2016年03月07日

浜松 大福もち食中毒事件

◎衛生史上、有名な事件に気になる人名が登場

紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件 久保親弘


上記の話の中で登場するこの二名

 ・石井四郎(731部隊のあの人物、この当時同部隊の母体は発足済み) 
   参考Wikipedia

 ・小宮喬介(名古屋医大教授、下山事件の法医学論争で登場する人物)
   参考:『小宮喬介博士の暗躍? 全研究下山事件』

 ※事件の過程で二人が直接関わる場面はない。

また事件の主因である病原菌=ゲルトネル氏腸炎菌が
パラチフス菌類似のコロニーを形成するものであったこと。

▼参考:新聞記事

大福餅の中毒で患者五百名を出す 浜松一中運動会の土産もの 三名死亡・重態多数(昭和11年5月13日)

鉱物性の中毒 死者既に三十八名に及ぶ浜松の毒餅事件(昭和11年5月14日)

大福禍の中毒素ゲ氏菌の正体 独逸のゲルトネル氏が発見 主として牛豚肉に(昭和11年5月17日)

餡中毒の正体暴露 怖るべき猛毒菌 ゲルトネル氏菌を摘出す 結局製造元の不注意(昭和11年5月18日)

※記事中「餡に菌が混入」といった表記が見られるが、これは最初のリンクに記載がある通り「餅取粉」に混入したもの。餅取粉とは要は澱粉なので常態では湿気を含まない粉末状物質。

2015年06月24日

Intemission

◎面白い本が出ましたよ

『下山事件 暗殺者たちの夏』 柴田哲孝 ※Amazonリンク

なつ

















「小説だからこそ、書けることがある。
 (中略)
私はここに、小説『下山事件 暗殺者たちの夏』によって、
再び事件の“真相”を問う」
(公式サイト・著者「あとがき」より引用)

◆小説仕立てではありますが、著者柴田氏が新たにつかんだ情報、
 これまで出せなかった情報などが織り込まれているかと思しき一冊です。

 事件に直接/間接的に関わった人たちの相関もかなり整理されています。


▼同書を読む前に知っておくと有益な情報

国鉄 ロマンス社事件(1) 同(2)

ロマンス社 倒産の経緯(1) 同(2) 同(3)


▼その他
下山事件 インデックス

2015年05月21日

日本鋼管 小伝

◎田中清玄と塩田剛三(リンク)で記された
 昭和20年代の日本鋼管周辺の別角度からの伝聞

引用元:
川崎在日コリアン生活文化資料館
「戦後日本鋼管周辺の日本共産党細胞活動とコリアン」


〇笠原儀一氏
昭和23年 川崎へ 22歳:
正月に群馬県から今住んでいる池上新町に建売を買ってすみました。義理の兄をはじめ、親族に日本鋼管の役付きがいて、そのツテで(昭和)23年に来てすぐ入社できました。(日本鋼管の社長も群馬出身) 今思うと建売は高く、24万もしました。(6畳と3畳 二間しかなかった)

現場仕事に行ったら、大変で、こんなところにいられないと一度群馬に帰えってしまいました。今鋼管に入っとかないと、はいれなくなると親族に説得され、9月まで群馬の田舎にいたが、その年の9月に川崎に戻って、再度、鋼管で働きました。コークス工場配属1300度の高炉、大島工場で働きました。

朝鮮人差別 レッドパージ: 
入社した昭和23年ころ、レッドパージが始まる前は、2名共産党員が組合にいました。共産党員がいなくなったらだめになると考え、レッドパージされた労働者を守衛をごまかして、食堂に入れて飯食わせたりしました。レッドパージ後、3人の党員が入りました。

レッドパージの時、鋼管の中が中心。300人くらいいました。パージされた人が食堂に行くのに手伝いました。大島のほうは、金網張って入れないため、セメント通りのほうから入って、食堂に入れてあげて召し食わせました。

当時、会社のコークス工場には、全体600人の労働者が働き、朝鮮人は6〜7人いたかな。下請け北島商店からの人夫としていました。会社が朝鮮人はいっしょに風呂入れないなど、差別していました。

戦争中の朝鮮人のお骨が、高炉のコークスを冷やしたノロの捨て場(トロッコみたいなのにコークスを水で冷やし、ひっくり返して捨てる場所)に、骨がいっぱいあった。大きな穴の下に朝鮮人の骨があって、骨に コンクリか鉄板の覆いがしてあって、その上にコークスを捨てたのを見た。

人の話だと、桜本三丁目(池上町)に死体の焼き場があった。焼いたのは朝鮮人。そこで焼かれて、骨を捨てたということです。戦争中朝鮮人に焼かしたり、捨てさせたりしたと聞いています。空襲などで死んだりした人の分も焼いたそうです。

昭和28年2月10日結婚:
昭和29年扇島に配転する話が来ました。共産党やめれば、役職にするという話がありました。しかし、その当時は、私は共産党に入党していません。組合では、社会党と共産党といっしょにやろうという方針で、同志会を結成して、労働組合活動を行っていました。昭和30年ころ、私は事務局長の肩書きでした。

池上座り込み闘争:
昭和30何年。ノロの捨て場にトロッコを倒して空けて、捨てたところに雨が降って、爆発しました。爆発してノロが散乱し、落ちてきてあちこちに火事が起きました。その時は議員になってすぐの時です。金木議員といっしょでした。線路にむしろを敷いて座り込みをしました。300人くらい集まりました。日本の人もいました。ノロを運ばせないように座り込み、その結果、鋼管の敷地内をトロッコが通るように軌道修正させました。

引込み線は何回も爆発しました。7〜8箇所火事になったが、早く家を建てちゃえって、鋼管の土地だから、立ち退かされないよう、役員が来る前に 組合の役員やシンパが協力した。爆発する前。赤旗にものっていない。55年くらいに、ノロの捨て場を入江崎のほうへ移しました。

入党:
党員になったのは、59年(昭和34年) 座り込んだのは地域の方々と笠原と金木。会社に働いてたといき、共産党をやめろやめろといわれたが、まだ党員ではありませんでした。職場細胞。細胞長は鋼管の中に13〜4こあった。800人くらいいた。

59年入党。朝鮮人の活動家との付き合いはなし。市会議員になって、付き合いが多くなった。自宅の裏に金さんがいた。朝鮮学校の先生。あと湯村という朝鮮人。湯村さんは、共和国に引き上げました。杉山さんも(韓国人)帰国の運動をした人で、送別会などが多かった。

日本鋼管で共産党 池上新町入党10日目で、ビラ配り、公然活動。入党して3年くらいたって、飯島さん(後述の飯島善蔵氏)を元共産党員かもしれないと思うようになってきた。ちょっと赤旗もって働きかけました。議員になるだいぶ前の話です。

池上新町に飯島さんが昭和31年に引越してきました。そのあと、中西功氏が再入党手続きを試みました。しかし身元調査でだめでした。
(中略)

その他:
池上町にはずいぶん人がいました。スクラップが多く、入るとぶた、犬が10匹ぐらい追いかけてきました。新聞赤旗配布は30軒くらいありました。その後、総連になった時、朝鮮人は赤旗をとらなくなりました。

失対事業デモの激励もよくした。警察が全部情報集めをしていた時代。自宅の裏に、杉山さんの家を間借りしたいから世話してほしいという人がいて、調べたら警察でした。警察に捕まった人を取り戻しにきていて、投石とかずいぶんありました。そのため、情報集めのために借りたかったのでした。池上町で密造して、まだ留置場にのこってるからだせと詰め掛けていました。サッカリンもありました。
(略)
追っ払われて、塩浜へいきました。昭和23年ころ。朝鮮人の山下、山田、みんな共和国へ帰っていきました。それから、いろんなものがないから送ってくれっていうたよりが北からきていました。(以下略)


〇飯島善蔵氏、松子氏
昭和28年ごろ 日朝協会入江崎支部結成 立ち退き反対闘争:
立ち退き問題が、川崎南部の随所で起こっていました。入江崎の部落も来そうな情勢がありました。石炭の山から鋼管の幹部が弁護士と部落を見渡していました。

日本人住民は、最近来て住んでいるのでそんな権利主張などおこがましいといった空気があり、1,2万でももらえればすぐ出て行きますよという雰囲気でした。

朝鮮人は、当然、歴史的に働かされてきた経緯があり、権利主張をしようという状況が強くありました。「朝連」の幹部(崔さん)がオルグにきました。励まされるように、あなたたち日本人も貧困の中、住居を主張する権利がある、いっしょに闘おう、日朝協会を結成しようというふうになっていきました。

日朝協会入江崎支部の結成会、選挙で飯島善蔵が会長、副会長に日本人住民の長老格と朝鮮人住民の長老格が選出されました。しくまれていたように、飯島さんが選出されました。朝連幹部に連れられて、日朝協会川崎支部の会合に行きました。

それまで、上部団体があることも、力になってくれることも知りませんでした。旧こみや近くのお寺で、日朝協会川崎支部の会合に呼ばれました。社会党中島秀夫氏、高橋健太郎氏という市議会議員など、偉い人たちがいて、朝連幹部が経過説明、会長、副会長は、他に住むとこがない、よろしく頼みますなどの嘆願程度を訴えました。

「日朝協会の名を立ち上げたなら、支援しないわけにはいかないな」といわれました。後日1回だけ、金刺市長の面会がセットされ、一張羅を着込んで市長面会しました。私(飯島)が31歳のころで、「青年将校がきたか」と市長に言われたことを覚えています。

その後は、朝連の方か、川崎支部のほうで段取りよく進め、立ち退きを妥結。1軒30万〜35万円ほどで公平に分配されました。畑があるとか、家族が多いとかで多少の増減をつけましたが、苦しい人にもきちんと保障すべき、来たばかりの人も同じように困っているとみんなをまとめて配分してくれました。私も30万円もらいました。

他の地域の立ち退きでは、ごねどくと居座る人が出たり、一部の人がたくさんもらって、日本人や来たばかりの人には、少ししか渡さないなどのことがあったようです。入江崎支部は立ち退き闘争の模範のように言われました。

昭和31年には立ち退きが完成しました。入江崎を立ち退いた30軒あまりは、味の素のほうの部落に移っていきました。私は30坪くらいの池上新町の現在の土地を21〜22万円で購入し、家を建てました。立ち退きで、入江崎支部は自然解散しました。(以下略)
<以上引用>

▼関連
同サイト 川崎駅前「どぶろく横丁」の形成




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2015年04月22日

一万田尚登と三浦義一の家系図

引用元『政財界人の命運』(名取義一、北辰堂、昭和27年)

一万田尚登/高橋龍太郎 家系図 ※クリックで拡大
一万田













高橋(龍太郎)家は愛媛の出で大したことはなかったが、長男の吉隆氏(大阪銀行人事部長)が山口竹治郎氏(大阪貯蓄銀行元頭取)の女婿になっていたため面白い家系となってしまった。

というのは、この吉隆氏の細君になる次さんのすぐの実弟・山口洋三氏は後に、今を時めく日銀の一万田(尚登)法王の長女・和子さんをもらっているからだ。
(中略)

高橋家が四国は愛媛なら、一万田家は九州は大分である。こういう家系は珍重に値する。しかも双方とも一代にして築きあげたものである
(中略)

一万田総裁は今こそ金融界の法王といわれているが、その著書によれば、子供の時は家が貧しくて跣足で学校に通ったとのこと。
(中略)

(一万田も現状以上の野心があるとすれば政党総裁か総理大臣になるくらいのものだが)これは噂かもしれないが、彼は「俺はよし日銀総裁を辞めても2億円ぐらいの軍資金はかき集められる」と豪語したという。
(中略)

この高橋・一万田両家系のなかでは強いて言って政治家は高橋通産相のみで、あとは経済人ばかりである。旧軍人、官僚、学者、芸能人すら見られないというのはどうしたことだろう。(略)一万田家そのものは淋しい。
<以上引用>

◆その軍資金をかき集める力になりそうなのが三浦義一

三浦家 系図 ※クリックで拡大
義一家系図














三浦一平の次女・眞佐が溝部荘六(一万田尚登の妻・誠子の実弟)に嫁いでいるが、これは溝部荘六が三浦義一の少年期からの友人であったことが縁らしい。
(義一より尚登の方が5歳年長)
 参考:『当観無常』(4) 

また、一平の長女・久(義一の姉)が嫁いだ衛藤顕という人は弁護士を職業とする人らしいが、下記のような事件に連座している。
無尽業法と施行前に為したる無尽契約及法人の犯罪能力
法律新聞 1916.11.15(大正5)


三男・信夫は大映常務〜東京スタジアム副社長。若いころは大映労組の委員長だったもよう。 参考:キネマ旬報 第901〜904号

末弟の三浦四郎は昭和20年代後半〜30年代初頭に飯野海運の総務課長を務めている。 参考:Wikipedia 三浦一平

ちょうど造船疑獄のあった時期に飯野海運に勤務、しかも総務担当というのは色々ありそうで興味深いところ。

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2015年03月02日

下山事件前後(85)

◎金銀運営会の沿革と関連する人物たちについて

「荒木光太郎文書解説目録」名古屋大学
【9】財政金融協会
財政金融協会は渋澤敬三が理事長を務める財団法人である。設立年は確定しえなかったが、1944(昭和19)年5月30日に第1回経理委員会が開催されていることや、後述の設立経緯により、43年末〜44年初頭と推定される。一方、解散決定は戦後1945(昭和20)年10月26日であった。
(中略)
財政金融協会の設立経緯に関してきわめて興味深い人物が、理事の矢板玄蕃である。矢板は1939年に民間の退蔵金吸収を目的として設立された金銀製品商連盟の専務理事で、1943年の解散時には代表精算人も務めていた。

その剰余財産は、財団法人財政金融協会と社団法人金銀運営会(理事長:矢板)とに寄付されており、後者の「金銀運営会は金銀製品商連盟の残余資産を承継して1943年12月設置」ともいわれている。

したがって、財政金融協会も金銀運営会と同様、金銀製品商連盟の残余資産で同時期に結成された団体と考えるのが妥当であろう。
<以上引用>


『経済団体総覧』(昭和16年) - 社団法人 金銀製品商連盟
※クリックで拡大
kingin_renmei

















所在地 東京市日本橋区室町3-2 シュミット商会(※ライカビル)隣接
設立 昭和14年9月29日
事務主催者  専務理事 矢板玄蕃  常務理事 越村暁久
会長 東郷安  常務理事 宮村暦造

目的:国策に順応し貴金属品製造卸業者及小売業者より商品たる金銀製品及貴石類其の他を蒐集し政府指導の下に国庫に収納又は輸出を為すこと。

沿革:昭和14年7月29日 設立委員会を開催、事務所を麹町区丸の内1-2 仲28号館横河電機株式会社に設け事業開始の準備を為し、而して更に事務所を日本橋区室町3-2に移転し11月15日より開始し今日に到る。
<以上引用>

  ※引用注:
    東郷安=海軍中将・東郷正路の長男で横河電機社長
    宮村暦造=海軍大佐、空母「加賀」の建造(艤装)責任者
    昭和14年1月に第一次近衛内閣総辞職、2月に金製品の買い上げが決定


『海軍 - 加藤郤F記』
「第一日午前、矢板玄蕃来り、(橋本)左内全集出版に関し詳細報告す」
  ※加藤郤は福井市出身の海軍大将。矢板玄蕃が出入りしていたもよう。
   橋本佐内は越前国福井藩の重要人物。

「東京大学旧職員インタビュー 平泉澄先生 午後の部」
福井県に人材を育成し世に出すシステムがあり、そこから矢板玄蕃と加賀山学(加賀山之雄・二代目国鉄総裁の兄)を輩出しており、両者知己である次第。なお、加賀山之雄も福井県出身。


▼加賀山学と迫水久常は岡田啓介を介して縁戚であること
『父と私の二・二六事件』 岡田貞
「岡田喜又(啓介の弟)鉄道省局長加賀山学の妹貞と結婚」

『歴代宰相物語』 松本幸輝久
「迫水は親戚の加賀山学(前国鉄総裁の実兄)ら老人ばかり十人を選んで自動車で官邸に弔問ということにして送りるという許可を得た」
<以上引用>

◆『最後の証言』では、亜細亜産業は陸軍系の仕事を請け負っているように書かれていたが、こうして見ると由来は海軍寄り。これがどういうことなのかは現時点では未解明。三浦義一が昭和19年に東条英機と「意気投合」するあたりがターニングポイントか。(そもそも迫水・玄蕃と三浦義一はどの時点でつながったのか)

▼関連エントリ
聖戦技術協会の発足

矢板家四代

下山事件 インデックス
















2015年02月26日

聖戦技術協会の発足

◎聖戦技術協会の発足と、その前後の亀井貫一郎の動向

昭和史(上) - 中村隆英
近衛文麿は1939(昭和14)年以来、平沼(騏一郎)に代わって枢密院議長を務めてきたが、38年秋以来の新党計画が再燃し、いわゆる「新体制運動」に次第に深入りしはじめた。

この時も、木戸幸一、有馬頼寧ら近衛の親友たちが相談役、脚本を書いたのは麻生久・亀井貫一郎ら社会大衆党の一部と、警察関係の一部の内務官僚、昭和研究会の後藤隆之助ら、それに側近の風見章のグループであった。

麻生・亀井らの社会大衆党はその前年の1939年2月、ヒトラーばりの運動を展開していた中野正剛の東方会との合同の相談を進め、もう一歩のところで破談になったいきさつがある。

左翼出身の麻生・亀井らと中野が合同しようというのは奇妙に思われるが、「血盟の同志を基礎とする全体主義単一国民政党」を結成して既存の政治勢力に挑戦しようとする意図に於いては軌を一にしていたのであった。

その当初の発想は既成政党を排除して革新グループ、青年運動、産業組合などを中心に、右翼の一部を同調させ、新政治体制をつくりあげ、自分たちがそのリーダーシップを握ることだったのである。
<以上引用>


『回想の亀井貫一郎 激動の昭和史を陰で支えた男』(高橋正則、2000)より

亀井貫一郎、昭和15年の動向
 5月
  財団法人・日本国民服協会を設立し、理事長に就任
  (陸海軍、商工省、農林省、宮内省及び厚生省共管)
 7月
  第二次近衛内閣発足
 8月
  麻生久・大政翼賛会総務拝命、亀井貫一郎・同東亜部長拝命
 9月
  麻生久、死去

大政翼賛会の東亜部長辞任後の亀井は、なお代議士の身分を保持していたが、昭和17年4月の“翼賛選挙”に落選した。
(略)
政治家として救国使命感に燃えていた亀井は、社会大衆党時代の僚友三輪寿壮のすすめもあり、麻生久の選挙区であった東京二区から立候補した。三輪は社会大衆党の同僚議員をまとめて、東條体制との融和役を務めていた。したがって三輪は亀井を準推薦候補扱いにするよう協議会に話しかけた。

しかし亀井が選挙運動を始めるや、直ちに選挙事務長は検挙され、亀井自身の政見発表演説は臨監の警部補から「弁士注意」や「弁士中止」の警告を屡々受け、時点で落選した。

(中略)

(亀井手記・昭和18年5月1日の項より)
「昭和18年5月1日、戦争遂行のため、各国の技術情報を蒐集し、我国朝野科学技術者を動員し、その研究により企画立案し、大本営に進言するところの内閣技術院、陸海軍省に協力する機関として、“財団法人 聖戦技術協会”を設立せられることとなり、その理事長に就任す。

爾後、専ら、新兵器を開発することと、中小企業を大企業の正しい系列に置くこと、国民の食糧の開発とその保存の技術開発等とに従った」

この協会の発表式は、確か四谷だと思うが、当時陸軍が使っていた某料理屋で、陸軍の佐官級将校はじめ関係者が集まって宴会が開かれ、筆者(※昭和15年以降、亀井の秘書)も亀井に招かれて出席したことを憶えている。
<以上引用>


『秋山定輔伝』  
「秋山定輔の場合、右のうちでは第二のグループに接触をもっていると推察しますが、社会大衆党の麻生久、亀井貫一郎がそこで奔走しているわけであります。しかし政界筋で実力的黒幕といわれるのは秋山定輔であり秋田清で(略)」

  ※参考:秋山定輔 秋田清

「麻生、亀井が秋山定輔とともに近衛擁立に行動をとっていることはまぎれもないのですが麻生も亀井も一方では社大党幹部として」

「このほか近衛文麿と秋山定輔らの当時の系眯にかかわる記述としては、「昭和13年秋に秋山定輔、秋田清、社会大衆党の麻生久、亀井貫一郎らが近衛を党首とした新党の樹立を画策したが、当時近衛はこの企てには若干心を動かされた」
<以上引用>

◆『回想の亀井貫一郎』によれば、秋山定輔と亀井・麻生が盛んに接触したのは
 昭和13年とのこと。

 同書より少し気になる部分を抜粋しておきます。

 東亜部副部長:杉原正巳(参考)、増谷達之輔(参考)、三木亮高(参考)

この杉原と麻生久、武藤章(軍務局長)の三者になにやら密接な関係があったもよう。

東亜部長時代、亀井は秘書を連れず一人で石原莞爾を訪ねたことがある。用向きは杉原の「東亜共同体の理論」と、石原のブレーンであった宮崎正義の「東亜連盟論」の内容の摺合せのため。

東亜部長時代、亀井は山本勝之助なる右翼に資金を調達・提供していた。この山本との関係と前期の石原訪問は関係があったかもしれないと筆者は記している。

▼関連リンク
神保町系オタオタ日記
旅する巨人・宮本常一が寄り道した聖戦技術協会-1  同-2



2015年02月25日

三浦義一『悲天』(6)

◎シリーズ最終  参考:前回(5)

[尾崎士郎による跋文]
「当観無常」「草莽」−−とつづいて、「悲天」の公刊されたことは三浦さんの心境に一大変化の来たことを示すものである。私と三浦さんとは同学年の戌年であり、二人ともすでに五十なかばを過ぎている。
私はこのすぐれた歌人の運命が必ずしも幸福であったとは思わぬが、さればといって不幸でもなかったと断言するわけにもゆかぬ。

彼の歌魂の清浄凛冽なることいついて説くべき時は既に過ぎた。三浦さんは死ぬべき生命を生き堪えてきた人であり、時代の混沌と複雑さを襤褸のごとく身にまといながら傲然としてあたらしい時代に呼かけやろうとしている。彼は永恒の青年であり、日常坐臥、抵抗の情熱に燃えている。

「悲天」が彼の生命であることは事実がこれを物語っている。そして、三浦さんの歌魂は今や三浦さんの生活を離れて中空高く彷徨っている。「悲天」は日本人の運命を象徴するものでありこれを声高くうたいあげる三浦さんの心は切なく、声は悲しく、唯、眼だけが爛々とかがやいている。秋風に立つ男の姿である。
                          昭和二十八年 晩秋  尾崎士郎しるす
<以上引用>

◆三浦義一が上梓した著作は
  「当観無常」(昭和15年)
  「歌論集 玉鉾の道」(昭和19年)
  「草莽」(昭和20年)
  「忍冬」(昭和20年代前半刊と思われるが不明)
  「悲天」(昭和28年、上記三冊もすべて再録)

   ※草莽:民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に
        基づく行動に出る人の意味。(Wikipedia)

[「草莽」後記より] ※昭和19年秋
一、わが行未だ遠しと云わざるも、回顧すれば惨として風涼まじかりき。−−とは淵明の言である。固よりわれら本来の生は、すでに既に尊皇攘夷の征旅である。

しかれば、顧みれば来たしかた粛として声なく、行途また屹然としてわれを立ち竦ましむ、淵明が徒の浅嘆と比すべき道に非ず。神の正道である。

嗚呼、この窄き道を今日にして行く、方にわれらが命の熄みがたさである。草莽、激する処、即ち大君の辺に死することのみ。戦場も牢獄も閑居も誰か亦おのれに於いて選ばんや。

一に神慮を粛しむ。ただ、われらが心頭おのづから火點ずれば、いずこも辺も、大君の辺である。「草莽」の念ずるところ、わが現し身の歩々行かんとするところ、あな清け、此の一道である。あわれこの千代の古道である。「草莽」一巻は実に、拙きわが、かかる戦史である。

一、わが盟友影山正治、秋深くして神のまにまに千里征討の任に就かんとし、畏友尾崎士郎昨日の筆を直に追って、日の本の筆剣一如を今は念ず。

この両知己、鴑鈍われを常に激動さるるや久し。今日、序跋を餞むけして我が微業を斯く盛んにせしむ。応うる術を知らず。鼻白みつつ独り密かに低頭し、只管、この両兄の道ひとすじを切に祈る。

一、印行および用紙など、総じていよいよ窮迫の折、この清雅の装を世に送るを得、この歓びを倶に頒ち得らるるとは、業界に在りて尚わが同行、横山豊、荒井政吉氏の言語尽くし難き高配によるもの、敢て記して厚く謝意を表す。

一、編集校正のこと、新国学協会本部一同及び伊東支部諸君等の努力に依る(略)

   ※引用注;新国学協会≒大東塾、現・不二歌道会

[「当観無常」第3版 序] ※昭和22年3月
(略)紙質装丁等は御覧の如く初版二版のそれとは雲泥の差である。けれどもこのことは後年、日本今日の悲痛を、深省の意味に於いて常に痛記するよすがとなると思う。
<以上引用>

▼関連リンク
日本印刷産業連合会 - 銀座周辺の印刷界追憶 荒井政吉(昭和55年)
どうも印刷業界も色々事情があるようで、要領を得ない話に終始している。

同 - 戦時中の印刷事情を回顧 印刷界激動の時代と私の印刷人生(昭和57年)
昭和16年に統制団体ができるまで印刷業界には横のつながりがなかったもよう。







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2015年02月24日

三浦義一『悲天』(5)

前回(4)のつづき

[昭和23年〜昭和28年]
わが故郷、大分市の古後老舗ひさぐ柚菓は『雪月花』とぞ

   ※参考:銘菓「雪月花」

於軽井沢閑雲室
 すでに大きむすめになりし子と信濃のくにに朝餉するなり

七年
三月二十一日アメリカ講和批准す。感あり

   ※引用注:サンフランシスコ講和条約は1951年(昭和26年)9月8日に署名、
          翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効。
          ここで3月21日と記した意図は不明。

奈良の寺よりたびし沫茶の銘は又玄とぞ
やまとの薬師寺の僧が名づけたる又玄といふ茶を服みにけり

   ※参考:宇治丸九小山園 又玄(ゆうげん)

昭和二十年八月二十二日の夕、愛宕山上に立て籠りし尊攘義軍十士ついひに自決(略)まことに壮烈人を泣かしむ。講和終えしいま建碑の挙、有志によりて成る。碑文のおわりにとて
天なるや秋のこだまとこしへに愛宕のやまの雄たけびのこえ

   ※引用注:いわゆる「愛宕山事件」(参考)。出来事としては昭和20年だが、
          講和に際し、回想して書かれている。

◆この時期の記述らしい記述はわずかこれだけ。
 歌の数も大幅に減る。

◎つづき その(5)

2015年02月23日

三浦義一『悲天』(4)

前回(3)のつづき

[昭和20年〜昭和23年]

昭和二十年八月二十五日早旦、代々木原頭に神籬をとりかくみ、わが大東塾十四志士みごと一斉に割腹自刃す。行年十八歳の若きあり。誰か泣かざらむや。

   ※参考:大東塾十四烈士 六十三年祭

顧みれば国の危機を憂い一月下旬上京、その四月十五日よる空より直撃を受く。あわれ戦跡に、塞にも似る大壕舎を直ちに設らへ給いしは諸兄なりき。われ六月下旬ここに褥を移して、ひたすら国体の護持を行念しけれども身動かざれば遂に八月十五日を送迎して空しく長嘆を事としたるのみ。

   ※引用注:東京大空襲(昭和20年3月10日)に関する記述なし。

きょう十月五日、作暁来の豪雨に遭いて浸水三尺。徒に拱手のとき、恰も応召中のため諸士列挙に残されし同士長谷川幸男ら諸友十名のまた献身作業に接す。総ての諸士が示し給いし友情を更に想い回らして涙とどまらず。地上三畳、しかも堆荷尺寸の間に跼蹐して、真乎道友の赤心に泣く。

北寒千里の外に在りと雖も、影山正治が命ここに厳として猶存するを見、敢て哀懐を賦して遠く君に送らんと欲す。

終戦の大詔を拝す
 焼野原この庭あととおぼしき花つけにける女郎花はも

 あおぐものやどれる露の秋ぐさは夜半に泣きたるひとのごとしも

 しずかなるこのいきどおりとこしえに消ゆると思わず大和島根に

   ※引用注:十五夜(旧8月15日)に詠んだものと思われる。

終戦の大詔を拝し既に五十日、なお神州の正気立たざるは如何。ああ。

昭和二十三年三月二十日昼、元鶴鳴荘代表匏一甫(スリタテ・イッポ)君宿痾ついに嵩じ溘焉として逝く。彼の往時を回想し、いま市陰の身として世を終わるを思えば、切々として胸中去来するものを禁ぜず。

わが一人娘、この三月十一日をもちて満二拾歳の誕辰を迎ふ。五十年の半生内外を回顧、無量のおもいに堪えずして

忘れねばこそ思いださずぞろとは巷の、しかし心ろうけたる悲しき女人たまぐさののあと。こと変われど、わが消えざる夢の一なる。
 いま獄裡のさる大人(※東條英機)より、『在官当時、常時佩用せる功二級金鵄勲章を記念として送るにあたり−−つわもの夢の記しや菊の花−−昭和丁亥初秋、於巣鴨』との奉書の玉翰、あるいはかずかずの色紙『苔の下待たるる菊の花ざかり』らを給う。あわれ秋風に塚動くごと土中の死骨も心いみじくゆらぎて。
 身を捨てて生きぬかんとぞ誓うなり君のみうたをつねによみつつ

   ※引用注:東京裁判結審〜死刑執行の際の記述と思われる。

発願
 しづかにいかりを耐えて来にけるが今宵は酒の禁を破らん

 畏こみてながき月日を禁めにける酒すするけり嵐吹く夜に

 かかる日にいよよ卑しくなりにける国民おおし誰かおもいき

 大臣らをしずかに見れば浮草の風に吹かれてただように似つ

 ほねなしのくらげのごとき官らと喪家の犬に似たる民らと

八月十五日
 目の前に万朶の桜ちりにけるきのうをおもう誰かわすれむ

<以上引用>

◆摺建姓の右翼人は何名が居るようで、親兄弟・親戚縁者かと思われる。

◎つづき その(5)

▼参考リンク
愛宕山事件 昭和20年8月15日〜8月22日

渋谷迷宮 - 大東塾十四烈士

靖国に祀られざる人々 名誉なき殉国の志士たちの肖像

東條英機の親族が語る三浦義一



2015年02月22日

三浦義一『悲天』(3)

前回(2)のつづき

[昭和17年〜19年]

二月吟
十日夜。眼のあたりに大東塾生五名を獄に下しぬ。国の命に賭けて言わむという心も今は戒め。おごそかなる神意に随順せしむとするのみ。

十一日紀元節。塾内外六十余名の一行、わらんじ踏みしめて謹みて宮城参拝。われ亦、手押し車にて驥尾に従う。大御前にわが指二本を捧氏塾長影山正治、粛として維新の祭文を奏上す。一同また土下座、泣いて祈願申し上げれば。

昨春、公葬の神式統一を熱禱する余り、豊橋市長に×××××未だ執行猶予中の野村塾同人、その秋また××××卑劣に制裁を加えたるを今日訊かざるとて此の二十八日投獄さる。ああ同士の入獄、一旬にして相次ぐ。三月二日夕、われは辛うじて心身を支えられ伊豆に歸臥す。

亡き妻ふたりは、豊前駅館川のほとりに生まれ育つ。姉妹なりき。

北一輝をして豪侠岩田と嘆ぜしめし、一世の侠骨富美夫命の霊位に手向け、十年男子風雲の交わりを回顧す。梅雨ぞらのいまだも寒き昨日の夜に君死なしめしと誰かおもわむ

   ※引用注:岩田富美夫(1891 - 1943) 参考:大杉栄 遺骨奪取事件

南方幕僚長・本郷忠夫少将の戦死を聞く。ああ、還らざる盡忠という歟。

   ※本郷忠夫=第51師団参謀長、昭和18年7月3日戦死 参考

四月下旬某日。肥後熊本紫垣隆翁より、名にし負う菊池千本槍の一筋を贈らる。心くらき青葉の一夜、白き槍の穂を抜き放ち、つぶさにこれを見る。盡忠風霜の感犇々とせまり村肝いとど寒し。

十八年天長節。七・五事件の非士、影山正治、長谷川幸男らに特赦の恩命下る。帰途、氏等四士礼装凛々しく来堂。

   ※日本浪曼派と影山正治 - 皇民有志決起事件(七・五事件) 昭和15年

伊豆に帰荘。ギブスベッドに在りければ。

四月十九日。(影山)庄平翁、三十年鋟骨の豊橋東田御獄社竣工。われ遷座祭のため西下す。三河の国は、その嫡子影山正治の故郷なり。

   ※影山庄平=影山正治の実父 年譜

   ※御獄社=東田古墳(愛知県豊橋市) 参考

   ※遷座祭=大分県護国神社にて昭和18年10月28日執行 参考

倉田百三氏の訃を悼みて
善鸞の汝が書(ふみ)よみて泣きにける昔のわれをしづかにおもはむ
「出家とその弟子」を読みしころを想いて。

   ※倉田百三は大東塾顧問 参考

昭和十八年十一月上旬。紫垣隆先生の雅招に応え、肥州熊本の秋色を探る。しかれども同士の念いは、先生が挺身する国業を現地に聴かんとするに在り。
 即ち天草灘を渡り大門なる熊本造船所に至る。すでに工員六百、菊池一族の悲懐を承け、或いは神風連の盡忠を継ぐ。是れ、大人多年の烈士の如し。嗚呼、涙を垂れ、われら肥後の国を去らんとするに臨み、大凡荘上に徴哀を叙ぶ。

十一月下旬、真野宮参拝の帰途、越後燕町なるわが若き同志の生家を訪う。かりがね列をなして空をよぎる信濃川支流の河畔なり。みぞれ降る翌夕、累代長谷川家墓前にぬかづく。父及び弟二人つぎつぎに此の地下に眠れりと云う。
 彼つとに身心を師影山正治に託して命を皇国に捧げむとす。ああ、母とその子とたまたま悲しくも相逢えるを見、わが心切にして堪えたければ。

   ※真野宮=新潟県、順徳天皇を奉祀、昭和17年に改築 参考

寂阿公、わが一念を継がしめんとして嫡子武尊を故山に還し、ついに筑前に於いて戦死す。

   ※寂阿公=菊池武時、肥後国菊池一族の武将、1333年没。 参考

昭和十九年七月七日の雲低く、絶海の島嶼に幾千の同胞ついに散る。をみな児亦おのが刃に伏し、あるは激浪に身を投ずと。われらここに、島国悠久の大義を見ると雖も、何の言葉かある。
ああ泫善として鬼も泣く、啾々。

   ※昭和19年7月7日=サイパン島玉砕

大東塾々監長谷川幸男に召集令下る。我褥上仰臥のまま、謹み歌いて遠離留別の情を述ぶ。嗚呼君よ、ただに逝け。

雁の巣飛行場にくだりて、筑前より船出する影山正治の征旅を送る。

  ※引用注:影山の出征を飛行機上から見送ったもよう(昭和19年11月15日)

<以上引用>

◎つづき その(4)

◆備考:記載量としてはこの昭和17〜19年が最も多い。

▼参考リンク
『尾崎士郎と僕たち』大東塾出版部(1974)
「世の中には"三浦義ーは“大怪物”、紫垣隆は更にそれに輪をかけた“大々怪物”という評価があったようであった」
「尾崎流の云ひかたを以て、実は遺言のつもりで紫垣、三浦両雄の調整を祈念し」

▼関連エントリ
紫垣隆/保田與重郎/三浦義一

『悲天』 インデックス