2010年02月

2010年02月25日

『光は新宿より』を読む(3)

◎引き続き、尾津豊子・著 『光は新宿より』からご紹介。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(昭和20年8月21日のこと)ところが淀橋署(現在の新宿警察署)の
安方署長から、ちょっと足を運んでくれとの連絡。
(略)

「尾津君、実に困ったことになった……。折角、開店したところなのに、
誠にもって気の毒だが、マーケットも露店も、警視庁や東京都の方針が
決まるまで、しばらくの間休業してもらいたい。いや、今日警視庁から
露店取締りについての指令があってね。私としても露店の必要性と尾津君の
心情はよく認識しているから、決して悪いようにはしない。露天の連中には、
君からよく話してくれたまえ。」
(略)

そして8月24日午後1時頃、警視庁第3課長の重原警視が、警部3人を
伴って、突然壕舎に乗り込んできたのでございます。
(略)

「実は露店問題について、これを廃すべきか、それとも育成指導していく
べきか、商工省、内務省、司法省などと協議を重ねているところなのです。
もちろん警視庁だけでどうこうするわけには行かないが、今日、君(尾津)
の説明を聞いてよい参考になりました。東京都やその他にもよく話して
ごらんなさい。ではこれで失敬します」
(略)

翌日は早速都議会議員の上條弁護士の同行を得て廣瀬(久忠)東京都
長官(知事)を訪問。
(略)

「貴方(尾津)の話はよく分かりました。不自然な公定価格をあくまで堅持
しようとは思っておりませんが、撤廃するにはもう少し時期を見なければ
なりません。で、貴方の言う適正価格と同じような考え方で都の経済局の
方でも査定価格という方法の実施を研究中ですから、そのほうの係のもの
と相談してみて下さい。警視庁のほうにもよく話しておきましょう」

この長官の理解ある激励の言葉につづいて喜之助はもう一言……。
「マーケットの敷地は、都の疎開地となっておりますが、なにぶんよろしく
お願いします」

すると(都の)町村次長は
「焦土となった今日、東京都としては難しいことを言っているより復興が
まず第一。疎開地も復興の為には有意義に使う、これが私の意見です。
復興の先駆けとなるマーケットの経営、露店の育成は長官同様、私も賛成
です。現在のところ都としては、物がちっとも出回らず実際困っている時で、
君の様に転換工場を指導激励してくれるのは何より結構だ。是非しっかり
やって下さい」
(略)

(8月28日、尾津と同業者・河野房夫は検事局の長谷部検事を訪問し、)
お礼を申し上げますと、
「私も焼け出されて日用品の入手に困っている。君の様な人に働いてもらわ
ないと我々が困る。しっかりやってくれ給え」
(略)

そして9月1日の午後、淀橋署から呼び出しがあり、(略)安方署長は
喜之助を笑顔で迎えたのでございます。

「やあ尾津君。長いこと待たせた。明日から露店もマーケットも再開して
結構。しかし、マーケットの方は初めての試みだから都の査定品も売って
下さい。それから今後、毎月商品価格の変動をこの表に記入して報告を頼
みます。そうしてもらえば、上司から聞かれた場合、正確な報告が出来る
からね」
<以上引用>

◆このように関係各所をクリアし、昭和20年9月2日に尾津マーケットは
 全店開店。

 グレーな部分はあってもモノの流通、ひいては治安維持のため、行政も
 これを推進していたことが分かります。

 ほかに、都が査定して価格をつけた商品も売られていたこと、
 商品価格を警察に報告していたこと、なども分かります。
 
 行政と言うと対応が遅いというイメージがありますが、上記の件では
 いち早く対応している点にも注目すべきかと。

▼関連リンク
秋葉原電気街振興会 第二章 焼け野原からの出発 昭和20年代
戦後の混乱が収束していく中で、日本の復興を図るには各種の社会インフラの
充実が必要と考えたGHQ(占領軍総司令部)は、主要道路の敷設、拡幅を実現
するために昭和24年に露店撤廃令を施行し、露天商の移転を命じた。

露天商は、露店撤廃は、即、生活苦につながるために、屋根付きの代替地を
要求した。東京都は国鉄と協力し、神田小川町から神田須田町界隈の露天商に
秋葉原駅のガード下に代替地を提供し、昭和24年に高架線直下にラジオストアが
開店した。
<以上引用>

2010年02月11日

『光は新宿より』を読む(2)

◎尾津豊子・著 『光は新宿より』からご紹介。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(昭和20年8月15日の終戦を迎え)さて、露店再開にあたり商品の獲得
を第一の問題とするなら、第二は法規の問題でございます。

戦争は終わりましたものの、戦争中の軍部と軍需工場間以外には「公定
価格」という有名無実の法律がまだま厳然として生きていて、正当な価格
での商品の出回りを妨げる要因となっておりました。これを促進するため
には、各関係省庁を歴訪して諒解と援助を求めなければならないのでござ
います。

所轄の淀橋警察を振り出しに、警視庁、都庁、商工省、裁判所経済部等々
各関係機関に手落ちのないよう万全の体制を整えるためには、誠に複雑多
岐な手続をとらねばなりませんでした。

(中略)

またこのような公益を第一とする一大事業を遂行するためには、「焼け跡
だから構わない。好き勝手に縄を張り巡らせて、お天道様の下で胡坐を
かいて……」と安易なわけには、当然参らなかったのでございます。

それに金銭に頓着のない子分たちに事務関係の業務を従事させることは、
到底力不足なことでございましたので、これには一切従事させず、復員者
救済と失業者緩和の一助とすべく200名の新規募集を行い、復員者を優先
採用したのでございます。

   男女店員弐百名募集
   但し失業緩和の為め復員者を優先す。
   希望者午前中来談
              新宿マーケット尾津組事務所

<以上引用>

◆闇市というと、不法占拠した場所で非合法な品物を恐いお兄さんが
 売っている、というイメージで語られることが多いですが、役所に
 あれこれ許可を取ったり、まともな品をまともなルートで仕入れたり、
 カタギの従業員もいたり、といったような部分も多々ある点にご注意
 下さい。

▼参考リンク
『新宿大通商店街新興組合』HPより、“ヤミ市が大通りの復興に傷痕残す”
新宿大通りに面したヤミ屋街は、高野果実店の脇から三越あたりまでの
一角であり、戦前この土地で商売していた人たち(松喜屋、中村屋)も自分
の土地に帰ろうとしたとき、すでに建っていたということだ。尾津という
テキ屋の親分が登場し、東口に一大マーケットを開花させたことはよく
知られている。

敗戦によってある意味ではテキ屋と同じように、何の規制も受けなくなっ
た需要家たちがそこに殺到し、正規の流通経路には乗せられない物資を
もつものが需要を求めてやってきた。まさに、「ブラック・マーケット」と
いう名そのままの状態であり、「光は新宿より」といったキャッチフレーズ
も打ち出されている。

しかしこのヤミ市は、新宿大通りの商店街の復興に大きな傷痕を残した。
ある日突然、無法にも土地を占領された人たち11人は、昭和21年、「睦会」
という告訴団体をつくり、訴訟に踏み切った。
<以上引用>

◆こういう風に語られることが多いですが、この辺は尾津喜之助の側にも
 言い分があるようで、それは次回以降ご紹介します。

尾津喜之助 インデックス


2010年02月06日

『光は新宿より』を読む(1)

◎本日も尾津豊子・著 『光は新宿より』からご紹介です。
 昭和20年、東京大空襲直後の話です。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そもそも新宿は関東大震災のお陰で、下町や都心が立ち直るまでの間に
濡れ手で粟とばかりの幸運を掴んで発展したのでございます。
喜之助はスイトン屋以来、それを見届けております。

 ※編注:尾津喜之助は震災直後、都内でスイトン屋を開業していた。

あの時も(東京大空襲の)罹災者の群れが、この日のように流れ着いたので
ございます。その罹災者のおかげで、馬糞臭かった山の手の新宿が繁栄し得た
のに、彼ら(新宿の富裕商人)は罹災者の憐れを店頭に目撃しながらも、
冷然として一滴の涙も流そうとしないではありませんか。

それどころか、今日の幸福を与えてくれた土地の恩恵を忘れ、この時に
こそ新宿の地に踏みとどまり守ることもせず、それから幾日も経たたない
うちに、彼らは疎開の荷造りを始めたのでございます。

当然のこととして、新宿駅の構内は疎開荷物で足の踏み場がなくなり、
遂には金持ちの商店と運送屋、それに駅員との三つ巴の貨車の大闇が平然
と行なわれ、その結果、貧しい人たちの疎開荷物が幾山となく雨ざらしの
まま放置されたりということがございました。

このため、喧々囂々の口論が巻き起こり、とうとう警察署、憲兵隊の出動
となって、そのうち何人かが検挙され三面記事を賑わしたのでございます。

それでも、持てる人間たちは逃げ出すことに必死でございましたから、彼
らの数に比例して貸トラック、荷車、リヤカーの疎開運賃がどんどん駆け
足で高騰していったのでございます。
<以上引用>

◆上記から分かること。

 疎開というのは着のみ着のままで東京を出るのではなく、
 家財道具も持っていくということ。

 その荷物は自分で運ぶのではなく、鉄道や運送屋を使うこと。
 (また国鉄と日通だ……)

 疎開はみな平等に逃げられるのではなく、貧富の差があること。
   
 そういえば早々に町田のはずれへ疎開したあの人も富裕層でしたね。





2010年02月05日

隠退蔵前夜

◎尾津豊子・著 『光は新宿より』から、いくつか興味深い記述をご紹介します。
 (尾津豊子さんは、尾津喜之助の長女)

 尾津喜之助とは、尾津組というテキヤ集団を率いて、戦後焼け跡の新宿に
 “尾津マーケット”とよばれる闇市を開いた人物です。

 以下は戦時中(昭和18年ごろ)、尾津喜之助が新宿歌舞伎町に本拠を構え、
 新聞に「商品なんでも買います」と広告を出し、仕入れの確保を始めた頃の
 話です。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
部分品、消耗品、塗料などは、どの軍需工場でも奪い合い。監督将校の発注
証明書さえあれば、いくら値を高くしても決して闇取引にならないどころか、
六の品物を納入すると十の領収書を渡されるという按配で、差額の四のお金は
一体何処へどう蒸発してしまうものか、これが当時の軍需工場の実態でござい
ました。

軍需工場のこんな連中が、軍需省の査定官とよろしくやって、国民の血税で
ある軍事費の中から思うがままに前借して、それで作るものと言えば、満足に
飛べない飛行機。これではまるで胡麻の蝿。

喜之助は、腹立ちまぎれにこんな会社に対しては驚くほどの高値で売りつけた
のでございます。それでは先方様はと言えば流石に国を相手の大泥棒とあって、
大して反発するでもない。これには喜之助のほうが舌を巻くばかりでござい
ました。
<以上引用>

◆なぜ戦後、多量の隠退蔵物資が存在したかというと、備蓄/予備の名目の元、
 実際に必要な量以上の納入が軍になされていた、という点があると思います。

 では、その供給過剰の原因は何かというと、そのひとつが上記引用文に見ら
 れる軍需産業と軍の裏金作りというものがあったのであろうということです。

 ちなみに戦後、尾津マーケットが納入業者に示した買取価格の算定式は、

  (資材原価×0.7)+(工賃)+(工場諸掛)+(業者の利益2割)

 ですが、このうち(資材原価×0.7)というのは上記引用文にある、
 “六の品物を納入すると十の領収書を渡される”という部分に基づき、
 不当な利益の蓄えを吐き出せ、との意があるとのことです。

〇インデックス
 尾津喜之助 関連エントリ

 接収貴金属と隠匿物資 関連エントリ