利なルールに他ならないが、先の日本の使命から国際法に東洋の立場も盛り込ませることが重要だといっている。
 ここでは国際関係を非常に現実的にとらえる陸の目が感じられる。国際社会を現実的な力関係で捉えるのはそう珍しい意見ではない。だがそうした論客はたいてい日本が生き残るためには、「強いものに付け」という態度に出ることが多いように思われる。しかし陸はそうではなかった。ここに陸の凄味があるように思われる。そしてだからこそ陸は欧米に与せず、アジアの側に立ったのであった。
 国際社会が力関係で動くということを認めるということは、必ずしも強国への従属につながるわけではない。強国への無思慮な追従こそ属国化を招くものだという言い分も充分成り立つからである。侵略は敵国からだけなされるのではない。同盟国が同盟をたてに侵略することなど日常茶飯事である。同盟とは作戦の共有であって、運命共同体ではないからだ。

 長谷川三千子の『正義の喪失』(PHP文庫)の中に「難病としての外国交際―『文明論之概略』考―」という論文がある。長谷川に限らず日本の多くの論客は福沢諭吉を引用し、考察したがる癖があり、私は内心それに辟易している。外国交際について語るのであればぜひ陸を基に論じるべきであったと惜しむ者であるが、それはこの論文の価値をいささかも減ずるものではない。

 長谷川は『文明論之概略』に「この上なく正確で鋭い状況の認識と、信じ難いほどの野放図な無頓着とが同居してゐる」(113頁)という。それは西欧的国家システムに否応なく入り込まざるを得なかったということを、いかに「自主的な加入に転化できるか」であるという(116頁)。外国交際は「商売と戦争の世の中」であり、それは西洋人が我利我利亡者であるからそうなったのではなく、近代国家的なシステムが人々をそのような方向に駆り立てるからである。それは土着的産業を近代産業に根こそぎ変革してしまわねば到底生き残れないような代物であり、しかもそれに適用するような人心の変革を必然的に求めるものであった(126頁)。そしてそのことに対して福沢は「無頓着」にも何の批判もなそうとしないのである。だから福沢は和魂洋才の説などには見向きもしない。そのような生易しい変革では到底生き残れないと考えていたという(131頁)。福沢は世界を文明、半開、野蛮の三層に見立て、上っ面の「西洋化」ではなく人心に至るまでの「文明化」を主張したのである。

 長谷川が福沢諭吉に感じた「この上なく正確で鋭い状況の認識と、信じ難いほどの野放図な無頓着」はむしろ陸羯南においてより深い分裂となって表れている。陸もまた日本が国際社会で生き残るために、西洋的国家システムへの参与を推進せざるを得なかった。しかし陸は福沢のように「人心に至るまで完全に文明化すればいいんだ」と開き直るわけにはいかなかった。陸は日本の国粋を顕彰する信念を持っていたからだ。陸は「国際論」の中である二つのキーワードを使うことでこの矛盾を全く解消させてしまっている。そしてそれは福沢の議論が持つある陥穽をも突く内容となっているのである。その二つのキーワードとは、「国民精神の競争」と「日本の使命」である。

 福沢は国際競争を軍事力と経済力の競争であり、それを支えるのが文明化であると主張していたが、陸は異なる。陸は国際競争とは軍事力や経済力の競争ではなく、国民精神の競争であると位置づけることでまず日本の独自性を維持したのである。そもそも陸が指摘しているように、国際競争がもし軍事力や経済力、文明化の競争であるならば、日本が一国を保つ意義が失われてしまうのである。福沢はそのことを「痩せ我慢」、「偏波心」としか位置づけられていない。そうではない。国際競争とは国民精神の競争なのであり、だからこそ日本人は「自国を守り抜くという国民精神」を強くもって国際競争に臨まなければならないのである。そうでない国は、欧米に飲み込まれて滅ぼされてしまう。
 福沢は世界を文明、半開、野蛮の三層に見立てているが、陸も世界を三層に見立てている。トリビュ、エター、ナシイヨンの三層であり、それを分ける境界は、(文明化ではなく)国民精神の強さなのだという。陸は西洋を国民精神の強い国であるとみなすことで日本の国民精神の発揚を称えた。ここに陸の屈折がある。

 陸は、人に使命があるように、国にも使命がある。自らの国に使命があることを知れば、皆で知恵を出し合い、生き残ることができると主張した。先ほども述べたように、日本の使命は「六合を兼ねて八紘を掩う」ことにあり、世界に公道をもたらし弱肉強食の国際関係を止めさせることにある、という。国際法は所詮欧米が決めた、欧米に有利なルールに他ならないが、先の日本の使命から国際法に東洋の立場も盛り込ませることが重要だと述べている。つまり日本の近代化=文明化は決して西洋に倣うために行うのではなく、西洋の弱肉強食策を改めさせるために行う日本の使命なのだ、と位置付けたのである。これは維新の際に言われた「大攘夷」の発想と言ってよかろう。
 この「大攘夷」は「自らが行っている文明化は決して西洋化ではなく、攘夷なのだ」と無頓着に目をつぶらなければ到底成し得るものではない。表面上はやはり西洋化に他ならないからだ。しかし「西洋化しなければ生き残れない」という絶望の中から生まれた精神とも言えよう。日本のルールを世界に認めさせるには、まず日本が西洋のルールに倣わなければならない。しかしそれは西洋のルールを改めさせることが日本の使命なのだ。そう見なすことで陸は日本が国際社会にこぎ出でることを正当化している。それは日本の先例を墨守しようという態度ではない。「和魂洋才」とも異なる。「西洋化しているにもかかわらず、西洋化を頑として認めない態度」に近い。

結論

 陸羯南は「西洋化しているにもかかわらず、西洋化を頑として認めない態度」によって国粋主義を主張した。それは西洋化しなければ生き残れなかった当時の日本の世相と、「日本固有の元気」を保持、顕彰していこうという国粋主義の理想がぶつかった挙句生まれてきた概念である。結果として陸は西洋に対抗すべき「日本」を見出すというよりは「祖国の興隆に役に立つならどんな思想だって唱える」と言う態度に出たのであった。それは西洋に対抗すべき「日本」が見出せなかった、あるいは否応なしに西洋化するしかなかったからである。陸をはじめとする国粋主義者の屈折は、明治日本の屈折でもある。

(了)

陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望― 上

第一部 陸羯南にとっての「自由」

 明治維新により、過去の政治体制が崩壊した時、政治思想もまた混迷の中に投げ込まれた。如何なる政治倫理を以て政治および経済を位置付けるか、明治期にはそれが問われていたのである。特に、「日本」を見直そうという国粋主義者にとって、その問いが重かったことは容易に想像できる。政治体制は既に変革され、政治倫理も今までと同じではいられない。だがそれは西洋から流入してくる近代政治思想を無条件に受け入れればよいというものではなかった。近代西洋思想が耶蘇教と切り離して考えることはできないものであるからこそ、やはり日本流の「答え」を必要としたのである。
 明治維新とは日本の資本主義化だったといってもよい。それを支える「自由」という思想をいかなる理由で裏付けていくか。その役割を担った一人に、陸羯南がいる。
 陸羯南は明治二十年代の国粋主義の流れの中心人物の一人である。明治二十年代の国粋主義とは、文明開化の風潮に反発し、日本は日本の美質を育成、発展させていけばよい、というものであった。こうした風潮の中で、富士山(志賀重昂)や忠臣蔵(福本日南)、仏教美術(岡倉天心)、日本画(岡倉天心・狩野芳崖)、短歌や俳句(正岡子規)などが見直されることになった。だが、陸がいつの間にか受け持つことになった政治思想の分野では、対抗すべき「日本」というものが、先ほどの事情によりあてにならないものであった。陸はこの困難な命題を如何に対し如何なる答えを出したのであろうか。
 そもそも西洋文明を受け入れるということは、西洋文化を受け入れるということであった。「和魂洋才」などという器用なまねはできるはずもなかった。いや、蒸気機関車やガス灯といったことならできたかもしれない。だが、陸が対峙したのは「自由」という「洋魂」であった。「和魂をもつて洋魂をとらへようとして、はじめて日本の近代化は軌道に乗りうる」(福田恆存「伝統に対する心構」『保守とは何か』文春学芸ライブラリー版、205頁)のだとすれば、それをしようとした人物は、私には陸羯南をその筆頭に挙げなければならないように思えてならないのである。
 日本は、帝国主義で生き残るために近代思想を経なければならなかった。だが、安易に近代思想を導入してしまえば、日本の伝統が破壊される。しかも、先例などほぼないのである。
三宅雪嶺の『真善美日本人』は、「日本人とは何ぞや。これ何らの問いぞ。問う者すでに日本人たり」という印象的な一文で始まる。「日本人とは何ぞや。日本の人なり。日本の人とは何ぞや。吾れ答ふる所以を知る、吾れ答ふる所以を忘る。日本人、日本の人、黙して想へば其の意義ありありとして幻像のごとく眼前にちらつけども、口を開けば忽焉として影を失ふ」(『日本の名著 陸羯南 三宅雪嶺』287頁)。日本人とは何か、それは自明なようであるが、いざ説明しようとするとうまく表現できない。そんな戸惑いに似た感覚をまず表明するのである。その中で、三宅は日本人とは単に日本国籍を持つ人と言うだけではなく、長い「日本」と言う国家の歴史の一分子たることを以て「日本人」であると規定していくのであるが、そもそもその「日本の歴史」そのものが自意識たりうるのかが問われなければならなかった。なぜなら日本はすでに「文明開化」という大きな思考的屈折を経ていたからである。三宅がそれに気づいていなかったはずがない。だがそれを問うてしまうと、やはり「吾れ答ふる所以を忘る」しかないのである。あるいは、志賀重昂が「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」で、「西洋の開化を悉く是れ根抜して日本国土に移植せんとするも、此植物は能く日本国土の囲外物と化学的反応とに風化して、太だ成長発達し得べき乎」という疑問をぶつけたうえで、「日本の国粋を能ふ丈け成長発育せしむるの太だ経済的なるに若かざるなり」と主張した(『近代日本思想体系31 明治思想集供8~9頁)ように、海外のものをそのまま移植してもうまくいくものではない。それよりも海外の事例を参考にしつつ日本の良いところを伸ばすべきだ、というある意味楽天的な主張なのである。
 そもそも日本は弥生時代に稲作や鉄器・青銅器の活用など大陸から怒涛のような文明を受け入れている。仏教や儒教もそうであるし、後述するように漢字もまたその文明の一環であった。だがそれらを巧みに「日本化」していった。例えば蓑田胸喜などはその「日本化」を高く評価したうえで、他国の文明を受け入れるには、受け入れる側にも主体性がなければならないと考え、「日本」と言う主体を考えることになるのだが、そこには海外の文明も日本に合うような形で受け入れることができるというある種の楽天性が付きまとっている。それは陸も含めたすべての国粋主義者に共通した傾向であり、そうでなければ日本が古代に大陸文明を受け入れたことや、明治期に西洋文明を受け入れた歴史を到底正当化できなかったであろう。
だが私はここでこの志賀や蓑田の「楽天的」な発想は本当に楽天的だったのか、という大きな疑問にぶつかる。大陸文明や西洋文明は、日本が望んで受け入れたわけではない。当時の情勢から受け入れざるを得なかったに過ぎない。それを自覚してもなお、海外の文明を「日本化」したのだと主張することが、本当に「楽天的」な発想から生まれるのであろうか。
 その答えを出す補助線となるのが、長谷川三千子『からごころ』だろう。長谷川はいきなり「何故かうも「日本的なるもの」は気を滅入らせるのであらうか? どうして自分は生まれ故郷である「日本」という国にいつまでたつても馴染めないのであらうか?」という疑問をぶつける(中公叢書版3頁)。そして、「「日本的なるもの」をどこまでも追求してゆかうとすると、もう少しで追いつめる、といふ瞬間、ふつとすべてが消えてしまふ。我々本来の在り方を損ふ不純物をあくまで取り除き、純粋な「日本人であること」を発掘しようと掘り下げてゐて、ふと気が付くと、「日本人であること」は、その取り除いたゴミの山のほうにうもれてゐる」(同8頁)のだと言う。「自分は「日本人であること」といふこの根本の事実にしっかりと目をすゑて生きよう、と決意する。と、まさにその決意そのものによつて、その人は知らぬ間に「日本人であること」から逸脱してしまふのである」(同19頁)。長谷川はこうした日本人の思想的特徴を、漢字を受け入れたことに求める。漢字を受け入れたということは当時の中華文明と言う「異言語による支配」を受ける恐れがあったことに他ならないが、それを徹底的に拒絶して国が保てるはずもなかった。日本人は「訓読」を発明することで、かろうじてこの文化的危機から脱したのだという。しかしそれには、「いやしくも漢字で書かれたものはすべて中国語である」という原則を無視することによって成り立っている。「漢心は単純な外国崇拝ではない。それを特徴づけてゐるのは、自分が知らず知らずの内に、外国崇拝に陥つてゐるといふ事実に、頑として気付かうとしない、その盲目ぶりである」(同53頁)と言う。同様に、明治の「文明開化」の時代にも、欧化政策なのではなく文明を学ぶのだ、と信じ込むことによって危機の脱出に成功したのだと言う。それは「西欧化」ではなく「文明化」だと文化の国境を見ないことで成り立ったのだ。だとすればひたすら「文明化」を主張した福沢諭吉のような人間と、国粋主義者は同じということになってしまうのだろうか。陸羯南のように、生き残るための「文明開化」が一応一段落した時期に日本の国粋主義を主導した人間が、いかなる理屈で「文明」を正当化し、批判したのであろうか。

 福沢諭吉は『文明論之概略』で、文明を「人の精神発達」(岩波文庫版9頁)と捉え、決してそれを地縁によるものであるとは認めなかった。陸の『自由主義如何』もまた、その論理の中にある。両者の違いは、福沢が漢学や国学を馬鹿にするところがあったのに対して、陸はそうではなかったということだろう。というのも、文明を人間の精神の発達と捉える議論は、儒学や国学の中にも明白に見出せるからであろう。
 余談ながら少し『文明論之概略』について語ろう。福沢も漢学や国学を馬鹿にして一掃してやろうと思っていた。にも関わらず、『文明論之概略』の読者層を五十歳以上で視力が衰えた人間を想定し、太平記などと同様の体裁に印刷したという(『文明論之概略』岩波文庫版297頁、富田正文による後記より)。漢学や国学で自己の思想形成をした層に向けて書かれたのが『文明論之概略』だというのだ。これは「儒学や国学なんか学んできた憐れな連中に文明とは何かを教えてやろう」という福沢の尊大な風を感じなくもないが、洋学に凝り固まり、何事も西洋風をまねようとする人間を「開化先生」と揶揄してやまなかった福沢にしてみれば、開化先生のような救いがたい愚か者よりは、漢学や国学を純朴に学んだ世代のほうがまだ救いがあると考えていたのかもしれない。

 陸は「自由主義如何」で以下のように書いている。
 「日本における自由主義は吾輩その起源を探るに難からず。明治維新の大改革は啻に封建制の破壊のみならず、また啻に王権制の回復のみならず、この改革は実に日本人民をして擅圧制の内より脱して自由制の下に移らしめたり。即ち維新の改革は日本における自由主義の発生と言うも不可あらず。しからば自由主義は福沢先生の『西洋事情』より出たるにもあらず。中村先生の『自由之理』より来たれるにもあらず。当時洋学者の機関たる『明六雑誌』によりて現らわれたるにもあらず。征韓論を名として袂を払いたる民選議員の建白書によりて生出したるにもあらず。これらの事実は自由主義の誘導者たりしに相違なしといえども、日本の自由主義は維新の改革に先立ち早く既に日本有識者の脳裏に感染したるや明らかなり。ああ自由主義、汝は日本魂の再振と共に日本帝国に発生せしにあらざるか。日本の有識者は欧米人の来航に当り、早くも既に日本国の独立及び振興を策したり。日本の愛国心即ち日本魂は大八洲の威武名誉を海外に輝かさんと欲し、その籌策を探りてついに最も剴切かつ公平なる良謀を発見し得たり。国家権力の統一と個人智能の発達とは、日本の独立に已むべからざるの大政義なりし。日本魂を有するの識者はみなこれを認めて維新の大改革を成就せしめ、しかして自由主義は日本に発動を始めたり」(岩波文庫版『近時政論考』90〜91頁)。日本の自由主義は、福沢諭吉がもたらしたのでもなく、中村敬宇(正直)でもなく、明六雑誌でもなく、維新志士の行動によるのだという。自分の国の進路を自分で決める、これが自由主義なのだと言うのだ。
 これは吉田松陰に通じるものがある。松陰は佐久間象山の甥に書簡でこう語っている。「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起してフレーへード(自由)を唱へねば腹悶医し難し」(奈良本辰也編『吉田松陰著作選』421頁)。三千年もの間独立を保ってきた日本が外国人に縛られる様子は見るに忍びない。ナポレオンのようにクーデターを起こして自由を唱えなければ腹中の悶々とした思いは癒せそうにない、と言った意味だろう。松陰が自ら起すべき行動をナポレオンになぞらえるなどとても新鮮だが、陸の自由主義論もこの松陰の考えの延長線上にいることは理解できよう。陸には松陰の弟子品川弥次郎との関係があった。谷干城や近衛篤麿との関係は公にされていたが、品川との関係は伏せられていた。品川との関係はむしろ谷などより古く、重要な関係であったことが伺える。陸が品川からこの吉田松陰の書簡について教えられていたかどうかはわからないし、「自由主義如何」を書いたときに松陰が念頭にあったかどうかもわからないが、品川を通じて松陰の考えが陸に入ったことも考えられる。

 一方で陸は明治維新後、自由主義がはびこることで格差が開き、拝金主義的な堕落が起こったことをつぶさに見ていた。したがって陸は簡単に自らを「自由主義者」に任ずることはなかった。陸羯南は『自由主義如何』で、「しかれども吾輩は単に自由主義を奉ずる者にあらず、即ち自由主義は吾輩の単一なる神にあらざるなり。吾輩は或る点につきて自由主義を取るものなり。故に吾輩は自由主義もとよりこれに味方すべし。しかれども吾輩の眼中には干渉主義もあり、また進歩主義もあり、保守主義もあり、また平民主義もあり、貴族主義もあり、各々その適当の点に据え置きて吾輩は社交及び政治の問題を截断すべし」(岩波文庫版『近時政論考』103〜104頁)と言う。これは恐ろしいほどの楽観である。プラグマティズムとも言えるのかもしれないが、要するにそれが日本人にとって有用であるならば、干渉でも自由でも何でもよろしいと言っているのである。だが、この恐ろしいまでの楽観は、猫の手も借りなければ日本は到底独立を維持できないという悲観のなかから生まれたものとも言える。
 「祖国の興隆に役に立つならどんな思想だって共存して唱える」と言う態度は無節操とは異なる。「良い」と評価する人間(=羯南)がおり、その評価軸を「祖国の興隆」においていることを明言しているからである。

(続く)

世界文明のために

 日本文化を重んじるということはむやみに外来のものを排するということではない。もちろん日本が元来有しているものを大切にすべきだが、「日本らしさ」を重んじるということは何もかも外来のものを排するということではない。飛鳥時代、聖徳太子による憲法十七条や三経義疏、法隆寺の仏教文化も外来の単純な模倣ではなく、独自の日本精神による当時の世界文化の選択であった。明治時代の文化も西洋の模倣と見られがちであるが、大日本帝国憲法を初めとして、外来を学びつつも改めて日本的自覚を身につけた時代であった。このことを指摘したのは蓑田胸喜であるが、まさに正しい見方といえよう。
むしろこうした強い自覚による外国からの文化の吸収ではなく、浮ついた外国崇拝と自国に対する軽蔑感情を基にした外国文化の模倣が行われたのは大正時代であり戦後であった。此の二つの時代に共通することは資本主義と共産主義と言う、国境を無視する二つのグローバル思想のどちらかを信奉しなければならないかのように考えられた時代だと言うことだ。
 戦後日本はアメリカの従属下に置かれてきたが、一方で経団連などの巨大資本や自民党の政治家などを筆頭に、アメリカに自ら進んで従属してきた部分を見逃すわけにはいかない。財界や自民党はアメリカと「持ちつ持たれつ」の関係を築き、憲法を改めず、日米同盟体制を温存し、TPPに参加するなど、日本を自ら売り渡し続けた。それは彼らの思想的信念から行われたのではない。彼等は自己利益にしか関心がなかった。自己利益に有利と見れば平気で国を売り渡すし、不利と見ればかつての繊維交渉のように国益を振りかざし立ち向かうのである。彼等は所詮自分たちの利権を守る存在であり、国を守る存在ではない。
次の陸羯南の言葉は当たり前のことを言っているに過ぎない。だがその当たり前が通用しない時代だからこそ新鮮に響く。

「世界と国民との関係はなお国家と個人との関係に同じ。個人と言える思想が国家と相い容るるに難からざるが如く、国民的精神は世界即ち博愛的感情ともとより両立するに余りあり。(中略)国民天賦の任務は世界の文明に力を致すにありとすれば、この任務を竭さんがために国民たるものその固有の勢力とその特有の能力とを勉めて保存し及び発達せざるべからず」(『近時政論考』)


 日本が日本らしくあることが世界文明に対する貢献なのである。

陸羯南と言論

 五百木良三という人物の回想に以下のようなものがある。この話は大学にいたころから知っていたが、なかなか原文にあたれなかったので今まで書けずにいた。


 或日、羯南翁は其卓子に肱を乗せて、恁う言た。
 「区役所から吾輩の戸籍を調べに来たが、職業を何と書いたら可かろうと随分困つたよ」
 「何と書かれましたか」と誰かゞ言た。
 「無職と書いた」と羯南翁が言た。
 「新聞記者は?」
 「新聞記者は職業ではないよ。これは浪人に属するものだ」
 「はッはッはッ」(原文踊り字:引用者註)
 一同は俄かに笑ひ出した。其時私は卓子の一隅にあつて此の話を聞いて居たが、新聞記者が果して職業でないかに就て疑を起した。すると、傍らに居たある人は言た。
 「併し、これで飯を食つている以上は職業といふべきだらうと思ひますが」
 「飯を食ふといふ点から考へると、さうかも知れないが」と羯南翁は筆を指の間に挟んだ手を原稿紙の上に乗せて「併し飯が食へなくても、文章を書かなきやならんからな」
 私は初めて先生の意のある所が解つた。飯が食へても食へなくとも社会の指導者として筆を執るのが新聞記者の任務であつて、これが商売といふべきものでもなければ、「業」(職業)といふべきものでもないのだ。
 (昭和十二年の)今日此説を持ち出したら、若き新聞記者達は一驚を喫するだらう。浪人に属するものだといふに至ては、到底今の人には理解が出来まい。

 松本健一『原敬の大正』67〜68頁からの孫引き


 若干芝居がかった逸話であり、五百木の創作ではないかという疑問もあるが、似たようなことはあったのであろう。陸羯南の言論にかける思いがよく伝わってくる。

 陸羯南はその言論活動を行う中で、営利性も党派性も放棄すると言う実現困難な命題に立ち向かわなければならなかった。なぜそうしなければならなかったのか。それは自分は自己利益の為に発言しているのでもなければ、特定の政治勢力を支援するために書いているわけでもない。自分は日本の為に書いているのだ、という強い矜持があったからに他ならない。
 陸は、新聞記者は利益を得る手段ではなく「公職」であると説く。その上で「眼中に国家を置き自ら進んで其の犠牲になる覚期」が必要だとした。ある党派に属しその党派の勢力を広めるために言論活動を行うものを「機関新聞」、営利を得てそれを増進するために書くものを「営利新聞」と呼び、自らをそのどちらにも属さない「独立新聞」だとした。「独立新聞の頭上に在るものは唯だ道理のみ、唯だ其の信ずる所の道理のみ、唯だ国に対する公義心のみ。」己の信じる義、国に対して奉仕する心、それ以外の何物にも動かされてはならないのである。

陸羯南の政治思想 おわりに

おわりに

当論文は陸の生涯をたどることで彼の思想の一端を明らかにしようとしたものである。陸に関しては論点がさまざまあり、それぞれ深く検討しなければならないところもあったが今回は駆け足に通り過ぎなければならなかったことは残念である。だがこの文章は陸の思想を紹介するために書いたのでそうなるのもやむを得ないことではあった。私の文章により陸に興味を持ってくださる方が増えればそれ以上の喜びはない。
私の今後の課題としては『原政』や「国家的社会主義」で主張された陸の国家観を検討することがまだまだ途上の状態なのでそれを深く追究出来ればと考えている。陸の国家観を理解する上で必要な作業だと思う。
陸は愛国者らしく日本人であることを強く意識していたように思うが一方で彼の思想は儒学の教養と幅広い西洋思想に裏打ちされている。他国の思想であっても良いところは進んで取り入れたのもまた陸の姿でもある。他国の良いところを取り入れつつあくまで日本の国情に合った日本流の近代化を模索しようとしていたように思える。


 以上である。
 なかなか陸の政論を現代人に紹介、と言ってもうまくいきません。やはり硬骨な文体が浸透しにくいゆえんでしょうか。

 歴史を学ばねばならない、と書くと好評なのですが、具体的な史論を書きだすと読者の皆様からの反応が薄くなってしまうのもさみしいところです。

陸羯南の政治思想 七 陸羯南評価に関して

七 陸羯南評価に関して
 
 先行研究の陸羯南評価としては「国民主義」と「自由主義」がある。しかし国民主義については、羯南自身が「敢えて自からこの名称をとるにあらず。便宜のため仮にこれを冠するのみ」と言うように「国民主義」は「便宜的」に名づけたものだとしている。例えば丸山眞男論文では羯南の「歴史的制約」に言及している。元来西洋では「国民」観念は漫然と国家所属員をさすのではなく、君主・貴族・僧侶を含まない第三身分のことだと丸山はしている一方、羯南の「国民」観念は「君民合同」であり、民衆、貴族もしくは富者も貧者も一体となったものである。丸山が西洋と国民観念が違うことをもってそれを「歴史的制約」としているのは西洋偏重な考えに思える。さらに明治二十年代前半にしか唱えられなかった「国民主義」という名前で陸の政論をくくってよいのかという問題が残る。
 「自由主義」という評価は羯南が自分から言ったわけではないが、先行研究の中でたびたび見られる評価である。例えば小山文雄論文では羯南は「国民主義」と言う用語をそれほど使っていないことを根拠に「国民主義」にこだわることを批判している。ただし「羯南に自由主義の「理義」の統一を求めることはできない」と認めている。「自由主義如何」では貧富の格差が開くことに対して強い批判の眼を向けている。羯南は政治的には自由主義者と言えるかもしれないが、経済的には自由主義ということはできない。陸はむしろ国家社会主義の要素の強い政論家である。ただし国家社会主義という言葉自体ナチスから欧州の社会民主主義に至るまで現在でも幅広い意味をもつ言葉なのでその点の注意は必要である。
 植手通有は陸を保守主義の文脈で理解する。私の見解もこれに近い。動揺し解体しようとしている伝統的秩序に対し共同体を擁護するという観点の下明治政府主導の近代化に抗した立場である。陸は藩閥の側に立ったのでも、それに対抗する側に立ったのでもない。むしろ両者ともに批判的である。その真意はいわゆる社会契約的国家観を批判し、国家を有機的全体性の下統一することにあったと言えるだろう。

陸羯南の政治思想 六 その後の陸羯南―新聞論―

六 その後の陸羯南―新聞論―

 『日本』は親交のある政治家や知識人の金銭的協力の下で発行していた。杉浦重剛、谷干城、近衛篤麿などが有力な出資者だった。陸は「独立新聞」を目指していた。陸は世の中の新聞を「機関新聞」、「営業新聞」、「独立新聞」の三つに分けた新聞論を展開している(「独立新聞」)。政党などの機関紙として存在する「機関新聞」、営利のみを目的とする「営業新聞」、そして日本にとってあるべき姿を論じる「独立新聞」である。その独立新聞が機能するためには独自の経営基盤を築かねばならなかった。陸にとってそれは志を同じくする有力者からの献金であった。
 日清戦争期は新聞の時代でもある。この時代新聞は大きく部数を伸ばし発達したからである。日清戦争の戦況を詳しく伝えるため各社は報道合戦を繰り広げ、またそれが多くの人に読まれることで新聞は知識人の読み物から国民的読み物に成長した。その変化は『日本』も例外ではなく、『日本』は日本で初めて輪転機を導入した新聞でもある。各新聞はときに扇動的言辞を述べたてて戦争報道を行った。それには理由もあった。海外特派員という仕組みが日本で初めて導入されるにあたり、当時は電報などを使っていたため情報量は限られていた。が読者の戦争への関心は強かった。報道材料の僅少と読者からの需要の増大という矛盾にこたえるため新聞は扇動的言論で紙面を埋めることが多かったのである。そしてそれは大衆化する新聞という時代的要請でもあった。新聞はそれまで政論中心の硬骨な大新聞(おおしんぶん)と読み物中心の小新聞(こしんぶん)に分かれていた。だが戦争は小新聞に戦争報道を登場させ、大新聞に大衆化をもたらした。新聞は言論の場から報道の場に移行していた。新聞は報道と言論を兼ね備えた中新聞(なかしんぶん)が中心になっていく。それは自由民権運動期からすでに始まっていた現象ではあったが、日清戦争で一気にその動きが促進されることになった。
 陸はその中で比較的硬骨な論調を保った。『日本』は漢文読み下し調の硬派な新聞であり、右派知的階級に読者層を持っていたと言われる。先ほども述べたが陸羯南は営利のみを目的とする「営利新聞」、政党の機関紙と化す「機関新聞」の両方を批判し、自らの「独立新聞」は私利、私益ではなく自らの信じる「一定の義」に立脚して論じることだとした(同前)。
 また『日本』は最も対外的に強硬な論調を張ったが、また最も政府に発行禁止の憂き目にあわされた新聞でもある。二十二回、百三十一日間の発行停止は群を抜いている。陸は熱烈な愛国者であったがそれは政府との妥協を意味しなかった。陸の国民主義その他の主張は決して政府にとって都合のよい、御しやすいものとは限らなかった。陸などは明確に守るべき国土、国民、皇室と政治指導者を分けて考えており、前者は擁護したが後者は主に批判の対象であった。ただし民権期に勃興した政党に対しても辛辣で、彼らが国民の民意も掬わず既得権に居座っていると批判したこともあった。研究者によっては政府よりも政党により批判的であったと評価する人もいる。
『日本』は新聞が中新聞、小新聞化していく中で、最後の大新聞として残っていたが、明治三十九年に廃刊、陸以下の社員は盟友三宅雪嶺の雑誌『日本人』と合流して『日本及日本人』となる。陸羯南自身は明治四十年に死去している。中新聞、小新聞化していく新聞はその後報道中心となり、新聞社の売りとなる大記者をほとんど排出しなかった。福地桜痴、福沢諭吉、徳富蘇峰、池辺三山、朝比奈池泉など幕末から明治期にかけて大新聞記者が多数輩出されたがこれ以降大物が少なくなってしまうのはこのためであろう。
 三宅雪嶺は陸の死後、追悼記事に陸は新聞記者として成功したが新聞屋として失敗したと回想している。それは一理ある評価である。しかし陸の硬骨な政論はその経営手法と一体となっているようにも思える。陸は旧武士階級らしく商売嫌いで金銭的利益を得るために新聞屋を起こしたわけでもなく、またそうした言論を展開する気もなかった。とすれば必然的に大衆化する新聞界の流れに抗うことにもなろう。陸は公器としての新聞、社会の木鐸としての新聞を地でいった人物であった。その言論および経営的実践でそれを示したのである。その陸が破れたことは新聞が公器としての性格を失っていく時代として見ることもできるのではないだろうか。

陸羯南の政治思想 五 社会問題への関心

五 社会問題への関心

 陸は政治的には自由主義者と言って問題ないだろうが、経済的には決して単なる自由主義者ではなかった。競争による経済活動が国内を富者と貧者に二分化し、国家として一体化できなくなる状況を憂いていたからだ。明治三〇年には「国家的社会主義」という論説を七回にわたり『日本』に連載し、欧州や我が国での社会問題の状況を踏まえた上で、「吾が国家は自然の状態に放任する自由主義にあらずして、反つて人為的に不平等を増進せしむるをや」と現状を批判している。
 陸は明治三〇年代に突如社会問題に目覚めたわけではなく、政論を書き始めた当初からのものであった。『日本』の前身『東京電報』の創刊時の社説ですでに陸はこう述べている。
 「帝室の威徳、人民の福利は共に損傷するを容れず。政府宰相の職権も亦妄に制限し難し。国家と各人の関係を調理して相偏傾なからしむるは当局者の任なりと雖ども、国人たる者亦た予め講究し之が計を為さゞるべからず」(「実業者の政治思想及び改題の主意」)。
 ここでは民に権力を与えればよい、というような「民主」的な楽観はいささかも感じられない。「妄に制限し難」い政府、国民の権利をどのように折り合いをつけるのかが政府「当局者の任」と言い切っている。その中で社会問題の発生はその折り合いを欠いた状態として陸の目に映り、それゆえ正されなくてはならなかった。「民主」だとか「人権」などというような西洋発の近代原理を陸は妄信しない。社会問題の解決の方向性としては、「最正の政治思想は学者の脳中より出づべしと雖ども、最強の政治思想は必ず実業者より起こる。何となれば政治の利弊を感ずること、最も深切にして且つ最も適実なるものは是れ実業者なればなり」(同前)と述べている。政府などと結びついた大商人が跋扈することは「実業者」の目線を欠いている、ということであろう。
 陸は三宅雪嶺とともに足尾銅山鉱毒事件の解決を求める論陣も張っている。「国家的社会主義」の中にも「鉱毒事件は国家社会主義の為めに正しく好材料たるを得べし」とした上で、大資本が鉱業を興すことは生産性を増加させるという経済界の通説に対して、「唯だ銅と米とを見て、而して人道をば見ざるものなり」として物質生産量の良し悪しのみを判断基準とする経済学を拒絶した。 明治三十年五月に鉱毒予防令がでると田中正造以外の多くの論客はひとまず満足のいく対策が取れたとして、鉱毒事件から手を引いていった。陸もその例外ではなかった。ただしそれにより田中と陸の関係が完全に途絶えてしまったわけではない。その後再び鉱毒問題が活性化した明治三十四年には田中は鉱毒調査有志会を作っているが、その有志会の面々に鉱毒事件の解決に協力してもらえるように嘆願する文を陸に依頼しているのである。
 陸は「国家的社会主義」において、社会主義者にありがちな階級分類を特に行っていない。むしろその主張は国家が格差是正を行うべき、というものである。「国家的社会主義」の中でビスマルクについても触れられているが、ビスマルク流に政府主導で格差是正を行い国家を発展させていくのが陸の「国家的社会主義」であろう。むしろ「今の進歩主義者は自ら中等社会の代表者と称してかつて貴族僧侶の権力を剥奪し、以為らく、自由進歩主義は此に至りて行はれりと。特に知らず、爾に出づるものは爾に反へる、中等社会即ち地主工主財主の社会は将に労役社会の為に剥奪せられんとするを。所謂る国家社会主義なるものは是なり」(「原政」)と階級闘争に対し非常に批判的な意見すら述べているのである。ここで「国家社会主義」には階級闘争の概念を入れていて、自身が主張した「国家的社会主義」には階級闘争を入れていないところは注目される。あくまで陸の意見は国家が一体となるためのものであって、貧者が富者に闘争を仕掛けるなど一体感を損なうものとして拒絶の対象であっただろう。
時代は遡ってしまうが明治二十三年の救貧法案に対し陸は反対の論陣を張っている。国家が社会に直接的に干渉することは国家権力の増大にしかならないという懸念を持ったのであろう。あくまで陸の経済思想は「経世済民」の感覚である。陸は「国家的社会主義」の中で「本と仁者の熱脳より湧き出でたる主義に他ならず」としているのもその証である。山路愛山は陸についてこう回想している。「三宅雄二郎氏、陸実氏も亦名を会員名簿に列し、殊に陸氏の如きは深き興味を社會主義に有し、其主宰する日本新聞に於て人間は自然の状態に満足して已むべきものに非ず。弱肉強食の自然的状態を脱し、強もまた茄(くら)はず、弱も茄はざる一視同仁の人道を立てゝ自然の運行以外に別に人間の天地を開くは是則ち社会主義の極意なるべしとの意を述べたり」(「現時の社会問題及び社会主義者」)。これは私の勝手な推測だが陸は「自由」「民主」「人権」などといった西洋発の近代原理に疑問を抱き日本流の近代思想を編み出すことに情熱を注いだのではないだろうか。世評では「急進的な欧化に対し穏やかな近代化を主張した」ということになっているが、私はそれとは異なる陸羯南理解をしている。陸の儒学理解は山鹿素行に由来する可能性が高いことはすでに書いた。山鹿素行は当時の支那崇拝に対し反論した人である。陸は西洋にも支那にもどちらにも深い学識を有しながらどちらも妄信していない。私には両者を参考意見として吸収しつつもあくまで日本流、日本人としての主張を探っている人に見える。そしてそれは対外論といった問題にまで貫かれているのである。

陸羯南の政治思想 四 日清戦争の時代

 四 日清戦争の時代

 日清戦争期、陸は当時の多くの論客がとなえたように「文野の戦争」論を唱えた。内村鑑三は「日清戦争の義」で「支那」は常に朝鮮の内治に干渉し、属邦としている。その結果「東洋に於ける一昇星」である朝鮮は「今日猶ほ未だ隠星に過ぎ」ないという状況である。であるから支那は「社交律の破壊者」、「人情の害敵」、「野蛮主義の保護者」である。「支那」は「聖人の道」を知らず、「不実不信」の国民であるとしている。日本の目的は「支那」を「警醒」させ、「天職」を知らしめることにあり、この戦争は「義戦」であり「永久の平和」を目的としたものだとした。陸の政論はこの内村の立論よりは冷静な筆致であった。それはなぜだろうか。それを考えるために陸は清をどう見ていたのかを考える必要がある。
 陸は初期政論のころより日清は「唇歯輔車」の関係にあると強調している。しかし朝鮮問題で日清がぶつかるようになると(「唇歯輔車」の関係であるということは崩れないものの)清に批判的な論調が多くなってくる。たとえば朝鮮において清の商人は「勝手我儘」であるというようなことを載せたりしている(「朝鮮論、韓商の愁訴」)。また、明治二六年五月に「日清事宜」という論説で、清国が綿布を生産する機械を輸入禁止にしたことを怒り、「日清通商章程」違反だとしている。そして「即ち是れ条約を蔑視するものに非ずして何ぞや。和親を破るものに非ずして何ぞや」と言っている。もちろん前節と同様に「日清なるものは唇歯の国なり、輔車の邦なり」と言う考えには「一理あり」としながらも、「認容にも亦度あり」として、「明快」にこのことを「処断」するのは「一国の面目」のためだけでなく、両国のためであり、「東亜」のためだとしている。「対客問」では「支那」は「大国」かつ「富国」であり、朝鮮は「要地」かつ国境を接している。それだけでなく人種、文字、教法、学術などを同じくしている。よってこの二国と親善するかしないかは直ちに日本の利害に関係し、東亜の盛衰に関与するとして「清韓」との交際を第一に考えるべきだとしている。しかし「支那なるものは古来自尊自大、己を待つに中華を以てし、他を遇するに夷荻を以てするもの」であるから一歩も譲ってはならない、ともしている。清に対して条約を守る信義とか、自尊自大であるところなどを不満と感じていることがわかる。明治二十七年には政府の弱腰を批判したり、朝鮮の独立ということも主張するようになる。
 陸は三章でみたように西洋列強の侵略に対して強い危機意識を持っていた。したがって基本的に東洋の問題は東洋で解決するべき、という考えを持っていた。日清戦争時は「東洋平和」を破った責任は「支那」にあり、日本はこれを「詰責」しなければならないとしている。その上で対清策の目的は
一 朝鮮の自主及安寧を担保せしむる事
二 日本の名誉及利益を回復する事
三 東洋の秩序及平和を維持する事
としている(「対清如何」)。
 陸は戦争中より日清戦争の戦争目的の順守を強く主張することになる。アジア主義的思想傾向をもつ陸は「支那分割」を憂慮していた。西洋列強が東洋に乗り込むことになったからである。その「支那分割」の危機が現実のものとなろうとしているとき、陸はむしろ「共同占領」を言いだし、西洋列強を互いに牽制させることで東洋を防衛しようという傾向を見せた。それはたとえば明治三十三年の「支那保全の困難」では「吾等日本人は今や支那保全の藩籬を踰(こ)えて、列国の均勢と東亜の寧平を図るの外なきを見る。是れ已むを得ざるに出づ」として、「共同的占領の現状を保つこと、已に単独的占領を行ひたるものは之を共同的に変ずること、此の如きは最も公平の主張にあらずや」と述べていることからも明らかである。
 先ほど私は陸は「アジア主義的思想傾向を持つ」と当然のように書いたが、陸を「アジア主義」の文脈でとらえる研究者ばかりではない。私はその立場はとらないが陸は「アジア蔑視」「殖民主義者の論理」「差別と排除の論理」であり「アジア防衛の意思は感じられない」という評価も先行研究では出されているのである。近年の研究では「アジア蔑視」だというような低い評価をするものは少ないが、たとえば昨年(平成二十年)出版された朴羊信の『陸羯南―政治認識と対外論―』(岩波書店)では陸の国民主義は明治二十年代の自衛的なものから明治三十年代の侵略的なものに変質したとして、「列国とともに「開発」を目指す態度はアジアの盟主意識も西洋勢力から守るという態度も見つけ難い」と結論づけられているように「アジア主義」者であることは陸羯南研究において共通理解とはなっていない。だが私には日清戦争の戦争目的を守ったことも、「支那分割」に対する態度も明確に西洋列強からの防衛の意思を秘めいているように思われる。陸は初期政論のころは清に好意的であったが、清が条約を守らない、自尊自大である、という不満の中で日清対立に傾いていった経緯がある。私は陸がアジア蔑視の論客というよりもアジア主義の論客であるという評価のほうが説得力があるように思える。

陸羯南の政治思想 三 『国際論』の時代

三 『国際論』の時代

 明治二六年に書かれた『原政及国際論』の中の「国際論」では、日本がどういう行動をすればいいのかを明らかにしている。ここでは日本の今後の対外的進路を陸がどのように考えていたが特に鮮明になっているといえよう。『原政及国際論』は「原政」と「国際論」の二部構成であり、「原政」が主に内政について、「国際論」が外政についてである。「原政」も非常に深い内容を持っているのだが、今回は「国際論」を中心に取り上げることにする。
 「国際論」は国際競争がどのように行われているかを示したものだ。陸は国際競争は「狼呑」と「蚕食」からなると分類した。狼呑は「国家の意思を以て他の邦土を併呑する」ことであり、蚕食は「個人が偶然にも他の民種を侵食する」ことである。狼呑、蚕食にはそれぞれ生理、財理、心理の面から考察が加えられている。特に重んじたのは心理的蚕食である。「国際論」のなかで一番頁が割かれているのはこの「心理的蚕食」について書いた項だ。つまり精神侵略についてである。陸は人は心理的蚕食について書くとすぐ攘夷主義だとののしるが、そういう連中がいるから国が振るわないのであり、彼らは国を売ろうという悪意はないかもしれないが国際事情を妄信している弊があるとしている。
 おもに心理的蚕食は西洋についてである。国力の強い国の言うことを人は無自覚に受け入れてしまうが、それ自体が強国の国益になっていることを明らかにしている。そういう精神侵略がやがて財理的(経済的)侵略をうけることになり、最後には生理的蚕食(実質的な併吞)に至るとしている。
 興味深いことに陸は「狼呑(武力的併吞)」のときは生理(領土喪失)→財理→心理という順に大国に飲み込まれていくが、「蚕食(腐食)」の場合には心理→財理→生理の順に行われるとしている。その上で「狼呑」が問題であることは誰でもわかるが、むしろ「蚕食」に気をつけなくてはならないと警鐘を鳴らし、外国、特に欧米に精神侵略されることの危機感を訴えたのである。
 「国際論」はそうした「狼呑」と「蚕食」の実態に触れた後、「国命説」という章を設けて、日本の使命を語っている。
 「欧州以外に真文化なく、白皙人種以外に真人種なし。故に欧洲の属地にあらず、白皙人種の住所にあらざる国は彼等の視て劣等と為す所、劣等の国及人は彼等視て文明の妨害と為し、一日も其の破滅を速やかにせんと努むる所のものなり。彼等が此の理想を挾むは善し。何となれば彼等は一種の『国命』を此点に繋げばなり。然りと雖も、もし彼らの視て劣等国人となすところのもの、(中略)少なくとも長短を較して彼等に対抗し、其の『劣等』といへる無礼的称呼を甘受せざるは我れの義務にあらずや」。白人は自国の文化のみを真の文化と思い、「劣等」人種は文明の妨害者としてしかみなさない。彼らがそう思うのはまだよい。なぜならそれが彼ら白人の国家的使命だからである。しかしその白人に「劣等」と名指しされた日本(やアジア)はその無礼的呼称を甘受してはならない、と主張したのだ。余談ながらこの主張は日清戦争時には清国にも適用され、清は中華思想により自尊自大、日本を蔑視しているが、日本人はその無礼を正さねばならない、ということになるのである。
 「さらに転じて世界文化の消長に見よ、人道の上よりすれば何人も何国もみな世界文化に賛助するの義務ありと言わざるべからず。ひとり一方の国人のみにこの義務ありて、他の国人はただ牛馬とせらるるがために存すとなさば世界の文化はつねに一様なるに止まりて進歩の運に向かうべからず。西洋の文化を存して東洋の文化を滅し、たとえ滅せざるもこれを発達せしめざるはこれ世界の文化に一要素を減ずるに均しきなり。東洋に国するもの、例えば日本国の如きは、世界文化の為にも其「国命」を重んずるの任務あり。如何にして此任務を竭さんと欲するか。欧人の文化を取るも自国の文化を棄つる勿れ。欧人と親交するも自国人を屈辱する勿れ」。『近時政論考』で見たときと同じく日本が日本の文化を維持していくことこそがむしろ世界文化の進歩に貢献するのだ、という主張である。
 さらに日本の国命は「六合を兼ね八紘を掩う」にあるとして、「王道」を世界に述べることこそ日本がなすべきことであるとした。「六合を兼ね八紘を掩う」とは「八紘為宇」のことと見て間違いないだろう。これはもちろん西洋の覇権や清の中華思想と対照化された思想として描かれている。それは陸が「八紘為宇」を「自ら率先して世界の公道を明らかにせんこと、これ日本帝国の錫命にして祖宗の遠猷に合するものなり」いう意味において用いていることからもわかる。陸にとっての「世界の公道」とは「各国対等」であるが、優劣・国の存廃などは「国民精神」の強弱で決まる、という国際政治観である。
 論理は「国際法」「国際例」にまで至る。
 「今の国際法なるものは大半みな欧の諸国を偏庇するに出づ、否、ひとり欧の諸国のみが参与して立てたるの法にすぎざるなり。欧人が国際上において自ら特権を構成し一種の族制を世界に造りたるなり。東洋に国するものは自ら甘んじて斬り捨て御免の下に立つべきか、もしくは自ら率先してこの閥族制を撤去することに努むべきか、もしくは国際法の恵を享受せんために欧化を図るべきか、三策のうち必ずその一を取らん。切り捨て御免を甘んずるはアフリカ及び南洋東洋の諸属邦を然りとす。今後の計をなすべき独立国は国際革命の首唱をなすか欧州帰化の用意をなすかの二途に外ならじ」。国際法自体が欧州の先例により欧州に有利なようにできており、解釈されている。それに不服を唱える「国際革命」の主唱者となるべきだと主張している。
しかし一方で国際法を全否定したわけでもなかった。「吾輩は国際公法なるものを正理公道に基づけんことを希望するなり」と述べている。国家主権が国際法によって規定されていることもまた熟知しているのである。
 陸はあくまで一人の日本人として思考し、主張した。「国際論」での分析は学問的に書こうという意思と、一日本人としての憂国の感情がほとばしる様が交錯していて、読むものを強く引き付けるものがある。『近時政論考』よりもより一層陸の主張が前面にでた著作であるが、冷静な分析と熱烈な激情が共存している様は陸特有のものと言えるであろう。
管理人について

陸羯南翁


中田耕斎

昭和六十年生まれ。明治期の国民主義者、陸羯南(くがかつなん・写真)の思想に共鳴する。戦前日本の国粋主義に興味を持つ。
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