歴史と日本人―明日へのとびら―

日本という国は、悠久の歴史を持つ国である。 この国に生まれた喜びと誇りを胸に、本当の歴史、及び日本のあり方について考察してみたい。 そうすることで、「明日へのとびら」が開かれることだろう。

外国人労働者

カルロスゴーンの逮捕と外国人労働者問題

カルロスゴーンが捕まった。彼はルノーから送り込まれた人間で、日産の日本幹部の接待漬けにあい、贅沢を覚えさせられ、その裏でいつでも切れるよう証拠を握られていた。ゴーン追放万歳と手放しで喜ぶ訳にはいかない。大企業幹部の悪辣陰険な権力闘争の風潮はそのまま残された。
いま外国人技能実習の問題が取りざたされている。経済界は「人手不足」だというが、実際は超低賃金でも働きたいという人が少ないだけで、職を求めている人はたくさんいる。要するに「人手不足」とは賃上げする気がない心情の現れなのである。だから法の網をくぐって悪事を働こうとする。自動車業界もまた「人手不足」を叫んでいる業界のひとつである。 ゴーンが去ったところで、ゴーンが残したCEOに高額報酬が集中し、現場に低賃金を求める体質は変わらないだろう。これは日産や自動車業界に限らない、社会全体、世界全体の問題だからだ。日産にはこうしたわたしの見立てをいい意味で裏切ってくれることを期待したい。

参考までにかつて『大亜細亜』誌でわたしが書いた外国人労働者問題に関する論説を全文紹介する。
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外国人労働者という人身売買の実情

 外国人労働者が本国でどのように「教育」され、「研修」と称して低賃金で日本で使い捨てられているかの実態を告発した本が『ルポ差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)である。この本は外国人労働者に好意的に過ぎ、また日本での定住、待遇改善を求める点で私とは意見が異なる(私は最初から呼ばない方がお互い幸せという考え)が、ここまでひどいことが行われていたのかと憤りと資本主義の腐臭を見せつけられたかのような思いがする。

 外国人労働者の多くは労働者ではなく「国際交流」だとかなんだかんだと言い訳をつけて「研修生」として働かされるのだが、もちろんそれは最低賃金に引っかからないためである。製造業などの3K職場に勤め、給料は手取り月一万五千円程度である。寮生活のため飯や家の心配はないがその分朝から夜まで働かされる。

 この本は支那の小さな農村にある「職業訓練校」の光景から始まる。そこではこれから日本で働こうとする人々が迷彩服を着て軍隊式の教育を受ける。日本で働くためにどうして軍隊式の教練が必要なのか。軍隊式の訓練により労働者生活に必要な「忍耐」と「根性」を養うためだという。もちろんこれらは日本の経営者の「要望」にかなう人材を送り届けるために為されているのである。「支配―従属」の関係を体で叩き込むことが必要なのだという。

 ときおり経済右派の政治家などが「日本人の若者はハングリー精神を失った」「外国人の方が優秀だ」といい若者バッシングを繰り返した揚句「若者を甘やかすな」とか「移民の積極化」などを叫んだりする。こういうことを言う連中は不勉強極まりないので、まるで支那の労働者がみな「真面目」で柴らしい人材であるかのようにいう。その背後には意図にかなうように軍隊教育を受けさせられている実情があった。そして本国に逃げ帰れないように労働者をだまして多額の借金を背負わせたりする不当な輩もいた。

 これらは一部の意見だという言い方も成り立つかもしれない。しかし奴隷売買のようなことが現に行われていて、それらをダシに甘い汁を吸うものが日支双方にいるということは確かだ。奴隷貿易化した外国人労働者は本人の希望とは無関係に使い捨てられてくる。

 私が危機感を持つのは日本人の労働者もこうした奴隷と化した外国人労働者に引きずられ少しずつ待遇が下がっていくことが予想されるからである。長期的には外国人に対して行われているような劣悪な待遇が日本の下層民に対しても当たり前のように行われる日がやってくるだろう。

陸羯南著『国際論』を読む 其の九

 陸羯南について書きつづけてきました。今日は蚕食篇に入ります。
 蚕食篇は心理的蚕食、財理的蚕食、生理的蚕食の三つから成っています。今日はその導入部分。

 蚕食篇
 狼呑法の大略は私はすでに前篇において言い終えたので、今はさらに進んで蚕食法の大要を述べよう。私がすでに総説にて、一言したように、「狼呑」は刀を首に加えるような類だから人が見てすぐ驚くが、「蚕食」は毒をごちそうに混ぜるようであり、とても知られにくい。ゆえに世の浅見者は「狼呑」があることを知っても「蚕食」があることを知らない。蚕食のことを談じるとただちに攘夷論とみなして、これを罵ることは今日の日常である。国が振るわない理由はこの浅薄軽浮な思想が明治時代の朝野をしていることである。彼らはもともと国を売る悪意は無いが、ただ今日における国際事情を理解せず盲然とことに従う弊害だろう。
 西洋の僧侶が来てその教えを述べる、これはあたかもわが国の本願寺派が布教のために僧を朝鮮に渡航させるのと同じくただ宗旨を広めようというのみ。彼らは日本の人民を西洋の付属に変えようという禍々しい心はないだろう。反ってその信じている神の恵みを日本人にまで広めようという好意に出ている。西洋の教師が来てその学問を授けこれもあたかもわが国の大学卒業生が朝鮮人の招聘に応じてかの国の学校に日本語を教えるようなものである。またなぜ異心を挟んで国人を変えようとするのだろうか。彼らは実にわが人民の師であり良友である。わが国の知識は彼らの教訓によって進んだものがとても多いことは疑いない。かく言う記者もその恩恵を受けた一人。ならば外人が来てわが国に宗旨を広めてその学理を教えることは、まことにわが国の幸せでありむしろ好意をしていただき謝らないわけにはいかない。「心理的蚕食」が世に知られがたく、浅見者が常に文明の輸入を謳歌するゆえんはここにある。
 欧米人が来て資財を投じて業種を興すことはただ自家の利益を目的とするのみ、あたかもわが人民がハワイ国に出かけて産業を興すことと全く変わらない。彼らの来住ますます多くなればわが国は資力ますます富み物価はますます高くなる。彼らはわが国を略奪する心をもって来たのではないだろう。むしろわが国との通商を盛んにしようと言う情誼を持って、またむしろわが国の未開財源を啓発することに与ることが多い。ならば外人の来住をますます便利にすることこそ目下の急務であり、内地開放を非とするべきでないことはもちろん、むしろ、あの世に喋々する関税制限および領事裁判も外国の意向にまかせて、まず進んで内地雑居の一事を承認することは富国上の一大急務であることに思える。「財利的蚕食」が世の人に理解されない理由はまったくこの点にある。
 外人が多くわが国の婦女を妾として、またあるいはわが国の男子の妻になることは、もとより内外人が相愛する情より来ている。外人、特に清国人が来てわが国に賎労役をするもまた自らの国の繁盛に役立つ一端とすれば全く忌み嫌うに及ばない。彼らの来住してわが国の人種改良となり労働低廉となればなぜ速やかに内地を開放して自由を彼らに与えないのか。目下のわが国情は衛生上陸軍に欠点あり技術上海軍に欠点ありといえば外人を雇って軍隊に入れることは強兵上の急務ではないのか。このような眼光からみれば「国際論」を草するに足らない。否、建国の必要すら理解するに足らない。「生理的蚕食」はもとより世の人の耳に入るべきではない。伊藤、井上、大隈、板垣らの外交戦略には万歳を叫ぶのみだ。
 仏法を談じるものはつねに「担板漢」ということを口にする。その答を問えばすなわち「板を背負うものは背後を見ることができずただ目の前のみを見ていく」と言う。けだし世のいたずらにただ目先のことのみを主として全く深慮遠謀のない輩を嘲っている。かの車両を引く馬を見よ。目の両側には目隠しを帯びて左右を見ることができない。世の人は「馬車馬」の語をもって思慮のない徒を呼ぶ。今の政界にたつ者は「担板漢」でなければ「馬車馬」の類のみだ。ただ肉眼に映る兵備貿易の統計のみをとって国際競争の勝敗をうらない、外国政府の意向の外に、また兵商二事の勝敗の外に、おのずから冥々の競争があることを知らない。「狼呑」を語ればすなわち同じで兵弱国貧を嘆いて腕を強く締める(納得する)。しかし蚕食を談じれば盲然としてそれは排外思想である、攘夷思想である、と言って内外の政治は全く関心がない。
 私がこの篇を草するのはかの担板漢または馬車馬の徒に示すと言うのではない。世にはなお、よく内外の現状に通じて百年の憂いを抱く識者がいるだろう。願わくは一読して異存があれば幸いに教授を惜しむなかれ。狼呑手段はこれを防ぐには多くは外交当局者の手を借りなければならないが、蚕食手段、否蚕食現象を察することは朝野を通じ、都鄙を通じ、百般の事業を通じて共に責任がある。私は請う。進んで蚕食の大要をその順序によって講究しよう。
 講究に先立ちなお一言言うべきことがある。狼呑事業は強国でなければ企てることができない。なぜかと言えばこれはその国自身の発意によるからである。蚕食のことは弱国といってもよく行う。なぜかと言えばこれはその国が偶然になすところだからである。国自身のせいで偶然であるのみではなく、そのことの局に当たっている個人自身のせいであってもまた常に偶然である。
 このため、蚕食的方法は、もし強国、つまり国民的精神の強い国に対する場合、もしくは弱国、つまり国民的精神の弱い国が行う場合、この二つの場合によっては、蚕食は転じて被蚕食となる。この理をいっそう明白に言い換えれば、外人がわが国に来て事をなしても、邦人が外国に行って事をなしても、その利害はただわが国の国民的精神の強弱によってわかる。たとえば、朝鮮人が皇国に来て事をなしても、その結果はただわが国の用事をなしたに過ぎない。これに反して日本人が米国に行って事をなしたら、その結果は彼の用をなしただけにとどまるだろう。なぜかと言えば国の精神組織において互いに差があるからである。蚕食篇を読むものは願わくはまずこの一理を記憶していただきたい。


 今日から蚕食篇にはいる。羯南は蚕食は非常にわかりづらいことを強調している。そして蚕食は偶然、好意を持った人によっておこなわれることさえ明言している。
 そして外国企業が来たっていいじゃないか、通商が盛んになる。国際結婚したっていいじゃないか、お互い愛し合っているのだから。外国人労働者が来たっていいじゃないか、商売の役に立つのだから。外国の軍隊を頼っていいではないか、強兵上の急務なのだから。と言ってみせて、そのような輩には『国際論』は必要ない、と述べた後、「担板漢」や「馬車馬」の例を出してそのようなことを言う輩を「目先のことしか見えない奴らだ」と強烈に皮肉っているのである。ここで現代でもそういうことを言う「担板漢」や「馬車馬」が非常に多いことに気づく。いちいち名前を挙げることはしないが、昔から彼らのような輩はいたのである。
 では羯南はなぜこのような意見を蚕食にあうとして警戒しているのだろうか。それは明日以降の記述で徐々に明らかになっていくだろう。


 明日は「心理的蚕食」について。羯南は蚕食を、心理→財理→生理の順に訪れると見ている。そのため次回は心理面について書かれるのだ。

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管理人について

陸羯南翁


愚泥

昭和六十年生まれ。明治期の国民主義者、陸羯南(くがかつなん・写真)の思想に共鳴する。戦前日本の国粋主義、農本主義に興味を持つ。著書『資本主義の超克〜思想史から見る日本の理想〜』(展転社、令和元年)
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