2009年01月

2009年01月31日

白洲次郎とは何者だったのか(73)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 (北康利) を読む 〔その10〕
  
  ※参考:前回

「これまでのしがらみで受けざるを得ないものだけにしたが(略)
 大洋漁業(現マルハ)もそのうちのひとつである」(p162)
※『産業遺産デジタルアーカイブ』より、第二日新丸
   大洋漁業の前身である林兼商店が南氷洋捕鯨に進出するために
   社運をかけて建造した日新丸が、川崎造船で進水したのは
   昭和11年8月1日のことでした。川崎造船の重役で海軍中将でもある
   吉岡(保貞)専務と,林兼の創業者中部幾次郎・謙吉父子は,快調に
   試運転航海を続ける日新丸の船室で二号船の建造を決定します。
  <以上引用>

 なるほど、中部一族(明石市の出)と海軍と川崎造船所(松方幸次郎)が
 つながると。 その流れで次郎さんとも縁があるわけですね。
  ※参考:造船疑獄における大洋漁業&白洲次郎

「(女婿・牧山圭男氏に)すると次郎は“堤清二のところへ行け”と
 言ってきた。当時セゾングループは多様な事業を展開しており」(p164)
「それから十数年後、牧山は美術品販売会社と西武の取締役を兼任して
 いたが、堤から“明日から大沢商会に行ってほしい”と言い渡され」(p166)
※自動車のセールスからいつの間にか美術商、そして経営破綻した商社へ、と
 どうも良く分からない動きですね牧山さん。
  参考1 参考2

 さて次郎さん、大沢商会の破綻にしろ、日本テレビの粉飾決算にしろ、
 なんらかの責任を負わなければいけない立場なのですが、
 この点についてまともに記述された白洲本は未だありません。

 大沢の破綻は、うまく整理しきれないのですが、かなり怪しい経緯に見えます。
 カメラ部門の不振は口実に過ぎないのではないかと。
  参考: 参議院 大沢商会、マミヤ光機の倒産に関する質問主意書
     二 「大沢」倒産直後、「コスモ(エイティ)」の碓井優社長が
      詐欺倒産であるといつて大沢を非難した発言をしているが、
      その事実関係と詐欺倒産かどうか法務省の見解を明らかに
      していただきたい。

      同 答弁書
      コスモ・エイティの代表取締役社長碓井優及びオリムピックの
      代表取締役社長植田祐弘は、それぞれ、マミヤ光機の取締役顧問及び
      代表取締役相談役の任にあつたが、両名とも、既にこれらの役職を
      辞任していると聞いている。

     二について  御質問に係る大沢商会の倒産については、
      その事実関係を承知していない。
    <以上引用>

このコスモ・エイティという会社も背後に怪しい資金がありそうです。
このコスモ社による買収を防ごうとして、わざと大沢商会を倒産させた
様にも見えます。 参考

◆次回でこのシリーズ最終回です。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか

2009年01月29日

白洲次郎とは何者だったのか(72)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 (北康利) を読む 〔その9〕
  
  ※参考:前回

「ウォーバーグはナチスに追われ命からがらロンドンへ逃げてきて」(p144)
※反ナチorナチに迫害されたからって皆いい人とは限らないだろうと。
 ウォーバーグ一族は最初はナチを援助しています。
 参考1:ナチスに協力したアメリカ企業 ※次郎さんの背後とバッティング
 参考2:『さてはてメモ帳』より、“SGウォーバーグ”

「だが、その後は親切にしてくれ、付き合うべき人間とそうでない人間を
 的確に教えてくれた。」 「仲良くなると徹底的に親切にする」(p145)
※“そうでない人間”とは、おそらく敏腕な新聞記者や調査力のある議員など。

「日本政府はシグモンド・ウォーバーグに勳一等瑞宝章を贈っている」
(p145)
※参考:内閣府HPより“勲章・褒章制度の概要”
 候補者は,栄典に関する有識者の意見を聴取して内閣総理大臣が決定した
 「春秋叙勲候補者推薦要綱」に基づき,各省各庁の長から推薦されます。
 (略)叙勲等審査会議の議を経て,閣議に諮り,受章者が決定されます。
 <以上引用>

「(樺山愛輔は昭和25年に)財団法人グルー基金を設立。その後、
 財団法人国際文化会館を創立し、理事長に就任した」(p146)
※昭和25年(1950年)というタイミングは何か。

「およそ占領下の思い出なぞ、不愉快なことばかりである」(p148)
※まあそうでしょうねえ。次郎さんが東北電力会長に就任した理由は、
 表に出せない裏側の仕事ではない、陽の当たる場所に出たかった、
 というのがひとつあるだろう、と当方は推測しています。

「昭和25年(1950年)6月21日、ダレス国務相顧問が来日する」(p149)
 ※参考:この4日後の6月25日、朝鮮戦争勃発。
「昭和25年(1950年)8月10日、警察予備隊が創設される」(p150)
「マッカーサーの解任は占領の終わりが近づいたことを内外に印象づけ、
 昭和26年、ついに講和条約を締結する手はずが整った」(p150)
※このダレス訪日の4日後、朝鮮戦争が勃発。タイミングがいいですね。
  参考:1949 Japan
 前述の、ジョセフ・グルーとの交友から発生した国際文化会館の
 創立時期にご注意下さい。
 グルーも(国防省ではなく)国務省側の人間です。
 朝鮮戦争を契機にマッカーサー(国防省の人間)が失脚していく点も
 お忘れなきよう。

「ほとんどの人が物資難もあって今ひとつの格好だった中にあって
 次郎のダンディさは際立っていたと回想している」(p152)
※この時期は、カネがあっても欲しいものが即入手できるわけではない時代。
 さてこの時期、次郎さんは衣食をどういうツテで入手していたのか。

 ジロさん充てに英国から美味いウィスキーが樽で送られてきて、という
 エピソードがありますが、輸入酒に関する規制が緩くなったのは、
 ごく近年のこと。
 (スコッチの自由化が1971年、洋酒の並行輸入普及が1985年ごろ、
  酒販免許の大幅改正が1993年)
 さて、外貨持ち出しに大きな制限の合った時期に
 酒の個人輸入が出来たのかどうか。

 ところで、いまや2千数百円で買える“ジョニ黒”って、
 なぜ日本では高級スコッチの代名詞だったんでしょうね。

 たぶん、日本国内で特権的にシェアを確保できる何かがあったのだと
 思いますが、昔の代理店を調べてみましたが不明でした。 参考1
 三菱商事やら明治屋やらが輸入していたこともある様です。 参考2
 ちなみに現在のジョニー・ウォーカーの代理店はマセソン系です。 参考3

「(講和調印の)その時、白州さんは泣いておられました」(p154)
このエピソード は、やはり出てこないんですね。

「(講和会議帰国時の写真では)次郎は、記者団に囲まれた吉田や
 池田たちから離れ一番端にいる。」(p155)
※白洲次郎という人は、写真の少ない人ですが(この時期は特に)、
 吉田茂と並んで立っている様な写真が殆ど無い点にも注目すべきかと。
 (GHQ屋外パーティの写真くらいか)

「吉田首相と距離ができてからも、外交関係でしばしば吉田の意を受け
 外国へと出向いた。密命を受けてのものが多かった。」(p159)
※さて本当に“外交関係”でしょうか。
 仮に、“外交”というのを、本来は外務省がなすべき職務とします。

 吉田の古巣である外務省にも任せられない任務で、
 東北電力会長という本職のほかに行なわなければならない、
 その様な“密命”とは何でしょうか。この密命とは日本国、日本政府の
 意を受けたものでしょうか、吉田茂個人の意を受けたものでしょうか。

「後世にどういうことが行なわれたかを伝える責務があるはずだと思うのだが、
 彼のプリンシプルは、そうした常識的なものの考え方を拒んだ。」
(p159)
※ジロさん、「歴史が自分をいつか正しく評価してくれる」という意味の
 発言を残していますが、確かに何でもかんでも怪しいだけではなかろう、
 と思います。その一方、調べれば調べるほど怪しいのが白洲次郎という
 人物でもあります。

 当方としては、白洲次郎の正当な功績を、ありのままに知りたいと
 思いますので、誰かまともな白洲伝を書いてくれないものか、と
 いうのが当方の思いです。

「それから僕(白洲信哉氏)の中でその手の話題(戦後の話)が
 禁句になったことは言うまでもない」(p160)
※次郎さん、祖父や父から受け継いだ、海外の怪しい筋とのおつきあいは
 自分の子や孫には引き継いでいないように見受けられます。
 このあたり、“人の親”としては、真っ当な感覚の持ち主なのかと。
 婿や永山息子には何やら怪しい方面を紹介している様ですが。

「執着する気持ちが希薄なのは白洲家の人たちの特徴である。」(p161)
※次郎さんは、なにも無い山奥に少しづつダムが出来てきたり、
 毎年、畑に新しい作物が生えてきたりするのを見るのが、本来は
 好きな人でしょう。 白洲文平という怪しい商人の子に生まれたことは
 次郎さんにとって、幸運だったのか、不運だったのか。

 白洲文平という人も、横浜正金の頭取まで務めるほどの父(白洲退蔵)を
 持ちながら、なぜ大阪でやさぐれた相場師などしていたのか。
 白洲一族では、文平さんが一番ナゾの様に思えます。
 

◆次回へつづきます。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか


2009年01月26日

白洲次郎とは何者だったのか(71)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 (北康利) を読む 〔その8〕
  
  ※参考:前回 白洲(70)

「昭和34年10月、次郎は東北電力会長を辞任する」(p141)
阿賀野川電源開発-仮想対談 より
 記者:ところで只見川が一貫開発されて膨大な電力エネルギーを生み
     出したのは結構なんですが、尾瀬ヶ原にまで手を伸ばしたのは
     勇み足の感がしますね。世人がこぞって反対したのは当然で(略)
 E氏:尾瀬に関しては、(昭和)34,5年頃さかんに論争されました。
     電力三社が三つ巴となって各自の案を主張して譲らなかった。
     福島県と新潟県が尾瀬の水をそれぞれ自分の県に引こうとして、
     いがみ合ったのです。お互いに県知事や、県会議員の陳情合戦で
     政治的なかけ引きもあったんです。
 記者:尾瀬の学術的な価値を全く無視した無茶なやり方だったと
     私なんかは思っているんです。

「一方で次郎は鉄鋼業界の活性化のため、川崎重工から独立したばかりの
 川崎製鉄を応援した。」(p142)
※はて日鉄広畑を格安で売り飛ばそうとしたのは誰だったか。 参考:白洲(30)

「こういうとき(川崎製鉄の千葉工場建設に一万田尚人・日銀総裁が反対した)
 に義侠心を発揮するのが次郎である。開業したばかりだった日本開発銀行
 の小林中も阿吽の呼吸で融資を約束。」(p142)
※Wikipediaより JFEスチール
  昭和25年 川崎重工業(ルーツは川崎造船)の製鉄部門が独立し
  川崎製鉄(株)設立。本社は神戸市中央区。
 Wikipediaより 松方幸次郎
  明治29年(1896年)川崎財閥創設者・川崎正蔵に要請され川崎造船所の
  初代社長に就任。 その他神戸界隈の多数の企業役員を歴任。 
  神戸商業会議所会頭、衆議院議員。 
  しかし大正9年から昭和6年までの連続不況期に(略) 無謀ともいえる
  多角化戦略のため昭和2年の金融恐慌で、川崎造船所は破綻し、
  川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄の松方巌が頭取を務める
  十五銀行も破綻し川崎正蔵が築き上げた川崎財閥を
  崩壊へと追いやった。
  <以上引用>

※松方幸次郎の弟、松方正雄は白洲次郎の妹と結婚している。 参考
 松方家と白洲家は次郎の祖父・白洲退蔵のころからの密接な関係。 参考

 また、「兄の松方巌が頭取を務める十五銀行」 は、
 次郎の父・白洲文平の破産に大きく関与している。 参考

 なぜか公式本および北康利氏の著作では、白洲家と松方家との関係に
 一切触れていません。なぜでしょうね。

「東北電力の会長を辞任して数年経ったころ、当時英国を代表するユダヤ系
 投資銀行であったS.G.ウォーバーグの創立者サー・シグムンド・ウォーバーグ
 が次郎に会いたいといってきた。」(p144)
※ユダヤ系投資銀行、という段階で相当怪しいのですが、
 軽くスルーされています。要注意。
 Wikipediaより Siegmund George Warburg
 「He was also simultaneously a partner in the U.S. investment bank
  Kuhn, Loeb from 1953 until 1964 through a holding company to
  avoid the restrictions of the Glass-Steagall Act. 」
  <以上引用>

 なるほど、クーン・ローブ商会が絡んできますか。

 参考:トラウマとしてのハリマン事件
 「そして、元老の松方正義、井上馨の命を受け、ロンドンへ目標額
  1000万ポンドの資金調達の旅に出たのが、当時日銀副総裁であった
  高橋(是清)である。高橋は外債発行によってシティーから500万ポンド、
  シティーで得た知己をもとに米国から500万ポンドを調達することに成功
  した。この米国から500万ポンドを引き受けたのがドイツ系ユダヤ人の
  ジェイコブ・シフに率いられたクーン・ローブ・グループである」
 <以上引用>
 ※ここでも松方につながる点に注意。

◆次回へ続きます。しかしツッコミどころが多いです。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか 


2009年01月24日

白洲(70) 補記-2

白洲(70) 及び 同 補記-1の追記になります。

さて東北電力は只見川電源開発の際、
水利権奪取のほか、どのようなことを行なっていたか。

第015回国会 経済安定・通商産業委員会連合審査会 第1号
昭和27年12月19日

○栗田委員 (略) 福島県知事は東北電力と共謀して鉱業権を公売処分に
付したということを私は聞いておるのでありますが、(略)

○大竹(作摩・福島県知事)参考人 (略)これは県税の滞納によりまして、
大手沢鉱山の鉱業権が、地元の機関である地方事務所長から公売の手続が
あつたのであります。 この問題に対しましては私はあとに訴願が出まして
初めて承知いたしたのでありますが、この公売の送達される字大平沢という
ような名前が間違つたために、その公売通知が送達できなかつたのであります。
(略)
もちろん東北電力と結託してなどということはあるはずがありません。

○栗田委員 ただしこの鉱業権の問題は東北電力と密接なる関係があるので
あります。なぜかと申しますと、この鉱業権の問題は、ただいま 西松組
只見川の片門の工事を実施いたしております。ところがこの鉱業権者の
了解を得なかつたならば、この片門の工事の遂行は不可能であります。

そこでどうしたかというと、東北電力と福島県知事は突如として、
大手沢炭鉱に滞納が若干あるということを奇貨といたしまして、
7万8千円で公売いたしました。その公売をしてどうしたかというと、
地元の河沼郡の八幡村の村長がこれを79,035円で落札をいたしまして、
6千円の登記料を払い、仙台通産局に登記いたしたのであります。

ところがこの地元の、補償問題々々々々と騒いでおります、ダムを作って
おるところの村長が落札をして登記をした、登記をしてから初めてこの
鉱業権者がわかつたのであります。

(略)

○塚田委員 実は私がちようだいしておる資料によりますと、
東北電力が本名、上田地点でいろいろな準備を始められたのは、
昭和26年の5月からだ、こう書いてある。26年5月というのは、先ほど
来各委員の質疑でも明らかにされましたように、電力再分割のときで
ありますし、そうして東北電力が初めて許可を申請されたときなんで
あります。
 (注:東北電力への許可が出るのは昭和27年8月5日付け)

それからバツチヤー・プラントは本年6月ごろに発注し、また工事用動力
設備、油入遮断機、断路機は、7月10日すでに東北電力に納入されている。
それから両地点の索道関係は、本年7月ごろすでに着工している、(略)
水利権がないようなところでも、こういうことを大胆にやられるという
ようなことがしよつちゆうあるものなんですか、どうですか。
(略)
とにかく水利権がないものに、当然おれのところに水利権が下つて来るん
だという確信を持つて仕事をしておられる。この辺に私は東北電力側に
やはり計画的な意図によつた作為があると思う。
(略)
次にもう一つお尋ねしたいのは、一体他の会社が、しかも同業の他の会社
が水利権を持つているところに、他の同業会社が新しく水利権を出願する
というようなことは、平たい言葉で言いますと、電力会社間の仁義という
ようなものからいつて、一体ちよこちよこあることなんでしようか。
それともまつたく異例なことであつたでしようか。

○内ケ崎(贇五郎・東北電力社長)参考人 
この問題は、(略)かようにすることが日本再建のために最もよいことである。
八千万大衆のためであると確信いたしましてやつたことであります。

○塚田委員 私がこの点をお尋ねしたいのは、一つは、どうも本件措置の
裏に、先ほどどなたかも御指摘になりましたように、東北電力の白洲会長
が動いておられたのではないかという疑念を持つわけであります。しかも
内ヶ崎社長は、先ほどから言われますように、東京電力の前社長安蔵さん、
また今の社長の高井さんと非常に懇意だということで、表面は、ひとつ
公益事業笈員会の方針に従つて、仲よく共同出資の会社でやろうという
ことでやつて来ておられたのに、裏で白洲会長がどんどんと工作して、
しこうしてこういう結果をつくられたのでないかという疑念を持つわけで
ありますが、(略) 両社の間で共同出資の会社でやろうというので、
定款草案までつくつておられたというようなことも承知しているのですが、
その辺のいきさつはいかがですか。

○内ケ崎参考人 (略)どうしても話がまとまらなかつた、こういうこと
でございます。

○山手(滿男)委員 (略) まず第一に、東北電力の社長さん、
あるいは知事さんにお伺いをしたいのでありますが、この本名、上田の
両地点の開発をかくのごとくお急ぎになつた具体的な理由は何か。
(略)
日本の電源開発計画というものは、政府において、安本において、
資金計画その他大体の目安をつけて、毎年度計画的にやつておる。
(略)
安本の作成するいろいろな計画にのつとつておやり願うことこそ、
全体的な見地に立てば早急に電力を開発する一番いい道であるという
ことを皆さんに強調をしたいのであります。(略)

 ※編注:ここでも安本(経済安定本部)との対立。

◆内ケ崎贇五郎も野田卯一同様、仕様なしに白洲次郎に従っている様です。
 しかし次郎さん、安本(経済安定本部)とは、よほど相性が悪いと見えます。

 次郎さんが安本に入り、そして辞めたあたりの経緯はこちら。
  (82) 吉田茂はなぜ白洲次郎を経済安定本部へ送り込んだのか

○まとめ 白洲次郎 インデックス

▼関連リンク
『野村総合研究所HP』より、
“競争を軸としたエネルギー産業の将来像” pdf
1952年3月に、技術的に開発困難かつ多大な資金を要する電源開発を
9電力会社に代わって手がける特殊会社・電源開発株式会社を設立する
ための「電源開発促進法案」が衆議院へ提出された。9分割案に反対した
人々が中心となって作成した法案だが、公益事業委員会に何の相談もなく
作成され、提出されたものである。

公益事業委員会とは、政治の圧力が事業にかかることのないように、
電気事業の問題を純粋に経済問題として処理するために設置された
行政機関で、9電力体制と同時に発足している。5人の委員が任命され、
松永(安左衞門)は委員長代理を務めた。
(略)
(同法案は)当時大きな政治問題化した破壊活動防止法案と同時に国会に
提出され、十分な審議が行なわれなかったこと、松永が法案阻止のため
の買収活動を行なったというデマが毎日新聞に掲載されたことなどが
影響し、同法案は4ヶ月あまりで国会を通過した。
(略)
同委員会は1952年7月末で廃止され、代わって通商産業省公益事業局が
設置された。これにより電源開発と電力行政に国が関与する筋道ができた
と言える。
<以上引用>

▼その他、只見川水利権関連の議事録

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか

2009年01月23日

白洲(70) 補記-1

前回 に出てくる野田卯一について

「(白洲次郎のために) 野田卯一建設大臣(野田聖子の祖父)が
 (只見川水利権の委譲に関し) 超法規的措置を実行に移してくれたのだ」
 (レジェンド 伝説の男 p137)

第015回国会 経済安定・通商産業委員会連合審査会 第1号
昭和27年12月19日

○栗田(英男)委員 (略)これ(只見川の水利権委譲)をいまだかつて
ない異例の処置だといつて、あなたは閣議にかけたと言つた。しからば他
の大臣からこのような異例の処置をすることによつて、どのような発言が
あつたか承りたいと思います。

○野田(卯一)参考人 閣議の内容については申し上げにくいと思います。

○栗田委員 (略) この閣議の請議をつくる前に、あなたは当然電力の
主務官庁であるところの公益事業委員会と十分話合いをしなければならな
かつたわけである。これはやることが当然である。しかるにあなたはこの
ことをやつたかどうか、いま松永(安左衞門)さんからの話によると、そう
いう話合いは一回もなかつたということを言つておる。(略)

○野田参考人 こういう水利権の問題等の処理につきまして、私が直接
公益事業委員長、松本(烝治)さんなり松永氏に話すということはあまり
ない。結局事務当局が話せば連絡がとれるということでありますが、事務
当局がどの程度に連絡をとつたかということは、私はよく存じません。

 ※編注:なぜ電力再編のための公益事業委員会の委員長が
      法律の専門家である松本烝治なのか。

○栗田委員 今大分野田さんは詭弁を弄しておりまするけれども、私が
これは一般常識の判断として、なぜ公益事業委員会がこれに反対した。
これは公益事業委員会が反対である、公益事業委員会が反対なので、
これは公益事業委員会に閣議の決定前に事前に相談をすると、どうも
公益事業委員会は――特に松永さんのようなうるさいおやじがおる。
これは反対するにきまつておるから、かけない方がいいだろう、そういう
ことであなたはおそらくかけなかつたのだろうと思うが、その点はどうか。

○野田参考人 別に公益事業委員会が反対するからどうだということでは
ないのであります。

○栗田委員 それでは、公益事業委員会が、只見川の開発については
東京電力と東北電力が共同して新会社をつくつて、これが開発に当らし
めるというところの基本方針が、公益事業委員会で決定しておつたと
いうところの事実を、建設大臣は知つておつたかどうか。

○野田参考人 私はそれを存じません。

(略)

○下川委員 私の聞こうとするのは、東京電力の持つておる水利権を抹殺
して、東北電力にこれを許可する方が公益上プラスになるか、あるいはまた
東北電力の方を却下さして、東京電力をそのまま存置させることがプラス
になるか、そういう点まで御配慮して、この問題を強権発動まで持つて
行つたのか、その点をひとつお伺いしたいと思います。

○野田参考人 当該の問題といたしましては、東京電力の水利権を
取消しまして、東北電力に水利権を与えるということが公益上適当と思います。
(略)

○下川委員 それならば、先ほど今澄君が言つた通りに、どうして
東京電力と東北電力を妥協させて、その上に立つての早期開発を
建設省としてやらなかつたのでしようか。

○野田参考人 この点につきましても、先ほどからもお答えしておるよう
に、この電源を開発するために水利権を片方で取消し、片方で与えると
いうか、円滑に譲渡するというような方法でやるということが、当初適当
だと考えて、その方に極力努力したけれども、それは成功しなかつたから、
ただいま申し述べましたようなことにいたしたのであります。
(略)

○前田(正)委員 (略)一番問題になりますのは、なぜこれを電源開発
株式会社にやらせないで、民間にやらしたかという点がわれわれとしては
不明なんであります。この国会の審議においては、当然私たちは新しく
できる電源開発株式会社が担当するものだと了解しておる。
(略)
また公益事業委員会もそう考えておられた。われわれもそういう資料を
もらつて、この電源開発促進法という法律を成立さしておるわけです。
(略)
従いまして電源開発株式会社がこの地点をやるべきであるかないかという
ことにつきましては、大臣として認可されるときに当然関係官庁に御連絡
されるべき点であると私は思いますが、どうでございましようか。

○野田参考人 逆に申しますと、この問題は、五月から先ほど申します
ように大体腹をきめまして、交渉もしておつたのでありますから、この
問題は電源開発会社でこれをやるんだというようなことを、閣議であると
か、その他の場合において言われれば、私はただちにそれは反対する、
そうじやないということを申し上げます。しかし私にはそういう機会が
一度も与えられておらなかつた、建設大臣には何らそういう機会が与えら
れておらなかつた、これは事実であります。

○長谷川(四)委員 東北電力の社長さんにちよつとお伺いするのですが、
(略)お宅の会長白洲さんは、関東には一キロワットも出さないのだと
いうことをとなえておるのですが、それにもかかわらず、あなたの御意見
が大分食い違つているように考えますけれども、どちらを真実として、
参考としてよいか、御答弁をお願いしたいと思います。

○内ケ崎参考人 お答えします。白洲会長が何と申したか私は存じません。
私は余力があれば、これはほかの地区には幾らでも差上げる、かように
考えております。

(略)

○長谷川(四)委員 (略)そうしますと、野田さんの大臣のときに
日発からさような指令が出たときに、東電が送電線というものを
27万5千キロワット・アワーか、そういう送電線を完成できた、
すでにできておつた、こういうことでございますが、こういうことも
野田さんはやはり御存じなかつたのでございましようか。

○野田参考人 そのことは知りませんでした。

○長谷川(四)委員 (略)これだけ大きな建設をし、三十億になんなんと
するような大きな費用を政府の命令によつて建設をさしておいて、従つて
お前のところはこれを取消すということになると、国家的に見てこれらの
莫大な損害がここに生じて来るのでございますけれども、
(略)
こういうような報告をあなたは一度も受けたことがございませんでしようか。

○野田参考人 本名、上田の問題に関連して、それを関係事項として聞いた
ことはありません。(略)

○長谷川(四)委員 もう議論の余地はありませんし、また質問するのに
も、しようがありません。野田さんという方の大臣としての資格を私は
疑わなければならない。(拍子)その大臣が、何らこれに対して経緯も
知らず、そうして自分が大臣のいすにただ腰をかけただけだ、
白洲が言つたからおれはそういうところに判を押すよりも閣議にかけた
んだというのと同じことなんだ。(略)

◆ここで野田を追求している栗田英男という人は
 相当胡散臭い人物ですが、かなりの調査力を持つ人物でもあります。

 参考:正力家と読売グループの支配体制はどうなっているか
    (1969年11月、読売新聞の粉飾決算発覚後の株主総会において)
     当日の総会で中心人物と目されたのは、元改進党衆議院議員、
     栗田政治経済研究所長の栗田英男という大物であった。
     (略)
     とりわけ、栗田英男の追及は専門家風で、きびしかった。
     重役いじめは、これでほどよしといったころ、栗田英男が、
     ふたたび立ち上った。

     「野村証券の会長でもある奥村取締役の見解をききたい。あなたは、
      日本テレビの株を有望株として推せんした責任者だ」
     奥村は、いかにも落着いてこたえた。
     「いちいち、ごもっともな発言ばかりで……充分きいて参考にしたい。
     正力会長が死んで、とても福井社長以下の重役陣だけでは、納得のいく
     根本策は聞きにくいと思う。大株主、財界から中立公正な数人をえらび、
     執行部とも相談し、これなら大丈夫といっていただけるようにしたい」

     栗田は、さらにせまった。
     「きれいごとではだめだ。われわれ株主にとってはダブルパンチだ。
      粉飾について知っていて株を推奨したのか」
     「わしゃ知らなんだんじゃ(笑)……。幹事会社の責任を感じ、
      再建策を考えている」
     「あなたの発言は三〇分早い(失笑)……。
      粉飾の責任を追及しているのだ」
      (略)
      結果からみて、この総会では、役員人事がたな上げとなった。
      筋書としてみれば、栗田の追及を奥村が受けて、あずかった形に
      なった。当然、この動きには、“密約”のにおいがした。
     <以上引用>

◆栗田氏、一体誰と “密約” したんでしょうね。
 この1969年は次郎さん、日本テレビの監査役ですね。 参考
 この人のことだから総会には出席していないと思います。

 只見川から15年を経て、ふたたび合間見えた両者でした。

〇関連:白洲次郎と電力再編、三浦義一     



2009年01月22日

白洲次郎とは何者だったのか(70)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 (北康利) を読む 〔その7〕
  
 ※前回: 白洲(69) よりの続きです。

「GHQのケネディ顧問を味方に引き込み、にわかに友好的となったGHQの
 後押しを受けて、松永案を基本にした電力再編令と公益事業令が
 昭和25年11月に布告された」(p130)
※松永案 → 参考:白洲(9)
 このケネディ顧問というのは何者なんでしょうね。
 オハイオの電力会社の会長で、経済科学局(ESS)の顧問、
 ということらしいですが、どうも詳細が不明です。 参考1 参考2
 ESSの顧問、ということはマッカーサー直轄の人間ではなく、
 ワシントンから派遣された人物の可能性があります。
 
 ※関連:白洲次郎と電力再編、三浦義一 

 参考:『今井賢一HP』より、
  創造的破壊系の企業家像―松永安左エ門のケース” pdf
  彼(松永安左エ門)にとって電力民営化を難産の末実現させた後の
  仕事は、新民営電力会社を動かす首脳の人事であった。もちろん、
  松永が直接の人事権をもったわけではないが、再編方針に沿って設立
  された「公益事業委員会」の委員長代理として、白洲次郎(元貿易庁長官・
  東北電力会長)、麻生多賀吉(元衆院議員、吉田茂の娘婿)という吉田茂
  首相の側近を巻き込んで統制派の影響力を排除し、新生電気事業の革新を
  担いうる人材を登用した。
  <以上引用>
 ※“統制派の影響力を排除し”という点に留意されたし。
   統制派とは、要するに岸信介と旧商工省派のことです。

「次郎は東北電力会長に就任する」(p131)
※これまで、表舞台に出ることを避けてきた白洲次郎が、
 なぜここで電力会社の会長という表の顔を持つことを選んだのか。
 そして、なぜ東京電力でも関西電力でもなく、東北電力なのか。
 この点への言及が欲しいところです。

「只見川水系の開発」(p136) 「野田卯一建設大臣(野田聖子の祖父)が
 超法規的措置を実行に移してくれたのだ」(p137)
※ここで白洲次郎は、当時の福島県知事と野田卯一を使い、
 強引に水利権を東京電力から奪取します。
  参考: 白洲(5) (6) (7) (8) 

 では、なぜ白洲次郎は最初から東京電力のトップに収まらず、
 ローカルな東北電力にわざわざ入ったのか。

 なぜ野田卯一は超法規的な措置までとって、
 白洲東北電力に便宜を図らねばならないのか。

  参考:近現代系図ワールドより“野田聖子家系図” 
     島徳蔵 = 野田卯一の父
       「北浜の島徳」として天才相場師といわれた。
        大阪株式取引所理事長、日魯漁業社長、阪神電鉄社長。 
         ※相場師かつ取引所理事長ってインサイダーくさいな。    

 なるほど、白洲次郎の実父・白洲文平の代からのつながりですか。
 こういったことを(あえて)書いてない辺りが、北康利という人物を、
 当方がいまひとつ信用しきれない部分であります。

 なお、野田卯一のいた日魯漁業、白洲次郎のいた日本食糧工業(日本水産)
 などの戦前の大手漁業会社は、蟹工船の本尊です。

「白洲次郎だけはこれ(電源開発の資金調達用の特殊法人の設立)を
 支持したという。 (次郎は)日本の復興のためにいかに早く、
 いかに大規模な電源開発ができるか、ということだけを考えていたのだ。
 こうして設立されたのが電源開発株式会社(現在のJパワー)である。」
 (p137)
※ここで、“日本の復興のため”という大義を使っているため、白洲次郎が
 日本を支えるヒーローに見えます。 こういう書き方にご注意されたし。

 白洲次郎と吉田茂は、財界や海外金融資本の代理人であり、そのことを
 考慮すると、この “ ” の中は、実は違う語句が入る訳です。
 この人たちにとって、“日本の復興”は目的や目標ではなく、
 ある状況を達成するための手段の一つです。
 
◆ようやく全体の2/3まで行きました。次回へ続きます。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか

▼関連エントリ

当エントリの補記 野田卯一と只見川水利権問題
 その1 その2

白洲次郎と電源開発(株) 
 白洲(31) (32) (33) (34) (35)

白洲次郎と電力再編、国鉄電化、そして見返り資金 白洲(80)





2009年01月19日

白洲次郎とは何者だったのか(69)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 (北康利) を読む 〔その6〕  
  ※参考: 前回

「怒り心頭に達した次郎は、終連次長でなく、あくまで吉田側近として
 戦後最大の汚職事件“昭電疑獄”を利用しながらケーディスを失脚
 させるために権謀術数の限りを尽くして戦いを挑むのである」(p124)
※当ブログでは何回か、北氏の著作中での昭電疑獄の前後についての
 記述にひそむ欺瞞を取り上げています。
 参考1: 白洲(61) なぜ私的に公安を動かせるのか。
 参考2: 白洲(63) このとき齋藤昇の働きが悪かったので罷免を諮る
 参考3: 白洲(21) GHQ側からはどう見られていたか 
 参考4: ケイディス会見から-11 ケーディス側から見た白洲次郎
 参考5: 楢橋渡 その1 その2

 さて、なぜ白洲次郎はケーディスを目の敵にするのか。
 それは、1949年の吉田茂で取り上げたケーディス失脚後の政財界の状況、
 これを達成する為にはケーディス以下民生局の存在が邪魔だったからです。

 北康利氏の著作では、あたかも民生局が悪の巣窟でもあるかの様に
 描かれていますが、それは事実なのか。

 たとえば、労働基準法、労働組合法などは民生局の様な
 民主化を推進する人たちがGHQにいればこそ成立したものです。
 この一点だけをとってみても、多くの日本人には民生局に対し
 多大な恩恵があると思います。

 いわゆる労働者(働いて給与をもらう職業の人)が、今日において
 当然と思っている権利の多くは、労働基準法と労働組合法、そして
 民生局の主導で作られた日本国憲法で保障されているものです。
 一度、ざっとで良いので読んでみていただきたいと思います。

   労働基準法(全文)  労働組合法(全文)  日本国憲法

 ましてや、吉田茂は治安維持法や不敬罪の廃止に反対だった人物です。
   参考1 参考2

 労働三法が無く、治安維持法や不敬罪がある世界は良きものか。

「向うも手段を選ばない相手なのだから次郎も多少荒っぽい手を使った」
(p124)
※手段を選ばないのは白洲次郎とG2です。この欺瞞に満ちた記述。

「通商産業省設立」(p126)
※参考1: 白洲(29)  なぜ通産省は設立されたのか
 参考2: 『余多歩き』より、“通産省設立の裏事情” 

「次郎が初代事務次官か大臣ではという噂も流れたが、地位や名誉には
 端から興味はなかった。こうしたところ、この人物(白洲)の爽やかさは
 際立っている」(p127)
※参考: 白洲(14)  当時、通産大臣が何人も代わっていること

「(永山時雄の) その息子が現在中外製薬で社長を務めている
 永山治である」(p129)
「(治は)日本長期信用銀行に入行してロンドン勤務となった」
「(次郎は治に)一切日本人と付き合うなと助言し、イギリスの友人で
 経済界のキーパーソンを何人か紹介した上で、
 “とにかく、あの国の奥へ奥へと入っていけ”と助言した」(p130)
「その後、永山は長銀を退職して中外製薬に入社」
※参考1: 白洲(26) S.G.ウォーバーグ
 参考2: 白洲(36) ジョン・ケズウィック(ジャーディン・マセソン
 参考3: 中外製薬は現在スイス・ロシュの傘下 
      ※製薬大国となったスイスは元々金融大国である点に注意。
       スイスはなぜ豊かなのか ← ここのコメント181番を参照
       
◆次回へ続きます。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか


2009年01月18日

浅川マキ 1971

少年 浅川マキ


 夕暮れの風が 頬をなぜる
 いつもの店に 行くのさ
 仲のいい友達も 少しは出来て
 そう捨てたもんじゃないよ

 さして大きな 出来事もなく
 あのひとはいつだって 優しいよ
 どこで暮らしても 同じだろうと
 私は思っているのさ

 なのにどうしてか 知らない
 こんなに切なくなって
 街で一番高い丘に 駈けてく頃は
 本当に泣きたい 気分だよ

 真っ赤な夕日に 船が出て行く
 私の心に 何がある


◆「浅川マキ II」(1971年)、A面1曲目に収録されている曲。

 動画(版画?)はYoutubeに投稿した方の手作りでしょうか。
 いい感じです。

 

k_guncontrol at 08:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!浅川マキ 

2009年01月17日

白洲次郎とは何者だったのか(68)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 (北康利) を読む 〔その5〕  
  ※参考:前回 (白洲-67)

「おっとりした性格の安倍(晋太郎)がいつの間に次郎の信頼を得て
 いたのか驚くとともに」(p112)
※晋太郎の実父・安倍寛は反翼賛の人で、安倍晋太郎は岸信介と
 姻戚であることを考えると、白洲次郎とは同じ位置に居ない人ですが、
 まだ岸や鳩山との対立が表立っていない時期であったのかもしれません。
 あるいは安倍の人柄が当たり障りのないものだったのか。

「三品(鼎)も安倍(晋太郎)も、それぞれの新聞社の中で主流を歩いて
いたとはいえない」(p114)
※三品鼎という人も、次郎さん絡み以外で名前を聞かない人です。
 やはり両名とも当たり障りが無い人物だからこそ、白洲次郎は
 両者が近づくことを許したのだろうかと。

 (追記 2009/4/22)
  三品鼎氏は2009年4月11日逝去されました。
  ご冥福をお祈りいたします。 参考

  しかし、経歴がNHKを経て読売新聞社に入社(その後小学館専務)と
  いうのは、下記のNHKと読売の関係からして何かありそうな気がします。
  <以上追記分>

「大正力と称された正力松太郎と次郎のテレビ放送開始をめぐる
 やりとりである」(p115)
※日本にテレビ放送網を導入したかったアメリカ人と、
 日本に原発を導入したかったアメリカ人は同じ筋。
 参考1: 原発導入のシナリオ 〜冷戦下の対日原子力戦略〜 (Google Video)
 参考2: 柴田秀利

「君の社(読売)は正力が戻ったらきっとよくなる(と白洲が言った)」
 (p117)
※正力というのも保守の権化で、ロクな人物ではないと思いますが、
 白洲次郎は何故そんなに正力の肩を持つのか、という疑問には
 この本は答えていません。 正力に限らず白洲&吉田は、旧内務省系の
 それも情報とか特高警察の人間が好きですが、それはなぜでしょう。

「(テレビの放送免許を与えるのは)どっちにするの? 
 金を使った方(NHK)に許可するのか、金を使ってない方(読売)に
 許可するのか? 金を使わないほうにするんだよね。正力の方だよね」
 (p120)
※どっちにするの? 国産技術を使った方(NHK)に許可するのか、
 アメリカとのコネクションを重視して、アメリカ方式の放送技術を買うのか? 
 国産技術だよね。NHKの方だよね。

 当時のNHKは労組左派の勢いがかなりあったと思いますが、それも
 次郎さんがNHK側に肩入れしなかった理由のひとつかと。

「次郎は後に東北電力会長になったとき、電電公社に頼らず、
 自社のマイクロ波通信網 で会社内の通信を行なっている」(p121)
※次郎さんはテレビ免許では正力に助力しながら、マイクロ波通信網では
 正力に権限を与えなかったのは何故か。
 そして、なぜ東北電力は自社専用の通信網が必要なのか。
  参考1: 白洲(5)
  参考2: 正力怪文書 その1 その2

「次郎は日本テレビの監査役に就任している。(略)
 同社からのお礼の気持ちだったに違いない」(p122)
※参考: 『余多歩き』より、“フィクサーとしての白洲次郎 24” 

「GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人−−。
 一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼく(白洲)だ」(p123)
※なぜ二人はそれほどGHQ(特にGS) に抵抗しなければならなかったのか。
 「アメリカに抵抗」ではなく、「GHQに抵抗」である点も要注意。
 参考: 1949年の吉田茂 ← GSを追い落とした後の状況

「片山(哲)に仕える気などない次郎は、さっさと終連次長の職を
 辞している」(p123)
※片山内閣の方も次郎さんを使おうという気はなかったと思います。
 参考: 白洲(62) 終戦連絡事務局は何時なぜ廃止されたのか

◆ここまでで半分といったことろです。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか


2009年01月16日

白洲次郎とは何者だったのか(67)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』(北康利) を読む。 〔その4〕  
  ※参考:前回

「米国のジャーナリズムは近衛(文麿)の戦争責任を重くみた。」(p96)
※武相荘HPより、近衛について白洲次郎の発言
 「近衛内閣の時に、右翼の動向に腹をたてて当時泣く子もだまるほどの
  絶対貫禄の持主、頭山満 翁を(近衛文麿が)呼びつけたという一幕も、
  あの時分に政治家で頭山翁を呼びつけるなんていうことは、
  はなれわざどころの騒ぎではなかった。」(以上引用)
 この次郎さんの発言、他に同じ内容の話を読んだことがないのですが、
 ほかに同様の記述はあるのでしょうか。

松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会を設置。(略)
 だが次郎は松本の保守的な姿勢が気になって仕方なかった。」(p97)
※当ブログでは この様な可能性 を推定しています。

「吉田と次郎は(憲法案の)戦争放棄条項を見て、“しめた”と
 思ったそうである。」(p98)
※しめた、と思うのはもう少し後、講和会議に近くなっての話ではないか  
 と思うのですが、これソースは誰でしょうね。 こういうことを安易に
 書かれると、プロ市民の方などが白洲次郎は9条の護神、みたいな
 取り上げ方をするので、あまり感心しないのですが。

「外務省文書の中に“白洲手記”と名づけられた文書がある。」(p100)
※参考: 白洲(17)

「腹心の次郎を終連専任次長に指名し、(昭和21年) 2月26日の閣議に
 おいて承認された。」(p102)
※これをどうやって閣議で通したのかが疑問なのですが、バー・モウ絡み
 でマッカーサーと面談したとき、これをGHQに事前承認させたのかも。 
 そうでもないと当時政界で無名の白洲次郎なる人物を、終連の事実上の
 トップにつけることに賛同する議員が居るとは考えにくいです。

「GHQ内において民生局GSと参謀第二部G2が対立していることは
 周知の事実。」(p103)
※戦後史の基本知識の無い方には、この“G2と組む”というのがどれほど
 怪しい行為か分からないのだと思いますが、それをいいことに白洲次郎の
 この行為を正当化しようとする北康利氏の著作も、随分危険なものだと
 思います。

「ウィロビーは辰巳(栄一)をリーダーとする辰巳機関を設置するほど
 彼に信頼を置いた。」(p103)
※これもさらっと書いていますが、簡単に流していい箇所なのかどうか。
 辰巳栄一は旧軍でも情報系、かつ欧米通という人物。
 吉田と白洲はなぜ辰巳を抜擢したのか、という点が一切説明無しなのは
 どうしてでしょうね。 参考:自衛隊創世期 2 

「ホイットニーは脂ぎった白い顔を少し赤らめた」(p104)
※あたかもホイットニーは無能、という印象を植えつけるための描写。要注意。

「統制経済だといつまで経っても経済復興などできやしない。
 帝国水産時代の悪夢が甦った。」(p105)
※次郎さん、帝国水産時代に統制派に組していたのは何だったのか。

「次郎の懐に飛び込んでいけた人間が異口同音に口にする温かみの
 ある白洲像であった。」(p108)
※懐に飛び込んでいけた人間=利害や立場が次郎さんと対立しない人間。

「ゴシップ狂というか人のことを有ること無いこと色々と尾ひれを
つけて言いたがる習性」(p108)
※当サイトのことでしょうか。どうもすみません。

「こうして情報をとった人間の中に、後に次郎が日本開発銀行総裁に
 推薦した小林中などが入っていたに違いないのだ」(p111)
※戦後次郎さんと小林中や水野成夫が、いつどこで接点が出来たのか、
 どうも良く分からないのですが、上記の様に「違いないのだ」と
 言い切れるかどうかは疑問に思えます。
  参考:
   (84)水野成夫、小林中はいつごろ接点が出来たのか

   小林中と日本開発銀行-1  同-2

「いまどき5千円で一週間も暮らせるわけないでしょう」(p112)
※これが昭和20年代前半の話なら、5千円は現在価値で50万円相当。
 20年代後半でも25万円相当。 正子さん、お金使いが荒いです。 
 当時の5千円という金額は現在いくらに相当するか、を書かないで
 軽く流しているあたり、悪質な書き方のなされた本だと思いました。

◆まだまだ続きますので、引き続きお付き合い願います。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか

2009年01月14日

白洲次郎とは何者だったのか(66)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 (北康利) を読む。 その3
  ※参考: その1 その2

「昭和20年(1945年)8月15日、日本は敗戦を迎えた。
 世間の反応は様々で」(p86)
※世間の反応よりも、白洲次郎と吉田茂が、
 この日どこで何をしていたか、という調査が欲しいところです。

「アメリカ軍は周到なことに」(p87)
※北氏の白洲ストーリーは、“民生局=悪者” という前提でのみ
 成立するもの。 よって、この辺りから予防線を張っています。

「この状態を見て次郎の愛国心がうずき始める。
 (今の日本には自分が必要なはずだ)」(p88)
※終戦の6年前に定年退官していた吉田茂は何故表舞台に復帰したのか。
 この終戦直後、白洲と吉田は、世に唐突に現れた様に見えます。

 東久邇内閣が組閣されるにあたって、従来の政治家がみなアウトの状態、
 近衛文麿がらみの人脈から、なんとか消去法で吉田茂は選ばれた、と
 いうのが表向きですが、吉田自身も戦犯とされる素地は充分あったはず。
 (この点、吉田は上手く逃れていますが)

 政治家としては1年生で基盤もまともに無い吉田へのアピールだけで、
 これまた終戦時点では海のものとも山のものともしれない白洲次郎が、
 終戦連絡事務局に抜擢されたその背景に、誰がいたか、何があったか。
 ここを納得いくように説明した文章は未だ読んだことがありません。

「彼(ケーディス)はルーズベルト政権下で公共事業局、財務省顧問、
 臨時国家経済委員会委員を歴任し」(p90)
「(GHQの人間は)自分の国で行政のこと位やった経験のある人は
 いたかも知れぬが会った事はなかった。無経験で若気の至りとでも(略)」
 (p90、白洲次郎自身の発言より)
※同一ページ内で矛盾してますよ。自分と利害の対立した人を悪く言う
 あたりはジロさんも人の子。 この民生局、外務官僚、経済安定本部、
 などがその例ですが、本当に彼らは、無能な素人だったのか。

 ちなみに憲法制定に関わったGSのみなさんは、弁護士、判事などの
 経歴をもつ人たちです。 ホイットニーは元々マッカーサーの
 個人的な顧問弁護士です。
  参考:新憲法と植原悦二郎 
      中核となっていたケーディス大佐はじめほとんどの
      スタッフは、(略)有能な政府スタッフ、大学教授、
      弁護士などの高度な法律専門家・法務官僚たちだったのである。
       (略)
      彼らの人の好さや使命感が誉められるべきで、「日本弱体化」
      という政治的動機があったなどと憶測するのは、理念に忠実な
      彼らに対する下司の勘ぐりというものであろう。
      <以上引用>

「バー・モウ事件である」(p91)
「(重光葵はバー・モウを匿ったが) ところが外相が吉田茂になって
 GHQが気づき始める。」(p92)
※当ブログでは、バー・モウの身柄引き渡しと引き換えに吉田茂は
 何らかの見返りをGHQから受けたと推測しています。 
 参考: 白洲(58) 補記2 

「ここで次郎が大活躍する。彼はGHQが大規模な外務省内捜索を
 行なうという極秘情報を事前にキャッチし、明日捜索が入るぞ、と
 外務省に連絡を入れた。」 「北沢は無事釈放され危機は去った。」(p93)
※バー・モウの件が、もし当ブログの想像通りだったとしたら、
 白洲次郎のこの行動はマッチポンプ、ということになります。

「実はこれには裏話がある。次郎は民生局に顔を出すうち、局内の掲示板
 に貼られているメモが彼らの動きを知る上での絶好の情報源であること
 に気づいたのだ」(p94)
※この“掲示板のメモ”云々というのは、白洲次郎自身の発言がソースだった
 と思います。確かに事実の部分はあるでしょうが、果たして極秘捜査の
 メモを堂々と掲示板に貼っておくものか、という疑問もあります。

◆中々先に進みませんねー。
 本当は全2回ぐらいでサラっと見ていくつもりだったのですが。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか



2009年01月12日

港が見える丘

港が見える丘  平野愛子  昭和22年 (1947年)


 あなたと二人で 来た丘は 
 港が見える丘 
 色褪せた桜 唯一つ 
 淋しく 咲いていた
 船の汽笛 咽び啼けば 
 チラリホラリと花弁
 あなたと私に 降りかかる 
 春の午後でした

 あなたと別れた あの夜は
 港が暗い夜
 青白い灯り 唯一つ
 桜を照らしてた
 船の汽笛 消えて行けば
 キラリチラリと花弁
 涙の雫できらめいた
 霧の夜でした

 あなたを思うて 来る丘は
 港が見える丘
 葉桜をソヨロ訪れる
 潮風 浜の風
 船の汽笛 遠く聞いて
 ウツラトロリと見る夢
 あなたの口許 あの笑顔
 淡い夢でした


◆作詞兼作曲の東辰三(あずま・たつみ 1900-1950)は
 戦前からキャリアのある人ですが、
 やはりこの曲でこそ記憶されるべき人。

 この曲は日本ビクターの戦後初のリリースだそうです。
 満を持してのリリースというところでしょうか。
 横浜の「港が見える丘公園」は
 この曲のヒットにちなんで建設されたとか。
 
 この時代、作詞と作曲を兼業と言う職業音楽人はほとんど存在しません。
 歌の出だしのメロディ(“あなたとふた” の部分)は同じ音程が
 続きますが、これは当時の曲には殆ど見られない傾向かと思います。
 これは言葉とメロディが同時進行で作られる手法ならではですね。
 (逆に今日では珍しくないものです)

 イントロのメロディで、短三度(=ブルーノート)が明確に
 打ち出されている点、これも当時あまり例がないのでは。
 昭和22年当時、リアルタイムでアメリカの音楽が入って来ない時期が
 長いことあったわけですが、東辰三は限られた情報(上海ジャズなど)
 から必死に新しいサウンドを模索していたのだと思います。

 あと注目点は、歌に入る前のピアノのオブリガードの
 タイミングの取り方(譜割りの話ではありません)。
 これが演奏者のセンスなのか、東辰三の指示なのかは不明ですが、
 こういうタイミングの取り方は今日では出来る人はいないでしょう。
 (例えばクラシックだと、ハイフェッツ以降は
  こういう取り方をする人がいなくなっている)

 東は昭和25年に50歳で急逝するのですが、音楽への制約が無くなり、
 ジャズがさらなる変化を遂げた1950年代初頭の影響下にある東辰三を
 聞いてみたかったと思います。


▼参考リンク
『童謡の謎』より、“「港が見える丘」に隠れた「白い船のゐる港」”
 
 

2009年01月11日

白洲次郎とは何者だったのか(65)

『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 (北康利・著) を読む 〔その2〕  
 参考:前回

「吉田(茂)と牧野(伸顕)は親英米派で」(p76)
※この場合、英と米は分けて考えた方が良いでしょう。
 “新英” かつ “親ジョセフ・グルー派” というところでしょうか。
 吉田と白洲がGHQに抵抗したのは、ジョセフ・グルーのシンパだから、
 というのが理由のひとつ。
 大まかに言って、グルー=国務省、GHQ=国防省、と、なります。

「(昭和11年、吉田茂は)駐英大使となった」(p76)
※吉田茂は駐英大使を最後に、昭和14年退官。
  次官の経験こそあるものの、政治家でもない定年退職した元官僚の
  吉田茂が昭和20年に、66歳にして政界へデビューできたのは何故か。

  そもそも定年退職後の昭和14〜20年まで、軍部に睨まれるほどの
  活動が出来たバックボーンは何か。
  牧野伸顕と樺山愛輔がいたからという以上の何かがあるはずです。

「このころ牛場友彦は語学力を買われて(略)敵対放送を担当」(p77)
「ビジネスマンである彼には」(p78)
※この牛場さんも、Googleでざっと調べただけでも何やら怪しい人。 参考
  牛場さんの関わった会社が2004年に倒産しています。 
  参考: アラスカパルプ(株) 負債総額 約844億円 
   「同社は昭和28年8月に戦後の化学繊維向けのパルプ需要のため、
    合繊メーカーと総合商社などが共同出資して設立した投資窓口会社。 
    準国策的な会社として、発足当初より日米政府から事業資金の融資を
    受けるなど(略)」
  ※なるほど繊維がらみですか。 参考
   投資窓口会社というのは電源開発(株)と同様のコンセプトか。

「(帝国水産の)調査室長に就任することとなった」(p77)
※何の調査でしょうね。市場調査だけではなさそうな。

「(帝国水産)社内では、西村/金子/白洲と、林/木村の対立あり」(p80)
※参考: “水産工業 戦略の展開” pdf
  水産の国家統制について, 日本水産のトップ田村啓三と植木憲吉は
  強く抵抗したが, 専務の西村有作が先駆けて賛成した。 経営陣の
  ばらばらな姿勢の中には, 国家統制をめぐる日本水産の思惑と
  主導権に関する駆け引きが隠れていた。 つまり,
  第1に統制会社の主導権を握るとの思惑であった。
  第2に, 帝国水産の設立は国家総動員法に基づく強権立法で
  あったが, その施行過程で漁業資本の根強い抵抗にあって,
  結果的に漁業生産では現状維持に近い資本合同の形をとって,
  水産物の流通過程だけを統制する統制会社になった。
  (略)
  冷凍・冷蔵技術を積極的に導入する主な動機は, 水産物の流通の
  現状を改善するための大量加工・販売体制の構築のためであった。」
 <以上引用>

※ジロさんは統制反対派と取れる様な記述がなされている割りに
 統制派の西村専務と組むのは何故なのか。

「(昭和19年12月3日で有馬日記の次郎に関する記述が途切れたのは)
 帝国水産を辞めたからだった。(略) 後に次郎が選んだ仕事、
 それは専業農家だった。」

※前著『占領を背負った男』では、この帝国水産を辞めた時期 および
 農業に専従した時期が曖昧だったのですが、これで確定でしょうか。
 白洲正子さんの著書では昭和15年から疎開し農業という様な記述でした。

 あと、疎開が政策として奨励される以前は、個人で疎開をした人に
 対し、世間の目は厳しかったそうですが、この辺はどうだったので
 しょうか。

※『占領を背負った男』では、昭和19年12月3日に細川護貞(近衛、高松宮
 グループ、細川護熙の父)が鶴川を訪ねて来た、とあるのですが、
 さてジロさんの退職と、護貞の鶴川訪問は関連があるのか。

「茅葺の百姓屋」 → 「グランドピアノが持ち込まれ」(p82)
※部屋が広いのは良いことです。

「田畑も一緒に買い受けたが、次郎も関与した戦後の農地改革
 一部人手に渡った」(p82)
※土地も広くていいですね。

備考:なぜ吉田茂は農地改革を強行したか
  →当時の労働人口に占める農業従事者の割合は50%を超えていた。
   この大人数が共産化するのを吉田は恐れ、小作農に土地を
   自己所有させるため、農地改革を推進した。 参考

農地改革はGS主導の政策であり、吉田は農林大臣の和田博雄とも
合わなかったのに、農地改革が吉田内閣で実施されたのは、
上記の通り、反共という目的があったからです。
 
(次回へつづく)

◆軽くつっこむつもりが、つっこみどころが多くなかなか進みません。
 次回から、いよいよ戦後編です。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか

2009年01月09日

白洲次郎とは何者だったのか(64)

北康利氏の新しい著作、『レジェンド 伝説の男 白洲次郎』 が
朝日新聞社より刊行されました。

レジェンド 伝説の男 白洲次郎
レジェンド 伝説の男 白洲次郎


感想は、 …ノーコメント。
ツッコミどころを以下に軽く抜書きしておきます。

「100年に一度の危機にある今こそ、敗戦、占領という
 2000年に一度の危機に立ち向かった男に学べ!」 (同書帯より引用)
※「危機に立ち向かった」 は「危機を最大限活用した」が正解だと思います。

「(白洲)文平は綿貿易で成功を収め」(p11)
「大胆に相場を張り」(p13)
※なお、文平の兄弟(白洲退蔵の子)についての記載は無し。
  参考: 白洲文平−1  白洲文平−2

「(文平の子は)二男三女で」  参考:白洲家系図
※妹が嫁にいった松方家に対する記載は相変わらずありませんね。

「次郎の一年後輩にあたる高山忠雄や小畠政俊は」
※高山忠雄 … 昭和18年 外務省調査官、上海駐在。 参考:高山忠雄

「永山時雄の息子である 永山治 (中外製薬社長)」 
  参考:永山治  参考:永山時雄と通産省

「尚蔵は(神戸一中を)卒業後、三高、京大、オックスフォード大と
 いうエリートコースを進んでいる」(p30)
「日本の帝国大学を出た尚蔵は」(p33)
※ここで言う“帝国大学”は東京帝国大学ではなく、帝国大学令に
 基いて設置された複数の大学群の総称。 京都大学を含む。

「(英国留学当時のLeys Schoolの名簿に) 次郎の名前はない。
 他の学校に行ったのだろうがこのあたりの事情は不詳である」
※都合の悪そうなことは不詳、というのがこの著者のスタイル。
 参考:リーズ・スクール

「彼(ロビン・ビング)の家系はウィリアム征服王の流れを汲む
 ストラッフォード伯爵家 (Earl of Strafford)」
Wikipediaより “Earls of Strafford” 
※ Robert Cecil Byng, 7th Earl of Strafford (1904-1984) の記載あり。

「(ジャーディン・マセソン)オーナーのジョン・ケズウィック」
「吉田家や(略) 麻生家の面々は、このケズウィック家と
 深い関係を持っており」
「(ケズウィック家は)貿易を通じて国家への貢献大」
※ここは軽く流しています、おそらく意図的に。
 この人物は白洲次郎の人脈で最も重要なひとりです。
  参考1  参考2  参考3 

「(次郎は)学生時代に『資本論』を全て読破したというし、
 なかなかの読書家ぶりが伺える」
※当時、良家の子弟が『資本論』を読むことの重大性を軽くスルー。

「昭和の金融恐慌のあおりを受け、白洲商店が倒産してしまう」

「(倒産した白洲商店は)清算後もある程度の資産は手元に残った」

「(白洲文平邸は)陸軍の糧食を扱っていた大阪栄養研究所の
 八嶋治三郎社長の手に渡ったが」
※大阪栄養研究所、八嶋治三郎ともネット上に情報なし。

「若い頃は180センチくらいだったのではないだろうか」
※何cmでもいいじゃないですか別に。

「(樺山愛輔は) もっと注目されていい人物である」
※いや、あまり注目されると都合が悪いと思いますよ。

「(樺山愛輔は) ロンドン軍縮会議でも陰の人として
 大変な苦労をした」 「日米協会会長という立場から開戦回避にも尽力」
※参考: 『日本近代史料に関する情報機関についての予備的研究』pdf 

「明治・大正期のセール・フレーザー商会といったら、規模から言っても
 現代の総合商社に匹敵する存在である」
「父・文平が綿貿易に携わっていたこともあって
 (次郎は)かねてより貿易に興味を持っていたから」
※参考: セール・フレーザー商会

「吉田(茂)は1920年からの2年間、在英大使館付一等書記官として
 ロンドンに駐在していたが、鮎川義介の記憶では、次郎はその折に
 吉田と知り合ったのではないかという。(略) 英国への渡航者数は
 微々たるものだったから、大使館員が留学生を全員把握していたと
 しても不思議はない」
※次郎の英国渡航は1921年、当時19〜20歳。
 もし、この時点で吉田茂と知り合ったとしたら、個人対個人ではなく、
 誰かしら、媒介になったもの、あるいは共通の人脈があったと推すべし。
 この「媒介になったもの」が、ヨハンセン・グループの背後にあります。

◆以降の続きは次回へ

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか

2009年01月08日

ドミニカ糖事件

立川研究所(京都)という繊維の研究所がありました。
昭和30年に、所有する特許権と引き換えに砂糖1万トンを台湾から
輸入することになりました。通貨決済を用いない(モノと権利の交換)
取引ですので、貴重な外貨を使わずに済み、これは結構な話です。
第028回国会 決算委員会 第5号 昭和33年2月01日

その異例の取引を許可したのは通産省。農林省は責任逃れに終始。
第028回国会 決算委員会 第8号 昭和33年2月18日

話は一旦白紙になり、バーター取引の通産省認可は無効となりました。
にもかかわらず、砂糖だけは日本に入荷してきました。
それも、なぜか台湾糖ではなく、ドミニカ糖が中南米からやって来ました。
第028回国会 決算委員会 第10号 昭和33年3月04日

日本に入ってきたドミニカ糖はなぜか引き取り手が中々現れず、
8ヶ月も倉庫に保管されたままでした。
倉庫の保管料は香港上海銀行が立替えました。
第028回国会 決算委員会 第11号 昭和33年3月5日

立川研究所所長・立川正三の証人喚問、
立川氏が取引を任せた責任者は、嘱託扱いで無給というナゾの人物。
そしてバーター取引のはずが、なぜか外貨で決済することになりました。
今度は農林省が深く関わることになりました。
周(シュウ・カシン)という中国人ブローカーと、松平守弘という日本人が、
この砂糖を商社に売却し、現金化するために何やら運動をしていた様です。
第028回国会 決算委員会 第13号 昭和33年3月11日

シュウ・カシンは不審死を遂げました。
砂糖の払い下げには大石武一(当時農林政務次官)という人が
関わっていた様です。 綱島正興(台湾方面に詳しい人)、
稲富稜人(社会党)という人も関わっています。
(松平、大石とも河野一郎/鳩山一郎系の人)
第028回国会 決算委員会 第14号 昭和33年3月12日

謎の嘱託人・勝間敏雄の証人喚問、
譲渡予定だった特許権もどうやら実体のないものの様子。
シュウ・カシンは昭和31年12月に都内の高級アパートで死亡、
死因は自殺とされたが、検死状況はかなり不審なもの。
ドミニカ糖売却で大金を持っているはずのシュウは
なぜかわずかな現金しか持っていませんでした。
第028回国会 決算委員会 第16号 昭和33年3月17日

関係省庁(通産省、大蔵省、農林省)の責任者から事情を聴取。
輸入許可の根拠となるべき、各省庁の責任範囲は非常に曖昧。
第028回国会 決算委員会 第18号 昭和33年3月19日

大石武一、綱島正興、稲富稜人の証人喚問。
シュウ・カシンの背後にはサッスーン商会が居た様です。
そして、松平守弘の証人喚問。
シュウの友人の雀荘経営者(元・上海共同租界工部局警察の特務課長)が
語るシュウの死亡発見時の状況。
第028回国会 決算委員会 第19号 昭和33年3月20日

再度、関係省庁の責任者から事情を聴取。
第028回国会 決算委員会 第20号 昭和33年3月28日

再度、勝間敏雄と立川正三の証人喚問。
第028回国会 決算委員会 第21号 昭和33年3月29日


◆で、結局この事件は明快な解決を見ることなく、
 うやむやに終息します。

 『疑惑と謀殺』(森川哲郎、祥伝社文庫)では、国際詐欺団が介在か? 
 と書かれていましたが、河野/鳩山の資金稼ぎだろうという気がします。
 吉田/白洲がジャーディン・マセソンと組むなら、
 我々はサッスーンと組むか、ぐらいの話では。


2009年01月07日

1949年の吉田茂

ただいま公開中の映画 『K-20 怪人二十面相・伝』 の舞台が
大戦を回避した1949年(昭和24年)の帝都東京であり、
“富が一部の特権層に集中した格差社会” という設定を読みまして、
なるほどヨハンセン・グループの皆さんが戦争回避に努力したのは
その為だよなあ、と改めて思い至りました。

では、現実の1949年の日本はどのようなものだったか。
『吉田茂とその時代』(ジョン・ダワー 著)より該当記述を以下に抽出。

「1949年1月選挙の勝利は新しい保守政権の誕生を象徴した。
 1949年における吉田自由党の構成は、財界代弁者としての
 本質的役割を表していた。 衆議院議員261人のうち158人(61%)は
 “会社社長、重役、監査役” であることが確認された。 

 同時に、党は元高級公務員の熟練した中心要員を導入することで
 “官僚化”されてもいた。その年の選挙で衆議院議員に当選した
 党員のうち、44人(17%)は元官僚であった。」

「本格的な追放解除の動きは1949年に始まった。(略)
 数名の解除者を吉田はただちに高い経済顧問の地位につけたが、
 多数のものは新しい警察、軍事機構のなかへ改めて吸収されていった。」

「(労働組合法の)1949年の改正は、その権利を制限し、雇用者側が
 組合組織化と団体交渉に対応する立場を強めるところに意義があった。
 (略) 総司令部はこの立法による労組攻撃に続いて、内閣に対し
 公務員の中の“赤”の追放を非公式に命令し(略)」

「1949年初めのドッジ・ライン実施前には、復興金融金庫の融資は
 全産業のほぼ3/4を占めた。この融資の84%は石炭、鉄鋼、肥料、
 電気、造船、繊維の各産業分野に向けられ、また60%はわずか97社が
 (復金融資を)受けていた。」

「経団連を先頭にして、実業団体が強力なロビーとして再び姿を現した。
 また中央の官界で、大企業は1949年の半ばに通商産業省の設置によって、
 異常に強力な味方を得た。これはいうまでもなく、組織労働に対する
 攻撃と労働組合の不当な“政治化”への非難に、直接対置されていた。」

「集中排除法は事実上死文となった。銀行と金融機関はすぐさまその
 適用外とされ、わずか19社が認定されただけで1949年に打ち切られた。」

「政府は1949年6月に、共産主義者と左翼主義者の捜査を専門とする
 国内諜報機関を設けた。いくぶん象徴的なことに、この機関は法務庁の
 特別審査局(特審局)内に置かれた。(略)局長になったのは
 (元・思想検事の) 吉川光貞 である。(略)」

「公共部門におけるレッド・パージは1949年の末に始まり、朝鮮戦争の
 勃発後、まもなく民間部門に向けられ、1950年末まで沈静化しなかった。
 (略)その迅速なことは、特審局とウィロビー少将の諜報部が、指名追放
 する人間の完全な名簿をつくりあげていたことを物語っていた。」
<以上引用>

▼関連リンク
  1949 Japan 昭和24年を中心に見た戦後史。

  昭和24年を象徴する出来事、“下山事件”
  インデックス−1  インデックス−2 


◎もう一つの1949年の物語、浦沢直樹 『BILLY BAT』 第5話より

higasi-ajia




 「東亜細亜興産」 なるヤバそうな機関の方が出て参りました。
 あの轢死体がもし別人のものだったら、という方向になるのでしょうが、
 それに蝙蝠の紋章の結社が今後どう絡んでいくのか。刮目。


2009年01月05日

日本貿易館 補記

日本貿易館とライカビル の補記です。

日本貿易館と皇室に何か関係があったらしい、という話。

第065回国会 大蔵委員会 第26号 昭和46年4月22日
○広瀬(秀)委員 そこで、この今日までの高松宮のお屋敷の中に
光輪倶楽部というものがあったということを聞いておるわけでありますが、
この光輪倶楽部と高松宮さまの御関係。そしてまた光輪倶楽部というものは
どういう団体であり、どういう仕事をなさってきたものであるか。
(略)

○瓜生政府委員 この光輪倶楽部は昭和二十四年に渋澤敬三氏等が
世話人となって設立された団体でございますが、その規約によりますと
「会員相互の親睦を図るとともに、会員又は倶楽部が知名内外人等を接待、
 懇談して、国際親善及び文化振興の実を上げることを目的」としている、
(略)
ちょうど戦後いろいろなホテルとかそういうものも復興しておりません。
そこで、こういう経済界が主でありますけれども、いろいろ御協議された
り、お互いに集まって懇談をされるような適当な施設がない。
そこにちょうど高松宮さんが住んでおられた光輪閣、それがあいている。

光輪閣は戦後たしか昭和21年から昭和24年までは通産省の
貿易庁のほうに貸されて、日本貿易館高輪分室ということに
なっておったわけです。そのほうの用がなくなって一応あいている。

それで昭和24年にそれを利用して、先ほど申したような要するに倶楽部の
場所としたということで、こういう光輪倶楽部というものがつくられて、
ずっと光輪閣を使ってこられたようであります。
<以上引用>

Wikipediaより 高松宮宣仁親王
戦争中は開戦当初から和平を主張して、米内光政等をはじめとする
海軍左派や、吉田茂等の政界の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立した。
<以上引用>


貿易庁長官だったあの人 の戦前の雇い主(?)は秩父宮親王でしたか。 参考

で、やはり日本貿易館は皇室とゆかりの深そうな
あの人がらみのものであろうし、日本貿易館が
ライカビルの横にあるのは何か必然があるのだろう、と
昭和24年に高輪分室を戻しているのも何かありそうな。
 
光輪閣の元支配人は昭和30年代史でよく名前の挙がる、
レストラン「キャンティ」を作った人でした。 
  ↓
『港区ゆかりの人物データベース』より 川添浩史 
大正2−昭和45(1913−1970)。
文化交流プロデューサー、高松宮国際関係特別秘書官。
伯爵、貴族院議員である後藤猛太郎の庶子として生まれ、
資産家の川添家の養子として育ちました。

川添の業績は多岐にわたっていますが、自ら本職と称したのは
終戦直後から高松宮宣仁の国際関係特別秘書官となり、
GHQや国賓などをもてなす高輪の「光輪閣」支配人として
運営全般を指揮する仕事でした。
<以上引用>

上記の後藤猛太郎は後藤象二郎の子。
後藤象二郎とは竹内綱(吉田茂の実父)の事業仲間。
 参考1  参考2

なにか色々と関係があるのだろうと。未消化ですが、以上。


2009年01月03日

西銀座駅前

西銀座駅前 フランク永井 (Sound Only) 昭和33年 


  ABC − XYZ
  これはおいらの 口癖さ
  今夜も刺激が 欲しくって
  メトロを降りて 階段昇りゃ
  霧に渦巻く 眩しいネオン
  いかすじゃないか 西銀座駅前


地下鉄銀座駅の丸の内線は何故他の線と離れているのか。
それは元々、「西銀座駅」 という別の駅だったから。

Wikipedia 銀座駅 より
1957年(昭和32年)12月15日
 営団地下鉄丸ノ内線(現・東京地下鉄丸ノ内線)の西銀座駅が開業。
 銀座線銀座駅との乗り換え業務を開始。

1963年(昭和39年)8月29日
 営団地下鉄日比谷線(現・東京地下鉄日比谷線)の駅が開業。
 同時に丸ノ内線西銀座駅を銀座駅に改称。

『大成建設HP』より、“実績紹介 地下鉄銀座駅” 
これは地下鉄銀座線、日比谷線の「銀座駅」と丸ノ内線の「西銀座駅」とを
統合したもので、3線が地下でH型に交差するという世界にも類をみない
地下立体構造を形成している。
<以上引用>


13800円 フランク永井 (Sound Only) 昭和32年


  もっこ担げや つるっぱし振るえ
  歌え陽気に 炭坑節
  黒いダイヤに 惚れたのさ
  楽じゃないけど 13,800円 
  たまにゃ一杯 
  たまにゃ一杯 呑めるじゃないか


13,800円は当時の初任給より少し高く、そろそろ家庭でも持とうかという
勤労者の給与を想定したものと思われます。
 ・同年の国家公務員上級 初任給 = 9,200円
 ・ 〃  銀行員      初任給 = 12,700円  参考

同時期は週刊誌30円、ハガキ5円、コーヒー50円というところですので、
現在の1/10ほどの物価レベルでしょうか。
なお、昭和32年は岸信介内閣発足の年。
黒いダイヤの斜陽、三井三池争議 は昭和34年。


第039回国会 運輸委員会都市交通に関する小委員会 第1号
昭和36年10月26日

○山内公猷参考人  ※帝都高速度交通営団副総裁、前運輸事務次官
私ども営団の工事の進捗状況について、御説明を申し上げます。
(略)
この東銀座−霞ケ関間は(略) 昭和40年を想定いたしますと、この銀座の
ところに、現在の浅草から参りますところの銀座線のそれから日比谷線と
この二つの線の下に今度の線が入るわけでありまして、今の銀座の駅と
西銀座の駅をつなぎます中廊下といいますかを全部プロムナードに
いたしまして、駅その他の設置をする予定にしておりまして、
(略)
この区間がもしも片づきませんと、この線(日比谷線)が
オリンピックまでになかなかできない。


第039回国会 地方行政委員会 第4号 昭和36年10月17日 
○秋山長造君 たとえば、東京のあの西銀座の高速道路だろうと思うのですが、
これは。これは今のところは、三十二年の暮れから紛争が起こったままで全然
解決していないわけなんですね。
(略)
特に東京のあの西銀座の場合は、これはそもそもあの水面の埋め立て当時から、
ずいぶん都政の七不思議の一つだとかいうようなことで、週刊誌あたりが
おもしろおかしくずいぶん取り上げてやってきたことだし、また公有水面の
利用の許可を与えたいきさつ、あるいはさらにそれを埋め立てて今のような
形にするまでのいきさつ等については、ずいぶんいろいろなうわさがとりどりで、
(略)
この委員会でしたか、建設委員会でしたか、建設大臣あたりも、あれの問題に
ついては非常に遺憾な点があることを認めるというような答弁があった
(略)
あれだけの目に立つ施設があって、しかも、いまだにそれが所属が不明という
ようなことは、全くこれは東京の七不思議でなしに、日本の一大不思議だと
思うのです。
(略)


2009年01月01日

下山事件前後(43)

迎 春  今年もよろしくお願いします。

警視庁(自治体警察)を吉田茂配下と見て、
一方、国家地方警察を非吉田系と捉えると
国鉄三大事件がまた違う角度から見えてくる、という話。

◆昭和24年7月、齋藤昇(国家地方警察が長官)が吉田茂によって
更迭されそうになり、それが急転直下取り消される。  
  参考: 白洲次郎(63)

その更迭騒動の前後で下山事件と三鷹事件が発生しています。

昭和24年
 6月30日 吉田茂、ウィロビーに齋藤更迭の意を記した書簡を送付。
 7月05日 吉田茂、辻国家公安委員長に齋藤国警長官の罷免を要求。
    〃   同日、下山総裁が失踪。(翌6日、遺体で発見される)
 7月11日 齋藤更迭拒否のメモランダムがGHQより出される。
 7月15日 三鷹事件発生

下山事件が警視庁主導の操作であるのに対し、
三鷹事件は警視庁と国警の合同捜査であること。
なお、松川事件の捜査は、国警(福島県本部捜査課)が担当。
  参考: 昭和20年代の警察機構(1) 

齋藤昇の更迭案は)白州次郎が昭和24年6月1日に、
GHQプリアム大佐(PSD)に同意をとっていた。

 ※この直前、昭和24年5月25日に通産省が発足。

GHQの PSD (公安課/Public Safety Division) は、
CIS (民間諜報局) の下部組織。
昭和24年の時点ではトップはG2と同じC.ウィロビー。 
  参考:国会図書館ナビ - GHQ/SCAP, Civil Intelligence Section (CIS)

『下山事件自殺説紹介ブログ』より、“警視庁自殺断定発表にまつわる諸説” 
捜査一課の堀崎課長は8月2日にG2のPSD(参謀第二部公安課)のプリアム大佐に会い、自殺発表の同意を得ていたという情報もあります(『生体れき断』p235)。 

つまり、8月2日の時点では、少なくともプリアム大佐レベルではGHQも自殺断定発表に合意していた可能性があるのです。ここでやはり重要な出来事は、8月3日の毎日新聞の自殺報道 (「矢田喜美雄氏と平正一氏」参照)
であろうと思われます。この毎日新聞の記事は増田官房長官を激怒させるとともに (『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p103)、GHQに対しても少なからぬ衝撃を与え(略)
<以上引用>

  ※引用注:毎日新聞 → 白洲(58) 補記−3 

“黒の機関/森詠” より引用
 『増田甲子七は下山・松川事件などで反共の本質をあらわにする
  発言を繰り返すが、なぜか吉田側近からはずされ、しかも
  旧内務官僚との仲が悪くなっていく。これはなぜなのだろうか?』
 <以上引用> 


第005回国会 法務委員会 第36号 昭和24年9月20日
 ※下山総裁失踪から2ヶ月半あとの議事録、
  下山/三鷹/松川各事件の経緯と捜査状況が述べられています。

○金谷信孝(国家地方警察・東京都本部警察隊長) 
この三鷹駅と申しますのは、(略) 自治体警察署であります。
所轄署でありまする三鷹町警察署の署長は、(略)事故のために電話がなかなかかからない。不通の状態でありまして、幸い武蔵野に国警の支署があるのであります。この支署から連絡をとつたような状況であります。

すなわち国警の本部及び検察庁の方に連絡をとつたのであります。国警の各本部におきましては、宿直が連絡を受けまして、応援の要請を受けたのでありました。それが大体午後10時ごろになつております。
 
ただちに宿直の搜査課員が現場に参りまして(略) だんだん相当大きな事故であるという様子でありますので、
国警本部の刑事部長が現場に参つたのであります。大体これが午後12時近くであつたろうと思います。

国家警察と自治体警察につきましては、平素から搜査に関しましては相互の間に共助協定というものがございまして、お互いに助け合う。大きな事故が起きました場合には、お互いに通報し合うということに協定ができておるのであります。なお本事件の場合におきましては、所轄署よりの要請もありまして、ただいま申し上げましたようにただちに応援の措置をとることといたしたのであります。
(略)
翌(7月)16日の早朝に至りまして、正式に三鷹署と国警本部との両者が相談をいたしました結果、合同搜査本部というものを国警の武蔵野市署に開設いたしたのであります。これは三鷹署がまだ臨時の庁舎で、新庁舎ができておらないので、便宜上武蔵野市署に搜査本部を設けたのであります。
<以上引用>

◆少なくとも、現場レベルでは国警と自治体警察がすぐ合同捜査体制を
 とれる形になっていた、ということですね。

 単なる縄張り争いとは違う、別の上部系統があったことが想像できます。


◎下山事件関連エントリ 
  インデックス(1)  インデックス(2)