2016年11月11日
日劇 1946
◎日経 私の履歴書 2016.11.08 より
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参考リンク:
読書感想日記⊂二二二( ^ω^)二⊃ - 岡村吾一
戦後は、埼玉県や群馬県内の博徒を集めて北星会を結成。
北星会は、児玉が発起人となった関東会にも加わった。
日劇の地下に事務所を構え、芸能・興行界の顔役としても知られた。
特に、宝塚歌劇団や東宝などに影響力があったとされる。
その後、丸ビルに事務所を移し(略)
<引用>
◆岡村吾一は1907年生まれですので記事の当時は39歳。
「じいさん」ではないし、持っていた杖は仕込みだろうし、と
風情を想像するヒントになるかも。
岡村吾一が興行界の顔役であることと、吉田彦太郎が
ニューラテンクォーターの会長でもあったこと、
無関係ではないでしょうが、どの程度の関連か、までは不明。
衆議院 第002回国会 不当財産取引調査特別委員会 第14号
昭和23年4月13日
○武藤委員長 岡村さんにお尋ねいたしますが、檢事局において辻嘉六氏があなたに関してこういうふうに述べております。
「岡村とは五六年前からの知合いで、同人は世田谷区下馬三丁目二十一番地で材木商を営んでおります。本年四月上旬ごろ私方に岡村が來たので私は同人に対し、中曽根幾太郎が政界に出るからよろしく頼むと言つておるので心配してやつてくれと言い、同人に現金十万円を渡しました。この金の趣旨は中曽根の選挙がうまくいき、かつ同人が政界に出られるように骨折つてもらいたい。そのために自由に使つてよろしいという趣旨で金を渡した。岡村は現在ある会社の社長をしておると思います。」
<引用>
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参考リンク:
読書感想日記⊂二二二( ^ω^)二⊃ - 岡村吾一
戦後は、埼玉県や群馬県内の博徒を集めて北星会を結成。
北星会は、児玉が発起人となった関東会にも加わった。
日劇の地下に事務所を構え、芸能・興行界の顔役としても知られた。
特に、宝塚歌劇団や東宝などに影響力があったとされる。
その後、丸ビルに事務所を移し(略)
<引用>
◆岡村吾一は1907年生まれですので記事の当時は39歳。
「じいさん」ではないし、持っていた杖は仕込みだろうし、と
風情を想像するヒントになるかも。
岡村吾一が興行界の顔役であることと、吉田彦太郎が
ニューラテンクォーターの会長でもあったこと、
無関係ではないでしょうが、どの程度の関連か、までは不明。
衆議院 第002回国会 不当財産取引調査特別委員会 第14号
昭和23年4月13日
○武藤委員長 岡村さんにお尋ねいたしますが、檢事局において辻嘉六氏があなたに関してこういうふうに述べております。
「岡村とは五六年前からの知合いで、同人は世田谷区下馬三丁目二十一番地で材木商を営んでおります。本年四月上旬ごろ私方に岡村が來たので私は同人に対し、中曽根幾太郎が政界に出るからよろしく頼むと言つておるので心配してやつてくれと言い、同人に現金十万円を渡しました。この金の趣旨は中曽根の選挙がうまくいき、かつ同人が政界に出られるように骨折つてもらいたい。そのために自由に使つてよろしいという趣旨で金を渡した。岡村は現在ある会社の社長をしておると思います。」
<引用>
2015年05月21日
日本鋼管 小伝
◎田中清玄と塩田剛三(リンク)で記された
昭和20年代の日本鋼管周辺の別角度からの伝聞
引用元:
川崎在日コリアン生活文化資料館
「戦後日本鋼管周辺の日本共産党細胞活動とコリアン」
〇笠原儀一氏
昭和23年 川崎へ 22歳:
正月に群馬県から今住んでいる池上新町に建売を買ってすみました。義理の兄をはじめ、親族に日本鋼管の役付きがいて、そのツテで(昭和)23年に来てすぐ入社できました。(日本鋼管の社長も群馬出身) 今思うと建売は高く、24万もしました。(6畳と3畳 二間しかなかった)
現場仕事に行ったら、大変で、こんなところにいられないと一度群馬に帰えってしまいました。今鋼管に入っとかないと、はいれなくなると親族に説得され、9月まで群馬の田舎にいたが、その年の9月に川崎に戻って、再度、鋼管で働きました。コークス工場配属1300度の高炉、大島工場で働きました。
朝鮮人差別 レッドパージ:
入社した昭和23年ころ、レッドパージが始まる前は、2名共産党員が組合にいました。共産党員がいなくなったらだめになると考え、レッドパージされた労働者を守衛をごまかして、食堂に入れて飯食わせたりしました。レッドパージ後、3人の党員が入りました。
レッドパージの時、鋼管の中が中心。300人くらいいました。パージされた人が食堂に行くのに手伝いました。大島のほうは、金網張って入れないため、セメント通りのほうから入って、食堂に入れてあげて召し食わせました。
当時、会社のコークス工場には、全体600人の労働者が働き、朝鮮人は6〜7人いたかな。下請け北島商店からの人夫としていました。会社が朝鮮人はいっしょに風呂入れないなど、差別していました。
戦争中の朝鮮人のお骨が、高炉のコークスを冷やしたノロの捨て場(トロッコみたいなのにコークスを水で冷やし、ひっくり返して捨てる場所)に、骨がいっぱいあった。大きな穴の下に朝鮮人の骨があって、骨に コンクリか鉄板の覆いがしてあって、その上にコークスを捨てたのを見た。
人の話だと、桜本三丁目(池上町)に死体の焼き場があった。焼いたのは朝鮮人。そこで焼かれて、骨を捨てたということです。戦争中朝鮮人に焼かしたり、捨てさせたりしたと聞いています。空襲などで死んだりした人の分も焼いたそうです。
昭和28年2月10日結婚:
昭和29年扇島に配転する話が来ました。共産党やめれば、役職にするという話がありました。しかし、その当時は、私は共産党に入党していません。組合では、社会党と共産党といっしょにやろうという方針で、同志会を結成して、労働組合活動を行っていました。昭和30年ころ、私は事務局長の肩書きでした。
池上座り込み闘争:
昭和30何年。ノロの捨て場にトロッコを倒して空けて、捨てたところに雨が降って、爆発しました。爆発してノロが散乱し、落ちてきてあちこちに火事が起きました。その時は議員になってすぐの時です。金木議員といっしょでした。線路にむしろを敷いて座り込みをしました。300人くらい集まりました。日本の人もいました。ノロを運ばせないように座り込み、その結果、鋼管の敷地内をトロッコが通るように軌道修正させました。
引込み線は何回も爆発しました。7〜8箇所火事になったが、早く家を建てちゃえって、鋼管の土地だから、立ち退かされないよう、役員が来る前に 組合の役員やシンパが協力した。爆発する前。赤旗にものっていない。55年くらいに、ノロの捨て場を入江崎のほうへ移しました。
入党:
党員になったのは、59年(昭和34年) 座り込んだのは地域の方々と笠原と金木。会社に働いてたといき、共産党をやめろやめろといわれたが、まだ党員ではありませんでした。職場細胞。細胞長は鋼管の中に13〜4こあった。800人くらいいた。
59年入党。朝鮮人の活動家との付き合いはなし。市会議員になって、付き合いが多くなった。自宅の裏に金さんがいた。朝鮮学校の先生。あと湯村という朝鮮人。湯村さんは、共和国に引き上げました。杉山さんも(韓国人)帰国の運動をした人で、送別会などが多かった。
日本鋼管で共産党 池上新町入党10日目で、ビラ配り、公然活動。入党して3年くらいたって、飯島さん(後述の飯島善蔵氏)を元共産党員かもしれないと思うようになってきた。ちょっと赤旗もって働きかけました。議員になるだいぶ前の話です。
池上新町に飯島さんが昭和31年に引越してきました。そのあと、中西功氏が再入党手続きを試みました。しかし身元調査でだめでした。
(中略)
その他:
池上町にはずいぶん人がいました。スクラップが多く、入るとぶた、犬が10匹ぐらい追いかけてきました。新聞赤旗配布は30軒くらいありました。その後、総連になった時、朝鮮人は赤旗をとらなくなりました。
失対事業デモの激励もよくした。警察が全部情報集めをしていた時代。自宅の裏に、杉山さんの家を間借りしたいから世話してほしいという人がいて、調べたら警察でした。警察に捕まった人を取り戻しにきていて、投石とかずいぶんありました。そのため、情報集めのために借りたかったのでした。池上町で密造して、まだ留置場にのこってるからだせと詰め掛けていました。サッカリンもありました。
(略)
追っ払われて、塩浜へいきました。昭和23年ころ。朝鮮人の山下、山田、みんな共和国へ帰っていきました。それから、いろんなものがないから送ってくれっていうたよりが北からきていました。(以下略)
〇飯島善蔵氏、松子氏
昭和28年ごろ 日朝協会入江崎支部結成 立ち退き反対闘争:
立ち退き問題が、川崎南部の随所で起こっていました。入江崎の部落も来そうな情勢がありました。石炭の山から鋼管の幹部が弁護士と部落を見渡していました。
日本人住民は、最近来て住んでいるのでそんな権利主張などおこがましいといった空気があり、1,2万でももらえればすぐ出て行きますよという雰囲気でした。
朝鮮人は、当然、歴史的に働かされてきた経緯があり、権利主張をしようという状況が強くありました。「朝連」の幹部(崔さん)がオルグにきました。励まされるように、あなたたち日本人も貧困の中、住居を主張する権利がある、いっしょに闘おう、日朝協会を結成しようというふうになっていきました。
日朝協会入江崎支部の結成会、選挙で飯島善蔵が会長、副会長に日本人住民の長老格と朝鮮人住民の長老格が選出されました。しくまれていたように、飯島さんが選出されました。朝連幹部に連れられて、日朝協会川崎支部の会合に行きました。
それまで、上部団体があることも、力になってくれることも知りませんでした。旧こみや近くのお寺で、日朝協会川崎支部の会合に呼ばれました。社会党中島秀夫氏、高橋健太郎氏という市議会議員など、偉い人たちがいて、朝連幹部が経過説明、会長、副会長は、他に住むとこがない、よろしく頼みますなどの嘆願程度を訴えました。
「日朝協会の名を立ち上げたなら、支援しないわけにはいかないな」といわれました。後日1回だけ、金刺市長の面会がセットされ、一張羅を着込んで市長面会しました。私(飯島)が31歳のころで、「青年将校がきたか」と市長に言われたことを覚えています。
その後は、朝連の方か、川崎支部のほうで段取りよく進め、立ち退きを妥結。1軒30万〜35万円ほどで公平に分配されました。畑があるとか、家族が多いとかで多少の増減をつけましたが、苦しい人にもきちんと保障すべき、来たばかりの人も同じように困っているとみんなをまとめて配分してくれました。私も30万円もらいました。
他の地域の立ち退きでは、ごねどくと居座る人が出たり、一部の人がたくさんもらって、日本人や来たばかりの人には、少ししか渡さないなどのことがあったようです。入江崎支部は立ち退き闘争の模範のように言われました。
昭和31年には立ち退きが完成しました。入江崎を立ち退いた30軒あまりは、味の素のほうの部落に移っていきました。私は30坪くらいの池上新町の現在の土地を21〜22万円で購入し、家を建てました。立ち退きで、入江崎支部は自然解散しました。(以下略)
<以上引用>
▼関連
同サイト 川崎駅前「どぶろく横丁」の形成
昭和20年代の日本鋼管周辺の別角度からの伝聞
引用元:
川崎在日コリアン生活文化資料館
「戦後日本鋼管周辺の日本共産党細胞活動とコリアン」
〇笠原儀一氏
昭和23年 川崎へ 22歳:
正月に群馬県から今住んでいる池上新町に建売を買ってすみました。義理の兄をはじめ、親族に日本鋼管の役付きがいて、そのツテで(昭和)23年に来てすぐ入社できました。(日本鋼管の社長も群馬出身) 今思うと建売は高く、24万もしました。(6畳と3畳 二間しかなかった)
現場仕事に行ったら、大変で、こんなところにいられないと一度群馬に帰えってしまいました。今鋼管に入っとかないと、はいれなくなると親族に説得され、9月まで群馬の田舎にいたが、その年の9月に川崎に戻って、再度、鋼管で働きました。コークス工場配属1300度の高炉、大島工場で働きました。
朝鮮人差別 レッドパージ:
入社した昭和23年ころ、レッドパージが始まる前は、2名共産党員が組合にいました。共産党員がいなくなったらだめになると考え、レッドパージされた労働者を守衛をごまかして、食堂に入れて飯食わせたりしました。レッドパージ後、3人の党員が入りました。
レッドパージの時、鋼管の中が中心。300人くらいいました。パージされた人が食堂に行くのに手伝いました。大島のほうは、金網張って入れないため、セメント通りのほうから入って、食堂に入れてあげて召し食わせました。
当時、会社のコークス工場には、全体600人の労働者が働き、朝鮮人は6〜7人いたかな。下請け北島商店からの人夫としていました。会社が朝鮮人はいっしょに風呂入れないなど、差別していました。
戦争中の朝鮮人のお骨が、高炉のコークスを冷やしたノロの捨て場(トロッコみたいなのにコークスを水で冷やし、ひっくり返して捨てる場所)に、骨がいっぱいあった。大きな穴の下に朝鮮人の骨があって、骨に コンクリか鉄板の覆いがしてあって、その上にコークスを捨てたのを見た。
人の話だと、桜本三丁目(池上町)に死体の焼き場があった。焼いたのは朝鮮人。そこで焼かれて、骨を捨てたということです。戦争中朝鮮人に焼かしたり、捨てさせたりしたと聞いています。空襲などで死んだりした人の分も焼いたそうです。
昭和28年2月10日結婚:
昭和29年扇島に配転する話が来ました。共産党やめれば、役職にするという話がありました。しかし、その当時は、私は共産党に入党していません。組合では、社会党と共産党といっしょにやろうという方針で、同志会を結成して、労働組合活動を行っていました。昭和30年ころ、私は事務局長の肩書きでした。
池上座り込み闘争:
昭和30何年。ノロの捨て場にトロッコを倒して空けて、捨てたところに雨が降って、爆発しました。爆発してノロが散乱し、落ちてきてあちこちに火事が起きました。その時は議員になってすぐの時です。金木議員といっしょでした。線路にむしろを敷いて座り込みをしました。300人くらい集まりました。日本の人もいました。ノロを運ばせないように座り込み、その結果、鋼管の敷地内をトロッコが通るように軌道修正させました。
引込み線は何回も爆発しました。7〜8箇所火事になったが、早く家を建てちゃえって、鋼管の土地だから、立ち退かされないよう、役員が来る前に 組合の役員やシンパが協力した。爆発する前。赤旗にものっていない。55年くらいに、ノロの捨て場を入江崎のほうへ移しました。
入党:
党員になったのは、59年(昭和34年) 座り込んだのは地域の方々と笠原と金木。会社に働いてたといき、共産党をやめろやめろといわれたが、まだ党員ではありませんでした。職場細胞。細胞長は鋼管の中に13〜4こあった。800人くらいいた。
59年入党。朝鮮人の活動家との付き合いはなし。市会議員になって、付き合いが多くなった。自宅の裏に金さんがいた。朝鮮学校の先生。あと湯村という朝鮮人。湯村さんは、共和国に引き上げました。杉山さんも(韓国人)帰国の運動をした人で、送別会などが多かった。
日本鋼管で共産党 池上新町入党10日目で、ビラ配り、公然活動。入党して3年くらいたって、飯島さん(後述の飯島善蔵氏)を元共産党員かもしれないと思うようになってきた。ちょっと赤旗もって働きかけました。議員になるだいぶ前の話です。
池上新町に飯島さんが昭和31年に引越してきました。そのあと、中西功氏が再入党手続きを試みました。しかし身元調査でだめでした。
(中略)
その他:
池上町にはずいぶん人がいました。スクラップが多く、入るとぶた、犬が10匹ぐらい追いかけてきました。新聞赤旗配布は30軒くらいありました。その後、総連になった時、朝鮮人は赤旗をとらなくなりました。
失対事業デモの激励もよくした。警察が全部情報集めをしていた時代。自宅の裏に、杉山さんの家を間借りしたいから世話してほしいという人がいて、調べたら警察でした。警察に捕まった人を取り戻しにきていて、投石とかずいぶんありました。そのため、情報集めのために借りたかったのでした。池上町で密造して、まだ留置場にのこってるからだせと詰め掛けていました。サッカリンもありました。
(略)
追っ払われて、塩浜へいきました。昭和23年ころ。朝鮮人の山下、山田、みんな共和国へ帰っていきました。それから、いろんなものがないから送ってくれっていうたよりが北からきていました。(以下略)
〇飯島善蔵氏、松子氏
昭和28年ごろ 日朝協会入江崎支部結成 立ち退き反対闘争:
立ち退き問題が、川崎南部の随所で起こっていました。入江崎の部落も来そうな情勢がありました。石炭の山から鋼管の幹部が弁護士と部落を見渡していました。
日本人住民は、最近来て住んでいるのでそんな権利主張などおこがましいといった空気があり、1,2万でももらえればすぐ出て行きますよという雰囲気でした。
朝鮮人は、当然、歴史的に働かされてきた経緯があり、権利主張をしようという状況が強くありました。「朝連」の幹部(崔さん)がオルグにきました。励まされるように、あなたたち日本人も貧困の中、住居を主張する権利がある、いっしょに闘おう、日朝協会を結成しようというふうになっていきました。
日朝協会入江崎支部の結成会、選挙で飯島善蔵が会長、副会長に日本人住民の長老格と朝鮮人住民の長老格が選出されました。しくまれていたように、飯島さんが選出されました。朝連幹部に連れられて、日朝協会川崎支部の会合に行きました。
それまで、上部団体があることも、力になってくれることも知りませんでした。旧こみや近くのお寺で、日朝協会川崎支部の会合に呼ばれました。社会党中島秀夫氏、高橋健太郎氏という市議会議員など、偉い人たちがいて、朝連幹部が経過説明、会長、副会長は、他に住むとこがない、よろしく頼みますなどの嘆願程度を訴えました。
「日朝協会の名を立ち上げたなら、支援しないわけにはいかないな」といわれました。後日1回だけ、金刺市長の面会がセットされ、一張羅を着込んで市長面会しました。私(飯島)が31歳のころで、「青年将校がきたか」と市長に言われたことを覚えています。
その後は、朝連の方か、川崎支部のほうで段取りよく進め、立ち退きを妥結。1軒30万〜35万円ほどで公平に分配されました。畑があるとか、家族が多いとかで多少の増減をつけましたが、苦しい人にもきちんと保障すべき、来たばかりの人も同じように困っているとみんなをまとめて配分してくれました。私も30万円もらいました。
他の地域の立ち退きでは、ごねどくと居座る人が出たり、一部の人がたくさんもらって、日本人や来たばかりの人には、少ししか渡さないなどのことがあったようです。入江崎支部は立ち退き闘争の模範のように言われました。
昭和31年には立ち退きが完成しました。入江崎を立ち退いた30軒あまりは、味の素のほうの部落に移っていきました。私は30坪くらいの池上新町の現在の土地を21〜22万円で購入し、家を建てました。立ち退きで、入江崎支部は自然解散しました。(以下略)
<以上引用>
▼関連
同サイト 川崎駅前「どぶろく横丁」の形成
2015年04月22日
一万田尚登と三浦義一の家系図
引用元『政財界人の命運』(名取義一、北辰堂、昭和27年)
一万田尚登/高橋龍太郎 家系図 ※クリックで拡大

高橋(龍太郎)家は愛媛の出で大したことはなかったが、長男の吉隆氏(大阪銀行人事部長)が山口竹治郎氏(大阪貯蓄銀行元頭取)の女婿になっていたため面白い家系となってしまった。
というのは、この吉隆氏の細君になる次さんのすぐの実弟・山口洋三氏は後に、今を時めく日銀の一万田(尚登)法王の長女・和子さんをもらっているからだ。
(中略)
高橋家が四国は愛媛なら、一万田家は九州は大分である。こういう家系は珍重に値する。しかも双方とも一代にして築きあげたものである
(中略)
一万田総裁は今こそ金融界の法王といわれているが、その著書によれば、子供の時は家が貧しくて跣足で学校に通ったとのこと。
(中略)
(一万田も現状以上の野心があるとすれば政党総裁か総理大臣になるくらいのものだが)これは噂かもしれないが、彼は「俺はよし日銀総裁を辞めても2億円ぐらいの軍資金はかき集められる」と豪語したという。
(中略)
この高橋・一万田両家系のなかでは強いて言って政治家は高橋通産相のみで、あとは経済人ばかりである。旧軍人、官僚、学者、芸能人すら見られないというのはどうしたことだろう。(略)一万田家そのものは淋しい。
<以上引用>
◆その軍資金をかき集める力になりそうなのが三浦義一
三浦家 系図 ※クリックで拡大

三浦一平の次女・眞佐が溝部荘六(一万田尚登の妻・誠子の実弟)に嫁いでいるが、これは溝部荘六が三浦義一の少年期からの友人であったことが縁らしい。
(義一より尚登の方が5歳年長)
参考:『当観無常』(4)
また、一平の長女・久(義一の姉)が嫁いだ衛藤顕という人は弁護士を職業とする人らしいが、下記のような事件に連座している。
無尽業法と施行前に為したる無尽契約及法人の犯罪能力
法律新聞 1916.11.15(大正5)
三男・信夫は大映常務〜東京スタジアム副社長。若いころは大映労組の委員長だったもよう。 参考:キネマ旬報 第901〜904号
末弟の三浦四郎は昭和20年代後半〜30年代初頭に飯野海運の総務課長を務めている。 参考:Wikipedia 三浦一平
ちょうど造船疑獄のあった時期に飯野海運に勤務、しかも総務担当というのは色々ありそうで興味深いところ。
一万田尚登/高橋龍太郎 家系図 ※クリックで拡大

高橋(龍太郎)家は愛媛の出で大したことはなかったが、長男の吉隆氏(大阪銀行人事部長)が山口竹治郎氏(大阪貯蓄銀行元頭取)の女婿になっていたため面白い家系となってしまった。
というのは、この吉隆氏の細君になる次さんのすぐの実弟・山口洋三氏は後に、今を時めく日銀の一万田(尚登)法王の長女・和子さんをもらっているからだ。
(中略)
高橋家が四国は愛媛なら、一万田家は九州は大分である。こういう家系は珍重に値する。しかも双方とも一代にして築きあげたものである
(中略)
一万田総裁は今こそ金融界の法王といわれているが、その著書によれば、子供の時は家が貧しくて跣足で学校に通ったとのこと。
(中略)
(一万田も現状以上の野心があるとすれば政党総裁か総理大臣になるくらいのものだが)これは噂かもしれないが、彼は「俺はよし日銀総裁を辞めても2億円ぐらいの軍資金はかき集められる」と豪語したという。
(中略)
この高橋・一万田両家系のなかでは強いて言って政治家は高橋通産相のみで、あとは経済人ばかりである。旧軍人、官僚、学者、芸能人すら見られないというのはどうしたことだろう。(略)一万田家そのものは淋しい。
<以上引用>
◆その軍資金をかき集める力になりそうなのが三浦義一
三浦家 系図 ※クリックで拡大

三浦一平の次女・眞佐が溝部荘六(一万田尚登の妻・誠子の実弟)に嫁いでいるが、これは溝部荘六が三浦義一の少年期からの友人であったことが縁らしい。
(義一より尚登の方が5歳年長)
参考:『当観無常』(4)
また、一平の長女・久(義一の姉)が嫁いだ衛藤顕という人は弁護士を職業とする人らしいが、下記のような事件に連座している。
無尽業法と施行前に為したる無尽契約及法人の犯罪能力
法律新聞 1916.11.15(大正5)
三男・信夫は大映常務〜東京スタジアム副社長。若いころは大映労組の委員長だったもよう。 参考:キネマ旬報 第901〜904号
末弟の三浦四郎は昭和20年代後半〜30年代初頭に飯野海運の総務課長を務めている。 参考:Wikipedia 三浦一平
ちょうど造船疑獄のあった時期に飯野海運に勤務、しかも総務担当というのは色々ありそうで興味深いところ。
2015年02月25日
三浦義一『悲天』(6)
◎シリーズ最終 参考:前回(5)
[尾崎士郎による跋文]
「当観無常」「草莽」−−とつづいて、「悲天」の公刊されたことは三浦さんの心境に一大変化の来たことを示すものである。私と三浦さんとは同学年の戌年であり、二人ともすでに五十なかばを過ぎている。
私はこのすぐれた歌人の運命が必ずしも幸福であったとは思わぬが、さればといって不幸でもなかったと断言するわけにもゆかぬ。
彼の歌魂の清浄凛冽なることいついて説くべき時は既に過ぎた。三浦さんは死ぬべき生命を生き堪えてきた人であり、時代の混沌と複雑さを襤褸のごとく身にまといながら傲然としてあたらしい時代に呼かけやろうとしている。彼は永恒の青年であり、日常坐臥、抵抗の情熱に燃えている。
「悲天」が彼の生命であることは事実がこれを物語っている。そして、三浦さんの歌魂は今や三浦さんの生活を離れて中空高く彷徨っている。「悲天」は日本人の運命を象徴するものでありこれを声高くうたいあげる三浦さんの心は切なく、声は悲しく、唯、眼だけが爛々とかがやいている。秋風に立つ男の姿である。
昭和二十八年 晩秋 尾崎士郎しるす
<以上引用>
◆三浦義一が上梓した著作は
「当観無常」(昭和15年)
「歌論集 玉鉾の道」(昭和19年)
「草莽」(昭和20年)
「忍冬」(昭和20年代前半刊と思われるが不明)
「悲天」(昭和28年、上記三冊もすべて再録)
※草莽:民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に
基づく行動に出る人の意味。(Wikipedia)
[「草莽」後記より] ※昭和19年秋
一、わが行未だ遠しと云わざるも、回顧すれば惨として風涼まじかりき。−−とは淵明の言である。固よりわれら本来の生は、すでに既に尊皇攘夷の征旅である。
しかれば、顧みれば来たしかた粛として声なく、行途また屹然としてわれを立ち竦ましむ、淵明が徒の浅嘆と比すべき道に非ず。神の正道である。
嗚呼、この窄き道を今日にして行く、方にわれらが命の熄みがたさである。草莽、激する処、即ち大君の辺に死することのみ。戦場も牢獄も閑居も誰か亦おのれに於いて選ばんや。
一に神慮を粛しむ。ただ、われらが心頭おのづから火點ずれば、いずこも辺も、大君の辺である。「草莽」の念ずるところ、わが現し身の歩々行かんとするところ、あな清け、此の一道である。あわれこの千代の古道である。「草莽」一巻は実に、拙きわが、かかる戦史である。
一、わが盟友影山正治、秋深くして神のまにまに千里征討の任に就かんとし、畏友尾崎士郎昨日の筆を直に追って、日の本の筆剣一如を今は念ず。
この両知己、鴑鈍われを常に激動さるるや久し。今日、序跋を餞むけして我が微業を斯く盛んにせしむ。応うる術を知らず。鼻白みつつ独り密かに低頭し、只管、この両兄の道ひとすじを切に祈る。
一、印行および用紙など、総じていよいよ窮迫の折、この清雅の装を世に送るを得、この歓びを倶に頒ち得らるるとは、業界に在りて尚わが同行、横山豊、荒井政吉氏の言語尽くし難き高配によるもの、敢て記して厚く謝意を表す。
一、編集校正のこと、新国学協会本部一同及び伊東支部諸君等の努力に依る(略)
※引用注;新国学協会≒大東塾、現・不二歌道会
[「当観無常」第3版 序] ※昭和22年3月
(略)紙質装丁等は御覧の如く初版二版のそれとは雲泥の差である。けれどもこのことは後年、日本今日の悲痛を、深省の意味に於いて常に痛記するよすがとなると思う。
<以上引用>
▼関連リンク
日本印刷産業連合会 - 銀座周辺の印刷界追憶 荒井政吉(昭和55年)
どうも印刷業界も色々事情があるようで、要領を得ない話に終始している。
同 - 戦時中の印刷事情を回顧 印刷界激動の時代と私の印刷人生(昭和57年)
昭和16年に統制団体ができるまで印刷業界には横のつながりがなかったもよう。
[尾崎士郎による跋文]
「当観無常」「草莽」−−とつづいて、「悲天」の公刊されたことは三浦さんの心境に一大変化の来たことを示すものである。私と三浦さんとは同学年の戌年であり、二人ともすでに五十なかばを過ぎている。
私はこのすぐれた歌人の運命が必ずしも幸福であったとは思わぬが、さればといって不幸でもなかったと断言するわけにもゆかぬ。
彼の歌魂の清浄凛冽なることいついて説くべき時は既に過ぎた。三浦さんは死ぬべき生命を生き堪えてきた人であり、時代の混沌と複雑さを襤褸のごとく身にまといながら傲然としてあたらしい時代に呼かけやろうとしている。彼は永恒の青年であり、日常坐臥、抵抗の情熱に燃えている。
「悲天」が彼の生命であることは事実がこれを物語っている。そして、三浦さんの歌魂は今や三浦さんの生活を離れて中空高く彷徨っている。「悲天」は日本人の運命を象徴するものでありこれを声高くうたいあげる三浦さんの心は切なく、声は悲しく、唯、眼だけが爛々とかがやいている。秋風に立つ男の姿である。
昭和二十八年 晩秋 尾崎士郎しるす
<以上引用>
◆三浦義一が上梓した著作は
「当観無常」(昭和15年)
「歌論集 玉鉾の道」(昭和19年)
「草莽」(昭和20年)
「忍冬」(昭和20年代前半刊と思われるが不明)
「悲天」(昭和28年、上記三冊もすべて再録)
※草莽:民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に
基づく行動に出る人の意味。(Wikipedia)
[「草莽」後記より] ※昭和19年秋
一、わが行未だ遠しと云わざるも、回顧すれば惨として風涼まじかりき。−−とは淵明の言である。固よりわれら本来の生は、すでに既に尊皇攘夷の征旅である。
しかれば、顧みれば来たしかた粛として声なく、行途また屹然としてわれを立ち竦ましむ、淵明が徒の浅嘆と比すべき道に非ず。神の正道である。
嗚呼、この窄き道を今日にして行く、方にわれらが命の熄みがたさである。草莽、激する処、即ち大君の辺に死することのみ。戦場も牢獄も閑居も誰か亦おのれに於いて選ばんや。
一に神慮を粛しむ。ただ、われらが心頭おのづから火點ずれば、いずこも辺も、大君の辺である。「草莽」の念ずるところ、わが現し身の歩々行かんとするところ、あな清け、此の一道である。あわれこの千代の古道である。「草莽」一巻は実に、拙きわが、かかる戦史である。
一、わが盟友影山正治、秋深くして神のまにまに千里征討の任に就かんとし、畏友尾崎士郎昨日の筆を直に追って、日の本の筆剣一如を今は念ず。
この両知己、鴑鈍われを常に激動さるるや久し。今日、序跋を餞むけして我が微業を斯く盛んにせしむ。応うる術を知らず。鼻白みつつ独り密かに低頭し、只管、この両兄の道ひとすじを切に祈る。
一、印行および用紙など、総じていよいよ窮迫の折、この清雅の装を世に送るを得、この歓びを倶に頒ち得らるるとは、業界に在りて尚わが同行、横山豊、荒井政吉氏の言語尽くし難き高配によるもの、敢て記して厚く謝意を表す。
一、編集校正のこと、新国学協会本部一同及び伊東支部諸君等の努力に依る(略)
※引用注;新国学協会≒大東塾、現・不二歌道会
[「当観無常」第3版 序] ※昭和22年3月
(略)紙質装丁等は御覧の如く初版二版のそれとは雲泥の差である。けれどもこのことは後年、日本今日の悲痛を、深省の意味に於いて常に痛記するよすがとなると思う。
<以上引用>
▼関連リンク
日本印刷産業連合会 - 銀座周辺の印刷界追憶 荒井政吉(昭和55年)
どうも印刷業界も色々事情があるようで、要領を得ない話に終始している。
同 - 戦時中の印刷事情を回顧 印刷界激動の時代と私の印刷人生(昭和57年)
昭和16年に統制団体ができるまで印刷業界には横のつながりがなかったもよう。
2014年04月06日
丸炭丸木と王子製紙
◎かつて王子製紙に居た井上憲一(社長)の終戦直後の話、
およびヤミ物資の一例
引用元:『昭和動乱期を語る 一流雑誌記者の証言』(1982、経済往来社)
萱原宏一:
井上(憲一)さんは戦後非常に気の毒な……。
大草実:
講談社のヤミ紙で、講談社が王子から何億という紙をヤミ価格で買って、それで摘発されて責任とってやめたんだ。度胸のある偉い人だったね。(略)あれは王子の中津川工場の紙なんだよ。それがヤミで入った。
萱原:
(略)僕は終戦直後に、講談社の紙関係をちょっとやったことがあるんだ。あなたの材木の話は当時の“丸炭丸木”のことですわ。石炭を持ってきなさい、あるいはパルプになる木材を持ってきなさい、そうしたらその見仮として紙を回します――
それはよかったんですよ。1万石持っていけばそれの20%の紙をくれる。これは商工省でちゃんと認めていたんだ、丸炭丸木といのは。
それで、僕なんかがもっぱら丸炭丸木の石炭や木材の方をやっていたんだが、王子製紙の森林部というのが前橋にありました。そこに森林部長がいる。森林部長に金を渡して、これで材木を買ってくれ、よろしいというので、実際は原木を納入しなければ、これは違法なんです。
ところが、素人がそんな木材の買い付けなんかできないでしょう。そこで便宜上、材木や石炭を買う金を現ナマで森林部長に渡して、それで王子はその木材なり石炭を入手する手続きを代行する。まあ、丸炭丸木の便宜版ですね。これは違法なんです。
しかし商工省は黙認していたんですが、投書によってGHQが急にいかんと言い出して、摘発が始まったんです。その時に大手の丸炭丸木をやっていた講談社が摘発を受けたんです。ですから純然たるヤミとはちょっと違うんです。
大草:
とにかく講談社がヤミ紙で2、3億だったかな、新聞に出たよ。そして相棒が井上憲一で、それで井上さんはやめちゃった。
萱原:
あのときは講談社の人も引っ張られましたが、僕なんかも検事局へ呼び出されたり(略)それでいま言った王子の前橋の、森林部長が講談社へリュックサックをしょって金をとりに来るんですよ。十円札で、30万、50万というような金なんです。
(略)
その後でパッと検察が動き出したんだ。王子の課長がつかまって、小菅へブチ込まれた。講談社の営業制作関係の局長クラスが二人、連座の形でやはり小菅へブチ込まれた。随分長く入っていましたよ。
(略)
それが地検の特捜部だというんだよ。特捜部なんていうとどえらいみたいに感じるでしょう。ヤミ紙の捜査も特捜部なんです。
(略)
そのときに王子のある重役さんが、僕が引っ張られたということを聞いてあわてましてね。金なんかの関係が少しありましたから。で、「あれはお返ししますから絶対にいただかなかったことにしてください」なんて言ってましたけど、ああいうときは上の人ほどあわてますね。
<以上引用>
◆ヤミ物資と合法物資の境目は案外曖昧なもの、というお話でした。
製紙メーカーというのが今日イメージするより遥かに大きな社会的影響力を
持っていた時代があったということ。
▼関連
商工省、王子製紙にパルプ値下げを要請(昭和13)
王子製紙のみは国産パルプの過半を生産しながら、調整組合の手を経ないで直接需要会社に配給をつづけており、しかもその販売価格は(略)明らかに割高なので、スフ価格引下げ、すなわちパルプ価格引下げの目的のため商工省は王子に対し、これが価格引下げを求めるに決し、このほど王子製紙専務井上憲一氏を招致し(略)かくしてこれにより人絹ス・フ用パルプの統制は確立するものと見られる。
<以上引用>
財団法人 玉川学園
(玉川学園創設者・小原國芳は、学園建設の)土地の買収資金を得るために奔走する。1928年秋、國芳は王子製紙の井上憲一氏の仲介で、講談社の野間清治社長と面談し、新しい学園建設計画を30分にわたって熱く語り融資を依頼。野間氏も小田急に新駅ができれば土地経営としても十分に有望であると判断し、自分の資産から45万円の融資を承知する。なお、借款の保証人として、日本石油専務の津下紋太郎氏らが立った。
<以上引用>
一橋大学 『:戦後新興紙とGHQ −新聞用紙をめぐる攻防−』
およびヤミ物資の一例
引用元:『昭和動乱期を語る 一流雑誌記者の証言』(1982、経済往来社)
萱原宏一:
井上(憲一)さんは戦後非常に気の毒な……。
大草実:
講談社のヤミ紙で、講談社が王子から何億という紙をヤミ価格で買って、それで摘発されて責任とってやめたんだ。度胸のある偉い人だったね。(略)あれは王子の中津川工場の紙なんだよ。それがヤミで入った。
萱原:
(略)僕は終戦直後に、講談社の紙関係をちょっとやったことがあるんだ。あなたの材木の話は当時の“丸炭丸木”のことですわ。石炭を持ってきなさい、あるいはパルプになる木材を持ってきなさい、そうしたらその見仮として紙を回します――
それはよかったんですよ。1万石持っていけばそれの20%の紙をくれる。これは商工省でちゃんと認めていたんだ、丸炭丸木といのは。
それで、僕なんかがもっぱら丸炭丸木の石炭や木材の方をやっていたんだが、王子製紙の森林部というのが前橋にありました。そこに森林部長がいる。森林部長に金を渡して、これで材木を買ってくれ、よろしいというので、実際は原木を納入しなければ、これは違法なんです。
ところが、素人がそんな木材の買い付けなんかできないでしょう。そこで便宜上、材木や石炭を買う金を現ナマで森林部長に渡して、それで王子はその木材なり石炭を入手する手続きを代行する。まあ、丸炭丸木の便宜版ですね。これは違法なんです。
しかし商工省は黙認していたんですが、投書によってGHQが急にいかんと言い出して、摘発が始まったんです。その時に大手の丸炭丸木をやっていた講談社が摘発を受けたんです。ですから純然たるヤミとはちょっと違うんです。
大草:
とにかく講談社がヤミ紙で2、3億だったかな、新聞に出たよ。そして相棒が井上憲一で、それで井上さんはやめちゃった。
萱原:
あのときは講談社の人も引っ張られましたが、僕なんかも検事局へ呼び出されたり(略)それでいま言った王子の前橋の、森林部長が講談社へリュックサックをしょって金をとりに来るんですよ。十円札で、30万、50万というような金なんです。
(略)
その後でパッと検察が動き出したんだ。王子の課長がつかまって、小菅へブチ込まれた。講談社の営業制作関係の局長クラスが二人、連座の形でやはり小菅へブチ込まれた。随分長く入っていましたよ。
(略)
それが地検の特捜部だというんだよ。特捜部なんていうとどえらいみたいに感じるでしょう。ヤミ紙の捜査も特捜部なんです。
(略)
そのときに王子のある重役さんが、僕が引っ張られたということを聞いてあわてましてね。金なんかの関係が少しありましたから。で、「あれはお返ししますから絶対にいただかなかったことにしてください」なんて言ってましたけど、ああいうときは上の人ほどあわてますね。
<以上引用>
◆ヤミ物資と合法物資の境目は案外曖昧なもの、というお話でした。
製紙メーカーというのが今日イメージするより遥かに大きな社会的影響力を
持っていた時代があったということ。
▼関連
商工省、王子製紙にパルプ値下げを要請(昭和13)
王子製紙のみは国産パルプの過半を生産しながら、調整組合の手を経ないで直接需要会社に配給をつづけており、しかもその販売価格は(略)明らかに割高なので、スフ価格引下げ、すなわちパルプ価格引下げの目的のため商工省は王子に対し、これが価格引下げを求めるに決し、このほど王子製紙専務井上憲一氏を招致し(略)かくしてこれにより人絹ス・フ用パルプの統制は確立するものと見られる。
<以上引用>
財団法人 玉川学園
(玉川学園創設者・小原國芳は、学園建設の)土地の買収資金を得るために奔走する。1928年秋、國芳は王子製紙の井上憲一氏の仲介で、講談社の野間清治社長と面談し、新しい学園建設計画を30分にわたって熱く語り融資を依頼。野間氏も小田急に新駅ができれば土地経営としても十分に有望であると判断し、自分の資産から45万円の融資を承知する。なお、借款の保証人として、日本石油専務の津下紋太郎氏らが立った。
<以上引用>
一橋大学 『:戦後新興紙とGHQ −新聞用紙をめぐる攻防−』
2014年03月29日
下村亮一と三浦義一
◎田中清玄銃撃事件の関連で名前が登場する下村亮一(雑誌記者)が
太平洋戦争末期に三浦義一と衝突したこと
出典:『昭和動乱期を語る 一流雑誌記者の証言』(1982、経済往来社)
下村亮一:
(下村は文芸春秋者の記者を経て出征、昭和19年に帰国し「(雑誌)公論」に移ったが)その頃の「公論」の右傾化はひどいものだった。いわば三浦義一の雑誌になっていた。ということは同時に影山正治の雑誌でもあった。僕がいくら右(寄りの人間)だといっても、影山と一緒にはなれない。
(略)
彼らが楠正成の忠誠をさかんにいうから、私は正成のとった科学戦法こそ採用すべきではないか、といったのです。すると、そういう理論をするやつはリベラリストだというのですね、私のことを。
それで私が邪魔だからというので、日本刀を持って殺しに来るんですよ。その本人が(影山の右腕の)長谷川幸男です。(略)
彼が長い日本刀を持って毎日のように僕をやろうとして社にやってくるんです。そのうち編集部員のひとりが人指ゆびを切り落として、それを僕の前へ三方に載せてやってくるのですよ。つめ指ですね。
萱原宏一(※講談社):
それ、何の意味かね。
下村:
その男は影山塾の熱心な弟子になっているのです。だから自分の上役(※下村)を切るわけにはいかぬから、そこでせめてのことにと自分の指をつめた。これで僕の精神を入れ替えてくれということなんですね。(略)
萱原:
目的はなんです?
下村:
僕がやめるか、自分たちの完全な雑誌にするかです。そんなことでいよいよになって和解に乗り出したのが三浦義一。目黒に例の竹の子飯屋があったでしょう。(略)そこへ集まった。
行ったのが「公論」社主の上村哲弥、勝弥の兄弟。それに肝心の僕。
片方は三浦義一、尾崎士郎、保田與重郎、浅野晃、この連中は立会いで、対決の相手は影山正治と弟分の長谷川ですよ。
そこで席につくなり三浦義一が「下村君、今の心境はどうか」と最初に聞いてきたんです。「心境って別にありませんけどね、私も足がひどい怪我して(戦地から)ようやく帰ってきたんです。
(略)
病院船が広島に着いたときに、うまれて初めて俳句を一つつくったんです」というと、どういう俳句だっていうからね(略)「かりがねの一羽帰りぬ安芸の海」というのが(略)僕の気持ちだと言ったらね、いきなり浅野晃が目をしばたきはじめた。
爾来、浅野は僕を何かしら買ってくれている。それから尾崎士郎がニヤニヤ笑い出してね、保田與重郎もニヤニヤ笑って座は一度に変わった。
三浦が「わかった、下村君、君の命は俺が預かる」って言うんだよ。何言ってやがんだ、こんちきしょうと、そのとき初めて思ったね。なーんだ、預ける預けないはこっちの勝手だ。一度死に損なっていると、こういう言葉はあまりピンと来ないもんだよ。僕もニヤニヤ笑ったけど、それからは酒をガブガブ飲んだ。
萱原:
ずいぶん野蛮な話を承ったが、なんでそんな顔ぶれ呼んだんだろう。
下村:
そのときは知らなかったが、三浦というのは例の雑誌の統廃合のとき、東條を口説いて「公論」を残した張本人だったんだね。
(略)
だから世間は尾崎士郎や保田與重郎をほめてもね、ちょっと僕にはピンとこない……。(略)だから浅野が一番正直でいい人だと今でも思ってる。このことだけは生涯言うまい、書くまいと思っていたんだが、ついしゃべってしまった。白刃の下だったことは事実だね。
(略)
(1961年に中央公論の嶋中事件があったが)あんな右翼くさいのと、雑誌をやる人間がつきあってはいけないね。
大草実(文芸春秋):
菊池(寛)さんはもう絶対に近寄らなかったな。
萱原:
與重郎さんなんかがそんなところへ出てくるのはちょっと意外だな。
下村:
ちょっと考えられないんだけども、実際の話です。(略)だから、いかに三浦将軍が栄えていたか。
大草:
三浦将軍と御手洗辰夫はよかったんだろう?
下村:
よかったね、同じ大分県だから。
萱原:
あれが虎屋の煙突に上がった人だ。(※虎屋事件)煙突男の第一号ですよ。それで売り出した。(略)だけど、あんな売り出し方は、ちょっと常人にはね。
<以上引用>
◆下村亮一の略歴(同書巻末より)
明治43年京都府に生まれる。中学卒業の直後に実家倒産、やむなく学業を断念。その後、作家志望から一転して日本評論社に入社。「経済往来」「日本評論」の編集長、報知新聞論説部員などを経て、昭和26年経済往来社社長となり今日に至る。著書に「晩年の露伴」がある。
※「大日本産業報国会」の経歴が抜けているとのご指摘をいただきました。
昔のことなので下村さんも忘れちゃっていたのかもしれませんね。
▼関連リンク
『余多歩き』より、“三浦義一と下村亮一と田中清玄”
▼関連エントリ
三浦義一の歌集『悲天』巻末の保田與重郎による解題について
『日本国怪物列伝』三浦義一の項について
三浦義一と東條英機の関係について
太平洋戦争末期に三浦義一と衝突したこと
出典:『昭和動乱期を語る 一流雑誌記者の証言』(1982、経済往来社)
下村亮一:
(下村は文芸春秋者の記者を経て出征、昭和19年に帰国し「(雑誌)公論」に移ったが)その頃の「公論」の右傾化はひどいものだった。いわば三浦義一の雑誌になっていた。ということは同時に影山正治の雑誌でもあった。僕がいくら右(寄りの人間)だといっても、影山と一緒にはなれない。
(略)
彼らが楠正成の忠誠をさかんにいうから、私は正成のとった科学戦法こそ採用すべきではないか、といったのです。すると、そういう理論をするやつはリベラリストだというのですね、私のことを。
それで私が邪魔だからというので、日本刀を持って殺しに来るんですよ。その本人が(影山の右腕の)長谷川幸男です。(略)
彼が長い日本刀を持って毎日のように僕をやろうとして社にやってくるんです。そのうち編集部員のひとりが人指ゆびを切り落として、それを僕の前へ三方に載せてやってくるのですよ。つめ指ですね。
萱原宏一(※講談社):
それ、何の意味かね。
下村:
その男は影山塾の熱心な弟子になっているのです。だから自分の上役(※下村)を切るわけにはいかぬから、そこでせめてのことにと自分の指をつめた。これで僕の精神を入れ替えてくれということなんですね。(略)
萱原:
目的はなんです?
下村:
僕がやめるか、自分たちの完全な雑誌にするかです。そんなことでいよいよになって和解に乗り出したのが三浦義一。目黒に例の竹の子飯屋があったでしょう。(略)そこへ集まった。
行ったのが「公論」社主の上村哲弥、勝弥の兄弟。それに肝心の僕。
片方は三浦義一、尾崎士郎、保田與重郎、浅野晃、この連中は立会いで、対決の相手は影山正治と弟分の長谷川ですよ。
そこで席につくなり三浦義一が「下村君、今の心境はどうか」と最初に聞いてきたんです。「心境って別にありませんけどね、私も足がひどい怪我して(戦地から)ようやく帰ってきたんです。
(略)
病院船が広島に着いたときに、うまれて初めて俳句を一つつくったんです」というと、どういう俳句だっていうからね(略)「かりがねの一羽帰りぬ安芸の海」というのが(略)僕の気持ちだと言ったらね、いきなり浅野晃が目をしばたきはじめた。
爾来、浅野は僕を何かしら買ってくれている。それから尾崎士郎がニヤニヤ笑い出してね、保田與重郎もニヤニヤ笑って座は一度に変わった。
三浦が「わかった、下村君、君の命は俺が預かる」って言うんだよ。何言ってやがんだ、こんちきしょうと、そのとき初めて思ったね。なーんだ、預ける預けないはこっちの勝手だ。一度死に損なっていると、こういう言葉はあまりピンと来ないもんだよ。僕もニヤニヤ笑ったけど、それからは酒をガブガブ飲んだ。
萱原:
ずいぶん野蛮な話を承ったが、なんでそんな顔ぶれ呼んだんだろう。
下村:
そのときは知らなかったが、三浦というのは例の雑誌の統廃合のとき、東條を口説いて「公論」を残した張本人だったんだね。
(略)
だから世間は尾崎士郎や保田與重郎をほめてもね、ちょっと僕にはピンとこない……。(略)だから浅野が一番正直でいい人だと今でも思ってる。このことだけは生涯言うまい、書くまいと思っていたんだが、ついしゃべってしまった。白刃の下だったことは事実だね。
(略)
(1961年に中央公論の嶋中事件があったが)あんな右翼くさいのと、雑誌をやる人間がつきあってはいけないね。
大草実(文芸春秋):
菊池(寛)さんはもう絶対に近寄らなかったな。
萱原:
與重郎さんなんかがそんなところへ出てくるのはちょっと意外だな。
下村:
ちょっと考えられないんだけども、実際の話です。(略)だから、いかに三浦将軍が栄えていたか。
大草:
三浦将軍と御手洗辰夫はよかったんだろう?
下村:
よかったね、同じ大分県だから。
萱原:
あれが虎屋の煙突に上がった人だ。(※虎屋事件)煙突男の第一号ですよ。それで売り出した。(略)だけど、あんな売り出し方は、ちょっと常人にはね。
<以上引用>
◆下村亮一の略歴(同書巻末より)
明治43年京都府に生まれる。中学卒業の直後に実家倒産、やむなく学業を断念。その後、作家志望から一転して日本評論社に入社。「経済往来」「日本評論」の編集長、報知新聞論説部員などを経て、昭和26年経済往来社社長となり今日に至る。著書に「晩年の露伴」がある。
※「大日本産業報国会」の経歴が抜けているとのご指摘をいただきました。
昔のことなので下村さんも忘れちゃっていたのかもしれませんね。
▼関連リンク
『余多歩き』より、“三浦義一と下村亮一と田中清玄”
▼関連エントリ
三浦義一の歌集『悲天』巻末の保田與重郎による解題について
『日本国怪物列伝』三浦義一の項について
三浦義一と東條英機の関係について
2013年12月29日
九段坂で逢いましょう
国立国会図書館 - 靖国神社とはなにか (pdf)
靖国神社では GHQ の意向を知るために、 (昭和20年)11月26日、 横井時常権宮司らが岸本助教授、 宮地教授を同行して、 (GHQの)バンスを訪問した。 この時、靖国神社側が携えたのは 「廟宮制」 である。 廟宮とは、 慰霊安鎮を目的とする遺族中心の神社を公益法人として経営する案で、 バンスの一定の評価を得た靖国側は年末までに 「靖国廟宮庁規則」 案を作成した。
これとは別に、 政府側では、 祭神を氏子とする一神社として存続する案を考えていたのであり、 また、 バンスは戦死者の記念碑とする案の存在も示唆している。
明けて、 昭和21年1月19日、 廟宮への移行を考える靖国神社側と、 神社としての存続を主張する政府側 (第一復員省、 終戦連絡中央事務局) との意見調整が図られ、 神社としての祭祀を行うという実質に変化がないのなら、 靖国神社という社号を残すべきだ、 という結論になったという。
<以上引用>
上記資料内で言及されている、一般兵の合祀が最初に審議された国会
第012回国会 外務委員会 第3号 昭和26年11月2日
○菊池委員 ちよつと関連して……。靖国神社が国家管理といいますか、それを離れた、それはどういう原因からでございますか。(略)
○荻野説明員 (略)政教分離の原則から来ております。これは現在の憲法におきましても、その点ははつきりいたしております。憲法もやはり同じ精神であると思うのでございます。
従つてやはり靖国神社の場合も、その神社が他の一般の神社と比較しまして特殊な性格を持つた神社でございますけれども、やはり神社であることにはかわりはないのであります。従つて政教分離という原則から、国家管理を離れたのであります。
<以上引用>
第024回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号
昭和31年2月14日
○金森(徳次郎)参考人 (略)国が公けにその性格をきめるというところには、宗教的色彩を出さないようにしてもらいたいということなんです。つまり、一種のシンボルと申しましょうか、象徴のようなものを作るわけでありまして、それに何という名前をつけるか、それは今私の知ったことではございません。
昔、明治の初めに、各地にできたものを、招魂神社とは言わないで、招魂社という言葉を使っておったのでありまして、多分あれは今の神社とは少し意味が違っておったものであろうかと思いますが(略)
<以上引用>
東京招魂社の成立過程とその問題点
現在の京都護国神社である京都招魂社を訪れてみると、東京招魂社とはかなり趣の異なる、東京招魂社とは全く別の伝統で作られたもであることが理解できるのである。ここは、基本的には仏教文化をベースとして墓地から発生しているのである。
もともと、古くからこの鴨川の東側は、京都で行き倒れになった身元がいろいろ‘いわくあり’の人々を埋葬する場所であった。この招魂社に墓があるもっとも有名な人物は坂本龍馬であるが、龍馬も京都で刺客に倒され、頓死したもっとも曰くありの人物なのである。
墓であることは明白なのであるが、墓の入り口に小さな鳥居が取って付けたように建てたれている。純然たる神道の地でないことは明白であり、仏教に深く馴染んでいる京都の民衆が、時の政権にとって不要あるいは邪魔となってであろう龍馬が暗殺されたことに、深い哀れみを抱いてここに墓地を作ってやったという経過でできあがったのである。
もともと非業の死を遂げた人物とは、神道のご神体を奉納するという場というものとはもっとも馴染まない存在であり、(略)墓付きの神社というのはここ以外に探し出すことが困難であるからである。
<以上引用>
制度の上で判然たる神社宗教の別 調査会の疑義に対する神社局の見解
東京朝日新聞 大正15年6月4日
わが国の神社は明治初年においては宗教と混同せられた形跡はないでもない。
明治五年六月には遂に教部省は神職の葬祭執行を認めたばかりでなく、神職は教導職に補任せられ、あるいは教院説教所と神社と混同せられていた。
然るに十一年一月教部省廃止と共に教導職は内務省社寺局に移り、政府の布教に対する態度は一変した。
次で十五年一月には神官の教導職兼務を廃し、神官は葬儀に関与することを禁じ、神社と教院との区別を明瞭ならしめんとしたが、十五年五月以来九月にわたり神道派は数派に分離し、そのうちには神官僧りょを合同し、三条の布教に従事せしめんとする二三の神道派も生じ、政府の根本方針は崩されんとしたに鑑み、十七年八月には遂に政府は教導職を廃止し、神道教師は専ら神道管長の支配に属せしめ、神道各派は名実共に宗教として神社の外に独立する事となった。
かくて十七年に至り、政府は宗教と祭祀との区別を判然として、国家の祭祀たる神社を、仏教あるいは宗派神道と混同する事なからしめたが、その時キリスト教の勢力は次第に発展し、外人牧師中には神社あるいは氏子制度に関する諒解を欠くものも生じたに鑑みて、政府は益々右両者の区別を明瞭にする必要に迫られたものである。
然るに一方神社に関しては特別官署を設置して、先ず制度上にて両者の区別を明かにすべしとの議が帝国議会に建議され、
即ち『神社は皇祖皇宗若くは国家の元勲を奉斎し、君臣上下の挙げて崇拝するところにして、いわゆる宗教に混同すべきものでない、然るにその事務を宗教事務と共に社寺局にいれて置くは、民新に疑惑を生ぜしめ区別を不明にするものである』
との理由にて社寺局を分離すべしとの右建議は採択せられ、
その結果三十三年四月には社寺局を廃止して神社宗教の二局を置き、神社局は神官、官国幣社、府県郷村社、招魂社、その他神社に関する事項、および神官神職に関する事項を司り、宗教事務はこれを宗教局に属せしめ、ここに神社と宗教とは制度上混同すべきでないとの政府の態度は明瞭になった。
しかして今日神職にして葬祭を行っている習慣を見るが、内務省ではこれは個人として執行しているものであるとしている。
<以上引用>
◆整理しきれなかった点
1)鎮魂施設として「靖国」が在ることはさておき、それが「神社」であるのは適正だったのか。
2)「神社」は明治維新前(=神道)と後(=国家神道)では意味合いが異なるが、そこはどこまで定説化・明文化されていて、どこまで世間の共通認識になっているのか。
3)昭和帝が参拝を止めた施設に、なぜ保守政治家は足げく通うのか。
4)御霊を神社に祀ること(※神道的な扱い)とは、亡くなった者を成仏(※仏教的な扱い)させないということになる。これは死者が「先祖になれない」ということでもある。この点はどう解釈されているのか。
[追記]
靖国神社の財政破綻
靖国神社に寄付金や会費を納める戦没者遺族が高齢化し年々減っていくため、神社財政は苦しい。同神社は元々宗教法人ではなく官僚機構だったので、今後新たな財源ほしさに変節する可能性がある。
<以上引用>
靖国神社では GHQ の意向を知るために、 (昭和20年)11月26日、 横井時常権宮司らが岸本助教授、 宮地教授を同行して、 (GHQの)バンスを訪問した。 この時、靖国神社側が携えたのは 「廟宮制」 である。 廟宮とは、 慰霊安鎮を目的とする遺族中心の神社を公益法人として経営する案で、 バンスの一定の評価を得た靖国側は年末までに 「靖国廟宮庁規則」 案を作成した。
これとは別に、 政府側では、 祭神を氏子とする一神社として存続する案を考えていたのであり、 また、 バンスは戦死者の記念碑とする案の存在も示唆している。
明けて、 昭和21年1月19日、 廟宮への移行を考える靖国神社側と、 神社としての存続を主張する政府側 (第一復員省、 終戦連絡中央事務局) との意見調整が図られ、 神社としての祭祀を行うという実質に変化がないのなら、 靖国神社という社号を残すべきだ、 という結論になったという。
<以上引用>
上記資料内で言及されている、一般兵の合祀が最初に審議された国会
第012回国会 外務委員会 第3号 昭和26年11月2日
○菊池委員 ちよつと関連して……。靖国神社が国家管理といいますか、それを離れた、それはどういう原因からでございますか。(略)
○荻野説明員 (略)政教分離の原則から来ております。これは現在の憲法におきましても、その点ははつきりいたしております。憲法もやはり同じ精神であると思うのでございます。
従つてやはり靖国神社の場合も、その神社が他の一般の神社と比較しまして特殊な性格を持つた神社でございますけれども、やはり神社であることにはかわりはないのであります。従つて政教分離という原則から、国家管理を離れたのであります。
<以上引用>
第024回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号
昭和31年2月14日
○金森(徳次郎)参考人 (略)国が公けにその性格をきめるというところには、宗教的色彩を出さないようにしてもらいたいということなんです。つまり、一種のシンボルと申しましょうか、象徴のようなものを作るわけでありまして、それに何という名前をつけるか、それは今私の知ったことではございません。
昔、明治の初めに、各地にできたものを、招魂神社とは言わないで、招魂社という言葉を使っておったのでありまして、多分あれは今の神社とは少し意味が違っておったものであろうかと思いますが(略)
<以上引用>
東京招魂社の成立過程とその問題点
現在の京都護国神社である京都招魂社を訪れてみると、東京招魂社とはかなり趣の異なる、東京招魂社とは全く別の伝統で作られたもであることが理解できるのである。ここは、基本的には仏教文化をベースとして墓地から発生しているのである。
もともと、古くからこの鴨川の東側は、京都で行き倒れになった身元がいろいろ‘いわくあり’の人々を埋葬する場所であった。この招魂社に墓があるもっとも有名な人物は坂本龍馬であるが、龍馬も京都で刺客に倒され、頓死したもっとも曰くありの人物なのである。
墓であることは明白なのであるが、墓の入り口に小さな鳥居が取って付けたように建てたれている。純然たる神道の地でないことは明白であり、仏教に深く馴染んでいる京都の民衆が、時の政権にとって不要あるいは邪魔となってであろう龍馬が暗殺されたことに、深い哀れみを抱いてここに墓地を作ってやったという経過でできあがったのである。
もともと非業の死を遂げた人物とは、神道のご神体を奉納するという場というものとはもっとも馴染まない存在であり、(略)墓付きの神社というのはここ以外に探し出すことが困難であるからである。
<以上引用>
制度の上で判然たる神社宗教の別 調査会の疑義に対する神社局の見解
東京朝日新聞 大正15年6月4日
わが国の神社は明治初年においては宗教と混同せられた形跡はないでもない。
明治五年六月には遂に教部省は神職の葬祭執行を認めたばかりでなく、神職は教導職に補任せられ、あるいは教院説教所と神社と混同せられていた。
然るに十一年一月教部省廃止と共に教導職は内務省社寺局に移り、政府の布教に対する態度は一変した。
次で十五年一月には神官の教導職兼務を廃し、神官は葬儀に関与することを禁じ、神社と教院との区別を明瞭ならしめんとしたが、十五年五月以来九月にわたり神道派は数派に分離し、そのうちには神官僧りょを合同し、三条の布教に従事せしめんとする二三の神道派も生じ、政府の根本方針は崩されんとしたに鑑み、十七年八月には遂に政府は教導職を廃止し、神道教師は専ら神道管長の支配に属せしめ、神道各派は名実共に宗教として神社の外に独立する事となった。
かくて十七年に至り、政府は宗教と祭祀との区別を判然として、国家の祭祀たる神社を、仏教あるいは宗派神道と混同する事なからしめたが、その時キリスト教の勢力は次第に発展し、外人牧師中には神社あるいは氏子制度に関する諒解を欠くものも生じたに鑑みて、政府は益々右両者の区別を明瞭にする必要に迫られたものである。
然るに一方神社に関しては特別官署を設置して、先ず制度上にて両者の区別を明かにすべしとの議が帝国議会に建議され、
即ち『神社は皇祖皇宗若くは国家の元勲を奉斎し、君臣上下の挙げて崇拝するところにして、いわゆる宗教に混同すべきものでない、然るにその事務を宗教事務と共に社寺局にいれて置くは、民新に疑惑を生ぜしめ区別を不明にするものである』
との理由にて社寺局を分離すべしとの右建議は採択せられ、
その結果三十三年四月には社寺局を廃止して神社宗教の二局を置き、神社局は神官、官国幣社、府県郷村社、招魂社、その他神社に関する事項、および神官神職に関する事項を司り、宗教事務はこれを宗教局に属せしめ、ここに神社と宗教とは制度上混同すべきでないとの政府の態度は明瞭になった。
しかして今日神職にして葬祭を行っている習慣を見るが、内務省ではこれは個人として執行しているものであるとしている。
<以上引用>
◆整理しきれなかった点
1)鎮魂施設として「靖国」が在ることはさておき、それが「神社」であるのは適正だったのか。
2)「神社」は明治維新前(=神道)と後(=国家神道)では意味合いが異なるが、そこはどこまで定説化・明文化されていて、どこまで世間の共通認識になっているのか。
3)昭和帝が参拝を止めた施設に、なぜ保守政治家は足げく通うのか。
4)御霊を神社に祀ること(※神道的な扱い)とは、亡くなった者を成仏(※仏教的な扱い)させないということになる。これは死者が「先祖になれない」ということでもある。この点はどう解釈されているのか。
[追記]
靖国神社の財政破綻
靖国神社に寄付金や会費を納める戦没者遺族が高齢化し年々減っていくため、神社財政は苦しい。同神社は元々宗教法人ではなく官僚機構だったので、今後新たな財源ほしさに変節する可能性がある。
<以上引用>
2013年09月20日
ノベライズ版『パシフィック・リム』感想
◆映画では色々端折られていた細かい設定、心理描写等が書かれているので必読。
これを先に読んで大筋を頭に入れてから映画を見るというのも有り。
ちなみに映画内でのジプシー・デンジャーは死ぬほどカッコ良かったス。
2013年05月16日
Intermission
2013年03月03日
今里広記 その魅力(7)
前回今里広記(6)のつづき ※シリーズ最終
参考文献:
『今里広記から学ぶ 男の魅力学 - 男が惚れる男の生き様』
永川幸樹・著 ワニブックス、1985(昭和60)年
(三井三池争議が起きた昭和34年、日本共産党はそれまでの強硬路線からソフト路線に闘争方針をシフトし、その結果としての組織拡大は財界にとって脅威であった)
さしせまっての課題は三池争議の早期解決であり支援であった。そしてこの事態を最も憂慮していたのが、労使解決の窓口であり最高責任者であった日経連代表常任理事の桜田武であった。桜田は事態のなりゆきを厳粛に受け止めてこう呼びかけたのである。
(桜田)「残念だが、この争議は早期解決はむずかしいかもしれぬ。(略)ここまでくれば三池だけの問題ではないはず。おたがい応分の力を出し合って結集しようではないか」
(略)言うまでもなく、一流企業やトップ財界人のほとんどが呼びかけに応えてくれた。企業としての支援参加も百数十社にのぼったのである。じつは、このときも裏では、時の日経連広報委員長から総理事になったばかりの今里広記の陰の活躍が秘められていた。
というのは、桜田が呼びかけたこうした一連の動きはすべてが極秘のうちにおこなわれたばかりでなく、支援組織として準備した事務局も、じつは、「秘密結社」的なものにせざるを得なかったのである。そして、これを全て裏でとり仕切っていたのが今里だった。
(中略)
まず、会の名称からして 「共同調査会」。外部の人が見たら、それこそなんのことやらさっぱりわからぬような名称。事務局は、日比谷の日活ビル(日活国際会館、のちの日比谷パークビル、参考)。
しかし、会の名前はあっても、事務局に看板をかかげることもさけた。事務局は4階の「415室」。ドアにはただそれだけのプレートが貼り付けられてあるだけだった。
(略)しかし、これに反して組織の内部構造は豪華そのものだった。(略)
まず12人の幹事が選ばれた。
小林中(当時、アジア協会会長)、水野成夫(同サンケイ新聞社長)、永野重雄(同富士製鉄社長)、植村甲午郎(同経団連副会長)、佐藤喜一郎(同三井銀行会長)、芦原義重(同関西電力社長)、松下幸之助(同松下電器社長)、松原与三末(同日立造船社長)、堀田庄三(同住友銀行頭取)、野渕三治(同日本碍子社長)、それに桜田、今里である。
(略)
それは文字通り、財界を上げての総力戦のかまえだったのである。
また、この下には補佐役(※補佐会議)として、井深大(ソニー社長、参考)、鹿内信隆(同ニッポン放送専務)、小坂徳三郎(同信越化学社長)、早川勝(同日経連専務理事、※怪しい人)、坪内嘉雄(のちダイヤモンド社会長、※怪しい人)の5名がついた。事務局は、早川・坪内の二人が交互に駐在し、担当した。
(略)
こうして、まず1億円(当時)の金が現地闘争本部へ送られた。ややもすれば、あまりにすさまじい組合側の攻勢に、ついひるみがちだった経営者側も、メガトン級のこの支援体制の出現で、いっぺんに息を吹き返した。組合内部の切り崩しのための、「第二組合」 の早期実現など、その最もたるものであったろう。
組合側は、こうした経営者の隠密工作がじりじりと自分たちの身近に迫っていることも知らず、ただただ総評幹部の口車にのせられて暴力沙汰をエスカレートさせるばかりであった。
(当時岸信介内閣は崩壊寸前で、共同調査会は労働大臣・松野頼三の日和見の姿勢に見切りを付け、代わりの大臣探しを始めた。今里は財界トップクラスの意向を一通り打診し、桜田と協議の結果、第1次岸改造内閣の労働大臣であった石田博英を、ふたたび労相として第一次池田内閣に入閣させた)
「共同調査界」はこうしてみごとな援護射撃をして三池闘争を勝利に導いたが、これですぐ解散したわけではなかった。(略)創立の目的はただそれだけではなかったからだ。目的はあくまで「自由主義陣営を守り抜く」ための「秘密防共組織」−−ここにあったのである。
したがって、会はこのあと当初の目的に則って(秘密工作ではあるが)あらゆる防共活動を展開した。そして、この「秘密結社」は昭和43年暮れまでつづいたのである。(略)今里がこのとき(※三池争議)の心労や無理がたたって一時健康を害したことはあまり知られていない。
<以上引用>
◆文章だけ読むと今里、相変わらず大したことはしていないようですが、
健康を害すほどの心労、ということは、オフィシャル本では表立って
言えないことをあれこれしていたんだろうな、という感想。
◎真・今里広記(1)へつづく
▼関連リンク
余多歩き - 今里広記と田中清玄/全学連/三代目
その頃の話でいえば、六〇年安保ブントの篠原浩一郎(社学同書記長)が、田岡三代目自身が社長をしていた甲陽運輸で一時経理をやってるんですよね。(略)
経済人脈でいえば、田中清玄がつないだ経済人は、つまり、それぞれの会社に労働組合があって、労働運動で相当困ってた経営者が多かった。そうした中で篠原が言うのは、日本精工社長の今里広記なんです。
あそこの労働組合がまたものすごかった。だから、今里広記を田中清玄は田岡三代目に紹介した。で、田岡三代目は篠原浩一郎を今里広記に付けるわけです。そうして労働組合つぶしを篠原浩一郎にやらせるという、そういう形になった。
(略)
だから、経団連に加盟してる大きな会社に何か紛争が起こった場合に、今里さんが、さて、この紛争を解決できるのは田中清玄か児玉誉士夫かという、判断を下してたんですよ。
<以上引用>
ネットジャーナル「Q」 - 「三池」の映画を観て
「(三池争議の労組側の資金は)組合員一人あたり300円。(全国の炭労の組合員)400万人にして12億。あと8億はですな、いろいろなカンパ、それから寄せ集め。よう集まったですよ。
総評の決算表にも載っとるから、もう公表してあるやつはあんたに隠し立ててもしょんなかろうけん。そんか書類は会社側も回るわけだから、あれには22億って書いてあるよ。(会社側は) “あ、そうかい” って言いおった。そげん人に聞いたら、自分の方も(いくら使うたて)言わじゃこて。
もぐもぐ言いよったが、220億使うたって言って。“へぇー” って。ちょっと多いね。しかし昔からこういう大闘争になると、(会社と組合の資金は)10対1って。ちょうどだからね、220億。いみじくもおうて、びっくりした」
<以上引用>
さくらの読書スイッチ - 091『メディアの支配者 上・下』 中川一徳
(共同調査会の)会員を束ねる執行部は機構上、意思決定をつかさどる幹事会と方針を企画し運営にあたる補佐会議に大別された。(略)党員リストの入手を含めて実務を担ったのは補佐会議のメンバーである。(略)
(坪内)「会の運営にあたる補佐会議は、鹿内さんが中心となって毎週火曜日の1時から2、3時間かけて開き、私が事務をとった。会合場所だった415号室は、会員にも知らせていない秘密事務所です。もうひとつ、丸ビル5階にも小部屋があり、日経連の元総務部長がカネの管理をおこなっていた」
(略)
年会費は資本金によって一口百万円と70万円に分かれ、集められた年間予算はおよそ2、3億円に上った。設立当初は櫻田、今里らがカネ集めに回ったという。
企業は反共などという抽象的な理念でカネを出すのではない。
「リストを示し党員が相当数に上ることを明かして 『このままではあなたの会社は破壊される。協力してください』 と呼びかけることが会員獲得の決め手だった」 と坪内は言う。
<以上引用>
◆共同調査会は三池のために作った組織ではないということ。
参考文献:
『今里広記から学ぶ 男の魅力学 - 男が惚れる男の生き様』
永川幸樹・著 ワニブックス、1985(昭和60)年
(三井三池争議が起きた昭和34年、日本共産党はそれまでの強硬路線からソフト路線に闘争方針をシフトし、その結果としての組織拡大は財界にとって脅威であった)
さしせまっての課題は三池争議の早期解決であり支援であった。そしてこの事態を最も憂慮していたのが、労使解決の窓口であり最高責任者であった日経連代表常任理事の桜田武であった。桜田は事態のなりゆきを厳粛に受け止めてこう呼びかけたのである。
(桜田)「残念だが、この争議は早期解決はむずかしいかもしれぬ。(略)ここまでくれば三池だけの問題ではないはず。おたがい応分の力を出し合って結集しようではないか」
(略)言うまでもなく、一流企業やトップ財界人のほとんどが呼びかけに応えてくれた。企業としての支援参加も百数十社にのぼったのである。じつは、このときも裏では、時の日経連広報委員長から総理事になったばかりの今里広記の陰の活躍が秘められていた。
というのは、桜田が呼びかけたこうした一連の動きはすべてが極秘のうちにおこなわれたばかりでなく、支援組織として準備した事務局も、じつは、「秘密結社」的なものにせざるを得なかったのである。そして、これを全て裏でとり仕切っていたのが今里だった。
(中略)
まず、会の名称からして 「共同調査会」。外部の人が見たら、それこそなんのことやらさっぱりわからぬような名称。事務局は、日比谷の日活ビル(日活国際会館、のちの日比谷パークビル、参考)。
しかし、会の名前はあっても、事務局に看板をかかげることもさけた。事務局は4階の「415室」。ドアにはただそれだけのプレートが貼り付けられてあるだけだった。
(略)しかし、これに反して組織の内部構造は豪華そのものだった。(略)
まず12人の幹事が選ばれた。
小林中(当時、アジア協会会長)、水野成夫(同サンケイ新聞社長)、永野重雄(同富士製鉄社長)、植村甲午郎(同経団連副会長)、佐藤喜一郎(同三井銀行会長)、芦原義重(同関西電力社長)、松下幸之助(同松下電器社長)、松原与三末(同日立造船社長)、堀田庄三(同住友銀行頭取)、野渕三治(同日本碍子社長)、それに桜田、今里である。
(略)
それは文字通り、財界を上げての総力戦のかまえだったのである。
また、この下には補佐役(※補佐会議)として、井深大(ソニー社長、参考)、鹿内信隆(同ニッポン放送専務)、小坂徳三郎(同信越化学社長)、早川勝(同日経連専務理事、※怪しい人)、坪内嘉雄(のちダイヤモンド社会長、※怪しい人)の5名がついた。事務局は、早川・坪内の二人が交互に駐在し、担当した。
(略)
こうして、まず1億円(当時)の金が現地闘争本部へ送られた。ややもすれば、あまりにすさまじい組合側の攻勢に、ついひるみがちだった経営者側も、メガトン級のこの支援体制の出現で、いっぺんに息を吹き返した。組合内部の切り崩しのための、「第二組合」 の早期実現など、その最もたるものであったろう。
組合側は、こうした経営者の隠密工作がじりじりと自分たちの身近に迫っていることも知らず、ただただ総評幹部の口車にのせられて暴力沙汰をエスカレートさせるばかりであった。
(当時岸信介内閣は崩壊寸前で、共同調査会は労働大臣・松野頼三の日和見の姿勢に見切りを付け、代わりの大臣探しを始めた。今里は財界トップクラスの意向を一通り打診し、桜田と協議の結果、第1次岸改造内閣の労働大臣であった石田博英を、ふたたび労相として第一次池田内閣に入閣させた)
「共同調査界」はこうしてみごとな援護射撃をして三池闘争を勝利に導いたが、これですぐ解散したわけではなかった。(略)創立の目的はただそれだけではなかったからだ。目的はあくまで「自由主義陣営を守り抜く」ための「秘密防共組織」−−ここにあったのである。
したがって、会はこのあと当初の目的に則って(秘密工作ではあるが)あらゆる防共活動を展開した。そして、この「秘密結社」は昭和43年暮れまでつづいたのである。(略)今里がこのとき(※三池争議)の心労や無理がたたって一時健康を害したことはあまり知られていない。
<以上引用>
◆文章だけ読むと今里、相変わらず大したことはしていないようですが、
健康を害すほどの心労、ということは、オフィシャル本では表立って
言えないことをあれこれしていたんだろうな、という感想。
◎真・今里広記(1)へつづく
▼関連リンク
余多歩き - 今里広記と田中清玄/全学連/三代目
その頃の話でいえば、六〇年安保ブントの篠原浩一郎(社学同書記長)が、田岡三代目自身が社長をしていた甲陽運輸で一時経理をやってるんですよね。(略)
経済人脈でいえば、田中清玄がつないだ経済人は、つまり、それぞれの会社に労働組合があって、労働運動で相当困ってた経営者が多かった。そうした中で篠原が言うのは、日本精工社長の今里広記なんです。
あそこの労働組合がまたものすごかった。だから、今里広記を田中清玄は田岡三代目に紹介した。で、田岡三代目は篠原浩一郎を今里広記に付けるわけです。そうして労働組合つぶしを篠原浩一郎にやらせるという、そういう形になった。
(略)
だから、経団連に加盟してる大きな会社に何か紛争が起こった場合に、今里さんが、さて、この紛争を解決できるのは田中清玄か児玉誉士夫かという、判断を下してたんですよ。
<以上引用>
ネットジャーナル「Q」 - 「三池」の映画を観て
「(三池争議の労組側の資金は)組合員一人あたり300円。(全国の炭労の組合員)400万人にして12億。あと8億はですな、いろいろなカンパ、それから寄せ集め。よう集まったですよ。
総評の決算表にも載っとるから、もう公表してあるやつはあんたに隠し立ててもしょんなかろうけん。そんか書類は会社側も回るわけだから、あれには22億って書いてあるよ。(会社側は) “あ、そうかい” って言いおった。そげん人に聞いたら、自分の方も(いくら使うたて)言わじゃこて。
もぐもぐ言いよったが、220億使うたって言って。“へぇー” って。ちょっと多いね。しかし昔からこういう大闘争になると、(会社と組合の資金は)10対1って。ちょうどだからね、220億。いみじくもおうて、びっくりした」
<以上引用>
さくらの読書スイッチ - 091『メディアの支配者 上・下』 中川一徳
(共同調査会の)会員を束ねる執行部は機構上、意思決定をつかさどる幹事会と方針を企画し運営にあたる補佐会議に大別された。(略)党員リストの入手を含めて実務を担ったのは補佐会議のメンバーである。(略)
(坪内)「会の運営にあたる補佐会議は、鹿内さんが中心となって毎週火曜日の1時から2、3時間かけて開き、私が事務をとった。会合場所だった415号室は、会員にも知らせていない秘密事務所です。もうひとつ、丸ビル5階にも小部屋があり、日経連の元総務部長がカネの管理をおこなっていた」
(略)
年会費は資本金によって一口百万円と70万円に分かれ、集められた年間予算はおよそ2、3億円に上った。設立当初は櫻田、今里らがカネ集めに回ったという。
企業は反共などという抽象的な理念でカネを出すのではない。
「リストを示し党員が相当数に上ることを明かして 『このままではあなたの会社は破壊される。協力してください』 と呼びかけることが会員獲得の決め手だった」 と坪内は言う。
<以上引用>
◆共同調査会は三池のために作った組織ではないということ。